2009年3月31日火曜日

かなめも

 新聞配達少女かなの暮らしを描いた漫画、『かなめも』の2巻も出て、そこで描かれる人間模様もなお一層に深まっていますね。具体的にいうと、女の子同士のいちゃいちゃの度合いがより以上に目立つようになったというか、ええと、これって普通のカテゴリにいる人って、ひなただけ? 普通っていったらあかんか。残るみんなが、まるで異常みたいですもんね。異常のカテゴリに含まれるのははるかひとりです。でも、女の子に執心するはるかや、なんか普通に成立している女子カップル、そうした人たちと暮らすうちにかなも感化されたとでもいうのでしょうか。クラスの友人みかに対してあらぬ思いを抱いたりして — 。なんだかとばしてるなあ、なんて思わせるそんな2巻であるのでありました。

そして、実は私はちょっと振り落とされそう。いや、大丈夫、頑張ってついていってる。けど、たまに振り落とされそうになることがあって、それははるかのセクハラ的言動やゆめ、ゆうきカップルの言動が、時に私の許容量を振り切ってしまいそうになるからでして、いやあ、なんでだろう。これがBLだったら平気なんだけどな。『かなめも』は百合的傾向強めで作られていることはわかっていますが、どうも私は百合に関しては微百合くらいが一番性に合うようで、けど変な話ですよ。BLは、微BLではあかんとです。でも百合は微百合じゃないといかんという。意味がわかりません。しかし、それ以前の問題として、『かなめも』ってそんなに踏み込んだ百合かといわれたら、別にそんなに踏み込んでないよな。いったい私は『かなめも』のどこに、なにに過剰に反応しているというんでしょう。この引っ掛かりを理解し、乗り越えることができたら、一気に世界が広がりそうな予感がします。

というか、多分あれだ、確定カップルではなくて、確定前カップルの状況を眺めるのが好きなのかも知れません。そう思えば、かなのみかに対する思いの萌芽、そういうのはむしろ悪くないと思っている口で、頭をなでられて顔をあからめるみかなんてのもわりと嫌いではなかったしで、こうしたはっきりとかたちになっていない思いに、戸惑ったり怖れたりしながら、少しずつその核心に近付いていく、そんな風な展開がきっと私は好きなのでしょう。できあがっているもの、安定したものには興味がない、とまではいわないものの、確かに私には、変化し、伸びようとするものに対し、常よりも増してひかれる傾向があります。だとしたら、確定カップルゆめとゆうきの過去であるのか現在であるのかに、なにかあったらしいという仄めかし。その詳細が描かれることがあれば、そちらのカップルについての感触も違ってくるかも知れない。違わないかも知れないけど。ともあれ、これは将来に期待でありましょう。描かれて、語られる、そのような時がきたら、おのずと私の反応もわかろうというものです。

でも多分、私がひっかかりを覚えるのは、その生々しさにぎくっとするところがあるからなんだと思うのです。私はこれを百合色のある四コマ漫画として読んでいるのでしょう。四コマ形式の百合漫画としては読んではいないのです。それは知らずのうちに限界を設定しているということであり、だからもし四コマ漫画のカテゴリーでガチのBLが描かれるようなことがあったら、おそらくはぎくっとするはず。これが百合に特化されたジャンルなら、『かなめも』の表現にひっかかるところはないんだろうと予想します。あるいは現状でも、その生々しさと表現したものが、仄めかしとして機能するものだったら、ちょっと違ったのかも知れません。読み解いてなるほどね、といったレベルではなくて、わりとあからさまだから、そうしたところで私は硬直してしまうようで、でも、そうしたものもわりと慣れの問題だからなあ。このジャンル、ああ、百合じゃなくてきらら系四コマですね、においては、これくらいは普通だよと、そうなればきっと私も硬直などすることなしに、すらすらと読んで、振り落とされるどころか、もっともっと飛ばしておくれと、思うようにさえなるのかも知れません。

だから、私は慣れるべく精進をしていきたいと思います。面白さというのは、結局は読み方、楽しみ方に対する気付きの問題でありますから、その方法さえ身に付けば問題はなくなります。けれど、なんでこうして自分から合わせようとするのかというと、それはやっぱり嫌いじゃないからというしかないでしょうね。あんまりに描かれる日常が仕合せそうで楽しそうだから忘れがちだけど、ちょっとシリアスを下地にした勤労少女の生活は、新聞配達という仕事事情が描かれ、友だちとの触れ合い、学生としての側面なんかも描かれて、そのふくらみは悪くないのですよ。だから、それを振り落とされるだなんだいって、楽しめないではつまらない。今以上に近くに寄って、もっと楽しめるようになりたい。そう思わせてくれるだけの漫画であるのは実際間違いないのです。

  • 石見翔子『かなめも』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2008年。
  • 石見翔子『かなめも』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2009年。
  • 以下続刊

2009年3月30日月曜日

まじん☆プラナ

  家族ゲーム』は登場人物30人。『まじん☆プラナ』は現在ヒロイン23人。当然、私の把握限界は超えています。っていうか、具体的に数えたことないからなんともいえないんですけど、本当にそんなにいるんですか? おかんとかめるき堂のバァちゃんとかまで含めて23人? それとも金子さんレベルのサブヒロインまでで23人? まあ、いずれにしても、とっくに把握限界超えてるからわかんなくてもかまいやしません。誰がヒロインであろうとなかろうと、とりあえず登場人物の人となりがわかりさえすれば楽しく読める、『まじん☆プラナ』とはそんな漫画なのですから。実際、中心的な何人かさえ押さえておけば、問題なく読めて、楽しめるようにできていて、そして時にはちょっとじんときたりなんかして、いやもう、なんていうのかな、ツボ? そういうのをうまく心得ている、そんな感じであるんです。

しかし、ツボってなんだろう。それは、おそらくは王道的な展開であるのです。王道、あるいはベタといってもいいでしょう。ジャンルにおける約束ごとを、アレンジしたり、パロディとして取り込んだりして、数ページにうまくまとめているのですね。こうなったらいいな、こういう風に考えて動いてくれたら嬉しいな、そうした期待が裏切られない漫画、そのように思います。主人公有人は、主人公として、主人公らしく振る舞ってくれます。はっきりいって、ヒロインの方が主人公よりも遥かに強い、比べものにならないくらい高性能、そんな有り様だというのに、有人はここぞというときには、ばっちり見せ場を作ってくれる。それは、憧れのシチュエーションにおける、憧れの活躍なのかも知れないですね。だから、ぐっとくる。けど、時には、期待した以上のものを見せてくれたりもして、それは例えば無人島の回。あのラストでの有人の振る舞いは、私の思い描いたものとはまったく違って、そして思い描いた以上のものでありました。なんか、ぐっときた。そういう、ツボをうまく押さえて展開される小エピソードの積み重ね、それが楽しく、面白く、笑いをさそって、そして胸をつまらせることもあって、ああ、もう、こんちくしょう、思うつぼだよ、私は負けっぱなしですよ。

しかし、ベタだ王道だ、期待を受け止めて見せてくれるだ、それはつまりは、これはそこらによくありそうな漫画なのか? そう問われれば、そんな感じはしないんですよね。それは、調理の腕といったらいいのでしょうか、パロディにしてもベタにしても、くどくならない程度におさえられているし、それでいて本筋はこちらが気恥ずかしくなるくらいに、真っ向から、直球で、もうこっちから当たりにいきたくなるくらいの好球。こうした傾向は特に茉莉がからむと顕著で、くそう、有人、男前やのう。実際、ちょっとないくらいにベタな台詞が、振る舞いが、シチュエーションが、思いもかけぬ意外性を持って描かれる時などは、ああ、うう、うまいなあと思わないではおられない。そして、私にとっては、その意外と思うことが結構あるのですね。

さてさて、擬ツンデレであるメインヒロインの茉莉の父、大凰。彼もまた擬ツンデレで、しかし面倒くさいおっさんだなあ。と思いながら、その言動には笑ってしまうほかない威力があります。というか、娘大事が最前面だから、フルオープンだから、もう、ねえ、可愛いおっさんだと思わないではおられん感じ。気にいったというか、もっと出てくれると嬉しいなあ。そして2巻において最も好きなエピソードは、学級裁判、これですね。なんといっても響きがいい、四面楚歌な状況もいい、そしてラニの健気な様がいい。って、そこはもう裁判のシーンじゃないから。それはさておき、ガンナーのために『世界樹の迷宮 II』を買った私には、ラニの造形は強烈に効きます。これで金髪だったら、最強だったろうなあ……。ちなみに、『世界樹 II』はまだ始めていません。

あ、そうだ、これ書きたくて、『まじん☆プラナ』にしたんだった。忘れるところだった。

冒頭のカラー描き下ろし、もうなにごとかと思いました。しかし、本当に大変なものであるんですね。頭、下がります。イラスト、よかったです。あと、面白かったです。きっと笑いごとではなかったろうとは思うので、大変申し訳ないのですが、面白かったです。

  • nino『まじん☆プラナ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • nino『まじん☆プラナ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年3月29日日曜日

家族ゲーム

  年末はスケジュールがばたばたで、いつもどおりに進行しないものと相場が決まっておりますな。って、なんで年末? 年度末の間違いじゃなくって? いえいえ、年末でいいんです。昨年末に発売されていた漫画、思いっきり買い逃がしてました。なんかね、掲示板でいわれてたことがちっとも理解できなくてですね、あれ、あれれ? なんて思っていたところ、ああ、うう、『家族ゲーム』の新刊でてたのかあ、気付いてなかったよう。電撃コミックスのページで調べると、昨年末の発売です。で、私は手帳を見ましたね。なんと、この手帳を見るとこの一年間、私がどんな本を買ってきたかが瞭然というね。で、年末から年始にかけて、家族、家族と探してみるも、ない、ない、やっぱり買ってない! 買わないと! けれど、あわてて買うこともあるまいと、月末KRコミックス購入にあわせて買えばいいや、そう思っていたら、ない、5巻がない。地上三十階書店を皮切りに、ホワイティ経由、泉の広場までいって、それでも見付からない。しかたがないので、地元のコミックスに強い書店にまで足を伸ばして、それでも見付からず、だからAmazonにお願いすることとなってしまいました。

かくして、『家族ゲーム』第5巻は無事手元に届いて、そうしたらもうのっけから話が掴めないの。というのも、4巻から5巻にかけてはちょっとしたターニングポイントになっていて、小学生組は中学生に、中学生組は高校生に、それぞれ進学していたものだから、当然とりまく環境も変わります。ともない、新キャラクターも続々と出てきて、それが第4巻の最後のできごと。そうした新しい人たちをしっかり把握、定着させていないというのに第5巻を読んでもわかんないって。表紙、カバーを剥がしたところに人物相関図があるのですが、4巻では19人、それが5巻ともなると30人! ぎゃー! もうこれは私の把握限界を超えたね、超えました。

おおまかにいいますと、主人公家族の末の娘が属する中学生グループがある、長女の属する高校生グループがある、お父さんの勤める大学に所属する大学生グループがある。もちろんお母さん個人に繋がる人間関係もあって、そしてそれらグループの成員が別グループの成員と繋がりを持っていることもしばしば。長女真言の友人由寿の兄は大学生グループに属しています。大学生グループにはまた別に真言に繋がりを持つ人がいます。さらに大学生グループのひとりは中学生グループ、次女葵の友人の義姉であることがわかりました。新たに中学生グループに加わった紫杏の母は高校生グループの教員です。高校生グループ、部活の先輩のひとりはバイト経由で大学生グループに繋がりを持っています。高校生グループ由寿のバイト先の店長はお母さんの主婦仲間です。さっき出てきた紫杏の母はお母さんの大学のころの先輩です。もちろん、これがすべてではありません。正直、読む前に復習しないと、人間関係がわかんなくって、そんなわけで、第5巻読んでから、第4巻を読みなおしましたよ。本当なら1巻から読み返すのがいいんだろうなあ。しかし、この濃密な人間関係が面白いんですね。そこかしこに発生する恋愛のストーリー、それが思惑こみであちこちで糸を引いたり引かれたりしていて、もう頭ぐっちゃぐちゃ。でも、それが面白いんだからしかたない。ええ、しかたないんです。

この漫画は、電撃PS誌の付録連載だから、基本的にはゲームものなんです。ですが、ちょっとゲーム色は薄めになってきて、個別のゲームネタみたいなのはあまり出てこない。これは、正直私にはありがたいですね。電撃PS誌は私も以前購読していましたが、いつしか買うこともなくなって、ともないゲームに関する知識もなくなって、はっきりいって最近のゲーム事情はちっともわかりません。実際、今、ゲーム色薄めといわれている『家族ゲーム』、そこに出てくるゲームがらみのネタ、わからないものありますから。おおまかなのはわかります。けれど、具体的になにかのゲームをさしているようなのはもうちんぷんかんぷんで、だから私には、今のゲーム好きのみんなが、ゲームやまた別のなにかを媒介として関係を作りながら、恋したり、されたり、失恋したり、はなから相手にされなかったり、そんな状況をにやにやしながら見ているのが楽しかった。読者の特権ですな、神に似た視点で眺めて楽しんでいるのです。

さて、掲示板で話されてたという、繋がり。あれは、気付かなかった。きっと読んでいたとしても気づかなかったでしょう。あれに気付いた人ってのは、本当にすごいなって思います。私は、人の名前把握するのとかどえらい苦手だから、また細部に分け入って読むってのができない人間だから、実はこういう仕掛けとかわかんないんですよ。それに気付かせてくれて、いやはや本当にありがたいことであるなと思います。

ついでにどうでもいいことも書いときましょう。私は、チーム無象です! いや、妹好きじゃない。さらにいえば、ロリコンでもないぞ。いや、ごめんなさい、別にロリコンでもいいです……。作者は、4巻の人物紹介によりますと、貧乳で黒髪ロングでひっつめ髪とか個人的なツボでいらっしゃるとのことですが、貧乳が好きだなんて、とんだ変態ですか? 私はそうです。しかも悪いことに、かなりこじれた変態です。

そんなこじれた変態が好きなのは、阿南茉莉です。間山和もかなり好きです。実はお母さんゆきえさんも好きです。男キャラでは尚武です。だから、尚武は応援しています。乳井あたりには呪いをかけておきましょう。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス EX 電撃4コマコレクション) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第2巻 (電撃コミックス EX 電撃4コマコレクション) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第3巻 (電撃コミックス EX 電撃4コマコレクション) 東京:メディアワークス,2008年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第4巻 (電撃コミックス EX 電撃4コマコレクション) 東京:メディアワークス,2008年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第5巻 (電撃コミックス EX 電撃4コマコレクション) 東京:メディアワークス,2008年。
  • 以下続刊

引用

  • 鈴城芹『家族ゲーム』第4巻 (東京:メディアワークス,2008年),66頁。

2009年3月28日土曜日

『まんがタイムきららキャラット』2009年5月号

『まんがタイムきららキャラット』5月号、発売です。表紙はきゆづきさとこの『GA — 芸術科アートデザインクラス』。でもって、これがまたすごくいい表紙です。背景の白がすごく効果的。上から雑誌タイトルロゴ、イラスト、収録作のタイトル群、すっきりとしてよくまとまった三つ割り構成になっています。イラストは中央に如月、背後一歩引いた位置に残る四人が横一列に並んでいるのですが、ここにもまた水平が強く感じられるものだから、全体に強い安定感をもたらしています。かつ後ろの四人の頭の配置が、中央に向かうV字の線をかたち作っているために、自然真ん中の如月に視線は集まるようになっている。如月のいる中央にしっかりとした重心が作られているから、こんな空白の目立つ隙々な表紙なのに、ちっともぼやけた感じがない。むしろ、これを埋めたら息苦しい表紙になったはずで、キャラクター、イラストの重さと背景の抜けた軽さがうまくバランスをとって、ひとつの空間を、表紙からはみ出してなお広がる伸びやかな空間を感じさせて、いや、本当にいい表紙。明るくてすがしくて、鮮やかで、はなやかで、染谷洋平って人が構成したのか。覚えておこう。これは本当にいい仕事だと思います。

で、もうひとつ仕掛けがあって、それもうまいなと思わせるものでした。表紙には春。の文字をあしらって、そして口絵には夏!?と来る。それもほぼ同構図で、で、口絵のイラストはアニメ絵なのか。最初見た時、気付かなかったよ。表紙は静的なまとまり重視、口絵はそこに動きがともなって、文字のレイアウト、そして黒の強さでしょうか。黒が静けさをどんとやぶって、向こうから迫ってくるよう。あらためて黒という色の魅力に感じ入りました。

