2007年12月31日月曜日

無印良品BGM

今年の夏、無印良品の店にちょくちょくいってはいろいろ商品棚見て回ったりしていたのです。あの店、普段はちょろっと眺めるだけでそのまま通り過ぎるのがせいぜいのところであったのですが、今年に限ってはちょっと生活雑貨をまとめて賄う必要があったので、いつも以上に入り浸って、そうしたらなかなかに気の利いた商品というのが多いんですよ。手帳サイズの万年筆があったり、またゲルインキボールペンのバリエーションもあったりして、使えりゃなんでもいいって人ならここのを選ぶこともないかも知れませんが、シンプル、シックなデザインで統一したいみたいな人には、なかなかに訴えるものが揃っているんです。いやあ、これは危ないわ。あんまり出入りすると、うちが無印良品屋敷になりそうな気配を見せたから、今はちょっと距離を置いているんですけど、でもそれでもこれだけは揃えておきたいなというものがありました。なにかといいますと、無印良品で流されているBGMのCDです。

無印良品BGM、段ボールに数字が押されただけのシンプルパッケージが魅力のアルバムであるのですが、これがなかなかに魅力的なCDであるんです。アルバムそれぞれにテーマが決まっていて、私が買ったものでいえば、BGM2がパリのメトロで演奏するミュージシャン(メトロでの演奏は認可制です)、BGM7がスコットランドのトラディショナルソング集。アルバムごとに、世界の、地域色あふれる曲がセレクトされていて、メジャー風ではない、素朴でけれどフレッシュな印象を待った、チャーミングな音楽にあふれています。これ、無印良品のキャラクターを演出するひとつの戦略であるのだと思いますが、コマーシャリズムからちょっと離れて、素朴でシンプルな暮しのスタイルを選択したいという、そういう顧客に向けたメッセージになっているんだと、聴いてみてつくづく思います。

そんなこといっても、無印良品がすでにブランドじゃないか、結局は表面的なまやかしに過ぎないよという意見は、昔から何度も聞かされてきたことです。だとしても、こうしたシンプルでかつ一貫性を持ったソリューションもそんなにないわけで、ならそのまやかしかも知れないコンセプトに乗ってみるのもよいかと、ちぐはぐの継ぎ接ぎに取り囲まれるくらいなら、決して重厚でもトラディショナルでもない、機能性がデザインの主要素になっているといった風の無印良品ブランドにのってみるのもいいかなと思われたのです。とりわけ、一貫性をもって室内を統一する術に乏しい私には、こういうのがあると助かるのですね。

もし使い切れないほど金持ってたら、躊躇なく家屋レベルであつらえるところですがね。

無印良品BGMは、開けてみれば実はワーナーミュージックだったりしましてね、企画は無印計画、製造はワーナーだそうです。だから、思った以上にしっかりしたアルバムに仕上がっていて、むしろこの一枚千円という値付けはリーズナブル、安いかもななんて思ったものです。ブックレットにしても、歌詞とかは入ってませんけど、きれいな写真があしらわれていて、悪くない感じです。もちろん、各アルバムに収録される音楽、それぞれのジャンルのマニアというような人には物足りなさも残るかも知れない、けど私の感じでは、むしろその自然体といった雰囲気が好ましく、少しずつ買い集めていきたいアルバムとして記憶されたのでした。

というわけで、調べてみたらなんとBGM2から11がボックスでセット売りされてるんですね。こりゃいいや。というわけで買ってみました。3と7は重複しちゃうけど、誰かにプレゼントしてもよさそうだな。まあ、そのへんはこれからの話。まずは、その音楽に触れてみたい。ちょっと楽しみだな、到着を今から待ち遠しく思います。

2007年12月30日日曜日

はなまるべんと!

 漫画に限らずあらゆるものでそういえるかと思うのですが、そのジャンルなりを形成するもののうち中堅にあたる層が、結果的にそのジャンル全体の質を決定すると私は思っています。トップに位置するいくつかだけが抜きんでていて、それに続く中堅が弱いジャンルはトップの失速とともに早晩衰退しそうですし、逆に中堅層が分厚いと、次にトップを担うものも現れやすく、またトップだけではなく中堅にもファンが付く、すなわちそのジャンルを支える読者ないし視聴者ないしもそれなりの層をなすことが期待できるわけで、こう考えてみた時に、はて私の読んでいる四コマ漫画というジャンルはどうなんだろうなんて思ったりしちゃうんですね。中堅層、確かにあると思います。四コマ漫画は、漫画ジャンルの中でも多品種少量生産の傾向が強いと感じていますが、そのため中堅層も広く裾を引いているように思われて、けれどそれらを支えるだけの市場はまだ形成されていないようにも思われて、つまりはそれら中堅層の単行本が出にくいっていってるんですが、ところがここ数ヶ月の芳文社の動向を見ていますと、そうした中堅にあたると思われるものが次々単行本化されて、はたしてこれはいい結果を生むのだろうか? 私は久々にわくわくというかどきどきというか、あるいははらはら? ちょっと興奮気味に眺めているところです。

そして、大宮祝詞『はなまるべんと!』、これなんかも中堅を担う層にあたると思うんですけど、それがこうして思いがけず単行本化されて、よしきた! 私はというと、もちろん買っちゃうんですね。

内容はというと、ヒロインの所属する購買部に果敢なチャレンジを繰り返す調理実習部員あやめの、語るも涙聞くも涙の細腕繁盛記的展開の楽しいどたばたもの(ちょっと嘘)。強烈に料理の下手なキャラクターがいる、これもまたひとつの様式美でありますが、それがほかならぬあやめでして、購買部(これも部活だ!)の売り上げシェアを奪おうと画策、手作り弁当を手に乗り出してくるも、これがなかなかの殺傷力ときたもんだ。かくして購買部の一員にしてヒロイン、おそらくこの漫画でも一二を争う常識人であるちかが手を貸して、だってほっとけないものだから……、そういう具合にだんだんと友情を醸成していく。表立っては語られないけれど、ほのかに見える友達の情、そこを楽しむのがきっといい、そういう漫画であるのですね。

基本的にストーリーはあってなきがごとし、いかにどたばたと右往左往しながら楽しく騒げるか、というショートレンジの楽しみが中心にあります。まさしくコメディらしいコメディといってよく、始まった当初は顧問入れて四人だった登場人物も、徐々にその人数、そしてバリエーションを広げて、ともないどたばたの舞台も広がり、今は購買部だなんだという枠にとどまらない、学校もののコメディとして成立しています。それに、調理実習部の枠は……、げふんげふん、ともあれこれもまたキャラクター主導型のコメディの一形態で、そこには多分にナンセンスの味わいが加えられている、その味わいが好みならばきっといけると思います。ちょっとずつ常識外れのキャラクターを愛で、そうした人たちが主導するわけですから、当然騒動はだんだん常識から遠ざかっていって、けれどそこに打ち込まれる常識の杭、しかしそれは結局は彼女らの暴走を止めることができず、ナンセンスへとナンセンスへと滑り落ちてゆく! 

楽しい。そしてこの楽しさというのはキャラクターというベースが整備され、認知されるほどに増すのですから、単行本で過去の整理がつけばなお連載が面白くなるという、そういう相乗効果を期待できます。それになにより初期の楽しみにもまたこうして触れることができるわけで、そしてこれが中期へと続いてくれたら嬉しいなあ、そんな風に思っています。

ところで、カバー折り返しにある調理実習部式たこやき、あの写真見るかぎりでは、そんなに悪くなさそうです。でも食べるなら、普通のたこ焼きがいいなあ。ああ、たこ焼き食べたいなあ。なんて具合に、ちょっと小腹が空くというオプションもついてます。

  • 大宮祝詞『はなまるべんと!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月29日土曜日

ソーダ屋のソーダさん。

 なにがあろうと、淡々と更新し続けることを目標としているこのBlogですが、それでも節目となるような日には、これというものを取り上げたいと思っているんです、信じられないかも知れませんけど。12月ならたとえばクリスマス、そして大晦日あたりがそうした日にあたるかと思われますが、クリスマスには諸般の事情からそれほど特別でもないものを取り上げてしまったので、残るは大晦日。一年の最後を飾る更新です、これをというもの、一押しのものを取り上げたいじゃありませんか。そして私は湖西晶の『ソーダ屋のソーダさん。』を本年最後の更新における題材とするつもりであったのでした。しかし、それを前倒しして本日取り上げます。なぜか? それは単純なこと、私が待ちきれなかったんです。早くこれについて書きたいと、心がはやって仕方なかった。これほどまでに後押しされる気持ちは久しぶり、それくらいにがつんときた一冊であったのです。

 『ソーダ屋のソーダさん。』は、一迅社の『まんが4コマKINGSぱれっと』で連載されていた漫画で、第一号から同誌を牽引する役割を担っていたと認識しています。さてその『ぱれっと』ですが、創刊の当初、第一号は手に入ったのにその後がまったく続かなかったという恐ろしい巡りの悪さ、買う買わないを選択できる状況でさえなく、泣く泣くというべきか、湖西晶の投げ掛けた謎を追うこともかなわないまま、遠巻きに評判を伝え聞くばかり、私は隔絶された状況に追いやられていました。

その後しばらくして、私の行動圏内に『ぱれっと』の供給されていることを確認、しかし残念ながら中抜きとなったのはまずかった、こうなると私はよほどのことがないかぎり買いません。かくして私は、『ソーダ屋のソーダさん。』に関しては、完全にすれ違い続けたまま、単行本の発刊まで再び出会う機会を得ず、そしてこの単行本に出会ってすぐの頃、私は見送ろうかと思っていたのです。

危ないところでした。手にして読んだ今、私ははっきりとそういいきれます。もし見送っていたら、いやなにたかが漫画です、そんなにたいしたことがあるわけではありません。それはわかっているんですが、けれど私にとっては痛い損失となったことでしょう。そして私はその損失に気付かないまま過ごすんです。知らないあいだは仕合せですね。けれど、気付けばきっと歯がみしたろうと思います。ああ、なんと馬鹿な判断をしていたんだろうと、そう思ったに違いない。それくらいに思わせる内容を持った、力強い漫画であります。

そもそもからが謎で始まります。瀬戸内海に浮かぶ島、清涼島にて起こった怪事件。島唯一の商店、若く美しい女店主が死んだ……。しかし、彼女早田沙和はまるで生きているかのように振る舞い続けて、その秘密を知るものはただひとり、斎田青年だけ。この奇怪な出来事を発端に動き出した物語は、斎田青年の思惑を飲み込み、そして隠された事実を引きだしながら、駆動し続けるのですが、その下部に広がる苦渋や迷い、混乱、そしてあきらめがただただ苦いのです。表向きには可愛らしくきれいな絵柄で、またギャグや恋愛を絡めてのどたばたなど、見てほのぼのとさせる要素が支配的だから、なおさらつらさはいや増して、表面に浮かぶ甘さが心底残酷でした。そうした構造の故か、真実のむごさがあらわにされた先に、きっと悲劇的な終幕を迎えるに違いない、最後の最後まで私はそうした予感を捨てきれず、登場人物の一挙一動、感情の揺れに触れては、大いに心を乱し、まさしくその事件、現場において右往左往するひとりであるかのように動揺を来して、そして私は湖西晶の物語る強さ、強靱にして健全であろうとする思いの確かさに圧倒されて、声もなく、涙流すでもなく、けれど心の奥底にまで光が射したかのような深い感動がただそこに大きくある、そのような瞬間に立ち会うこととなったのです。

この人はすごい。百遍いっても足りません。この人はすごい。この人はすごい。絵が自ら物語り、言葉が生き生きとその先を探している。この人はすごい。この湖西晶という人は、すごい。この人を見誤ってはならない。この人はすごい。この人はすごい人です。

2007年12月28日金曜日

CIRCLEさーくる

 人は変化を求めるようで、しかしどこか変わらぬことを期待しているのかも知れない。なんていったりなんかしちゃったりするのは、この漫画、『CIRCLEさーくる』が、どことなく八九十年代の漫画の空気を持っていると感じられるものだから。なんだか懐かしく感じたり、ちょっと切なく思ったり、万感の思いが胸中に渦巻くようではありませんか。八十年代当時、私はまだ中学生で、なんか自由そうでのびのびとした高校の部活動に憧れめいたものを持っていたなあ、って具体的には『究極超人あ〜る』あたりを思い出しているんですが、けれど『あ〜る』にかぎらず、時代の空気といったらいいのか、この漫画からはそうした匂いがするんです。部活動もの、わけのわからぬクラブが、群雄割拠できるというリベラルな校風に支えられたなんでもありな世界。そしてそれは当時の世相、漫画を愛するものたちが心待ちにしていたものにほかならなかったわけで、結果群雄割拠しましたよね、そうした漫画が。特に目的があるわけでない、最終到達点が示されることもないままに、自由な雰囲気に彩られた日常がつづられた漫画たち。そうした漫画は、その表現の仕方を違えながら分化、拡大していって、そして『CIRCLEさーくる』にまで繋がっているのかも知れませんね。繋がってたらいいなあ。

けれど、そうはいっても『CIRCLEさーくる』はそこまでなんでもありな漫画ではありません。大学の漫画研究会を舞台とするこの漫画は、非常に常識的な範疇にとどまっていて、アンドロイドも出ませんし、部室をかけて闘争するようなこともなく、穏当な、非常に穏当な学園もの、部活ものの空気を維持し続けます。そしてその穏当のかげに揺れる思いがある — 。気になる彼、気になる彼女。お互いに意識しながらも、それを素直に表すことのできないという不器用な心の行方。できれば踏み出したいという思いを飲み込んで平静を装う彼彼女らを見ていると、なんだ、ほら、青春よの。

こういうことって本当にあるのよ。私は彼のことが好き、彼も私の思いに気付いているようなんだけど、それを表に出そうとしないのはなぜなのかしらという話がかつてあって、それは迷惑がられているか、あるいは俺、もしかして自意識過剰だったりする? なんて具合に確証持てず踏み出すに踏み出せないでいるかの二者択一ではないだろうか。結果は後者だったわけで、ふたりはその後めでたくつきあうことになりました。そうした模様を第三者として眺めながら、青春よのう。そんなこと思っていたあの冬の日。

『CIRCLEさーくる』には、そうした光景が、人生のある一時期に訪れをみせる季節の風景が広がっていて、それもまた懐かしく、切ない気持ちをかき立てるんですね。きっぱりといえば、ボーイ・ミーツ・ガールもの。サークル内での和気あいあいとした空気に、ちょっと恋めいた風が吹き込むくすぐったさ。このまま恋愛一直線になったりしたら今の空気はなくなっちゃったりするのかも知れないけど、だからふたりの恋が進む景色を見せながらも、このまま変わらないでいてくれたら嬉しいと、ここでもまた変化を望みつつ変わらないで欲しいと思う、矛盾した感情にとらわれるのです。

しかし、この漫画に出てくる男性陣はいいね。女の子にも興味ないわけじゃないけど、それを表立たせない彼らの心情というのはぐっときます。もしかしたら彼らこそが、変化と現状の両方を希求する私の思いそのものであるのかも知れず、楽しい今がいつまでも続けばいいと願いながらも、刻一刻と時は過ぎ、いやおうなく変わっていかなければならない現実に気付かないほど子供ではない。そうした季節をとうに置き去りにしてきた私には懐かしいと思えるその現実は、その季節に今まさに立ち会う彼らには切ないと感じられるものであるのかも知れませんね。そして私は、そんな彼らに心を映すことで切なさを追体験している。ええ、私はこの漫画に懐かしさを感じ、切なさにふける、すなわち最高の心地よさを感じているんです。

