2008年3月31日月曜日

アスペクト2008年3月号

一年ぶりの『アスペクト』。とはいってもここに取り上げなかっただけで、見かければ確保、読んではいたんですが、それでも定期購読しているわけではないから、見落としなんかもあったかもなあと思っています。まあ、それはどうでもいい話。出版者アスペクトの出しているPR誌、これが妙に人を食ったような味があって面白いんです。特に、巻頭の特集にその傾向は強く、ネタとしては割と真面目なんだと思うんですけど、その展開の仕方が妙。編集者や書店員といった本に関わる人に聞き取りするというスタイルなんですが、いらんやり取りが書かれていて、めちゃくちゃ面白い。だから私は、なにをおいても特集は読みますね。と、ここで本題です。『アスペクト』2008年3月号の特集は「おっさんと読書」。本を読まないといわれるおっさんに本を読ませるにはどうしたらいいだろうかという、問題提起であります。

しかし、なぜ「おっさんと読書」にそんなにもひかれたのか。いや、そうじゃないんです。この問題提起を受けて思うところがあったのではなく、むしろその内容です。ちょっと引用してみましょう。書評家という肩書きで永江朗氏答えていわく:

いま、時代小説が人気です。歌舞伎みたいなもので、しゃべり方も枠組みも決まっている。殿様か町人かの違いはあるけれど、キャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるのって、きっとおっさんにはぴったりだと思うんですよ。

さらにもういっちょう:

「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすい。そういう前提で考えると、時代小説のショートショートというのは、いままでにない。

上の文章のキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるというくだり、これを読んで、ああ、いわゆる萌え四コマに寄せられる感想そのものだって思ったんです。

まんがタイムきらら』とか『まんが4コマKINGSぱれっと』をはじめて読んでの感想や、あるいはこういった雑誌に載っている四コマに対する否定的な評に顕著なのが、どれを読んでも同じという文言です。確かにそうかも知れません。似た形式、構造、パターンを持つ漫画は確かに多い、それはわかります。けれど、違うのは絵柄だけ、かわいい女の子がいるだけでお前ら満足なんだろ、だなんていわれたら、それは違うと答えます。ちゃんと違いはある。形式、様式もろもろは似ているけれど、そこには確かに差異があるんです。明確に言葉にして説明するのはむつかしいのだけど、感じ取れる空気、雰囲気、感触にちゃんと違いはあるのだよといいたい。ええ、少なくとも連載されてる多くの漫画から、頭ひとつ抜けて、その面白さを認知させているタイトルは、それだけの違いというものをもって、読者に自分の存在を誇示しているんです。

けど、熱心な読者以外、それこそ一見さんやちゃんと見ようとしてくれないアンチの人には、その差異が際立ってこないんですね。だからなおさら駄目なジャンルに見えてしまう。こうした向きを説得して、面白さを知ってもらおうだなんてもうちっとも思わないけれど、でもキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるといわれるような特性は、時代物ならずとも、これら四コマにおいても同様であるのだろうなあと感じた。だから、件の文章にはくるものがあったのですね。

参考

さて、二つ目の引用から気になる部分。DV系四コマにおいてはキャラクターやシチュエーションが決まってしまっている(部分もある)ということを認めてしまった私は、「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすいという言説も認めなければならないのかなあ。実は悔しいことに、私はかなり疲れた状態で四コマにたどり着いたという経歴を持っているんですが、でも私のいう疲れたは、漫画そのものに疲れたというよりも、漫画を取り巻く売らんかな主義、メディアミックスやらなんやらでどかどか出る関連商品に疲れ果てたわけですから、ちょっと違うと思いたい。

参考

萌えと呼ばれるものと四コマが結びついて、こうまで広がったのは、なにも『あずまんが大王』がヒットしたからではなく、ましてや雨後の筍、二匹目の泥鰌狙いがぼこぼこ出たからでもないと、私自身は思っています。『あずまんが大王』がなかったら、別のなにかが出ただろう。時期こそはわからないけれど、いずれきっとそれに準ずるヒット作が出ただろうと思っていて、そしてその後に続く類似のものが、広くジャンルを形成しただろうと思っているのです。なんでそう考えるかというと、四コマという形式と萌えと呼ばれる様式は親和性が高いと感じているからです。

萌えと呼ばれるもの — 、キャラクター性やシチュエーションの魅力を見せ、展開するためのプラットフォームとして、コマよっつを一区切りにして畳みかけられる四コマ漫画の形式はすごく理想的です。キャラクターそのものがテーマとなりうる舞台において、キャラクターは当然自身のキャラクター性を表現することが求められるわけですが、その表現するという行為はテーマの提示展開だけでなく、キャラクターやシチュエーションの説明、そしてキャラクター性そのものを強化していく手段としても機能するわけです。もちろんこういったことはコマ割り漫画でも見られるのだけれど、四コマ漫画の合理性には及ばないだろう、ましてや循環のうまくいっている四コマの効果は絶大だ。こんなことを私は考えているのですね。

けれどそうはいっても、あ、話は戻りますよ、まとまった時間がなくて本が読めないおっさんには時代小説のショートショートがうけるはずだという意見を見て、ああ、なんのかんのいっても、DV系四コマを好む人たちも時間がないのかも知れないと思ったんですね。生活が忙しい、慌ただしいからなのか、次から次へリリースされる雑誌、漫画、ノベル、アニメ、ゲームを追うのに汲々としているからか、それは私にはわからんことです。ですが、一人一人は自分自身の状況を見て、思い当たるところはあるんじゃないかなと、そんな気もして、じゃあ私自身の場合は? やっぱり時間はないと思う。けど、四コマを読みはじめたのは、隙間時間に細切れで読めるから、ではなかったのも事実です。四コマを読みはじめた時の私にとって、四コマというジャンルには、少なくともそれまで知らずにいた魅力があった、それが全てであると思いたい。そして今は、と問われれば、それを知りたいがためにこうしていろいろ書いているんですと答えます。

引用

  • 『アスペクト』2008年3月号(2008年3月15日発行),7頁。
  • 同前。

2008年3月30日日曜日

ドージンワーク

   この漫画がはじまった時、まさか後にアニメ化するだなんてまったく思いもしなかったどころか、そう長くないんじゃないかなどと失礼きわまりないことを思っていたのが懐かしい。そうなんですね、自分にはあまりピンとこなかったのです。ちょっと硬めの絵、表現はどことなくこわばった印象をあたえたものですし、描かれる内容にしても特に真新しいものでなく、だからどうだろうと思っていたら、私の見立てはいつだって外れますね。人気が出たのですよ。表紙を取るようになり、さらにはアニメ化されて、限定版だって出ました、アンソロジーだって出ました。はあ、すごいねえと私は感心して、確かに面白かったものなあ。そう思いながら、実は今なにをどう書いたらいいかわからなくて困っています。

今日、これを書こうと思って、単行本3巻のシュリンクを外したのですよ。つまり眠らせてしまっていたということなのですが、連載時に読み、そして単行本になった時に、同時発売される他のものを差し置いてまで読もうとは思わなかったということなんです。読んで見て、面白いなと思うんですが、それならそれを思ったままに書けばいいのに。なのにそれをしない。どう書いたらいいかわからないんです。私にとってこの漫画は、妙に感情移入を阻むところがありまして、変わり者、変態といってもいいのかな? ばかり出てくる漫画なんだけど、その彼らのおかしな言動がその瞬間瞬間に私をくすぐって笑わせてくれることはあっても、驚くほどにあとに残りません。この漫画と私のあいだには、なにか緩衝地帯とでもいえそうな隔たりがあるようで、近寄ろうにも近寄れない、そんな気がするんですね。

実をいうと、ジャスティスと星君が好きでした。二人はライバル? なのかどうなのか反発しあう仲で、変態っぽいんだけどあらゆる面で恵まれたジャスティスと、真人間からどんどん離れて駄目になっていく星君の対決にならない対決。駄目になっていくといえばヒロインのなじみや、なじみのライバル? かねるなんかもそうだけど、このどんどん駄目になっていくというのがいわば面白さの根幹かと思っていたら、なんだか妙にわかりやすい決着をしてしまうんだなあ、そんな印象が残っていて、そうした展開からは、同病相憐れむ感じのやれやれ感、近しさよりも、なんかすでにできあがったものをあらすじで伝えられたような、かけ離れた感じしか得られなくて、なんだろうなあ、もっとのめり込む展開だったらよかったのかなあ。

と、ほら、こんな風になっちゃうから、書くに書けなかったのです。

序盤、同人を儲かる市場と勘違いして飛び込んで、目論見の外れたことを知るなじみ。あのころが、私には一番面白かった。だから、あの時に書いておくべきだったなあ、そんなこと思っています。アニメ化の果てに抱き枕カバーまで出てしまった今、私にはあの時に感じていたことを思い出せず、つまりはなにを書いたらいいかわからない。むしろ今は、この漫画の対象とする層に私は含まれていないのね、と妙に納得した思いでいて、けれどこの流れについていけないことに、ちょっとした悔しさも感じているようだから、複雑なんでしょうね。

この感触なにかに似てるなと感じて、思い出したのが『おねがい朝倉さん』でした。かつて面白いと思ったけど今はなにか遠巻きにしているという感覚。けれど『朝倉さん』は雑誌まで買わせる勢いでしたから、それに比べれば『ドージンワーク』はずっとましではあります。けれど、理解されない、理解できないということは、どう言い繕ったとしても残念なことには違いないと思います。

  • ヒロユキ『ドージンワーク』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年;限定版,2006年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年;限定版,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第5巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年3月29日土曜日

雅さんちの戦闘事情

  この人は設定を作るのが好きな人なのかなあ、きっと作らないでは気が済まないんだろうなあ、みたいなことは『魔法の呪文を唱えたら』で書いた時にもいっていましたけど、どうやら設定を作るのではなく見るのも好きでいらっしゃるようです。後書きにて曰く、僕は単行本の巻末にオマケとかたくさんのってるのが好きなのでとのこと。掲載されたのは設定資料集的なものだったのですが、ああ、確かにこういうの好きです。設定資料というか、こぼれ話というか、こういうの読むのって確かに楽しい。制服のラインが地味にきついとか、そういう話、大好きです。

『雅さんちの戦闘事情』も第2巻に入り、内容も第二部に移りました。第一部では巨人と呼ばれる謎の敵を相手に戦う、ちょっとエヴァンゲリオン的な匂いも強い展開でありましたが、第二部に入ってからは戦いという要素は薄くなり、ともない雅さんちの影も薄くなり、すっかり女巨人のほのぼの生活ものになってしまいましたとさ。一部のころの雰囲気、戦いの中にどたばたとしたコメディをやり、最後に必殺技で締めるというのが好きだった人には、ぬるすぎる、こんなん駄目だという人もあるかも知れませんね。けど私は今の状況、結構気に入っています。主人公が出ないこともネタにしつつ、むしろそういった設定、枠組み無視するように、楽しんでキャラクター動かしてますといったようなのりがいいなと、そんな風に思っています。

でも『キャラット』本誌では、いよいよ話が動きそうな気配を見せているから、今のほのぼの状況は押し流されてしまうのかもなあ。これはストーリーを持つ漫画の宿命なんでしょうが、物語というものは終わりに向かおうとする力を内部に抱えているから、いずれ動かないでは済まないわけで、それに読者も動くことを期待しますからね。ほのぼのは停滞を好むみたいだけど、物語はそうはいかない。だとすると、作者はこの漫画にどういう落ち、決着をつけようと思っているんだろう、それが気になります。

敵方があんまりに描かれすぎちゃったかなって思うんですね。敵は敵として悪辣なまま、あるいは不明なものとしてあれば、いなして、しばいて終わりなんでしょうが、ああまでほのぼのに、いいやつに、愛すべきキャラクターとして描かれてしまうと、情も移るわけですよ。それで戦いに移行するというのはつらいなと。これがコメディではなく、強烈にシリアスなものならよかった。けどなあ、つらかないかね。なにしろ作者が漫画の中で、みんななかよし完結をネタにしてしまっているから、いくらなんでもこれは使わないだろうなあと思うんですが。といったわけで、この先に関してはちょっと期待です。

でも、正直私はこの作者にストーリーの展開うんぬんという要素は求めていなかったりします。これまでも、今も、これからも多分そうだと思うのですが、だとしたらなにを求めているのかというと、まさしく今が楽しければいいという超ショートレンジのノリの面白さです。私は、この人の漫画は、描かれるものの中に楽しみの軸がきていないと感じていて、じゃあどこに軸があるのかというと、描かれる枠組みを少しそれた外側、取り巻く周辺、です。キャラクターやストーリーといった本来の内部に対して向けられる視点、本来なら外部にあるべき主張が非常に強くてですね、ある意味内輪受けなんです。外部的なものを積極的に取り込みながら、その時ならではのボケ、突っ込み、かき回しをやっている、それがなにより面白いと感じるのです。だから、この漫画の外部的視点と一体化することをいとわないなら、きっと楽しめる。そういった読み方が気持ち悪いという人にはきっと耐えられない、そういう漫画なんではないかと私は思っていて、だから私がこの漫画のはじまった当初、どうにも受け付けなかったのは、その取り込まれることを嫌がったからなのだろうと思っています。

この漫画は、内に外部を導入することで面白さを生み出していると私は思っているから、本来の内部に対してはそれほどの期待をしていないのです。さらにいえば、この漫画を取り巻いている本当の意味での外部、他の漫画との交流なんかも面白さを生み出す要素になっていると思うから、雑誌で読んでいない人は面白さを幾分減じられた状態で読むのだろうなって思って、そうだとしたらちょっと残念ね。けどこれに関しては、『きららキャラット』を読んでいない私の感想はわからないわけだから、本当に面白さが変わるかどうかは不明。いや、きっと私は内輪に入れないという気持ちのために、忌避したんじゃないかなあ。そんな気がします。

なお、白状しますと、私がこの漫画を気にしはじめたのは、『火星ロボ大決戦!』にて突然現れた鬼八頭ガッカリ!なるフレーズがきっかけでありました。さらに加えて白状すれば、その頃私は、鬼八頭と書いてキハットウと読んでおりました。キハットウガッカリ。正しくはオニヤズガッカリです。

  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年3月28日金曜日

看板娘はさしおさえ

   看板娘はさしおさえ』も3巻が出て、いよいよ深まってきたなあという感じであります。深まる。いったいなにがかといいますと、情愛とでもいったらいいんでしょうか。家族の情、それに友情なんてものもありますか。知りあって、なじみになって、ほだされるままに深まりゆく情の行く末。私はこの作者、鈴城芹の描く漫画は『さしおさえ』の他には『家族ゲーム』しか知らないのですが、しかしこのどちらも巻が進むにしたがって、情の描かれること濃密さを増して、すごいことになってるなあなんて驚かされるわけです。けど、それでも見失わないベースみたいなものがあるから、情に流されるということがなく、そして溺れることもなく、情の触れ合い、絡み合うその様子に揺れる心情が安定して描かれて、うまいなあと思ってしまうんですね。キャラクターといういわば絵空事、けれど彼彼女らの感じた情、それが伝わる気がする。うまいなあと思うんです。

その情の現れるところ、表情であり、言い回しであり、振舞いであり、そして人と人との関わるところであろうかと思います。読んでいるこちらの心に表面に、ざらつきを残すことがある。そのざらつきは、違和感や不快感といったものではなく、確かになにかが触れていったという実感とでもいったらよいでしょうか。そのなにかが触れたという感触が、心を騒がせ、ざわめかせ、波立たせるまでに広がって、そしてそれは長い時間をかけて丁寧に積み上げられた末の結果であるから、より深さを感じさせることにもなるのです。私のうまいと思うのは、その過程にあざとさという評価の立ち入る隙がないというところです。漫画の人物の心を大切に扱って、傷つけぬように、突き放さぬように、きっと救いもあれば、報いもあると、そう思わせてくれる落とし所に導いてくれる、その安心感がありがたいと思います。いい話しすぎると思う節もあるかもね。けど、いやな話なんてわざわざこうして読みたいなんて思わないじゃない。シビアさ、シニカルさをフレーバーに、湿っぽさ隠しながら、情の行き交いを味わわせてくれるのは、嬉しいことだねって思います。