『GA』がアニメ化されるという話ですが、その暁には、きっと表紙などなど纏めた画集が出るんだろうなと予想されますが(そしてそれは『GA集』なのではないかと予想しますが)、その時にはこの表紙のギミックは消えてしまうはずで、それはちょっと惜しいなあ、なんて思います。再現は無理でも、コメンタリーかなんかで触れて欲しいなあと思います。そして、できれば『とらだよ。』にて連載されていた『GA材置き場』もまとめてください。いや、あれは本当によくできた連載でした。美術やデザインに関する知識が楽しく学べて面白い。そのまま消えてしまうには、あまりに惜しい連載です。

そして、巻頭作、『GA — 芸術科アートデザインクラス』も面白かった。この人はイラストレーションもうまいけど、物語の構成もまたうまい。それは今号でも遺憾無く発揮されていて、キャラクターの個性、魅力はいうにおよばず、美術科というちょっと馴染みの薄い世界を魅力的に伝えて、そしてコミカルな展開も楽しかった。人違いをキーにして、学年を超えた登場人物を繋いでしまう。それは勘違いの面白さであり、人間関係の面白さであり、そしてあーさんは今日も可愛かった。私はあんまりこういうのいうのは好きではないのだけど、きゆづきさとこという人は、格別の人だと思っています。多様他面な才能を持った人だと思っていて、その才能は今は漫画にそそがれている。その漫画を読める、それはすごくありがたく、素敵なことだと思っています。

そういえば、ずっと前にタイピング練習ソフトを作ったことがあったんですけど、そこにマザーグース(『月曜日の子供』と『誰がこまどりを殺したの?』)を収録したのは、きゆづきさとこリスペクトだったからだったりします。だったら『男の子はなにでできてるの?』も入れとけよ、って話ですが、これは確かインデントが表現できないから断念したんですよね。久しぶりに『月曜日の子供』をやってみたら、1分をきれませんでした。1分7秒。残念です。

困ったな、これから別連載にも触れるのか。ものすごくアンバランスだぞ(私には構成の才能はありません)。

実をいいますと、きらら三誌のうちで一番好きなのが『キャラット』なんですよ。基本的に嫌いな漫画はない。実際、今月もみな面白かった。それを前提にしまして……。

とらぶるクリック!!』は回想回。感動の激動ストーリーが語られるかと思ったら、思いっ切り肩透かしをくらいましたよ。けど、いいお姉ちゃんだなあ。それに、茉莉もいい娘。今回は茉莉のよさが際立った回でした。いい話でした、そして柚は今日も可愛かった。

キルミーベイベー』、もう大好き。はじめっからおわりまで、人をくった忍者のそのひょうひょうとした様。振り回されるやすな、そのやすなに振り回されるソーニャちゃん。テンポもいいし、展開の先はちょっと読めないしで、すごく面白かった。そしてソーニャちゃんは今日も可愛かった。

ラジオでGO!』にはモクソンが! 新人が加わって、ちょっと動きが出てきたりするのかな? そして風見Pは今日も可愛かった。

うらバン!』、本当にコンクールに出るんだ! 小編成でも無理、せいぜいアンコンって人数なのに、コンクールかあ。無茶するなあ、っていうか、こういう無茶をきかせられるのが、この漫画の雰囲気で、またその雰囲気が楽しいんだから、これで正解なんでしょう。そして黒目先生は(略)。

『チェルシー』はなんだか妙に気にいっています。先々月でしたっけ、バッキンガム、あれは鮮やかでした。それまでは絵が、キャラクターがポップでキュートという印象だったのが、話でも見せてくれるかも知れないという期待も加わって、いまもなお注目中です。っていうか本当に絵がかわいいな。人体の描きかたが独特で、それは動きと表情の付けかたにあるのかな。溌剌として、すごく魅力的、はじけんばかりです。

『せいなるめぐみ』は荒井チェリーの新連載。最後の最後、二段ぶち抜きで登場するいい男! たしかにたまらん。シャツのラフな着こなしに、ギャルソンエプロンでいいのかな? ちょっと男っぽさもあって、けど清潔感もあって、まさか山Gのようにはならんよね。というか、この人の漫画初のまともな大人の男性なんじゃないのか。いろんな意味で衝撃でした。

『ねこみみぴんぐす』、穂咲さんはこちらでもあちらでも魅力的でやんすな。『ニコがサンタ』は最終回、いい話なんだけど、そこにシビアさをさしはさむのがらしいなあ。短い連載だったけど、好きでした。『ツバサとらいある』、さだまさし研究会は別に微妙でもなんでもないと思います。というか、みんなももっとさだまさしを好きになるといいと思うよ。それはそうと、今はバカキャラが実は成績優秀という巡りになってきてるみたいですね。次号から連載だそうですが、これはいいニュース。結構好きな漫画です。『ぴよぴよえにっき。』も連載昇格だそうですが、これもいいニュース。うちの二歳はまだこんなにしゃべらないなあ。うちの二歳は電話は切らないけど、せんせいに描いてやった絵、わざわざ完成するのを待って、かしゃんと消す、そんな悪いやつです。

『空の下屋根の中』のヒロインかなえ、彼女の悩みは私にも通ずるものがあって、なんか読んでいて苦しくなる。私はできることは多いけど、ちゃんとできることって実はないんだ。それで、なんとなく生きているんだ。仕事もなんとなくして、なんとなくお金も貰って、こうした生きかたのどこがかなえのそれと違うんだろう。空白な気持ちを抱えて生きている。これってなんなんだろう。かなえを見ていてそう思います。それはそうと、万引きの話は世知辛いなあ。これが現実か、現実だな。

まゆかのダーリン!』、次号最終回! って、ええっー! でも、次に続くものがあるなら、それでもいいのかも知れない。応援します。

うらがアルっ!』、穂咲さんはあちらでもこちらでも魅力的でやんすな。でも一番魅力的なのはおかーさんだと思う。けど、あのトライやるウィークみたいなのって、実際にもあるの? 生活科? は小学生か。ええと、『13歳のハローワーク』みたいな、子供のための職業体験? そういえば、去年だったか一昨年だったか、うちの職場にも高校生だったか中学生だったかがきたな。まあ、見学みたいなもので、娘一時間ほどでどっかにいっちゃったけど。学校ものはどうしても学生の生活圏に限定されてしまいがちだけど、こうした制度? イベント? をうまく使って、バラエティを持たせるのはうまいなと思いました。それから、OL風のおかーさんは素敵だと思いました。

アットホーム・ロマンス』、ああ、私もひょうろく玉です。って、マザコンがどうこうってわけじゃなくってね。ともあれ、いよいよ動くわけですね。これはもうラストに向かうってことなのかな。で、sans retour Voyage “derniere”ってMalice Mizerなのか。without return “last” trip、ってところでしょうか、帰ることのない「最後」の旅、ですね。こうしたところにこうした引用を持ってくるところに、作者のMalice Mizerに対する愛が感じられて、そしてそれはこうして引用した以上、好きなものに対して恥じないものを描きあげようという、覇気のようなものも感じさせて、そうか、竜太朗はいよいよ人生における旅立ちを決意したってわけですね。竜太朗の決断がどういう決着に向かわせるのか、それはわからないけれど、それだけに今後の楽しみとしたいと思います。

  • 『まんがタイムきららキャラット』第5巻第5号(2009年5月号)

引用

  • 表紙,『まんがタイムきららキャラット』第5巻第5号(2009年5月号),1頁。
  • 口絵,『まんがタイムきららキャラット』第5巻第5号(2009年5月号),3頁。

2009年3月27日金曜日

はなまるべんと!

  はなまるべんと!』の2巻が発売ですよ。もう、嬉しいったらないですね。第1巻が出たときに、続いて欲しいなって思って思って、思っていたものだから、第2巻発売と聞いたときには、よしきた! 思わずちいさくガッツポーズってなものですよ。さて、第2巻は第1巻のラスト、調理部廃部を受けてのスタート。このあたりからですかね、メインのヒロインであるあやめ、ちか、たまき以外のキャラクター、風紀委員のマキとはらぺこアスカ、人造人間のスズ&ライト、そして主役を食いかねない勢いで活躍するしんせん……、げふんげふん、生徒会の面々の動きが活発になっていったのは。最初のころは、ちか、たまきの出番が少なくなってしまうのを残念に思ったりもしたのですが、いまとなっては、生徒会の近藤や土方ももう大好き。というか、さすがに土方さんはドSであります。逆さに吊って、百目蝋燭で責める人だけのことはありますな。

しかし、いくらキャラクターが増えて、あやめやちか、たまき以外にスポットライトが当たるようになったといっても、主軸はあやめであり続けていて、それはナンセンスな側面、殺人的な料理の技量であるとか、後先考えず思い付きで行動する、そうしたところもそうなら、なんだか妙にシリアスな側面? そちらにおいてもキーキャラクターであるようです。というか、私はまさかそんなにあやめがキーとなる人だとは思っていなくって、というかそれ以前に、スズを取り巻く状況についてはなんだかいろいろ思わせぶりであったけれど、そうしたシリアスを感じさせる要素が、こんなに広がりを持って展開されるだなんて予想さえしていませんでした。

なんせ、このあいだ出たところのMAXでの展開に驚いた口ですから。え? ええ? なにがどうなるの? こんなんありなん? って思った。それくらい唐突と思わせる展開があって、そしてその驚きは第2巻を読んで、なんとこういう因縁を持たせるわけか、おぼろげに理解して、しかしなんか本当に驚きでした。これは確かに1巻から読み返して、最前面に展開されたこと以外についてもきっちり把握した方がよさそうですね。ちかのお家の事情とか、そのあたりが関係してくるんだろうなあ、きっと。その、見過ごしにしてきたことを今一度読み返して、そして次号以降のMAXに繋げていきたい。そう思えば、単行本は絶妙のタイミングで出たというわけか。あるいは単行本の出るのに合わせて、シリアスな話をどんと動かしてみたというところなのかも知れませんね。

けれど、たしかにそうしたシリアスな展開も気になるんですが、基本は変わらず調理部あやめ、おおっと、もう調理部はないんだった、あやめを中心としたナンセンス料理コメディでありまして、いかにあやめが無茶をするか、そしてちかやたまきがいかにフォローするか、そしてアスカがいかに始末するか、そして土方さんや沖田がいかに兵器転用するか、そうした様子を楽しんで読むのがいい漫画だと思います。どたばたと騒ぐ、そんななかに友人の情が見えるのがいいんじゃないかな。ちかの説明する料理の作り方、それがやたらおいしそうで、お腹すいちゃったりするのもいいんじゃないかな。そして、みんな元気ではつらつとしてるところ、それがいいんじゃないかな。ええ、そうしたところがすごくいいと思っています。

さて、今回の再現あやめの料理はアイスコーヒーでした。けれど、以前職場で起こった事件、ドリップすると豆が消える怪奇現象に気付かず数日過ごした身としては、あやめの舌は笑えません。実際、黒くて苦い飲みものはコーヒーと認識されるようにできてんですよ。でも、さすがにあのアイスコーヒーはない。でも、一晩置いたらダッチコーヒーみたいになったりしないのかな? 挽いてないから無理か……。

しかし、あのコーヒー回のちかはめちゃくちゃ可愛かった。いや、いつも可愛いんですけどさ。

  • 大宮祝詞『はなまるべんと!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 大宮祝詞『はなまるべんと!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年3月26日木曜日

ゆゆ式

 今日、『ゆゆ式』の発売日。うん、とってもいい表紙。しあわせです。向かって左から、唯、ゆずこ、縁。つっこみ、ぼけ、ぼけ。全員、名前が「ゆ」で始まるから『ゆゆ式』なんかな? わかりませんけど、でもこの漫画が面白いんです。どこがといわれると、どこなんだろう。めりはりは弱いです。キレとか深みとかは、多分最初から求められていません。でも、ゆるやかに進行する、そこに思いがけない面白さが感じられることがあって、それは意外性かも知れないし、あるいはありそう感かも知れません。起承転結を意に介さない、そんな意識の流れかたは大変に心地良くて、けれどそれが不条理に向かうことはありません。とはいっても、時にぽんぽんと飛ぶ彼女らの話に、落ち着かないと思うこともあるでしょう。でも、その落ち着きのなさが魅力であるのも確か。興味がうずうずとしている。次へ次へと、小鳥が枝から枝に渡るみたいにして、ちょこまかちょこまか、話の焦点を動かしては、楽しそうにさえずって、その様が愛らしかったり、そして楽しそうだったり。なんだかいいなあと思わせてくれるのです。

しかし第一回から読み返してみて、女の子同士でチューだの揉むだの愛してるだの、そういう方面が意外と強かったってことを思い出して、なんだかびっくりしましたよ。中盤以降でも好きとか嫌いとか、確かにそんなこといってじゃれあうみたいなところもあるんだけど、友情の確認行動とでもいうか、ちょっと無理いってみて甘えてみせるみたいな、そんな風であるんだけど、当初のはなんだかすごく本気っぽい。それは、ある種の気張りみたいなものが感じられた、そのためなんだと思うのですが、そうした気張りや力みみたいなのは回を重ねるごとにだんだんと薄れていって、次第漫画から感じられる雰囲気の穏やかさ加減も加速していって、気がついたらぼけふたり、ゆずこと縁の場にすっかり引き込まれてしまっているんですね。クイッククイック、小鳥のさえずり、ゆずこ。スロースロー、ふんわりとつかみどころのなく気紛れ、縁。まるで春のようです。春夏秋冬、オールシーズンが浮き立つ春のようで、それは彼女らの人生における季節、それがまさしく春、であるからなのかも知れませんね。

彼女たちの笑う姿、喜怒哀楽、感情の揺れ動きにこうも引き付けられるのは、彼女らを通してあの箸が転んでもおかしい年頃ってやつを追体験するような気持ちになれるからなのかな。彼女たちは、本当によく笑う。それは、いずれ去る今を惜しんでのことなのか。友だちとすごすこの時間を、確かなものとしてとどめたいと願うからなのか。いやいや、わかってるんです。こんなこと思うのは、私がすでにそうした季節を過去に置き去りにしてしまったものだから。感傷を胸に、こうした季節のあったことを懐かしんでしまうからなんです。しかし、だからこそ、彼女らの明るさ、仲のよさが救いのように感じられて、ああ、いい漫画だなあ。私は、彼女らの楽しげな日常の風景に、かつて私の身には起こらなかった過去をまざまざと思い出しては、懐かしみ、微笑んで、束の間の安らぎを覚えるのです。

なんか、辛気臭い話になっちゃったな。でも、そうしたメランコリーは作中にかすかに感じとれる、そんな気もして、まあそれは私が勝手にそう感じてるだけなんだけれど、でもそうしたメランコリーの感じられることが、なおさら彼女らの幸いそのものといった笑顔の関係を大切なものとさせるようで、けれど私はどこにそんな影を感じるっていうのでしょう。具体的なものというと、黄色い花のくだりとか、今月のきららとか、それくらいしかないのに — 。もしかしたら私は、彼女らの、特にゆずこの、かまってほしいという欲求に、そしてこの三人ともに持っている、友だちを思うその気持ちの細やかさに、あてられてしまっているのだと思います。それで、なんか受信しちゃってるのね、きっと。彼女らの友人を思う気持ちに、ことさらに今を慈しむ、そんな思いを読み取りたいと願っているのでしょう。

『ゆゆ式』については、このあいだいったこと:

基本的に仲よい漫画です。ドラマチックな盛り上げとかには無縁で、ゆるやかにゆるやかに進行する、そこで語られるのはただただ仲のいい友達同士のつながりである — 。

これです。ああ、この娘らはなんて仲がいいんだろうな。その、友人の輪に、ちょっとだけ参加を許された、そんな気持ちになれるのがすごく嬉しい。気のあう友だちと過す時間。ただ一緒にいるだけで楽しい、そんな時間をすこしわけてもらったように感じられる、それが本当に嬉しくさせてくれるのですね。

さて、今日の部活、テーマ・ギター。あーゆー弾きかたは、あります。スライドバーを使うのが一般的です。ドブロのスクエアネックみたいに特化された楽器もあります。それが発展すると、ラップスチールとかスチールギターになるのかな? まとめ。ギター持ってるゆずこは可愛い。

実際、私はゆずこが好きです。め、眼鏡だからじゃないぞ。

  • 三上小又『ゆゆ式』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

引用

2009年3月25日水曜日

Stairs, taken with GR DIGITAL

Umbrellas今月のGR Blogトラックバック企画のテーマはリズムです。リズム! これもまた難しいなあ。リズムに関しては、カメラよりもギターやサックスで馴染んでいるのですが、それをまた写真であらわすとなると、もうどうしたらいいんだろう……。GR Blogにもあるように、写真ストック総ざらいでチャレンジするしかないと、過去に向かって、リズムを感じさせる写真はないものかと遡っていったのでした。といったわけで、トラックバック企画 リズム に参加します。

というわけでそれらしいのがみつかりました。明るい光の中、ゆるやかにくだっていく階段。これは兵庫県立芸術文化センターのロビーです。友人がリサイタルをやるので、写真撮ってくれと。それでいってみたら、なんとすごくいいホール。趣のあるホール、写真を残さないではおられない気持ちになったのでしたっけ。演奏会の写真は、残念ながら公開できないんですけど、このホールを撮れただけでまあ充分かなって思ったのでした。