  • 榊『CIRCLEさーくる』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年12月27日木曜日

Parker Sonnet Laque Ruby Red GT Fountain Pen M

 大学に入学したお祝いに、伯父がペンを贈ってくれました。パーカーの万年筆。フランス製、75と呼ばれるモデルで、ああ、それはそれは嬉しかったです。つや消しの黒軸、マットブラックですね。トリムやクリップは金メッキで、ペン先は18KのB(太字)でした。Bはちょっと私には太すぎるかなとも思われましたが、使っているうちに馴染むだろうと、システム手帳にセットして、いく先々で使っていました。けど、なくしちゃうんですね。忘れもしませんよ。吹奏楽の演奏会、アンケートを書くのに使って、そのままなくしてしまった。盗られたのかも知れないとも思ったけれど、でも結局は目を離した自分が悪いんですよね。ショックでした。なにより伯父にすまないと思って、いつか自分で万年筆を買えるようになったら買い戻そうと、そんな風に思ったものでした。

 Parker 75は残念ながらほどなく製造中止になり、結局買い戻す夢は果てました。調べたんですけどね、カタログからも落ちていまして、なので買うならちょっと上位機種になるSonnetあたりになろうかと、けどどうせなら最高機種なんて思うのは私の悪いところで、ということはDuofold、ええっと、五万円くらいからそれ以上するんですが、いくらなんでも高すぎらあという気持ちと、でも五六万なら払えなくもないよねという気持ちが戦って、しかしそれでも手を出さないのは、結局大切にしていた万年筆をなくしてしまった私が持つには明らかに不相応なペンであり、身に合わないものは持つべきではないという信条がためでした。

結局、学生時代に使っていたペンは、父のお下がりである、Parker 45、これは使って使って使い倒しました。75を失ったことがそれだけ悔しかったのか、代わりにということでもないんでしょうが、日用に使っていました。学生ですからね、講義のノートもこれですべて取っていて、院を出るまで使って、院を出てからも使って、ペン先がくたびれて、私以外のものが使っても線が引けない、それくらいになるまで使いました。

ブルーブラックのインクがお気に入りでした。かばんには常に替えのカートリッジが用意されていて、いつインクが切れても困らないようにしていました。それこそ筆記具といえばそれしか持ってなかったのですから、インクが切れたら終わりだったんです。人から借りるしかなかった。それは避けたかった。だから、インクの予備があるかどうかは常に気にしていた覚えがあります。それと、生活圏内のParkerインク置いてる文具屋の把握ですね。これ、重要でした。

私の通っていた大学だけかも知れませんが、教育実習の実習簿に記入する際にはボールペン不可、万年筆で黒インクに限るという当局からのおふれがあって、学生の不満の声に、あなた方も大人なんですから、万年筆の一本くらいは買いなさいと、そういうことがいわれていました。今だったら、使い切りタイプの万年筆型筆記具も売ってますが(使い切りを万年筆と呼ぶのには抵抗がある)、当時はそんな気の利いたものなくてですね、みんなどうしたんでしょうね。さて、他の人のことはどうでもいいとして、問題は私のペンです。万年筆は使っています。けど、インクがブルーブラック。これを黒に変えるのは簡単ですが、その場合万年筆をばらして、クリーニングしてと、大変です。いや、クリーニングはたまにやってましたけどね。でも、なんとかしてブルーブラックを使いたかった。大学当局に掛けあいまして、ブルーブラックは公文書や調印式でも使われているじゃないか、だから許可してくれと。その年の特例で、ブルーブラックは許可されるようになりました。翌年からは、黒あるいは青インクを使用することと決まりがあらためられて、次の実習では堂々とブルーブラックを使うことができました。なんでもいってみるもんだと思います。

 大学生ともなれば、万年筆を使うのがステータスだというような風潮は、残念ながら私の世代でもすでに廃れきって、見る影もありませんでした。大学の教員もボールペンを使う時代です。ましてや学生が万年筆でノートを取っているだなんて、本当に時代錯誤というか、アナクロな青春を送ったものです。大学を出てからは、すっかりコンピュータエイジ、私はコンピュータを使い、普段の用にはボールペンを使うようになりまして、もう万年筆の時代ではないと、そう自分に言い聞かせました。ええ、できれば万年筆を使いたい。でも、いったいどこでそれを使うんだ。手紙書くでなし、文書はほぼコンピュータで作成している現在、そもそも筆記具の出番がない。いらないだろう、万年筆なんて。ただ手にしたいだけじゃないか。使われない道具こそ不幸であるとわかっている癖にと、それでも折りに万年筆をと考えるのは、ただのコンプレックス、懐古趣味じゃないのかと、自問自答して、あきらめてあきらめてあきらめて、けれどあきらめきれずに思いは今まで残って、そしてそれが今日決壊したのです。

最初はLatitudeにしようかとも思いました。モダンなデザインの万年筆。ペン先はステンレスで、けれどこれがコンプレックスなんでしょう。いずれ買い戻すといった75のペン先は18Kでした。それ以下のものは選べない。だから私は最低ラインをSonnetに定めて、それにSonnetこそは75の後継ですからね。一万五千円。高いか安いかといわれれば高いでしょう。けれど、よいものは高いのです。よいものを手にするのに、値をうんぬんするのは無粋です。値引きなし正札、百貨店にいって、ペン先をXF、F、Mで試して、また色もラックブラック、ルビーレッド、オーシャンブルーを出してもらって、さすがにシズレとかチーゼル・タータンはないっすよ。エレガントすぎます。ルビーレッドを選びました。黒はシックで美しく、けれど少々遊びにかけると思われて、青は青で青すぎた。深いルビーの赤、落ち着いて上品で美しく、私が持つには美しすぎるかも知れないとは思ったものの、けれど美に対する憧れは拭えず、赤にしたのです。

長く、どうしようかと迷い、バイト先で気の合った奴と、パーカーの一番安い万年筆、Frontierを贈りあわないかといって、結局はたせなかったことも懐かしい、そして今ようやく万年筆を手にして、嬉しいかといったら嬉しい。けれどそれは高揚するような嬉しさではなく、しみじみと、ようやくと、そういう静かな思いであります。

気負う必要はないですけど、来年、2008年は、こうしたものを持つにふさわしい、値打ちのある、価値を創出できる、そういう人間にステップアップする年にしたいと、そういう思いがしています。負けませんように、くじけませんように、低きに流れず、おもねることのありませんように。時に、このペンを手にしては、気持ちを新たにしたいものだと思っています。

2007年12月26日水曜日

ぐーぱん!

 単行本で確認して驚いたのですが、未理は148センチ。そうか、『とらぶるクリック』の柚の方が小さかったんだ……。それはさておき、榛名まおの『ぐーぱん!』が見事単行本にまとまりまして、やれ嬉しや、祝着至極にございます。やっぱりね、自分の好きな漫画がこうしてまとめて読めるっていうのは嬉しいものですよ。もちろん雑誌は買っているし、今のところ処分する予定はないから、読む気になれば遡って、一から読むこともできますけれど、そうして読む楽しみと、単行本という別媒体で読む楽しみは、やはりちょっと違うと思います。毎月を楽しみに読む楽しみ、後から遡って読む楽しみ、そして単行本の楽しみ。それぞれに違った味わいがあって、そして今日その単行本の楽しみにふけることができたわけです。ちょっと仕合せ気分でしたね。

そうして楽しみに待っていた『ぐーぱん!』の単行本、仕合せ気分は置いておくとしても、やっぱり面白いなあと、そんな感想です。背の低いヒロイン、緊張すると目つきが鋭くなり、そしてバイオレンス。組長の娘、熊を撃退した等々、あらぬ噂が彼女を苦しめるも、けなげに未理は生きていきます! っていうお話。いや、ちょっと違うか。どのへんが違うかは、単行本にて確認くださると幸いです。

ヒロインの未理に、友人の唄子、菜摘が加わっての、和気あいあいと楽しげな学生生活。みんなには誤解されがちな未理だけど、ふたりは未理の本当をよくわかっているから、彼女の素直さをよく引きだしましてね、それが実に可愛い。ですが、もちろん未理の可愛さだけがこの漫画のすべてではないのはいうまでもないことです。

面白さの大本には、少なからずキャラクターの力というものがある、それは確かなことであろうと思います。あるいは属性といってもいいのかも知れませんが、唄子は委員長キャラとして確立した個性が与えられているし、菜摘にしてもちょっとおばかな空気読めないキャラとでもいったらいいんでしょうか、そういう役割がわかりやすく与えられており、しかしこれが悪いとは私は思いません。こうしたある種パターン、テンプレートになっている役割、キャラクターというものは、読者を速やかに漫画の世界に導き、馴染ませるためのレファレンスとして役立ちます。特に一回あたりのページ数も少なく、キャラクターの説明に紙数を割けない四コマにおいては有用な面も多く、最初の数回で読者に面白い、この漫画は読めると思わせなければならない短期決戦的状況においてはなおさらであると思うのです。

おそらくはこうした状況が、きらら系の四コマ誌を読みつけない人にとっては、どの漫画を見ても同じ、読んでもノレないという感想を持たせることに繋がっているのだろうけど、しかしそれでもそれぞれの漫画にはそれぞれの個性というものがあり、面白いと思われるもの、人気のあるものとなれば、他のものとは違うありようを見せてくれます。『ぐーぱん!』にしても、パターンを踏襲するように見せながらも、少なからず他とは違う個性的な顔を見せている。それも初期の段階からそうであったと、というのもあの入れ替わりの激しい雑誌で、ちゃんと第一話を覚えていますからね。目を引かせる、おっと思わせるなにかを間違いなく持った漫画なのです。

榛名まおはパターンの裏をかきます。思いがけない組み合わせを提示する、あからさまな否定をするなど、縁ぎりぎりを出たり入ったりしてみせて、ただのお約束にとどまろうとしません。お約束を理解し、それをかいくぐる。漫画という枠組みを意識させる面白さを提示して、しかもそれが嫌みや内輪受けの感じを持っていないから、すらりと読んでいける。

そして、キャラクターがだんだんに肉付けされていきます。お約束を残しつつ、お約束から脱していくといってもよいものか。登場人物が各自の個性を押し広げていくとともに、ただのお約束にはとどまらない面白さの可能性が増していくのですね。キャラクターが育つといえばそれまでなのかも知れませんが、既存のお約束から、『ぐーぱん!』のお約束にシフトし、そしてお約束にとどまらないダイナミックな展開、逸脱が現れて、それらをまとめるのはほかならぬ、肉付けされ、よりその存在の確かさを強めた未理であり、唄子であり、菜摘です。

そしてここまでたどり着けば、もう独自の世界になっている。他のなにでもない『ぐーぱん!』という漫画の、ユニークな面白さ、楽しさがそこにある。あとは、その世界に触れ、感じ、ともに遊ぶ読者が加われば、もう充分。ええ、私にはすごく充実した漫画であるといっています。

蛇足

もういうまでもないことだと思いますが、鷲頭未理です。彼女は素晴らしいです。

  • 榛名まお『ぐーぱん!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月25日火曜日

Aria / ET-3000 クリップ式チューナー

 この日のために買ったといっても過言ではないAria / ET-3000 クリップ式チューナーでありますが、実際に舞台上で使用してみた結果どうだったか、それを書いてみたいと思います。

結論からいいますと、これは使えるなというものでした。ギターヘッドにクリップでとめておけるので、邪魔になるということがない。音をとるのはマイクではなく、ヘッドに繋がっているクリップ経由なので、まわりの音の影響を受けることもなく、また小さな音でも充分反応してくれるから、MC中のチューニングでも大活躍です。特に今回は調律師が入っていたので、ピアノのピッチを確認しておけたのは大きくて、ステージに入る前、ピアノの音を期待できない状況でも合わせられる、ってこれは通常のチューナーでも一緒か。ということは、MC中にこっそりチューニングしやすい、これが最大の利点であるかと思われます。

こっそりチューニングなら、手は他にもあるかとは思います。特にピックアップを搭載しているギターなら、ラインインできるチューナー使ってもいいし、またプリアンプにチューナーが付いているものもあるから、その中で一番使い勝手のよいものを選ぶということになるんでしょう。けど、私のギターにはピックアップがない。なら、やっぱりこうしたクリップ式が浮上しそうです。

マイクを使って音を拾うタイプのチューナーは、環境によっては悲しいほど反応してくれないんですね。だから、サウンドホール付近にチューナーを固定しつつ、ピエゾで振動を拾い、ラインでチューナーに信号を送るようなアイテムもあったりして、けどそれは大げさだし、第一表板の振動を止めそうだから使いたくないよ。それに、これにしてもやっぱりピエゾを使っているわけで、小さなマイクでは音を拾いにくい環境、また周囲で音が鳴っている可能性のある場所ではピエゾを使うというのが最適であるという判断があったためかと思いますが、ならあえてこういう大きなものではなくて、コンパクトで目立ちにくい、かつ音に影響の少なそうなものを選ぶほうがよいだろう、ここにまたクリップ式の優位が見えるように思います。

最初にいいましたが、チューナーの活躍したのはMC中のチューニングで、今までならピアノに頼んでA音をもらっていたのですが、レッド・ツェッペリンだったかの昔の映像で、Give Me A, Give Me A ! って叫んでたのが印象的だったものだから、練習中はGive Me Aっていってたんですけど、本番中にはさすがにそれは無理。なので、チューナーのスイッチを入れて、孤独に合わせていくんです。この時に、本当に小さな音で反応が得られるのがありがたかったですね。とりあえず、おおまかに合えばバックライトが緑に変わるという機能が便利。隣の弦を頼りに、ぱっぱっぱと6弦全部を緑にしていって、最悪時間がなければこれで、余裕があればできるだけちゃんと合うように微調整もして、なにせ弦を前日に交換したところだからばりばり下がる、それをちょっとの時間で巻き上げてやる、ええ、実に重宝しました。

2007年12月24日月曜日

Small hand, taken with GR DIGITAL

My right hand今日は、毎月末恒例のGR BLOGトラックバック企画、今月は12月ということで、2007年最後のトラックバック企画ともなるわけですが、そのお題はといいますとありがとうであります。ありがとう、いったいなにに感謝をするのか。ともあれ、トラックバック企画『ありがとう』に参加します。

この企画、「ありがとう」というのを見た時に、ああ多分私はこれを選ぶのだろうなという写真を思いついていたのです。時折我が家にやってくるちびすけの手なのですが、昨年末に生まれて、もう一年が経つのか、恐ろしく時間の経つのってはやいな。その慌ただしかった一年間、父に母に、そしてそのちびの両親において、この子の存在がどれほどの喜びをふりまき、生きることへの希望であるや励みであるかを与えたかは、もう言葉にて語れる領域を超えているんではないかと思うんですね。