この味わいをさして、現代の人情ものっていってもいいのかも知れませんね。実際の話、第3巻、十世の姉とみを巡る話は、ほのぼのとしたコメディに見せかけて、それだけにとどまらない大きなものを描いていたと思います。家族、本当の家族と疑似家族、それぞれの繋がりをうっすらと対比させながら、そのどちらもを大切なものとして引き受けるにいたるまでの心の物語は、葛藤、確執をはらんで、静かながらも劇的で、そしてそこにも人の情があったのですね。十世の、いつもは見せない意固地なさまは、そうでもして突っ張らなければ収まりのつけられないほどにわだかまりが大きかったんだろうなあ、涙を絞ったよ。冒頭の描き下ろしについてもそう。人の心にはいろいろな面があり、明るく笑う笑顔の裏に、また違った層がある。当たり前のこと。当たり前のこと。けど、その当たり前を鈴城芹は、ちょっとの憂い帯びた表情と、言葉の綾でもって、ああもうまく見せてくれる。人の情の機微に気付かせてくれる。そしてそれは、この人がそれだけの情の揺れ動きを感じ、見つめ、そして忘れないようにしてきたということなんじゃないかと思います。もしこの想像があたっているのだとしたら、この人はすごく愛らしい人なのかも知れない、そんな風に思います。

情というものは割と厄介で、うかつに踏み込めば抜け出せなくなる泥沼だけれど、この作者は引き際をわきまえているようにも思われるから、ずぶずぶにまでははまらない。それは他のネタにおいてもそうかも知れませんね。思いっきり踏み込んでいるように見せても、これ以上いったらもう駄目という手前でとどめてくれる。だから余計に私は、この漫画によさ感じるのだと思います。身を委ねても安心と、そうした感じを得ているのかと思います。

余談

上につらつら書いたようなこと思ったのは、五十鈴ちゃんの台詞、お母さんのそういう所キライ!! を読んで、感じるところあったからじゃないかと思っていて、なんていうんだろう、あれくらいの年ごろって性的なこと、自分が徐々に性的存在になりつつあること? に嫌悪したりするけど(いや、男はどうだろう)、そういうのがよく現れされてるなあって思ってなんですね。そういう心情のもろもろ、よく覚えていらっしゃるんじゃないのかなって。それも生々しい体感としての記憶、そんな覚え方されてるんじゃないのかなって。そんなこと思いながら読んだ3巻でした。

そうそう、この五十鈴ちゃんの台詞は、ともすればやり過ぎで鼻につきかねないお母さん、桜子さんの傍若無人な振舞いを一度に押さえるカウンターとして機能して、無害化とまではいわないけれど、ずいぶんと緩和してしまったと思っています。同様に、五十鈴ちゃんの鼻につきかねない部分、お父さん、匡臣さんにやたら厳しい部分ですが、これは十世ちゃん、さえちゃんの方面からと、それからほかならぬ五十鈴ちゃん自身からもカウンターがあるから、やっぱり無害化されています。こういうのはほんとバランス感覚のなせる技かと思います。

引用

2008年3月27日木曜日

天然女子高物語

  門井亜矢の漫画はなんか変に脱力しているというか、微妙な緩さがあって、時折作者にやる気あるのかどうか疑問に思ったりもするのだけど、けどその力の抜け具合が妙に面白かったりするものだから、あんまり問題とは感じません。むしろそれが味といっちゃった方がいいのかも。気の置けない友人と、だらだらしゃべる面白さってあるでしょう。この人の漫画って、そんな感じがするんですね。だんだん頭が煮えてきて、どうでもいいことでも面白くなってくる時間。普段だったら間違っても口にしないようなギャグ、くだらない駄洒落とか、下ネタとか、あるいは皮肉交じりのブラックなジョーク、そんなのを思いついたままにしゃべって面白がってる。気だるい楽しみですよ。でも、それができる相手ってやっぱり限られてて、つきあいの長さ? 腐れ縁? それともよっぽど気が合った? そういった特別な条件が揃ってはじめて得られる楽しさなのかなと思うんですが、だとしたら私はこの人の漫画に、『天然女子高物語』に、なにか特別な条件を感じ取っているとでもいうのでしょうか。波長?

特別な感覚、それを生み出す要因というのがきっとあるんです。こと『天然女子高物語』にはそいつが揃っているように感じられて、くだらない駄洒落、あります。下ネタ、結構あります。ブラックなジョーク、大いにあります。基本すごく緩いなかに、皮肉っぽいネタ、とりわけ自虐はいるようなものがやけにぴりっとしてましてね、ほら、こういう感じさ。あー、もー、わたしはだめなんだよー、これいじょー、がんばれねーよー、だれでもいーから、あいしてるっていってくれよー。みたいなことぐだぐだいってる癖に、具体的に誰さんがあんたのこと、気に入ってるっぽいこといってたよ、みたいにいわれると、えー、そいつはお断りだ! どっちやねん、みたいなのり。

申し訳ない。これ、絶対伝わってないね。読んでる人、意味わからないよね。いやね、わたしはどうもさいきんだめになってまして、かんがえてること、まとめられねーんですよ。ことばになんねーんです。あーもー、だれでもいーから、あいしてるっていいたいんだけど、そのいうあいてがいねーんだよー。管を巻くわけです。で、そのみっともない自分を責めるのね。責めて欲しいのね。でも、本当にそれどうかと思うよなんて諭されると、そういうのは勘弁してっていうのね。わかってるんだ、わかっててやってるんだよ。

そんなのり。わかんないね。うん、私もわからなくなってきた。次いこう、次。

初期の『天然女子高物語』はタイトルにあるように女学生の日常の一コマを捉えて漫画にしましたという、そんなのりがあったのですが、どうも途中から路線変更されたようで、登場する娘たちが固定されて、そして阿佐ケ谷先生がクローズアップされるようになって、微妙に方向性が不穏になった。そんな感じがしています。

女学生メインだった頃は、華やかで賑々しいなかに潜む女の本性、けれど友情も、みたいなそんなのりでいっていたのに、阿佐ケ谷先生とその友人に関しては、女はある程度年取ると化けるのか? そんな感じがするのがおそろしくって、実にいいんですね。友人だけどこの人には負けたくないって気持ちとか、気にしてないつもりで気にしていることが増えている現実だとか、そういうのがほのめかされる(というか、割と直球?)たびに、ああ、なんかいいなあって思えるのです。腹を割って話している感じ。さっきいってた、私ってほら駄目でしょ、っていって笑う感覚。でも、うん、ほんと駄目だねー、っていわれるとむっとする感覚。だから普通はそんなこといわないんだけど、阿佐ケ谷先生の友人、みっちょんならいいそうな気がする……。でさ、癇に障ることいわれてさ、あいつはもう駄目だって、昔からそうなんだ、いやなやつなんだよって、そんなことになって、連絡とらなくなったりするんだけど、ほどなくしたらまたなんとなく普通に付き合ったりしちゃうんだよね。って、これが私のいっていた波長の合う感じに一番近いんじゃないかと思います。

もちろん、この漫画を読んで癇に障るってことはないんです、私は彼女らの関係から外れた、一読者に過ぎないから。でも、彼女らのあいだでは、きっとそんなこともあるんじゃないのかなあ、って思う。微妙な友達同士の距離、 — まだ十代の娘たちの距離、そしてもうじき二十代が終わる娘たちの距離、それぞれ描かれて、それがまた妙にかけ離れているように思われたりもするんだけど、そのどちらにも友情はあって、変わらないところもあるんだねえと、ほっこりする。私はとうに二十代を終えた人間だから、若い娘たちのにぎやかな様子見ていると、ノスタルジック感じます。大学で、新入生のわいわいとはしゃいでいる様子見て、彼女らの時間は私の時間よりも早回しで動いている気がしますと、担当教官と話した時、実は私の新入のころはどうだったんだろうって思ってた。若い人たちを見ていると、なんだか懐かしく思えてくる。『天然女子高物語』にはそういう感傷も隠されているように思います。

昔なじみとの無駄話構成する要素は、ばかばかしいギャグ、駄洒落、下ネタ、自虐と、そして思い出話。昔やった馬鹿を暴露する、よかったこともしみじみと思い出して、そんなこともあったねと笑う。私にとって『天然女子高物語』は、そんな感じの残る、昔なじみの匂いかね、ちょっと特別な感触のする漫画なのでありました。

  • 門井亜矢『天然女子高物語』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 門井亜矢『天然女子高物語』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月26日水曜日

PILOT ボーテックス

Letter昨年末に万年筆を買ったのをきっかけに、再び万年筆使う人になったわけでありますが、私の以前万年筆使っていた頃に比べると、今は比較にならないくらいに情報が潤沢で、なんだか振り回されてしまいそうです。万年筆自体がブームらしいとも聞きますし(本当? 私の身の回りで万年筆使ってる人皆無ですよ)、またBlog、サイト等で文具に関する情報を公開していらっしゃる人も多くて、これはいけないわ。欲しくなります。万年筆ばっかり持っても使い切れないからとなんとか我慢している状態ですが、それでも5本ほど買ってますからね。いかんわ。さて、一番最近に買った万年筆を紹介したいと思います。日本の文具メーカーであるPILOTの製品、ボーテックス。価格にして1,575円のお手軽万年筆です。

しかし、これ、非常にコストパフォーマンスがいいんです。とはいっても、私はmasahiro万年筆製作所の内野成広さんに調整いただいたものを買ったので、未調整、すなわち店頭に並んでいる通常の状態を知らないのですが、それでもあえていいたい。このペンはよいですよ。プラスチック製のボディで、ものすごく軽いのですが、それでも筆圧かけずにすらすら書けるんですね。もともとペンというものは、力を加えずペンの重さで書くものだというように諒解しているのですが、まさしくそのように書けるペンであります。

私の頼んだものはF(細字)であったのですが、実際に書いてみて驚いたのがその細さでありまして、いやね、思っていたよりもはるかに細くてですね、国産Fは細い細いといいますが、聞きしに勝る細さであります。こんなにも細いのか! 国産Fの細さを好む人の中には、海外メーカーのペンはFでも太いから困るというようにいう人がありますが、そりゃそうだわ。だって比較にならないもの。しかもボーテックスは、こんなにも細いのに、インクの供給に不安を感じるようなことは皆無で、気持ちよくすらすら書けます。グリップに巻かれたゴムも、軸中ほどにいたるくらいに長いから、首よりも少し上側を握る私には持ちやすい。ああこりゃあいいものを手にしたな。本当にそう思えるペンでありました。

さて、ボーテックスを買ったのは、ただ欲しいからだけではなく、ちゃんとした目的あってのことでありました。4月からペン習字をはじめます。石川九楊の『二重言語国家・日本』にそそのかされるかたちで始めた毛筆は、その後通えなくなって中途でやめてしまいました。けれどこの経験、まったくの無駄になったわけでなく、やはり以前よりもいい字が書けるようになっているんですね。でもさ、それでも中途半端なんです。昔のくせに別の癖がついたような字、綺麗な字ではないんですね。ひとつひとつの字がばらばらで、一貫性なく、繋がらず、けんかしてる。だからこれをステップアップしたいと思った。ペン習字だな。それも通信でと考えた時に、PILOTの実施するペン習字通信講座は非常に魅力的に思えました。字の系統が四種類提示され、そこから自分の好みにあったものを選べるというんですね。そして会費の安さです。年間一括で12,600円。正直、ありがたいですね。気軽にはじめられる価格であると思います。

といったようなわけで、この四月からペン習字をはじめます。調整されたよいペンでもって書くのだから、道具のせいにはできません。あらかじめ、逃げ場をなくしておく。これが私の考える上達のコツです。

2008年3月25日火曜日

Spring Blossoms, taken with GR DIGITAL

Letterこうしたものはベタでいいんだと思うんです。GR BLOGのトラックバック企画、毎月提示されるお題を見て、多分私は無駄にいらんこと考えて、変な方向へ、変な方向へと流れていってしまっているって気がついて、そう、こうしたものはベタに受けるのが一番だと、そう思えるようにようやっとなったのですね。さて、2008年3月のトラックバック企画、お題は春の足音であります。春の足跡、春の訪れを実感させるものってなんだろう。花だな。ええ、ベタにいくと決めた私、今月は花の写真でまいります。

日本語で花といいますと特に桜をさしますが、もともと、奈良時代くらいまでは梅をさして花と呼んだのだそうですね。他の花に先駆けて咲くからだなんていいますが、確かに梅は寒中に咲きはじめ、いよいよ春が来るぞという予感をさせる花であります。

Ume tree

そしてお定まりの桜。

Cherry blossoms

Cherry blossoms

こうした花が街のあちらこちらに咲いているのを見ては、ああ春だ、そう思い、また日本人はこうした花の身近にあるということを喜びにしていると感じるのですね。

そして最後に、木瓜の花をば。

Japanese quince

梅や桜のようには目立たないけれど、美しい花だと思います。

2008年3月24日月曜日

ヨメけん — お嫁さん研究クラブ

 ほへと丸という、ちょっと変わった名前の漫画家がいらっしゃるんですが、私はこの人の描く漫画がすこぶる好きでありまして、なにがいいといっても、その独特の緩やかさであります。出てくるキャラクターの皆善良なこと。にこにことしてほがらかで、前向きで芯から強くて、だから読んでいるだけで、いやさ眺めているだけで気持ちが和んできて、にちにちの疲れも溶けて流れていってしまうは、とげとげしくいらついていた気持ちもすっかり丸められてしまうは、本当、この独特の当たりはなんなんでしょう。間違いなく今の漫画であるんだけれど、過ぎた日の懐かしさも感じさせるような、穏やかで優しくて、人の体温の心地よさを思い起こさせてくれるような、そんな暖かさにあふれているんですね。そして私をなにより捉えるのは、この人の描く漫画の端々に感じ取れる、人とその暮しを愛おしく見つめるまなざしであろうかと思うのです。今日を懸命に生きる人とはこんなにも愛おしいものなのかと、私のような心の凍えた人間にも思わせるのですから、本当に貴重な、それこそなくなってもらっては困る、大切な漫画であるのです。

(画像はほへと丸『ひだまり家族』)

しかし、ほへと丸という人は、ただ微温的な漫画を描いて満足しているような人ではなくて、暖かさと愛らしさがないまぜになったような世界をベースに、ちょっとシニカルなネタ、ナンセンスなおかしみから、思いもかけないありそうネタまで、多種多様な展開してくれて、楽しいやらおかしいやら。突拍子もない発想があったり、しれっととぼけて見せるような人の悪さも見せたりして、けどその向こうにいたずらっぽい笑みが浮かんでいると感じられる、そんな身近さですよ。たまんないです。だいたい『ヨメけん』にしても、部活乗っ取りをたくらんでいた折り紙部ふたりが、部の私物化に成功したひなた先生にすっかり取り込まれてしまっているという、不穏なんだかほのぼのなんだかちっともわからない前提がそもおかしくて、それを支えているのが『ひだまり家族』のヒロインであったルイだったり、そしてルイの従姉妹のカナであったり — 。いろいろな個性がぶつかるでもなくぶつかって、けんかするわけでなく、なれ合いすぎるわけでなく、でもすごく調和してると感じられる、そこが好きなんですね。すごく釣り合いのとれて安定した、いい関係ができあがってるなと思って読んでいたんです。

そして『ヨメけん』、最新号で、カナが地元に帰ってしまいました。びっくりしましたよ。まさかこんな別れが予告もなく訪れるだなんて、思ってもいませんでした。びっくりしたのは、折り紙部残党であるアリカやサトだけでなく、読者である私にしてもそうだし、もしかしたら作者にしてもそうだったのかも知れません。誰よりもヘコんだんだそうですから — 。けどそれもわかる気がします。それだけ、キャラクターの一人ひとりに愛着をもって対していらしたんでしょうね。それだけに、状況を動かすことを決めた、その決意は大きかったんだと思うのです。安定して心地よい状況をあえて動かす。そうした決意は、もしかしたらほかならぬカナの台詞に色濃く反映されていたのかも知れません。

日常をかえる時って
すごくエネルギーいるけど

一度かわった日常は
いつかなじむものなんだよ

だから大丈夫

先生も頑張ればきっと
自分を変えられるよ

たったこれだけの台詞。二コマ、吹き出しにしてよっつ。まっすぐな目をして、ひなた先生に向けて贈られたこの言葉は、漫画の向こう、誌面の向こうから私に向けても投げ掛けられたかのように響いて、ばかばかしいと自分でも思うんだけど、何度見ても涙が出るんだ。見返すたびに涙が出るんだ。どうにも涙が止まらなくなって、それは今変わらなければならないことを理解し、切望しながらも、怖れに縮こまってしまっている私の胸のうちを、あの娘がとーんと打ち抜いたからかと思うのです。鮮やかに、軽やかに、したたかに、けれど優しさが、暖かさが、その一撃にはともなっていたから、痛みはなく、むしろ怯えていた自分がおかしくなるくらい。頑張らないとね、泣いてどうするんだ、顔あげてどうにか笑って見せようとするよな、勇気奮い起こさせてくれる、強くて深い第一級の言葉だったんですね。