Hall

引用

2009年3月24日火曜日

Blackbird Guitar

昨日買ったNHK趣味悠々のテキストに、なんだか気になる広告が載っていまして、それはカーボングラファイト製のちいさなギター、BlackbirdのRider Steel Stringであります。ちょっと角張ったボディは見るからにちいさくて、トラベルギターとして設計されたものと見うけられます。左右非対称のボディ、ネックの接続するそばにサウンドホールが開いていて、10から14フレットにかけてあたりですね、構えた時に上になる側。ここにサウンドホールを開けたのは、奏者に音が聴こえやすくするようになのかな。だとしたらTacomaみたいだな、なんて思ったりもしたのでした。まあ、見た目は全然違いますけど。さて、このギター、ちょっと面白そうだったので、ちょっとメーカーのサイトなども訪れてみたのでした。

Blackbirdのギターは三種類のモデルが用意されているようでして、ひとつは先程のRider Steel String。これにはナイロン弦のモデルもあって、これがふたつめ。そして最後にSuper OMというのがあるのですね。Super OMは変形のOMタイプ。サウンドホールを表板中央にあけるのではなく、またTacomaのような奏者よりの位置にあけるのでもなく、なんてったらいいんだろう、普通のOMなら存在しない位置に持ってきてるんですね。これは面白いなあ。ちょっと他に例を見ない、そんな独自スタイルの光るギターであると思います。

独自路線はまだまだ続きます。ここのギターはカーボングラファイト製。ボディからネック、ヘッドにいたるまでを一体で形成しているみたいです。しかもネックが中空。で、ヘッドにあけた孔から音を出す。つまり、ヘッドにもサウンドホールがあるんですね。って、こんな構造、見たことがありません。ブックレットには、ネックのサウンドポートによりステレオサウンドが得られるよ、みたいなことが書いてあって、しかしボディのサウンドホールと、ネック経由のヘッドのサウンドホールの音がブレンドされるとどんな音になるんだろう。ものすごく興味深い。一度弾いてみたいけど、関西で在庫してるような店はあるのかなあ。アコースティックアベニューまでいかないと駄目かなあ。

このギター、いくらくらいなんだろう、五六万くらいだったらいいな、と思って確認したら十五六万ほどするみたいです。うう、まあそうだろうなあ。グラファイトって高いものなあ。グラファイトギターといえばRainSongでありますが、これのドレッドノートモデルは二十万円台なかごろですね。Blackbird Riderが十五万ほど。Super OMなら二十万ほど。さあどれ? といわれると、うううう、Super OMかなあ。いや、RainSongかなあ、迷うけれど、今はサックスの借金があるので、ギターにまわす金はありません。

もし余裕ができたら、ギターを増やすのもいいけど、いま持っていないもの、アコースティックベースなんて欲しいなって思っていて、ベースが欲しいと、それもアコースティックベースが欲しいと思うようになったのは、もう、ずっと前からで、ピアニストMichel BastetとベーシストFrédéric Folmerのデュオによるアルバム、Nostalgia N' Barbèsを聴いてから。それまで、アコースティックベースギターなんてのがあるなんて知らなかった。って、話がどんどんそれていくので、今日はここらで終わりにしておきたいと思います。

2009年3月23日月曜日

石川鷹彦のもう一度はじめよう! フォークギター再入門

 NHKの趣味悠々においては、ギターは欠くことのできない重要なレパートリーとなっているようで、先年こそはウクレレでしたが、今年はギター、ジャンルはフォーク、講師は石川鷹彦だ、やったあ! ってのは、私がギターをはじめた当初、習ったテキストというのが石川鷹彦、加藤和彦によるNHK趣味百科だったんですよ。『アコースティックギター入門』。ジャンルはフォークにとどまらず、ボサノバやブルース、カントリーなど多岐に渡り、インタビュー等読み物も充実、未だにこれを超えるテキストはないんじゃない? そう思っているくらいに気に入っている本で、図書館で出会い、古書で入手し、あちこち傷んでしまっているけれど、今も時に出して眺める、そして弾く、そんな代え難い一冊となっています。

ギターの魅力を伝えてくれた石川鷹彦のテキスト、番組が、構成を変えつつも、十二年という年月を経て帰ってきたのですから、さあ大変です。ただし、今回はフォークが中心で、それも、石川鷹彦が関わってきた、往年の名曲とでも申しましょうか、そうした曲がずらりと並んで、ちょっと書き出してみましょうかね。

  • 旅の宿
  • 冬の稲妻
  • 神田川
  • チャンピオン
  • リンゴ
  • 赤ちょうちん
  • 22才の別れ

最初の3曲で基本的な奏法を押さえ、次の3曲で実践的な奏法に触れ、そして『22才の別れ』は3回続きでアンサンブルに挑戦する。バッキングとリードギターそれぞれを練習して、最後に合わせるというのは、ギターを弾く友人がいたりしたらきっと楽しいだろうなあ。そういう私は、咳をしても一人、ギター弾くのも一人、アンサンブルなんて夢のまた夢だよ!

テキストとしては、以前のものに比べてもずいぶん簡単になっているみたいで(だって、前回のは第1回が『あの素晴らしい愛をもう一度』だった。私、あの曲練習しすぎて、腱鞘炎になったんだよ)、だからちょっと物足りないと思うところもあるかも知れません。けれど、それは、もうある程度弾いている人間の意見なんでしょうね。これからはじめたい人、またタイトルにあるように、昔ちょっとやりたかったけど挫折してしまった、そうした人がリベンジするのに合わせた難易度設定がなされているのでしょう。とはいえ、二ヶ月ちょっとでスリーフィンガー、そして『22才の別れ』だものなあ。テレビ講座をリアルタイムに見ながら習うには、充分すぎる難易度。ある程度弾ける人間くらいしかついていけないんじゃないかなあ。そんな気がします。

テキストにはDVDが付いてきて、三十分強ほど、石川鷹彦の解説つきレッスンを受けることが可能です。欲をいえば、説明はそこそこでいいから、もっとばりばり弾いて欲しいなあ、なんて思うのですが、そうなるとちょっと趣旨が違ってきてしまいますね。ともあれ今は、番組のはじまる日のくるのが楽しみでしかたありません。見逃がすことのないよう、今から録画の準備をしておこうと思います。

2009年3月22日日曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

Saxophone mouthpiece with T Series rigature広島交響楽団でクラリネットを吹いていらっしゃる高尾哲也氏の考案されたリガチャー、Tシリーズを使いはじめてから一ヶ月がたちました。これくらい使うと、使いはじめの頃の目新しさというのも消えて、これが普通、スタンダードと感じられるようになってきます。といったわけで、評価するにはよい頃合いかも知れません。なにしろ第一印象が鮮烈すぎました。比較するまでもないほどに良い。それまで使っていたリガチャー、ありゃいったいなんだったんだと思うほどによかった。その違いは、近くで聴いているものにも容易にわかるくらいに明瞭で、あんまりにすごいから、録画してニコニコ動画にでも出そうかと思ったくらいでした(実現しませんでしたけど)。とまあ、これが第一印象。それがひと月たってどうなったのか、それを書いていきたいと思います。

私がここひと月の間、主に吹いていたのはソプラノサックスだったのですが、そちらでは完全にこれがスタンダードとなりました。しめつけられているといった感じのしない、自由な鳴りがしているという印象は、使いはじめの当初から今も変わりありません。

リードが充分に振動し、それが楽器全体、管一杯に伝わっている、そうした印象です。中低音域は豊かで、高音に向かってもやせない。充分に息が入る、その要求されるぶんを供給できれば、実に素晴しく鳴る。けれど、私はちょっと吹き過ぎているようです。吹いている私は気付かないんですけど、まわりからすると、かなりうるさく鳴っているみたいなんです。なにせ、いくらでも入る感じがするものですから、ちょっとやり過ぎなくらい吹いてしまう……。これからは響きを意識しながら音をまとめ気味に吹くことを考えるとよいように思います。

アルトサックスでは、これまで吹いてきたリガチャーの印象がいまだ拭えず残っていますが、おかげでまだTシリーズリガチャーの鳴りのよさを意識して吹くことができます。スケールを吹くとき、下降時、タンポの閉じていく感触が心地良く感じられる。ぽこんぽこんとタンポが音孔を打つときの響きさえ感じられる、というのも変な話と思いますが、それだけ音の響きが豊かということなのかも知れません。室内のいろいろに響いて返ってくる、その感触がこれまでと違って面白い。響きが豊かになっているのは少なくとも確か、大らかに鳴る。それが気持ちいいです。

ただ、このところソプラノばかり吹いていて、うまくアルトが吹けずにいます。加えて、アルトは構え方からアンブシュアまで変更している最中なので、迷い迷い吹いていて、いや、そんなの言い訳なんだけど、ちょっと欲求不満ぎみです。鳴りのポイントがいまいち掴めない、鳴らしきるだけの息も入れられずにいる、そうした状況を解消しようと頑張るあまり吹き過ぎになっているようで、これはちょっと悪い傾向かも知れません。もっと自然体で吹いても充分に鳴るはずなんです。この状況を抜けてコンディションが安定すればもっと普通に吹けるだろう、そんなこと考えてますが、これはリガチャーとは関係ない話ですね。

関係ないついでに書きますが、響きをうまく作れるようになったら、私はビブラートをとっぱらうつもりでいます。すでにソプラノでは実施しているのですが、ビブラートは実に便利な小細工で、こいつをかけてやれば、なんとなく表情をつけることができる、それも過剰につけられる。でも、ノンビブラートでやってみればわかることですが、ビブラートに頼って吹いていると、フレーズ中に現れる長く伸ばす音、それを音楽的に吹けなくなってしまっていて、こりゃ駄目だと思った。だいたいビブラートは20世紀に入る以前はほとんど使われてなかった。真っ直ぐな音で表現するのが当然だった。ビブラートなしで、表情豊かに吹けないようでは駄目だ。そう思ったので、アンチビブラート教を設立し入信することにしたのですが、アンチビブラートの神さま、どうしても破戒せずにはおられない私をお許しください。

リードを選んでいる時に特に感じるのですが、これまでリガチャーで頭打ちになって消えていたところが出るようになっている。これまで微細な違いと思っていたところが、意外や大きく違っている、そんなことがわかるようになったりもして、ということはマウスピースを選ぶときに、前のリガチャーでなくこれを使っていたら、もっと明確にその違いがわかったんじゃないのか? と、これは今さらいっても仕方のない話。でも、楽器でもマウスピースでも、リガチャーでも、なにかが足を引っ張っている間は、他の要素の善し悪しもはっきりせず、もやもやの中に埋もれてしまうものだということをあらためて確認したように思います。よい楽器、マウスピース、リガチャー、リードが揃ったら、あとは私が足を引っ張らないよう、がんばらないといけなくて — 、難しいな。私はそれほどうまくないんですよ、実際の話。

ネガティブな話はさて置いておくとしても、楽器演奏というのは、最終的には奏者の差なのだと思っている私には、その差があらわれるまでの段階でオミットされるところが少ないに越したことはなく、そういう点ではTシリーズは実に優れたリガチャーであると思っています。これは、楽器やマウスピースのよさを引き出すリガチャーではなく、ただただ邪魔をしないリガチャーであると思います。それはきっと奏者に対しても同じで、だから最後には奏者が頑張るしかない。言い訳をさせない、そんなTシリーズリガチャーは、こと学習者にはよいリガチャーなのではないかと思います。

Saxophone mouthpiece with T Series rigature

Tシリーズリガチャーは、リード側から見るとこんな感じです。

2009年3月21日土曜日

正義警官モンジュ

 正義警官モンジュ』が面白いのは、不完全さを残したロボット警官、モンジュの姿が、私たち人の生きるその様を映すからに他ならない、そのように思っています。人を遥かにしのぐ頑強な体と高度な情報処理能力を持ったモンジュは、自分の不完全であることに悩んでいる。それもうじうじと、めそめそと。しかし、自己の存在を疑い、過去に苦しみ、見えない未来に迷いながらも、もがくようにして日々を乗り越えていこうとする、その愚直で泥臭いモンジュの生き方がどうしようもなく胸に迫って、もうたまりません。この漫画は、間違えれば取り返しのつかない惨事を引き起こしかねない、そんなテクノロジーと共存するということを描いたものとして読むこともできるけれど、しかし私はこれを不完全である自分をみつめながら、一歩でも完全なものに近付こうとしてあがく人の物語として読みたいと思う。それはつまりは、私自身の問題としても読みたいと、そのように思っているのだと思います。

先日、こんなことをいってましたね。ほら、産総研のロボット、HRP-4Cに触れて書いた記事においてです:

私たちは、人間のそばに人の姿をした、人ではない友人を求めているのですね。それは、人の存在が暖かさをともに時に寂しさすら感じさせてしまうからなのか。もしかしたら、人では埋められない隙間にこそ、彼らヒューマノイドの活躍する余地があるのかも知れません。

確かに私たちは、埋められない寂しさを抱えるがゆえに、ロボットという友人を夢見るのかも知れません。ですが、ことロボットが不完全に描かれようとするとき、物語は私たちから友人、すなわちロボットの側に重心を移し、その不完全を克服しようとする、あるいは不完全ゆえに悩む姿をクローズアップしはじめるように思うのですね。そして、私はそうした彼らの、完全に近付きたいと望み、またなぜ自分は完全ではないのかと悩む姿に引き付けられてなりません。それは、所詮人の身である私も完全には程遠いから、つまりは彼らに同じ悩みを持つひとりであるからでしょう。不完全な彼らの悩みや迷いは、私自身のそれに重なります。彼らの葛藤に、人が自らの欠けた部分を充足させようとすることの意味を見ようとします。心に欠けたところがある、機能に欠けたところがある。もっとも人として基本となるところの欠損、それを埋めようとする彼らの試みとは、すなわち私たち人とはいかにして人であるのかという、根源的な問に直結するものであると思うのです。

『正義警官モンジュ』が問い掛けるものは、大きくあまりにも深い、そのように思います。あまりにも不完全なモンジュが、どう贔屓目に見ても完成されているとは思えない山岸巡査や神谷たちとともに歩んでいく。心ってなんだろう、信頼する、されるってどういうことだろう。自分のしていることの意味は、自分の存在する意味は。そうした答の得られようもない問い掛けが、シリアスなエピソードからも、そしてコミカルなエピソードからも浮びあがってきて、しずかに積っていきます。愚直な問い掛けは、心弱く純朴なモンジュの発するものだからこそ、不用意な重さを物語に残さず、しかし読むものの心にはしっとりとあとを残して、そのバランス! モンジュが人でなかったからこそのバランスがここにある。彼は不完全な人に比べてもなお不完全なロボットである、そうした前提が、自己という存在に対する苦悩を描いて、なお重く辛く苦しくなりすぎない、絶妙のバランスを実現させていると思えます。

けれど、モンジュの抱える問題が、どうでもいいものとして描かれたようなことは一度たりともありません。不完全 — 、発展途上であるものの抱える問題は、いつか克服される日がくるのではないか、そうした希望を感じさせながら、少しずつ変化していきます。その変化のかげには、モンジュに寄り添う誰かの姿があって、時にあたたかい。モンジュを支える誰かがいる、モンジュを守ろうとする人がある、そしてモンジュが人の心に寄り添うことで変わったものもあった。こうした相互の関係を描いて、より一層の深さ、暖かみを感じさせてくれるのもこの漫画のよいところで、それは不完全であるという事実は乗り越えられないまでも、より高いところにまで達することはできるのだ、ともに歩み助けあえる誰かがいれば — 。そうしたことを描くものであるからかとも思います。

  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2005年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第3巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第4巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2007年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第5巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2008年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第6巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2008年。
  • 宮下裕樹『正義警官モンジュ』第7巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2009年。
  • 以下続刊

引用

2009年3月20日金曜日

SUSスチール棚セット・大(グレー)

Mujirushi Ryohin, Steel Unit Shelf無印良品のスチールユニットシェルフが到着して、面倒臭い面倒臭いとはいってましたが、そうもいってられないので、えいやと組み立てました。所要時間は一時間から二時間ってところでしょうか。場所をあけるべく、本やらビデオテープやらを動かして、作業できるだけの空間を確保することからはじめます。その後、軽く掃除機などかけて、パーツを必要なだけ運び入れながら組み立てていって、まずは一セットぶんを組み上げました。

無印良品のユニットシェルフのいいところは、必要に応じて棚を連結できるということだといっていました。今回私は、棚を二セット買ったので、これにもうひとつ棚を繋げます。その際には、連結部の帆立がふたつの棚で共有されるので、部品点数も少なくなるし、あいだに隙間もあかないし。そういう合理的にできているところがどうも私の心をとらえているようです。