というわけで、月並みですが、そのちびすけの手を写真に撮ってみました。赤ん坊の握っている手は、そのうちに仕合せをつかんでいるのだよなどといいますが、実際それが本当ならどんなにかよいだろうと思います。あ、この記事冒頭の写真は私の手ですが、思いっきり開いていますね。なにか大切なものを落っことしてなければいいのだがなあ、などと台無しなことをいいながらごきげんよう。皆様方におきましては、よいクリスマス、そして新年をお過ごしください。

Hand

2007年12月23日日曜日

ブラッドハーレーの馬車

 さすがは沙村といわざるを得ないんでしょうね。内容も知らないままに買ってきた『ブラッドハーレーの馬車』。理由は、それが沙村の作だから以外のなにものでもなく、ということは私は事前に覚悟を決めておく必要があったということです。帯に見える惹句、残酷であるとか戦慄衝撃もろもろを、それこそ字句のとおり受け取って、どんな状況が描かれようと受け止めるという心積もりをしておかないとならなかったというのに、それを私は怠っていたのでした。初読の衝撃といったら! 私は、きっとすごく変な顔してたに違いない。やられた、しくじった、言い方はどうだっていいのですが、描かれる状況のあまりのむごさに、いったんは瞑目して本を閉じました。そして、覚悟を決めた私は、続きを読むべく再び本を開き、やりきれない、どーんと落ち込んだ気持ちとともにすべてを読み終えたのでした。

出口の見えない鬱屈とした日々に差し込んだ希望の光。しかしそれがまったくの偽りだとしたら。希望が一転して絶望に変わる瞬間。そして絶望の底にあってさえ、希望を見出そうとしてしまう人の悲しさ。見せかけの希望のために犯される罪もあらば、自らの犯した罪に流される涙もあり、そして、過酷な状況に投げ込まれさいなまれ続けた魂が見せるひとひらの美しさというものもある。しかし、それでもこんなにやりきれなさばかりが残るのはなぜなのだろうと思います。結局は、この漫画に描かれた罪悪が、人の善なる行いにより打破されることがなく、正義によって裁かれるわけでもなく、ただ時局という偶然によって終わりがもたらされたに過ぎないという、あまりにあまりの展開。この、人の手によって地上に生み出された地獄は、その一時を盛りと咲き誇った花こそは時勢を失い散ったがものの、その種は芽は、いつか育ち咲こうという時をうかがって、静かにひそんでいる。そうしたことを思わせるからだと思うのです。

そしてそれはあながち嘘ではなく、この漫画に関してはフィクションであったといえど、同じような地獄はこの地上のあちこちに、昔といわず今といわず、生まれては消え、生まれては消え、それを止めようというものもあれど、人の力はあまりに弱く、それは本当に空しいことで、目を覆いたくなるばかりであって、けれどそうして気付かないように目を背けてみないふりをしている状況こそが、本当の残酷というものなのかも知れないなどと思います。

真実を知りなさい コーデリア

コーデリアに投げ掛けられるその言葉は、コーデリアという登場人物越しに、読者である私にこそ向けられたものではなかったか。世の残酷に目を背けがちな私に、お前の知るべき真実を知れと、そのように促す言葉ではなかったろうか。そのように思えてならない私は、確かに見るべき真実から目を背け、狭い視野のうちのみをきれいに彩って、平和を思っている。それではいけないのかも知れない。わかっていながらそれを行動に移そうとしない、私の弱さを叱咤するかのような一冊であった、そう思います。

引用

2007年12月22日土曜日

デイドリームネイション

 私にかぎらず多くの人は、どこか高校時代というものを懐かしむ、それも自分の高校生時分というよりも、こうあって欲しかったなという夢の高校生活を求めて、ゲームに、漫画に、あるいはアニメにさすらうのではないかと思うことが私にはあります。だとしたら、どんな高校生活がよかったんだろう。さすがに私はもうたいがいな歳ですから、今から高校なんてわけにもいきません。だったらせめて大学生に戻りたいなあ、それでパソコン部というか電脳部というか、そういうのに入ってみたいっていったら、もとそういう関係の部活に入っていた人が、正直おすすめしないとアドバイスくださいました。また別所でのこと、今やりたいことはなにかないのかねと聞かれたものだから、学生に戻りたいと答えてみたら、職業訓練校を紹介されたりしましてね。いや、そうじゃないんです、そういうこといっているんじゃないんです。

『デイドリームネイション』は、『○本の住人』そして『百合星人ナオコサン』のkashmirの送る夢の高校生活漫画。漫研に所属する女子ふたり、荻野と小岩井を軸に展開される、普通のようで普通ではない、いうならば現実と非現実の狭間に放り込まれたような感覚が心地いい、日常ものであります。

最初私は、表紙の印象から無軌道な若者たちによって紡がれる日常ものかと思っていたのですが、やっぱりkashmir作だからなのか、そこはかとなく普通でない感じが漂っていて、それはなにも尋常でない存在が鎮座ましましているからとか、そういうレベルの話ではないのです。むしろそうした存在の非日常性は日常に侵食され、まるで普通のものであるかのようなそんな扱いになっているというのに、普通の領域にあるべきもののほうがおかしさの源泉となっています。発想から言動から常軌を逸していて、こんなですから、自然漫画の雰囲気もどことなくおかしく、けれどそこには私の憧れの日常が見え隠れしているようで、そうか、ラ■ュタは本当にあったんだ、こんな学生生活送りたかったなー。本当の意味での駄目さを露呈させてしまうのであります。

意味不明なことを口走り、実行するハイテンション気味ののりが間欠的に吹き出しながら、全体的にはローテンションに落ち着いて感じられるというのもまた味であると思うのです。その味わいをベースとして、趣味性の高いネタがそこここに顔を出し、それが通じればきっと面白さも増すのでしょうが、けれどわからなくっても、そのわからないという状況をも楽しめてしまう、そこがkashmirの世界であるのだと思います。そして『デイドリームネイション』、この漫画は、他のタイトルに比べてもまだ一般的なスタイルに根ざす部分が多いから、ええと言い換えればマイルド目、他のものがいきすぎててついてけないっていう人でもおそらくは安心で、けれどこの人の作風に参っちゃってる人にしても物足りないっていうこともないだろう、いいバランスの上に成り立っていると感じます。

しかしだ、この人の絵は、なんだ、ほら、悩ましいね。特に荻野、彼女のすくすくとした肢体に現れる色気には心かき乱すなにかが確実にあって、けれどそれ以上のエロには決して発展しないという、そのおあずけ感にくらくらしそうです。けど、一番きたというのが第一話のショタ風味、あの一連の流れで、そうかあるんだ — 、どうも私は知らないあいだにずいぶん駄目な方向に流されてしまっているようです。自分の意思で泳いでたどり着いた岸じゃないの、なんて声も聞こえてきそうな気もしますが、いいんです。こんな駄目な私には、このうえもなく心地よい『デイドリームネイション』の世界が、なによりの慰め、癒しなのです。

  • kashmir『デイドリームネイション』第1巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2007年。
  • 以下続刊

2007年12月21日金曜日

『Colors』白詰草話サウンドトラック

 今年の9月末にLittlewitch Vocal Collection vol. 1手に入れてから、いまだにヘビーローテーション状態は続いて、ええ、まだ飽きていませんね。もちろんすべての歌が好きとはいわない。けど、ほとんどの歌は好きなもんだから、寝る前の小一時間に、ちょっと気分よくなろうという目的には実に効果的に働いてくれるのであります。さて、そのLittlewitch Vocal Collectionについて以前書いた時に、サントラを少しずつ買っていくつもりなのだといっていましたね。そして、本日届いたのが『白詰草話』のサントラColors。『ピリオド』も一緒に届いたんだけど、『ロンド・リーフレット』をまだクリアしていない私には、さらにいうとインストールさえしていない『リトルウィッチロマネスク』を抱えている私には、なんだかちょっとしたプレッシャーになって、どうすりゃいいんだ、もう破綻しそうなんですが、などといいながら買ってしまう。だって、Littlewitchというレーベルが好きなんだもの。とりあえず買えるあいだは買い続ける所存です。

『白詰草話』、サウンドトラック。三枚組、ぶっ続けで聞くと三時間超えるという力作で、素晴らしすぎ。けれど、枚数多いから嬉しいんでなくて、収録時間数多いから嬉しいのでもなくて、バージョン違いも含めて、可能なかぎり音楽を詰め込んでみましたっていう、その心意気が嬉しいんだと思います。加えて、2003年にリリースされたこのサントラがいまだに普通に買えるということも驚きで、多分プレスし続けているっていうことなんでしょうけど、私みたいに遅れてファンになったような人間にとってはこういうのはすごくありがたくって、ああもうずっとついていきますって気分になってしまいます。これってすっかり相手のペースに巻き込まれてるってことなのかも知れませんが、私の側から見れば、関連商品を際限なく手に入れたいと思うマニアの心情を理解してくれているとそんな風にも思えるわけで、時間かけてでもサントラ全部揃えて、それで余裕があれば画集、ファンブックあたりも揃えようかと、そんな気になろうってものです。

けど、いくら好きでも、出来があんまりだったりしたら買おうとは思いません。それはもともとのゲームについてもいえるし、サントラでももちろん同様で、やっぱり欲しいなと、音楽なら音楽だけで聴きたいなと思えるよさがあったから、こうして買っていこうという気になるんだと思っています。ゲームを攻略する中で、あるいは攻略なんて抜きにしてあの雰囲気に浸りたい、そんなこと思った時なんかに、繰り返し耳にするのがこうしたゲーム音楽でありますが、その何度も何度も聴いてきたものを飽きることなくまた聴きたいと思う。耳に、印象に残った曲があって、それを好きな時に、好きなシチュエーションで聴きたいと思う。それはそれだけその音楽に引かれているということなのだろうなと思うのです。

『白詰草話』なら『白詰草話』というゲームを通じて知ったから好きになっただけで、そうしたバックグラウンド抜きに音楽だけに出会ったのだとしたら、気にも留めなかったかも知れない。確かに、すべての付随音楽にはそうした嫌いがあります。それら音楽は、劇中で場面を盛り上げ、深め、情感を揺り動かしてきたものでありましたが、それが今は逆に、ゲームをプレイすることで得られた感慨に彩られ、輝きを増している。ですが実際にこうして聴いていると、そんな仮定が馬鹿馬鹿しくなってきます。単純に音楽としてよいと思うものがある。美しいと思えるものがある。そして、愛おしいと思えるものもある。それが答えのすべてなのではないかと思うのです。

確かに、音楽に呼び起こされる感慨というのはあり、それがより一層にこのサントラの価値を高めているという側面は否定しません。けど、これは『白詰草話』という物語に触れた人、それを好きになった人だけが持てる特権なんじゃないかと思います。そして『白詰草話』の音楽は、ゲームというバックグラウンドを背負いながらサウンドトラックとして独立したことによって、私の実生活をも含めた、より広い地平を獲得する可能性を持ちました。つまり私は、この音楽をなおも繰り返し聴くことにより、きっともっと好きになるだろうといっています。今その音楽に触れながら、そういう予感にあふれていると感じています。

PC

Dreamcast

Book

Toy

腐女子はそんなに甘かないよ

「よかったら今度、僕のホワイトベースに遊びにきてみる?」 - ARTIFACT@ハテナ系

経由で知った、

「ブログ女王なオタク女子を落とすメールテク」モテるメール術 - 男の恋愛応援サイト【恋タメ】

なお最初の記事は、大きな掲示板のスレッドで紹介されてました。

これ読んで思ったんだけど、腐女子を含めおたくってのはどんだけ侮られてるんだろう。それこそ腐女子と呼ばれるような人は割合シビアなところがあるから、いきなり「ホワイトベースって何?」とか聞いたりしたら、「はあ?」とか思われて、仲間内で回覧くらいされかねない。うかつなこと口にすれば、「これだからわかってないやつは」なんて反応を、あからさまにされたりするもんなんだ。その人が優しい、ないしはこっちに好感を持ってくれている場合には、「まあ、この人はわかってない人だから、仕方ないよね」くらいでとどめてくれるかも。どっちにせよ、相手の領域に飛び込むのは危険きわまりない。

上記記事は、それがわかってない。

腐女子というかおたくというかと効果的に仲よくなるには、「この人、わかってるじゃん!」というこだわりポイントをつくのが一番で、それも単に仲間内で共有されているようなメジャーな部分ではなく、実は私はそうだと思ってたんだけど表には出してなかったというような、個人の体験に根ざすような、マイナーというかパーソナルというか、そういう微妙なところをつけないといけないんだけど、これ、まず狙っては無理だと思う。

16色しか使えないところを、パレットを工夫し、ドット手打ちで調整して作り上げられたグラデの職人技、あれは本当に素晴らしかったとしみじみいってみるとか、って、これエロゲーマーしか釣れないような気がする。

じゃあ、こんなのはどうだろう。

エスパー魔美』で、廃屋に張り込んだ魔美がトイレを我慢できなくなり、部分テレポート使って高畑の膀胱に尿を送り込むシーンについて(原作、アニメともにあります)、なんだって高畑の膀胱に送るだなんてまどろっこしいことをするんだ。尿だけ捨てればいいじゃないか。そうすれば高畑がいなくなってピンチにおちいることもなかったし、それに狙いがずれたら高畑の体の中、尿まみれだぜ。それこそ、ラブレターがあなたのロッカー奪ってるどころの話じゃない。百歩譲って、あれは女子中学生の尿だから我慢できるんであって、もし送り込まれたのが高畑の尿だったりした日にはたまったもんじゃないよ。

かくとうとうと語る。いや、これ実際に、両方とも、この人はわかってるっていって、いたく感心された話なんですが、こんなので感心されても仕方がないなあ。あ、もちろん腐女子に感心されたわけではありません。

多分、「ホワイトベースって何?」って聞いた時点で、この人は私のテリトリー外の人間だって判断されて、そもそもなんで私にガンダムネタを振る? などといぶかしがられて、「昔のアニメでそんなんがあったんよ」など、説明としては正しいけど、どっちかというといなされているというか、そんな反応が返ってくるんではないかと思います。

2007年12月20日木曜日

CrossOver Mac

 私には心残りになるアプリケーションがあって、それは一本のゲームなんだけれど、それまで見向きもしなかったWindowsに目を向けさせることとなった、まさにキラーアプリといえるソフトでありました。けれど、時の流れというものは残酷であります。Windows 9x系向けにデザインされていたそのソフトは、NT系OS上では動作しないというのです。だから私は、そのソフトを失いたくないばっかりに、Windows 9x系の走る環境をひとつ保持していて、しかしそれはいずれ壊れてしまうでしょう。こうなったら仮想環境しかないのか — 。仮想環境なら、プラットフォームが今後どれほど変わっていったとしても、旧い環境を残すことができる。私のように、レガシーなものに心を残し続ける人間にとって、仮想環境というものは極めて魅力的に映る、そんな風に思います。

そして、ここにもうひとつ問題があって、私は正規のWindows 9x系を持っていないのです。Win 95のCompanionは持っています。Win 98のレストアCDも持っています。もし今後Windows 9x系の環境を持つというなら、Companion版の出番でしょう。けれど、それをするとライセンス違反になりますわな。そうした理由から私はWindows 9x系の環境構築には乗り気でなく、MicrosoftはWindows 95を売ってくれたらいいのに。それこそ、ネットワーク機能をオミットしたものでもいいから売ってくれたらいいのになんて思い続けています。

しかし、こんな状況を打破できる可能性が示されたのですよ。仮想環境は仮想環境でも、互換レイヤーといわれる類いのアプリケーション。CrossOverです。Mac OS X上で、Windows APIを模倣するアプリケーションなんですが、もともとはUNIX向けに開発されていたWineというWin32互換レイヤーが、Mac OS X向けにDarwineとして分派、それが商用アプリとして整備されたという流れです。しかしなにが大きかったといっても、MacintoshのCPUがPPCからIntelに変わったということでしょう。PPC時代にはCPUのエミュレートが必要だったところが、今やネイティブコードが通用します。ああ、これはもしかしたらいけるかも知らんね。そう思った私は、CrossOverを試してみるべく、体験版をダウンロードしてみたのでした。

CrossOver Mac、バージョンは6.2.1です。インストールはバンドルをアプリケーションフォルダにコピーするだけと極めて簡単。ボトルと呼ばれる単位で環境を管理できるのですが、その環境というのがWindows 98、2000、XPでありまして、実に期待させてくれるではありませんか。私は矢も盾もたまらず、Windows 98ボトルを作成、インストールCD-ROMをマウントしインストーラを叩けば、おお、セットアップ画面が出るではないですか! やったか!? インストールするフォルダを選択し、次へ、次へと進んでいって、そして、そして、DDE Timeoutの発生とともに私の野望は潰えたのでした。おーまい、なんてこったい!

