2007年4月30日月曜日

イタリア・マフィア

 世界というのは、私が知らなかっただけで、ずいぶん剣呑であるのだなと思いました。いや、それでもさすがにこの世は清浄で、信頼と友愛を絆に、権利をお互いに尊重しあうばかりであるなんてことは思いもしていなかったんですが、けどそれでもここまでとはね……。権力、利益を拡大させるためには犯罪も辞さず、なにかことあらば暴力に訴える組織がおおっぴらに存在し、しかもそれを取り締まるべき国家が無力であるという事実。政治の腐敗は目に余るばかりで、裏取引があればまた傀儡といっていいくらいにまで癒着している政党がある。民衆はというと恐怖に屈し、本来は民衆の味方であるはずの警察、憲兵に協力しないばかりか逆に売る始末。これ、一体なんの話かといいますと、イタリアのマフィアでありまして、ピエルサンティの『イタリア・マフィア』によると、マフィアはイタリアのみならずヨーロッパからアメリカにまで手を広げ、その扱うものは武器、麻薬といった非合法の物品に始まり、果ては金融にいたるまで。マフィアというのは荒っぽく立ち回るだけのものだと思っていたんですが、いやいやとんでもない話。この本読んで、正直ぞっとしました。こんな恐ろしい組織が、それこそ普通に存在しているのかとあぜんとする思いでした。

ずいぶん以前の話ですが、イタリアにいこうという直前のこと、海外によくいくという友人に聞いてみたのです。イタリアっていうのは危ないのかねって。そうしたら即座に危ないよって返事があって、けどその人はシチリアにいったりもしていた人で、シチリアに比べりゃそりゃましかもねともいってました。そう、シチリアといったらマフィアの本場で、石を投げたらマフィアに当たる(きっと命はないな)というほどにマフィアだらけといった人もいるけれど、けどこのマフィアっていうのは、互助組織みたいなものだからそんなに怖れるようなものでもないのだという人もいて、けど実際のところはどうなんだろうなあって思ってた。

ってのはですね、海外には人形を使って放送されるニュース番組というのがあるんだっていいますよね。これ、子供向けとかそういうんじゃないんです。なんで人形が使われるのかというと、出演者、関係者を特定させないための配慮であるというそうで、こうして身元を厳重に伏せたうえで報道されるのはマフィア関連のニュースなんだそうです。そう、身元がわかると報復されたりするんですよ。まあ端的にいうと殺されるんですが、私が以前テレビで見たそうした話では、報道関係者がやっぱり殺されていて、それも天下の往来で殺されていて、しかしそれでも報道は続けられる。これがジャーナリズムというものかと思って、肝を冷やしながらも、その覚悟には敬意のようなものを感じたものでした。

でも、こんなの過去の話だと思っていました。けど、どうもそうじゃないらしいんですね。『イタリア・マフィア』を読んでいると、その事例のほとんどは1960年代から1970年代くらいで、ずいぶん昔の話だなと思っていたんですが、いやいやそんなもんじゃなかった。確かにマフィアが死をふりまきながら暴れ回った時代こそはそうしたの話でありますが、裁判は1980年代、1990年代にも逮捕、捜査は引き続いておこなわれており、そして何人もの捜査官が報復により殺されている。暗澹たる思いですよ。いや、ほんと、本読んでるだけで、この世には神も仏もないなあって気になれます。社会正義を胸にマフィアに立ち向かおうとする人たちが、現れては消えてゆく。銃殺、爆殺。対マフィア捜査官に任命されるということは、そう遠くないうちに殺されるのだということを宣告されたに同じという現実があり、けれどそれでも社会のため、公益のため、正義のためにと職務につくも、全うできずに消えてゆく。政治絡みの妨害、内通者、白昼堂々の犯罪でありながら目撃者も協力者も存在しないという、本当に砂を噛むような思いを追体験できる。それでも、本読んでるだけの私は命を危険にさらしているわけじゃありませんものね。と思うと、自分の命を投げ打つ覚悟でマフィアに立ち向かった人の崇高さというのは一体どういうものかと思うのです。

神も仏もない。バチカンがマフィアと癒着しているという状況の語られるにいたっては、そうした慣用句がもはや比喩にとどまっちゃいないよなあ。バチカン銀行を使って、麻薬密輸などの非合法活動によって得た巨大な資金を洗浄しているんだそうですね。でもって、バチカンと癒着しているばかりか、政治との癒着も甚だしくて、七度首相を務めたアンドレオッティがマフィアと癒着(というか、マフィアそのもの?)していたかと思えば、ついこないだまで首相をやってたベルルスコーニもマフィアとの関係を疑われるなど、この問題は長く、まさしく今の今まで続いているのだと感じさせて、だとしたら今私たちが見ているのはつかの間の平穏なのかとも思わせて、がっくりとする思いです。

以上は、思いつくままにに書いたもので、本に記されたことのごく一部、それこそ表面をなぞるだけに過ぎません。本書では、マフィアという組織について語られ、そしてマフィアとの戦いについてが語られ、そしてさまざまな組織機関との癒着が語られ、それらは時に前後して語られるために時系列がわかりにくくなることもありますが、けれどそれほど難しく、ややこしく書かれているわけではありません。現状、これを読んでみて私の中に問題めいたものがあるとすれば、こうした一連のことをこの一冊で判断してよいものかという疑念でありまして、それはつまりこの本に書かれていることがにわかには信じがたいといっています。本当にこんなに強烈なのか。本当に、これほどの組織が大手を振って、我が物顔に活動しているのか。どこまでを真実として諒解すればいいのか、あるいはすべて? そうしたことを判断するには、あまりに私の知識は少なすぎます。

そして、またこういう感想を持ったことも書いておかねばならないと思います。果たして、これらイタリア・マフィアについて、他人事のように感じていられるものなのかということです。

先日、長崎市長が銃撃されるという事件があったことはきっとご存じでしょう。あの事件は、その動機としては個人的怨恨(それも逆恨みめいたもの)であるように報道されていますが、しかし怨恨を抱くにいたるまでのあいだに、対行政暴力が存在したともいわれています。そしてこうした暴力は、長崎に限らずこの国のいたるところで起きているというようにも報道されていて、そうした国に暮らし、そうした暴力に無関心でいた日本人は、果たしてイタリア人のことを他人事のように批判、非難することはできるのだろうかということです。

イタリア・マフィアは映画『ゴッドファーザー』でもって一躍アンチヒーローないしはダーティヒーローめいたオーラを纏うにいたりましたが、それは日本の暴力組織においても似たようなもので、どこかにアウトローとしての格好良さというのが付随しているように思います。ですが、現実はというと決してそんなきれい事で語れるものではないというのは周知のことで、ですがそうした事実を前にして戦うことはできるのか、真っ向から立ち向かうことができるかといわれると、足のすくむ思いもします。

だから、おそらくは、『イタリア・マフィア』に書かれていることというのは、私たち日本人にとっては遠い世界のように感じられるものの、違った側面においてまったく同じ状況にあるということなのではないかと思います。ここに書かれたことを他人事のように感じていてはいけないのではないかと感じます。

  • ピエルサンティ,シルヴィオ『イタリア・マフィア』朝田今日子訳 (ちくま新書) 東京:筑摩書房.2007年。

2007年4月29日日曜日

J. S. バッハ : 無伴奏チェロ組曲全曲

 ロストロポーヴィチが亡くなりました。享年八十歳。まあ、お歳だもんなあとは思ったのですが、けれどショックはショック。私が昔聴いて親しんでいた名前がこうして一人一人鬼籍に入っていくというのは、ただただ寂しく悲しいことであろうかと思います。これが世の理りとはわかっていながらも、やっぱりね。悲しさとか痛ましさというようなものは、そこにたとえどういう理由や理屈があったとしても、消えるものではないと思いますから。ロストロポーヴィチといえば、私、ずっと欲しかったものがありまして、それはLDであったのですが、J. S. バッハの『無伴奏チェロ組曲』を収録したもの。演奏があり解説がありという、その解説に興味があったのです。けど、私はこのLDは結局買うにいたらず、DVDになってくれたらなあと思っていた頃にはDVD化せず、私がDVDから離れている間にDVD化して、今はもう入手困難になっているという、一体なんなんでしょうねこの縁のなさは。

私が大学にはいって、サクソフォンの授業、最初に渡された曲というのがバッハの『無伴奏チェロ組曲』だったのです。もちろん編曲もの。それも、結構編曲者による手が入っていたから、私は図書館に行ってチェロの楽譜を借りだし、変更部分を可能なかぎり原曲に沿うように書き直し、さらにアーティキュレーション(スラーとかそういうの)も全部書き換えた。こうして、できるだけオリジナルっぽくしてから練習して、その時参考に聴いていたというのはカザルスの演奏でありました。

この時期は、とにかくバッハに一生懸命に取り組んでいましたね。CDとかばんばん買えるほど裕福ではなかったから、図書館は視聴室に入っていろいろ聴いては参考にして、けどこの時点ではロストロポーヴィチのLDは参考にしていませんでした。これが出たのっていつごろなんでしょう。私が覚えているのは、上新電機のCD専門店ディスクピアにそれがあるっていうのだったのですが、当時上新電機はポイントの累進制をとっていましたから、いつか最高の1ポイント=5円まで上り詰めて、ロストロポーヴィチのLDを貰うんだと心に決めていたのです。けどうまくはいかんもんで、3円くらいにまでランクアップした時点で、このポイント制度は廃止されたのでした。ロストロポーヴィチのLDを貰えるまでにはいたらず、そうなんです、当時はまだLDは高かったのです。

なのでやっぱり大学の図書館で見たのです。もう十年も前のことだから記憶もさだかではないのですが、この和声の使い方はショパンの葬送に同じなのだといってピアノでそこをなぞるというような、そういうシーンがあったように記憶しているのですが、けど本当にうろ覚えになってしまいました。あの独特の雰囲気、その感じしか覚えておらず、だからできることならまたみたい。そんな風に思います。

ロストロポーヴィチのアプローチは、当時の流行だった作曲家の意図に限りなく沿おうとする態度とは違って、やはりロマン派志向であったのですが、けれどどのように音楽を捉えようとしているかが説明され、その結果が演奏で示されるというのは、学生にとってはためになる、そして音楽ファンとしても面白い、非常にスリリングなものであったと思います。

2007年4月28日土曜日

ことゆいジャグリング

 四コマ漫画はただ面白おかしいというだけのジャンルではなくなった、というのは今では周知のことになっていようかと思うのですが、こと岬下部せすなの『ことゆいジャグリング』においては、そうした傾向というのを強く感じます。一見すれば、人付き合いの苦手な娘高城唯が、まったく対照的とも思える明るく人懐こいサーカスの娘山吹小鳥に振り回される、その様を面白がる漫画であるのですが、実はそれだけではないというのですからたいしたものと思います。というのも私は、この漫画のラスト、クライマックスを待つ数回においてそうしたテーマを語られるまで、ちっともそうしたところに気付くことなく、ただ人付き合い苦手な娘たちがとかく元気な小鳥に引きずられて、少しずつ心を開いていく、それだけの漫画だと思っていたのですよ。そう、私はこの漫画を読んで、ほんの一面にしか心を向けていなかった。ああ、反省だわ。いや、ほんとにそんな気分です。

さっき、娘たちといいました。この漫画の主要登場人物は三人。ヒロインの高城唯と同じくヒロインの山吹小鳥。そして、この二人に加わるもう一人が桜坂ひるね。けど、このひるねさん、表紙にも出てこなくって、ちょっとかわいそうだなあ。やはりタイトルが『ことゆい』であるところを見ても、メインストリームは唯と小鳥であったのかなあ、とはいえ、ひるねは常に唯にゆずるかたちであったけれど、中盤からラストに向かう流れにおいては欠くことのできない重要な役割を担っていて、ひるねの変化、まさしく変わることを欲するに至る過程は、この漫画のテーマのひとつをはっきりと表現しています。

けど、やっぱりこの漫画は四コマで、その形式の制約が、そうしたテーマを深く掘り下げさせないんですね。四コマの単位でひとつ落ちを付ける、落ちとまではいわなくとも、区切りがくる。このため、非常に軽く、テンポよく話は運び、反面ひとつひとつの問題に深く踏み入ることは難しくなる。一回数ページという紙数の中で語るとなれば、いきおい必要最低限に切り詰めざるを得ないということなのでしょう。

でも、このシンプルに状況を語る四コマだからこそ、語れたこともあったのだと思うのです。確かにストーリーものが何話にもわたって深く掘り下げるような、そういうのに比べると薄い。あっさりとしている。しかし、エピソードのひとつひとつが、すとんすとんと投げ込まれてくるようなところが四コマにはあって、だからか、この変に不器用な娘たちの関係が、ただの友達から、かけがえのない友達にまで変わるそのプロセスがダイレクトに伝わってきたというようにも思うのです。重厚に展開すれば、その重厚さがテーマをより濃厚に表現し得たとも思いますが、それだと逆に失われるものもあるのだろうと、この漫画を読んで思いました。きっともっと別の伝え方があるのだとしても、その時、その状況における最善を尽くすことが、伝えたいことに素直に向き合い、それを素直に届けようとすることが、その伝えたいなにかをもっともよく表すことに繋がる、そんな風に思える漫画でした。気付けば胸に深く兆すものがある、波立つものもあらば、穏やかに満ちるものもある、そしてささやかな仕合せのかたちが心に残る — 、いいお話だったと思います。

蛇足

ひるねが変に可愛いと思います。変なやつだけど可愛い。唯の方が好みっぽいけど、動いてみればひるねのような気がします。

蛇足2

実はこれではいい足りない。私のいい足りない部分は、漫画を読んで確かめてくださると嬉しいな、なんて思います。だって、ネタバレは避けたいし、けどいいたいことはたくさんあるし。そう、今回は、一番伝えたかったことに触れていません。

2007年4月27日金曜日

イチロー!