さて、棚の全体を見るとこんな感じ。

Mujirushi Ryohin, Steel Unit Shelf

高さ175.5cm、結構背の高い棚です。最上段は、本当の一番上にではなく、ひとつ下の段に下げているので、そんなに背が高いとは感じません。棚板を一番上につけないのは、左右に枠を残すことで、この上に載るPPケースが安定するようにと考えるからです。

組み立ては、ふたりでやるときっと楽です。帆立に棚板をセットしていって、レンチでしっかり固定する。まあ、私はひとりでやったんですけど。その場合は壁を利用するといいでしょう。壁にひとつ帆立を立て掛けておいて、片手にもうひとつ帆立を持って、一番下の棚板をのせる。これだけで、ぐらぐらしながらも自立するようになるので、次に一番上、それから間を埋めていって、レンチでネジを締め付けてやれば、不安定さはなくなります。最後に背面側にクロスバーをセットしたら完成です。

棚がひとつ組み上がったら、これにもうひとつを繋げます。この場合には、クロスバーは外しておく方がよさそう。だから、ひとつ目を完成させる前に連結させるのがベストでしょうが、すでにある棚に追加する場合は、棚板に触れているクロスバーの固定部品、これだけ外してやれば大丈夫です。

背面のクロスバーは、金具が干渉するので、同じ高さには付けられません。だから、私は一段ずらしてつけてやって、シンメトリカル大好きな私はちょっと気に入らないと思っているようですが、まあこれはどうせ見えなくなるものだから気にしません。

といったわけで、棚が完成しました。思ったよりもコンパクト。あとはこれに本を収納していくだけです。

Mujirushi Ryohin, Steel Unit Shelf

2009年3月19日木曜日

『まんがタイムきららMAX』2009年5月号

今日は『まんがタイムきららMAX』の発売日。しかし、今月は例月にも増して質が悪くてまいりました。いつものコンビニ、入荷は6冊ってところでしたかね。普通なら結束痕は表が1冊、裏が1冊ってとこなのに、なぜか今月は裏2冊。なんでだ!? これに角潰れ、表紙折れと続いて、ようやくましなのを2冊手にしたら、ひとつは表紙に擦り傷がいっぱい走ってた……。結局消去法で1冊選んで、なんでこんな神経質なことしているんだろうと、朝から自分に疑問を抱いたのでありました。ああ、これはきっと血液型のせいだな。きっとそう。そういうことにしておきたいと思います。あ、中身に関しては、例月どおり、よかったですよ。特に今月は、長く続いてきた(私にとっては)看板級の漫画、『看板娘はさしおさえ』の最終回が収録される、いわばちょっと節目ともいえるような号でありました。

しかし、書くのは『ぼくの生徒はヴァンパイア』についてだったりする。いや、ちょっと思うところがたくさんありまして。

カミラの使い魔、メイベルがなんだかブラム先生に恋しちゃってるみたいだ。そのへんをつついて、ひっかきまわしちゃおうっていう話であるのですが、このメイベルって人、使い魔というだけあって人じゃないんですね。読んでる時には、たしかコウモリがもともとの姿だったんじゃないかと思ってたんですが、帰ってきてから調べると夢魔だそうですね。確かに以前夢の中に入ったりしてました、してました。

で、メイベルさんは大層な美人で、可愛くて、もう、ブラム先生ったら果報者! ってな具合なんですが、しかし、いくら見た目に美しい人の姿をしていたとしても、その真実は人ならぬ身であるわけで、よくいえば異種族、わるくいえば異形、そうしたものを愛するってことは可能なのかなあ、通勤の車内、そんなことを考えながら読んでいました。それが美しい姿を保っている限り、愛は継続可能だろうけど、その本質があらわにされたとき、自分にとって望ましくないような姿をしていたらどうなんだろう。私は朝の時点では、メイベルをコウモリだったと思っていたから、コウモリの姿を思い浮かべて、そんなものを人は愛せるだろうか。ミナのように黒猫だったら随分ハードルは低くなるけれど、しかしコウモリはなあ。牡丹灯籠のお露であるとか、ウイングマンのアオイであるとか思い出したりしましたね。

一応結論は、不可逆的に人の姿をとっているのなら問題は比較的たやすいが、可逆的だと難しいかもしれない。とりあえず、結論は保留せざるをえなくなるだろう、そんなところに落ち着いて、しかし私は馬鹿なことばかり考えています。でも、これはあながち非現実の話でもなくて、愛しいあの子が実は望ましくない性質を備えていました、みたいな話はざらにあるわけで、でも私の身の上にそうした話が具体的にあるとは考えにくいから、やっぱり考えるだけ無駄であることには違いなさそうです。

恋愛というものを考えるとき、幻想に対して思う行為が恋、憎しみながらも思うことをとめられないのが愛なんだろうか、なんてこと思うのですが、こいつのここが許せない、もう腹立つやら憎々しいやら、はらわた煮えくりかえりそうになりながらも、それでも離れがたく、求める気持ちはやまない。そうした感情のアンビバレンス、愛憎相半ばするものがあってはじめて恋愛はかたちになると思っていて、そう考えると『兄妹はじめました!』の茜のそれは、かなり愛に近付いてるように思います。少なくとも、葵の酷いところ、にこにことして酷薄な娘! そうしたところもきっちりと把握した上で好きだという。マゾか、そうでなきゃ愛だな。でも、ふたりの間には、恋や愛といった華々しくも激しい感情の浮き沈みよりも、情という穏やかな繋がりがより強く意識されるように思えて、しかしそれは家族の情であったり、愛しい人に対するものであったり、ちょっとずつ質を違えたものが交錯し、そしてそのギャップが埋められずに空回りし続ける。そこが面白いんだろうけど、ちょっと不憫よなあ。正直、ひとごととは思われない。そんなところがあります。

『ぽすから』から『まん研』まで、眼鏡四連続。というか、『MAX』は眼鏡ヒロインが多いような……? 『超級龍虎娘』の龍楼さんは真面目でロマンティストでいい娘さんだなあ。私はこういう人は好きですが、こじれると大変なのはこういうタイプだと思います。怒ると口きいてくれなくなる。話し合いで解決しにくいタイプ? 親しくなるほどに、意固地な面が見えて困らされることも増える。けど、それはお互いさまなんだろうけど、話くらいは聞いて欲しい。

『まん研』、非常にためになる話でした。取捨選択。私はこれが苦手です。とにかく、思ってることを全部いいたくて仕方がないみたいです。でもそれでは聞かされる方がたまったもんじゃないので、あとはもう短めに。

『ストロマロジック』は結構面白くなってきて、いい感じなんですけど、どうしても『ストロママジック』と読みまちがえてしまいます。『PHz』、Xで爆弾を止められるというのは知りませんでした。『フィギュ☆モ』、これはなんだかすごくいい感じだぞ! で、次のページに36攻めの7受けってことだよなんて台詞があって、これは狙ってる? いいよ、いいよ。もっと狙って!

はなまるべんと!』は思わぬ展開に、いったいこれはなんなんだと当惑しつつ、次回に期待。

そして、『看板娘はさしおさえ』。きっちり片を付けた、そんなラストを見せて、そして希望も繋いでみせるのね。すごくうまかったと思います。このあたり、詳細については、最終巻が出たときにでも書くんじゃないかと思います。書かないかも知れないけど。でも、細かな配慮のいきとどいたラストに、これまでを振り返ってみても、いい話だったな、そんな印象ばかりが思い出されます。本当に好きな漫画でしたよ。おつかれさまでした。

  • 『まんがタイムきららMAX』第6巻第5号(2009年5月号)

引用

  • 門井亜矢「天然女子高物語」,『まんがタイムきららMAX』第6巻第5号(2009年5月号),63頁。

2009年3月18日水曜日

PPケース・引出式・深型

Mujirushi Ryohin, PP Case先日注文した無印良品のポリプロピレン製ケースが届きました。6個セットのまとめ買いを3セット頼んだので、いったいどれほどの大きさになるのだろうかと怖れたのですが、比較的常識的なサイズにとどまって、安心しました。一緒に頼んだスチール棚がまだ届かないので、これらケースは玄関に置かれたままになっていますが、棚はおそらく明日に到着、ということは次の金土日の連休に部屋の軽模様替えをすることになりそうですね。でも、正直なところをいうと、面倒臭い。でも、早いうちに手を付けたほうがいいということもわかっているんです。だから、ここは勢いつけて、短期決戦しようかと思っています。

無印良品のPPケースを選んだ理由はいったいなんだったのかなあ。今となってははっきりとは思い出せないのですが、本も大量になれば、書棚に収めるよりも箱詰めした方がいいという話を知ったからかなと思うのです。とらのあなとかで漫画や同人誌の保管用ケースが売られているっていう話を聞いて、それでいろいろ調べてみたら、無印良品のポリプロピレン収納ケース・引出式・大が同人誌にジャストサイズ、って知ったんですね。きーぽっと 同人誌の保管方法に関するアンケート結果からでしょうか。ところで、これの1000冊以上所持のコメントにある意見:

○一人暮らしで中古の一戸建てに住んでいるので、保管スペースには余裕があります。
友人の一人は、私が家を購入したのに触発されてなのか、実家の近所に
同じく中古の一戸建てを買いました。

これにはしびれました。私もチャンスと予算があれば、中古の一戸建てというのにチャレンジしたいと思いながら、金がないんだよなあ。そのへんは、これから頑張ります。

そして、もうひとつ-idolinglife-―同人誌アヴァロン計画―。これっすよ。私が無印良品PPケースでいこうと決めたのは、このページを見たからです。ケースに収納し、それをスチール棚で積み上げる。PPケースはそんなに強度に余裕があるわけではないから、何段も重ねるわけにはいきません。けれど、収容力を上げるには積み上げが必須。よって、スチール棚を追加することで、積み上げを可能とするんですね。スチール棚を追加しない場合は、同人誌の収納についてメモ -  孤独の730で紹介されているような感じになろうかと思われます。こちらでは、箱の積み重ねは3段程度にしたほうがいいと書かれていますね。

さて、-idolinglife-のkugoさんや孤独の730のつかささんとは違い、私のメインはA4サイズであります。ということは、ポリプロピレン収納ケース・引出式・大では大き過ぎるのですね。だから、違うサイズの箱を求める必要がありました。ジャストサイズの箱を探すべく、近所の西友、無印良品にいって、箱という箱に持っていった四コマ単行本を入れては確認をして、そうして見付けたのがPPケース・引出式・深型でした。私の収納計画は2007年の8月だったから、時期から考えるに、突っ込まれたのは『さゆリン』ですね。

私の理想は、本を立ててぎっしりと詰める、であったのですが、それは叶わず、本を寝かして積み上げるという方向で決着しました。この方式の優れていると思えるところは、半透明のケース素材ごしに、本の背表紙を透かし見ることができる、そこですね。まあ、見えるのは前列だけなんですけど。でも、まったく見えないよりもずっといいよね。

以前にもいいましたけど、ケースひとつの収容可能冊数は二十冊ほど、そんなに多くありません。実際、この少なさにはちょっとがっかりしたものでしたよ。同人誌なら百五十冊、というのはもともとのケースの大きさと、同人誌のページ数ゆえ可能となる数であるんですよね。だから、もしかしたら、A5判型の収納にはもっと別の、よりよい解があるのではないかと今でも思っています。A5コミック用のいれと庫とかの方がよかったのかな。けど、これは蓋をするタイプだから、積み上げると下のものが取りにくい。だから引き出しにしたんだっけかなあ。どうせ引き出し型でもスチール棚に入れるのなら、いれと庫にした方が収容力が高かったような気もします。でも、当初は棚を購入する気はなかったんですよね。ケースを数段積み上げる程度でなんとかなると思っていたのに、なんともならず、下段の耐久力を考慮すれば、棚を導入せざるを得ない。そう。だから棚は後から購入したのでした。

四次元ポケットが欲しいなあ。

今週末は頑張ります。

引用

2009年3月17日火曜日

電化製品に乾杯!

 産総研が人型ロボットを開発したという話で、もう巷は大騒ぎでありますが、いや実際、これがすごい。プレス・リリースをはじめて見た時は、表情に若干残る違和感に、無理して人に似せる必要はないんじゃないか、なんて思ったものですが、その後動画を見て意見が変わりました。さらに、Impress Robot Watch記事を読んで、もう、これはすごいね。かつてHONDAのP3の動歩行を目にしたとき、いつか来る未来を夢見て胸高鳴らせたものでしたが、このたびのヒューマノイド、HRP-4Cも同様に夢見させてくれるに足る素晴しい成果であると思います。

身長は158cm、体重はバッテリ込みで43kg、もう人の暮らしに入り込んできても問題ないレベルにまできていますが、まだできることは多くなく、歩く、話しかけに反応する、それくらいみたいです。けれど、動作に関しては、これからも研究開発されて、より進化していくだろうし、そうなると次は中身、ソフトウェアであるのかなあ、などと思うのも自然なところでしょう。人工知能、あきらかに知性として認められるような知能、そんなのが搭載されれば素敵だろうなあ。知能がある、知性が感じられる、確かに私と相対しているこの人は心を持っている。けれど、そうした人工の心というのは、正直無理なんじゃないかと思っていて、でもさ、心なんていう、どこに存在するんだかわからんものの存在を確かにする必要なんてないんじゃないか? とも思っています。ていうのは、こういうのは結局受け取り側の問題なんですよ。知能がある、知性が感じられる、確かに私と相対しているこの人は心を持っていると感じられればそれで充分なんです。だから、不完全な知能を持たせるくらいなら、優れた人工無脳を搭載する方がいいのではないか。足りない部分は自分でなんとか補うから、まずはそれでいいよ。なんて思っているわけです。

でも、漫画の世界では、人間顔負けの知能、知性、感情、心さえ感じさせる、そんなヒューマノイドが大活躍です。山田まりお『スタミナ天使』の緑、いやさ、エクレアに、松本蜜柑なら『イエス・マスター』のとわ、『にこプリトランス』のせす、りんす、『くろがねカチューシャ』ハナ、『のののリサイクル』ののとエミュリ。もう、いくらでも出てくる。それくらい、私たちは、人間のそばに人の姿をした、人ではない友人を求めているのですね。それは、人の存在が暖かさをともに時に寂しさすら感じさせてしまうからなのか。もしかしたら、人では埋められない隙間にこそ、彼らヒューマノイドの活躍する余地があるのかも知れません。

それに、これは実に重要なことですが、彼女らは「やっぱり友達でいましょう」とか「貧弱な坊や」とバカにしたりとかしませんもの♥。ゆえに人は、バイトはもちろん昼メシ代までうかせてつぎこんで、血の小便がでるような思いでためた軍資金を手に、女の子の代用品を求めようとするのでしょう。と、これは椎名高志の短編、『電化製品アンドロイドに乾杯!』に描かれた光景でした。

この漫画が発表されたのは平成元年。当時は夢のまた夢でしかなかったヒューマノイドが、二十年余りの年月をへて、もしかしたら手が届くのではないかと思える、そんな現実的な位置にまで近づいてきているのですから、もう驚かないではいられません。現実のヒューマノイド、サイバネティックヒューマンは、まだ人の仕事を代替できるようなレベルには達していませんが、もう何年もすれば、軽作業の手伝いくらいはできるようになるのかも知れません。実際、HRP-5は量産を目指すという話ですし(量産の暁には表情などはオミットされそうですが)、そうなれば我が家にも彼女の末裔を招き入れる日もくるかも知れません。ということは、今からおこづかいとバイトはもちろん昼メシ代、血の小便がでるような思いで小金かき集めないといけないですね。

HRP-4Cの動画を母に見せたところ、これは介護の現場にきたりするのか、などといわれまして、いや、残念ながらそこまではまだ育っていない。けど、もう少し彼女が育てば、介護の現場に彼女らが参入する日もくるのかも知れません。実際に介護をするとなれば、おそらくは彼女のようなヒューマンタイプではなく、ロボットベッドのような機能に特化したものの方が現実的な答となるのだと思いはするのですが、でもベッドから機械の手だけが出て、食事の補助をしてくれるというのも味気ないものでしょう。

以前、祖母が存命だったときのこと。祖母の入所しているホームに人形を抱いている方がいらっしゃったのですね。自分の子の幼いときを思い出していらっしゃったのか、それとも人寂しさが人に似たもの、ぬくもりを求めさせたのか、その人の中にどうした思いがあったのかはわかりませんが、そうした人を代替するものを求める心は人間に抜き難く存在していると思うのです。たいした働きはできないかも知れないけれど、そっとつきそってくれて、いやな顔ひとつせず、うんうんと話を聞いてくれて — 、そんな、心をケアする場面に彼女らがいる、そんな未来もあるかも知れません。実際、そうした局面にて活躍するロボットは存在しているのです。将来には彼女らの末裔が、労働力としてではなく、友人として、私たちのそばに寄り添っている。そんな光景があってもいいと思っています。

ところで、先程ちょっと紹介しましたロボット、パロがアザラシの姿をしているのは、人型には次のような欠点があるからだそうです。

人間は、人間のことを良くわかるため、人間型ロボットの技術が優れていても、人と同じように走ったり、 ジャンプしたり、仕事をしたり、という様々なことができることを期待します。そのため、期待から大きく外れると、がっかりしてしまいます。

けれど、仮に人が人の姿をしたものに期待してしまうのだとしても、クリアする道はあるはずなんです。それは、例えば『電化製品に乾杯!』のヒロイン、ミソッカス90Fがそうであったように、本当の安物で… 性能なんかぜんぜんよくなくて… いつもヘマばっかりしてて…一生懸命やったって… そんなプログラムがあったって… 私なんか……

そう、ここにひとつの解答がある。錯覚でも、気の迷いでも、こんなかわいくていじらしいの欲しいと思わせればいいんです。ドジでのろまな亀であっても、それでもかわいい!! そう思わせてしまうなにかがあればいい!