残念でした。正直、私はこれにかけていましたからね。けど、私はへこたれませんでした。まだ試してみたいことがあったのです。『らぶデス』のDVDを準備、マウント、そしてインストールすれば、時間こそはべらぼうにかかったものの、無事インストールが完了するではありませんか。おお、これはいったか。この、強烈に重い3Dソフトははたして動くのか!? 起動してみれば、お、音しか出ないよ! 画面は真っ白なままBGMだけが再生されて、ああ、これはさすがに駄目だよな。

次に試したのが、『白詰草話』。さすがにこれは大丈夫だろうと期待しつつインストールを終え、そして起動。やった、画面が出た。音も絵も出ている。動作もちゃんとするようです。なのでゲームをスタート。とりあえず状況を確認しようと、32倍速でぶっ飛ばしたら、途中で音もなく終了してしまいました。あれー? 再度起動して、ちょうどストールしたあたりでスキップを等倍にしたところ、やっぱり終了。ああ、これはあれだ。ムービーの再生で落ちるんだね。試しにムービーを再生しない設定で実行すれば、やっぱりそうです、問題なく先へ先へと進むことができて、吹き出しまわりの表示にこそ不備はありますが、ゲームを進めることに関しては問題なく、セーブもできればロードもできる。

というわけで、動作したところの証拠です。

CrossOverは完璧というにはまだまだ足りないところもあるけれど、ソフトによっては充分に使い物になりそうだと思わせる可能性を秘めていて、実に面白そうです。けど、私にはちょっと残念でした。なので、まだこの先も理想の環境を求めてさまよう旅は続きそうです。

引用

2007年12月19日水曜日

Opera

 昨日のアップデートが原因で、WebKitフレームワークに問題が発生。特定のサイトで検索するとブラウザが異常終了するようになってしまいました。それらサイトを使わない私にはそれほどのダメージはなかったのですが、日常的にそうしたサイト、サービスを利用していたユーザーにはきっと不都合、不便きわまりない事態が生じているはずで、こうなるととれる対処はバージョンのダウングレードか代替ブラウザのインストールといったところだと思うのですが、そもそもMac OS Xってダウングレードできましたっけ? もしかしたらできるのかも知れませんが、私はこれまで過去を振り返ってこなかったために、そうしたことができるかどうかわかりません。そんな理由で選択肢が絞られて、つまりは代替ブラウザを入れるということになるんじゃないかといってるのですが、ならどんなブラウザがいいのだろう。そうさなあ、折角だから、Operaなんてどうでしょうなんて思ったりしています。

SafariやInternet ExplorerなどといったOSにバンドルされているブラウザ以外を使いたいという人に支持されているブラウザというと、Firefoxが思い出されます。実際、私もWindowsにおいてはFirefoxを使っていて、だからMacintoshにおいても慣れているFirefoxがベターなんではないか。あるいはGeckoエンジンを用いたCocoaブラウザ、Caminoなんて選択肢もあります。これもまたなんか懐かしいですね。以前の職場でMac OS X使っていた時、私はiCabとCaminoを併用していました。けど、結局はできることの多さからMozillaがメインになっていたんですが、なんてこった、もうMozillaという名前のブラウザはなくなってるのか。これ、Link要素に対応する数少ないブラウザであったことから好きだったんですが、派生ブラウザであるFirefoxに飲み込まれたのかあ。まあ、それも仕方がないことなのかも知れません。

しかし、Mozillaがなくなっていたとなると、ただでさえ等閑視されているLink要素によるナビゲーション、いよいよその影は薄くなってしまうなあ。なんて思って、ちょっと残念です。といっても、OS X 10.3の頃にはかたくなにiCab(Link要素に対応)を使っていた私も、いつしかSafariユーザーになっているわけで、Link要素は自分のサイトにこそ用意しているけれど、人様のサイトにおいてはほとんど気にしないようになってしまって、ああ、もったいないねえ。Link要素には革新的なナビゲーションを可能にするようなポテンシャルがあったのに、結局はソフトウェアが対応しないことで、陰のものとなってしまいました。惜しいなあ、心からそう思います。

私の知るかぎりのLink要素対応ブラウザは、Mozilla、Linx、iCab、そしてOpera、これだけです。もしかしたら他にもあるのかも知れませんけれど、残念ながら私はこれくらいしか知らなくて、そしてこの中でもっとも優れた対応を見せているのがOperaです。他のブラウザと同様にprev、nextなどに対応するボタンナビゲーションを提供するだけでなく、キーバインドによる移動まで実現していて、こうした革新的なインターフェイスを数多く取りそろえているという点で、Operaに勝るものはちょっとないように思います。もちろん、個々の機能において他ブラウザにはあるがOperaにはないというものも存在します。けれど総合力、ブラウザとしての可能性を追求しようというかのようなアグレッシブな実装は、Operaが一番のように感じます。

なので、もしWebKitの不具合が長く修正されず、そしてその不具合に見舞われるようなことがあれば、私はOperaをダウンロードして試すことであろうと思います。あるいは、第三のブラウザとして、常に待機させてもいいくらいかも知れません。

2007年12月18日火曜日

イン・ザ・スカート

 ギタレレを買いに訪れた楽器店、その向かいには大きな書店がありましてね、しかも漫画専門店。楽器店の店員が皆応対に忙しそうだったから、ちょっと待ち時間と思って書店をぶらぶらしたのはいいんですが、それで本買っちゃってるっていうのはどうでしょう。買わないつもりだったんですけどね。なのに買った。いつもなら目当ての漫画があるから、手持ちの予算やら感知力やらの関係できっと見落としただろうなあと、そんな風に思った漫画。タイトルは『イン・ザ・スカート』。スカートをたくしあげる女学生が表紙(スカートの中は見えません)、それがあんまりに繊細で儚げで美しかったものだからさ、どうする? 買うか! 二つ返事ではないけれど、それくらいの勢いで購入を決定してしまったのでした。

そして、読んでみて、あらかた覚悟はしていたけれど、やっぱり性描写が無視できないくらいに表立つ漫画で、最初はやっぱり! と思って、回避が正解だったか? などと迷いを見せて — 、いや、別にエロ漫画が嫌いなわけじゃないですよ。むしろ女性が華奢に描かれるものは好きで、だからこの漫画は危険領域に踏み込みそうで、そこが心配だったんです。変な話ですが、雰囲気が好みだったりすると、なんかエロに抵抗を感じたりするっていうことはありませんか? ああ、もう、そこまでで勘弁してください、みたいな感じというか。そうしたら割合寸止めシチュエーションが多くて(8本中3本)、ほっと安心したというかなんというか。純粋性とか、プラトニックへの憧れみたいなものがそんなことを思わせるのかなあ。よくわかりませんが、少なくとも私という人間が身勝手ということだけははっきりしたように思います。

そして、そのプラトニックへの傾きというものは、本の終わりに向かうにつれて強まっていったと思われて、それはおそらく「塔の魔女」の印象の強さなのではないかと思います。類いまれな魔女の少女が最上位の魔道書と契約を結ぼうという話は、残酷なシチュエーションを下敷きにしながら、その表に平和を願う気持ちと自己犠牲、そして純愛的な展開を見せて、ちょっと同人誌くさいといえばその通りなんですが、私にはめっぽう効く、そんな話であったと思います。そして、あのラスト。ちょっとコメディのりも含んで、面白く、ああいいねと思える、優しく甘い終わり方もちょっと好みでありました。

気に入ったといえば、「塔の魔女」もだけど、「ちいさな恋のメロディ」もいい感じで、ああそうか、わかった、私は一途な少年が好きなんだ。自分の好きになった相手に対して、真摯に、真面目に、あるいは愚直に、思いを貫きたい。そうした風が見えるほどによいと思うようにできているみたいです。この本に含まれる短編はどれもそれなりに好みではあったものの、それら特に好みと思えるものが数本あったことで、印象はより一層よいものに変わって、だからもしこの傾向が既作にもあるなら、ぜひ手にしたいものだ。そんなことを思っています。

2007年12月17日月曜日

YAMAHA ギタレレ【GL-1】

 ギタレレを買いました。突然ですけど。いや、本当に突然、これからはギタレレじゃないか? なんて思い立ちまして、行きつけの楽器店にいって、ギタレレを欲しくなったのでください。一応ふたつ弾き比べて、いまいち違いはわからないけど、低音の具合がいいと思ったほうを選んできました。価格、一万円ってところ。小ぶりのギターで、弾いているとなんだか楽しくなってくるような感じがあって、ウクレレよりもできそうなことが多いからか、放っておくといつまでも弾いてしまいそうかなあ、なんて風に思います。けど、なんでこの時期に? といったら、やっぱり逃避なんでしょうか。今度歌いにいくことに対して、どこかプレッシャーでも感じているというんでしょうか。ああ、そういえば、歌詞が思い出せない夢を見たな……。いや、気にしない気にしない。きっとうまくいくよ。

ギタレレというのは、日本の誇る総合楽器メーカーであるYAMAHAの作り出した楽器。ウクレレとギターのいいとこ取りをした結果、ウクレレでもギターでもなくなった、そういう感じのある楽器であると思います。けど、軽く上4弦だけをストロークしてやるとウクレレっぽいのりが得られるし、きっちり6弦まで使ってやるとウクレレよりもしっかりした演奏感がえられるしで、結果としてはやっぱりいいとこ取りでいいのかな。でも、ウクレレというよりはギターという感じがします。

しかし、これは楽しいですよ。ケース(ぺらぺらのソフトケースがついてきます。気休め程度の)にいれてしまうと、気楽に弾けなくなるような気がしたので、ヘッド、スロテッドヘッドなんですが、その隙間(スロット)にリボン通しまして、壁に下げてます。弾きたくなったらちょいって取り上げて弾いて、飽きたらまたかけておけばいい。お部屋のインテリアにも最適! ってほどでもないけど(実際、とってつけたようでちょっと変)、楽器のある風景っていいよね! って強弁してもいいくらいにはマッチ(?)してるかも知れません。ただ、あそこだと西日が当たるな。まあ都合が悪ければ、移動させればいいだけの話ですね。

売価がだいたい一万円くらいで、見れば接着剤のはみ出しなんかもあるんだけど、まあそれくらいは許容範囲かなって。あと、試奏した時かも知れないけど、表板、丁度袖のあたるところくらいにへこみができていて、上着のボタンかなあ、でもそんなの関係ないって感じで、がしがし弾いて、それこそ打痕、傷みは楽器の勲章だぜって割り切ってしまうのが、正しいギタレレとのつきあい方のように思います。気楽に持ち出して、気楽に弾く。そのためのサイズともいえるわけで、後生大事にしまい込んで、傷ひとつつけまいぞ、なんてのは逆によくないと思える楽器であります。

2007年12月16日日曜日

The Twelve Days of Christmas

  クリスマスシーズンが近づいてきて、というか今まさにクリスマスシーズンであるわけですが、意図せずクリスマスだけ働くシンガーとなってしまったわたくし、今年もまた歌いにいきます。さて、今年は新曲もあるとはいえど、基本的には去年練習した歌を引っ張り出してくればいいという気楽さ。けれど、よせばいいのにむらむらと開拓欲が湧いてしまって、今年のThe Twelve Days of Christmasは昨年とは一味違うぜ、てなことになってしまっております。いやね、昨年やったのはメジャーな版に比べておそらくより古いものでありまして、歌詞が多少違い、かつメロディも違います。そのため、聴いて、あああの曲かあ、とはならないわけです。それじゃまずいだろうということで、巷に知れ渡っている方を練習しようと思ったのでした。

頼りは、ロジャー・マッギンのFolk Denであります。ここに収録されているThe Twelve Days of Christmas、歌詞とコード、そして録音を手がかりに練習して、とりあえずなにも見ずに歌えるようになったのは11月はじめの頃だったでしょうか。とはいっても、とにかく歌詞の長い曲です。クリスマスの初日から毎日届けられるプレゼント、ヤマウズラにはじまり、キジバト、雌鳥、クロウタドリ、金の指輪、卵を抱くガチョウ、泳ぐ白鳥、乳搾りするメイドさん、ドラマー、パイパー、踊る女性、そして飛び跳ねる貴族にいたる。実に幸いな歌であり、クリスマスの楽しみというものを感じさせてくれる内容になっています。

ところで、ロジャーの歌ってる順番と世に流布しているものとにもやっぱり差があって、贈り物の順番が違うんですが、まあこういうところが伝承歌の面白いところかと思います。

この歌詞からわかるのは、クリスマスというのが単に12月25日をではなく、もっと長い期間を指しているということです。Christmastimeという概念があって、12月24日クリスマスイヴから始まり1月1日新年まで続くのだそうですが、イギリスだとさらに長く1月6日の顕現日までであるとか。けど、それだと12日じゃすまないじゃないか。イヴと顕現日は除くのかな? さらにヨーロッパにおけるクリスマスは待降節(アドヴェント)と呼ばれる準備期間(約四週間)をともない、しんしんと深まっていく長い長い行事なんだそうです。待降節のカレンダーがあって、毎日窓を開きながらクリスマス当日を待つという、こういう話を聞きますと、クリスマスっていうのはただのイヴェントではないんだなあとわかります。

The Twelve Days of Christmas歌う時は、こうしたクリスマスの喜び、冬至を過ぎて太陽が再び生命を取り戻していくことを祝う気持ちを表せればよいなあと、そんな風に思います。え? なんで冬至かって? 実は、クリスマスっていうのはヨーロッパの土着の宗教の冬至祭をキリスト教が取り込む(取り込まれる?)ことで成立したのだそうです。長い冬、暗く寒い季節を過ごす中、短くなった日が底を打って再び伸びはじめる冬至というのは、神聖にして特別な日であるのだそうです。これはドイツに留学した人に聞いた話ですが、冬至を過ぎて日が長くなる、その感覚というのは日本ではわからない。あれは本当に特別なものだって。そしてその人は、予備知識なく、クリスマスは冬至に関係する祭であると悟ったっていうんですね。私はその話はじめて聞かされた時、まさかあ、ほんとかよ、なんていってしまいましたが、本当でした。先生、あの時はすみませんでした。