 『まんがタイムきらら』を筆頭に『キャラット』、『MAX』と拡大してきた、マニア層を対象とした四コマ誌ですが、私はこれらを読んで、時々よくわからなくなることがあります。いったいなにがわからないのかというと、その対象とする読者層でして、多分若い人が読むんだろうと思うんですけど、高校生とか大学生とか? いや、けどそれはどうだろう。一説には女子中学生あたりが読んでいるなんて話もあるんだけど、にわかには信じられません。だって、これ読んでいる人を具体的に見たことがないんですよ、私。それに、この雑誌に現れる小ネタやなんかは微妙に二十代後半から三十代くらいを狙っている。まあこれはそれくらいの世代の作家が多いということだと思うんですが、けどそれにしても多すぎやしないか? メインターゲットが十代から二十代前半だとしたらですよ、ああいう小ネタ群、ほとんどわからんだろう。と、そんな風に思っているから私には、この『イチロー!』が妙に新鮮に感じられて、主人公は高校を卒業したところの女の子。ああ、多分雑誌が狙っている年齢層というのはこのくらいなんだろうなと感じられて、なんかほっとしたのでした。

さて、漫画のタイトルは『イチロー!』。けど野球は関係ありません。ええと、一浪なんですね。大学に入ろうとして入れなかった人が主人公。一緒に落ちた友達と、おいてけぼりっぽく一足先に大学に受かった友達と、なんかバタバタしながらも楽しく、けど微妙に落ち込むことも多い浪人生活。予備校に通い、友達を作り、そして道を誤っていく……。なんかそんな感じ。本当に『イチロー!』で終わるんだろうかと思うような展開を見せているのですが、そうしたら作者自身がおんなじようなことをいっていて、ああ終わらない浪人生活というのは実に辛そうだなと思うんですが、まあいつか終わるでしょう。何浪までいくかはわかりませんが、てのは漫画が結構面白くて長く続きそうな予感がするからなんですが、けどいつかは大学には入れる日がくるはずだと。ええと、一年経ったら時間がループするのかな? とにかく一年こっきりで終わるには惜しい漫画だと思っています。

基本的には予備校通いつつ受験勉強というそういう漫画なのですが、けどそればかりじゃ花がないというか、ええと、やっぱマニアックな方向に向かいますよね、なんたって掲載誌が『きららMAX』だから。ええと……、表紙をどん(クリックすると大きくなるよ!)。

勘弁してください。買いにくくって仕方ないじゃないですか。いつも買ってる四コマ誌が、突然エロ漫画みたいな表紙になったよ! って、職場でも家族にも結構いいネタになってくれてそれはそれでよかったんですが、けどこれは参った。参りながらも躊躇なく購入したんですが、けどほんとお願いしますよ。

閑話休題。『イチロー!』が面白いのは、常識人で苦労人のヒロインななこが非常識な人たちに囲まれて翻弄されるというその様の面白さもありつつも、けれどベースにはきたるべき受験に向けての勉強生活があるから、異常な逸脱はしにくいというそこなんじゃないかと思っています。戻ってくる本筋があって、そのラインをたどりながら右に振れ、左に振れる、その振れ幅に面白さがあるんです。振れ幅小さなときには受験生ネタとその周辺が語られるのに、大きく振れてくれば、もう受験どころじゃないという感じになって、けど戻らねばという焦りみたいなのがちゃんと描かれていて、そのままならぬ様がらしくっていいなあと思うんです。

だって、自分だけかも知れないけど、実際の生活っていうのもそんな感じでしょう。やらないといけないことはやっぱりあって、ちゃんとしなきゃちゃんとしなきゃって思っているんだけど、ついついなんかいろいろ些事に流されて、できないことの方が多かったりして、後でへこむんだ。ああ、なにやってるんだろーって。けど、振り返ったりしたら、この行きつ戻りつ揺れ動きが楽しい思い出だったりするのかも知れないなあって、少なくとも浪人生活についてはそんなこと思います。むしろ私は、浪人したときも学生やってたときも、あまり振れ幅大きくない進み方をしたもんだから(っていうか受験ばっかりだったよ)、逆にななこたちのような友達とどたどたしている時間にちょっと憧れみたいなものがあって、そう、こういう時間が後から振り返ると楽しかったなあって思えるんでしょうね。

なので、私はななこみたいな人には、今はいらいらすることも多くても、年取ればそれが青春だったってわかるもんなんだよといってあげたい。そしてこの彼女らのどたばたの浪人生活を見ながら、自分の人生にはついぞ感じられなかったことごとを追体験する思いなのではないかと思います。

蛇足

これといって、このキャラクターが好きだ! っていうのはないんです。強いていうなら詩乃かなあ。というわけで、どうやら私はちょっと変態じみた人が好きなようですほんとです。

  • 未影『イチロー!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年4月26日木曜日

うぃずりず

 なんでか私は金髪好きという誤解をされているのですが、けど、ほんとになんでなんでしょうかね。金髪大好きだなんて、ここでもどこでもあそこでも一度もいったことないのに、もしかして金髪好き? といわれて、いやあえらい誤解だ。あんときゃたまたま、CMで見るこの人が可愛くていい感じっていっただけで、別に金髪だからいいってわけじゃなかったんです。と、のっけから意味不明な話をしていますが、というのは今日出版された漫画『うぃずりず』がまさしくその金髪美少女ものでして、帯には金髪、碧眼、ランドセルの文字が踊っています。ええっと、金髪も碧眼も、ましてやランドセルなんて、好きでもなんでもないんです。たまたま、たまたま漫画が面白かったから買っただけで、金髪なんてなんとも思ってないんだからねっ!

私は『まんがタイムきらら』本誌で『うぃずりず』を、それこそ最初から一度もかかすことなく読んできたのですが、けどよくよく思い返してみたら、この里好という人はまさしくきららでデビューした人であったんですね。忘れてました。「きら☆スタ」という、新人発掘企画だったんでしょうかに『うぃずりず』で登場してきて、で、その最初の回を見て、私はちょっと好きじゃないなと思って、その原因はあの先生だったのかなあ。基本的にべたなネタで勝負するタイプの漫画、金髪碧眼の外国人という見た目ながら誰より日本的というギャップがたまらんといったところかと思うのですが、けどそれにしてもべたすぎるというか、なんかちょっとなあ……。みたいに思っていたんです。けど、今は普通に面白く読んでいますから、この最初抵抗を感じるっていうのは、もう私の癖みたいなもんなんでしょうね。変化を嫌うあまりに拒否的反応で返してしまうという、そういう悪い癖があるようです。

『うぃずりず』は回を重ねて、べたの度合いはさらに強まっていったのですが、けどべたというのははまれば強いもんだと思います。ヒロインであるリズ(そう、With Lizなんですな)のギャップはなおさら強烈になっていって、見た目と言動のギャップ、そこには最初にいってた金髪碧眼という外観と、そして小学生という年齢の二枚で勝負って感じでしょうか。外国生まれの外国育ちのはずなのに、さらに加えて小学生でなんでそんなことを知ってる!? てな具合。こういうべたネタはシンプルなだけにはまるといい感じに効いてきます。それに、ピックアップされるネタというのが、ちょうど私らくらいの年代の人間が、そうそうそんなのあったあった、と思えるようなのが多くて、だからなおさら面白いのかも知れません。

そして、ここにちょっと辛辣な感じのネタも混じってくるのですが、これが私にはちょっと微妙でありまして、稀に許容ラインを越えて引いてしまうことがあるんです。例えば最初にいってた、先生の話。ちょいとこりゃなあ、みたいな感じで引いて、まあこれはこうして引かせるためのネタではあるので成功といえば成功なんですが、あとは黒杉さんで引くことがあるかなあ。まあこれも引かせるためのネタだから見事機能しているわけですが、けど私にはもうちょっと微温的なほうがいいと思うことがたまにあります。ほら、例えばリズがいじけて辛辣な物言いをすることがありますが、ああいうのは大好きです。

あ、そうだ、これにも言及しとかないといかんでしょう。まんがタイムきららWebにて、うごうご4コマと称し『もっと! うぃずりず』が連載されているのですが、これAdobe Flashで制作されていて、アニメーションするんですね。で、私が驚いたのは、このFlashを作ってるのがほかならぬ作者その人であるようで、もうはじめて見たときには、多彩だなあって驚いたものでした。

蛇足

臆面もなく自分の孫娘を一番可愛い子だよといってのけてしまうじいさんがいい感じです。え? そうじゃなくって? えっと、たまに口を尖らせてるその尖らせ方が好きです。あ、これはじいさんじゃなくって。

  • 里好『うぃずりず』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 里好『うぃずりず』第1巻 (東京:芳文社.2007年),帯。
  • 同前,97頁。

2007年4月25日水曜日

Bamboo shoot, taken with GR DIGITAL

Bamboo shootsRicoh GR Blogの人気企画、トラックバック企画第19回目は出会いなのだそうです。しかし参りますね。出会い。春は日本において、進学や就職、あるいはクラス替えなどで新たな出会いがあるだろう季節ですから、なかなかにいいところをつかれると思います。実際私の働く環境も微妙に変わったりして、出会いっちゃあ出会いみたいなもんもないわけではないんですが、だからといってそれがテーマに沿うわけでなし、もとより写真に撮りたいようなものでもなし。けど、そもそも出会いという抽象的なものを写真で表現するというそのこと自体がやたら難しいですよね……。ということで、毎度毎度こじつけ気味で申し訳ないのですが、今回もやっぱりこじつけ気味、トラックバック企画「出会い」に参加します。

私の住んでいるところは日本有数の筍の産地でして、実際、日本でもっともよい筍を産出している土地であろうとは思うのですが、そんなわけで筍を撮ってみました。それが次の写真:

Bamboo shoot

春を待ちわびて、ぽこっと土から頭を出した筍が、やあ、こんにちはって感じで、実に春めかしいと思ったんですが、写真に撮ってみるとええいこりゃえらく地味だな。けど後ろにタンポポだかなんなのか、緑の葉があって、対照的な植物が並んでいるのが面白いなと思ったのでした。

2007年4月24日火曜日

インターネット図書館 青空文庫

 著作権の保護期間延長に反対しますさあ、そろそろ私も本腰を入れないとな、って一体なんの話かといいますと、著作権延長に関する署名ですよ。パブリックドメイン作品を所収、公開するインターネットの図書館、青空文庫が取りまとめている著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名、これの第一次締め切りが来週4月30日に迫っています。だから、そろそろ私も頑張らないとと、そういう話です。

でもどう頑張ったものかなというのが難しくてですね、なかなか職場とかでこういう話ってしにくくってですよ、ほら、一般の人ってやっぱり著作権とかあんまり興味ないんですよ。ふーん、みたいな感じ。だから? みたいな感じ。伝わらないなあ、もどかしいなあなんて思うのですが、もとより興味のない人に、50年が70年に延長されます、ぜひ阻止するための署名をなんていっても、悲しいかな全然訴えないのです。だから、草の根活動じゃないけど、ほら、おたく、マニアの人たちは著作権意識に敏感ですから、そうした人にこういう動きがあるんだぜといってまわる。手持ちがあれば署名の用紙を渡す。これくらいかなあ。私はどうにもこういう手管に長けていなくっていけません。

著作権の保護期間延長が呼び水となってか、このところインターネット上では著作権に関する議論、意見が花盛りで、けどこれは以前にもいったけど、目にするのは圧倒的に反対意見ばかりに思えるんですよね。そりゃ賛成意見もあるし、目にもするんだけど、けどそもそもが少ないし、それ以前に説得力に欠けるし、という感じで、議論やネット上の趨勢を見るかぎり、延長反対派の方が優勢と感じられるのです。

保護期間延長に関し、私の意見は以前にいいましたとおり。

著作者が、著作者の権利が守られることが大切ということは重々わかっています。だから私は、なるたけ借りず、中古も利用せず、著作者に利益が還元されるようなやり方でもって著作物を入手しているのですが、ですがそんな私でも、死後70年の保護期間はあまりに長すぎると感じるのです。いや、実をいうと50年でも長いと思っている。生きてる間だけでいいじゃないかと思ってる。

これ、結構思い切った意見のつもりでいたのですが、けれど世の中には私なんぞが足もとにも及ばないような方たちもいらっしゃって、例えば落語家の三遊亭圓窓氏。曰く、延長ではなく短縮してほしい知を共有するためには(著作権を)なくした方がいいくらい。さすがです。口承文学、口承芸能に関わる実演家としての意見として、実によく状況をえぐっています。

私は音楽に関わってきた人間ですが、音楽は過去より綿々と伝えられてきた蓄積をベースにして新たなものが生み出されるという側面を持っていて、けどこのいい方は実はフェアじゃない。なぜなら音楽の広がりは過去という方向にのみ見られるものではなく、同時代の地平にも広がりを持つからです。なにかを作る人というのは、自分とかかわりの深いものに触れ、影響したりされたりしながら、お互いにその内容を交換しあったりもしながら、作り上げていくんだと思う。これはファインアートと呼ばれる分野でもそうだし、私みたいなものでも同じ。あ、こいつは面白いやと思ったフレーズを改変しながら使い回したりは、それこそクラシックの大音楽家みたいな人たちでもそうなんですよ。

そもそもさ、教会音楽なんていうのもそうだったんです。グレゴリオ聖歌の旋律を中心に作品を構築していったんです。また、パロディミサなんていうジャンルもあった。そこには当時の流行り歌の引用なんてのもあって、こうした引用をいうのなら、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』に有名なのがあるし、とこんな感じなんです。

けど、今みたいに著作権がごりごりにいわれるようになると、そうした作り方は難しくなりますよね。それこそ歌詞がちょっと似ているからといって、いきなり私の作品の根幹をなすフレーズを盗んだ! みたいなクレームを受けたりするんですよ。って、一体そりゃなんだといいたい。そりゃぱくりはどうかと思うけどさ、けどじゃあオリジナルっていうのはなんなんだ。

私は常々思っているのですが(そしてこれが修士論文のテーマであったのですが)、オリジナルというのは作り上げられた成果物そのものについてをいうのではなくて、その作るという過程に残る手跡(マニエラ)なんですよ。いかになすか、どのように作り上げられたかというそこにオリジナルはある。ところが今の著作権云々っていうのは、自分のマニエラの残ったものをいかに他人に触らせないか、他者の手跡の付くことをどう阻害するかにあるようで、けど私はそれは違うんじゃないかと思っている。だって、その自分のマニエラの残った著作物っていうのも、マニエラを取り除いてしまえばどこかからの借用であったりするんですよ。借用といういい方に語弊があるなら、過去ないし同時代の誰かが作り上げ積み上げてきたもの — それを私は環境と呼んでいるのですが — から生まれた、どこかのなにかにルーツを持つ、あるいは包摂されるものに過ぎないじゃないか。これは特定の著作物についていっているのではなく、すべての、あらゆるものがそのようにしかあり得ないのだと、まったくの無から生み出されるものなんて残念ながらないのだといっています。

申し訳ない。長くなりすぎました。もう終わります。

山形浩生は彼一流の筆致でもって、延長論を批判しています。驕るな、クリエーター! 著作権保護は「創作から5年」で十分がサブタイトル。乱暴にまとめると、特権意識振りかざしてるけど、クリエーター気取りアーティスト気取りのあんたらってどれほどのもんなの? っていうような記事、取り立てて著作権者が保護される(しかも死後の家族まで!)という状況は、あまりにもバランスを欠いているんじゃないのという意見なんですが、語り口こそ過激ですが、けど内容は多くの人が感じていることを代弁するものだと思います。

で、これはちょっと違うのだけど、水野博泰の記事、『誰のためのデジタル放送か?(後編) (ニュースを斬る)』、このサブタイトルは「著作権保護」は既得権益を守るための便利な口実でして、コピーワンスについての記事なのですが、私がアンダーラインを引くならばこれかと思います:コピーワンスが守ろうとしているのは、現場の著作者の権利ではなくて放送局の“搾取権”なんです

このコピーワンスの文言を保護期間延長に置き換えてみても充分通じるフレーズであると思います。というわけで、最後に絵文禄ことのはの記事をひとつ紹介して、このうだうだと長い記事を終えたいと思います。

引用

2007年4月23日月曜日

Luciano Berio : Sequenzas XI for guitar played by Pablo Sainz Villeagas

 ギターのための『セクエンツァ』があると知って、矢も盾もたまらずに注文したルチアーノ・ベリオ『セクエンツァ第1-第14』でしたが、なんとこれが入手困難とのこと。わお、よりによって本命が! なんて落胆していたんですが、一時は入手も危ぶまれたこの盤がようやっと到着いたしました。ああ、よかった。このアルバムはベリオの『セクエンツァ』を第1番から第14番まで収録しているのですが、オリジナルだけでなくVIIb(ソプラノ・サクソフォン)とIXb(アルト・サクソフォン)も収録するなど、かなりの充実ぶり。あまりに充実したものだから三枚組にまで膨らんでいるのですが、けど価格はというと2,511円(税込み)、実にリーズナブル。1998年から2004年にかけて収録された、堂々の新録音であるというのにこの低価格を実現するNAXOSレーベルは私たち貧乏人の味方だと、改めて確認する思いであります。

さて、ギターですよ。『ギターのためのセクエンツァ第11番』。演奏者はパブロ・サインス・ビジェガス。知らない人なのですが、ざっとライナーノートを見ると数々の賞に輝いたギタリストであるようですね。けど、こうした経歴確認することもなく、この人が技巧派であることはまあ間違いなかろうなというのは最初からわかっていたこと。っていうのは、この『セクエンツァ』というシリーズは、かなりの技術を要するんですよ。それも普通の技術じゃない。その楽器の可能性を探るとでもいえばいいのか、通常の技法に加え、新技法、特殊技法が盛り込まれていて、並の奏者じゃできないだろうなと、そういう曲なのです。とはいえ、まあプロならやるよな。けどやるだけじゃおさまらん。どうやるかが一大事という曲です。そりゃもう、興味津々っていうものですよ。

聴いてみた感想。やっぱり、今まで聴いたどのギター曲とも違っていて、すごくいい感じ。出だしは、弦を叩いてるのかな? なんだか遠くから響いてくるような響きに澄んだ弾弦が聴こえてくる神秘的な雰囲気、ところがここに突然かき鳴らしが割って入って、技巧的にはフラメンコっぽいかなあ。クラスターでもないしクラングともちょっとちゃう感じですが、ジャガジャガジャガジャガというストロークの内部で響きがうごめいている。もうこの時点ですっかりベリオの世界に魅了されているのですが、けど、これ、まだ出だしなんですよね。