椎名高志は真に偉大な作家であります。

  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』(少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1999年。
  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。

引用

2009年3月16日月曜日

こえでおしごと!

 tsawada2氏の購入記録に現われたのを見ましてね、ああ、そういえば買ってたなあ、思い出したのでした。紺野あずれの『こえでおしごと!』。発売は昨年末、12月の23日で、私の購入記録を振り返れば、同月25日に買っています。これはたまたま出くわして買ったのではなくて、ちょうどこの頃に出ると把握した上で買ったのでした。しかし、私が事前に知っていたのは、声優を志す? そんな女の子がヒロインの漫画ということぐらいで、残念ながらこの設定は私の興味をそそるものではなく、だから場合によっては流そうかな、そんなことさえ思っていたのですが、結局買いました。それは、なんのかんのいって、紺野あずれが気にいっているから、なんだろうと思います。

紺野あずれのどこが気にいってるか。この人の描く漫画に関しては、さほど詳しいわけでもないのですが、以前にいってました『思春期クレイジーズ』。ええと、車はぶつけるものってやつですが、あの漫画の馬鹿馬鹿しくも楽しいところ。無茶を無茶のまま通してしまう、そんな強引な展開は、下手すりゃ悲劇なんだけど、それを最後には悲劇でなくしてしまう、そんな楽天的なところがよかったのだと思います。変にポジティブというか、この人の漫画に見受けられるそういうところがどうも私は好きなようでして、それで『こえでおしごと!』も買ってしまったわけです。

この人の漫画は、主人公が無茶なこという人に振り回されて、巻き込まれていく。そういうのが得意のパターンであるらしく、『思春期クレイジーズ』では友人、『こえでおしごと!』では肉親、年の離れた姉のやむにやまれぬ事情? のために、急遽声優としての階段をのぼらなければならなくなったっぽいヒロイン。最初は嫌で嫌で、頭っから拒否するのだけど、だんだんに引き込まれていって、抜き差しならなくなってしまうというのも基本どおりで、だから紺野あずれのパターン、それが好きという人なら楽しめるところは多いかと思います。

ああ、いいそびれました。声優といってもアニメやなんかのそれではなくて、18歳未満はプレイできない類いのゲームの声優です。世に声優は多くとも、エロゲーの仕事を引き受ける人は少ない。東京、せめて大阪ならともかく、地方となると壊滅的な悪状況。そこで、妹に白羽の矢が立った。手元に使える声優を育てればいいんじゃん! なんというナイスアイデア! って、姉さん、あんたがやればいいじゃないか。ジャンルの特性といえばいいのでしょうか、この漫画、登場人物は圧倒的に女性過多。実際のゲームの現場の男女比率がどうなのかなんて知りませんが、あんだけ女性が多ければ、なんとか自社スタッフでまかなえるんじゃないのんか? などと突っ込むのは無粋だと思うのでやめときますが、だってヒロインにこの仕事が渡されなければ、漫画が進みません。

最初は嫌がっていたヒロイン柑奈ですが、巻き込まれて、揉まれているうちに、なんとなくその気になっていく、というか、その気にはなってないけど、なんとなく板についてきて、最初はとても無理と思っていたようなこともできるようになっちゃう、というのは、やっぱり紺野あずれらしさと思えます。そして、この人の漫画の魅力とは、無理といいながら頑張る、そうした際の照れであるとかもどかしさであるとかがかもし出す表情、その可愛さなんだろうなと思って、だからヒロインにひかれるところがあれば、きっといい漫画です。それからあと、声優というものに興味があれば、ぐっと面白さは増すのではないだろうか、という私は、声優にさほど興味があるわけでなく、さらには卑語の連呼に対する嗜好もちょっとないものだから、今はまだのりきれていない、そんな風に感じています。

ところで、この人の漫画といえば、同級生に背が低めのツインテールと背が高めのロングヘアーというのも定番っぽいですが、そのあたりもちゃんと押さえられてるのはさすがと思いました。多分、好きなんでしょうね。あ、そうそう、私は、この人の漫画に出てくる、やわらかで自然な感じの関西弁が好きです。

  • 紺野あずれ『こえでおしごと!』第1巻 (ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2008年。
  • 以下続刊

2009年3月15日日曜日

SUSスチール棚セット・大(グレー)

Ceiling棚を買いました。無印良品のユニットシェルフ、幅58cm、高さ175.5cmのスチール棚を買いました。いやね、もう部屋が大変なことになってるんです。本、漫画、雑誌、それこそ空間を埋めつくすいきおいで増えてますから、それをなんとか始末しないといけない。とはいっても、捨てたり売ったりはしたくない。なんせ、このBlog書くのにひっぱり出したりしてるもの。いわば資料ともいえんことはないものでありますから、というか、そういうことにして、捨てろという圧力に抗しているのですが、とにかくなんとかして残したいと思っているわけです。なので、定期的に棚を増やしてやる必要があって、今がその時と買ってしまいました。しかし、なぜ本の整理に書棚ではなくてユニットシェルフなのか。それは、私のスタイルには、どうもこいつがあってるみたいであるから、なんです。

買ったのはスチール棚だけではありません。一緒にポリプロピレンのケースも買っていまして、幅26cm、高さ17.5cm、奥行きが37cm。これA5判型の本をしまうのに丁度いいのです。寝かして収納するのですが、奥と手前に二列、各列十冊程度入って、つまり一ケース約二十冊収納。そして、このケースがユニットシェルフにぴったりとマッチするのです。58cm幅の棚なら、ちょうど横に2ケース入って、各棚板に2 * 2の4ケース。棚板は5枚あるから、計20ケースをしまい込めます。つまりユニットシェルフ1本でおよそ四百冊のA5判型を収納可能……。そうか、私はそんな大量に漫画を抱えこんでいるのか……。あらためて確認するとげんなりしますね。

ユニットシェルフのいいところは、帆立を追加し、棚板やクロスバー、バックパネルなどを組み合わせることで、多目的用途に対応させられるところかと思います。私なんかは、単純にケースを積み込む目的でしか買っていませんが、バスケットを入れたり、机を横に繋げたりして、そして別売りのケースやキャビネットを組み合わせて、けっこうなバリエーションを持たせることが可能であるようです。このあたりは無印良品のうまいところであると思うのですが、無印の製品だときっちり収まるようなサイズになっているから、これを買いはじめると、どんどん無印の収納製品が増えていく。棚に関しては、無印の戦略にすっかりはまってしまっています。

今回買ったのは、高さ175.5cmの棚ふたつ。これを繋げて使います。これで、計3本になりますね。千二百冊収納可能! げんなりする……。もういやんなるなあ。

今購入したのは、ちょうど無印良品が10%オフのキャンペーンをやっていて、さらに二万円以上買うと送料が無料になるというキャンペーンもやっていたからです。それで購入に際して、ケースのまとめ買いと棚のセット、それからばらの追加部品、どういう組み合わせで買うと一番安くなるか試行錯誤してみた結果、棚をセットでふたつ買うのが一番安くなることがわかりました。ただ、私はこのふたつを繋げてつかうので、帆立がひとつあまります。まあ、これは将来の拡張時に使うことにしましょう。って、まだ増やすつもりなんだ……。

A5判型の本とは、具体的には四コマ漫画の単行本です。そろそろ四コマ道楽も限界がちらついてきたように思います。しかし、他の四コマ道楽や同人誌道楽している人、特に本も雑誌も捨てないぜって人、収納はどうやってるんでしょうか。私、そろそろ外に収納場所を借りるとかしないといけないような状況に踏み込みそうなんですが、簡単に参照できないことには、これらを抱えている意味なんてないからなあ。収納と利便の狭間で悩んでおります。

2009年3月14日土曜日

The Shubb Capo

 私が使っているカポは、G7thのカポです。調整不要で、いつも最適なバランスが得られる、誰に見せても好評なカポであるのですが、先日紹介しましたギター、LADY BIRDにだけはこれは使いません。なぜか。理由は簡単、ネックが太めのLADY BIRDには、わずかにカポの開きが小さいG7thは装着しにくくて、なのでLADY BIRDにだけはShubbのカポを使うことにしています。これは、実にシンプルな、しかし使いやすさ、確実性において定評のあるカポで、あちこちで使っている人を見掛けます。実際ユーザーの数は、G7thよりもはるかに多い、のではないかと思います。

私の最初に買ったカポはKyserのクリップ式のものでした。それも、通常の弦をすべて押さえるのではなく、3から5弦までを押さえるという変わり種。だから、普通のカポも買う必要があって、その時に選んだのがShubbでした。Shubbにした理由は、これを使っている人が多い、そして評判がいい、そのためです。

私の持っているものは、Shubb C1です。アコースティックギターとエレキギター(指板にアールがついているギター)向けのモデルで、色は銀。ニッケル製ですね。ニッケルの他にブラスもあったのですが、特に材質で違いがあるわけでもないという話なので、オーソドックスなニッケルにしたのでした。

このカポは、使う前にちょっと調整しておく必要があって、それはねじを回すだけという簡単なものなのですが、説明書によると第3フレットであわせるのがいいようです。あんまりに押さえすぎて、音がシャープしないように、そしてゆるすぎないように、ねじを回してバランスをとるのです。3フレットにあわせるのは、だいたいカポを使うのが1から5フレットだからでしょう。ちょうどその中間のフレットにあわせておくと都合がいい。説明書にも、2、3、4、5フレットでも確認するよう書かれていて、また必要に応じて微調整するようにとも書かれています。この調整の手間を惜しまないなら、このカポでなんら問題ありません。シンプル、簡単、ワンタッチで取り付け取り外しができて、それに軽い。軽いといえば、今はアルミ製の軽量カポも出してるんですね。ヘッドやネックが重くなると、響きがそこなわれてしまうから、人によってはより軽さを求めて、L1を使ったりするんでしょう。なんにせよ、こうした選択肢が用意されているところに、このカポを支持する層の厚さというものが感じられます。

私は、自分の普段使いのカポをG7thと決めて、だからShubbを死蔵することになるんじゃないかと思って、ちょっと残念に思ったりもしていたのですが、思いがけずLADY BIRDがShubbを要求して、それがわかったときには少し嬉しかったです。

2009年3月13日金曜日

魔法少女いすずさんフルスロットル

 コミックエール!』は好きな雑誌であっただけに、終わってしまうというのは残念です。怖いもの見たさで買った第1号は、想像していたほどに奇天烈でもなければ突飛でもなく、少々落ち着かないながらも、なかなかによい雰囲気をかもし出していました。それは、掲載されている漫画、それが実に私に向いていたからであろうと思います。そんな中に、『魔法少女いすずさんフルスロットル』もあったのでした。強い印象を残すようなことはなかったように思うのだけれど、単行本になって、読み返してみれば、確かに記憶に残るエピソード。派手ではない、ぎらぎらしていない、けどちょっと狙ってるな、そんなところもあって、けど全般にはしっとりとして穏かな印象を残す漫画です。

狙っているところ、それはまずヒロインに接近してくる美少女、それが魔法少女であるということ。彼女はまた犬耳で、犬しっぽで、スク水だったり、ぱんつはいてなかったり、メイドだったり、だぶだぶだったり、ええと、あとはなんだ。列挙してみると結構あるもんですね。それこそ、毎回、なにかしらのギミックは仕込まれているようで、けれど私にはわからないネタも多かったみたいで、私より最近の漫画やアニメに詳しい人なら、もっと楽しめるところは多いかも、そう思うようなところもちょこちょこありました。

けれど、そうした要素を抜きにしても楽しいと思える漫画でした。主要登場人物は女性ばかりで、魔法少女であるいすずさんの可愛さにうっとりと見惚れてしまうようなヒロインは通称メガネちゃん。つうか、名前わかんないぞ。それもまたネタなのか? ともあれ、平々凡々を旨とする、そんなヒロインは、当初、非常識な存在である魔法少女に距離を置こうとしていたのだけど、だんだんにほだされて、仲良くなっていって。そうした過程の丁寧に描かれて、しっとりと落ち着いているところなどは、大変によかったのでした。全体にスロー、ちょこちょこギャグやアクション? 盛り上げの要素がはいるのだけれど、それはエピソード中の小エピソードといった感触で、流れがそうした方面に向かうということは少なかった。あくまでも軸は、メガネちゃんといすずさんの関係の、少し歩みよるごとに仕合せ、そうしたところにあったのだと思います。

しかしこの作者は、穏かさの中に感情の流れを作るのがうまいなとつくづく思います。斬新かといわれると、そうではないと思う。けれど、共有されるイメージ、そうしたものをうまく取り扱って、効果的に紙面に落とし込み、引き込む。それは、ああ、なんかいいな、こういうの、そういう感じをもたらして、そしてあの最終回に、いや違う、終わってないから。けど、あれはすごくうまかったと思うのよ。これでもかこれでもか、散々ひっぱって、しんみりとさせて、ああ、もう、思いが溢れた、その時に、ささやかに仕掛けられる、その効果たるやただものではなかった。うまいなあ、すっかりやられた。あの感動と微笑ましさの波、あれがこの人の面目躍如であるのかと思いました、思いましたよ。

2009年3月12日木曜日

Recht — レヒト

 Recht』、完結。一時期は、私の『まんがタイムきららフォワード』にとどまろうとする気持ちを支えてくれた漫画の筆頭でした。中央管理局がすべての情報を集約する世界を舞台とする、新任熱血刑事ものといったらいいでしょうか。主人公は、警察機構レヒトに所属することとなったカイ。彼には相棒があって、それは中央管理局から与えられたセキュリティシステム、CSのアリス。官僚的な色合いが強いレヒトにおいて、はみ出し気味に事件を追うカイと、本来ならマスターの指示を絶対のものとするはずのCSでありながら、時にマスターに反抗してみせたりする、変わり種のアリス。規律規範にがんじがらめにされそうな社会を、自由な気風を持って右往左往しながら渡っていく、そんなふたりのバディものとして読むのがよい漫画であったと思います。

当初は各話で完結するというスタイルをとっていた漫画ですが、後半は続き続きで大きな物語を追いかけていく、そうした傾向を強めて、あらためてこの漫画が、ディストピアを描くものであるということを意識させたように感じます。管理局により、自らの進む道さえも決められてしまう、そのような超管理社会は、一面の平和、一面の平穏を約束し、ユートピアとしての体裁を維持してはいるのだけれども、この一見理想的とも思える社会のシステムに抵抗する人たちがある。それは、カイの疑問、わだかまりに対するひとつの回答となりうる、そんな存在として描かれているのですね。彼らを追う、その過程でこの社会の真実、欺瞞が少しずつ明らかにされて、そしてカイはアリスを残し、ひとり姿を消す — 。

ひとつ残念と思うのは、おそらくは作者の構想していたであろうことを十全に描ききるまでに連載が終わってしまった、そんな感じが残るところでしょうか。多分、レヒトとその対立組織を対峙させつつ、管理局の中枢にカイを乗り込ませて — 、みたいな展開があったんじゃないかなあ、などと無責任なことをいいますが、けれどこうした闘争をメインに考えてしまうあたり、私はやっぱり男の脳を持っているのだなと意識させられてしまいます。

対して『Recht』本編は、揺れ動くカイとアリスの思いがメインに据えられて、信じていたものに裏切られ、心の支えとなるものを見失ってしまったカイ。カイを心配しながらも、カイの自分に対する気持ちを掴みあぐねて、立ちすくんでしまったアリス。交錯しすれ違う思いは、奥底に相手を思う気持ちを隠しながらも、自分を支える強さをなくしてしまったためでしょう、色を失ってしまったかのようにくすんで、本来の素直さが発揮されず、対象に真っ直ぐに向かおうとする、そんなしなやかささえ忘れられて、それは実にやるせないと思わせるシーンの連続でありました。いつも、ほがらかに振る舞ってきたアリスが、背を丸めうずくまる場面などは、息をすることも忘れる、そんな思いにさせられるほどに切なくて、そして美しかった。悩み、迷い、葛藤、後悔。心が離れてしまったかのように感じられる、そんな思いがなおも足どりを重くさせる。顔をあげることもできなくなってしまって、しかしそんなアリスを、ひいてはカイを支える人がある。誰もが誰かの支えとなれる、また誰もに支えとなってくれる誰かはいるのだと、そうした、ときに忘れられがちなことが、丁寧な筆致で綴られた。人の心の、弱く、けれど強くもあるという、そうしたことが描かれた漫画であったと思うのです。