というわけで、私はその特別な感じを込めて歌うことができるでしょうか。さあねえ、こればっかりはわからない。とにかく、その日、その時、その一瞬にかけたいと思います。

2007年12月15日土曜日

トランスフォーマー ムービー MD-21 ワイヤータップV20

 携帯電話を持てといわれています。けどなあ、そもそも私は電話をしないし、メールも頻繁に交わすわけでないし、あんまり必要性を感じないんですね。だから、持ちたいと思わない。それこそ月に何度か、最悪年に何度かの連絡のために、初期費用払って、月額の基本料払ってというのも馬鹿馬鹿しいでしょう。だから、持たないっていってはねつけている最中です。で、昨日、家に帰りましたら携帯電話のモックアップがいくつかあって、ああ、たまに電器店とかが放出してますが、それを買ってきたのだなと思ったら、もらってきたそうで、これ、子供のおもちゃにするっていうんだそうです。子供は大人の持ち物に興味を持つ、のか単純に携帯電話機の形態が子供の心に訴えているのか、そのへんはわかりませんけど、とにかくよいおもちゃになっているんですね。で、思った。私にはこれで充分だ。とりあえず、これで騙してみるっていうのも面白そうだなあなんて思ったんです。

 でも、使えもしないモックアップを持ってるっていうのも変だよなあ、結局は一発ネタだよ、なんて思っている私の前に面白そうなブツが提示されまして、それはなにかといいますと、トランスフォーマー ムービー MD-21 ワイヤータップV20。携帯電話機からトランスフォームする、ディセプティコンのトランスフォーマーです。これなら、なんで使えもしないモックアップ、持ち歩いてるのとあざ笑われる心配はありません。ただ、なんでわざわざそんなおもちゃ持ち歩いてるのといぶかしがられる覚悟は必要でしょうが。

しかし、ワイヤータップV20にせよ、オートボット側のスピードダイアル800にせよ、なかなかの再現性だよなあと思います。色、待ち受け画面の意匠を見れば、スピードダイアルの方が好みかなあ、と思いながら、まあきっと買うことはないと思います。けど、変形するロボット、大好きなんですよね。買わないのは、歯止めがなくなりそうなのが怖いという理由からなのですが、でも変形こそはシンプルなものの、いいフォルムですよね。欲しくなりそうで、実に危険です。

2007年12月14日金曜日

戦後日本は戦争をしてきた

 私は驚くほどに社会科に疎く、なんとなく、おぼろげにしかわからないでいることが多すぎます。そんな私が社会科に、具体的にいうと歴史に興味を持つことになったひとつのきっかけというのは、大学の講義で聞いた戦後日本を取り巻く状況についてでした。戦勝後アメリカは日本を去勢し、経済においても底辺的状況に置き続けようと考えていたところが、中国が共産化したため方針を転換。自衛隊の前身となる警察予備隊が設立され、また朝鮮戦争の特需により日本経済は回復したうんぬんというのをざざっと説明されまして、私はそれまで大きく歴史の流れというものを概観するという経験がなかったものだから、それこそ目からうろこの落ちるように思ったんです。私の悪い癖なのですが、近視眼的に物事を捉える傾向があり、特に若い頃にはそれが強かったものですから、余計そういう風に思ったんですね。

その授業をきっかけに、大きく歴史を見る、地理的広がりも見るということを学んだわけですが、そうしたら今度は大ざっぱにみるのはいいけれど、詳細がわからない。堂々巡りですね。歴史には様々な視座があり、それこそ多面多様な見え方がする。解釈や評価に幅があるためですが、こうなるとまた私には厳しくて、だってどちらがより真実らしいか見極めるだけの判断材料がないんですよ。それこそ世の中というものは極端なもので、証拠物件らしいものは山とあるけれど、ある人はこれを真実といえば、またある人は嘘だ、捏造だという。私は見てきたわけじゃないですからね。評価できないんですよ。それで、自分なりに考えてみて、より穏当と思える位置を探るのですが、それでもやっぱり揺れます。今もなおわからないわからないといってふらふらしています。

けれど知りたい、わかりたいという欲求は消えないんですね。なので時にそういうことを考えるためのヒントになりそうな本を見たら買ってみて、読んでみたりします。今回買ったのは、姜尚中と小森陽一の対談である『戦後日本は戦争をしてきた』。書店で見て、以前教師にいわれたことを思い出しまして、復習するつもりで読みました。そして感想はというと、ちょっとロマンチシズムに傾きすぎの嫌いがある、そして内容が出版された時点ですでに古びはじめているという、おおまかにいうとその二点かと思います。

古びはじめているというのはですね、第一章が2006年11月、第二章が2006年12月、第三章でようやく今年に入って2007年1月、第四章が2007年8月に行われた対談を元にしています。一番新しい対談で夏ですから、どれも安倍晋三首相退陣前の状況であるんですね。確かに突然の辞任であり、さすがにこれを見越してということは不可能だったでしょうけど、出版は2007年11月、この時点で読むにはちょっと新鮮味が足りず、じゃあ今はどうなんだろうと、福田内閣はどうなんだろうとそう思いながら読んでいました。ほんと、タイミングの悪い本だなあと、そう思わないではおられない感じです。

そして、ロマンチック。よくいえば理想主義的で、悪くいうとちょっと風呂敷を広げすぎのような気がします。括弧付きの「社会学」の論調といっていいかも知れません。すなわち、パオロ・マッツァリーノの用語における、ということです。事実としての体験や、研究者曰くどうこうだ、こういう見方がなされているなどというような部分、そのへんはいいんですが、現状、特に日本社会の、を見ようという時にちょっとそれは極端すぎないか、あるいは本当にそういっちゃっていいのか、と立ち止まらせることがあって、また私は自分自身の立ち位置を左、護憲よりと自覚している(なので姜尚中は割と嫌いじゃない)んですが、それでもそれはいいすぎじゃないのんかと思うところも一部あったくらいです。

でも、韓国や北朝鮮を巡る歴史の部分は興味深く、なにしろ日本史でさえ危うい私ですから、朝鮮半島を取り巻く歴史はまあ知らんわけです。とりあえずこの本でざっと流れをみることができたかなと。そして、ついぞ忘れがちになる、朝鮮戦争は終わっておらず、今は休戦中であるということについては何度も繰り返されて、そうした前提から語られる現状。そしてそこに休戦から終戦に向かわせたいという意思があるのだとすれば、姜尚中の眺める未来図が実現するに越したことはなさそうだなあと、そんなことを思ったのでした。だって、どうも私はアナーキズムに分類される考えを持っているようで、さらに血なまぐさくきな臭い、それこそ破滅的な願望を強迫的に抱えていましてね、そんな私の考える将来よか、姜尚中のロマンチシズムの方がはるかに健全です。ほんと、血が流れないならそれにこしたことはない。平和的に解決するのなら、それが一番いいに決まっています。

2007年12月13日木曜日

Logicool TrackMan Wheel

 私はトラックボールユーザーです。愛用のトラックボールはLogicoolのTrackMan Wheel。親指トラックボールと呼ばれるもので、このタイプのメリットは、ボタン及びホイールの配置が一般のマウスに同じであるため、比較的慣れやすいというものであろうかと思います。反面、手を置いた感じがマウスっぽいため、慣れない人はいつまでもトラックボール本体を動かそうとしてしまうようで、まあこのへんは人それぞれ。順応の速い人なら一時間ほどさわっていれば問題なく使えるようになりますし、なかなか慣れない人でも一週間もあればクリアできるでしょう。そして、慣れてしまえばマウス以上に使いやすくなるのがトラックボールであると思います。ポインタの長距離移動に有利であるため大画面に適し、ポインタの移動とボタンクリックがまったくの別操作であるため、クリック、ダブルクリック時にぶれるということもない。もちろん、マウスより劣るところもあります。ですが、よほど細かい作業をするということがないならトラックボールの方がよさそうだぞと、これが今現在における私の結論です。

さて、この時期にまたトラックボールを取り上げたのは、先日iMacを購入したのにあわせて、トラックボールも新調したからなんです。選んだのは、最初のものと同じTrackMan Wheel、ワイヤードモデルです。やっぱり慣れているというのは大きいですよ。ボールを転がし、ポインタの位置を決めクリック。2ボタン1ホイールで、ホイールはボタンとしても機能します。この配置が一般的なマウスに同じというのはもう書きましたが、ボタンの構成が標準的ということはドライバのインストールをすることなく使えるということでありまして、これ、実は私の結構重視するポイントです。変な話、というかほぼ思い込みといってもいいような話なんですが、ドライバをたくさん入れるとシステムが不安定になるんじゃないかって思っていまして、だからできるだけ入れたくない。極力デフォルト状態を維持する。これが私のスタイルなんですが、けどこの安定志向、ちょっとつまらなかったかなって思いはじめています。やっぱりね、ちょっとくらい冒険してもよかったかなって思ってるんです。

二台目のトラックボール購入にあたって、同じものを選んだのは正直つまらなかったといっています。思い切って、まったく違う傾向を持つの買えばよかったかもって思っているんですね。選択肢はふたつ、ひとつは同じLogicoolの上位機種であるTrackMan CT-100、そしてもうひとつはトラックボールの雄KensingtonのExpert Mouse。けれどこれらは高級機だけあってさすがにちょっと高くてですね、Kensingtonとなると軽く一万円を超えます。けどそれだけの評価は得ているんですよね。だから、こいつを試してみればよかったかもなあ、なんて思っているんです。

親指トラックボールの弱点は、それが左右非対称であることです。つまり、右利き用である。まあ、私は右利きだからなんら問題ないんですが、たまには左手でポインタ動かしたくなることもあります(そういう場合は小指使います)。その点、左右対称のトラックボールならより使いよいはずです。また、親指トラックボール以外の世界も知りたいんですね。掌で、あるいは人差し指中指の指先でボールを転がすという感覚を試してみたいと思っています。使いやすいかどうかはわからないけれど、多分あっという間に慣れて普通になるでしょう。その時に、ボールの大きさで有利な左右対称型が、親指トラックボールを上回るのではないかと期待するわけです。

なので、わりとつまらない選択をした自分にがっかり。やっぱり私はどこかに失敗を怖れ、冒険を避けようという気持ちを隠しているんですね。この、標準好きというかアグレッシブに攻めないところ、私のよいところで、また悪いところであると思います。

あ、一応断っておきます。TrackMan Wheel自体は非常に気に入っています。ふたつ目買ったというのも、最初のが壊れたからとかじゃなくて、職場用と自宅用にそれぞれ欲しくなったという、それだけの理由です。初代もまだまだ稼働していますよ。一年を超えて、まだまだ健在です。

2007年12月12日水曜日

Aria / ET-3000 クリップ式チューナー

 先月末に買ったAriaのチューナー、その使い勝手のよさに常用するにいたっているわけですが、さて本日伴奏合わせ、本番を前にこのチューナーの真価というものを試す機会なんではないかと思い、使ってみました。はたして、このチューナーの実力はいかなるものであったのか!? というほどたいした話ではないんですけど、けど楽器やっていて、チューニング、特にステージ上での合わせにくさを知っている人なら、こうしたものに興味というのはあるわけですよ。今日の練習で一緒だった二胡奏者も興味津々で、二胡の棹にこれつけて試してみて、実売にして二千五百円くらいというと、買おう、なんていってました。そういえば、職場のギター弾く人にチューニングするところ見せてあげたら、これ買おう、絶対買おうって、めちゃくちゃ乗り気でした。やっぱり、実際にもの見ると欲しくなりますよ。そんな具合に、微妙に宣伝してまわっています。

さて、今日はピアノもあったので、前の記事にも書いていましたように、まずはピアノのピッチを確認。ピアニストに440? って聞くと、下がってる? って返ってきたので、多分442で合わせてあったんだと思う。けど441でメーターが丁度真ん中にくるようになっていたから、やっぱり下がっていたんでしょうね。とか書きながら、本当ならAだけで見るのではなくて、全体のバランスを判断しないといけないんだよなと気付く。まあ、今日のところは気にしない。

こうしてピッチが決まれば、後はチューナーまかせでばんばんチューニングしていけばいい、たとえピアノや二胡が音出ししてたってまったく問題なしだぜ! というのは反面事実だけど、反面そうでない。というのは、練習時間をあんまり長くとれなかったので、手早くチューニングする必要がありましてね、チューナー見ながらなんてまどろっこしいことやってられなくて、音聞きながらどんどん合わせていって、おーまい、チューナー使ってないから! まあ、こういうの、実際よくある話で、ピアノがあるとあり得ない話だけど、弦同士とかだと、相手に合わせながらどんどん下がっていってみたいなこともないではなく、まあ全体でつじつまが合ってればそれでも問題はないからいいんですが。

そういう、そこそこ適当にやっちゃうようなケースにおいて、あるいは結構きっちりしたいようなケースでもチューナーまかせにはできないという現実を知っていると、おのずとチューナーに期待する役割は決まってくるように思います。チューナーというのは、いざというときの保険に似ています。突然わけわからなくなって、チューニングができなくなってしまうようなこと、私にはたまにあるんですが、そんな時に心をしっかりさせてくれるのがチューナーだと思うのです。とりあえず、合っているということを確認できる。チューナーでは完全に合わせられないのだとしても、少なくとも近似まではもっていける。最悪を回避できるわけです。そして、この最悪を回避できたという安心感が落ち着きを取り戻させて、微調整にこぎ着けることができれば幸い。もしそれが無理としても、立ち往生はないわけで、この最終ラインを割らずにすませられるというだけでも、チューナーは充分その価値があります。

転落を防ぐ、ザイルみたいなものっていってもいいのかも知れませんね。命綱。音楽になるならない以前での転落を防いでくれる。やっぱり持った方がいい道具であると思います。

2007年12月11日火曜日

枯葉

  フランス語やっていると、シャンソンを聴きたまえ、歌いたまえというようなことをいわれることが意外に多いのです。歌を聴く、自らも歌うというのは、発音であるとかフレージングであるとかの感覚を養うのにいいというのは実際そのようで、だから私もフランス語習っている時には、シャンソンを聴くこと、歌うということ、実に頻繁でありました。で、『枯葉』なのですよ。ジャック・プレヴェールが詩を書いて、ジョセフ・コスマが曲をつけた。映画『夜の門』の主題曲らしいんですが、残念ながら私はこの映画見たことがありません。

『枯葉』というとイヴ・モンタンが代表格みたいになっています。ラジオで、テレビで彼の歌っているところを何度も見て、聞いたものでした。実際、私の『枯葉』の印象は、だいぶイヴ・モンタンに引き摺られていると思います。

音楽やっていると、知らないうちに楽譜が溜まっていくものです。私もその例に漏れず、そこそこ楽譜を持っているのですが、面白いことに『枯葉』が結構含まれていたりするんですよ。日本語歌詞の版が一種類。けど、ピアノ伴奏付きのものと歌の譜だけのとそれぞれ別にあります。原語のものが一種類。これはフランス語のテキストに付いていました。ピアノ編曲が一種類、管楽器向け編曲がまた一種類、ギター編曲のものは三種類。とりあえず把握しているのはこれくらいですが、もしかしたらまだあるかも。