ベリオの曲、特に『セクエンツァ』には、耳に馴染む、心地よいメロディというのはありませんで、そもそも私にはテーマ(音楽でいうところの主題、一般用語のテーマとは違います)があるかどうかもわからんのですが、けど聴いていると次々と変わっていく響きの世界になんか引き込まれるのですよ。ギターでいえば、通常の弾弦にストローク、バルトークピッチカート(E. ベースでいうスラップ)、ハーモニクスなど多様な音色が目まぐるしく行き交い、また恐ろしく高速なトレモロ(よくあんなのできると思う)があったかと思えば、異弦同音を交互に鳴らしているようなのもあるなど、注意深く聴くほどによく細部まで作り上げられていることがわかる。やっぱりベリオは面白いなあと思うのです。

けど、多種多様な奏法が入り乱れる名人芸の面白さは『セクエンツァ』の聴きどころではないのですよ。なにより聴くべきは美しさです。音色の妙が、音のコンポジションが、そのもの美となって響いています。古典派ロマン派的世界とは一線を画している音楽ではあるのですが、けど『セクエンツァ』を聴き込んでみれば、音楽の美とは古典派ロマン派、あるいはバロック等々、耳慣れた音楽のみに発するものではないことがわかるのではないかと思うのです。はじめて聴けば、果たしてこれは悪ふざけなのかと思うかも知れない、それくらいに一般の人のイメージする音楽からはかけ離れた曲たちなのだけれど、けれどそれでもそれらはまごうことなく美であるのです。

いろいろな楽器が、多様な美を志向する『セクエンツァ』ですが、なかでもギターのための11番は聴きやすく、美を感じやすいものであると思います。ポピュラリティがある — 、というのは、これはギターという楽器の持つ親しみやすさがためなのかも知れませんね。ほんと、ギター好きにもギターに関わらず音楽が好きという人にも、等しくお薦めできる佳曲だと思います。

引用

2007年4月22日日曜日

ダンノーゼルのソルフェージュ

 マイクを買ったよ、録音だ。と非常に単純な動機で録音を敢行してみたのですが、そしたら非常に残念な結果に終わってしまいました。いやあ、参りましたね。私はギターが下手な分、歌で点数を稼ぐつもりでいたのですが、どうやらそのもくろみは泡と消えたようですよ。点数稼ぐどころか、むしろ減点パパ? 正直、もうちょっとましだと思っていたんだけどなあと落胆しまして、聞くごとにどっかから飛び降りたくなるもんで困っています。でも、困っているばかりでは人間進歩はないので、現実を直視し、苦さを舐めてなお前に進もうとするところに成長はあるのだと信じて、ちょっと歌も真面目に練習してみようと思います。いや、今まで不真面目だったつもりはないんだけど、けど侮っていたのかも知れないね。ということで、懐かしのソルフェージュの教本を引っ張り出してきたのでした。

Studies of solfège

見つかったのは音友の『子供のためのソルフェージュ(1a, 1b)』、『ダンノーゼルのソルフェージュ』、そして『コールユーブンゲン』。後にこれに『コンコーネ50番』が加わって、なんだかんだいっていろいろ持っているものですね。これらは受験用にやってたソルフェージュで使っていた本なのですが、『コールユーブンゲン』は大学入ってからも使っていたかな? 後、『コンコーネ』は大学の声楽の授業で使ってた。そう、私はなんと声楽の実習もやっていたのですよ(必修科目だったから)。

けど、大学出てからは、こうした基礎的な訓練というのをまったくやって来なかったんですよね。だいたい十年くらいですか? それが今のていたらくに繋がっているわけで、トレーニングの重要性というものを痛感している次第です。で、ひとしきり痛感したら次は実践の番でありますね。ここで私が選んだのは『ダンノーゼルのソルフェージュ』で、なんでこれにしたかといいますと、非常に基礎的な部分からゆっくりと導入していくことができるから。ちょっと『コールユーブンゲン』だと大変かなと思って、だから『ダンノーゼルソルフェージュ』。まあ、これも後半に入ると結構ハードにはなってくるんですけど。それにヘ音記号での読譜練習とか、正直今の私にはあんまり必要ない訓練もあって、けどまあやって損があるわけでもないから、多分やるんじゃないかと思いますが、でもギター弾くに際しては必要ではないなあ。

とりあえずは最初の最初、全音符で書かれた非常に簡単なのを、全音符じゃ息が続かないから、四分音符気分でさらっとやってみたんですが、ええと三十分ちょっとくらい? そうしたら、すごいハードなの。最初は音階を簡単にやるだけなのが、二度、三度のインターバル練習に移り、もちろんそれだけで終わるわけありませんよね。四度、五度、六度、そしてオクターブまでいくんですが、もうめろめろ。だいたい五度くらいで音を上げはじめていて、息が続かない? 最高音はミまでなのですが、それくらいまであがっていくと酸素が欠乏してくらくらしてくるんです。でも、続ける。息も絶え絶えに歌っていると、腹筋あたりが非常にきつい。わお、こりゃ明日は筋肉痛だな。でも、続ける。そうしたら今度は腿のあたりがしんどくなってきて、いや、ちょっと待ってよ。なんで歌うたうのに足の筋肉が関係してくるんだ。非常にわからない話ですが、けど歌うというのはそれくらいハードな全身運動っていうことなのでしょう。

久しぶりにソルフェージュやってみて、歌うという行為の大変さを思い知りました。これまでもいいかげんに歌ってきたつもりではないし、それなりに頑張っていたつもりなんですが、けれどいつの間にか随分省エネルギーでそれっぽくやるようになっていたんだなとわかって、これは反省事項ですね。ちょっと大変になるかも知れないけれど、ギターだけでなく、歌の基礎練習もするということで、本腰入れたいと思います。

2007年4月21日土曜日

ひだまりスケッチブック — ビジュアルファンブック

 先日、『ひだまりスケッチブック』を買いにいこうと思ったといっていましたっけね。私は『ひだまりスケッチ』の漫画は結構好きで、2巻限定版も手に入れたし、アンソロジーだって買ったのですが、けど、『ひだまりスケッチブック』はなんとなく買いそびれていたのです。理由は、 — やっぱり経済的なもんでしょうか。最近、KRコミックスがやたらと出るようになりまして、もともとが高い本ですから、だんだん買うのも厳しくなってきているんです。そこへ二千円近いファンブックが出て、うっと躊躇した。けど、躊躇しつつも買っておくべきかと迷っていて、そこへ背を押したのは、tsawada2氏の日記。2007年4月11日の「今日買った本/CD…」が決め手となりました。

『ひだまりスケッチブック』の内容を端的に示すとイラスト集、なのではないかと思います。『まんがタイムきららキャラット』の表紙を飾った絵やカラーページの扉ゴマなどがメインといっていいのかな? 分量的に見てもそれが妥当だと思うのですが、しかしこのかつて一度は見てきた表紙絵、扉絵の見ごたえのあることといったら、自分自身驚くほどでした。

イラスト自体が見て楽しいというのもそうでしょう。これまで私が思っていた以上に鮮やかで魅力的というか、絵の端々から色気が感じられるというか、一ページ一ページめくりながら、いいなあとため息するようなよさというのがあるのです。そして、面白いのはそのイラストイラストに、アイデア稿ともいえるラフスケッチが付されているというところ。紆余曲折が見えてきたり、あるいはブラッシュアップされる様が感じられたり、こうした筋道のようなものが見えるというのは面白いものですね。コメントだってそうです。反省あるいは評価があったかと思えば、最終稿にいたるまでの経緯の説明があり、あるいはキャラクターに対して思っていることや裏話めいたことなど、こうしたことを知ることができるというのは実によかった。知ってどうなるというものでもないですけど、やっぱりその人の絵が好きなら、知りたいものではあるでしょう? 実際、ビジュアルファンブックという表現は実に妥当であると思いました。

イラスト集の他にはインタビューと漫画が収録されています。実はインタビュー、もっと普通のものかと思っていたんですが、思わぬ収穫といいますか、結構読んでいて面白く、ほら世の中には通り一遍というようなインタビューも多いでしょう。ところが、そうじゃなかった。扱う内容が独特というわけではないのですが、最終的にできあがった記事は蒼樹うめという人を実によく表しているのだろうと思える感じなんです。これ、インタビュアーがよかったのか、まとめた人がよかったのか。あるいは、問いに答える作者その人がよかったのか。いずれにせよ、結構いい感じの記事であったと思っています。

そして、漫画。実は私はこの漫画を読むためだけに買ったつもりだったんですよ。本編の漫画に変わらぬ質の面白い一編、仮に私はこの漫画のためだけに対価を払ったとしても悔いはなかったと思っていますが、けれどこの漫画だけがこの本の価値ではありませんね。イラストもよし、インタビューも漫画もよし。実際、そつなくまとまりながらも一歩質の高さを感じさせる、バランスよい好著だと思います。

2007年4月20日金曜日

楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャー — 45 弦楽器用

こないだ、マイク を買ったという話をしましたね。M-AUDIOのAries。結構低廉なマイクではあるんですが、けれどこれコンデンサマイクでありまして、ええと、マイクについてちょっと説明しますと、マイクは大別するとダイナミックマイクとコンデンサマイクの二種類あるのですが、一般にコンデンサマイクの方が音質がいいといわれます。だもんで、私もコンデンサマイクを選んだというのですが、けど世の中うまい話ばかりではなくてですね、コンデンサマイクにもちょっとデメリットがあるのです。扱いに注意がいるっていうんですね。繊細な機器なんだそうです。衝撃に弱く、そして湿気にも弱いとか。だから保管時には防湿庫に入れましょうというんですが、そんなの私持ってない。だからタッパに除湿剤放り込んで、防湿庫がわりに使っています。

ここまで、ついこないだまでの話です。その後、調べて知ったことなのですが、コンデンサマイクの保管に際し、あまり湿度が低すぎるのもまたよくないんだそうです。マイクの内部に使われているゴムや樹脂などが低湿度のために割れを生じさせるとかいうんですね。だからあまり乾燥させないように、それこそギターがそういわれるように、50%程度の湿度を保ちましょうとのこと。いやはや、参りました。そんなことつゆ知らず、乾燥剤をそのまんま放り込んでいましたよ。これ、はじめての楽器、AriaAD-35を買ったときに入っていた乾燥剤なんですが、いわゆるシリカゲルですね。明らかに湿度をとるだけが目的でしょう。だから、ほんとはよくなかったのかなあ。ちなみに、低湿度にさらされていたマイクというのはM-AUDIOのPulsarで、見るからに金属金属した外観のマイクではあるんですが、中身となるとどうなのかさすがにわかりませんわね。もしかしたらちょっとダメージ加わってるのかもなあ、なんて思いますが、まあ過去をくよくよ嘆いても仕方ないので、これからできることを考えたのでした。

まあ、単純な話でして、除湿剤ではなく、湿度保持剤を買おうというんです。マイクを買いにいった日に、湿度を50%程度に保ってくれるような乾燥剤はないですかと聞いてみたら、出てきたのが株式会社S. I. Eの楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャーでした。これ、45という数字が付されていまして、どういうことかというと、だいたい45%の湿度を保ってくれるのだそうです。45%+-5%であるそうで、ああ、これは理想的かも知れませんね。他にも除湿剤乾燥剤の類いはありましたが、保持湿度の記載のあったのはこれくらいだったので、ちょっと高かったけれど、これを買いました。帰ってきて早速マイクいれ(タッパ)に放り込んでいます。

ミュージックモイスチャーはだいたい2500円くらいするのですが、内容量は80g(2袋入り)です。マイク箱にはひとつで充分でしょう。というわけで、手もとに一個余ってしまって参ったなあ。いやね、どうもこれの有効期限というのは約一年であるらしく、だからひとつだけ使って、もうひとつは来年用になんていうのは無理そうなんです。しかし、どうしたものかなあと思って……、そうかギターケースに入れておけばいいんだ。

メインのギターはほぼ毎日出し入れされるものでありますが、ケースにこれを入れて、ある程度の湿度管理ぐらいはされてもいいかも知れませんね。これまで、約三年ほどそんなことちっとも気にされてこなかったけれど、やっぱりちゃんとすべきところはちゃんとしたほうがいいのかなあ。ということで、もう一袋の使い道も決まりました。早速放り込もうと思います。

  • 楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャー — 45 弦楽器用

以下、適当に選ばれた楽器用品販売ページ

2007年4月19日木曜日

Nike Free 5.0V2

Nike Free 5.0みんな、聞いてくれ。靴買ったんだ、靴。ええと、ほら、随分前にいっていた靴、NikeのFree 5.0ですよ。その記事の書かれた日付を見てみると、ええと、2005年の12月か。欲しいと思ってから買うにいたるまで、一年以上かかったわけでありますね。でも、これに関しては、私のせいじゃありませんよ。だって、あの時私は大阪梅田のナイキショップ、それからちょっと大きめの靴屋にいっているんです。なのに、そのどちらにも置いていなくて、これはもう縁がなかったものとしてあきらめたと、そういう具合だったのです。でも、そんな具合に一度あきらめたにも関わらず、Nike Freeは頭のどこかに残り続けていて、そしてついに今日、靴を買うぞという気になったのです。ええと、午後三時くらい? ちょっと仕事が落ち着いて、Nikkei BPとかマイコミジャーナルとか見てたら、なんだか気になる記事がありまして、それ見た途端、そうだシューズ買おう! という気になったのでした。

その記事というのは以下のふたつ:

なんと、靴がロボットに変形するおもちゃが出るっていうんですが、しかしなんでまた靴をコンボイ司令官と破壊大帝メガトロンに変形させようだなんて思ったんだ!?

まあ、でもそれはいいんです。大切なのは、Nike Freeがまだ現役ラインナップであるということです。そうか、まだ買えるんだと思って、それで帰りに靴屋によったのでした。そうしたら、あったあった、ありました。Nike Free 5.0が二色、白と黒(というか、両方グレーだよね)が陳列されていて、おお、これは実にいい感じ。最初は濃い色の方がいいかなと思ったんですが、履いてみるとどうもなんだか靴が妙に浮いて見える。で、ナチュラルグレーに履き替えるのだけれど、そうしたら今度はなんだか実に薄い印象で、でもいいか。目立つよりさりげないほうがいいだろうということで、ナチュラルグレーを選びました。

でも、運がよかった。というのは、その靴屋に置かれていたのは展示の二点だけで、しかもそのサイズが両方27.5。正直ちょっと大きいんじゃないかと思ったんですが、0.5ほど大きめがフィットするという店員の話どおり、27.5で問題は感じられません。足入れはスムーズ、けれど若干の引っ掛かりも感じられれて、履いてみれば大きいという感じはない。よしこれでいこう。グレーをお呉れ。このまま履いて帰るよ。というのが、次の写真。

Nike Free 5.0

履いてみた感じはですね、かかとあたりなんかは、むしろこれ以前に履いていたエアモックの方がずっと薄くダイレクトに地面を感じられて、どんなに足に負担がかかるものか期待していたものだから、ちょっとがっかり。いや、だってもっと強烈ななにかがあるかと思ったんですよ。けど、この靴の真価は、実際に歩いてみてわかるという感じですね。いつもの帰り道、三十分かけて坂を上る途中、確かに足裏からふくらはぎにかけての感じが違うぞという感触がありまして、まず足裏が熱を持っている。ふくらはぎはというと、若干の疲労感みたいなものがあって、そうか、歩かないとわからないのだなと思いました。けど、本当は走るべきなんでしょうね。そうしたら一体どうなるんだろう。かなりわくわくさせるものがありますが、無理しても仕方ないので、今は歩きだけにとどめておきましょう。

で、楽しみなのは明日ですよ。ふくらはぎ辺りに筋肉痛なんかが出たら、こりゃすごいぞっていう実感がひしひしとすることでしょうよ。だから、ちょっと明日が楽しみ。けど、筋肉痛を期待するというのも変な話でありますね。

  • Nike Free 5.0V2

ちなみに、コンボイとメガトロンというのは、こんな奴ら。

このメガトロンというのは銃に変形するんだけど、ギゴガガと変形して隣にいる副官だかなんだかの手にすぽっとおさまるのだけは、どうにも解せなかったことを覚えています。アメリカ人はそんな小さなこと気にしないのかな。

2007年4月18日水曜日

暁色の潜伏魔女

 九州男児『ネコ侍』を求めての行脚、二店目は噴水近くの書店でした。ぐるり店内を見て回って、どうにも見当たらないようだからレジのお姉さんに問い合わせたのですが、その時、新刊の平積みに赤い表紙のぱっと目を引く漫画を発見。実は、この漫画には見覚えがありまして、いつもいく書店書店で見てはいたのですが、あんまりに手を広げるのも危険と思いあえて気にしないようにしていたのです。ですが、この漫画、袴田めらじゃありませんか。おいおい、ちょっと待ってよ。知らなかったよ。袴田めらと知ってたら見た瞬間に買うってば。こんな具合に、危うく気付かず見過ごしてしまうところをぎりぎり回避することができました。ありがとう九州男児さん!