『ヨメけん』は駄目な先生を立派な女性にしようという話。隅から隅までコメディなんだけれど、でもその真ん中には人という存在の愛おしさがしっかりとあるものだから、心ひきつけられてやまない。そんな、素敵な、大切な、愛おしさに胸をいっぱいにして読む、最高の漫画であります。

  • ほへと丸『ヨメけん — お嫁さん研究クラブ』

引用

  • ほへと丸「ヨメけん — お嫁さん研究クラブ」,『まんがホーム』第22巻第4号(2008年4月号),91頁。

2008年3月23日日曜日

終末の過ごし方

  二日続けで『終末の過ごし方』取り上げます。いやね、昨日プレイしたDVD-PG版が呼び水になったとでも申しましょうか、寝しなに一から全キャラクリアをしてしまったんですね。といってもスキップ積極使用、既読は全部とばすというエコノミックプレイであります。それだとだいたい一時間ちょいくらいでCGコンプリートできるくらいのボリューム、ちょっと薄すぎる嫌いもないではありませんが、思い立ってまたプレイしたい、あるいはあの世界に触れたい、そんな時に再プレイのハードルが低いというのはありがたいことだと思うのですよ。プレイしたのはDVD版です。そう、馬鹿なことに、私はMSX除いたすべての版を持っているんですね。いや、ほんと馬鹿だわ。

再プレイしたのは、DVD-PG版ではオミットされている部分を確認したかったこともありますが、それ以上にストーリーを追いたい気持ちを抑えられなかったんですね。私にとってのベストである大村いろはルート。もちろん辿って、それから私には少々厳しいキャラである稲穂歌奈ルート辿って、そして宮森香織、バッドエンド、敷島緑と続いて、これで全部。

私にとって大村いろはルートが特別なのは、いろはさんの台詞、

「私が…君を守ってあげる。
この残酷な世界の全てから、君の事を守るの」

「わたしがこの世界でする——最期の約束」

のためであるといっても過言ではないんですが。いや、もちろんそれ以外にもいろいろいいところはたくさんあって、月の誕生説のくだりや、彼女のあまりにも儚げなるさまとその理由、そして投げ捨てられた鍵に彼女の覚悟が見えるような気がするところなど、とにもかくにも好きなんだ。いや、ほんと、まだまだ好きなところあるんだけど、きりがないからやめときます。

このゲームの気に入っているところは、ヒロインそれぞれが受け止めている終末、その思いようの違いがよく表されている、そこであると思うんです。私の苦手という歌奈にしても、終末を迎えるに際して彼女の思っていたこと、それを知れば切なさに胸がいっぱいになって、例えばいつか…… 綺麗って言われてみたいです……とか反則級だと思う。だって、そのいつかのないってことは、誰もが知ってるんだもの。ともあれ、皆が納得しているわけでない終末に、立ち向かうでもあらがうでも、もちろん受け入れるでもなく、ただただ日常を反復することで考えないようにしている、そのように見せている彼彼女らが、それでも内面にはいろいろ思うところを抱えているんですね。それがプレイヤーの選択次第で表に現れてきて、それが切ない、悲しい。あるべき未来が奪われているということの残酷さを思って、それがなにより悲しいんですね。

件のいろはさんの台詞、守ってあげるは香織がいうべきだったのではないか、というのは小池定路氏のおっしゃっているところなのですが、このあまりに際立って特別に感じられる台詞の存在が、私をしてもいろはさんを特別にしているというのは先ほどもいいました(それだけでないこともいいました)。おかげで正ヒロインである香織の影の薄いこと、薄いこと、と思っていたら実はそんなことなくってですね、やはり香織は正ヒロインの位置に置かれているんですね。というのは、香織ルートだけなんです。主人公知裕が自分の得たいと思うものに向かって、自ら行動を起こすというのが。他のヒロインのルートでは、むしろヒロインこそが能動的で、知裕はそれを受け身で迎え入れるだけというような、そんな構図であるんですが、香織ルートでだけ、知裕は自分の意思でもってヒロインに向かっていくんです。だからやっぱり香織は特別だったんだ。久しぶりの『終末』プレイで、改めて香織の正ヒロインとしての貫録を思ったわけですが、つまり過去香織ルートをそれほど読み込んでいなかったってことを白状しているわけですが、いろはさんそして緑ファンとしてはちょっと複雑だぞ。

このゲームは、終末という避けられない悲劇を迎えるにあたり、それぞれのキャラクターが自分の身をどのように処するか、もろもろの思いを決着させることができるか、そういう物語を読ませるものだと思っているのですが、他でもない知裕のもやもやは香織を選ぶことなしには解決に至らないんですね。過去の関係、そして悔い、それらが香織ルートでは寄り合わされて、知裕を走らせる。そうかあ、やっぱり香織こそが知裕の特別だったんだなあ。ちょっと悔しい。なにが悔しいんだかよくわからないけれど、けど知裕も悪いやつじゃないんですよね。これからは知裕のためにも香織ルートを読むことにしたいと思います。

以下、上にもましてかなり余談気味です。

以前、知人が乙女ゲームプレイしている時に、全キャラ攻略には本命に冷たくしなければいけない、ごめんよ、ごめんよ、と心の中で念じながらプレイしているという話をしていたんですが、実は私、他ヒロインとのエンディングを迎えた時の歌奈の絵、これが耐えられないんです。ひざを抱いて座る歌奈、髪形がいつもの結い上げたものでなくなっているところを見て、ああ、この娘は皆の前では無理して明るく振る舞っていたのかもなあ、そう思って、すまねえなあ、ごめんよ、ごめんよ、って唱えてしまって、けどこれは、そう思いながらも歌奈ルートをなかなか選ぼうとしない負い目があるからなのかも知れません。

さらに余談

緑はよいツンデレ。この時代にはツンデレなんて言葉はなかったし、妹ブームなんてのもまだきていなかったわけだけど、幼なじみの年下で、しかもツンデレ。記号化される前のツンデレ的ヒロインとしては実に白眉であると思います(というか、DVD-PG版プレイするまで、気付いてませんでした)。

この人の素直でないところと、それから目つきの鋭さ、好きなんです。だってかわいいじゃありませんか。

引用

2008年3月22日土曜日

終末の過ごし方

  先日、『眼鏡なカノジョ』に触れて1999年くらいの私なら、きっと一も二もなく飛びついていたといっていましたが、その1999年という年は、決して思いつきやなんかで決められたものではありませんでした。他でもなくこの年を選んだ根拠、それはゲーム『終末の過ごし方』の発売された年であったからです。1999年、世界の滅びるという予言の年ですが、もうみんな忘れてるよね。私もすっかり忘れていました。ですが、終末思想は綺麗さっぱり忘れてしまえても、『終末の過ごし方』というゲームの残した印象は忘れるわけにはいかなくて、それは私のこのゲームに向けられた愛着のためであると諒解してくださったらどんなに嬉しいかわかりません。

1999年当時、私はWindowsの動作するマシンを所有していませんでした。まだLC630使ってたころじゃなかったかなあ。風の噂に、ヒロインが全員眼鏡かけてるゲームがあるらしいぜ、なぬーっ! それってどんな桃源郷!? みたいなやり取りがあったかどうかは今やさだかではありませんが、その噂のゲームこそがほかならぬ『終末の過ごし方』で、当然ながら欲しいと思ったのですね。けれどそれはWindows用のゲームであります。なので、存在は知りつつも手にすることはきっとなかろうと思っていた。それが私の1999年という年でした。

Windows機を入手したのは2001年のことであったようです。いや、2000年末であったかも。冬。それは『終末の過ごし方』のために入手したものではありませんでしたが、ですがいずれあの記憶に残るゲームを手にしたいと思って、そしてそれがはたされたのは2001年の8月でした。なにがそれほどまで私に働き掛けたのだろう。ゲームとそしてすでに絶版(出版社倒産)していたために入手困難となっていた『オフィシャルアートワークス』を立て続けに入手することとなって、そして私はその夏、このゲームの持つ雰囲気に打ちのめされたんですね。陰鬱というより繊細で、絶望よりも儚げさが感じられるこのゲームの世界に迷って私は、悲しくて、切なくて、なんだか泣きそうな思いであったのですね。

『眼鏡なカノジョ』で書くにあたって、『終末の過ごし方』の発売された年を調べました。それでDVD-PG版が出ていることを知って、私の行動は実にわかりやすい、買いました。そして到着次第プレイしてみて、ああ懐かしい。小池定路氏の絵も温かみをもって、なんだかそれだけで泣きそうになっている自分もどうしようもないけれど、ああ好きだなこの雰囲気。胸いっぱいに広がる空白に耐えられない自分を自覚している。そんな人には、きっとこのゲームはぴったりだ。そう思ったその瞬間、私は私自身がずっと空白のまま、今の今まできてしまったことに気付いてしまって、ああ、自分という人間は、空虚を吸い、空虚を吐いて生きているのだなあ。あまりの自分の変わらぬことに愕然として、そして空虚をひとつ、ため息とともに吐いたのですね。

関西のあの地震はいつだっけ。あの時、燃える街の様子をテレビで見た時、私は自分自身が生きていることがわからなくなって、それっきり。実際に被災したわけでない私がそんなことをいうのがおかしいことはわかっているんだけど、けれど私は自分の役に立たないことをいやというほど知って、自分が当然のように思って信頼している基盤にしても、実はそれほど強固なものでもないということを理解して、なんだか現実の側との繋がりがぷっつりと切れたみたいになってしまって — 。この気持ちというのは私個人のものであるのは当然ですが、あの時代、多くの人が共有していた気分がこうだったといってもいいように思います。失われた自分と社会との接点を回復したいと思った。けれどそれは回復されたのか。他者との関わりの中で確認される自分の価値、それを見失ったままさまよった人たちは、今、自分の価値を確かなものとして信じられるまでになったのか。私は無理です。私はまだ空白のまま生きています。それでは駄目だと理解しながら、深い穴から抜け出すための最初の一歩を踏み出せず、今も、まさしくこの瞬間も、足踏みするばかりのように思われてなりません。

『終末の過ごし方』は、私にとってのはじめてのDVD-PGとなりました。プレイしてみて、多少出来に荒さを感じないではなかったけれど、例えば、シーン・テイクを告げる声がそのまま残されていたり、台詞が取り違えられていたり。またシーンをまたいだ台詞の間がつまりすぎているなど、残念ながら最高の出来とはいえません。ですが、ナレーションの読み上げられるのを聞きながら話の流れを追う、それは割と悪くはありませんでした。それだけに、男性キャラの台詞が読み上げられないのが残念で、いやね、ナレーションのお姉さんが読んでくれてもよかったんですよ。男性キャラの台詞が完全に空白になってしまうため、読むことをやめることができない。それがただただ残念でした。

とりあえず久しぶりのプレイにおいて、辿ったのは大村いろはルートでした。というのは私はいろはさんこそがこのゲームの正ヒロインと思っているからなんですが、次の週末に世界が滅亡するという現実に、立ち向かうでもあらがうでもなく、変わらぬ日常を送ろうとする彼らの物語において、もっとも過酷な未来に向きあえたように思えたのがいろはさんルートなんですね。誰よりも厳しい状況をあたえられていたキャラクターで、それゆえに誰よりも現実から遊離していた彼女が、主人公知裕と繋がることで、過酷な運命を引き受けようと決意するにいたる。いや、それを口にしたのが彼女であったというだけだったのかも知れませんね。主人公をはじめ、誰もが喪失された自分を持て余していた、その色が一番強かったのがいろはさんだったということなのかも知れません。

このゲームプレイすると、いつも私は思うのです。八週間後に人類が滅亡すると知らされて、彼らは学校という日常を維持すると選んだわけでありますが、もし私だったらどうするだろう。今の私に、はたして最期まで大切に残したい日常っていうのがあるだろうかって思うんですね。多分、こうして八週間、自分の身を振り返って56タイトル抜き出して、文章書き続けるような気がします。って、それまでにネットワークは途絶するか。けど、私は誰が見なくなったとしても、文章書いているような気がします。ギターを弾いて、歌って、文章を書いて、届けられない手紙と公開されないBlog。それできっと最期の日には、『終末の過ごし方』を取り上げるに違いないのです。

余談

いろはさんと呼ぶのは、小池定路氏いわく、

どうでもいい話だが、彼女のことは「さん」付けで呼んで下さると有難い。

とのことなので。愛されたキャラクターなのだと思います。

引用

2008年3月21日金曜日

日本字ペン

 今日、ちょっと呼び出しを受けたものですから、申し訳ないけどお仕事お休みしましてね、京都にいってきました。まあ呼び出しったって強制ではなく、お世話になっている人が、21日京都で人と会うんだけどあなたもいかがって聞いてくださったものですから、じゃあ、折角ですからという感じに受けたのでした。と、ここで、京都に出るんだったら便箋封筒の類い買い込んでおこうと思いつきまして、なにしろ京都には鳩居堂嵩山堂はし本といった名店、いろいろありますからね。この春という季節にあった封筒便箋を揃えて、お世話になっているあの人に手紙を書こう。そんなこと思ったんですね。

便箋一揃えまかなうことになって、そうなるともっと凝りたくなってくる。悪い癖ですね。センスがよければ凝るのも一興でしょうが、決してそうでないという悲しさ。でも、いつもブルーブラックのインクじゃつまらないじゃないですか。たまには色インクも使ってみたい。しかしインクだけでは書けないわけです。ペンだな。しかし、うちには色インク入れられるような余分の万年筆なんてないぞ。つけペンだな。かくして目当てのペン先を探して京都をさまようこととなったのです。

目当てのペン先っていうのは日本字ペンっていうやつなんですが、知らない人も多いと思うんですが、漫画を書く人ならご存じかなあ。カブラペン(最近ではサジペンっていうの?)っていうのがありますけど、それを日本字書くのに特化させた、そんな感じのペン先なんですね。うちにあるのはGペンとスクールペンだけだからなあ。だから買ってこないと。しかしペン先なんて最後に買ったのいつだったか。二十年くらい前? アニメイト京都店がブックストア談の上にあった頃だよ。ええと、今アニメイト京都店って新京極にあるんだっけ? というわけで、京都に着くや否やアニメイト京都店に直行。私の予測では、ここでミッション完了するはずだったんですが、ところがないんですね。Gペンはある、カブラもある、丸ペンは当然ある。しかし、日本字ペンがない。あれー。アニメイトなら完璧だと思ったのに。

予測が外れて、早くも先行きは不透明になりました。なのでまずは便箋封筒を買いましょう。その途中で文具店、画材店もあるかもしれないしと思ったら、それが意外と見つからず、結局はし本の店員さんに教えてもらいました。けどそこは普通の文具店。つけペンなんて扱ってない。ここでも店員さんに問い合わせたのですが、そうしたら新京極下がって蛸薬師西入ったらLoftがありますから、そこならあるかも知れません。ありがとうございます、痛み入ります。Loftは文具売り場にGo。あ、ありましたありました。あ、日本字ペンもありますよ。やったあ。と思ったらさにあらず。なんと日本字ペンはセット売りだったんですね。もれなくGペン、カブラペン、丸ペン、スクールペンがついてくる。加えて軸までついてくる。って、勘弁してください。漫画書くのが目的ではないんで、日本字ペンだけでいいんですってば……。

ここでタイムアップ。待ち合わせの店、スターバックスへと向かったのですが、おや、まだいらっしゃらないようだ。ちょっと待って、けどさすがに遅いな、電話してみよう。今どちらにいらっしゃいます? 烏丸四条下がったスタバです、っておいおい、私いるの烏丸三条上がったスタバだよ……。

ひとしきり話をして別れたあと、京都大丸を経由して、文具店壺中堂に到着。ここで色インクを買ったんですが、ぱっとした鮮やかな色買うつもりが、生まれついての気の弱さがたたって、無難そうな色をば選んでしまい、無難すぎたと後悔しているのは内緒です。さてこの店でも聞いてみたところ、日本字ペンはおいていないとのこと。参ったな。もう疲れたので、ここでカブラペンを購入。けどこのまま上がれば、もう一店舗くらいあるんじゃないか。そう思って、河原町通を御池まで上がってみたら、ああ、ありましたよ。ちょっとおしゃれな雑貨店、angersというお店の文具コーナーに日本字ペンらしきのが置かれていて、でもそれが日本字ペンかどうかはわからなくてですね、いやね、ペン先の種別とかまったく書かれていなかったんですよ。けど、かたちを見るかぎり日本字ペンだよ。あの穴の四角なの見てもそうだよなとは思ったんですが、自信がない。店員さんに問い合わせても、この商品に関しては詳細わからないとの話で、どうしようかと思ったら、ここからちょっと下がったところに京美堂という画材店があると教えてくださって、ありがとう、ちょっといってきます。いってみたら、日本字ペンおいてなかった……。