音源として持っているものといったら、フランス語のラジオとかテレビの録音、録画です。これはイヴ・モンタンとジュリエット・グレコ。インストゥルメントならミシェル・ルグランといったところで、数えてみると意外と少なく、それに今うちにはカセットもビデオも再生できる機器がないので、持っていても聴けないっていう逆境。いや、ルグランのは大丈夫。でも、歌の参考にはならんわね。

実は、今度『枯葉』を歌うことになったんですよ。わお、参ったな。っていうか、なんでこの時期に『枯葉』!? 微妙に疑問なんですが、頼まれたというか押し切られたというかで、仕方がない。いそいそと楽譜を出してきて、譜割確かめながら練習中で、しかし私はこれまでほとんどこの曲を歌ってきてなかったんですね。いやあ、あんまりにもべたすぎるでしょう。シャンソンといえば『枯葉』か『愛の賛歌』。それをあえて歌うというのも、正直ちょっとどうかと……、嘘です。難しいんですよ。べらぼうに難しいんです。ルフランも難しいんですが、クープレ、語りのような部分ですね、の難しさはもう悶えるほど。無理やって。これ、ほんと無理! けど、なにしろ私に拒否権はないようなので(なんで?)、これをなんとかやっつけなければならない。もう死に物狂いというか、とにかく歌って歌って歌ってみようの世界。うまくいったらお慰みですね。

けれど、歌ってみるとやっぱり極めて美しい歌で、メロディがよいのももちろんあるけれど、歌詞の美しさ、韻、響き、構成、繰り返しが非常に効果的で、そりゃ名曲といわれるだけあるわ。聴いてもいいものですが、歌ってみればよりよくわかります。詩は、読むだけでなく言葉として口にすることで、よりよく味わうことができるんだなと、改めて思った次第。なので、歌って歌って歌って、持ち歌ではないけれど、いつでも歌える愛唱歌にしたいと思います。

Yves Montand

Juliette Gréco

Patachou

コンピレーション

2007年12月10日月曜日

ろりぽ∞

  メイド喫茶が話題になったのはもう何年前のことでしょうか。私も、一度いったことがあります。大阪日本橋の、ソフマップザウルスがあった近く、一階がメイド喫茶、二階が猫喫茶、ビル陰の目立たないところにひっそりとしてあったのですが、さすがに旬のものだからでしょう、入店にはしばらく待たねばなりませんでした。けれど、いくらメイド喫茶がブームだからといって、メイド喫茶の格付け決定戦がテレビ中継されるなんてことはあり得ず、やはりああしたものは特殊な娯楽として一般とは隔絶されたものであると、そのような諒解がなされているように思います、私たちの現実におきましては。

けれど、仏さんじょの『ろりぽ∞』においてはさにあらず、メイド喫茶の格付け戦 — 、メイドコンペは一般に認知されるほどのイベントとして確立しており、そしてその火付け役である総理大臣、彼女は三十代の元声優であるという。このような、現実にはちょっとあり得ない状況で展開する漫画は、当初の微妙にコメントしづらいのりを抜けて、思わぬ方向に舵を切りました。いや、思わぬだなんて、ヒントはもうずいぶん前に示されていました。ただ私が気付いてなかっただけだったのです。

 2巻冒頭において提示された封鎖地区、それが晴海であったこと。そのきっかけとなった事故が起こったのが17年前。けれどさすがにこれではわからん。3巻におけるオタクは危険な犯罪者予備軍発言、そして117号事件。勘のいい人はここでわかったんだろうと思います。けど、私は4巻で決定的な種明かしが行われるまで、そのような仕掛けになっているとは予想だにしていませんでした。しかも、まさか、こんなにもストレートにぶちかましてくるだなんて、正直面食らったといわざるを得ません。

 こうした構造が見えてくれば、件の犯罪予備軍発言をした劇中の記者、大曲という名前にもそれなりの背景が想起されるわけで、やってくれるなあ。現実にあった事件を下敷きにし、それも少なからず驚愕と恐怖と動揺と戸惑いを日本中にまき散らした事件、もうずいぶんと昔のことになって記憶も薄らいではいるんだけど、事件の発覚とその後の報道の異常加熱。忘れないですね。あの時私は高校生で、まあ春夏冬の『アニメ大好き!』を楽しみにしている程度の穏健な少年でしたから、 — 他人事ではないよね。いわれなき非難にさらされることの理不尽。あざけり、嘲笑もあれば、白眼視もあって、まあ私らなんかはまだマイルドなほうだからましでしたけど、けど、本当にあれはひどい出来事でした。その捏造された言説は、ある種のサブカルチャーに決定的な打撃を与えて、当時その矢面に立たされたのは、私らよりみっつよっつほども上の人たちだったろうとは思うのですが、そうした人たち、特に最前線にあった人たちにとっては、一生拭うことのできない記憶であったりするのかもなあと。4巻読むまでドアホ系メイド漫画だと思っていた『ろりぽ∞』に、なんともいえない複雑な気持ちを抱くはめになってしまったのでした。

けど、これも書いておかないとアンフェアだと思うから書きますけど、第1巻読んだ時、引き続き2巻3巻と読んだ時、その時もまた違った意味で複雑な気持ちでありました。積極的に面白くないとはいわないけれど、スイートスポットは無闇に狭い漫画だなと、あたればホームランかも知れないけど、そうでないとつらいなと、そういう嫌いもある漫画です。私に関してはどうかというと、嫌いだったら買ってないと答えるだけで充分かと思いますが、作者がライアーソフトの仏さんじょだからというプラス補正もあるかも知れないので、そのへんは斟酌くださるとありがたいです。

けど、これ推測だから実際のところはわからないですが、仏さんじょにとってはあの事件はやっぱり大きなインパクトを持っていた — 、いやそれはこうした趣味に関わっている人にとっては大同小異同じだとは思うのですが、けどもしかしたら想像を絶する違和感や傷、痛みを残すこともあったのかも知れないなあと思って、それが『ろりぽ∞』を描く動機となったんじゃないかななどと、それゆえに一連の種明かしに多少の息急くような印象を残したんではないだろうかなどと、そんな風に思わせます。

だから、もしかしたら、『ろりぽ∞』の完結は、あの事件にいやおうなく関連付けられた側の人間にとって、ひとつの精算、その記憶を乗り越えさせるきっかけになるんじゃないかと、こういっちゃえば大風呂敷すぎると私自身思いますが、少なくとも作者にとってはそうなのかも。いや、わかりませんよ。なにしろ私のいうことはいい加減です。けど、そういう可能性があるのだとすれば、それはこの漫画にとっての大きな価値になるのではないかと思っています。烙印を押された側の一人として、そう思っています。

  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第1巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第2巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第3巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第4巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第3巻 (東京:一迅社,2007年)129頁。
  • 前掲,150頁。

2007年12月9日日曜日

うたうめ

 安田弘之の漫画は、よほど気を張っていないと見過ごしてしまいそうで、買うたび買うたびにはらはらします。というわけで『うたうめ』、いつもの店、地上三十階書店新刊棚にて発見。見付ければ買うとインプットされているので躊躇なく手に取って、それでこれがバンブー・コミックスであると気付いたのはうちに帰り着いてからでした。なんと、この人は今四コマ誌で描いてらっしゃったのか。そうかあ、『まんがくらぶ』にて連載かあ、それも一年以上も前から。まったくもって気付いてませんでした。このまま気付かないままでいたとしたら、あぶないところでした。

雑誌で追っていない漫画をまとめて読むというのは、また格別のことであると思います。それも好きな作家のものとなればなおさら。表紙を見ても、タイトルを見ても内容は伺い知れないものの、けれどいったん開いて読み出せば、そこにはいつもの安田弘之の味というものが濃密で、ああやっぱり面白いなあと思います。みそっかすだけどどことなく憎めないウタダ、美人だけど変わりもののウメちゃん、そんな二人が主人公だから『うたうめ』であるわけか。しかし、それにしても安田はこうしたキャラクターがよくよく好きと見えて、特にウメちゃんが典型的。蠱惑的な美女、けれど変わりもの。あくまでも優秀で一種孤高であるのだけれど、変に庶民的なところがあって、どこかに隙を残している。そして私もそうした安田的美女が好きでありますから、やっぱりウメちゃんのことは嫌いでなく、そしてウタダにしても嫌いでない。いいコンビだなと思うんですね。

ウタダは確かにみそっかすに描かれていて、なにをやってもうまくないし、なんかウメちゃんのおまけみたいなあんまりな役回りだし、不憫な娘よのう、だなんて思うのですが、それでもそんなウタダがみじめに見えないのは、ウメちゃんがウタダのこと大好きで、まさしくベストフレンドとしてあるからなんでしょう。ウメちゃんにしても人が悪く、ウタダで遊んじゃうところもあって、結構ひどかったりするんですが、けどウタダのことを一番に大切にしたいと思っているのがわかるから、なんかウタダがうらやましいよね。それがウメちゃんだからそういうんじゃないんです。どんな時も自分の裾を離さないでいてくれるような友達がいるっていうこと、それがもうありがたいじゃないですか。私なんかも、ウタダよろしく、なにやってもうまくいかない組であるんですが、そんなでも、もしウメちゃんのような友達があれば人生はきっと違って見えるのだろうなと、そんな風に思うんです。

でも、これは逆にウメちゃんからしても同じなんじゃないかと思って、自分のことをわかっていてくれる友人がいるっていうこと、ちょっと甘えるようにして、自分の地を出せるような友達がいるっていうこと、それはやっぱり仕合せなことであるよのう。二人にしても、ずいぶんとわかりあっているけれど、完全にわかっているわけでもないというのはよくある話で、けどそうしたすれ違いが日頃には口にはしない本心をはっきりとさせるようなことにもなって、やっぱりそれは仕合せなことであると思う。ウメちゃんがある種の傍若無人さを発揮できるのは、その能力の高さと美貌、まわりにあれこれいわせないオーラがためであると思いながらも、けれどやっぱりウタダがいてくれるからなんではなかろうかとも思えて、いやこれはウタダ側の人間の願望がいわせていることかも知れません。

この漫画読んで、上につらつら書いたようなこと思う必要はなんにもないんだと思うんです。変わりもの女子高生二人組の漫画。ちょっとずれて、マイペースで、かたっぽは人が悪く、かたいっぽは要領が悪く、そんな二人のやり取りに生ずるおかしみを楽しめれば充分です。けれどそこにほのかに友達っていいよねと思わせる空気があるから、そのミックスに頬を緩めるのです。愛犬メロンにしても、隣のガキにしても、屋台のオヤジにしても、みんなちょっと変で、ろくでなしといってもよさようなところもあるんだけど、その変さが絡み合って生まれる味は、やっぱり安田のそれ。面白く、人が悪く、そして人間臭い。この人間臭さってのに引かれているんだろうな。そんな風に思います。

余談

どうやら私はスケベであるそうです。うーん、まあ、否定はしない!

  • 安田弘之『うたうめ』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月8日土曜日

タマさん

 『タマさん』の主人公は、当然杏であると思っていたんだが、帯によるとタマさんであるらしい。タマさん、関西弁でしゃべるただの猫。でぶ猫、猫又、おやじ趣味。見た目こそは可愛い(か?)が、そもそもいったいいくつであるのかも不明な、謎の存在であります。作者曰く、これは猫漫画じゃない、妖怪漫画なんだ、とのことですが、けどタマさんはただの猫です。ちうことになっている、っていうのが正しいのかな。

『タマさん』は、この妖怪じみた猫タマさんと女子高生の杏、幼稚園児のふるるの身近に起こる不思議な出来事を描いた、ほのぼの日常ものです? ええ、初期にはわりと出ていた不思議ものがだんだんと出てこなくなって、けどそれでもタマさん自体が不思議生物だから、不思議ほのぼのもの。それで杏とふるるの日常を描いてほのぼの日常もの、そういう印象の強い漫画です。

けれど、その日常は私たちの知っている日常とは似て非なるものです。これは同日発売の『ニッポンのワカ奥さま』と併せて読むとよくわかるのですが、『ワカ奥さま』においては、どれほどアグレッシブに、ラジカルにネタの展開がなされようと、あくまで片足は私たちの日常世界に残されている。私たちの世界の法則、常識、そういったものを前提にしている漫画であるというわけですが、『タマさん』はそうではありません。杏やふるるの住む世界は、私たちの世界が備える常識がまるまる通じるわけではない、いわば夢の別世界であります。そこでは猫がしゃべり、不思議な空想的存在も跋扈して、もちろんそれらを認めないものもあるものの、認めるどころか心を通わせるものだって普通にいるという、そういう世界であるのですね。

だとすれば、毎回の冒頭に展開されるお定まりのただの猫やでは、昔話におけるむかしむかしに通じる、私たちの今や此処とは違う、別の世界への扉が開かれますよとの、宣言であるのかも知れません。そして、『タマさん』読者は開かれた扉を抜けて、森ゆきなつ的おとぎの世界に一時を過ごす。その世界を表すキーワードはファンタジーというよりファンシー。可愛さが効果的に配置されたほのぼの世界を表すには、きっとファンシーが一番だと思っています。

私がこの漫画に強烈な印象を受けたのは、忘れもしない「れっつだんしんぐ」の回ですよ。歌い踊る杏、ふるる、タマさんの三人を見て、もっともオーソドックスであろう『まんがタイム』本誌、読者はどう思うのだろうと思ったんです。四コマ漫画は起承転結、なんて価値観を持つ人は、このキュートさで押し切ろうとするかのような漫画にどのような評価を下すのか、ネタよりもキャラクター性やその舞台の持つ雰囲気が重視される漫画の増えていくことに苦々しさを感じたりするんじゃないだろうかと、杏のプリティさに釘付けになりながらもちょっと感慨にふけったんですね。

でも、ネタ寄りといえる『ワカ奥さま』にキャラクターの魅力がないかというと、そんなことはまるでないわけで、だから『タマさん』のキャラクターがいくら可愛かろうと、そこに展開されるネタ、そして話が弱いということはないのです。私らの世界の常識に依拠するネタだって当然あります。ただそれと同じく、『タマさん』世界のネタがあるというだけで、そしてネタというよりも可愛さが前面にくるみたいなのもあるというだけの話。これも一つの多様式なのであろうと思います。そしてそうした多様式をベースに、杏やふるるたちの日常の風景があって、その日常がタマさんの加わることによって広がる — 、そのファンシーを楽しむのがよいのです。

さて、本格的にどうでもいい話の時間です。第1巻の終わりにはきっとふるるの母のエピソードがくると予想していた私は、まさしくそうなりそうな雰囲気に、きたぞきたぞと思っていたら、わお、まだ一本あったよ、ってこれ下ネタ回じゃんか!