まったくの予備知識なしで読みはじめた『暁色の潜伏魔女』ですが、読んでみて、非常に袴田めららしいよさのある漫画、一目で気に入りました。掲載誌(『コミックハイ!』)の意向を反映させたか、舞台は学園。ただその学校というのがちょっと普通ではなくて、魔法を使える人間を収容するという目的で作られた、そういういわく付きの設定です。そこへ転校してきた桜田暁を巡る人間模様、心模様がなんだかふんわりとして、けど時にしんみりと伝わってくる。このへんが袴田めららしいなあというところなんですが、いや、本当にいい感じ。過去に袴田めらを読んだことがあって、結構好きという人があったら、きっとこの漫画も気に入るんじゃないかと思います。

けど、欠点もないわけではないのです。ビジュアル面での弱さ。女の子は可愛いし、充分にその内面や情感を伝える絵ではあるのですが、けれどことアクション面の描写、盛り上がりを演出するということにかけてはぱっとしない感が拭えないのです。ほら、やっぱり魔法学園ものですから、魔法がどんとメインに出たりするのかと思ったら、そのへんが地味な感じになっちゃうから、ちょっともったいないと思った。まあ、出てくる魔法というのも地味なものが多く、またその地味さがいい味を出していると思うので(望月先輩の「抱きつくことによって自分の妄想を相手に見せる」魔法は最高だと思う)、これをもってことさらに欠点というつもりもないんですが、けどやっぱりちょっともったいないかなと思うんですね。

でも、派手さがない反面、静かに、内面を告げるような描写には長けていると思うのです。ナイーブな、そっと触れることによって伝わるようなやさしい温度の感じられる漫画。この長所があるから、他のいろいろは気にならなくなる。展開も波乱含みのまま長く引き伸ばされるかと思ったところが意外にあっさりと語られたりして驚いたのだけれど、その一見あっさりとした中に深く共感させるシーンが続いたりするから侮れなくて、そして私はこの人の漫画のそういうところに参っているのだと思います。漫画の素直さ、登場人物の飾らない感じが多くを伝えてくれるから、受け入れる感性のチャンネルさえあれば、この人の漫画のすごく豊かであるということが、きっとわかると思います。

  • 袴田めら『暁色の潜伏魔女』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月17日火曜日

かよちゃんの荷物

 頼んでいたマイクを受け出しに楽器屋にいくついでに、向かいの書店にも寄ったのでした。最初は、なんとなく買わずにいた『ひだまりスケッチブック』を買っておこうと思って、それでついでになんか評判いいらしい九州男児の『ネコ侍』も買おうかなと思って。で、久々の表紙買い。タイトルは『かよちゃんの荷物』。聞いたことのないタイトルに知らない作者の漫画だったのですが、四コマのコーナーに平積みされていたその表紙の雰囲気がどうにも気になったのでした。ちょっと昔っぽい、昭和臭さといっていいのか、そういうあかぬけない感じの絵柄になんだかひかれるものを感じたんですね。どうしようかな、ちょっと迷ったけど結局買ってしまいました。

竹書房のバンブー・コミックス。てっきり四コマだと思ってページを開いたらストーリーもので驚きました。あちゃあ、やっちゃったかなと最初は思って、オープニングの二ページ読んでちょっと微妙かなと思って、というのは、なんだかヒロインのかよちゃんが可愛くない。ちょっとだらしなくて、いいかげんで、人のよさそうなかよちゃん。けど、そんなことよりももっと気になるところがあって……、あの目が飛び出る表現ってのは今どきどうかと思う。いや、ほんまに。申し訳ないけど、かなり脱力するものを感じた、正直な話です。

と、のっけからネガティブトークですが、けどこのかよちゃん、本編に入れば、なんだかわりといい感じよね。漫画としては、ええと、どういうジャンルなんだろう。女性が友達同士、とりとめもないことしゃべったり、けどそのわりに遠慮なく気になるところをずけずけ突いてみたり、そんな感じの女三人友情もの。ヒロインが味があっていいなあと思うんです。ちょっとぐうたらでむら気があるというか、熱しやすく冷めやすい感じかね? 今の状態は駄目だと反省したかと思うと、いややっぱり今の感じがいいやみたいに落ち着いてしまうし、なんか開き直ったみたいに呑気かと思ったら、妙に焦りだしてみたりもするってところ。多分、男はこういう女性を好かないよね。けど、私はかよちゃんみたいな人なら、友達に加えてもらいたいなんて風に思って、だって楽しそうじゃないですか。つきあうとかつきあわないとかじゃなく、一緒になんか馬鹿なことしゃべったり、たまには厳しいこといったりいわれたり、他人には伝わりにくい妄想トークを聞いたり聞かせたり、そんな関係はすごく楽しそうだ。けど、私は男だから、女友達のそういう輪には、かたち加わることができても、本質的に入り込むことはできないんですよね。私はそれが寂しい。だから、時にこういう女同士のフランクな、本音も出ちゃうというかむしろだだ漏れというか、そういう雰囲気を伝えてくれるこういう漫画が好きなんでしょう。なんか、憧れてるんだと思います。

ああ、男になんて生まれるんじゃなかった。

まあ、それでもかよちゃんはかなり個性的なほう、有り体にいうと変わった人だと思う。普通の人なら漫画にならんという気もしますが、けど私は変わり者の方が好きだから、人に迷惑かけないタイプの、普通の領域からこぼれ落ちる人が大好きだから。そういう点では、この漫画は非常に私向けだった。変わり者に優しく、けどそれはエキセントリックなんじゃなくて、誰もが内面に普通から逸脱する自分をもっているから、誰もに優しいってことなんだと思う。ぎょっとするようなシビアな、シリアスな話が裏に隠れていたとしても、取り返しのつかなくなる前にそっと手を差し伸べるような、そういうやさしさがあるんだったらきっと世の中というのはいいよねと、そんな風に感じる漫画でした。

  • 雁須磨子『かよちゃんの荷物』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月16日月曜日

Audacity

先日、楽器店に注文したといってましたマイク、M-AUDIO Ariesが本日入荷との連絡あり。おお、予想通りというか、実にいい感じのタイミングで到着したじゃありませんか。実は私はこのところ友人相手に歌うたって、こういう風に歌える場のあるということ、なにより聴いてくれる人がいるっていうことが嬉しくて仕方がなくてですね、ようしもっといろいろ歌っちゃうぞー、みたいな気分なんです。そこにボーカル用のマイクが登場。わー、これでギターにはギター用の、歌にはそれ用のチャンネルが用意できるぞ! 質の向上間違いなしだ! みたいな感じで喜んでいるのですが、もちろん持て余してしまったりしたらそれどころじゃありませんね。なんとか慣れて、うまく使えるようになりたいもんだとわくわくする思いです。

マイクが届いたら、これ使って歌って聴いてもらうのももちろん素敵なことには違いないのですが、それとは別に録音をやってみたいと思うんですね。録音。そういえば、以前iLifeが欲しいなんていってましたっけね。もっと具体的にいうと、iLifeに含まれるGarageBandが欲しいのですが、いや、だってね、シンプルに洗練されたインターフェイスが魅力の音楽制作環境ですよ。8トラックの同時入力に対応し、歌とギターを録音できれば当座は大丈夫と思っている私には、もうなんの不都合も不満もないソフトじゃありませんか。とかいいながら、実は私このソフト買っていません。いや、高いとか金払いたくないとかいいたいわけじゃないのです。この機能でこの価格ははっきりいって安すぎると思います。けど、なんでか今まで買いそびれてきて、というのは、どうも私は録音やら編集やらはWindows上でやる方向に進んじゃったからで……、なんでなんでしょうね? いや、理由はわかってるんですが。普段使いのMacintosh上でなにかあったらことじゃないですか。そんな理由で、Windowsで録音やらいろいろしているわけです。

けど、最初はなかなか気の利いたソフトウェアを見つけることができずにいて、そんなときに人から教えてもらったのがAudacityそしてKRISTALというソフトです。これ、前者はGPLで公開されるオープンソースのソフトウェア。後者は個人利用、教育的な利用、非商用利用に関してはフリーで使えますとのことで、いずれにしても太っ腹だなあ。

これら、無料で使えるとはいいましても、機能が低いなんてことはなくてですね、両者ともに16トラック対応。Audacityのサイトを見ると、Record up to 16 channels at once、一度に16チャンネルの録音ができるだなんて書いてあって素晴らしい。で、両者ともにVSTプラグインに対応。はっきりいって、これでもう充分じゃん。以前にもちょこっといってましたけど、私はリミッターにコーラス、リバーブ、ディレイあたりがちょいと使えればそれで充分なんです。だから、AudacityKRISTAL以上のソフトは正直必要なさそうで、しかしこんなしっかりとして高機能なソフトウェアが無料で使えるとは、恐ろしい時代になったものだと思います。

KRISTALにあってAudacityにない機能というと、ASIO対応あたりかなあ。いや、調べれば他にもいろいろあるんだけど、Audacityが96KHzまでの対応に対し、KRISTALは192kHzまでいけるなど。けどこのあたりまでくると正直私にはオーバースペック。気にしているのはやっぱりASIOへの対応状況かなあ。ASIOというのはなにかといいますと、こうした音を扱うソフトとインターフェイスを取り持つドライバでして、音の遅延を少なくしたり、音質の向上にも役立つとかいう話です。でも、まあ多分私には使いこなせないだろうなと思うから、まだ考えなくていいか。今すべきことは、とにかく録音して、経験を増やしていくことだろうと思うのです。その結果、今の環境に問題ありと判断したなら、上位機、上位ソフトを試していけばいいだけで、だから最初はこれらフリーで使えるソフトで経験を積むのがいいのでしょう。

さて、私が選んだのは表題にもありますようにAudacityです。理由は簡単。最初に教えてもらったのがこっちだったからというだけの理由。とりあえずこれでいろいろやってみて、物足りなかったらKRISTALを試せばいいや、などと考えています。で、今はというと、あんまり物足りなさを感じていないから、これからしばらくは、あるいはずっと? Audacityを使っていきそうな感じです。

対抗

引用

2007年4月15日日曜日

らいか・デイズ

   らいか・デイズ』が始まって、もう三年にもなろうとしているということに驚きました。現在『らいか・デイズ』は二誌連載だから、隔週ペースで進んでいるのだけれど、それでも一回のページ数が多くない四コマ漫画です。少しずつ、少しずつ変化しながら、ゆっくりと進んでいく。ふと気付くともう何年も経っていて、驚きますね。好調に巻を重ね、ついに第5巻。103ページに収録の「補う力」、竹田の父が漏らした言葉になんだか似た感慨を重ねるといったらおかしな話ではあるのですが、けれどこんなにも続いて、らいか含む子供も大人もだんだんとその人柄をあらわにし、変わってきながら、なお読者に受け入れられている。実際『らいか・デイズ』の人気は屈指なのでしょう。その理由は私にもわかるような気がします。

以前にもいっていましたっけね。私は漫画としては、やっぱり当初の硬派なスタイルの方が好きなのです。漫画としてのテクニカルな部分がとんがっていたといったらいいのか、常人離れした小学生らいかを主人公に、きりきりと漫画が動いていた。機能美みたいなものが感じられたんですよ。必要要件ぎりぎりまでそぎ落とし、研ぎ澄まされたような表現があって、それが小気味よかった。らいかは今よりもずっとスーパーで、だからその分孤独であったように感じられて、そういう意味では今の『らいか・デイズ』の方が、読んでいて穏やかであると思います。相も変わらず小学生らしからぬ三人 — らいか、蒔奈、そして竹田 — でありますが、それぞれにスーパーな部分を表に活躍しつつも、それぞれに子供っぽく、あるいは弱くいたらない部分も見せるようになって、そこがうまくバランスがとれているところなんだと思います。そうした弱い部分を支え合う人の交流みたいなところ、人情とかいったらいいかね、そういうのがひしひしと伝わってくるような、そういう漫画。読んでいて、やっぱり面白いんだよなと思わせる力のある漫画だと思います。

でも、人によってはこの人情っぽさみたいなのがあんまりに表に出すぎるところとか、苦手にしたりするでしょう。あるいは私みたいに、あんまりに恋愛恋愛したところが出過ぎると鼻白むような人もあるでしょう。その分かれ目は人によってそれぞれでありましょうが、少なくとも私にとっては、今の『らいか・デイズ』は充分許容できる範囲にとどまっていて、いや、充分というのはどうだろう。実は危ない。あと数歩を進むと、私の許容を越えてしまうかも知れないという危ういくらいのところまで話は進んでいるんだけれども、でもその危うさを感じさせながらも、読めば面白い。毎号の連載を読んでもそう、こうして単行本になってみても同じで、もしかしたら受け入れがたさを感じるのではないかと怖れながら読んだ第5巻でしたが杞憂でした。

読んでみて思った。『らいか・デイズ』に関してはまだまだ大丈夫だ。私は、あの子ら、そして先生、親たちを含むこの漫画の登場人物が大好きだと、はっきりいうことができます。子供も大人も、その時々、自分なりの楽しみや不安、悲しさ、寂しさなんかを抱いているということが、ちょっとした狭間に見えてくるような漫画で、そしてそうした感情は人と交換しあうことで、きっとよい方向に向かうのだという、 — 前向きに生きようというようなメッセージ性が感じられる漫画なのだなと、これが私の最初にいっていた、私にもわかるような気のする理由です。

『らいか・デイズ』がいつまで続くのかわからないけれど、この巻を読んでみた感触としては、きっとこれからも好きで居続けることができるという感じです。その、越えそうで越えないバランス感覚みたいのとか、もうちょっといくとと説教くささ、あるいはやり過ぎというえぐみみたいなのが出るところを踏みとどまって、あるいはエクスキューズをはさむことで押さえてしまう。そういうところが感じられたから、私は安心して読んでいけるなと、そんな感じです。

  • むんこ『らいか・デイズ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • むんこ『らいか・デイズ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • むんこ『らいか・デイズ』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • むんこ『らいか・デイズ』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • むんこ『らいか・デイズ』第5巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月14日土曜日

Nicecast

インターネットでラジオをやるには、公開されているラジオサーバを利用する、つまりlivedoor ネットラジオ / ねとらじなんかのお世話になるのが一般的なんじゃないかと思います。けれど、ねとらじは共用のラジオサーバだから、常に自分の思い通りに利用できるわけではありません。なので、自分の好きにやりたいという人は自分でラジオサーバを立てる必要があるのですが、となるとSHOUTcastIcecastを使うことになりそうで、けど、これらを利用するとなるといろいろ用意が大変そう。怠惰な私なんかはそれだけでへこたれてしまいそうになるのですが、こんな、私みたいな人にはNicecastがうってつけです。Nicecastはインターネット上で音声配信をしたい人のためのソフトウェアで、わかりやすく使いやすいオールインワンが売り。もし私がネットラジオをやるならば、これだなとひそかに思い続けてきたソフトです。

オールインワンとはどういうことかといいますと、まず音声をストリーミングで配信するためのサーバソフトウェアが入ってます。Nicecastという名前からピンとくる人もいらっしゃるかと思いますがicecast互換。けどサーバを立てただけじゃ放送できないのがネットラジオというもので、サーバにWinampやMacAMPというソフトを使って接続し、音声を送ってやる必要があるんです。WinampならSHOUTcast Source DSPというプラグインを入れてやるとか、結構ややこしい。ところがNicecastはこうしたソフトを用意したりする必要がないんです。というのは、Nicecast自体が音声をサーバに送る機能を持っているからでして、これがオールインワンといった所以です。