こうしてangersに戻った私は、件のペン先入手と相成ったのでありました。あ、ちゃんと日本字ペンでした。日光のNo. 555と打たれています。

帰宅後、早速軸にペン先付けて書いてみたんですが、ああ久しぶりのつけペンですよ、こんなに硬かったっけ? 線が驚くほど細くてですね、あれー、こんなにインク出ないもんだったっけ? まごまごしながら書いたのですが、どうもこれインクの癖もあるのかなあ。買ったインクはエルバンのティーブラウン(まさしく茶色ですね)なんですが、これが意外に水っぽく、試しにと出してきたパイロットの黒。これとはインクの出方がずいぶん違うんですね。パイロットは十年ものかな? さすがに煮詰まってしまってるかもなあ。いろいろ思うところあるんですが、とりあえず書いて書いて、ペン先と手をなじませるかなといった感じです。ちょっと線が細くて、神経質に感じてしまいがちだから、もうちょっと柔らかい感じが出てくれるといい。それには落書きでもなんでもいいから書くしかないと、そんな感じなのですね。

2008年3月20日木曜日

眼鏡なカノジョ

 先日、『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』について書いていた時に、なんでか知らんけど急にツンデレ風言い回し使いたくなってしまったものだから、手近な雑誌に典拠を求めてみたのですよ。いったいどういったものがツンデレなのか、調べて書こうと思ったんですね。そうしたら出てきたのがししし仕方がないわねぇ! 寅屋が食べたいなら付き合ってあげるわよ!! 残念、シチュエーションにそぐいません。ししし仕方がないからWebに典拠を求めてみたところ、『眼鏡なカノジョ』という漫画はよいぞというお薦め得られましてね、そうか、じゃあちょっくら買ってみようか、って思った。え? ツンデレはどうしたかって? すみません、その時にはもうすっかり忘れてしまっておりました。

昔は眼鏡といえばいけてない、あかぬけないを象徴するかのようなアイテムであったのですけれど、時代の移り変わりがそのイメージを刷新させて、今や男も女も使う、おしゃれアイテムとなってしまいました。おかげで、街で、職場で、テレビで、漫画で、眼鏡着用した人に出会う機会も増えまして、私にしても実に嬉しい話なんですが、けど実はちょっと悔しいというか残念な気持ちもありまして。いや、私の裏道歩きの所以なんです。皆が、眼鏡なんて、と否定的にいっている時に、なにいってんだ、眼鏡いいじゃないか、眼鏡かわいいじゃないか、そういってきた時間が長かったですからね。幼稚園のころからだから、七十年代か! まだ世の中には萌えどころか眼鏡っ娘なんて言葉もなかったんじゃなかったかなあ。

『眼鏡なカノジョ』は眼鏡ヒロインを巡る恋愛模様を描いた短編集です。1999年くらいの私なら、きっと一も二もなく飛びついていたんでしょうね。ですが、最近では見送ることも覚えたものですから、もしさっきいってたおすすめに出会わなかったら、買わなかったかも知れません。だとしたら、きっとちょっと損をしていた、そう思えるくらいに力の入った、良作であったのですね。

なにがよかったか。ドラマだと思います。ヒロインを巡る恋愛模様、ただヒロインが眼鏡をかけているというだけではなく、小道具として眼鏡がよく活かされているんです。恋愛という劇を盛り上げ、引き立てるのに貢献する眼鏡たち。全八編という、決して少なくもない話数に、それぞれに違った個性のヒロインとシチュエーションを持ってきて、バラエティー豊かに眼鏡を巡る恋愛劇を展開するのですが、その物語の描かれ方がよかった。実に丁寧に練られていて、そのため感情の流れもすごく自然と感じられて素敵。眼鏡縛りというギミックも鼻につくことなく、むしろその良質さに引き込まれてしまったんですね。

話の傾向は、スタンダードといえばスタンダード。しっとりと繊細なタッチで、登場人物の心のうちをそっと描きだそうかとするのです。その感触は、派手さはないけれど、しっかりとした手応えを残すに充分なものだったから、読み終えて、充実の度合いがすごいですね。一気に読み終えられませんでした。二編ほど読んで、なんかほうっとため息つくような感じ。二日にわけて読んで、ページ閉じて、よかったなあって、物思う感じ。スローで、けれど鮮烈な印象もあって、若々しい息吹とでもいいたい、そんな漫画であったんですね。

今回は眼鏡縛りであったけれども、きっと眼鏡関係なしにこれだけ話を膨らませることもできたんだろうなと思いながら、けれど眼鏡でなければ成立しないような話もあって、眼鏡ものにして眼鏡ものにあらず、しかしあくまで眼鏡もの、ギミックにとらわれない広がりと深みを、ギミックに見事に共存させたまさしく力作でありました。実によい恋愛漫画、これは確かに買いであったと、一押しくださった方には感謝の気持ちでいっぱいです。

  • TOBI『眼鏡なカノジョ』(Flex Comix) 東京:ソフトバンククリエイティブ,2008年。

引用

  • 佐藤両々「そこぬけRPG」,『まんがタイム』第28巻第4号(2008年4月号),41頁。

2008年3月19日水曜日

少年少女は××する

 表紙で買いました。作者は陸乃家鴨、おかのあひると読むみたいですね。と、ここでいきなり作者の名前を確認しているのはなんでかというと、ちょっと気に入ってしまったといいますか、どうも既刊買い集めコースに入りそうだぞという予感がしているからでして、まあ相当気に入ったってことなんじゃないかと思います。ところで、陸乃家鴨っていうのは成年向けタイトルに使っている名義なんだそうでして、つまり別名義で他のジャンルでも描かれてるっていう話を、つい今さっき知りました。この名義だけでも結構出ているうえに、他名義も! そうなるとかなり骨が折れそうだぞ。なので、まずは陸乃家鴨名義を、全部とはいわず、買いやすそうなところから買っていってみたいと思っています。

しかし、なんで私は陸乃家鴨がよいと思ったのか。それはひとえにヒロインのキャラクターがよかったから、につきるんだろうなあと思うんです。また眼鏡か! というとそうではなくて、キャラクターにとって見た目はもちろん抜き難い要素であることは了解したうえで、加えてその行動、ふるまいが重要なんだろうなとそのように思うんですね。ヒロイン、加納瑞希は、特別目立つところもなく、友達の部活を教室で静かに待ってるタイプの、典型的な文系少女。ああ、如月系? といわれるとさにあらず。悪くいうと考えてるところがよくわからない娘です。ちょいエキセントリック、少々自己完結気味の嫌いもある、でもそこがかわいらしいと思える、そんなキャラクターであったんです。

でもさ、なに考えてるかわからない=電波というわけでもなくて、興味のある対象にまっすぐ向かっていくのはいいんだけれども、なにしろ相手あってのことですからね、普通なら遠慮したりしそうなところが、彼女にかかるとまあもう見事にストレートで、その無垢さがよいんです。エロ漫画的なちょっと都合のいい展開に持ち込むにもよいんでしょうが、なんか無茶いってるけど、悪意やなんかがあるわけでもなくって、ただ単純にそう思っただけなんだよねキャラ。けどそうしたストレートさの裏に、自己完結的思考があるから、主人公黒川麻人は振り回されて、その様も実に面白かった。このへんは読者特権というやつでしょう。瑞希の考えているところも黒川の悩みや戸惑いも全部見通したうえで、彼彼女らの右往左往する気持ちに添う楽しさです。エロ漫画だからそういうシーンは出てくるんだけど、そうでありながらボーイ・ミーツ・ガール的なラブコメにもなっていた、それがよかったんだろうなって思うんですね。ただ、ガールがちょっとエキセントリックなだけで。

エロの傾向があっていたというのも大きかったかと思います。割とノーマル。ただ、女性が振り回すかたちではじまることが多いんですが、ええと、誘い受け? よくわかんないんだけど、あんまり露骨でなく、嗜虐的でなく、ましてや強要ではなく、ラブラブ? まあ、これはなんというか、男性側にとって極めて都合のいい展開であるわけですよ。自分が主導権を持つことで事後の責任を追及されたくないんだね! へたれ受け? いや、攻めなのか。よくわからないけど、自身がそういう傾向にあると自覚する私には、大変によい漫画であったのでした。つーか、困っちゃったね — ♡には確かに困っちゃったと自白しないではおられません。かわいすぎです。

引用

2008年3月18日火曜日

ふぃぎゅあ — こととねシークレット

 タイトルだけは知っていたこの漫画、いつか読まねばなるまいなと思っていて、なぜか? 単純な話ですよ。タイトルが『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』。なんと、うちのサイトとちょっとかぶってる。正直なところ、これはレアだなあと思われて、いやね、言葉ふたつ繋ぎ合わせて作った名前です。ちょっと発音しにくいし、キーボード打つ時に、kototoneのつもりでkotototoneになったりするような、そんな有り様だから、あんまりかぶることはないんじゃないかと思っていたんですよ。けど、かぶってしまいました。かぶっているのはこの漫画だけでなく、自分の知っているかぎりいつつくらいかな? こととねという名前の人(?)、もの、団体はあるようで、ちょっとした縁といってもいいものでしょうか。なんだか嬉しく思っています。

さて、『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』という漫画、いったいこととねというのはなにかといいますと、ヒロインの名前であるのですね。佐倉琴十音(19歳)、専門学校のフィギュア科に通ってるんだ。へー、それでタイトルがふぃぎゅあなのか。なんていって感心している場合じゃありません。眼鏡ですよ眼鏡。ヒロインはショートカット、眼鏡、ちょっと気弱な娘。って、もしかして私、狙い撃ちされてる!?(被害妄想です) いやしかし、眼鏡ですよ(だから妄想です)。べべべ、別に眼鏡が好きだってわけじゃないんだからねっ!

ともあれ、名前がこととねで眼鏡着用のヒロイン。これはと思わせるシチュエーションが揃って、けれど残念なことに、私にはちょっとのり切れないところがあって、ほんと惜しいなあ、惜しいです。この漫画、端的にいいますとエロ漫画なんですが、ヒロインが割と好みの造形で、しかしこうも乗れなかったというのはなぜなんだろう。ちょっとね、躍動というと変ですが、そういうものが感じられなかったんです。いうならばオートマチック。事前に用意されたエロのパターンにキャラクターがはめ込まれた、そんな感じがして、のるにのれませんでした。あるいは、こととねの相方である絶人のキャラクターがしっくりこなかったのかと。強引な男なんだけど、なんかそればかりで、それ以上の魅力が伝わってこなかったかと思われて、やっぱりエロにおいては女性キャラだけでなくその相方の造形も大きいのだなあ、そう思ったんです。

けど、黒岩よしひろって『変幻戦忍アスカ』の人なんですけど、丁度中学生くらいのころに読んだのかな、ちょっぴりエッチとでもいったらいいんでしょうか、そういうのりがあって、好きだったんですよね。私は友人の持ってた単行本で一気に読んだのですが、これって打ち切りだったらしくてですね、けれど続きを描き下ろして単行本で完結させたという、一種入魂の漫画でした。ほのかな色気というか、ちょっとドキドキしながら読んだ少年時代。今読んだらどうなんだろう。ちょっと別の意味でドキドキしますね。

『アスカ』は変身ヒロインものであったのですが、もしかしたら作者は今でもそうした漫画、変身ものとはいわないけれど、ちょっとSFタッチとでもいいましょうか、そういうものを書きたいと思っていらっしゃるのかも知れませんね。というのも『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』も中盤からそうした色が出始めて、最初はそういったそぶりなかったと思うのに、意外というか、ああこうしたものがお好きなんだと思って、残念ながら本格というまでにはいたらなかったのですが、どうしてもエロにページを割かねばならない制約の中ですから、描ききれないんでしょうね。大急ぎという感じもして、それ以上に型にはまりすぎているとも感じられて、やっぱりのれなかった。このへんもちょっと残念なところでした。

でも、昔好きだった漫画を描いていた人が、今もこうして描いていらっしゃる、それは嬉しかったかなと思っています。ちょっとノスタルジーが過ぎると思うけれど、藤子不二雄くらいしか読んでなかった私が少年漫画に触れたその頃に出会った、いわば刷り込みみたいなものでしょうか。そのころ思い出しつつ、お元気でよかった、そんな感じであったのでした。

引用

2008年3月17日月曜日

ああっ御主人様!!

ずいぶん前にもいったことがありますが、私は渡辺純子の漫画が好きなのです。代表作はというと、『まゆかのダーリン』がありますね。それから『ことはの王子様』もありますね。どちらも少々恋愛絡めて、どたばたとしつつも、どこかしら温かみの感じられる作風。温かみに関しては、『ことは』のほうが優位かな? 『まゆか』は、当初は姪のまゆかちゃんに迫られてあたふたするりょうさんを見て楽しむ漫画だったのが、今や家族公認両者ラブラブという甘々状況をにまにまとみんなして見守る、そんな漫画になって、そのどれも好きだったなあ。いや、過去形じゃない。今もやっぱり好きなんですよ。なんというんだろう、こんな書き方したらどう思われるかわからないけれど、渡辺純子という人に関しては、心の奥にきちんとその領域が確保されている、そんな感じであるんですね。

私は以前『5-A(ごのえぃ)』について触れた時、渡辺純子の漫画をさして、あざとさを読者と共有する共犯感覚が魅力だと、そんな風なことをいっていました。タイトルによってあざとさのあからさまにされる度合いは違うけれど、どこかに、こんなのが好きなんでしょ? というような要素があるというか、はい、好きです……、って思ってしまうところがあるというか。けどもちろんそれだけでなくて、そうしたけれんの要素、目を引き、くすぐりを入れてくるネタの引いたあとに残る、落ち着いた色合い。漫画の登場人物でしかないというのに、彼彼女らの気持ちと気持ちが確かに触れあった瞬間があったと思う、そういう実感。それがきっと優しさを感じさせる源泉になっているんではないかと思っているんです。

『ああっ御主人様!!』は、渡辺純子さんが機械の体でいらっしゃった頃の漫画。きっちり成年コミックの表示があるのですが、エロ大規制吹き荒れていたころの作、つまり1996年基準ですね。今の成年コミックを基準に考えると、おとなしい部類に入るかと思われます。とはいえ、間違いなくエロ漫画なので、そういうのが嫌いという人は手を出さないにこしたことないでしょう。

さて、ここで『5-A』の記事で触れた好きな順、見直してみましょう。

  1. 『5-A』
  2. 『ことはの王子様』
  3. 『ああっ御主人様!!』
  4. 『まゆかのダーリン』
  5. 『無敵のファニー・ドール』

これ見るとずいぶん『まゆかのダーリン』の評価が低いように思えますけど、それは読み違いというやつでして、だってそもそもが『まゆかのダーリン』いいじゃん! 他のも買ってみよう、という流れだったことかんがみても、『まゆか』時点で結構なプラス評価であったことは間違いない。そして、後発のタイトルが上位に着けているというのは、新しいものに触れるたびにもっと好きになっていったということなんですね。さて、『ああっ御主人様!!』に戻りましょう。この人のエロはあんまり肌に合わない感じといっていたはずなのに、なぜか『まゆかのダーリン』より『ああっ御主人様!!』の方が上位につけているという不思議。なんでだ!? それはですね、やっぱりね、キャラクターの好きというものがあると思うんですよ。

『ああっ御主人様!!』で好きなキャラクター。褐色肌で貧相な胸(を喜んでいる主人公も主人公だ)の魔道士エリスも好きだったのですが、それ以上にはまったのが、主人公に女ができたことを信じられない友人神下が呼びつけた、姉にして超常現象オタクの、え、えーと、名前わからないな、ま、とにかくお姉さんです。