ちょっと感動のシリーズで巻を終えることの多い昨今の四コマ単行本ですが、そう見せかけてまさか下ネタで閉じるとは予想外でした。しんみりとした読後感の中に、今彼女の娘が過ごしている仕合せな日常を愛おしく思うつもりでいたというのに、それが、それが下ネタ。ふ、普通逆じゃないか! と思いながら、笑いを抑えるのが大変でしたとさ。

  • 森ゆきなつ『タマさん』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月7日金曜日

ニッポンのワカ奥さま

 一郎さんの奥さんは、和歌さんという名の和装美人。風流な人、粋で貞淑、まさしく良妻というにふさわしい。家事は完璧、物静かでその所作振舞いも美しく、けれど実は意外に大胆。家事に、趣味に取り組む様は、ラジカル、アヴァンギャルド、アグレッシブ。手を抜かず、脇目も振らず、常に全力投球かと思えば、たまには失敗もして、それにすねちゃったりするところなんかがこのうえもなく可愛らしく見えまして、ああ一郎さんは仕合せものだなあなんて思うのです。あ、いや、テレビ買うの許してもらえないんだけどさ。でも、そんな些細な不満があったとしても、恋しい妻と寄り添って過ごす時間を持つことができる、日常の些事に紛れて気付かずに過ごしてしまいそうな、季節の、日常の趣きをともに感じ、愛でることのできる、その方がどんなにか幸いであろうかと、そんなことを思う。漫画としては日常もののギャグコメディなんだけれど、どうもそれだけではない情緒 — 、和の情緒がほんのりと匂う、そんな漫画であります。

この漫画の連載が始まった当初、私はすっかりこの作者、木村和昭を新人だと思っていたんです。けれど、もうほんととんでもない、この人は80年代、少年チャンピオンにて活躍していたという、いわばベテラン中のベテランだそうでして、道理でうまいわけですよ。四コマはオーソドックスにして極めてシンプル、絵も構図も整理が行き届いていて、なによりもその安定感が素晴らしい。すごい新人が出てきたもんだ! とか思っていた自分の不見識ですよ。その漫画の土台のしっかりしているのは、重ねてきた年月のたまものというべきなのでしょうね。奇を衒うことなく、日常をよく取材し、丹念に練り上げられた四コマは、懐かしい風景を面白さとともに感じさせてくれて、本当に力強い。読み終えたあとに残る感触の確かさには、巧いというのはこういうことなんだろうなと、ただただうならされてしまいます。

けどその安定しているということは、ただ落ち着いているって意味じゃあないんです。読んでみればわかるのですが、この漫画、すごく新鮮味にあふれています。さすがに若い人とは思わなかった、けれどベテランとも思わなかったのは、そのフレッシュさのためだと今でも思っています。切れがいいんでしょう。ネタ自体はありきたりな、それこそ紋切り型であったりするのも多いんだけれど、それが小気味よくきびきびと展開されるから、お定まりと意識することなく、とんとんとんっと読んでしまう。そして、その運びの中に、強烈に効くものがちょんちょんと含まれているから、思わず釣り込まれて笑ってしまって、たまらん。

安心して読める安定ネタをベースに、つい頬を緩ませる穏やかなほのぼのから、シンプルに飛び込んでくるナンセンス、強烈にくすぐるシニカルまで、緩急自在に投げわけ翻弄してくれます。決して乱高下はしないという信頼感が、くつろいだ雰囲気を作るから、面白さも自然と膨らむのだと思います。気張らず流れに身を委ねさせる、これが身上なのであろうなあと思います。

2007年12月6日木曜日

世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯

 私がNintendo DSを買ったのは、タッチペンでマッピングをさせるという硬派より迷宮探索ものが出たらしいと聞いたのがきっかけでありました。そうです、『世界樹の迷宮』ですね。私が『世界樹』を知ったのは、その発売直後のこと。このゲームは、初回の特典であるミニサントラがあまりに魅力的であったとでもいうのでしょうか、それこそ市場に出た瞬間、溶けたかのようにきれいに消えたといいますね。もちろん私も入手できませんで、仕方がないのでオークションで決着させました。この、いわば私にとってのキラータイトルとなったゲームでありますが、なんか人気があったみたいですね、続編が出るのだそうです。タイトルは『世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯』。世界観を引き継ぎつつ、新たな冒険の夢を見せてくれる — んだったらいいなと思うんですが、実はちょっと買うかどうか迷っています。

なぜ迷うのか? 実は『世界樹の迷宮』、まだクリアしていないんですよ。とはいっても途中で投げたのではなく、おそらくクリアに要求されるだけのレベルには達しているし、それにもう最下層も見えているんです。だから、地図書ききった時点でクリアでしょう。けど、止まっている。まあ、私の悪い癖なんですけどね、終わりが見えてくるとぐずぐずと延命工作を計るんですよ。確実に勝てる状態にしたいというわけでもないし(だって、多分もう勝てるし)、名残惜しいというわけでもないし、なのにセカンドパーティを鍛えてみたり、さらにはサードパーティに入れ込んでみたり。それはシナリオ終わらせてからにしなよ、というか、どう考えてもクリア後のお楽しみとしか思えない敵は後回しにしときなよ。そんなことは私もわかってるんです。けど、実はちょっと不幸なことがありましてな。すまんが、ちょっと聞いてはくれんかね……。

ネタバレ、くらったんだ。それもこのうえなく鮮やかなやつをさ。場所はファンコミュニティの掲示板、あなたにとって『世界樹』はどんなゲームでしたか? っていうような、感想ですね、そういうスレッドがありまして、まあここなら凶悪なネタバレもないだろうと思って油断してたらやられました……。まあ、情報封鎖を徹底しなかった自分が悪いんですけどね。当然ネタバレはあるものという前提で臨むべきだったんですけどね、それにしてもあんまりだ! ってくらいにクリティカルなバレだったんです。

古いゲームだからいいだろう、『ドラゴンクエスト III』にたとえましょう。DQ3はロト三部作の完結編になるタイトルで、前作、前々作との繋がりは実に巧妙でありました。完結編にして時系列でいえばもっとも古い、有り体にいえば勇者ロトその人が主人公であり、そして共通の舞台となるアレフガルドは世界地図の下、地下に広がるもうひとつの世界であったわけです。これ、DQ1, 2をやってる人間になら、地下にアレフガルドがあるよの一言であっさりネタバレです。前作までとの関連も完璧にあらわになる。はあ、そういう世界だったのかと、わかってしまうわけです。

私はそれをやられたのです、『世界樹』で。いや、恨んじゃいないよ。悔やんでるだけ。愕然として、モチベーションがだだだっと下がって、けど気力振りしぼって先に進んだら、翌日自力でそのポイントにたどり着いて、一日、たった一日の差であったかとまたがっかりして、もしこの秘密に予備知識なしにたどり着いていたら、どのように自分は思ったのだろうと、考えてもしかたのないことを考え、まあ、そっからボス戦二戦やって楽勝だったりしたから、まあ本当にクリアは目前なんでしょう。けど、なんでかそこで進める気力が失せて、セカンド、サードパーティ育成にいそしみ、クエスト消化に躍起になって、気がついたらWizardry XTH2をクリアしてしまっていました。あれ、どこで間違えたんだろう。

ネタバレくらっていなかったら『世界樹』はクリアしていたのか、それは今となってはわからぬことです。けれど、ゲームとしてはなんだかちょっと大味で、とりあえず玉砕覚悟で突っ込んじゃえば? ボスもトライ&エラーで倒せばいいじゃん、っていうようなのりがあったのがよくなかったかなと、そんな風に思っています。全滅したら、最後のセーブポイントに戻るだけ。別にペナルティらしいペナルティもないし、というところが私にはぬるかったのだと思います。ロストがあったほうがいいとはいいませんし、もしロストがあったり、パーティが全滅したら二次パーティで回収に向かう必要があるようなゲームだったら、ボスはもっと弱くないとゲームとして成立しないでしょう(どう考えても常勝できるとは思えない!)。けど、必ず勝てる方法はあるから何度でもチャレンジしてね、といわんばかりの戦いはなんかちょっと違うような気がするなあとも思われて、そのへんのわだかまりもクリアに結びつかなかった原因かも知れません。

とはいえ『世界樹 II』、ガンナーのために買っちまいそうな気もする。いや、わかりませんよ。わかりません。けど、気にならないわけでもないんです。

というわけで、まずは『世界樹』を片付けてみようかなと思います。これをやっつけることで見えるものもきっとあるかと思います。けど、一からやり直すには今のパーティが惜しすぎる。というわけで、継続でちゃちゃっとやっちゃおうと思います。ま、最初は勘を取り戻すのが大変でしょうけどね。

CD

Toy

2007年12月5日水曜日

ふたりのヒメゴト

 山田まりおは『ママさん』という漫画を描いているのですが、いつもながらの山田まりおらしさがあり、そして私の知らなかった側面も見られて、読んでよかったなあ、そんなことを思っていました。さて、『ママさん』は血の繋がらない母親に心揺れる高校生が主人公。まさに王道じゃないかなんていっていたら、山田まりおは同シチュエーションの王道漫画を他にも描いていたんです。それは『ふたりのヒメゴト』。血の繋がらない父親に心揺れる高校生が主人公の漫画であります。

けど、心揺れるというのとはちょっと違うと思う。むしろ正しくは欲情するだわな。あ、断っておきますが、義理の父親と娘ではなくて、息子です。男同士なのに、義理とはいえ親子なのに、欲望が止められない男子高校生斎が主人公。非常にナイーブで中性的な父に、ちょっとワイルドで強引な息子が迫る。その時に思い出された真実というのが、ちょっとよかったです。血が繋がっているとかいないとかに関係なく、息子に対しよき父であろうとする柾臣と、そんな父にあらぬ思いを抱き、なし崩しに関係に持ち込む息子。これもまた王道であるんでしょうなあ。父の天然さにいらつきを覚えることもあれど、愛がすべてをうやむやに飲み込んでしまう。この、愛でもってうやむやにして突入というのは、BL(になるの? 成人の方が多いんだけど)における山田まりおの勝利形なのかも知れません。

『ふたりのヒメゴト』に収録されているのは、前述の義理の親子もの(シリーズ)、没落した傲慢な坊ちゃんと社長に上り詰めたクール&タフな苦労人の逆転カップルもの(シリーズ)、そして読み切りがふたつですね。攻めは精悍な黒髪、自信家にして強引に迫るタフな連中ぞろいで、受けは天然であったり優柔不断で弱気であったり、皆どことなく屈折しながらも、結局は強引な愛の高まりを受け入れてしまうというのが基本です。けど、その屈折の原因となるものがそれぞれ違っているから、続けて読んでもワンパターンにはならず、新たな気持ちで臨むことができます。またタッチにしても、『結婚記念日』みたいにギャグコメディ寄りから『蝉時雨が聞こえる』のシリアス一辺倒まで幅があるから、飽きません。実際『結婚記念日』は落ちに笑ってしまったし、『蝉時雨』はその屈折の原因も含めてなんだか染みるものがあり、情緒深く、非常に好みです。多彩な山田まりおの一側面、四コマではついぞ隠れてしまいがちな部分は、こうしたジャンルにおいて開花しているように感じます。

で、ちょっと余談。山田まりおの受け攻めは、四コマにおいても同じ構図が見られて、幕の内攻め(いや、たまにこの人妙に精悍な攻め顔になるのよ)、由未カオル受け、天河攻め、諭吉受け、そして若葉が受けならやっぱり市川さんも受けなのかね? けど、こうして一覧してみると、いかにも駄目そうなのが受けに並んで、もしかしたらヘタレ受けってやつなんでしょうか? え、違う? 残念ながら私はBL方面には明るくないので、今度友人に聞いてみようと思います。

  • 山田まりお『ふたりのヒメゴト』(アクアコミックス) 東京:オークラ出版,2006年。

2007年12月4日火曜日

DSvision

任天堂の『DS文学全集』が火付け役となって、電子本についてなんやらかんやらいってましたら、Amazon.comがKindleなる電子本リーダーをリリース、強烈に期待しつつも、理想は電脳メガネだよね、これが私の電子本に関する発言の流れであったのですが、だとすれば当然言及されるべきものに触れていませんでした。それは大日本印刷がam3と組んで展開するというDSvisionです。名前に含まれているDSの二文字。Nintendo DSをプラットフォームとして展開される、コンテンツ配信。そのコンテンツとはアニメ、コミック、小説などであります。AmazonがKindleをサービス込みで普及させようともくろむなら、こちらはすでに充分普及しているDSで勝負をかける、ということなのでしょう。サービス開始は2008年3月予定とのことですが、これが実際どのような展開をするか、ちょっと興味があります。

けど、実はちょっと心配もありまして、コンテンツの購入にはPCが必要とのことなのですが、もしやするとこのPCにはMacintoshが含まれていないのではないだろうか? という心配なんです。もしそうなら、まさしく過去の電子本リーダーの再来ですよ。いや、端末はとりあえずひとつ確保してるから、ずいぶんましとは思います。けど、実際、Macintoshに対応して欲しいなあ。ってのはやっぱり常用の端末でないと、長続きしないんです。iMac買って、アクセスポイントが常備されるようになったからケーブル引き回す必要なくなったとはいえ、普段使ってないWindowsノートをごちゃごちゃやるってのは面倒だし、そうやって手順が増えると手間を嫌って利用しなくなるってのはやっぱりあることだと思いますから。まあ、私がものぐさなのが一番悪いんですけれど。

Nintendo DSがプラットフォームになることのメリットは、すでに普及している、これはすでにいいましたとおりです。私でも持ってる。なので、四千円程度のアダプタ等々を買ったら利用可能になる。この手軽さはすごいアドバンテージだと思います、売るほうにとっても、買うほうにとってもです。読書端末としてのDSに関してはすでに確認済み、行あたりの文字が少なく、ともないページあたりの文章も短く、頻繁にページを繰らねばならないというのは億劫ですが、けれどわりと悪くないものです。反応はクイック、片手で操作でき、視認性に関しても問題なし。あの小さな画面でちまちま読んでると、むかし角川から出てた200円文庫、角川mini文庫っていいましたっけ、あれを思い出すんですよね。豆本というほど小さくありませんが、かなりコンパクトでしてね、正直いうと読みにくかった。でも、DSなら小さすぎやしないから、持ちにくいってこともないでしょう。

さて、コミックも配信されるという話であります。ですが、DSの画面ってコミックを読むにはちょいと厳しいんじゃないかなあと思っています。あの小さな画面で漫画を読むという、その状況が想像できないんですよ。今携帯コンテンツでやっているように、コマごとにわけるのかも知れませんけど、そんなのだったら私はいらないなあ。実際に読んでみたら違うのかも知れませんけど、ああしたやり方が読みやすいとは私には到底思えなくて、具体的にいえば『まんがタイムきららWeb』にて公開されているWeb漫画、『みちかアクセス!』なんかはまさしくコマごと表示をしていますが、可読性はかなり悪いといわざるを得ません。

漫画がね、ただ前へ前へとコマを進めるだけのものだったらいいんですけど、ちょっと凝った作りや考え落ちみたいなものになると、前のコマに戻って落ちとの繋がりを確認するってのは普通にやっていることで、ところがコマごと表示だとこのテンポが極めて悪くなり、ああ面倒くさい、もうええわい、みたいな気分になっちゃうわけです。この点、4コマが一度に表示される『ジャーノ☆ROADはへヴィ!』は読みやすさが格段に高く、ストレスは感じない。ところが『だめ×スパイラル』、『Webクリ!!』となるとまた駄目で、縦長のページが一度に表示されれば小さすぎて文字の判別が困難になり、ゆえに一段拡大するわけですが、そうしても表示エリアは広がらず(なんで?)、マウスで表示エリアを移動させながら読むしかない。

惜しいよなあ。面白いのに、読みづらさがあだになってるよってずっと思っています。

DSのKindleへの優位は、その普及率と表示がカラーであるということでしょう。反面、その画面の小ささはデメリットとなって、そして上記の私の不安が的中した日には、テキストは購入するも漫画は買わずという、そういう流れになることはもはや必至であり、そしてそのテキストにしても私好みのものがあるかというとそれもまた未知数であるわけで(経験上、マイナー好みの私向けではないと思う)、最悪、興味は持ちつつも傍観ということにもなりかねないと心配しています。

だから、大日本印刷においては、私のちっぽけな予想、不安を力強く吹き飛ばして欲しいものだと思います。わお、こんな感じのサービスが欲しかったんだ! と、そう思わせて欲しいものだと、結構本気で思っています。

余談

ActiBook(『きららWeb』で採用されてる電子ブック形式)の画面があのサイズなのは、きっと私の使っていたノートPCの画面サイズに合わせているからだと思っていた私は、iMacの購入をひそかに楽しみにしていたのでした。24インチの大画面! きっとこれなら、これまで読みにくいと思っていたあれらも一望できるはず — 。

あのわくわくとした気持ちを私はどのようにしたらよいものでしょう。いや、ほんと、結構なショックだったんですよ。

参考

2007年12月3日月曜日

イチロー!