と、ここまでが数日前までの私の理解でした。ええとですね、ちゃんと調べてみたのですよ。そうしたら、Nicecastは私の理解していたよりもずっと高機能ということがわかりまして、なんとVSTプラグインに対応、リアルタイムでエフェクトをかけられるっていうんですから驚きました。WebサイトMac OS X放送方法案内には、デフォルトで利用できるエフェクトが紹介されておりまして、はっきりいって、デフォルトでこんだけできれば、他にいろいろ加えたりする必要ないよなって感じです。ざっと見てみるだけで、Side Chain Limiter、AUPeakLimiterなどリミッターがあるらしいことがわかりますし、リバーブ(4FX Effect - Reverb)やディレイ(AUDelay、L/C/R Delay)、コーラス(Chorusifier)なんかもあるらしい。これだけあったら、正直私には充分でしょう。あるいは、LRに分かれてしまうかも知れない声とギターをひとまとめにするためにMonomizerが必要になるかな? いずれにせよ、音割れ防げて、LRまとめて、適当に響きを加えられれば充分。そんな私にとってNicecastはまさしくナイスなソフトであると思います。

ただ、このソフトの最大の弱点はMac OS X専用ということでありまして、けど私はMacユーザーだから全然これがデメリットにならないという強みがあります。普段使いのiBookがラジオで専有されてしまうのはちょっと困りものかも知れないけど、でもその頃には新しいMacを買ってたりするかも知れませんからね。そうしたらラジオ専用サーバの出来上がりみたいなもので、あと問題があるとすれば、フレッツ・光プレミアムで使うルータが、特定のポートに対する通信をiBookまで通してくれるか(そういう設定ができるか)だけですか。あ、JASRACとの交渉もありますか? というわけで、このへんの都合がつきそうなら、ラジオサーバ開局という運びになりそう。もちろん、その時にはNicecast使います。

2007年4月13日金曜日

M-AUDIO 単一指向性コンデンサーマイク Aries

 昨日ちょっといっていましたけれど、えー、マイク買います。以前買ったインストゥルメント・マイクロフォン、M-AUDIO Pulsarの姉妹品みたいなマイクで、その名はAries。M-AUDIOのサイトを見れば、ハンドヘルド・ボーカル用コンデンサー・マイクロフォンと書かれています。そう、Skypeで歌ってみて、ボーカル用にもマイクがあったらいいなあと思ったものだから、楽器店にいって注文したのです。で、現在取り寄せお願い中。早く届くといいなあと思いながら待っています。手にするのは、多分来週くらいになるのかな?

私がボーカル用マイクとしてAriesを選んだのは、実はもう一年くらい前のことでして、というのはつまりPulsar買ったときに、Ariesもいずれ買うと決めていたのです。メーカーをひとつこれと決めたら、それで揃えてしまうあたりが実に私らしいところなのではないかと思うのですが、オーディオインターフェイスもM-AUDIO製なら、マイクもまたM-AUDIO製で揃えてみて、このへん、別に好みとか思想とかそんなたいそうな話があるわけではないんです。なにしろ、これらは私のはじめての録音環境となるわけですから、好きも嫌いもない。けど、宅録となればRodeのNT1あたりが定番みたいにいわれることのあまりに多さに、私のひねくれ者の血が騒いだんでしょうね。Rodeは絶対によそうと決めていましたから。で、当時ほとんど情報らしい情報のなかったM-AUDIOのマイクに目をつけたとそういうわけです。当時はLunaSolarisNovaが加わったくらいの時期だったのですが、もうこれしかないって思い詰めて、そうしたらぐずぐずしている間にPulsar、Ariesが出て、そのままこちらにシフトしたと、そういう経緯があったんですよ。とりあえず、Pulsarに関しては不満らしい不満もないし、じゃあボーカルマイクも当初の予定どおりAriesでいいよね、と、そんな感じでした。

でも、AriesよりもNovaの方がよかったかなあ。っていうのはですね、Ariesはどうもライブで使われることを想定してデザインされたマイクであるようで、一般にライブ、ステージで使われるマイクはダイナミックマイクが多いというのだそうですが、そこへコンデンサを投入しようという腹みたいです。敏感さのためにマイクを持つ手によるノイズ混入が問題となるところを、内部ショックマウントテクノロジーで対策して、そして風や息によるノイズはポップフィルターを内蔵することでクリアすると、そういうことが書かれていますね。でもさ、私は当座マイクを手に持って歌う予定もつもりもないし、だからボーカルに関してはNovaに適当なウィンドスクリーンを組み合わせてやってもよかったかなー、みたいなことを注文してから思っています。

でもさ、もう注文しちゃったから、くだくだ考えるのはよそう。マイクが到着して、ギターはPulsar、ボーカルはAries、それらをFast Track Proで2ch入力してやる。このもくろみがうまくいくようだったら、おおっぴらに、堂々と歌ってまわれるようにさ、JASRACにストリーミングの包括契約する方向に向かおうかなー、なんて思って、まあ、これはマイクが到着してからの話。購入してからの一年、ほとんど使ってなかったPulsarも引っ張り出して、とにかく動いてみたいもんだと、そんな気分になっています。

2007年4月12日木曜日

CLOVER

 今日、戯れにAmazon.co.jpからのおすすめを見ていたところ、 — あ、いや、今日は別にネタがなかったってわけじゃなくて、いやね、M-AudioのマイクAriesを注文したものだから、それで書くつもりでいたんです。だから、本当に戯れ。そしたら、カードキャプターさくら THE MOVIE COLLECTIONなんてのがおすすめされていて、えーっ、また出るんだー、と思ってまたこれも戯れに開いてみたら、そこに我が目を疑うような記述を発見。あわせて買いたいこのDVDとCLOVER DVD ~ CLAMP をあわせて買う。って、マジで!? わお、ついに『CLOVER』がDVDになるんだ。こいつは買わなくっちゃだわ! とばかりに即決。いや、本当、ちょっとこいつは春から嬉しい話じゃありませんか。

CLOVER』というのはあの漫画制作集団CLAMP原作の漫画、『なかよし』の姉妹誌『Amie』にて連載されていました。趣味性の極めて高い独特の雰囲気のある雑誌で、そして私にそうした印象を残させたのは、他でもない『CLOVER』であったと、そんな風に感じています。細密な絵、コマ割りも独特で、かなりイラストレーションに接近する趣のある漫画でした。そして、私はこの漫画が好きだったんですよ。

『CLOVER』連載当時のCLAMPの当たり作はいわずと知れた『カードキャプターさくら』。アニメになり、映画になり、不況に向かう世相の中、金になるタイトルとして重宝されたか、関連商品が次々とリリースされ、まさしく収奪ための……、ってそんなことをいいたいんじゃなくて、そうそう『カードキャプターさくら』が映画になったとき、この『CLOVER』が併映されたのです。あのスタイリッシュであることの追求が目的といわんばかりの『CLOVER』が映像においてはどのように表現されるのか、それがなによりも興味深く、そして私は劇場でその表れ方を目の当たりにして、息を飲んだ。印象に残るのは最後に発せられる一声。正直な話、すごくよかった。世界観を壊すことなく、しかし漫画の表現とは違う地点を目指して飛ぶ、そんな風な思い切り方。よくできている。ごくごく短いものながらも、そのわずかな時間に凝縮されたものは大きく、当時私はこれがパッケージ化されないものかと期待しながら、どこか無理とあきらめてきて、けど2007年にしてついにDVD化か。長かったよ。あまりに時間がかかりすぎたそのせいで、気付かずに行き過ぎてしまう可能性もあったのに、運よくそのリリースを知ることができた。本当によかった。自分は運がよかった、そう思います。

引用

2007年4月11日水曜日

よりみちドロップ — かずといずみ画集

 この人の描く絵が好きだといっていたかずといずみさんの画集が発売されまして、わあ、なにこの大逆転ホームラン。ええと、ちょっと以前の文章を引用してみましょうか。

私は[中略]いずみという人の描く絵が好きで、例えばそれは、『ちょこパフェ』のように頭身の比率の小さいものだけでなく、サイトで見ることのできるような絵、 — これが本当に素敵。一枚の絵の中に実によく雰囲気が込められていて、空気の色合いや温度、広がり、そしてにおいまでが届きそうに思うのです。

そう、私が好きだといったかずといずみの絵の世界が一冊にぎゅうっと凝縮されているんだと、それだけでもう嬉しくて仕方がなくなるじゃないですか。だから、買いにいきまして、買ってきまして、ただここに私の駄目なところがあるのですが、発売日昨日だと思っていたら、先月末だったんですね(昨日というのは奥付の出版日です!)。ああ、残念。二週を知らず待つことになってしまい、なんと残念なことであったろうと思います。

さて、かずといずみとくれば触れておかなければならないのが、同人誌『くろいろ』の表紙でしょう。私は、インターネット上、掲示板に無断転載されたこの絵を見て、素敵な絵だなあと思って、ええと画集でいえば86ページ。黒い髪、黒い瞳、黒いセーラーに黒いかばんにそして黒タイツ。雪の降る中、傘を手にして立つショートカットの女の子の姿が実に印象的、いい絵だなあ思っていたら、それが私の買って楽しみに読んでいた『まんがタイム』系列誌連載の漫画『ちょこパフェ』のいずみさんの絵とわかって、その時には大いに驚いたものでした。というのは、『ちょこパフェ』は少し頭身低めのデフォルメした絵柄、対して『くろいろ』は頭身高目の絵柄、雰囲気は結構違っていると感じられて、けれど通底するものはありますね。絵一枚でぐっと人を引きつける、そういう強いアトラクションを感じさせる魅力的な画風の人であると思ったのです。

この人の開設されているサイトの存在を知って、過去絵をざーっと見ていって、『くろいろ』発見して、そして他の絵の素敵なことにも驚かされて、もうすっかり参ってしまったんですが、にしてもほんといい絵ですよ。発色はシック、ポップさよりも穏やかさを感じさせる絵、水彩を思わせるタッチがやさしく触れてくるそんな感じであるのに、私を引きつけてやまないというのは、絵の向こうに広がるストーリー、流れる時間を一コマ切り取ったように感じられる、そこであるんだと思うんです。私の好きなこの人の絵、画集81ページの『あっ! 見つかった!』、96ページの『近くて、遠くて。』、なんてのはそうした典型であると思うのですが、素敵と感じる絵は他にもいろいろあって、74ページ『たそがれ』なんて何度見てもドキドキするし、67ページ『お気に入りの場所』もなんか吸い込まれそうな感じで、ああ、もう全部のイラストにコメントつけたいぐらいだが、それはさすがに自分でも引くのでやめときます。

以前ジュンク堂書店に『サンデーGX』を見て、それがかずといずみの描く表紙、2005年2月号(20ページ)の絵ですね。これを見たとき、私は『サンデーGX』を本気で購読しようかどうか迷って、けれどそうしたらきっと過去の表紙を手にできないことに悔しさを思うだろうからあえてやめた。けれど、あの時の思いを今こうして画集によってすくい取ることができたと思って、そして今まで見たことのないような絵もたくさん! ああ、嬉しい。本当に嬉しい。見る用にもう一冊買ってもいいかな、なんて思ったのですが、さすがにそれは私自身引くのでやめときます。

他にも読んだ人のみならず私自身でさえも引きそうな感想はたくさんあるのですが、そのへんはやばいのでこの辺でとどめておきたいと思います。けど、最後に一言。私がこの人の絵にひかれるのって、この人の好きのポイントと私の好きのポイントがかなりかぶっているからと、そんな理由ですねきっと。詳しくは画集(主に『コンプティーク』連載物とインタビュー)を見ていただくとして、とりあえずひとつだけ引用しておこう。むっちりした足よりも、か細い足が好きです…。

はい、私もです。

このコメント、この人の絵のポイントになる要素が隠されていると思うのですが、身体を表現するに際し抑制が利いているという、そういう感じがいいんだと思うのです。黒タイツに関してのコメント、全部見せたらつまらないも同じことをいっているんだと思う。普段抑制され、隠蔽されている身体というものが、稀にふとあらわれるから、見ている私はなんかドキーッとしてしまって、直視するのに耐ええないほどに心がかき乱されてしまう。それは例えば『くろいろ』や『あっ! 見つかった!』においてもそうなんです。身体こそは隠蔽されているけれど、吐く息に感じる寒さや買い食いする口元に身体の確かに存在することをこそっと告げられて、そしてその身体感が周囲の空気、世界の広がりを色づけてくれる。ああ、本当にいい絵だ。もちろん、これは例にあげた二枚だけの話ではなくて、この人の描く絵に共通する話と理解していただけるとありがたいです。だって、しっかりと身体がアピールされているような絵もありますからね、そうなんですよ、私が思わず目をそらしてしまいそうになるというのはそういう絵なんですよ。ほんと、ドキドキする。瞬間目をそらさなきゃと思うのに視線を外すこともまたできず、ドキドキしっぱなし。このときめく感じは、なんなんだろう。いや、ほんと、この人の描く絵が好きなんです。この感覚は、萌えなんていう生易しいものではありませんよ。

引用

2007年4月10日火曜日

リカってば!

  かつて私の愛した雑誌『まんがタイムポップ』にて連載されていた『リカってば!』は『まんがタイムジャンボ』に引っ越して好評連載中。というか、今は絶賛休載中であるんですが……、でももう少ししたら連載再開されるらしいといいますから、ああ嬉しいな。私はこの漫画が好きで、それはもう『ポップ』に連載されていた頃から。四コマ誌『まんがタイム』系列誌に連載されるストーリー形式の漫画であるのですが、四コマ誌に載っている漫画としては実に異色。らしからぬ絵柄、内容。むしろこれは女性誌、少女誌とかではなくて二十代中盤くらいをターゲットにした女性向け漫画誌に載っていてもおかしくないような漫画である、そんな雰囲気を持っています。あっけらかんとして大ざっぱな女性と、小柄でナイーブな男性を巡る恋の模様が描かれる、そうですね、ラブコメなんだと思います。

そしてこの度、『リカってば!』の第2巻が発売されまして、わあ、嬉しいな。これ、まんがタイムコミックスとして出ているのだけれど、四コマとは紙質も判型も違っていて、普通のコミックス(というのも変な表現ですが)みたいな感じです。一時この判型でストーリーものが立て続けに出て、けれどその後が続かなかったから、もしかしたら売れなかったのじゃないかなんて心配していたのですが、こうして2巻が出て、よかった、『リカってば!』は売れていたんですね。こうして続きをまとめて読むことができて、雑誌で連載を追っていた時とはまた違った感慨が、といいたいところですが、この巻に収録されてる話って一年以上前の掲載じゃないですか。参ったな、そんなになるんだ。ほんと、驚いてしまいました。

かなり長いスパンをかけて展開している話ですが、驚くほどに進展はなく、以前、1巻が出たときにいってた状況からまだ抜け出せていない。そんな感じです。ヒロインのリカ、そして主人公の塚田がお互いにひかれながら、けれどそれぞれ別に気になる男性女性があって、その間で揺れ動きながら、近づき、離れ、その連続。まあ、私ら読者からしたら、両者の思うところはもう明白であるわけですから、ああ、もう、やきもきするなあ、お前らもう結婚でもなんでもしちゃえよ、みたいな風にもなるんですが、けどこの漫画に関してはそのやきもき感が面白いんだと思うんです。無駄に引き伸ばしてるのかも知れない、けどそこには無理な感じというのはなくて、リカとリカの今つきあってる羽鳥君との関係、塚田と塚田を思う可憐な女性安曇さんとの思いのやり取りに、おそらくはこの漫画の本筋からすれば壊れてしまう恋、かなわぬ恋になるだろう彼彼女らの心の行く末を思い、なんかしんみりと泣き笑いな感じなんですね。とりわけ私は男だからか安曇さんに肩入れしてしまうわけですが、彼女自身自分の思いのかなわぬ可能性、報われないことを知りながら、それでも塚田への思いを捨てられない。ああ、わかるわ、わかる。そうなんだよ。と、私自身はもうすっかり忘れてしまったような感覚感情を思わず掘り起こされて揺さぶられて、もう安曇さんを応援しちゃうね、みたいな感じになっちゃう。でも、この漫画の本筋からすると報われないんだよなあ。ああ、恋って素晴らしいけど悲しいねえ。