キャラクター造形が素晴らしかったのですよ。オタクであることはおいておくとしても、おかたいスーツに眼鏡、ロングヘア、ちょっときつめで、美人系つり目で、眉の高さで揃えられた髪も素敵、全体に真面目というか奥手という雰囲気漂わせて、華やかさや柔らかさよりも、凛々しさかたくなさ感じさせるそこが実に好みだったというか、ああそうさ、好みだったんです。綺麗だと思ったんです、かわいかったんです。堅物装ってる割に興味は人並みにあるところとか、気丈なそぶりみせているくせに実は結構あかんたれなところとか、本当最高じゃないですか。でもまあ、主人公にやられちゃうんですけどね、エロ漫画だから仕方ないんだけどさ……。

『ああっ御主人様!!』の面白いところは、エロ漫画であるんだけど、最初割と無理矢理だったりするんだけど、主人公とヒロインである妖精? 精霊? 魔人? のメイルがなんだかえらくラブラブで、いやバカップルなのか? とにかくちょっと馬鹿なのりで突き進んでしまうというコメディ展開も楽しくってさ、だからというわけでもないんですけど、好きだなあって思ったんですね。私は残念ながら単行本でしか読んだことがないのですが、これにはまだ続きがあったはずで、それを知ることができないっていうのはちょっと、というかかなり残念で、この後どんな風に話は進んだんだろう。お姉さんの再登場はあったの? いろいろ思うところあるんですが、残念ですね。ほんと、こういう時はたのみこむとか復刊ドットコムで呼びかけたりしたらいいのかなあ。でも、ビブロスは廃業しちゃってるから、復刊は難しいだろうなあ。新装で愛蔵で出たりしないかなあ。

などと夢想するほどに好きだったりします。

さて、なぜ今日という日に『ああっ御主人様!!』を思い出したのかと申しますと、ひょんなことでそのお姉さんと再会することができまして、それがあんまりに嬉しかったからなんです。ちょっと挑戦的ないでたちで、眼鏡にスーツも凛々しいんだけど、胸元のフリルに女性らしさ感じさせて、ああやっぱり素敵だ! とそんな風に嬉しかった、それはそれは嬉しかったんですよ。

  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊
  • 渡辺純子『ことはの王子様』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 渡辺純子『ことはの王子様』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2008年3月16日日曜日

雪割りの花

 やるドラについて書いていたのは2005年のことだったのに、なぜだかついつい忘れてしまい、今年にまで持ち越してしまいました。『雪割りの花』。PlayStationで展開された初期やるドラ四部作の最終タイトルとなったのが『雪割りの花』でありました。明らかにアニメを意識していた前三タイトルとは違い、より年長向けのドラマを、アニメではなくドラマを意識した作りは賛否両論を巻き起こしました。いや、本当です、本当。当時はまだインターネットの時代ではなく、パソコン通信のフォーラムでの話なんですが、『雪割りの花』は美少女ゲームではない論から、主人公があまりに画面に出すぎるのはどうかといった意見、さらには、あの絵が受け付けんというものまで。ほんと、いろいろありました。けど否定意見はたくさんあれど、やるドラで一番なにが好きって聞かれたら『雪割りの花』だと私は答えます。ええ、彼らの批判する欠点は、私にとってはなにも不都合感じさせるものではなかったのです。

初期やるドラは、記憶喪失のヒロインを巡る物語を春夏秋冬それぞれ違った手法で展開してみせた、ちょっとした意欲作だったんです。『ダブルキャスト』はサイコサスペンスを、『季節を抱きしめて』はギャルゲーっぽい恋愛ドラマを、『サンパギータ』はバイオレンスでしたっけ? 一般人がマフィアの抗争に巻き込まれるの、そういうの描いて、それぞれに面白かったんですね。そして『雪割りの花』ですよ。北の町にて繰り広げられる、愛と背徳のストーリー。恋人を失ったことを受け入れられず、記憶を失うことで自我を守った花織がヒロイン。主人公は花織の偽りの恋人を演じることで、彼女を救おうとするのですね。

しかし、この話、実に暗いのですよ。主人公は、花織を救いたいと純粋に思いながら、同時に恋人のふりをすることで以前から思いを寄せていた花織に寄り添おうとすることの偽善を自覚しているんですね。そして、選択次第ではその精神を見事に崩壊させていって — 、私の記憶が確かなら鬱ポイントという隠しフラグがあって、気のめいる選択を選ぶことによって、どんどん鬱よりになっていくんですね。そしてある一定の値を越えれば、咲く花も咲かず、でも、なにもかも嘘じゃない! 自らの生活を捨ててまで守ろうとした恋しい花織を目の前で失ってしまうという、おそろしくも悲しいエンディングに突入してしまうのです(当然バッドエンド)。

もう何度見たかわかんないですよ。達成率を100%に持っていくべく何度も何度もループループループ。総当たりでルートを選んでいくんだけど、バッドエンド、バッドエンドの繰り返しで、ええいプレイしてるこっちの気が滅入ってくるわい。けどその滅入り具合が心地よいというか、いや同調したらまずいんだけどさ、でも愛に殉ずるっていうテーマはヒロイズム中のヒロイズムでしょう。ゆえに酔いやすく、ゆえに危険で、しかしこのゲームの愛って一種偽りであるわけでしょう。真っ正面からの愛ではなく、相手を騙すことで成立している、非常にゆがんだ愛のかたちです。実に苦いヒロイズムであるわけです。酔おうにも酔えない、しかし苦さをもろともにあおればこれが実に甘味と感じられる瞬間もあって、面白いよ! その倒錯感、徐々に危うさを増していく主人公と今にも切れてしまいそうな花織との関係性、最高です。本当、これは実に私好みであったのでした。

さて、実は私、やるドラでは『雪割りの花』だけ全エンディングを見ていないのです。達成率を上げようと思ったらドツボにはまったといいますか、どうやってもグッドエンド2にしかたどり着けないという悪い循環に入ってしまいまして、だからちょっと苦い思いでいるんです。いつか余裕を見て、再チャレンジしたいなと思っています。達成率はどうでもいいから、すべてのエンディングを開いてやりたいなと思っています。なので、私にとって『雪割りの花』は、まだ終わったゲームにはなっていないのですね。

2008年3月15日土曜日

ただいま寄生中

 なんかここ数日、児童ポルノ規制法絡みの話題がにわかに盛り上がりつつあると感じられるのは、今月11日に日本ユニセフ協会他が「なくそう!子どもポルノキャンペーン」と銘打って、ある種強硬な呼びかけをしたことに関係してのことでしょう。それまでの児童ポルノ規制法改正においては、単純所持を罰することに対する疑問、そして実際の児童を被写体としたもの以外まで規制すべきかどうかの是非など、そうしたところが問題の焦点であったところが、急転直下とでも申しましょうか、より広範で強硬な規制を求めるキャンペーンが大々的におこなわれて、これまで静観していた層、あるいは自分には関係ないと思っていた層にまで問題意識が広がったというところであろうかと思います。

強硬な呼びかけというのは、日本ユニセフのいう準児童ポルノであるのですが、実際に存在する児童をではなく、実写であれば児童(=18歳未満のもの)とみなしうる役柄を、アニメ、漫画、ゲームであれば、児童(=18歳未満のもの)とみなしうるキャラクターをも規制対象としようではないかという、そういう呼びかけが子どもポルノという非常にキャッチーな言葉とともになされているのでありますね。

もしこのような法が成立した暁には、いったいどれくらい広範に摘発、処罰の網を広げることができるんだろう。幸いというべきか、私はいわゆる実写ものは持っていないので、そちらで摘発される心配はないんですが、漫画やゲームが対象になれば、摘発、処罰の対象になりうるところが危険です。現在合法に出回っているもののなかには、間違いなく未成年であるキャラクターの性描写を扱ったものが多数あるわけですが、それらが準児童ポルノとみなされ、そしてそのみなされたものが私の所持しているものの中にあれば、当然摘発の対象になりますわね。さらにいえば、私が仮にそうしたものを所持していなかったとしても、所持しているのではないかという疑いで捜索令状を請求、出されてしまったとしたら、家宅捜索されるのも夢じゃない。もちろんそれで疑わしいものが出れば起訴、あるいは準児童ポルノには該当しないものの、他の犯罪にかかる物件が出てきたら、そちらで起訴。おお、別件捜索、別件逮捕続出じゃないか? 狙っている罪状ではあげられそうにないから、こっちでちょいとやってみようぜ。

あさりよしとおの『ただいま寄生中』をピックアップしたのは、この漫画が1991年からはじまるエロ大規制の最中に描かれたものだからです。1991年のエロ大規制というのはいったいなんなのかといいますと、私の記憶が確かであれば、『セーラームーン』のアンソロジーが引き金を引いたキャンペーンであります。当時、同人誌やコミケの存在は本当に一般には知られておらず、本当に細々とその趣味の人たちのあいだだけでのみやり取りされていた、そういうものだったんですが、『セーラームーン』人気をうけ、同人誌をまとめ商業出版する動きがあったんですね。そしてそれがエロであったことが不幸で、さらに人気が出てシリーズ化されたこともまた不幸で、未成年、それこそ『セーラームーン』の本来の受け手であった少女たちの手に渡ってしまった、そしてこれがもっとも不幸なことであったんですね。

今まで一般の目に触れることのなかったエロパロが、そうした少女たちを通して一番知られてはならない人たちに知られちゃったのでした(笑いたいが、笑いごとじゃないですね)。記憶に基づくもので申し訳ないですが、当時の新聞投書欄には「娘の買ってきた漫画を見て愕然とした。少女漫画風の表紙なのに、露骨な性行為が描写されている。いったいこういうものを売るとはなにごとだ」というようなお怒りの意見が寄せられて、けしからん、こういったものは規制されるべきだという声が日増しに大きくなっていった。とまあ、こういった経緯で漫画におけるエロ表現に規制がなされることとなったのでした。

『ただいま寄生中』は、こういった状況下で、こういった状況に対抗する意図をもって連載された漫画であると、作者自らが後書きにのべているのですが、悲しいかな有効なカウンターにはなりえないまま、特定のマニア、あさりよしとおのファンですね、のあいだでのみ知られる漫画となってしまいました。中を見てみれば、規制派に対する反感がかなり露骨な言葉でつづられて、正直なところのべますと拙速。作者の心意気は買いますし、世にも珍しい改造寄生虫の力を借りて変身する戦闘ヒロインものであるところとか、あるいはヒロインのキャラ造形など、気になるところ、好きなところはたくさんあるわけで、だけど一般に受けなかったというのもわかるから、気持ちとしては微妙ですね。でも、漫画の表現規制について語られることがあれば、私が最初に思い浮かべるものというのはこれなんです。

1991年の規制は、表現の緩和修正及び成年コミックマークの表示、すなわちゾーニングをするというところに落ち着いて、けどこれはあくまでもそうした勧告と自主規制にとどまったわけです。ですが今回はレベルが違います。なんてったって罪に問えるというわけで、しかもその基準がよくわからないうえに広範。ロリータマニアが集まる掲示板では、普通の子供の画像が貼られただけで、子供ポルノの公然陳列と見なすことも考えているという意見のある状況では、ロリコンとみなされた人の所持品に明らかにポルノではなくとも疑わしいものがあれば、準子供ポルノの所持に準ずるとみなされうるのでしょうか。だとすると私の友人や愛好している漫画の作者の中には、非常に危ない領域に踏み込んでいる人が何人もいるから、しかも男女問わずいるから、逃げてー! というほかないんですが……。だって男だろうと女だろうと、その本人がペドファイルでなくとも、みなされれば終わりなんでしょう? みなされた人がそれらしいものを所持していたら終わり。所持品がそうしたものとみなされても終わり。電磁的記録でも一緒でしょ? じゃあ、サイトにそれ気な絵を公開している人たちは大変だ。

お前、他人事みたいにいってんじゃないよっていわれそうですね。私は、考えるまでもなくアウトですよ。このBlog見てもわかるように、将来準児童ポルノとみなされることになりそうなタイトルいくつも所持していますから、いちころだろうねえ。お前考えすぎだよという人もあるでしょうが、法が整備されるということは、罪に問えるようになるということは、そういうことなんですよ。私みたく、現実に未成年者と関係を持とうなどと考えない人間でも、それどころか援助交際や性風俗産業は社会全体でおこなう性的搾取でしかないと言い出すような、規制側に近いメンタリティを持っている人間であっても、準未成年者ポルノを所持しているということは、そういう性的嗜好を持って、現実に行使しようとしているのだとみなされるんですよ。そうした芽は早急に摘まねばならないと考えている人がいるのですよ。現実に、世界を完全に浄化したいという欲望は存在して、そしてもし彼らの欲望に歯止めがかからなくなれば、明日の我が身は火刑にかけられるのを待つばかりとなってもおかしくないんです。こういう健全社会を描いたものは、それこそ昔のSFにたくさんたくさんあったわけだけど、まさか自分の生きているあいだに現実のものとなるかも知れないだなんて思いもしませんでした。ああ、世界はどれほどにワンダーであるのだろう。

皆さん、完全クリーンな社会が到来した時には、私はシャバから消えます。あらかじめいっておきます。さようなら。

  • あさりよしとお『ただいま寄生中』(ジェッツコミックス) 東京:白泉社,1999年。

引用

参考

2008年3月14日金曜日

家族ゲーム

 今日は世間ではホワイトデーというものらしいので、恋愛に関する漫画を取り上げてみたいと思います。で、『家族ゲーム』。どっからどう見てもゲーム大好き家族の漫画だったはずが、ふと気がつくとすっかり恋愛漫画になってしまっていたという変わり種です。お父さんもお母さんも二人の娘も皆ゲームが好きで、そのそれぞれにゲーム好きの友人があって、また友人の周囲にも人間関係が広がって、しかしただ漫然と広がるのではなく思い掛けないとこれで繋がっていたりする。そうした人間関係の結構入り組んで絡み合っているところが面白く、またそのあちこちに恋愛の展開、芽生えが用意されているという、不思議に豪華な漫画となっていて、当初の面白さとはずいぶん変わってしまったけれど、これはこれで面白いなあ、そんなことを思っています。

思い掛けない繋がり。同じ人間を軸に展開される恋愛、いわゆる三角関係の、本来なら取り合い、対立する位置にある二人が、それと知らないうちに知り合い、友人になっているどころか、その恋愛について相談し、はげましたり後押ししたりしているというおかしさ。そしてこの舞台というのがMMORPGのログイン先であるのですね。お互い相手の素性も知らないままに、出会い、そして仲よくなったわけだけれど、たまたま出会った遠くの誰かと思っているのが、実はすごく近い位置にいるという仕掛け、私はこういうのにとことん弱いんですね。見えないところで繋がっているという感覚。その隠された部分が、実は、と明かされる時のことを思うと、わくわくして仕方がない。仮想世界における演じられた人格と、現実の世界における人格がまさしく出会い、伏せられていたバックグラウンドは一気に立ち上がって、これまで気付かないでいた繋がりとその意味が理解されるのです。

これって、私の好きだという、秘密のヒーローものに似た構造なのかも知れません。みんな知ってる、けどその正体は知らない。そして知らないうちに、知り合い、つきあいを深めている。さあ、これがばれたらどうなる! どうなるんでしょうね。『家族ゲーム』のあの人とあの人の場合、明かされる時にはありうる問題はすべて綺麗に払拭されたあとのような気がします。だから、心から祝福できる、そんな気持ちをもって新たな関係にステップアップできる、そんな予感がするから、なおさらわくわくとした気持ちになるんだと思うんですね。

といった具合に、いくつもある恋愛の芽生えが、だんだんと育っていって、あちこちで花を咲かせ、実を結びそうになっているのです。お互いに意識しあいながら、それをはっきりかたちにできないカップルがあれば、思いもあらば先に踏み出せばいいところを、怖れに打ち勝てないという人もあって、その逃避っぷりもすがすがしい。いうならばギャルゲ脳の恐怖。けど、恋愛っていうのは難しいねえ。踏み出したいが、踏み出すことによって今の関係が壊れてしまうかも知れない。そんな時に人は、自分の感情を曖昧に誤魔化してみたり、そしてより傷つかないほうに逃避してみたり。でも、その逃避もあれっくらい堂に入れば、それはそれでいいような気もする。とはいえ、痛々しくて物悲しい彼にも、ちゃんとルートを用意している作者は、なんだか優しい人だなあ。そんな風に思ったりして。いや、この人は切なくとも仕合せな関係が好きなのかも知れないなあと、そんな風に感じることが多いです。そして私、そういう雰囲気、嫌いじゃないです。つうか、好き。