私の思いが向かう先にあなたがあって、あなたの思いが向けられるところには私が。そうした、人とCS、互いに異質であるはずの存在を繋ぐ信頼 — 、絆がテーマであったのだと思います。それは恋愛に似て恋愛ではない。互いを大切に思い、助けあい、ときには導き導かれる、そうしたパートナー、相棒としての結び付きを確かめていく、そんな物語でありました。そして、そうしたストーリーの影に、選ばれることはないとわかっていながら、思いの向けられることを望む、そうしたささやかな感情が揺れていて、それもまた切なく、美しいのでした。

そして、絵も美しい。私はこの人の描く絵が好きです。わりかし骨太で、けれどどこか儚いとも思わせる、そんなところが好きで、それはキャラクターの造形もそうなのかも知れません。みなたくましい、特に女性がたくましい。けれど、その強ささえ感じさせる笑顔の向こうには、揺れる感情もあるのだという、そうした多面的なところが好きなんだろうなって思います。

最後に、私の好きだったのは、アリスだったり涼香だったり、兄貴だったり課長だったり。

  • 寺本薫『Recht — レヒト』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 寺本薫『Recht — レヒト』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 寺本薫『Recht — レヒト』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。

2009年3月11日水曜日

未確認幼なじみ

  この人の本を見掛けたら、とりあえず買う。本好き、漫画好きは、そういう作家のひとりやふたり、いるものだと思うんです。もちろん私にもあって、というか、ありすぎて困ってるんですけど。もう、毎月毎月、なんでこんなに買ってるんだろうって、自分でも疑問に思うほど買ってる。中には新しく買いはじめるものもあるけれど、ほとんどは継続であったり、作家買いであったり。今日とりあげる『未確認幼なじみ』、これも作者買いです。作者は陸乃家鴨。もちろん最初から作者買いだったわけではなくて、表紙買いからのはじまりです。とりあえず買ってみるかと思って読んだら、それが結構よくってですね、既刊買いに走って、そして今や作者買い。ああ、よくあるパターンです。

『未確認幼なじみ』。十数年ぶりに故郷に帰ってきた大地、彼が主人公。子供時分を過ごした小学校、すでに廃校、その離れに寝起きして、夜は星の観測をする。そして出会うは、幼なじみたち。1巻の帯によれば10人。え? けど、そうだっけか?

私達の幼なじみは

美律みのり
つっちょん
林子りんこちゃん

あきらうみ
火弥子かやこ

私達を入れても8人だけよ

ここに、大地があの13齢の月夜に出会ったメイが加わる。それで9人。じゃあ、あとの一人は誰!? ああ、大地の弟月矢か。これで総勢10人、出揃いましたね。なお、名前の出てないのは水音。大地の幼なじみのボーイッシュな少女。今は小学校の教員をしています。

この漫画は、ありていにいえばエロ漫画です。月の照る夜に大地が再会したのは、かすかに記憶に残るメイ。大地はメイと関係を持ち、それからは溺れるようにメイにはまっていきます。

そうした関係を描きつつ、背後には廃校の取り壊しなど、別のストーリーを進めていって、この二軸構成は実にエロ漫画的です。エロ漫画だから、きちんとやるべきことはやっとかないといけない。けれど、エロ漫画だけど、エロだけじゃつまんない。それで、エロとストーリーがふたつの軸になって、それぞれ展開していくのですね。しかし、そのストーリーの進むにつれて次々再会していく幼なじみたち。そして、大地は次々彼女らと関係を持って、なんとうらや、ゲフンゲフン、ふしだらな! 容姿、性格を違えた美女をいろいろ取り揃えて、基本女性主導でことにいたる。実に都合のいい展開で、私の陸乃家鴨がいいと思う理由はおそらくここにあります。あんまり露骨でなく、嗜虐的でなく、ましてや強要ではなく、ラブラブ? まあ、露骨であるかどうかは別として、嗜虐的でない、強要でもない、ここ重要です。けれど、基本受け身である大地が、好いた相手には積極的に踏み込んで、ああ、これだ。好きなら好きと、はっきり態度でしめして欲しい。けど、私以外の女と関係持つときは、できれば乗り気でないといいな。そんな理想が向こう側から伝わってくるようで、ああ、これはそうだ、つまりは少女漫画的構図なんだよ。私以外の女にももてる男であって欲しい、私以外の女と関係するときでも心は私に置いておいて欲しい。それを男主人公でエロに振ると、こうなるのかも知れません。

さて、以上は男のロマン。この漫画には他にもロマンがあって、それは、ひとつは天体に対するロマン。メイの謎について踏み込んでいく過程であきらかになる、彼女がメイであった理由。あれはしびれましたわ。うわ気付いてなかった。あんなにヒントはいっぱい出てたのに。いっときなどは、そのヒントを掴みながらも、エロに夢中で手放してしまって、しかしこの謎が深まっていく段になると、逆にエロはふっとんでしまって、いや謎解きが楽しかったからじゃないんです。私の心をとらえたのは、主人公たちのロマンスでした。彼彼女らの心に揺れる思い。それがひとつ明らかになって、そしてひとつの思いが消えようとして、でも消してなるものか。そうした思いが、確かでないものを確かなものと変えるんですね。あれは、いい話だった。すべての流れがここでひとつになったと感じられた。叙情にあふれて、切なさも愛おしさも、これでもかと込み上げて、ああこの漫画は外れゆくものを抱きとめようという思いに満ちている。やさしくて、あたたかで、とても幸いな漫画。そして、私は、愛というものは等しく、名前のない「何か」であった誰かを、他の誰でもないあなたに変える営為なのかも知れない、などと思ったのでした。

最後の情景、それもまた素晴しく幸いなもの、余韻を残して豊か、私はその光景をちょっと嫉妬まじりで見送るのですが、読み切るまではそれは蛇足なのではないかと思っていた。けれどそうではありませんでした。ああ、陸乃家鴨の漫画はいいな。そう思って、なおさら好きになった。それは、確かにあなたを受け止めるよという力強さをもった優しさがあるからなんではないかな、なんて思うのですね。ラストに向かう流れに、そして最後の1ページに、そう思わせるだけのものがあったのですね。

  • 陸乃家鴨『未確認幼なじみ』上 (ヤングコミックコミックス) 東京:少年画報社,2009年。
  • 陸乃家鴨『未確認幼なじみ』下 (ヤングコミックコミックス) 東京:少年画報社,2009年。

引用

2009年3月10日火曜日

さだまさし ベスト曲集

 私はさだまさしが好きで、それは彼の歌っているところも好き、しゃべるその話も好き、そして歌の世界が好き。さだの歌の世界には叙情があふれんばかりに満ちて、言葉がみずみずしく生きている、メロディの美しいことといったらない。本当にさだまさしは天才であるな、そんなことさえ思うほどであるのですね。そして、さだの歌は聴いてよし、歌ってよしであるんです。さだはフォークの人で、だからか、自分の歌がひろく歌われることを想定していて、それは彼のレコードに付属する歌詞カード、楽譜がついていることからもわかります。もちろんコードネーム付き。当時のファンは、レコードを買って、こうした楽譜を前にして、自分でもギターを弾いて歌ったんでしょう。そして私は、今、そうしてさだの歌を歌っていて、たとえばそれは『フレディもしくは三教街 — ロシア租界にて』、そして『つゆのあとさき』。もう、いい歌なんです。で、これをよりよく歌うためにと思って、そしてこれら以外の歌も歌いたいと思って、さだまさしの歌集を探していたのです。

私のいつも漫画をまとめ買いしにいく本屋の向かいには楽器店があって、楽譜も少しは売られています。先日、土曜日のこと、めずらしく余裕があったから、楽器店のぞいて、楽譜など眺めていたら、そこにさだまさしの曲集がありました。分厚い本です。B5判で680ページある。値段もそこそこします。3700円、税抜きで。内容を簡単に確認、とりあえず『フレディ』と『つゆのあとさき』があることがわかったので、今日のこれが機会であると、思いきって買ったのでした。

とりあえず練習するのは『フレディ』で、そして『つゆのあとさき』であるのですが、この楽譜は、オフィシャルというのがあるのでしょうか? さだが書いたものを底本にするのではなく、さだの歌っているのを採譜したものみたいです。私の手持ちの楽譜、つまりレコードの歌詞カードですが、それとリズムの違っているところが沢山あります。つまり、さだがリズムを揺らしながら歌っている、その揺れをそのまま楽譜に起こしているんですね。また、コードもちょっと違うのがついているところがあって、でもそういうのはよくあることで、自分で採った楽譜、コードにしても、あとで確認したら違っていた、そんなことはざらです。まあ、私よりもちゃんと出版されてるものの方が信頼性は高いだろう、そう思って、頼りすぎるでもなく、歌う際のガイドラインとして活用できればいいかなと思います。

『フレディ』と『つゆのあとさき』、それをまずは練習してといってましたが、その次は『主人公』かな、なんて思っています。しかし、さだの歌はキーが高いです。普通に高いソとかが出る、ラなんかも出てくる。私の声域は上がだいたいファのシャープですから、そのままでは歌えないんですね。無理すりゃ歌えなくもないんだけど、無理すると喉を傷めます。

だから移調の必要があるんですが、私は『フレディ』はin GをCに読み替えて、けれどそれでは低いから、3カポで歌っています。ええと、つまりはin Ebですね。原調から見れば2音さげてるわけですか。それで『つゆのあとさき』はin DをCに読み替えて、こちらはカポなし、単純に1音さげています。『主人公』もin Dで、最高音はGなので、多分Cに読み替えでしょうね。この曲はベース音が半音下降していくところが実に美しいので、Em/E EmM7/D# Em7/D Em6/C#ですが、1音さげならDm/D DmM7/C# Dm7/C Dm6/Bになる、まあ大丈夫そうですね。コードはDmのままで、ベース音だけかえればいいわけですし、だから多分in Cで歌います。

楽譜を書き換えるのが一番いいんでしょうけど、移調読み替えの練習と思って、あえて書き換えはせずに歌いたいと思います。1音下げ、4度、5度の移調は、書き換えなしでできるようにした方がなにかと便利そうです。上げたい場合はカポ使えばいいんですから、そっちは考えない方向で。でも、さだまさしの歌でコードは原調のまま、カポで移調ってのはまずしなさそうに思います。なにしろ下げないことには歌えないわけですから。レパートリーを増やしながら、移調の訓練も一緒することになりそうです。

しかし、全165曲。すべて歌いきるのはいつのことになるか……。実に贅沢な話であります。

2009年3月9日月曜日

『まんがタイムきらら』2009年4月号

四コマに限らず、漫画雑誌が出た日には、掲載作についての感想を列挙したりするっていうサイト、Blogは多いらしいですね。いや、どうなんだろう? 私はそうしたサイトは、まったくといっていいほど見ないできたから、その実態についてはよくわからないのですけれど、もしそういう需要があるのなら — 。ふと思うところがあって、試みに雑誌掲載の漫画についての感想というか思ったことというかを書いてみる気になりました。とはいいましても、掲載されている漫画すべてにコメントするのは無理です。いや、やってやれないことはないと思うけど、きっと、三日坊主の日記みたいになる。昨日と一緒、特になし。そんなのが続くのは正直どうかと思うし、それにネガティブなコメント書くのは好きじゃない。ここは気にくわないけれどこういうところは面白い、そういうのならまだしも、その存在が気にくわない、みたいなのは書きたくない。だから、ピックアップして取り上げる、それも面白いと思ったものすべてではなくて、面白いと思ったものからいくつか、みたいになるのかと思われて、しかしなぜ突然こうしたやりなれないことをしようと思ったのでしょうね。

ブログに書くことが思いつかないの

いや、ちゃいます。そうじゃないんです。思いつきますよ、ほら、いくらでも。えーと、えーと、うーん……。

まあ実際の話、いくつか候補はあるので、ネタを思いつかないというわけではないんです(今は)。じゃあ、なんで今日の『きらら』に限っては感想を書く気になったのか。それは、表紙がね『ゆゆ式』で、わお、これはいい表紙、気にいりました! シェフをよべ!! おいしいです!!

……

本日の目的は達成されました。というのもなんなので。

ゆゆ式

「ゆゆ式」は結構気にいっている漫画です。直に単行本が出るので、表紙で巻頭なのだと思いますが、ゆずこ、縁、唯の三人娘が、なんかよくわからん談義をして終わるという、なんとコメントしたらいいかわからない漫画。最初の頃は、部活? なにかテーマを決めて調べ学習しましょう、みたいな雰囲気があって、それが変に私の心に触れる、そんなところがあったようで、好きになったのでした。

今はもう、その調べ学習的雰囲気はないのだけど、毎回なにかひとつのテーマに関して話しあう、特に結論を求めたりするのではなく、徒然なるままに話す、そうしたところは残っていて、今号のテーマは、いっちゃっていいかな? いいよね?

なんで
生き物は死ぬんすかね?

って勘弁してくださいよ。悲しくなってしまうじゃないですか。でも、その悲しくなっちゃうところを汲んで、話をそらせてみたりするその配慮。けどゆるやかにテーマは継続して、そこで確認されるのは三人娘の仲のよさだったりするところはよいなあと。

基本的に仲よい漫画です。ドラマチックな盛り上げとかには無縁で、ゆるやかにゆるやかに進行する、そこで語られるのはただただ仲のいい友達同士のつながりである — 。こういうのがどうもこの頃の私の好みのようで、なんかいいなあって思ってるんですね。

って、しまった。これじゃ「ゆゆ式」だけで終わるぞ。っていうか、今月末に困ることになりそうな予感がする。

三者三葉」は、いかに双葉が可愛いかに終始しそうなので飛ばして、というか、私はそもそも『三者三葉』読みたさに『きらら』誌を買いはじめたんでしたっけね、って話も長くなるので飛ばして、「けいおん!」、なんでヴィンテージギター、とりわけエレキ、はなんであんなに高くなるんだろう、っていう話も直接漫画に関係しないので飛ばして、「おまもりんごさん」はいまいち楽しみ方を掴めないでいるんだけど、ヤバイ、踊るぞ…はちょっと面白かった。

最近新しく始まった漫画では、リサリサの「PONG PONG PONG!」が気にいっています。最初はどう楽しんだものかわからなかったけど、狸娘のリコの尊大さと必死さ、そのギャップがよいなと。あと登場人物がみな思うところをあからさまにして、直情的であるところ。真っ向勝負の口舌バトル? 絵もそうなんだけれど、勢いが感じられるところが好きです。

まん研」、買うなら知的美しさです。いや、眼鏡じゃない。眼鏡だからじゃないよ。それはそうと、102ページの眼鏡はずしたメガネデコがレアでいい感じ、知的美しさが感じられますね!

二丁目路地裏探偵奇譚」がちょっといい話。「まーぶるインスパイア」、具体的にパソコン購入の話が動いて驚きました。予算を文字通り食い潰すまでを描くんじゃなかったのか! なお、私も青春を無駄遣いした口です。合掌。「SweetHome」、結構気になってます。先月くらいから特に気になってます。

「メロ3」は、これだけで上記の三倍くらい書いてしまいそうなので、割愛。野々原ちき、好きなんだ。私は気にいると引用する変な癖があるのですが(引用とはリスペクトの別称であります)、このBlogにおける最古の引用は野々原ちき『姉妹の方程式』からでした。ほら、割愛といってるのに、止まらない。

きつねさんに化かされたい!」、ボーイッシュ女子鷹尾望は、思い人山村祐樹に気持ちを伝えようとして、

この卒業式という晴れの日に!

高校の制服を脱ぎ捨てると

どうかな…
山村君

その頬を紅潮させて、

恥ずかしいけど…
君のためにこんな姿になったんだ

だからさ

ああ、もうこれ以上は私には書けない!