でもって、塚田もいい。安曇の思いを知って、揺らぎながらも決然と身を引き離すその潔さはリカという思い人のあらばこそで、人というのは恋してるとなんか潔癖になるよな。そんで、後で後悔するんだ。ああ、なんであの千載一遇のチャンスを、わたくしのバカ! バカバカバカ! みたいな感じで後悔するんだけど、けどぐだぐだぐちぐちと堂々巡りしてる塚田の情けなさ、嫌いじゃないです。人間くさいじゃないですか。なんでもかんでも割り切って動けるなんて、やっぱ無理ですよ。そういう、人間の駄目さ、浮かれてみたり揺らいでみたり、メランコリーだったりちょっと浸ってしまったり、ほんで妄想の中でかっこつけてみたり! 誰でもやるよな。私もやるよ、てかやったよ。そんな感じで、塚田はいい。

深刻だったり煮え切らなかったりする人たちの話だけど、それでも湿っぽい一辺倒だったりしないのは、どこかにあっけらかんとしたところが感じられるのは、この作者のいいところだと思います。基本的に笑いがある。シリアスでナイーブなところを見せながら、同時に明け透けな思惑も描かれたりするところ、人間の潔癖でありたいという思いとどろどろとした欲求の狭間の揺れ動きったら言葉が大げさすぎるよね。けど、そんな感じ。私たちは理想的な生き方をしたいと思いながら、時に劣情に近く胸を焦がすのさ。そのさじ加減がすごくいい。

というわけで、私は連載再開を心待ち。2巻では塚田の妹ミツルの出番までいかなかったので、ちょっと残念かなーと思っているから、是非3巻の出ることを楽しみに、そして彼ら彼女らの恋愛模様の動きなんかも楽しみにしたいところです。

  • 長谷川スズ『リカってば!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 長谷川スズ『リカってば!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月9日月曜日

UA-4FX USB オーディオキャプチャー

 昨日の記事、Skype導入について書いたついでに、ちょっと気になる機材やなんかに触れてみたらば、yujirocketsさん、コメント欄にて曰く、M-AUDIO の Black Box に興味津々ですとのこと。Black Boxギタリスト・フォーカスと銘打たれたページにて紹介されていることからもわかるように、そのターゲットはほかならぬギタリスト。アンプシミュレータであり、エフェクタであり、ドラムマシンであり、そしてオーディオインターフェイスでもあるというその多役ぶりは、確かにギタリストの興味を引くには充分のスペックだろうなあと私も思います。でも、ここでいうギタリストはどちらかというとエレキギターを弾く人なんじゃないかなあ。というのは、やっぱりアンシミュであるわけで、ドラムマシンであるわけで、そしてやっぱりエフェクタであるわけです。だから、というわけでもないのですが、私にはあまり訴えるところが少なくて、どちらかといえば私はEdirolのUA-4FXに興味を持っています。

UA-4FXは、Black Boxに比べれば機能面で見劣りするような感じがして、だってドラムマシンはついてないし、アンプシミュレータも真空管アンプモデリングこそ売りですが、Black Boxのようなさまざまなタイプをシミュレートするわけでもなさそうで、エフェクタとしてもあんまりいろいろできそうにない。じゃあ、なんでそれが興味の対象になるのかというと、なにより使いやすそうという点と、そして48Vファンタム電源供給可能の二点なんじゃないかなあとそんな風に思っています。

ダイナミックマイクじゃ駄目なのか、といわれると、いや、別にダイナミックでもいいとは思うんだけどと答えたくなりますが、けどせっかくコンデンサマイクを持ってるんだから、ここはファンタム電源対応であって欲しいわけです。けど帯に短したすきに長しというか、UA-4FXはファンタム電源対応のXLRが一系統しかなくて、そっちをボーカルにまわしたとしたら、ギターは標準ジャックで入れることになるのかな? 私のギターがエレアコだったらよかったのかも知れないけど、ピックアップついてないからちょっとなあ、と思ったので見送ったという経緯があります。

でも、そのUA-4FXがなぜ今再び興味の対象になっているかというと、それは昨日いっていたSkypeで歌う話に繋がるわけです。UA-4FXの売りはなにかというと、インターフェイス部分でエフェクトをかけることができるということに尽きるのではないかと思います。すなわち、コンピュータ側の設定は入力にUA-4FXを指定してやるだけで完了ということ。エフェクトは全部UA-4FXまかせでいいわけです。こいつは楽そうだ。と思ったんですね。

Skypeで歌ってみてわかったんですよ。私はエフェクトとかあんまりかけたくないものだから、シンプルにただマイクからの音を入力できそうなFast Track Proを選んだわけですが、録音なら別にこれでいいんですよね。エフェクトかけたくなりゃ、後がけすればいいんですから。でもリアルタイムで歌おうとなるとちょっと話は変わってきて、そう、かけ流し(っていうの?)する必要が出てくるんですよ。いや、実際、直に自分の歌ってるのを聴いたわけじゃありませんけど、コーラスですか? ディレイですか? 空間系エフェクトのまるっきりかかってないのって聴いていて辛いですよ。Skype通話テストサービスで応答してもらった自分の声、うわ、これいやだなあと思いましたもの。だからその嫌さを誤魔化す手段が欲しいなと思ったのです。それもできるだけ面倒少ない方向で!

ちょっといろいろレビューやなんかを読んでみると、真空管アンプモデリングとエフェクタは排他であるみたいですね。で、エフェクタですが、これ自由に自分で組み合わせを決められるのではなくて、プリセットの三種類から選ぶ方法みたい。ノイズ・サプレッサー、エンハンサー、ハイローのコンプレッサが組み合わされたマスタリングのセット。センターキャンセルと、ローブースト、ハイブースト、リバーブのリスニングセット。けど、これらは自分にゃ関係ないな。ということで真打ち登場、パフォームセットはどうであるかというと、FXボイス、アンプ/ドライブ、コーラス、ディレイが組み合わさってくる。わお、FXボイスとアンプ/ドライブは私にゃいらなさそうだなあ。

私の使いたいエフェクトはというと、コンプレッサー(というかリミッター)に空間系、コーラスとディレイあたりなんです。だから……、やっぱりなんだか帯に短したすきに長しかも知れません。

Fast Track Proにはインサート端子がついてるから、素直にこれを利用するのがいいのかな。けど、これって空間系というよりもリミッター、コンプレッサーを想定して付けられてるもんだよなあ。なんて考え出すと、ああ、よくわかんないや、となってしまう私には、やっぱりとにかくわかりやすいものでないといけない模様。そんな具合で、やっぱりUA-4FXが気になるのです。

引用

参考

2007年4月8日日曜日

Skype

昨日、遠くの友人にちょっと聴いてもらいたい歌があったものだから、Skype導入しまして、つまりはインターネット経由で届けようと思ったのですが、残念、その人はSkype導入していないそうでお流れになってしまいました。一念発起してオーディオインターフェイスからマイクまで用意したのに、その気合いが空振りしてしまって、実に中途半端なサスペンド状態。なんか大げさな表現してますが、だってこのマイク、Skype用にといって販売されているようなお手軽ハンズフリーなものじゃなくて、ブームスタンド立ててセットするような実に面倒なもので、これまでほとんどこのマイクを使ってこなかったのは、正直なところ面倒だから。その面倒をかえりみずSkypeの導入にまでいたらせたというのですから、どれほどの気合いであったかわかるでしょう。え? わからない? ううむ、面倒くさがりやの気持ちを人に伝えるのはむずかしいものだなあ。

さて、先ほどからいっていますSkype。これ、なにかといいますと、インターネット経由で使える電話でありまして、Skype同士なら無料で使えるというのが売りです。コンピュータとブロードバンド回線必須ではありますが、その条件さえクリアできれば、遠距離だろうが国際だろうが、無料で通話可能。これは素晴らしい。遠距離恋愛カップルや単身赴任者なんかには最高のソフトだと思うのですが、ま、このへんは私には関係のない話です。

私がSkypeを導入したのは、通常の通話目的ではなくて、自分の歌うのを誰かに聞いてもらいたいものだという、そういうもくろみからでありまして、それが一番最初の話に繋がります。聴いて欲しい歌があるんだ! といっても最初の機会は失われてしまったのですが、でもそのまま失われたままにしておくのも空しいものがあるので、いきましたね、インターネット上で知り合いの集まる場所に。で、そこでSkypeやってる人がいないか聞いて、実験につきあってもらったのでありました。

一度やってみた感想はというと、実にいい感触が得られたっていっちゃっていいと思います。これいけますよ。実験では私一人がマイク持ちで、他の人はスピーカーオンリー。つまり一方方向通話でやったのですが、それでも充分です。どんな風に聴こえているかまではわからないものの、うまくゲインをコントロールできればしっかりとそれなりの音質で届けられそうだぞと、そんな感じです。そして、これが大きいのですが、Skypeには会議通話機能があるので、一度に九人での通話が可能。私を抜いたら、八人に一度に聴いてもらえるわけで、実に好都合。このあたりは解釈の問題になると思うのですが、友人九人でのパーティ通話が公衆送信に当たらないなら、著作権存続著作物を利用しても問題にはならないのではないかと、こういうもくろみもあって、少人数及び知りあい限定でいいなら、これは実にいいコミュニケーションツールとなってくれると思います。

さてここで機材について。私の使っているオーディオインターフェイスはM-AUDIOのFast Track Pro、これにコンデンサマイクM-AUDIO Pulsarを繋いでいます。つまり、歌もギターもワンマイクでとってるってことです。

この構成でやってみてわかったのですが、ライブでの歌唱をやりたいというようなときにはFast Track ProよりもEdirol UA-25の方がいいかな、というのは、UA-25にはリミッターがついているので、過大な入力があったときなんかには、ピークを落としてくれるんです。これだと、過大入力を嫌ってゲインを絞る必要がないから、音圧を最大限稼ぐことができそうで、だからといってもうひとつオーディオインターフェイス買えるほどお大尽ではないから、まあノイズが出るのも味と思っていただく他あるまいと、そんな感じ、割り切っていきましょう。

今回はワンマイクでやったわけですが、将来的には楽器にはPulsar、歌にはAriesあたりを導入して、なんて思ったりして、こうなると当初の予定どおりという感じになりますね。けど、こうした機会が増えるならもっと気軽に使える、それこそ出しっぱなしでもいいようなマイクも欲しいななんて思ってきて、となると藤本健のDigital Audio Laboratoryで紹介されていた、BEHRINGER C-1あたりが気になるところ。これ、五千円程度で買えるんだそうです。これを、ブームスタンド使わず、机に小さなスタンドかなんかで立てて使えばもっと気楽にいけるかな、なんて思ったわけですよ。

けど、気楽でいうなら、上には上がありまして、これ実にタイムリーな話題。私は、カナダのPodcast、Le Podcast de la Cabane au Canadaを聴いているのですが、今日のLe PCCで紹介されていたのが、MXLのUSB.006。これ、ラージダイアフラムの単一指向性コンデンサマイクなんですが、USBでPCに直結できるんです。すごい気楽! ちょっと価格が高いのは難点だけど、でもコンデンサマイクで169.95ドルなら充分安い部類。オーディオインターフェイスがいらないという点でも有利かなと思います。まあ、ステレオでとりたいとか、そういう向きにはちょっと使いにくいマイクとなるかも知れませんけど、Podcastやりたいとか、ワンマイクで気楽にSkypeやりたいとか、そういう需要になら充分答えられるんじゃないかと思います。

てな具合で、Skype導入で夢広がりまくり、購買意欲も刺戟されまくり、というお話でした。

参考

2007年4月7日土曜日

開運貴婦人マダム・パープル

 今、話題沸騰のスーパー占い師マダム・パープルはすごいぞ! なにがすごいといっても、レミオ○メンの『粉雪』ネタを読んでたら、本当にテレビから『粉雪』が流れてきたんだから。って、これはマダムじゃなくて竜田川さんか。ともあれ、昨今の占いはじめオカルトばやりの世相を反映させたか、四コマ漫画界にも占い師が降臨して、そしてこの占い師というのがすごいのです。当てる、とにかく当てる。相手の素性もなにも聞かないうちからばんばん当てていって、ええと……、マダムは占い師じゃなくて超能力者を名乗るべきだと思います。それくらい当たる。けどこの漫画の一番すごいところは、その当たる占いというのがことごとくギャグとして成立しているというところで、とにかく面白い。『天子てんこ』の時にもいってましたけど、この人、意外性を駆使して日常におかしみを見いだす才能に長けた人だと思います。

この漫画のなにが面白いかといって、千里眼万里眼といっていいくらいの能力なのに、実にくだらないことに使われるってとこなんじゃないかと思うんですが、生活感があるというか、日常感に満ちあふれているというか、漫画読む私たちの生活実感からかけ離れないところで起こるできごとの数々。非現実的で、なによりナンセンスなんだけれど、あったら楽しそうというそんなところがすごくいい。

ネタは占いにとどまらず、呪いの○○や心霊うんぬんなんてのまでフォローされるんだけど、呪いのなんて妙に気合いが入りそうなものなのに、実害はないに等しいしょぼさだし、心霊写真にしても、そっちかよと突っ込み入れたくなるような肩透かしのうまさがあって、やっぱりこれって才能なのかな。これが現実なら大げさにセンセーショナルにもっていきそうなところを捉えて、ちょっと普通なら繋がらないようなできごとに結びつけてしまう。その落差や脱力感がすごいからどうにもこうにも笑わずにはいられなくて、毎回の落ちが本当に楽しみになります。意外性の勝利でしょうね。奇をてらいすぎるでもなく、けど思い切った飛躍で読むものの予測を二転三転裏切って見せる。その見せ方は実にシンプル、必要最低限の情報に切り詰められているから、読んでるこちらもまごまごせずに落ちにすとんと納得できて、いやあ、ネタ作るの大変なんじゃないかなあ。これ、思いつきレベルのネタから最終形に持っていくだけでも、かなりの推敲、練り上げがなされているんじゃないかと思います。

私は実は、占いがらみのなんだかんだって大嫌いで、テレビも見ない、話も聞きたくないっていうような人間なんですが、でもマダムなら別。毎号を楽しみにするくらい好きな漫画で、それはきっとこの人の漫画に通底する、ささやかな仕合せを願う善良な人たちへの信頼っていうのか、まあいうたら庶民的なところが肌に合うのだと思います。加えて、この人特有の常識人っぽさというかが、あまりに大げさに扱われる占いオカルトの類いを茶化して無毒化するようなところもあるから、そういうところも気に入っている理由なんじゃないかと思います。こういう書き方すると、それだけでもうなんか大げさですが、漫画はそんな大げさななんかじゃなくて、すごく身近な感じのする良作です。

蛇足

私のお気に入りのネタは、89-90ページにかけての「小さな発見」、「新しい発見」で、こればっかりは何度見ても見飽きない。何度読んでもそのつど笑える、すごい漫画だと思います。子象も可愛いし!