恋愛ものを読む楽しみは、恋愛を追体験するという気持ちの楽しみに加え、一部状況が伏せられたなかで思いに悩み迷う彼らを、鳥瞰するような視点で眺めることができるという、そういう優越性、あるいは見守る楽しみもあるように思われて、『家族ゲーム』にはもちろん気持ちの楽しみも豊かにあふれているのだけれども、より一層に見守ることの面白さが感じられます。そしてその思いの変化し整理されるまでのプロセスもお見通しという特権を得るからこそ、気持ちの喜びも深まるのかもなあ。人と人のつながり、気持ちの変遷が丁寧に描かれる、それがふたつの楽しみをより確かにするものだから、この漫画を読んでいるあいだ、私は恋に思い、悩み迷う彼ら彼女らを見守り寄り添う、そんな気分になるのでしょう。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月13日木曜日

Linus and Lucy

 アメリカのスペースシャトル、エンデバーが打ちあげられて、今日で二日目。日本人飛行士土井隆雄氏が搭乗されていることから、日本のメディアでも盛んに取り上げられて、新聞、テレビ、なんだかわくわくしますね(NHKのフランス語ニュースでもとりあげられてます!)。さて、今日のスペースシャトル関連ニュースは音楽についてでありました。スペースシャトルでは目覚ましに音楽をかけてくれるのだそうですね。その音楽は、搭乗員やその家族のリクエストで決められるというのだそうですが、二日目の今日は土井さんの奥さんひとみさんの選曲、『ゴジラVSスペースゴジラ』であったのだそうでして、確かに聞けば覚えのある伊福部メロディーです。しかしヒューストンとのやり取り含めて、楽しそうだなあ。飛行士になりたいなとは思わないし、それになれるとも思わないけど、ああいう楽しいやり取りには憧れてしまうなあ、なんて思えるよいニュースでありました。

エンデバー、二日目の目覚めの音楽が『ゴジラ』だったという話でありますが、じゃあ初日はなんだったのかといいますと、Linus and Lucyでした。ライナス&ルーシー。誰かなんて聞かないでくださいましよ。我らがチャーリー・ブラウンの良き友達であるライナス・ヴァン・ペルトと、シビアさが持ち味、ライナスの姉ルーシー・ヴァン・ペルトですよ。チャーリー・ブラウンというのは、いわずと知れた、世界で最も有名なビーグル犬スヌーピーの飼い主です。そう、アニメ『ピーナッツ』のサウンドトラックからLinus and Lucyがリクエストされたのですね。

なんで知ってるのかというと、ニュースで見たからです。昨日の朝のNHKニュース。いや、おとついか? とにかくテレビで観て、あのわれ鐘のようなスピーカーから響き渡る、特徴的なピアノのフレーズ。あー、ライナス&ルーシーじゃんか! 粋な起こし方するなあ、と思って、『ピーナッツ』はかくもアメリカにおいて愛されているのか、再認識する思いであったのでした。

ところで、『ライナス&ルーシー』にはバージョン違いがいっぱいありまして、作曲はヴィンス・ガラルディ。彼のトリオの演奏した、まさしくジャズですね、その曲が、ガラルディ自身により、また他の多くのミュージシャンによりカバーされることで、本当に多様で豊かなバリエーションを持つにいたりました。もともとはピアノ、ベース、ドラムによる演奏なんですけど、ポップなのもあり、もちろんオーソドックスなジャズもあり。ジャズの、既存の曲をテーマにとって、奏者それぞれの個性をもって変奏していくという面白さが、ここにも現れているなあと思えること請け合いです。

エンデバーで流されたものは、割合スローで、ああこれはA Boy Named Charlie Brownに収録されているやつかなと思いました。もちろんごくごく一部しか聞いていないので、違っているかも知れません。でも、多分これだと思うんだけどなあ。『チャーリー・ブラウンという男の子』。これ、ラストがものすごく感動的でね、チャーリーが、ライナスが、そしてもちろんルーシー、他のおなじみの面々も、すごくチャーミングで、生き生きとして、見ると頑張ろうって思えるんですね。特に、失意のチャーリーにライナスがかける言葉の温かさ。思い出すだけで、じんときます。泣けてきます。ああ、人はこうも優しくなれるものなのかってね、思うんです。

そんなこんなで、私はチャーリーをはじめとする『ピーナッツ』の面々が好きでして、ライナスとルーシーの姉弟ももちろんそうです。本当、最高の漫画、アニメ、チャーミングな音楽でありますよ。

2008年3月12日水曜日

マルビプリンセス園華サマ

 シンプルなパターンの繰り返し、そこに面白さがあるというのなら、『マルビプリンセス園華サマ』については一体どう思っているんだい。そういう疑問をお持ちの方もいらっしゃるかも知れないので、ここではっきりと答えておきたいと思います。好きですよ。単行本だって買ってます。特に初期のころの、もうほんと単純に、見た目雰囲気からセレブ扱いされてる園華様ですが、実は貧乏で……、みたいなネタの連発が好きだったんですね。まったくワンパターンといえばワンパターンだけど、くるぞくるぞと待ちかまえているところに、予想通りくるという面白さはありますから。いわゆる定番ギャグ、定番ジョークなどはえてして皆そうしたものですし、民話なんかにもそうした構造は見え隠れしています。

どうも人間には繰り返しに面白さを感じてしまうという回路が備わっているみたいなんです。ほら、子供とか気に入ったこと何度でもするし、何度でもいいますでしょう。そうした傾向は当然大人になっても消えずに残りまして、ということは、とりわけそうした性質を色濃く残した人間が四コマにはまりやすいってことでもあるのかな。いやね、四コマ漫画っていうのは、そうした繰り返しの定番落ちに高い親和性を持っているジャンルだと思いまして、実際、現在連載されている漫画を見回しても、定番落ちを持っているものは少なくないわけです。でも中でもその定番落ちというものに注力しているものがあって、例えばといわれれば、『マルビプリンセス園華サマ』なんかはその最たるものであろうかと思うのです。

なんといっても、タイトルがすべてを物語っているわけです。『マルビプリンセス園華サマ』。ちょっと懐かしい響きだけど、マルビ(表記は丸内にカタカナでビ)すなわち貧乏に対照的なプリンセスという言葉を持ってきてタイトルにしている。漫画で語られる構造が、すべて語られているといっても過言ではないわけです。実際、初期は設定に忠実に、このギャップネタを中心に展開されていました。単純なんだけれど、というか、単純であったがためにというべきか、面白かった。セレブっていうのが流行真っ直中って感じのころでしたから、なおさらだったかも知れません。

繰り返しネタははまれば確かに面白いんですが、いつか飽きられてしまうという危険もあります。それに、人間は同じことの繰り返しを求めつつも、同じことの繰り返しには耐えられない。停滞した状況を見ると、進行させたくなる。さらには解決して安定させたいと思う。そして『園華サマ』と『花の湯』に感じられる違い、それは安定と進行のバランスというところにも現れているんではないかなと思います。どちらも話を重ねるにしたがって、マンネリの打破を打ち出そうとしたものか、安定から進行にかじを切ったように見えるのですが、その進行の度合いは『園華サマ』の方がずっと強いと感じられて、例えば正太様、そして美学生。両者ともに意識しあっている。明示的な三角関係が生じていて、ただ園華様だけがそれほどでもない……。

今はまだ前進的ではないけれど、恋愛がからんでしまったから、いつか進行を余儀なくされるんだろうな。そうした感触は、同じく恋愛の予感を感じさせている『花の湯』よりも『園華様』の方が強く感じられるのですね。恋愛的状況が成立して、そしてその踏み込み方が大きかった。そんな風に感じるものだから、これはきっと動く、いずれ決着しないことにはおさまらない、そういう気分であるのかと思います。

とはいえ、まだもうしばらく、今の状況が続くのだと思います。見た目と実際のギャップを主ネタに、貧乏同志の美学生とお気楽正太様のネタを絡めながら、今しばらくはこの状況を楽しめそうだと思っています。そして動いた暁には、エレガのお姉さんにもしあわせがくるといいなあって、ちょっとそんなこと思っています。

それはそうと、なぜか正太様お付の秘書さんが、微妙にキャラクター変わりつつあるというか。実は私は、もし恋愛状況が発展するなら秘書さん本命ではないかと思っていたものですから、思いっきりの空振りでした。

引用

2008年3月11日火曜日

花の湯へようこそ

   順調に巻を重ねていく『花の湯へようこそ』、ついに第3巻の刊行ですよ。嬉しいなあ。確実に単行本の売れる作家として認識されているということでしょうか。それこそ3巻なんて、発売が2008年3月7日であるのに対して、収録話はというと『まんがタイムスペシャル』2008年2月号収録分までという超接近ぶり。これはもう、ページの溜まるのを待ってましたとしかいいようのない、そんな状況であるとしか思えません。

私は、渡辺志保梨の描く漫画の面白さは、シンプルなパターンの繰り返しにあるのではないかと思っているのですが、例えば『ごちゃまぜMy Sister』なら36番や純の健啖あたりがそれにあたるだろうし、『大人ですよ?』だと小夜子の見た目中学生ネタやぶてぃっく雅の店長の占いなどがそうでしょう。もちろん『花の湯』も同様に、よっちゃんの家庭風呂への憧れや園生君の銭湯に寄せる偏愛、娘がいつか一緒に風呂に入ってくれなくなることを怖れるお父さん、胸の小さいことを娘に無邪気に指摘されるお母さんなど、基本となるシンプルなネタが多種用意され、そしてそれらはパターンとして繰り返されます。

この繰り返しをどう評価するかで、渡辺志保梨の表現の受け止めようも違ってくるかと思うのです。人によっては、毎回同じネタばっかりと思うかも知れないし、ひいては飽きた、退屈という、そういう感情を生みだすことにも繋がりかねません。ですが、よくよく見れば、その繰り返しは繰り返しでありながら、同じではないのですね。前提を違え、シチュエーションを変えて、ともないその味わいも変化する。それはあたかも音楽においてテーマが変奏、展開されるのにも似て、あるいは同じような日々の繰り返しの中に過ぎる私たちの人生にも似ていると、そんな風にも思われるのです。見出されなければ退屈な日々の些事として流されてしまうようなものも、ワンダーとともに掬い上げられれば、魅力的なものとなる可能性を秘めている。同じに思える毎日ですが、同じであったことなど一度たりともないのですね。とはいえ、片思いちゃんや………?さんのパターンみたく、バリエーションをもちそのつど展開を違えながらも、望み薄の結末に落ち着いてしまうというところなど見てますと、人生のシビアさを思い知らされるようではありませんか。

いや、ちょっと大げさにいいすぎました。『花の湯』はなんといってもシンプルな楽しみ、おかしみのあふれる漫画ですから、これを見て人生やらを思うのは、どう考えてもやりすぎです。

第3巻に入って、新たな登場人物が出現して、繰り返されるパターンも増えました。しかし今度のパターンはちょっと異色といいますか、もしかしたら動かない状況を動かす動因になるかも知れない、そんな可能性を秘めているように感じます。よっちゃんに片思いする男。彼の介入が三角関係的状況を生み出すことによって、これまで成立しなかった劇的展開に突入するのか否か? いや、多分そういうことはないのだろうな。そう思いながら、けどまれに、園生君とよっちゃんのあいだに、恋愛とまでとはいわないけれど、なんだかそうしたものに似た感情の萌芽が見られるようなところもあって、ほほ笑ましく、なんだか嬉しく、けどきっとこれが大きく盛り上がるようなことはないんだろうなあ、安心しているといいますか、ええ、今のこの穏やかで楽しい関係が持続して欲しいなあと思っているみたいなんですね。

今のこの仕合せを少しでも長く — 、そんなことを思ったことのある人には、渡辺志保梨の漫画は向きかも知れません。代わり映えのしない毎日かも知れないけれど、だからこそきっと愛おしく思えるものなんですよ。家族、友達があって、おなじみさんがいて、そしてつつがなく過ごせるということの意味。とりわけ『花の湯』からは、そんなことを思っちゃうんですよね。いや、もちろん過剰な反応であることは当の自分が一番よくわかってます。けど、それでも、そう思ってしまうというのは、もしかしたら私自身が今の暮しという仕合せを、変えることなく、壊すことなく、一日でも長く維持したいと、そんな風に感じているからかも知れません。

あ、最後にちょっと驚いた話。

巻頭の人物紹介なんですが、この漫画で固有名を持っているのって、もしかして三人だけ? いや、ほんと、徹底してます。けど、名前やなにかがさだかでなくとも成立している関係っていうのも、なんだかちょっと素敵であると思います。

  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月10日月曜日

こぐまちゃんいたいいたい

 Amazonからおすすめされて、あ、これはよさそうだ、買わないとと思った絵本があったのです。それは『こぐまちゃんいたいいたい』。今日、『コミックエール!』を買いにいったついでに、一緒に買ってきたのでした。そこは結構絵本を置いている書店でして、『いたいいたい』をおすすめされるきっかけとなった『しろくまちゃんのほっとけーき』を買ったのも、実にこの書店でありました。棚にたくさん絵本の用意されているそのたたずまいが、なんか温かみがあっていいのですね。日中などは子供連れの親御さんも見えて、愛されているんだろうなあ、そんな書店なんですね。

さて、『こぐまちゃんいたいいたい』。なぜこの本がよさそうと思ったかといいますと、ほら、姪です。もうじき一歳半になりますかね、うちのなか危なっかしく歩き回っているちびすけを見て、なんかおそろしいなあ、そんな風に思うんです。もちろん気をつけてはいるんですよ。でも、それでも子供はなにかしら危ないことをするようにできてますから、怪我したりすることもありましょう。だから、先手を打って、危ないことをしないようにしましょうと、こういうことをするといたいいたいですよと、教えられたらよさそうね。そんな風に思っていた矢先に『こぐまちゃんいたいいたい』が紹介されたから、よしきた、まかせとけ、受けてしまったというわけなのです。

しかし、このこぐまちゃんのシリーズはすごいです。決して愛想笑いするようなことのないこぐまちゃん。目は点だし、口はヘの字です。なのになんでこんなに可愛いんだろう。単純な線、豊かな色彩が、こんなにも生き生きしているというのですから、本当、名作だなあと思わないではおられません。内容は至極単純です。こぐまちゃんが機嫌よく遊んでいる、そうしたなかで遭遇するちょっとした事故。あ いたい。おやつをたべてて、いたたた た。そのいちいちが可愛くて、泣いちゃったりして可愛そうで、もちろんそんなにひどい目に遭うわけじゃないです。でもそれでも、ああ、ああ、いたいのいたいのとんでけって具合にですね、駆け寄って助けてあげたくなるような、そんな感じがあって、いやほんとすごい近しさです。これは子供引きつけるでしょう。それとともに、大人でさえも引きつけられて、それはそれだけの魅力があるということなんでしょう。

しかし、階段から落ちるシーン。あっ すべった。って、そんな悠長なこといってていいの! って焦るくらいにショッキングな絵を見せられて、でもひっくり返って泣いてるこぐまちゃん見たら、ああ、ああ、大事がなくてよかった、よしよし、可愛くってほほ笑ましい、思わず笑みがこぼれるってこういうことなんですね。

姪よ、おじさんはおまえに前もって謝っておかないといけません。おじさんはおまえを、こぐまちゃんえほん買うだしにしています。それともうひとつ。おじさんにはこぐまちゃんが可愛くて仕方ありません。なので、もしこの先、本屋にいくことがあって、こぐまちゃんえほん見かけることがあったら、お母さんにいってそれを買ってもらいなさい。そして、おじさんに見せてください。できれば貸してください。

絵本には絵本のマニアがいるわけですが、その理由はいやというほどわかりますね。子供の本の世界は、困ってしまうほどに豊かです。ロングセラーにはそれだけの理由があると、一読するまでもなくわかってしまうほどに豊かな世界が一冊に込められていて、そしてこぐまちゃんえほんは間違いなくそうした絵本であるのですね。素晴らしいです。

2008年3月9日日曜日

恋愛ラボ

 みそララ』が出たその日から、この時の来ることを半ば確信して待っていたのでありました。『恋愛ラボ』の単行本が発売です。名門女学の生徒会室にて日々研究される恋の手練手管。はじめは生徒会長真木夏緒ひとりで開始されたこの活動は、倉橋莉子(後に会長補佐に任命)、そして棚橋鈴音(書記)を加え、より一層の深まりを見せることとなったのでした。とはいっても、彼女らは中学生。そんなにすごいことができるわけでもなく — 、いや、そうでもないな。ある意味、彼女らはすごいと思う。いやね、恋愛研究っていうやつは、頭の中でこっそりやっているならともかく、具体的に行動にしてみせるとこんなにもものすごいことになるのかって、そんなこと思ったものですから。というわけで『恋愛ラボ』、人によっては少年少女の日々思い出して悶えることにもなりかねない。ちょっぴり危険な漫画であります。