  私は浪人はしたけど予備校とかはいってなかったので、もしかしたらこの漫画のらしいところをつかみきれていないんじゃないかなと思うところがありまして、『イチロー』、タイトルの示すごとく大学落ちて浪人している女の子が主人公の漫画なんですが、言外に要求されているかも知れない予備校ないしは一般大学受けるにおいての予備知識なんてものをですね、私はまったく持っとらんのです。とはいっても、1巻においてはぼちぼち出ていた予備校ないし受験に直結するネタも2巻あたりではずいぶん薄くなりました。むしろ要求されるのはおたく系知識なのかも知れないなんて思ったのはメイド喫茶の頃でしたが、あと携帯電話? いやなに、まったくそのへんの知識なくても、一般的常識があれば充分楽しめる作りにはなっているのでなんら心配はいらないのですが、やっぱり知っていれば違うのかも知れない。知識というものは、それを自信を持って評価するのに必要なものなのかもなあと思ったりしたのでした。

でもね、普通に読んで普通に楽しむに関しては、もう一般常識があればいい。あと、こうしたジャンルの四コマ(きらら系でいいの? 今どき萌え四コマってのもどうかと思うし)に対する受容体さえあればきっと大丈夫かと思います。女の子が絢爛に送る小市民的日常劇。こういうのを見るたび私思うんですが、キャラクターの魅力というのは本当に偉大だなあって。日常によくある出来事を拾い上げるにしても、あるいはちょっと日常には起こりえない特別なシチュエーションを描くにしても、キャラクターがそうしたもろもろをその特質をもってうまくすくい上げ、駆動させるに足る力量を持っているかどうかで決まる部分ってあると思うんです。キャラクターが弱いとどうしても空騒ぎみたいになるし、そのシチュエーションに対する説得力っていうのが違うわけですよ。『イチロー』を読んでると、実際にありそうなネタも、漫画的コミカルなネタも、どちらも自然に入ってきて、違和感なく最後まで読み切れるわけだから、それこそその舞台も含めたキャラクターの強さがあるんだろうなあって、つくづく思います。

『イチロー』、2巻では少し登場人物が増えました。兄貴はどこぞに追放された匂いがしますが、まあそれはどうでもいい。登場人物が増えるにつれて、少しずつ広がるななこたち浪人生の生活の範囲。先ほどもいいましたメイド喫茶もそうなら、押しかけてきた先輩のおかげで明らかになる性格なんてのもあって、でもこうしたの多分、事前に予定して展開するのではなくて、そのつどそのつど、それこそアドリブするように前の展開を受けて広げていったものなんですよね。

1巻を読み返してみても思ったのですが、中心的な人物は最初から予定されていたものの、後に出てくる人、たとえば進藤まい18歳おたくは予備校登校初回にすでに出ているのですが、あれははたして後にレギュラー入りする予定だったのか、それともその時点ではゲストにもならないモブ+程度の扱いだったのか、それがわからんのです。なんでこんなことをいいだすかというと、ななこの浪人仲間である茜が人見知りであることを引きだしたまゆらさん、この人、まいが連れていかれた即売会で売り子やってたうちの一人じゃないのかって、そんな気がしてて、いやさすがに考えすぎじゃないかとは思うのですが、逆にいうとこの漫画にはそういう風に思わせるなにかがあります。前に出たことをうまく拾って、どんどん組み込んでいくといったような感じといったらいいでしょうか。自己生成する作品世界というものを目の当たりにするような、そんな気がするといえば、 — やっぱり言い過ぎなのかも知れません。けど、そもそも茜の人見知りにしたってですよ、それが前回に予定されていた展開なのかどうか、もしそうならその構成に対し、違うのならそのリカバーの巧みさに対し、素直に感心します。いやね、後者ならさ、シャーロキアンと呼ばれる人たちが、コナン・ドイルの書いたことをすべて否定することなく合理的に解釈できる道を探して、結果より広範な作品世界を構築したりするでしょう。まさしく、そんな感じなんかもなあって、思っただけなんです。もちろん、すべての創作物はそうした側面を持ってますけど、特に私は『イチロー』にそれを強く感じます。

けど、そうして膨らみながらも、キャラクターの核になる性質なんかはそのままであるから、あるいは付け加えられたものがベースとなる部分をより補強するように働くものだから、ぶれとしては知覚されない。それが大きいと思います。それに、単体では弱いと思われたような回や唐突と思われる展開にしても、こうして単行本になってまとめて読めば、見えてなかった繋がりのあることに気付かされたりして、いや思い込みかも知れないものもありますけどさ。けれど、いずれにしてもよく作られていることには変わりはないから、こうした面がよりよく見えるという点に関しても、こと『イチロー』は単行本向きかもなあと思った次第でありました。

  • 未影『イチロー!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 未影『イチロー!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年12月2日日曜日

日がな半日ゲーム部暮らし

 今、『電撃PlayStation』誌には『電撃4コマ』なる冊子が付いてきて、ゲーム系四コマ漫画を読めちゃったりするんです。この話をはじめて聞いた時には、正直ちょっと驚きましたね。だって、冊子ってや! 私、てっきり1コーナーだとばっかり思っていて、電撃の奴隷でしたっけ、あの延長で数ページ読めたりする程度の規模だと思っていたら、なんと付録冊子だったのか……。さすが電撃というべきか、昔から我が道をいくゲーム誌だと思っていたけど(付録CD-ROMにテーマ曲がついてくるなど、結構好きだった)、相変わらずであるなあ、ちょっと嬉しくなったですよ。思えば、私の昔買っていたゲーム誌である『ファミコン必勝本』も、晩年はWiz小説、Wiz漫画から、ゲームにどう考えても関係のない小説まで連載されていたものなあ。思い返せば、あれも我が道系の雑誌だったっけ — 。どうも私は、こういうマイペースな雑誌が好きなようでいけません。さすがにゲームもあまりやらなくなった今、『電撃PS』誌を買うということはさすがにしないとは思いますが、けどこうして単行本が出たら買っていくんだろうなあ。ええ、祥人の『日がな半日ゲーム部暮らし』。私、この漫画がめったやたらと好きなんです。

どれくらい好きかというと、ああ、自分もゲーム部みたいな、緩い部活やってればよかった。なんとはなしに集まって、なんか楽しく、意味があろうとなかろうと、みんなで同じ時間を過ごすっていうね、そんな青春を送りたかったなあ、なんて思って、軽く後悔するくらいに好き。いやあ、現実はどうかわからんよ。ちょうど34ページに書かれているように、実際そういう場があっても、意外とドロドロしたりするんかも知れんし。私の所属してた部活は実際そうだったものなあ。吹奏楽部、夏のコンクール、春の定期演奏会が二大イベントでさ、なんだかんだ拘束時間が長くて、うっとうしいのよー。ほんで、やっぱりドロドロした。少なくとも、私にはあんまり過ごしやすい場所じゃなかったよ、って、そんな話をしてもしょうがない。けど、仲のいいやつもあったし、それなりにドラマチックなこともあって、折角立ったフラグを力いっぱいへし折ったこともあったなあ。ああ、苦い。

『ゲーム部暮らし』が心地いいのは、作者もいってるように、こういう苦さが徹底的にぬぐい取られた後の、いわば理想郷ともいえる明るくて前向きなオタクライフであるからかも知れませんね。だから安心して読めて、ノスタルジーに浸ることもできるわけで、もしこれがぬるいと思われるなら、きづきあきらの『ヨイコノミライ』がおすすめです。青春の苦さ、若いということは痛いということなのだと、いやというほど思い知らせてくれますから。だから、もしこの『ゲーム部暮らし』がドロドロで、かーはらがすごいヨゴレを引き受けなければならなかったとしても、私は変わらずかーはらのこと好きだから、っていきなりなにをいいだすんだこの人は。だいたい、なんでだからと続くのかがわからん。ごめんなさい、最近ちょっとおかしくって、いやおかしいのは前からかも。そもそも、まともだった時があったろうか……。

こういう、馬鹿なことをだらだらいいながら過ごせる関係っていうのは、きっと貴重だろうと思うんです。ヒロインのみひろは友人かーはらに、なんだかこんなことばっかりいっているような気がします。「悲しい」と「悔しい」の違いをぶってみたりさ、ゲームと節度について熱弁してみたりして、こうして聞いてもらえるっていうのは嬉しいことだと思うのね。そして、彼女らはゲームという共通の趣味で繋がったわけだけど、いずれはそうした枠をはずれて、普通の友達になっていって、それはすごく仕合せなことだなあ、と思います。そしておそらくはこうしたことも青春なんだろうなって、自分の明日もようとして知れず、漠然とした不安にさいなまれながらも、今を精一杯に楽しく過ごそうじゃないか。ちょっと意志の弱く、ややもすれば低きに流れがちのみひろを見ながら、そんなことを思ってしまうのですね。

ただ、自分の経験上、そうやって問題を先送りにすると、負債が後に重くのしかかったりするわけですが。まあ、後悔は死ぬ間際にすればいいよ。なんていう私は、みひろを自分の内部に見出して、だから自分自身にそういったことをいいたいんだろうなあ。『ゲーム部暮らし』のキャラクターはよくできていて、みんな他人事ではない感じであります。特にみひろの代から下の子ら、あっきーにしても、3巻での新入生雪華にしても、自分の中に彼女らを感じてしまって、だからこそ共感も深く、唐突ともいえるみひろの発言も、あっきーの限度を見失ってまごまごしてしまうところも、そして雪華の妙にストレートすぎる振舞いも、すごくよくわかるように思うのです。

さて、そんな私の目下の(ゲームに関する)悩みはというと、プレイ時間を捻出できないってことにつきるかと思います。Nintendo DSを買って、ソフトもいくつか買って、クリアしていないもの多数。それはPSでもPS2でも同様で、もうクリア目前、後はボスを倒すだけ、という局面で、ストップさせてあるものもいくつかあって、あ、これは違う問題か……。

みひろの思いはよくわかる。これは、ゲームが好きで仕方がない人、好きで仕方がなかった人なら、おそらく同様なんじゃないかと思います。みひろもかーはらも、あっきーも雪華も、ゲームファンの心のうちにはきっと彼女らが住まっている。だから、きっと彼女らの作り出す空間を好きになれるという人は、少なくないと思います。

引用

2007年12月1日土曜日

にこプリトランス

  白雪しおんの『にこプリトランス』の第2巻が出ましてね、もちろん買ってまして、読みましたらばもうたまらん。なんというか、すごい密度でにやにやのシチュエーションが押し寄せてくるのです。ちょっと無愛想な騎士ないとに、せすとりんすの双子アンドロイドが迫り、騎士は騎士で嫌がってるようなそぶり見せるのに、実はまんざらでもなさそうじゃないか。というとなんか騎士があれな人みたいなので補足しますと、すっかりほだされちゃってまあまあ、って感じ。従姉の弥深子やみこと双子と一緒にいると、いいお父さんっぽくてですね、実にいい保護者っぷり。家族がばらばらにいる(あ、父はそうでもないのか)漫画なのに、こうまでもほのぼの家族っぽい雰囲気が強いというのも、なかなかにすごいものがあると思います。そして、この雰囲気があたたかくって優しくって好きなんですよ。けど、この漫画がいいと思うのは、もちろんそれだけが理由じゃありません。

メインのキャラクターである、騎士、せす、りんす、弥深子に加えて、サブキャラクターの魅力というのも馬鹿にできないのです。一言でいえば若林人脈。生徒会長の若様を取り巻く人間関係がこれまたえらく面白くて、恋愛あり、姉弟愛(いや、そっち方面の愛でなくって)あり、そして友情ありといった模様。どんだけ充実してるんですかと突っ込み入れたくなるほどにキャラクターが立っていて、彼らの出る回はちょっと騎士の影も薄くなっているような。いや、騎士が揺らがないでいるから、あの人たちも安心してやんちゃできるわけで、後ろに引っ込んじゃったとしても問題ないか。幼なじみの友人にいじられ、姉にいじられる不遇な弟、若林輝也。いいやつなんだがね、なんだか隙があるみたいで、そこが好き(いや、駄洒落のつもりじゃないよ)。実際、生徒会メンバーやせす、りんすに彼が慕われるのは、その隙のあるところが放っておけないからじゃないかななんて思うですよ。でもって、読者である私もその例外ではないって感じで……、そういえば弥深子やせすもそうなのかも知れないですね。そうかあ、道理で騎士が彼らの保護者みたいになってるわけだ。あ、この彼らには若様も含まれています。

第2巻では、残念ながら若様の姉は一コマだけ、妹さんもでないし、というわけで、楽しみはいずれきっと出る3巻に持ち越しであるわけですが、もちろんこれは2巻が物足りないといいたいわけではなくて、3巻も面白いぞっていっているわけです。過去に出たキャラクター、設定の数々が、さりげなく生かされて、面白さをより深いものに変えていくといったらいいでしょうか。それは第2巻でも実感できることで、さらにいえば1巻においてもそうであったわけで、この少しずつ世界が広がりつつ緻密になっていくという感覚、すごくよいと思います。物語世界が成長していくことで徐々に充足していく。もちろんそれはごりごりの設定主義なんかではなくて、突っ込みどころはあったとしても、そうしたおかしな部分、不思議な部分をも丸ごと愛せるような、そんな緩やかな深まりが楽しいのだと思います。弥深子の赤飯設定なんかはまさしくその代表といってもいいかと思いますが、どう考えてもおかしいんだけど、そのおかしさが面白さの前には問題にならず、むしろ面白さを後押しさえしています。

これは、なんなのだろうなあ。一言でいえば味、作風であるのでしょうが、そうした味がなにに発するのか、私にはつまびらかにはできそうになくて、そしてその言葉にできないところもまた味であるのだと思います。私としては、僕『にこプリトランス』大好きさ! ってことですましてしまってもいいくらいに思ってる。好きとは理屈ではなく、けれど好きになるには理由があるはずと、その言葉にならないところをぐるぐるとまわりながらもっと好きになっていく。白雪しおんの描く漫画には、そういう色があるように思います。

  • 白雪しおん『にこプリトランス』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 白雪しおん『にこプリトランス』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