2007年4月6日金曜日

おこしやす

 おこしやす、ゆうたら京言葉ですね。ようこそおいでになられましたという歓待の気持ちが感じられるいい言葉やと思うんですが、実際に耳にする機会はあんまりありません。ゆうても私が京都の中の人間やないからかも知れませんけど、確かに私の住んでるとこくらいになると、あんまり京都っていう感じはしないのでそれも致し方ないのでしょう。さて、そんな微妙な京都人(つまりちゃんとした京都の人間やないっていうこと)である私のお気に入りの漫画、久保田順子の『おこしやす』が単行本になりました。これ、漫画の舞台が京都っていうだけやなくて、テーマそのものが京都です。よそから京都にきはった大学生銀二が老舗の呉服屋の一人娘ゆいなとその友人あこと親交を深めるなかで知っていく京都。その京都の描き方、いろいろのできごと、風習の選び方が実に気の利いていて、へー、そんなんあるんやと驚くくらい。おもしろいなあと思って読んでたら、おおかたの人が同じ感想をもたはったみたいで、ついに単行本にまとまって、嬉しいなあ、まとめて読めます。

ここで扱われている京都は、永遠の古都であったり伝統と格式の異世界といった架空の京都ではなくて、まさに今私たちが生きて暮らしている、この時代の、現在の京都であるという、そこがすごくいいのだと思うのです。確かに漫画ではあるから、現実の京都よりもちょっと幻想の京都に踏み込んではいるんですが、でも幻想の京都を逆手にとってみせるようなしたたかさもあって、確かに京都においても買い物の中心はコンビニに移行してますわね。八坂神社の向かいにローソンがあるのも知られた話ですが、そんな感じでだんだんと昔の雰囲気、たたずまいを失っていく京都が、けれど実はちょっと踏み込めばやっぱり他のどこでもない京都であるということがわかる。この漫画には、そういうことに気付かせてくれる一コマがあって、そういうところがすごくよいなと思って、毎号を楽しみに読んでいました。

私は京都のそばに住んで、京都の風習も少しは知ってはいるのですが、けれどこの漫画を見れば実は全然知ってなかったということに気付かされて、そうかあ、そんなことがあるんだ、そういう意味があったんだと実に新鮮な気分で京都の暮らしというものが見えてきて、私の父は京都の嵯峨出身なんですが、この漫画に使われたネタについて聞いてみたり、そうしたら父も母も知らなかったり、ほんとそんな感じ。同じ京都でも、ちょっと場所が違えば風習習慣もまた違うみたいですね。京都の中に住んでいる人なら、そうそうというネタが、ちょっとはずれた人から見れば、そういうのもあるんだとなり、そして京都を遠くの場所として知っている人からすれば、京都というのはこんなに面白い土地なのかと、その立場見方でいろいろに楽しめる要素のある漫画であると思っています。

『おこしやす』には作者久保田順子のエッセイ漫画「京都見て歩記」も収録されていて、これってきっと『おこしやす』に描かれた京都があんまりによかったからエッセイも、ということなんでしょうね。このエッセイ漫画も面白く、作者の好きな京都、人気の場所なんだけど、あまりに京都京都していないちょっと気の利いた場所が紹介されるものだから、私もいってみたいなとそんな気持ちになって、いや、まだいったりはしてないんですが、けどいったことのある場所も多いんですよ。なんたって一時期は毎週とか週二回とかのペースで市内に出てましたから。鴨川べりを延々あるいて百万遍までいってみたり、美術館いった帰りにお寺まわってみたり、目抜き通りの変わりようにはがっかりすることもある私ですが、それでも京都には魅力があるんだと思ってきて、そしてこの作者はその魅力を伝えるのが大変にうまいのだと思います。

『おこしやす』本編は、全編に京都ネタがちりばめられているのではなく、まったく京都という土地から自由に練られたネタもあって、だから同色一辺倒といういやらしさがなくて、このへん、いい塩梅だと思います。いい塩梅といえば、銀二の淡い恋心、あれは成就せんね。このへんも、ほんまにいい塩梅やと思います。いや、冗談やなくて、なんでもかんでも恋愛恋愛みたいにもっていこうというんは好かんと思ってるもんですから、この点、この漫画は自分の持ち味をよく把握して、損なうことなく膨らませることに成功している。安心して読んで、楽しく読み終えられるいい漫画です。

余談

うちの近所が出てきたときには、びっくりして、けど嬉しかった。いや、ほんま。あ、この、いやゆうんはどうも私の癖みたいですね。京都の人は、ようゆう言葉やと思います。

  • 久保田順子『おこしやす』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月5日木曜日

That's データ用DVD-Rプリンタブル 4.7GB 8倍速

 コンピュータの前に座って手持ち無沙汰になったりすると、なんとはなしに見てしまうのがAmazon.co.jpのおすすめです。興味を広げるのにも役立つし、また自分の傾向を客観視するきっかけも得られたりするし、それになによりBlogのネタが拾えるというのが大きい。そんなわけで、拾いましたよ。拾いました。なんと、今日のおすすめ商品第28位に、これまで出そうで出なかったものが出てきましてね、そいつは一体なにかというと、That's データ用DVD-Rプリンタブル 4.7GB 8倍速 50枚入り。ええーっ、一体なんでこれがおすすめされるんだと思ったら、

月刊 まんがタウン 2007年 05月号 [雑誌]を評価されたお客様におすすめします

ってことらしい。って、ええーっ! そりゃあないよ。これにはさすがの私も、思わず笑ってしまいました。

四コマ漫画読みには、そのあまりに単行本されない漫画が多すぎるというジャンル特性のために、雑誌をスキャンして保存しているという人が少なくないと聞きます。私なんかは冊子という形態にこだわりを見せるために、捨てるに捨てられず、自室に雑誌の塔を何本も築いたりしていますが、そういう意味ではデータ化しちゃうというのは確かに合理的ですよね。後でちゃんと探せるし、読みやすいかどうかは別として、読んで楽しむことも不可能ではないでしょう。で、まんがタウンを読んでる人は、太陽誘電製DVD-Rを愛用してるわけかあ、ってそれはどうだろう。これ、たまたま誰かが一緒にDVD-Rを買ったってだけじゃないのかなあ。だって、そんなに雑誌をスキャンしてる人って多いとは思えないもの。いや、どうなんだろう。実は多い? 冊子体で残してる私の方が少数派? まあ、どちらにせよ、漫画買った人におすすめする商品じゃないよなあって感じはします。

数ヶ月前、いや半年くらい前かな、日経コンピュータだったと思うんですけど、DVDメディアの特集が組まれていまして、それが結構興味深い話だったものですからよく覚えています。一口にDVD-Rといっても、高いメディア安いメディア、海外メディア国産メディアといろいろありますが、実はその品質の高低はかなりなものであるんだそうです。その特集では、DVD-R記録時に発生するエラー数を計測し、DVDのエラー訂正が吸収できる範囲のエラーを敷居として、各種メディアの比較をしていたんです。そしたら、確かに違いがすごいんですよ。記事ではメーカー名、商品名は出ておらず、国産、海外産というような大きなくくりでしかなかったのですが、海外産のしかもかなり安いやつでは記録した瞬間に敷居を越えたりしているケースがあったりして、結構ショックな記事ですよ。で、内容を読んでいくと、やっぱりある程度の費用を払ったほうがいい結果が得られるらしいということがわかる。

ここで注意しなければならないのは、海外産=粗悪という図式は成り立たないということで、そこではリコーが紹介されていましたが、海外で生産はしているけれどコントロールはリコーがおこなっているため、品質が極端に低いというようなことはないように調整されていますというような事例が出ていたりして、結構客観的に書かれた読みごたえのある記事でした。

ただ、その記事で目を引いたのは、メディアの保存性のグラフでしたね。DVDに限らずメディアは長期間置いておくと劣化して読めなくなったりしますが、そのエラー発生の率というのもさまざまで、あっという間に劣化するものもあれば、徐々に悪くなっていってついに敷居値を越えてしまうというものまでいろいろ。しかし、驚異的だったのは、計測不能ってやつですよ。計測不能のひとつのケースは、悪すぎる場合。記録した瞬間に敷居値を越えているようなものが該当します。そしてもうひとつは、よすぎる場合。この計測というのは、苛酷な環境、高温多湿であるとかにメディアをさらして、一定の時間でメディアをチェック。そうして得られたデータの対数を取ってグラフ化したんだったかな? そういうものなんですが、なんとついにエラー数が敷居値を超えないようなメディアもあったんだそうです(敷居値に達するまで試験を続けると膨大な時間がかかるため断念されたとのこと)。

そのメディアについて教えてくれ、って気分だったんですが、それはさすがに書かれていませんでした。わかっているのは国産品であるということだけ。ということは、太陽誘電かな、あるいは三菱化成かな、みたいな感じで、確かこの二社が国内DVDメディアメーカーの二大巨頭だったと記憶しているんですが、いずれにせよ、驚異的な成績だったと記録しています。

Amazonのおすすめに話を戻しますと、私の今手もとに置かれているDVD-Rはまさしく太陽誘電製That'sでありまして、プリンタブルじゃないんですけどね、DVDに印刷できるようなプリンタ持ってないから。けど、太陽誘電愛用者にこいつをおすすめするところなんざ、Amazonめ、結構いいところつきやがるなあと改めて思います(いや、単にたくさん売れてるってだけの話だと思うけど)。

先ほど紹介した特集でいわれていた、エラーを発生させずにDVD-Rに記録する方法、ちょっと重要そうなのを紹介しておきたいと思います。それは結局はドライブとの相性なんですが、ドライブによってもエラーの発生率に上下があるらしく、そしてこれが重要なのですが、メディアごとのプロファイルというのがあるから、とにかくドライバだかなんだかを最新版にアップデートして、自分の使っているメディアにそぐうプロファイルを入手することが大切、なのだそうです。

その話聞いてから、DVD-Rドライブに関しては、内蔵じゃなくて外付けがいいんじゃないかなあなんて思っています。そして、マメなアップデート。これが良質な盤を作成するコツと心得ておきたいところです。

2007年4月4日水曜日

さくら

 去年の春、職場、他部署の人が薮から棒に、また森山直太郎の『さくら』歌ってえや、とゆうてきて、え、ちょっと待って、またって、私、『さくら』歌ったこと一度もありませんよ。実に不思議な話。けれどその人の中では私は『さくら』を歌うべきことになっているらしく、だから一年が経って再び桜の季節が訪れた今、森山直太郎の『さくら』に挑戦することにしたのでした。『さくら』 — 、説明するのも馬鹿馬鹿しくなるくらいに有名なこの歌は、森山直太郎のメジャーデビューアルバムに収録されていたものだそうですね。おそらくは卒業の景色を、桜の花の咲き、散る姿に重ね合わせて歌ったこの歌は、詞、曲、歌唱ともに多くの人の心を捉えたようで、早くも森山直太郎の代表曲となっています。実際、つい先月に送った卒業の月において、日本のあちこちでこの歌が歌われたものと思います。

この歌をいよいよ練習しようと思ったのは、先週だったかな? にテレビで森山直太郎がこの歌を歌っているのを見たからで、いい曲だなあ、本当にそう思ったものですから、歌ってみようかなという気になったのです。いや、実は楽譜はもう持っていて、ヤマハの出していた雑誌『大人のギターマガジン ギター倶楽部』の第3号に収録されていましてですね、この雑誌、明らかにベンチャーズ世代あたりのおじさんをターゲットにしていたんですが、そこにも載るくらいに幅広い年代に訴えた歌だということが知れると思います。友情、別れ、その寂しさに希望を重ね合わせる歌の世界は広く、確かに愛される理由はわかります。

私、森山直太郎がこの歌を歌ってるのを聴いては、いつもなんだか苦しそうに歌ってるなあと思っていたんですが、実際自分でも歌ってみて、納得しましたよ。手もとの楽譜はin Gで書いてあって、さらにそこにカポをつけてAbにすると原曲通りになるんだそうで、ええと、そうすると最高音がHigh Cになるんですが……。こりゃきっと出ないだろうなと思いながらも試してみたら、やっぱり無理。High Cにたどり着く前にくたびれきって、仕方がないからカポを外したんですが、それでも無理。しんどそうなんじゃなくて、しんどいんですよ実際、この曲。レンジも広いし、結構大変な歌です。

転調してみました。ええと、3度下げてin Eにしまして(原調から見れば4度下げですね)、そうすると最高音がG、いやG#か。無理っぽいなあ。歌ってみて、歌えないこともないけど消耗がすごい。ちょっと無理。一番で燃え尽きてどうすんねん。ええと、4度下げてin Dにしまして、これならなんとかなりそう。ちょっと歌って、1カポでin Ebにして、これがちょうど私に歌いやすい音域であるようです。ちなみに、私は全然ファルセット(裏声)が利かないので、ファルセット使わなくてもよいようにしています。

練習しはじめた頃、つまり調を探りながらたどたどしく弾き歌っていた頃、楽譜を頼りに音をとり、歌詞もろくろくわからず食い入るようにして読んでいたとき、そのせいか、歌詞にやられて練習にならんのです。歌詞、口語詩と思っていたら文語が混じったりしてぎょっとしたりもしたのですが、それは慣れればなんとでもなります。なかなか慣れることができなかったのは、その歌の表現する内容で、泣いちゃうんだ。いやはや、恥ずかしいことなんだけど。さらば、友よ。別れの瞬間、泣く友人に呼びかける泣くなの言葉のストレートにして強い表現。泣くなと歌う自分が泣いてどうするんだって感じですが、これまで何度も繰り返してきた別れ、おそらくこれからも何度も越えていかねばならないだろう別れ、そうした情景が一度に胸に去来するようで、うっとくる。歌ってると我慢できないんだ。泣いてしまって、歌ってられなくて、とりあえずこうしたことのないようにするというのが練習の最初でしたね。

今はもう泣いたりしないけど、けど油断するといけないのは、

どんなに苦しいときも君は笑っているから
くじけそうになりかけても頑張れる気がしたよ

のくだりで、昔の友人を思い出してしまうんだ。元気にしてるかね、魚山。私はこの歌にあんたを思いだして、そしてあの時ともにいたみんなを思って、そして輝ける君の未来を願っちまうんだよ。私はともすればいつも一人でいたような気になるひねものだけど、けど本当はたくさんの人とともにあって、そうしたあなたたちが仕合せに暮らしていかれれば私もどんなにか仕合せな気持ちになれるだろうと、そんなことを思っています。

全体に若さの感じられる森山直太郎の『さくら』は、けれどそのうちに私たちが何度も経験し、またこれからも立ち会う別れの景色をうちに抱いて、私たちが友人に向ける思いをぱっと鮮やかに照らすようです。ただ聴いていたときにも思ったことですが、歌ってみてなおさらその思いを強くして — 、本当、いい歌だと思います。

引用

  • 森山直太郎,御徒町凧『さくら

2007年4月3日火曜日

The Glenn Gould Silver Jubilee Album

 カナダ人ピアニストグレン・グールドは、生前に隠し財宝計画なんてことをいってたそうで、詳細は『グレン・グールド アットワーク』を参照のことと思ったら、この本絶版してるのか。うわ、ショック。買っときゃよかった。ええと、隠し財宝計画ってのはどういうものかというと、いずれピアノを引退して指揮者になるつもりだったグールドは、未発表録音をたくさん残しておいて、晩年にあたかも発掘されたかのように装って高く売りつけようだなんてことをいっていたんだそうです。多分冗談だと思うんですが、この人だったらやりかねないよな。残念ながら計画が実行されることはなかったようなのですが、けれどグールドの思惑の外でこうしたことはおこなわれていて、若い頃のラジオ出演やブートレグ、その他雑多な未発表録音は今もまれに見つけられてはリリースされています。まあ、ファンとしてはこうした未発表録音の発掘はありがたいことですよ。でも、以前Sonyがおこなった新トラック追加の暴挙はかなわなかったなあ。というのは、他でもない『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』の話です。

『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』というのは、グレン・グールドのシルヴァー・ジュビリー、すなわちデビュー25周年の記念盤であります。実はこのアルバム、そのタイトル自体がパロディになってるそうでして、ホロビッツの『ゴールデン・ジュビリー』をおちょくる意図があったとかなかったとか聞きますが、真意のほどは知りません。プロデューサーだか誰だか、レコード会社の人間が必死で思いとどまらせようとしたとかどっかで読んだことがある気がするんですが、残念、ちょっと思い出せません。

『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』は記念盤といえば記念盤で、実際特別ではあるんだけれど、なんか微妙で不思議なアルバムです。まず収録されている作品ですが、基本的にいろんなレコードからの抜粋、一応グールドの軌跡をたどるみたいになんていわれますが、どう考えても選曲が偏ってます。この人はバッハの演奏でよく知られた人でしたが、ここに収録されてるバッハはバッハでもカール・フィリップ・エマヌエル、かの大バッハ、ヨハン・ゼバスティアンの息子です。ベートーヴェンなんかも収録されていますね。けど、ソナタやなんかではなく、リスト編の交響曲。やっぱりなんか変です。いや、グールドらしいといえばすごくらしいんだけど、この選曲、多分悪ふざけみたいな気持ちもあるんだろうけど、それはそれで真面目だったりもするんだろうなあ。