なぜ悶えるのか? それはマキ、リコのやっている研究というのが、見ていて小っ恥ずかしくなるようなのばかりだからなんです。ほら、少女漫画とかであるでしょう、恋愛の芽生え定番展開っていうやつが。登校途中、曲がり角でぶつかる。髪がボタンに絡まる、などなど。これらは定番といわれるだけあって、バリエーションをもって幾度も繰り返されてきたわけでありますが、その繰り返す出会いの風景に、自分の場合想像妄想したことのあるという人もおそらくあるかと思われます。あるいは、恋愛漫画に定番の告白シーンでもいい。漫画のヒーロー、ヒロインに自分、そして気になるあいつを重ね合わせて妄想したことのある、そのような人も少なくないかと思われます。

『恋愛ラボ』というのは、マキがそれを逐一試してみるという、そんな漫画なんであります。しかもかなり台無しな方向で。いや、試みが台無しな結果に終わるのは、すべて作者の思惑がためといわざるを得ないのでしょうが、けど、実際問題として漫画に出てくるようなシーン、現実にやろうとしたらああなるわなあ。ある意味、夢も希望もない漫画。けどそれでも夢を見ようとしているマキと、仕方がないと思いつつ彼女につきあうリコのペアが本当にいい感じで、密室でおこなわれるおばかな特訓、すごく楽しそうで、それにかわいらしい。途中からスズが参加しますが、おばかな傾向が助長されることはあっても、その逆はありませんでした。時にこのしあわせな流れが阻害されてしまうんじゃないかと心配しても、きっとうまくおばかなのりに復帰してくれる。そういう点でも安心して読める、肩の凝らないコメディであると思います。

けど、一言いわせていただきたい。あの眼鏡、ああ、スズじゃないほう、サヨね、いつか目にもの見せてくれようぞ。いやね、宮原るりの漫画にはどうもそういう傾向があるように思うんですが、あまりに強すぎるキャラクターが出てくるといいますか、例えば『となりのネネコさん』におけるネネコさんというか、他のキャラクターをことごとくへこましてまわる役割にありながら、あまりにも弱点なさすぎるという、そういうところ。ああ、サヨはそうなんだなあと思って、現在連載追っている時点でも実にそんな感じで、いつかリコが、あるいはマキがやつを力いっぱいへこませてはくれんものかのう、そう思うくらいに強キャラなのであります。

まあ、でも、みんな悪い子ではないのね。サヨにしても、人おちょくって楽しむ傾向が強く現れてるだけで、人が悪いわけではない。それはどの娘にしても同じ。一生懸命なんだろうねえ、自己表現がちょっとずつ下手なだけで。そうしたところがわかったら、きっと好きになれるんではないかと思って、ええ、サヨも決して嫌いじゃありません。あんなに萌えない眼鏡は久しぶりだけど。それこそ、以前がいつの誰だったか思い出せないくらいに久しぶりだけど。ともあれ、登場人物、おのおののよい性質がまっすぐに発揮されるシーンなんかは、ちょっと感動的だったりするくらいで、そしてそうした時にはサヨも、違う意味で憎いあんちくしょうだったりするのですね。

そんなわけで、『恋愛ラボ』第1巻にて序章は終了。連載ではまさしく本編が動き出したところ、先が実に楽しみといえる漫画です。

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月8日土曜日

気分は上々

 『気分は上々』が単行本にまとまると知って、おや意外だと思った、もうそれこそ申し訳が立たないくらいに失礼な感想ですが、だってまさかと思ったんだもの。建築の現場事務所にて働く女性事務員ジョーがヒロイン。職業ものといったらいいでしょうか。業種も部署も明確でない汎用OLものも多い中、はっきり建築と打ち出したこの漫画。大工、鉄筋工、親方といった男所帯に花を添えつつ、しっかり切り盛りするジョーさんの手腕にほれぼれしつつ読んでおります。しかし、なんで私は単行本化されないだなんて思ったんだろう。好きで読んできた、それは間違いなし。だとすれば、思い込みってやつなのでしょうね。

しかし嬉しい流れであると思いました。ほら、四コマって単行本にならないものも多いですし。派手でないけれども、いい仕事をしているものっていうのはいくつもあるのにさ、本にならない。それこそ絶望的にといっていいくらいにならない。これが単行本になったら買うのになあって思ってるのに、ならないから買えない。連載終了後、同人誌でまとめようと思ったら、ページ数が半端でなかったため断念なんてのもありましたっけ。と、四コマというジャンルは長くこのような状況であったのですが、最近はちょっと変わってきたみたいですね。単行本化されるものが増えてきた。ああ、この好調が続いてくれればいいなあと心の底から思います。と、愚痴というかなんというかはここまでだ。『気分は上々』について書かねばなりません。

先ほどもいいました、『気分は上々』は建築現場事務所にて働くお姉さんが主人公。さばさばとして気っ風のいいジョーが、大工、鉄筋工といった働くお兄さんたち取りまとめ、さらには寺西監督や藤木設計士といった一癖も二癖もあるお兄さんもなんなく捌いて、その様がかっこいいねえ。それに楽しそうだ、っていうのは、現場で働いている皆がそろいも揃って元気で、明るくて、実にのびのびとやっているわけですよ。大工っていう仕事のイメージもあるのかも知れませんね。ビル建ててる、大所帯、さっぱりとして気持ちのいい男たちが、仕事にも頑張り、そして遊びにも。みんなでバーベキューやったり鍋やったりする、その様が実に面白そう。仕事がこんなにも楽しいものなら、きっと毎日は素晴らしいものになるに違いあるまい。そんな雰囲気が素敵な漫画です。

そして現場漫画以外の要素、恋愛ものといいますか、ジョーに言い寄る藤木設計士を筆頭に、ちょこちょこと恋愛絡みが出てくるのだけど、いや筆頭じゃねえか、ほとんど藤木設計士絡みですね。でもこれが悲しいほどに相手にされていないというおかしさ。文字通り一蹴されることさえあって、それくらいに報われないのだけど、その報われなさがいい味出していますよ。めげない、しょげない、あきらめない。きざでかっこつけで、ほんとにこんなのいたらきっと鼻持ちならない嫌なやつだろうなあって思うのだけど、それが嫌なやつにならず、それどころか憎めない男に感じられてしまうのは、この作者の持ち味なのでしょう。あるいは、見目麗しい男前女性鉄筋工優さんに圧倒的に負けてるからか? いずれにせよ、恋愛要素多少持ち込んでのどたばたがあっても、そればかりに偏らず、本筋のよさ、面白さを離れません。

こんな風に恋愛の要素や、さらにいえば家族ものの要素なんかもある漫画なんだけれど、欲張りって感じはまったくありません。あくまでも軸となるのはジョーであり、ジョーの仕事の現場であるのです。それ以外の要素は彩りにして潤い。ちょっと彩り多めのような感じもするけど、面白いから問題なし。そう思えるのは、ジョーを取り巻く面々、もろもろ、職人たちや彼らの醸し出す雰囲気がしっかりと描かれている、すなわち軸がしっかりしているからかと思います。楽しく仕事、そんな感じが伝わってきて、いやあいい漫画だ。気分よく読み終えて、さあ自分も頑張るかあ、気分一新できる、そんな感じがいいのです。

ところで、これってセレクションですよね。正月にジョーの妹である絵里と絵美が振り袖きてる回があったように思うんですよ、確か。もっと家族クローズアップといったような話もあったはずだし……。仕事以外は彩り、潤いといっておいてなんですが、続刊では、そのあたり、家族の風景もたくさん収録されたらいいのにな、なんて思っています。

  • 奈々緒舞流『気分は上々』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月7日金曜日

つくしまっすぐライフ!

 『つくしまっすぐライフ!』、ヒロインなずなはのびのびとして、その健やかさが魅力であるなと思うのです。作者後書きにて曰く、女の子に見えなくなることが多い娘です。背は低め? 飾らないショートカットが少年らしさを感じさせながらも、髪留めや眼鏡といった小物、そしてしぐさの端々に女性の華やかさが感じられます。爽やかだなあ、まるで野に咲いた花のような美しさじゃないか。そんなヒロインが通う女学校。山の上にあるちょっと人里下界と隔絶した世界において繰り広げられる、ちょっと不思議で楽しげな生活。時に恋に似た感情が彩りを添えて、素敵だなあって思う。ええ、いい漫画です。

作者は松田円。『サクラ町さいず』の人でありますね。わりと落ち着いた絵柄。びかびかするような派手さの対極にあるような画風で、なのになぜか目を引いてしまうのは、しっとりとしたはなやぎがあるからじゃないかなと思っています。それこそ表情に、しぐさに、のどかさやほがらかさがあふれるようなところがある。そして憂いや感傷も美しく、いい絵だなあ、いい漫画だなあと思わせられることが度々なのです。

とはいえ、『つくしまっすぐライフ!』は後者の感情や、切ない恋物語といった様子とは縁遠く、そういった要素を楽しみたければ『それだけでうれしい』の刊行を心待ちにするしかなさそうです。なので『つくしまっすぐライフ!』では、前者の要素、快活にして楽しげな様を味わうのがよいのでしょう。なにしろ山の上の女子校、お嬢様学校というような風は皆無で、ちっぽけな人を圧倒する自然の世界、登校下校はサバイバルだ! ってどんな秘境なんだろう。その秘境の学校には個性的な人が集まって、いや人の範疇に含まれないような人もいるのだけど、いずれにせよちょっとずつ普通さからはずれた人たちが、ものすごく普通に学校生活を送っているという、そういうところがおかしくて好きなんですね。

普通さからはずれてるっていえば、自然の景観を壊さないよう着ぐるみ着せられているエージェントとか、もう意味ちっともわからないんだけど、面白いよなあって思って、加えて中に入っている人たちですよ。これが無闇にいい人で、ああいう素朴というか純情っていうか、読んでいてほっこりします。ほらさ、手袋の話とかさ。ベタといえばベタかも知れないんだけど、それでも染みとおってくるような情感があって、ああ綺麗だな、透明だなって思うんです。そして松田円という人は、こういうささやかな気持ちの行き交うところに、ぽつりぽつりと明かり灯すようにして、人の心のいじらしさ、可愛さを照らし出してくれるものだから、私もつい嬉しくなってしまうんです。

引用

2008年3月6日木曜日

ももパン

 私の嶺本八美との出会いは『まーくり・まにっしゅ』にまで遡るのですが、成年指定されていなかったのに実はアダルト向けというこの漫画、出会いの場は昨日紹介の『パソコンのパはぱんつのぱ』を見付けた書店であります。昔の店舗でのことですね。階段上がったところの平積みになんだか明るく元気な表紙を見付けて、どうしようかなと迷って、翌日購入。そうしたら思い掛けないエロ漫画で驚きました、といったような話なのであります。けどそれで嶺本八美という名前を決定的に覚えてしまったのだから、それはつまり気に入ったということなのでしょう。そんなわけで、積極的にではないけれど出くわせば買う、そんな買い方をしている中から、『ももパン』を取り上げようと思います。

一応、ここ数日続いている、ぱんつ絡みでの更新の一環です。けど、そんなにぱんつ比率が高いわけではないかも知れません。いや、どうなんだろう。

この漫画には表題作といえるものはなく、収録作から少しずつ言葉をいただいて書名にしています。つまり、ももとパンにわけられるのですが、これがあまりぱんつ比率の高い漫画であると思われないのは、前者のもも、「ももくらべ」というシリーズは重度の尻フェチが主人公で、だから副次的にぱんつは出てくるけれど、中心にくるものではちょっとない。じゃあ後者のパンはどうかというと、どうなんでしょうね。一応「シーキング・ザ・ぱんつ」という短編も収録されていて、それはタイトルにもあるようにぱんつ漫画なんだろうけど、あんまりそういう感じはない。むしろ馬鹿漫画? 新兵器の設計図を暗号化しパンツの柄に隠した、という微妙におかしな前提からはじまる漫画で、仮面ライダー系というか、昔ヒーローもののパロディという形態であるから、絶対シリアスにはならない。間違いなくエロ漫画であり、そういうシーンもかなり書き込まれているのだけれども、ネタ度が高いから、エロ漫画としての機能はかなり後退してしまっている、そういう趣のある漫画です。

この漫画は読みきりを数編はさんで、前半に「ももくらべ」、後半に「ブルマー校長」のシリーズを配して、けど後半にいくほどネタ度は上がっていって、エロ漫画なんだけれど、エロ漫画という風は薄い。むしろ馬鹿漫画、馬鹿なギャグの光るエロ含みコメディって感じで、エロを期待して買うとがっかり度は高いかも知れません。なにしろ、「ブルマー校長対ももくらべ」だものな。っていうような感じで、嶺本八美のエロ漫画以外の持ち味も見られて、私としてはちょっと嬉しかった。というか、四コマが面白くてよかったなと、そんな風に思っています。「えーっと、まだできてないです…」と「たたかえ! 格闘少女北野海」ですね。前者はエロ漫画を描く女性漫画家が主役、後者は相撲強者である女の子が主人公で、それぞれに程々にエロまじりで、けれどネタとしても面白い。続いてくれたらきっと追って読みたいと思ったろう、そういう確かな感触がありました。

以上、エロ漫画だけど巻末に向かうにしたがってネタがエロを押さえてしまうという、不思議な漫画についてでありました。なおエロの傾向としましては、私には下着やブルマに対する傾きがなく、尻に対する執着もないため、非常に嗜好からはずれた漫画であったというほかありません。それでも折りに読んでしまうのは、これを描いたのが嶺本八美だからだろうなあ、実際そうだろうと思います。

  • 嶺本八美『ももパン』(マンサンコミックス) 東京:実業之日本社,2005年。

2008年3月5日水曜日

パソコンのパはぱんつのぱ

 ぱんつ特集というわけでもありませんが、今日は『パソコンのパはぱんつのぱ』を取り上げてみようかと思います。行き付けの書店に用意された試し読みの一冊、凝った表紙、カバーに興味を引かれて手にして、読んで、あら割りといい感じ、買ってしまった。私には実によくあるパターンであります。表題作、『パソコンのパはぱんつのぱ』は、高校生の男子二人の、ちょっとドキドキのストーリーなのですが、いやあ、なんといいますか、あの髪留めのシーンなんて、最高じゃないかと思ったりして。って、私は一体なにをいっているのでしょう。男同士の恋愛ものにこうもエキサイトしてしまうとは! でも、まあ、わきまえたうえで楽しんでいるから大丈夫。大丈夫なんだと思いますよ。

恋愛ものにもいろいろあれど、中でもBLものに特異な要素があるといえば、それはやはり恋愛感情を認めるまでの、あるいはさらにその先の、感情を行為に移そうとする時のハードル、その高さにあるのではないかと思っています。

同性愛は認められつつもあるとはいえ、いまだマイノリティにとどまっています。異性愛をさしてノーマルと表現されるような社会において、いつの間にか男を好きになっている自分に気付いた時に、ちょっと待て、俺! そう思うのはある意味当たり前であろうかと思います。それに、自分が男を愛してしまったという事実を受け入れたとしてもですよ、相手がそんな自分を受け入れてくれるかどうかはわからない。いや、ほば100パーセントあり得ないんじゃないか、そう思ってしまうわけですよ。ただでさえ切ない片思いがなおさら切なさを増しますわな。そこで、俺、気持ち悪かったよな、ごめんな、なんて引き下がられてしまったら、もうどうしたらいいかわからんようになってしまいますわな。

『パソコンのパはぱんつのぱ』は、そうした切なさが全開になってしまうタイプの漫画でありまして、なので私はもうどうしたらいいかわかりません。今まで隠し続けていた気持ちを相手にぶつけてしまって、しかしそれがために距離を置かれてしまった。拒絶ですよ、拒絶! けど、拒絶された側にも、拒絶するかたちになってしまった側にも、言い知れないわだかまり、心のうずきが残ってしまって……。よかったというのは、それからのくだりでありました。

小道具としての髪留め、そしてパソコン。直接的に愛を語ることは極力避けて、けどこれはふたりともハードルを越えちまったなあ、それがわかるようになっているのです。

友情と愛情のあいだでとまどっている二人の思い。お互い、得難い友人を失いたくないと思っているから、気持ちを抑え退こうとした、これは友情なんだと思い込もうとした。そうした感情が切々とうったえましてね、だって、好きという気持ちを抑える、なかったことにしたいだなんて、やっぱり悲しいじゃないですか。君らは本当にそれでいいのかと思う、ふたりの思いはこのまますれ違い続けるのか、やきもきしながら読んでいるから、本心ではそれ以上を期待してしまっているのかも知れない自分に気付く描写が胸を締めつけるのです。ああ、踏み出せよ、いや踏み出そうにももうそのチャンスがないのか……、そう思ったところに届けられる、たどたどしくつづられたお礼の言葉 — 。

ああ、なんだろう、泣きそうじゃないか。あそこでたどたどしさ持ってくるのはずるいと思いました。けど、ずるくても綺麗だなあって思う。真摯な言葉、そこには感謝と愛情と、そしてなによりその言葉を受けとるものへの思いやりがあって、特に一番最後の一文。あれが効きました、効きましたね。そして、その言葉を受け取った側、彼の表情が、そして返信の強気装った言葉がすべてを物語って、というか、お前ら可愛すぎだ!