……

えー、試してみてよくわかりました。この、雑誌を読んでコメントを書くというスタイル。私には向きません。分量的に思ったことの半分も書けず、ちょっとだけフラストレーション。それ以前の問題として、なんだこの支離滅裂、人間には向き不向きというものがあります。

けど、男は度胸! 何でもためしてみるものさ。実際、こうして試してみて、よかったと思います。でも、よほどのことがないかぎり、これは続かないですね。

  • 『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号)

引用

  • 野々原ちき「メロ3」,『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号),177頁。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (東京:メディアワークス,2004年),78頁。
  • 三上小又「ゆゆ式」,『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号),10頁。
  • ms/hirahira.net「おまもりんごさん」,『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号),53頁。
  • うおなてれぴん「まん研」,『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号),103頁。
  • 桑原ひひひ「きつねさんに化かされたい!」,『まんがタイムきらら』第7巻第4号(2009年4月号),204頁。
  • 同前,205頁。
  • 同前。

2009年3月8日日曜日

はっぴぃママレード。

 私はこの漫画を見るときにはいつでもこんなことを思うのです。日本では確かに女子高生であるということは価値であるのかも知れないけれど、少なくとも私にとっては、36歳主婦であるときの相羽さなえの方がずっと魅力的です。いや、眼鏡だからじゃないよ。エプロンだからでもないよ。あの微妙に地味で、微妙にもっさりしたビジュアルが好きなんです。けど本人はじめ、さなえの夫丈史なんかも女子高生さなえの方が好みであるみたいで — 、ここでも私は少数派の模様です。でもいいんです。マイナーでも日陰者でも、強く生きていくって決めたんだ。などと馬鹿なこと思いながら読んでいる『はっぴぃママレード。』。主婦モード多めの回がくると、地味に喜びます。

けれど、メインはやっぱり女子高生モード。だって、まあ、この人から女子高生という属性を取っ払ってしまったら、ただの可愛い主婦になってしまいます。あくまでも相羽さなえ36歳主婦が、制服着込んで女子高生として高校生活を送っているという、その様子こそが漫画の肝で、そしてちょっと36歳とは思われない若作り — 、魅惑の女子高生そのもののさなえが振り回す息子武史とその周辺。べたにして王道のどたばた学園&ファミリーコメディ。学園ものでありかつ母子ものでもあるという、両要素がオーバーラップするところに、この漫画の味があるのです。

さなえに振り回される人、その筆頭はなんといっても息子武史であるのでしょうが、決して優秀な学生とはいえないさなえに対し、保護者のように振る舞う武史。テストの結果がまずければ勉強を見る、暴走するようであればつっこみを入れて落ち着かせる。あれこれ心配しつつ、世話を焼きつつ、けれど結局はつきあいのいい、理想の息子、そんなところに落ち着いていて、その仲良い母子の姿は見ていてほのぼのとさせるところがあります。私なんかも、わりと母子仲がいいんですが、それでもさなえ武史のようにはいきません。武史の、あきらかにマザコンではなく、けれど母によく付き合ってくれるというところなどは、世のお母様がたの理想なのではないかなあ。

そう考えると、武史に思いを寄せる茉莉花なども、理想的息子の嫁として捉えられるのか? いやいや、そう簡単にはいきますまい。

けれど、この漫画においては、武史、茉莉花の仲がうまくいって、茉莉花の兄が泣いて、という結末が非常にしっくりといきそうな、そんな雰囲気をかもし出していて、クラスメイトであるさなえと茉莉花。ふたりの仲はよく、そしてさなえはあくまでも惚れた男の母。制服さなえだと自然に、けれどエプロンさなえだと緊張して、こうした見た目の変化に微妙に影響される関係というのもまた面白さの一要素です。見た目に惑わされ、勘違いとともに妄想は暴走する。けれどそうした茉莉花は、きっとさなえとうまくやっていけるだろうなと思う。そうした、息子とその嫁ともいうべき関係も内包している漫画です。

そういえば、あとがきにおいて描かれなかったさなえ、そして武史の表情を見るに、ああ世の母というものは、息子に惚れられたいとさえ思うものなのかも知れない、そんなこと思いました。もちろんそれは、息子にとっての理想の女性像、それが私ならどんなにか素敵だろう、そうした願望であって、それ以上ではないとわかっているのですが、けれどそうした願望のあるがために息子の嫁には嫉妬ないまぜの厳しい視線を送る。というのが相場であれば、茉莉花という存在は、その相場どおりの敵対感情を回避しうる、ひとつの希望であるのかも知れません。

などと、まあ、馬鹿なことばかり考えながら読んでます。

2009年3月7日土曜日

ひかるファンファーレ

 まさか、このタイミングで『ひかるファンファーレ』が単行本化されるだなんて、まったく予想だにしていませんでした。昨年末に『うらバン!』が発売されて、やあ嬉しいなあと喜んで、そしてたまたま眠らせていた楽器を復活させた、それが大きかったのでしょうね。勢いで『ひかるファンファーレ』についても書いた。そしたらなんと単行本化ですよ。わあ、早まった。そう思った。思ったんだけど、まあ何度書いてもよいものはいいよね、ってわけで、『ひかるファンファーレ』は本日発売です。実をいうと、待ちに待った気分。早く今日という日がこないものか、心待ちにしていた。それは、またこの漫画を頭から読み返したい、その一心であったのですね。まずはそれが叶ったこと、それを喜びたいと思います。

『ひかるファンファーレ』は吹奏楽部にてチューバを吹く女の子、山田ひかるが主人公。背が低いのに、なぜかチューバに抜擢された。現実問題として、女の子がチューバに回されるなんてそうそうないよな、って書こうと思ったら、作者がチューバ経験者らしい。って、うわあ、こんなことありえないなんて、知ったようなこと書いてなくてよかった。というか、作者は女子校出身ですか? けど実際、女性で中低音管楽器をやる人なんてざらにいるものなあ。楽器解体全書でも、チューバ吹きには小柄な女性も多いんですよといわれているから、『うらバン!』鈴杉冬美や山田ひかる、彼女らは別に珍しがられるような存在ではないのでしょう。ということで、反省しました。一種偏見を持っていたことを反省しました。

この漫画には、作者の経験談が生かされているという話です。おそらくはそのためなのでしょう。ああ、これはあるあると共感できるような話があちこちに見られまして、私にとっては荷台乗車が実にそんな感じ。トラックの荷台に人を乗せるのは本来なら法律に反するのですが、道路交通法第五十五条に定められているとおり、当該貨物を看守するため必要な最小限度の人員をその荷台に乗車させて運転することができるんですよ。しかし、トラックの荷台は最悪の乗り心地です。発車停車のタイミングがわからない。いつ曲がるかもわからない。そのたびに揺れ、動く大量の楽器。そのほとんどは固定されているとはいえ、すべてがそうだとは限らない。よって、押し寄せる楽器に翻弄され、現地に到着するころにはもうへとへとになっている。私は短時間の乗車経験しかないけど、数時間乗った人に聞けば二度とごめんだという話。大荷物を運ばなくてはならない、しかもどれもこれも変なかたちをしたケースに入ってるものですから、安定しない。そんな荷台に荷物もろとも放り込まれて、大変な目にあったという人もきっと少なくはないでしょう。つうか、こうしたことも恒例のイベントとして楽しんでいたような気もします。ひどい目にあいながらも、それを楽しんでいたのです。

恒例のイベントといえば、定期演奏会があって、青少年コンサートがあって、高校野球の応援があって、吹奏楽コンクールがあって、秋には地区の合同演奏会があって、文化祭での発表があって、あとは体育祭の入場であるとか、卒業式での校歌演奏、そして年度が変わって、入学式、新入生歓迎会、こうして振り返ると結構イベント盛り沢山ですね。他にも、西京極球場でマーチングやったこともあった(砂ぼこりが嫌だった)。国体のファンファーレもやったっけ(池谷選手、西川選手がきてたはず)。あと、人によってはアンサンブルコンテストに出たりもして、とにかく忙しかった。吹奏楽部には、盆暮れ以外に休みはないのですよ。けれどそれは充実していたということでもあるのでしょうね。『ひかるファンファーレ』を読むと、そうした昔を思い出して懐かしくなります。

吹奏楽コンクールは、吹奏楽部における夏の一大イベントであります。私の住んでいた地域では、まず府大会があって、次に地区大会、そして全国大会と続くのですが、ええと、私たちの夏は府大会で終わるのが恒例だったよ? 姉の代では府大会で銀を取ったそうですが、私は銅ばかり。いや、中学の頃に一度だけ銀を取っているはず。って、こう書くとまるで府のベスト2ベスト3を争う強豪校みたいですが、実はそうじゃない。吹奏楽コンクールの賞は上位3団体のみに与えられるものではないのです。

金銀銅は演奏の善し悪しによって与えられるのですね。たいへんよくできましたが金、よくできましたが銀、銅にはふつうですがんばりましょうが含まれます。きっと、がんばりましょうだったんだろうなあ……。というのは置いておいても、私たちにとっては夢の関西大会、参加したこともあるんですよ。ええと、スタッフとしてですが。私は舞台そば下手側出入口のドアを守る係であったのですが、なんの手違いがあったか知れませんが、楽器の搬入をちょうど私の守る出入口からすることに急遽決まって、おかげで打楽器類、大型楽器を大量に搬入することになって、いやあ、あれは大変でした。けど、それもまたいい思い出です。懐かしいなあ京都会館大ホール。

バイトの話はどうでもいいんですが(もちろん個人にお金は入りません)、吹奏楽コンクールの独特の緊張感、あれは今思い出しても格別のものがあって、リハーサルは別館で一回通してバランスを見る程度。つまり、ホールで吹くとどうなるかは本番にならないとわからないのです。その一発勝負のドキドキは、定期演奏会の非じゃないね。いや、定演は定演で緊張するんだけどさ、けどまだなごやかな雰囲気もあったりするわけですよ。でも、『ひかるファンファーレ』にもあったように、コンクールは分刻みでの進行です。別館であわただしく最終調整をして、その後、楽屋に移動、人がいっぱいで座ることさえできやしない、そんな場所でざっとチューニングの確認をして、そしていよいよ本番です。案内されるままにステージにのぼり、着席、チューニングという名目の音響確認。そして、演奏が始まる — 。

二年生の時に、ソロをやったんだわ。大ホールの向こうにどんどん音が吸いこまれていく、そんな感覚に、ああ、非力だなあって思ったことを思い出します。そして、終演後の講評、ソロについての言及があって嬉しかったなあ。もうすっかり忘れていたような話。けれど、こうして思い出せば、まるでついこのあいだのことのよう。思い出さえ鮮かなのは、きっと『ひかるファンファーレ』のおかげ — 、いや、すんません、漫画に関係ないことばかり書いて、しかもこんな無理矢理なしめに持っていこうとして。けれど、こうして昔を思い出してしまうのは、『ひかるファンファーレ』に描かれることが、あまりに身近と感じられるからというのは本当です。もちろん漫画だから、フィクションだから、すべてをそうそう、あるあるとは思わない。けれど、そうした漫画の表現のなかには真実も沢山あって、それはただ私も経験したから、よくある話だから、という域にはとどまらない。まさに今、ひかるをはじめとする彼女彼らの場において生起する、そのような息衝きが感じられて、だから私はこの漫画にいいようもなくひきつけられるのでしょう。廃業したはずの管楽器に復帰しようと思った、そのことに『ひかるファンファーレ』、それから『うらバン!』も、まったくの無関係であるとは思えないのです。

引用

2009年3月6日金曜日

据次タカシの憂鬱

 主人公据次タカシは元ニートのアルバイター。これでは駄目だ、駄目になってしまうと一念発起して、ファミリーレストランのバイト募集に応じたのだっ! というのはちょっと嘘。もう養ってられないよと母ちゃんに愛想尽かされて、仕事を探さないではすまなくなった。しかし、なんとしてもニートの座に返り咲きたい。落ちるつもりで受けたファミレスのバイト募集にうかってしまってさあ大変。期せずして女性だらけのファミレスで働くこととなってしまった据次タカシの苦悩。あらゆることが裏目と出る、しかも誤解から評価は上がるばかり。そんなちぐはぐな据次タカシの状況が切なくも面白い。しかし、妙に据次タカシの気持ちがわかる自分というのはどうなのだろう……。なんか奴の気持ちがわからんでもない、ああ、わかる、わかるよと思いながらも笑ってしまう、『据次タカシの憂鬱』とはそうした漫画であります。

しかし、奴のなにがわかろうというのでしょう。それは、やっぱり過去の思い出よなあ。人生思うようにいかないのは当たり前。そんなことはわかってるんだけど、ただ普通に、なにごともなく、ただ静かに日々を送りたいだけだっていうのに、それがかなわない学生時代。放っといてくれ、そう思ったことは一度や二度ではないものなあ。もちろん今の据次タカシ的に放っといてくれではなくて、昔の据次タカシ的に放っといてくれです。お願いだから、構わないで欲しい。世界の片隅でひっそりとしていたいだけだというのに、なぜ不運は真ん中にではなく、そのすみっこめがけて落ちてくるの? 生きづらい少年時代でした。

据次タカシにおける、過去の嫌な出来事。そしてまんまネガティブな人生観。その説得力はいったいどうしたものか。とりあえず謝ってしまうのは、自信のなさなんだろうなあ。そしてその自信のなさは、過去のもろもろが作ったんだろうなあ。なにか幸運があっても、いや、自分に限ってそんなラッキーがあるなんてありえない、自らチャンスを駄目にするほどにネガティブ。しかしそのネガティブの権化みたいな据次タカシが、ことこの職場においては、いや職場というよりもスタッフ、とりわけ店長というべきか、まったくもって違うのです。やること、ことごとくが裏目に出ることにはかわりないのだけれども、裏目に出てかつそれで上昇基調。しかし普通なら、特に上昇志向が強い人、場の中心にいたいと思う人ならなおさら、そうしたことごとはラッキーであるはず。でも、上昇志向に欠け、中心になんて出たくもない、そんな据次タカシには不運でしかないという、そのギャップが面白さなのでしょう。

けれど、思いがけない行動、それも本来なら好ましくない行動、逃避みたいなことね、そうしたことが結果的に状況を好転させ、しかも体を張ってやりました、みたいになって、男を上げて、みたいな漫画はわりとあります。それって、間が悪い人にとっての理想、憧れのシチュエーションなんだろうか、などと思うことはあるけれど、こと据次タカシに関してはあんまりうらやましくはないかなって思う。だって、結構いいシチュエーションに置かれてるといえばそうかも知れないけれど、ハーレムに見えてハーレムでないし、結果的にでもいい目を見てるってことがそもそもないし。それに普通この手の漫画だったら、なんのかんのいってメインヒロインといい雰囲気に、なんて方向に向かったりしそうなものなのに、もしかしてこの漫画に関しては、それはない? それらしい雰囲気は出ても、それは思い違いなのではないか? そう思わせる条件が設定中に用意されているという不運。でも、そうした不運、微妙に報われないというところも含めて、この漫画の面白さなのだと思っています。

ですが、据次タカシ、あの店で五年も勤め上げたら、一人前になれそうな気がします。そうした更生、というか成長か、伸びる可能性も感じさせないではない。そんなところもあるから、不運設定を受け入れられるんじゃないかなとも思って、そもそも有名進学校に通っていたってところからもポテンシャルはありそうな人です。でもきっと勉強ぐらいでしか逆転の目がないと思っていたところに挫折が重なって、それで完全に頑張る気力を失ってしまったんだろうなあ。こんな人って現実にも多いような気がします。だからこそ、据次タカシには頑張って欲しい。なんてむやみやたらと期待する人がいるから、結果的に彼を追い詰めてしまう。世の中とは、実に難しいものでありますな。

  • あどべんちゃら『据次タカシの憂鬱』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2009年3月5日木曜日

K. Yairi LADY BIRD

K. Yairi Lady Bird私がメインで使っているギターは、アストリアスDなのですが、もちろんこれ以外にも何本かギターを持っていて、場面場面で使いわけています。例えばDは重いので、持ち運びには軽いフラメンコにする。もっと気楽な、それこそ遊びなんかでは、もっと軽いものにする。そういった具合に、持ち運びやすさを重視した楽器も持っているのです。ただどうしても軽い、小さいとなると、鳴りもとぼしくなってしまうので、舞台で使うには向かなくなりますけど、まあそこは割り切って使えばいいんです。飲み会、ちょっとしたパーティなど、大きな楽器だと大げさと感じるような場面にはうってつけの楽器、それはK. Yairi、ヤイリギターのLADY BIRD。本格派ミニギターとの触れ込みで販売されていた楽器です。

ただ、残念なことに、もう作ってないみたいなんです。コスト、収益の面で撤退を余儀なくされたらしく、しかし残念です。小さなボディ、ネックも短くて、持ち運びには最適。ケースは、充実の布ケース、っていうか、本当に簡素な布袋が付いていて、楽器の保護を考えるとちょっと不安ですが、まあそんなに神経質になるようなギターじゃないと、ここでもまた割り切って、その布ケースにギター突っ込んで、あちこちに持ち歩いていました。一時は職場に、あるいはオフ会に、打ち上げに、餃子の会に、そして結婚式の二次会に、とにかくちょいと引っ掛けて、簡単に持ち出せる、その気楽さは他の楽器の追随を許しません。