ある意味グールドの本気なんだか冗談なんだかわからない、そういう側面の出ているいいアルバムだと思います。けど、さっきあげた録音、実は私はグレン・グールド・エディションで全部揃えていたから、つまり私の目当ては他にありました。それはSo You Want to Write a Fugue?。グールド作曲の合唱曲。日本語タイトルは『じゃあ、フーガを書きたいの?』。タイトルにあるとおり、フーガについて歌った歌なんですが、歌詞はすごく意味不明。ルイス・キャロル的な世界を垣間見せてくれる味わい深いもので、ヨハン・セバスチャンはいいやつだ、ってそれ一体どんな歌詞だよ! って思わず突っ込む出来です。

これがひとつ。

もうひとつは二枚目のレコードに収録された「グレン・グールド・ファンタジー」です。これ、インタビューらしいんですが、どう聞いても寸劇です、コントです。グールドファンにはおなじみのマーガレット・パチュをインタビュアーにして繰り広げられるグールドのインタビュー・コント。最後には石油採掘リグの上でコンサートをするという、そんな馬鹿げたコント。ほんとに馬鹿。でも結構好き。そうそう、私はこのシナリオを日本語で読みたいために高い日本盤を買っているんですが、これ見てたら、ヒストリック・リターンならぬヒステリック・リターンなんて文言がぼんぼん出てきてまして、つまりこれもホロビッツへの当てこすりですよ(ホロビッツが12年ぶりに復帰したコンサートはヒストリック・リターンって呼ばれたんだそうです。CDも出てます)。で、さっきの石油採掘リグでの演奏ってのはそのヒステリック・リターンってわけで、いや、もちろんこれ収録ですから。しかし、最後の、アシカだかオットセイが鳴いてる中、サンキュー、サンキューっていってるグールドには大笑いです。

さて、私、この『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』、ふたつ持っております。なんでか? これこそ、最初にいっていた隠し財宝計画的ってやつですよ。これ、オリジナルとオリジナルに発掘録音を追加したものの二種類あるんです。はっきりいって、追加トラック盤が出たときにはくらくらしましたけどね。おいおい、よりによって二枚組でやめてくれよって思いました。追加されたのは晩年収録のJ. S. バッハ『イタリア協奏曲』と一人多役のコント「批評家特別対決」。悩んだ末に買ったんです。だから二枚。けど、買い直しに近い『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』。二度目に関しては、さすがに輸入盤にしましたね。

iTunes StoreにDRMフリーコンテンツ

iTunes StoreにDRMフリーのコンテンツが追加される。

PC系ニュースサイトのみならず一般のニュースサイトにおいても報道されたこの情報。その扱われ方を見れば、どれほどの驚きをもって受け入れられたかがわかるような気がします。

今回、DRMフリーのコンテンツを提供するのはEMI Music。日本においては東芝EMIになるのかな。だから、これは欧米のみでのサービスになる可能性があるけれど、もしかしたら日本でも同様の展開があるのではないかと期待してしまいます。

コンテンツがDRMなしで頒布されるというのは、ここにきて大きな意味を持っているのではないかと思います。それは、少し前にジョブズもいっていたことにも関わるんだけれど、DRMというものが音楽の著作権侵害を防ぐために、うまく機能していたとはいえないし、これからもしないだろうということを、音楽産業の一方の当事者であるレーベルが認めはじめているということです。音楽レーベルはこれまでDRMや著作権法をもって、自社のコンテンツをコントロールすることに情熱を傾けてきました。それは海賊行為を働く無法者から自らの利益を守ろうとする当然の反応のようにも見えましたが、ですが実質は他方の当事者である私たち消費者をコントロール下に置くということに他ならず、そしてそれは私たち消費者にとって不利益をもたらす要因ともなっていました。

例えばiTunes Store本国においては182アルバム購入できるYo-Yo Maが、iTunes Store日本だと3アルバムしか見つけられません(182曲じゃないよ、アルバムだよ)。こういう状況を見るにつけ、私なんかは人間が愚劣にできているものですから、グループ企業の展開する楽曲ダウンロードサイトを優遇させんとすべくレーベルが提供制限をしているんじゃないかなんて陰謀論を巡らせてしまっていけないのですが、けれどこれは冗談やなんかではなく、独占禁止法において禁止されている事業者による私的独占・不当な取引制限・不公正な取引方法・事業者団体による競争制限行為に該当すると思ってるんですが、なんでこんなあからさまな不当競争に日本の公正取引委員会は動かないんだろうとずっと以前から疑問に思っています。

 ともあれ、今回のDRMに対するEMIの動きを見て、ちょっと希望が見えてきたように思います。この動きが他のレーベル、他の楽曲ダウンロード販売サイトに波及したら、これまでiTunes Storeにおいて購入できなかったGlenn Gouldを私のiPodに転送して聴くこともできるかも知れない。いや、あんた、グールドなら全集で持ってるじゃんかっていわれそうですが、全集で持ってるからこそ全集発売後に発掘されたようなものが買いにくいってこともあるわけで、追加トラックのために同じアルバムをいくつも買うようなのはもういやなんです(そう。私は『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』をふたつ持っています)。

ジョブズの公開書簡を見たときには、こうなったらいいなあと思っただけでしたが、今回のEMIの英断は、ともすれば圧倒的な強者となりうる一方の当事者のコントロールから逃れられるかも知れないという希望を見せてくれました。非iPodユーザーも、iTunes Store限定でリリースされる楽曲を見て悔しさにもだえる必要はなくなるかも知れません。また、DRMがあるためのバックアップのとりにくさに煩悶し、それがためにコンピュータのクラッシュに必要以上に怯えるようなこともなくなりそうに思います。ともあれ、法的にはまったくの白であるというのに、不当に制限されてきた行為に対する自由(それは例えばポータブルプレーヤーの乗り換えの自由なども含まれる!)が再びユーザーの手に戻ってくるということに素直に喜びを表明したいと思います。

そんなわけで、近々、EMI祭と称して、EMIのリリースするナイスな楽曲を紹介したいと思います。もし紹介されなかったら、ごめんなさい。ネタがなかったんだと哀れんでください。だって、フルトヴェングラーの第九カザルスのチェロ組曲も、もう書いちまってるからなあ。けどEMIにはナイスな音盤はまだまだあるはずだから、きっと大丈夫です。

引用及び参考

2007年4月2日月曜日

となりのネネコさん

 『となりのネネコさん』はWeb上で連載されている漫画、結構話題になったからご存じの方も多いのではないかと思います。けど、実は私、その存在を忘れてしまっていました。随分前に、人から教えてもらってだと思うのですが、読みにいったことがあるのですが、続きを待っているうちになんか記憶から抜け落ちてしまったようで、ついぞその存在を今日まで思い出すことがありませんでした。思い出すきっかけになったのは、書店にて見つけた『となりのネネコさん』の単行本でした。実は、この作者宮原るりは『まんがタイム』系列誌に連載を持っている漫画家で、だから名前に見覚えがあったんです。そうか、他誌でも連載があったのかと思って、本を手に取って、表紙を見てすべてが繋がりました。おおお、そうだよ。この人知ってるよ、ネネコさんってあのネネコさんなんだ。そこで私は買うかどうか迷ったのですが、というのはちょっとネネコさんって……。けど、『まんがホーム』連載の『恋愛ラブラボ』とか馬鹿馬鹿しくって好きなんだよな、と思ったものだから買いました。なんというか、応援したいかなって思ったものですから。

なんで買うのに抵抗があったのかといいますと、なんというか漫画のクオリティの問題だと理解してくださるとありがたいかと思います。Web上で連載されていたときのを読んだ感想、素直なところをのべますと、ちょっときつかったかなとそんな感じだったものですから。ネネコさんがきた、つっこみどころは満載なんだけど、つっこむとなんかすごく危険な感じがするという導入、けどその導入の一連の流れがどうにも違和感ばりばりで、うまく流れていない感じがして、作者の中でうまく消化できてないというか、頭の中で都合よくたてたプロット通りというか、読んでる私としては、なんだろうこの受け入れにくさはと、そんな具合だったのです。狙いたいところはわかるのですが、狙いすぎというかまんま過ぎというか、それは読んでいてちょっとストレスに思うほど。あんまりにネネコがオールマイティ(全パラAクラスという意味でではなく、ジョーカー的な感じ)すぎるところと、まわりに対する態度のあまりのあまりさが受け入れがたかったのです。

だから、あの初読の雰囲気をもう一度味わうのはいやだなと思ったわけです。でも買った。そして読んだ。やっぱりいやな感じを味わった。この感覚、『みそララ』(『まんがタイム』連載)読んだときもそうだった。すごくあんまりな感じ。見てて不快だった。てな感じで、この人の導入手法は私にはとにかく合わないみたいです。

けど、合わないのは導入までで、ここを過ぎて登場人物がうまいこと動き始めたらそうでもなくなるんです。不思議なもんですが、最初の数回を読んでもういやだと思った『みそララ』だって楽しく読んでいますし、それに『ネネコさん』だって、最初の数回を乗り切ったらなんてこともなくなりましたし面白いと思えるところも段々増えてきて、とこれはWebコミックでの話。残念ながら単行本では、私にとっていいと思えるところまで話が進んでいないのですが、だから私にとっては第2巻からが本番といえるでしょう。あまりにも弱設定すぎるヒロイン山田とネネコさんの関係が熟し、一方的な粗雑さ粗末さが消える頃には、私はこの漫画を普通に好きといえるようになります。だから、これから。ネネコさんに関しても、あんまりにそのバックグランドに設定の生っぽさが感じられる嫌いがあって微妙ですが、それも、これから。巻を重ねればよくなると思っています。

なお、この漫画で私が好きなのはオタクのお嬢さんです。見た目は並以上極上なのに、中身はというと常軌を逸してるという、こういうキャラクターはどうも好きなようです。あるいは、生身でネネコさんに対抗できるっぽいところがいい、のかも知れませんね。ヒロインのあんまりの弱設定には、読んででかわいそうになったものですから。いや、でもこれもこれから。ヒロイン山田は、すごくいい子だと思います。

  • 宮原るり『となりのネネコさん』第1巻 (ウンポコ・コミックス・DX) 東京:新書館,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月1日日曜日

ときめきメモリアルONLINE

 昨夜、ギターを弾いていたときにふと思い出すことがありまして、あ、ときめきメモリアルONLINEのアカウント、更新するの忘れてたって。確か昨年12月25日で切れてるはずなんですよね。して、なにが問題かといいますと、TMOのユーザー情報ってのは90日間保持なんです。そう、課金終了して90日経つと消えてしまうという話なのです。ああーっ、90日過ぎてんじゃん! けど、あきらめ悪く私は課金支払い手続を済ませ、ドキドキはらはらしながらクライアントソフトを起動。大量のアップデートファイルのダウンロードをやきもきして待って……、そして私は新たにキャラクターを作成しなければならないことを知るのでした。愛着のあったキャラクターが消えるというのは悲しいこと、だからなるべく最初のキャラクターに似るようにと思って、制服はもちろん青、肌の色は一番薄かったはず、髪の色はどうだったろうか、いろいろ思い出しながら作って、同じ名前付けて、そして登校してみて気がついたのです。ああっ、性別間違えてる!

ええと、嘘です。データの90日保持保証は事実ですが、データが消えてたというのは嘘です。けど、キャラクター作ったというのは本当。実はこれ、もし消えてたら新キャラ作らないといけないなあと思ったときにピコポン!と思いついたネタでして、ほら、4月1日って全国的にエイプリルフールでしょう。しめしめ、これは微妙にリアルでうまいネタを拾ったものだぞ、と思ったのです。で、ためらわず実行。かくして、第15期生井崎冬雪が生まれたのです。

ええと、井崎冬雪についてちょっと説明。中肉中背、眼鏡にお下げの戦略的外見が与えられたキャラクター、それが冬雪だ! はるかぜB組を混乱と阿鼻叫喚のるつぼに陥れるべく生み出された冬雪は、いざ戦いの地に赴かんとするのであった!

意気込んで扉を開けたはるかぜB組、そこで冬雪が見たものは — 、もぬけのからの空き教室でありました。あうー、誰もいねー。なんてこった、作戦が違ってくるじゃんか。いついっても誰かしらいるのがT組(はるかぜB組は元さくらのT組です)だったんじゃねえのか、って日頃登校してないからあまりの状況の違ってるのに戸惑いながら、冬雪のクラスA組に移動。そしたら、そこには人がいるのね。はじめまして、はじめまして、一通り挨拶して、最近はB組は人がいないんですか? って問い合わせ。残念ながらB組とA組はあまり交流がないようで、詳しいことは聞けず仕舞い。ああ、残念だ。作戦が狂ってしまう。と、ここでかくかくしかじか、プロジェクト0401について説明して、90日の罠にかかって同名キャラを作りましたっていう設定です、云々。ああ、けど、残念だ。本当に残念だ。

けど、私はあきらめない。エイプリルフールのルールは、4月1日の午前中の嘘がオッケーというもの。だから、私は早起きしました。ええと、九時半? そしてログイン。B組に突撃だ! すると、すると、また教室は空っぽだったのです!

昨夜に引き続き、校内探索ですよ。いかにも人のいそうなところをまわるけど、日中となるとさすがに人は少ないですね。体育館、運動場を回り、伝説の樹から食堂を回り、ゴミ焼却場、教会、そして屋上にいって、そこで寂しさにとらわれたのでした。どこもかしこも、なにかしらの思い出がついて回る場所、特にベータ末期に自主練に明け暮れた屋上が一番懐かしく偲ばれるのはこっけいな話。けど、このいろんな人と出会って、いろいろ話して、充実した時間を過ごした思い出の場所はもうしばらくしたら失われます。ええ、わかってるんです。仮に存続したとしても、あの時のあの濃密な時間、語らいはもう再現しないということは。けど、だからといってこの場に愛着がないわけじゃないんだ。そう思ったらしんみりとした。

教室に戻って『フロントミッション』やってたら、クラスメートがひとりやってきて、挨拶。TMOではすべてが優雅に挨拶から始まるのです。で、次の台詞が振るってた。妹さん? そうくるか。いや、かれこれかくかくしかじかこういう理由で新キャラで、作ってみて気付いたのですが、なんか性別間違えていました、ってところからなんかいろいろ話が変わって、お下げからかな、委員長キャラ話になって、そこから『コータローまかりとおる』にシフトさせて、やめ時終わり時の話、古い世代の話題から、ドラえもんの声優変更、その点ルパンは失敗したよね。けど、植木等もだけど、私たちの馴染んだ人たちは亡くなっていって、そしてそれは自分の身の回りにおいても同じです。私はもうその覚悟は済ませていますよ。私もです。そんな話をしました。

思いがけない出会い、本名もどんな人かも知らない、けれどあのちんまりとしたキャラクター越しに交わされる話は間違いなく本物だと思って、そして終わりゆくTMOを二人偲んだのでした。昨夜は一周年イベント、こんな終わり際にじゃなくて、つかみの時期にもっとイベントがあったらよかった。そして次の行き先として『ラブネマ』が候補に上がっているらしいことを聞きました。そこには、クイズやチャットに加え日記なんかもあるらしく、いわばSNSの機能があるといえる。そうか、そういうサービスがあるのか。TMOにおいて私らが欲しいと思ったものが全部揃ってるんじゃないか。そこで思うのは悔しさで、もしTMOにそうした機能があれば、みすみすSNSやメッセンジャーにユーザーをとられずに済んだかも知れないのに。だってTMOに日記の機能があれば、mixiにではなくこちらにログインしてきたでしょうよ。緩い繋がりを志向する私らは、あの場に誰かとの繋がりをこそ求めたのであって、しかしその繋がりをSNSやメッセンジャーが代行してしまえば、あの場でなければならないということはないのです。

昇降口に続行嘆願の署名を集めようとしている人がいましたが、そうした活動も芳しくはないみたいですね。しかし仮に署名が集まったとしても、いったんやめると決定されたものがくつがえるかどうかは疑問です。結局は金がないのが悪いのか。しょせん世の中はすべてお金だからな。だなんて世知辛いことを思ったりした新年度の始まりの朝でした。

あ、眼鏡は初期セットになかったので、井崎オリジナルの所有品を横流ししました。四次元ロッカー万歳です。