高いハードルを乗り越えようという時には大きなエネルギーが要求される、だからこそBL/MLものにはヘテロの恋愛を描こうとするよりも大きな感情の波立ちが生まれるのではないかなと、少なくとも読む側の感情に、やった、越えた! という感情が生まれるのではないかと思っています。もちろん、流れるようなスムーズさで男性同士で好意を持って行為に及ぶというようなのもあるから、一概にいえないことはわかっています。でも、私がこの話はいい、好きだと感じる場合、どこかに抵抗がある、そしてその抵抗を越える瞬間があると感じています。仮に男性同士の恋愛がタブーであるというのなら、俺のお前への愛は、タブーなんかに屈しないほど強いんだというような、まさに突破としか表現しようのないような感触です。

BL/MLを読む女性が、こうした愛の強さの証明される様にカタルシスを感じているかどうかはわかりませんが、私にとってはその感触を得たいからBL/MLを読んでいるといっていいと思います。それはあるいは、そういう愛し愛され方をしたいっていうことかも知れませんね。あ、いや、男同士っていうわけではなくて、男女のあいだにおいても、そうした強い愛の確証が欲しいと思っているということだと思います。

2008年3月4日火曜日

まいっちんぐマチコ先生

 今から考えても、奇跡のような番組だと思うのです。『まいっちんぐマチコ先生』。私がこれを見たのは、おそらくは再放送であったかと思うのですが、KBS京都かあるいはテレビ大阪か、最低でも三度は見てるから、多分どちらでもやってたんだと思います。いやしかし、子供のころ異様に厳格だった私が、なぜ例外的に『まいっちんぐマチコ先生』だけは許可していたんだろうと、そちらの方が不思議です。学研だからか? 『まいっちんぐマチコ先生』、製作は学習研究社でした。一体なにを研究してるんだ、っていうのは今やどうでもいいことで、むしろこうした番組が成立していた事実、その方がずっと重要です。

時代がおおらかだったんでしょうね、としかいいようがないと思うのですが、今のテレビアニメって、特にテレビ東京ですか? 自主規制が結構厳しいとかいう話を聞きますが、たとえばパンツが見えると駄目なんでしたっけ。だからあえてパンツを描かなかったアニメがあって、そのやり方の鮮やかさというか、脱法的手法がために大いに評価されたとか聞き及んでいます。

それはさて、そのテレビ東京は八十年代当初には『マチコ先生』を製作放送していましたとさという話。その頃には規制らしい規制はなかったのか、パンチラは普通、ボインタッチと称する痴漢行為頻発、ありとあらゆる手段を講じ、男子はマチコ先生にセクハラ行為をおこなって、さらには教師も加担する始末。そんな男子に対抗し、女子は徒党組んでマチコ先生を守ろうとするも、返り討ちにあって一緒にセクハラ行為の餌食となってしまうのでありました。だいたいこういう話が毎週繰り返されていたわけです。

あらためて文章にしてみると、本当ありえないな!

しかし、これが普通に放送されて、セクハラ行為もスカートめくりだとかボインタッチにとどまらず、服を脱がすだとかそういうレベルにまでエスカレートして、まあキャラクターがあのコメディタッチですから、そんなには生々しくはないんですが、 — いや、そうだったかな。なにしろ今よりもずっと裸を目にするためのハードルが高かった時代だから、いや、そうかな? ごめん正直よくわからない。もちろん今よりもそういう事物へのアクセス性は低かったんだろうけど、でも普通に地上波で裸の出てくる番組はあったはずだし、猥雑というか、エログロナンセンスというか、そういうテイストに関しては、この頃の方が今よりもずっと過激だったような気がします。ゾーニングによって、地上波という子供にもアクセス可能な媒体からそういうものは消えていったわけです。そしてそうしたゾーニングがおこなわれるきっかけのひとつとして、『まいっちんぐマチコ先生』は間違いなく数えることのできるタイトルであろうかと思います。

けれどそれは、それだけマチコ先生の影響力が大きかったという証拠でもあると思うのですね。だって私だって見ていた。知っていた。自分の仲間内にも見ているというものはたくさんあって、なかには親に禁止されているからこっそり隠れて見ているのだというものまであった始末で、そう考えるとうちは奔放だったな。親も一緒になって見ていたからなあ。そんな具合だったものだから、ああした行為はいけないことなのだと、変な偏見を持つことなく大きくなることができて、 — いや、おかしなこと書いてるな。ああした行為はいけないことですよ?

けど、私はスカートめくりとかまったくしたことのない、そういう少年だったわけで、いや、これが当たり前といわれたら実にその通りなんですが、人によってはスカートめくりは普通にあったとかいいますから、一体なにが普通であるかなんてわからないんですが、まあスカートめくりを男子はするのが普通とここではしといてください。そうした行為に及ばなかった私にとって、マチコ先生のアニメは、普通の小学生がたどる道を仮想的に歩ませてくれる、そんな教育的側面を持っていたと思うのですね。ああ、教育っていいきっちゃったよ。今日はもう駄目だな。

でも、楽しいアニメでした。もちろん大嫌い、こんなの許せないっていう人もいるだろうけど、これを楽しみに見ていたという人にとって、あっけらかんとして明け透けで、すべての(性的)いたずらがまいっちんぐ!の一言で許されてしまうあの漫画は、自分たちの暮らしている世界とは違う、ワンダーランドとしての魅力があったのだと思います。だって、少なくとも私のまわりには、あれを真に受けてボインタッチだとかに及ぶの皆無でしたから。子供だって、フィクションはフィクションとして楽しんでいたんだっていう、そんな話なのかも知れません。わきまえたうえで楽しむ、そうした良識が支えていたアニメなのかも知れないって話です。

2008年3月3日月曜日

魔法の呪文を唱えたら

 さすが学研、ぱんつに関してはオーソリティだぜ。なんだかいきなり意味わからんこと言い出していますが、私らの世代で学研というと、第一に学習科学が思い出されて、じゃあ次はとなりますと『まいっちんぐマチコ先生』なんじゃないのかなあと思いまして。マチコ先生は漫画もアニメも学研だったんですが、今でいえば学級崩壊というか、まさにセクハラオンパレードの展開でありました(アニメの歌は今でも歌えます)。さて、なんでこんなこと話してるのかといいますと、今日書店にて見付けた『魔法の呪文を唱えたら』の惹句がめちゃくちゃで、オビの下はぱんつ。わお、オビの下はぱんつか! いや、これに引かれて買ったわけじゃないですよ。買ったのは作者が鬼八頭かかしだったからです。

オビの下は本当にぱんつでした。

じゃなくて。タイトルに『魔法の呪文を唱えたら』とあるとおり、魔法もの漫画であるのですが、鬼八頭かかしらしいちょっとエロ絡み、具体的にはぱんつとかぱんつとかぱんつなんですが、けれど本格的に変態的な展開にはならないコメディが楽しい漫画です。けれどこれ、ナンセンスなコメディタッチの裏側に、世界やら魔法やらに関する設定がびっちり詰め込まれていて、いやはやすごい。きっとこういうの、やらないでは気が済まないタイプの人なんだろうなあ、だなんて思うのは、どう見てもコメディ一直線に見える『雅さんちの戦闘事情』もそんな感じだからなんですね。

方や人類の存亡を賭けた戦い、方や魔道学園において魔道を学ぼうとする女学生たちの日常を描いて、どちらもなんだかほのぼのです? いやね、これもこの人の特性だと思うのですが、シリアスよりもコミカル、あまり深刻に物事を描くのではなくて、とにかく楽しくやりましょうとでもいいたげな雰囲気が支配的で、そうした風が肌に合うならきっとこの漫画も買いなんだと思うのです。実際この漫画も、魔法やら各種設定についてはびしばし欄外に註釈いれながらも、基本はかわいい女の子たちのちょっとずれた日常ですし、それこそ設定やら追うのはやめて、ちょいセクハラ交じりコメディ楽しむだけでもいける、そんな漫画であろうかと思います。

ただ、そのずれ方というのが鬼八頭かかしらしさにあふれているから、人によってはちょっとと思うこともあるかも知れません。実際私も最初の頃は、この人ののりについていきにくいなと感じることがあったのですが、でもなれればなんということもなく普通に楽しめる、むしろこののりだから楽しいと思えるところがあるのだと思うのですね。

つまるところ、人を選ぶ漫画かも知れないなということは、選ばれた人にとってはきっとはずれのない漫画であるということなのでしょう。ええ、私はもう大丈夫、というか、知らず知らずしっかり選ばれてしまっていた口であるようで、だから『魔法の呪文を唱えたら』も面白かったです。

引用

2008年3月2日日曜日

トリコロ MW-1056

 もし青野が看病にきてくれるというのなら、風邪をひくのも悪くないかも知れませんが、現実にそんな夢のような話なんてあるわけないのですから、今晩から明日にかけて、私はひとりで闘病です。いやね、インフルエンザにかかっていまして、まだ熱は出ていないのですが、そろそろ頭がくらくらしてきまして、こりゃもう確定だなあって、そんなちょい絶望気分なんです。けどそんな絶望の明日が確実であったとしても、潦が看病にきてくれるというのなら耐えられる。いや、だからそんなことはあり得ないのであって……、すいません、ちょっとくじけそうです。

メディアワークスから『トリコロ』特装版が出て、買って、読んで、久しぶりに『トリコロ』に触れたという感じがします。『トリコロ』が『きらら』を去って、『電撃大王』に電撃移籍。それからはまったく関わりを失ってきた私であったのですが、去る者は日日に疎しなんて故事成語などなんのその、こうして久しぶりに触れれば、過ぎた時は一瞬に縮まって、ああこの感じが好きなのだ、今という時間にぴたりと繋がって動き出した『トリコロ』の世界に、やっぱりよいなあと思ってしまうのであります。

『トリコロ MW-1056』、メディアワークス版『トリコロ』1巻には芳文社時代のものとそして移籍後の『トリコロ』が収録されていて、正直読むまでは不安もないではなかったのです。たとえば表紙の雰囲気とかね、あんまりに以前のものと違うと感じたものですから。ところが読めばそうした不安なんてものはきれいに払拭されて、やっぱり面白いものは面白い。物語られるものは日常と、事件とはいえないくらいのプラスアルファ。それがこんなにも面白くアレンジされてしまうというのは、やはり細部への着目と、それを全体に広げようとする練り上げのためであろうと思うのです。細かな部分への執着だけでは、きっとこれほどに読ませるものにはならないでしょう。また大きな流れを追わせるだけでは、キャラクターの個性に頼った大味なものになったかも知れません。

しかし海藍の手はその両者に伸ばされているのですね。細部は、全体そしてキャラクターを説得力持って支える力となっているし、大きな流れは、細部に支えられることによってより力を増して、あの長織という街のある世界に現実味を与え、ならばそこに暮らす八重たちにしても同じこと、ああ私の暮らしているこの世界の延長に彼女らの世界もあるのかも知れないと思わせてくれるのですね。それこそ手紙でも出せば届くのではないかと思えるほどに — 。

細部への耽溺、時に入り組んで組み立てられた筋立ては、わかりにくさにも繋がり、実際何度読んでもわからない、自信を持って解釈を確定させられずもやもやすることもしばしばですが、けれどそうした分を差し引いても面白さの方がはるかに大きく、そして時に物語られる情感の大きさに引き込まれるようにして、ほらたとえばあの飛行船の話、物語らないことによって物語るという妙、白眉でしたね。描かれんとする情感の大きさ、それがいいなと思うのです。そこには彼女らの喜び、驚き、感動などなど、さざめく心の動きがあって、そしてそれがたまらないのですね。

  • 海藍『トリコロ MW-1056』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2008年;特装版,2008年。
  • 海藍『トリコロ』第1巻 (まんがタイムきららコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 海藍『トリコロ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 海藍『トリコロプレミアム』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。

CD

2008年3月1日土曜日

コミックスイメージアルバム「トリコロ」

 よくできたアルバムであるとは聞いていたのです。でも正直ここまでとは思いませんでした。漫画『トリコロ』のイメージアルバム。『全作業“海藍”』がひとつの売りでもあったこのアルバムですが、海藍の手によらない部分、音楽、歌までもがこぞって、『トリコロ』という世界を作り上げることに貢献していると感じられます。一曲目『あじさい』の引き込む力、これからして実に半端ではなく、雨の季節、陰鬱として薄暗く、立ちこめる雨の匂いの濃厚さ。これから物語が繰り広げられようとする舞台が、目の前なんてレベルでなく、今この身の回りを取り囲もうというかのようにさっと広がるのですね。そして、場面が切り替わる時、私たちは現実の地平を離れて長織の街にある — 。物語が始まります。

もっと早く買っててもよかったかな、というのは私はこのアルバムを特装版入手が確定してから発注したのですね。2004年当時、ファンブックどころか英語版まで買おうとした私なのに、CDに手を出すのを躊躇したのは、正直きりがないと思ったからで、『トリコロ』の広がり、そしてKRレーベルのマルチメディア展開を考えると、どこかで一線を引いておきたかったのです。作者の手によるもの以外は手を出さない、そう決めて、だから絵や漫画は買っても、CDやアニメ、ノベライズの類いは黙殺しようと。けど、このアルバムに関してはミスジャッジだったな、今心の底からそう思っています。

つまりはそれくらいに作者の手の跡が感じられる出来であったというのですね。ドラマ部分に関してもそう。確か、これってミリセコンド単位で作者がキューを出しただかどうだかしたという伝説があったように記憶していますが、声優的マニアック世界に突入することなく、漫画の雰囲気を維持し、かつ広げることに成功していると思えるのですね。はじめて聞いた時には多少の違和感を感じたりはありました。ですが、三度目にはまったくそうした違和感は払拭されていて、きれいに重なり合った、あるいは私が完全に引き込まれてしまったというのでしょう。それまで違う質感で読まれていた八重たちの台詞は、まるっきりドラマの印象に上書きされてしまって、それまで私はどのように彼女らの声を読んでいたのだろう。思い出せないくらいに、アルバムの印象が支配的となったのです。

語られるストーリー、これもさすがに原作者の脚本というべきなのでしょう。見事に『トリコロ』の世界であって、聞いていて実に自然であるのです。BGMのない、会話により進行していく世界。短いスパンで落ちがあるのは四コマというスタイル由来なのか、しかし普段の四コマでは語られないストーリーがありました。やはりこれはオーディオドラマという形式があってのものだと思います。そしてその形式の違いが物語の可能性を広げて、いつもとは違った切り取られ方で語られる『トリコロ』の世界が実現したのでしょう。

これを大変に素晴らしいものだったと思うのは、私がファンだからなのかも知れませんね。確かに、これは海藍の『トリコロ』を知っている人、そして好きだという人のためのアルバムであると思います。ですが、そうした狭い世界に押し込んでしまうには惜しいものがある。そういう魅力があると思うのは、はたしてファンの欲目であるのでしょうか。

ところで、指三本でも持てる骨がアルミの折り畳み傘など、こうした小物への傾き、さすがですね。きっと現実に存在する商品なんだろう、それこそ型番指定して買えるくらいのレベルで、詳細に決められてるのだろうと思います。そしてその異常ともいえる緻密さ綿密さ、それが海藍のドラマ — 、四コマ、オーディオドラマといった形式を問わず、 — の雰囲気を決定する一要因になっているのだろうと思うのですね。

  • 海藍『トリコロMW-1056』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2008年;特装版,2008年。
  • 海藍『トリコロ』第1巻 (まんがタイムきららコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 海藍『トリコロ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 海藍『トリコロプレミアム』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。