ただし、鳴りはそれなりですよ。大きさのわりには鳴るんですが、それでも限度があります。ボディは薄く、軽く、ともない音も普通のギターに比べればずっと軽く、また弦長も570mmと短いですから、その点でも不利ですよ。ギターと思って弾いたら、ちょっとがっかりするかも。けれど、こういう楽器だと思って弾くなら、問題はありません。音量が小さくても、音に張りがなくとも、弾いているだけで楽しくなってくる。そんな気安さのある楽器なんです。気張らず、ぽろんぽろんと爪弾いて、歌の伴奏でもすれば、それはまたひとつの世界ですよ。そのこぢんまりとしてやさしげな響きは、差し向かいで歌って聴かせる、そんなシチュエーションにマッチして最高です。

この楽器の発売されたのがいつか、それはちょっとわからないのですが、Wayback Machineで見てみたところ、1999年にはすでに出ていたことがわかります。当時29,800円。それが、Wayback Machineに残る最後の記録、2006年12月には31,290円になって、けどこの価格差は税別と税込の違いです。つまり値上げしてないんですね。値上げしないからこそ立ち行かなくなったのか、それとも他に要因があったのか、そこらあたりはわかんないけど、こうした身近にあって楽しい楽器が入手しにくくなるっていうのは、やはり残念なことだと思います。

正直、これに対抗できるのは、FERNANDESのZO-3(実は芸達者が欲しい)かPIGNOSEあたりになるのかと思うんだけど、純アコースティックとなると、K. YairiのNocturneとかYAMAHAのギタレレあたりになるのかなあ。どちらも、LADY BIRDとは違うんだよなあ、代替にはならないんだよなあ、なんて思うくらいに、それぞれが個性的で、だからこそ、ひとつの個性が失われたことが残念なのですね。

  • K. Yairi LADY BIRD

2009年3月4日水曜日

スペースインベーダーゲーム筐体型バンク

 私はタカラトミーのファン、ってわけでもないのですが、せんせい買ったり、リモコンカー買ったり、ミニカー買ったりしたからみで、メールマガジンを購読するようになっていまして、そして今日届いたメール、それが実に奮っていました。なんと、スペースインベーダーのゲーム筐体を模した貯金箱が出るらしい。見た目は、まさに子供の時分、街の喫茶店に見たテーブル筐体そのもので、これが百円入れると、実際に遊べるというすぐれもの。ああ、これは面白いなあ。お金いれると遊べる貯金箱は、今やもう珍しいものではなくなっているけれど、ノスタルジーに訴えるという、そこが面白いなと思って、もし私がこれのターゲットとなるような世代であったら、きっと買ってたろう、そう思わせるものがありました。

ターゲットとなる世代というのは、いったいどれくらいであるか。このゲームのリリースされたのは、1978年であったといいます。そしてブームを作り出したのは、サラリーマンが中心だった。つまり今の四十代五十代あたりが直撃世代であるのでしょう。若い頃、ゲームセンターに通いつめた。彼女を待つ喫茶店で、営業をサボって喫茶店で、ゲームに没頭したという人もいるのではないでしょうか。私の幼い日の思い出に、うちからちょっと離れた喫茶店、窓際席がこのテーブル筐体で、プレイヤーを待つインベーダーどもが、右に左に動いて、けれどプレイしている人は見たことがない。それは、子供の時間と大人の時間が違っていた、すみわけがはっきりしていた当時のゆえかも知れません。父といったスーパーマーケット、ニチイのすみのゲームコーナーで、1プレイだけ遊ばせてもらったこともありました。あっという間に全滅させられてしまうのだけど、子供にとっては馬鹿にできない百円という金額があっというまに消える、その様をずいぶんな贅沢だと思ったことを思い出します。

ちょっと懐かしい昭和を懐古させてくれる、吉田美紀子の『70's 愛ライフ』でも、インベーダーゲームの狂乱が描かれたことがありましたっけね。この漫画を読むと、ああそんなこともあったっけねえ、懐かしさに目を細めてしまう。けれど、これは私より少し上の世代の人たちの話であるなというのもわかります。私を直撃する懐古ものというと佐波まおの『物持ちがいいにも程がある』でありますが、これも厳密にいうと若干上。『70's 愛ライフ』が私より十年、『物持ちがいいにも程がある』は五年ほど上の世代。共感性という点では後者だなあ。でもどちらも好きなんだよ、っていうのはまあ別の話。

ある程度年がいくと、若い頃をしみじみと思い出したくなるものなのかも知れません。青春のころ、自分という物語の主人公を夢見ることができた頃。そんな時代もあったねと、悲しかったことも辛かったことも、笑って話せるようになった今だからこそ、若かりし日を(ある意味、無責任に)懐かしむことができる。その人たちが人生の主人公を降りただなんて思わない。けれど、私の人生の中では私が主人公だと、あらためて気付くのは、こうした忘れかけていた青春の輝きを思い出すときなのではないかとも思うんです。ああ、俺、若い頃、ミュージシャンになりたかったんだよ。実家に電話をして、母さん、俺のギター、まだ置いてあったっけ — 。

ゲーム筐体貯金箱がそうしたきっかけになるかはわからないけど、昔を懐かしむのは、後ろ向きな営為でなく、時に前向きな気持ちを思い起こさせるものであるかも知れない。これは事実だと思います。だから、もしかしたら、もう五年から十年ほどして、私の世代を直撃するこうしたなにかが出てきたら、買ってしまうのかも知れないなあ。そうしたら、その時、私はなにを思い出すのだろう。まだ来ぬ日のことを思います。

2009年3月3日火曜日

テルミンPremium

 今日、ちょっと阪大にいってきました。いやね、21世紀懐徳堂というところでテルミンのイベントがあったのですよ。テルミンといえば、学研の雑誌が一大ブームをまきおこしたことも懐かしい。私も楽しみにして、発売日に買って、遊んで、熱を出して、気付いたら壊されてた……。そんなこともあったなあ、など、いろいろと思い出して、せっかく関西であるイベントです、ちょっといってみようではないかという気になったのでした。仕事を終えてから、阪急電車で石橋、大阪大学へと向かいまして、そして会場に入るとテルミンが三台。いや、それに加えてもう一台あったのです。それは、学研のテルミン、テルミンPremiumでした。

新しいテルミンが出ているというのは、ちょっと前に、なんだったかで偶然知って、その時にもちょっと欲しいかななんて思っていたんですね。以前の、付録の赤いテルミンとは違い、今度のは結構本格的、音量をコントロールするアンテナも付いています。スピーカー内蔵。以前、サイトを見た時には、あんまり情報が出ていなくて、外部出力できるかどうかがちょっとわからなかったんですけど、ちゃんとできるんだそうです。さらには、アースもとれるようになっていて、結構な充実じゃん。欲しいかもなあ、なんて思っていたんです。

そのテルミンを、今日図らずも見て、そして実際に鳴らしてみて、ああ、こりゃ面白いよ。赤いテルミンのワイルドな響き(フランス人から、モーターサイクルのようだといわれたんでした)とは随分違っていて、あの、ひゅー、というテルミンらしい音が出ます。もともと欲しいかもと思っていたところに、実際のものを見ればなおさら欲しくなるのも自然な話で、現在ちょっと悩み中。けどなあ、楽器ばっかり増やしてどうするよ。ひとりさみしくサックスの次は、ひとりさみしくテルミンか? そうした気持ちもあるんだけれど、でもなあ……、と、もうちょっと迷っておきたいと思います。

今日のイベントで、菊池誠(テルミニスト)さんのレクチャー、というかトークがあったのですが、そこで、最もテルミンが盛んな国は実は日本なのだ。最も普及しているテルミンは他ならぬ学研テルミンであり、あれが二十万ほど出た、世界中のテルミンの大部分があれ、すなわち世界で最もテルミンを売ったメーカーは学研なのだ、云々。そして、ヨーロッパでしたかで、日本であれほどにテルミンが流行るのはなぜなんだという疑念が出た、そんなような話もあったのだそうです。

国民性なのか、環境なのか、それは知りません。それこそ、このあいだちょこっといってましたけど、日本人の猫好きは特筆もの、そんな話であるようなんですね。日本人は猫とテルミンが好き — 、そういえば、ネコにテルミンというサイトがあったような……。閑話休題、関西には世界最大のテルミン愛好会があるともいいますし、所属するしないは別としても、練習会に顔を出すとかしても面白いのかも知れないなあ。こうした機会があるというのはわるくないかも、なんて思えるのはやっぱり興味があるからなのでしょう。ということは、やっぱ買ったほうがいいのか? などと、迷っているふりをしておきたいと思います。

2009年3月2日月曜日

ヨメけん — お嫁さん研究クラブ

 今日は3月2日。気付けば、もう3月なんですね。私の1月2月はいったいどこに消えたのだろう。日々がその実感を手に残すことなく、ただただ流れ去るばかりであるのは、きっと私が今を生きていないからだ。生ききっていないからだ。そんなことを考えながら、この数日を過ごしていました。なんとかしないといけないなあ。そう思っては、場当たり的にいろいろ思い付いては、ああ、駄目だ、否定して、けれどなにか打って出ないことには始まらない。そう思っていた矢先の『まんがホーム』4月号、楽しみに読んでいる『ヨメけん』にちょっと動きがありました。

今回はいきなりネタばれからスタートしますので、読んでいない人、連載を楽しみにしている人は、ここで帰ってください。

(画像はほへと丸『ひだまり家族』)

ヨメけんの解散 — 。ルイからひなた先生に突き付けられた最後通牒を受けて動き始める、そんな回でありました。見た目は清楚で、いかにも出来た女性であるひなた先生。しかしその実態は、見掛け倒しというほかないほどにお粗末。しかし同僚教員に事実を知らせるわけにはいかなかった。ヨメけんは、そんなひなた先生の事情から作られた部でした。家事技能の向上を図り、ひなた先生を見た目に恥じない立派な女性に鍛えあげる。

けれど、いつしかひなた先生は当初の趣旨を忘れて、安穏とした今に安着してしまっていたのですね。

私には、この一年、折りにふれては思い出してきたフレーズがありました。それは、忘れもしない一年前の昨日。日記に残るそのフレーズ、頑張れない自分を励ましたい時に思い出し、前に進む勇気を奮えない時に思い出し、しかしいつしか慣れてしまったのでしょうか。気付けば、安穏とした今に安着してしまっていました。このまま時間を過ごせば、じりじりとなんの手も打てないまでに状況は悪くなる。そんなことはわかってた。けれど、わかっていながら、ただ今を浪費していたのですね。

そんな私に、リフレインとして届いた言葉がこれでした。

日常を変える時って
すごくエネルギーいるけど

一度変わった日常は
いつかなじむものなんだよ

このように続きます。

だから大丈夫

先生も頑張ればきっと
自分を変えられるよ

ああ、私は頑張ってなかったよ。そう思って、なさけなくなりました。私はひなた先生に似ているのです。決意し、いつしかそれを忘れる。最後通牒突き付けられるまで、忘れていることにさえ気付かずにいるんです。そして、気付いて、うちひしがれて — 、けれどひなた先生はそこから一念発起する。そこが先生の、そしてほへと丸という人の健全であると思うのですね。

上記の引用は、転校していくカナの台詞でした。変化することを怖れない、そんな真っ直ぐな姿勢が眩しくて、そしてそんなカナはひなた先生を信頼していたのでしょう。そうした気持ちが伝わってくるものだから、あの言葉を見た時は、泣けて、泣けて、そして今日、カナの言葉のリフレインを受けて、やっぱり泣けました。時にくじけてしまう、そんな弱い心を支え、力づけてくれる言葉というものがあります。私にとっては、カナの言葉は間違いなく、そうした言葉のひとつで、今またこうしてカナの言葉に向き合うチャンスを得た。その仕合せに、心から感謝したい気持ちでいっぱいです。

私に先駆けて動いてみせたひなた先生。私も、負けじと動いていきたいと思います。はたして、どれほどのことができるだろう。それ以前に、なにをどうしたものか、それさえわかっていないという状況です。けれど、進むべき先がわからなくとも、目を瞑って、今にうずくまっていることにくらべれば、ずっとましだ。そう信じ、動き続けることをあきらめないでいたいと思います。少しずつでも進んでいきたい、その気持ちを忘れないようにしたいと思います。

しかし、ひなた先生は愛されてるなあ。そこは先生と私の、全然違っているところであります。私も、ルイのような、肝心な時に叱ってくれる人が欲しいものだ。こんなこといってるから駄目なんですけどね。でも、ほんと、ルイはしっかりして情の深い、いい人だと思います。

  • ほへと丸『ヨメけん — お嫁さん研究クラブ』

引用

  • ほへと丸「ヨメけん — お嫁さん研究クラブ」,『まんがホーム』第23巻第4号(2009年4月号),89頁。
  • ほへと丸「ヨメけん — お嫁さん研究クラブ」,『まんがホーム』第22巻第4号(2008年4月号),91頁。

2009年3月1日日曜日

にこプリトランス

 うん、ああ、なんだ、素晴しいな『にこプリトランス』。本当に面白かった、本当にいい話だった。あのラストに向かう激動、怒涛の展開にはわくわくさせられっぱなしで、しまいには度肝を抜かれる始末。そうかあ、これまで語られてきたことは、こういうかたちで決着させられるわけかと、ちょっとにやにや。しかし、おそろしいほどの多幸感ではないですか。思えば、あれだけ登場人物があって、その誰もが一癖二癖ある、そんな人たちであったというのに、みんなすごくいい人って感じられる、そうしたところなどは最高で、だからなんでしょうね、終盤、次々とカップルが成立していく、そこに、えーっ、と思うような、その組み合せはいやだー、と思うような要素は皆無でした。カップル成立のたびに、心から祝福する気持ちになれた。架空の人たちだというのに、そうした気持ちになれる、それほどの身近さがあった漫画。本当にいい漫画、大好きでした。

しかし、そうした幸福の影にちょっとせつなさがあった。そうしたところも、また私の心を捉えたのです。アンドロイドのせすとりんす。彼らの気持ち。とりわけ、普段明るく振る舞っているせすの気持ちがせつなくて、ちょっと泣けた。騎士の寂しさが消えたら、自分の役目も終わるのではないだろうか。そんなことを考えている娘でした。いつも騒動の中心にあるかのような、勢いと華やかさを兼ね備えた娘だけど、その実、どこかに疎外感を抱いている。自分は、あくまでも異質なものなんだって思っている。この人たちに真実混ざり合うことはできないと、そんな冷静さを隠している。選ばれることはないし、選ばれてはいけない。負い目だったのかなあ。そうした心情がまれに浮かび上がることがあれば、それはそれは切なさをかきたてて、もうたまらなかったです。

だから、あの最終話はよかった、心から思うのでした。人というのは、お前はここにいてもいいのだと、そういわれるだけで仕合せになれるものだと思うのです。私はここにいてもいいのだろうか、そうした疑問を持っている者ならなおさらでしょう。だから、あの最後の場面に向かおうとするページは沁みました。答こそは描かれなかったけれど、しかしこの物語を追ってきたものなら、あえてその場面を必要とはしないでしょう。もしかしたら、ふたりは、自分が皆に秘密を持っているということを、気詰まりと感じていたのかも知れない。けれど、そうしたわだかまりさえ消えてしまえば — 。

この漫画は、承認を与え、そして得るという過程を描いてきたのかも知れない、そのように思ったのでした。個性的な人たち、みんな決して優等生じゃない。人見知りがはげしかったり、人物紹介にちょっとばかって書かれるほどだったり、ここぞというところで弱気だったり、要領がとにかく悪くて空回ったり、けれど誰もが皆ちゃんと承認されている。最初は、なんとなくいがみあうようなこともある、そんな間柄であったのに、いつしか、大切な友人として承認し、承認されて、頼りにして、されて、それはただ役に立つからだけでなく、その人が仕合せなら私も嬉しいと、そう思えるような間柄にまでなっているのですね。ああ、白雪しおんの漫画を読んで感じる幸いとはこれであるかと思った。人というものに対する優しさがある。人の気持ちを蔑ろにすることがない。大切なあなたの気持ちは、私にとってもかけがえのない宝であるのだ、そうしたメッセージが、漫画の、表現の向こうから聞こえてくるようで、そうか、だから私はこの人の漫画に描かれる世界が、人たちが好きなのだ。そう思った。ただ、好きだから、好きというわけではなかったのだな。ようやく気付けたように思います。

たとえあなたが私たちとは違う異質ななにかであっても、私たちはあなたを愛している — 。そうした大きくて深い情愛が素晴しい漫画でありました。願わくば、私もそうした情愛を持つひとりでありたい、そんなことを思わせる、素敵な漫画でありました。

蛇足

あー、笹はどうなんだろう……。でも、笹は愛されてると思うんだ。あの姉からも、そして作者からも愛されてると思うんだ。

ところで、人物紹介におけるせす。マーメイドライン? スレンダーライン? 詳しくないんですけど、いや、ただただ綺麗だなあと。本当にただそれだけ。

  • 白雪しおん『にこプリトランス』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 白雪しおん『にこプリトランス』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 白雪しおん『にこプリトランス』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 白雪しおん『にこプリトランス』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。

引用