2005年6月15日水曜日

センチメントの季節

  この漫画で扱われる主題がセックスであることから、今まで避けて避けて避けて通ってきたのですが、ちょっと書いてみようかなあと思うところがあって引っ張り出してきました。

ちょっと前に援助交際とかいって体のいい売買春が横行していましたが(そして今もなくなっちゃいないのでしょうが)、ちょうどそんな時分にこの漫画は連載されていました。普通の女高生やなんかが援助交際をするということは、良識ある大人たちにはあまりにショックだったと見えて、さまざまな分析やなんかがおこなわれましたが、この漫画を知るにはそういった当時の背景なんかも知っておいたほうがいいのかなあと。というのは、そうした時代の空気を抜きにすると、男にとって都合のよい女の子の出てくるエロ漫画でしかないかなあと思うからで、いや、けれどそうした評価はあながち間違っていないのではないかと思います。

そもそも、援助交際なんてものからが、買い手にとって極めて都合のよいシステムでありました。低リスクで低廉に、年端もいかない女の子をおもちゃにできるわけでして、あれは社会全体でおこなう性的搾取でしかないなあと、私なんかは思うわけです。

けれど、お小遣い欲しさに一部の女の子はウリをおこなって、ほんと、思うつぼというか鴨がねぎというか、あたかもおじさんたちを手玉に取っているかのように思わせてだまして、やっぱりうまいシステムであったなあと私なんかは思うわけです。

さて、そんな援助交際というシステムを分析しようとした時代があったわけですが、そうしたものの多くは、結局援助交際を後押しするものでしかなかったのかもなあと、今振り返って思います。少女たちは自分の価値の希薄さにどうだこうだとか、空虚さを埋めたいという気持ちがどうだこうだとか、思潮の問題にしてしまった。いや、そうじゃないだろうと。問題はそこじゃないだろうと、私は思うわけでして、でもまあ結局は個人の問題ですからどうでもいいといえばどうでもいいのです。

『センチメントの季節』は、まさにそうした時代の空気を体現しています。空白を抱えた少女たちが、その隙間を埋めようとするかのようにセックスをする。いや、セックスしちゃいかん、けしからんとはいいません。ですが、結局そうした行為に走ることを、空しさだとか寂しさだとか、そういうせいにしちゃいかんのじゃないのかなあと思います。

私は、セックスするしないにせよ、なんにせよ、個人の決断はその個人が責を負うものだと考えるのですが、ですがこれをそうした空しさとか寂しさとか、ちょうどこの漫画のタイトルがいうような感傷的な理由に求めるのは、ただの逃げであると思うのです。それも、ファンタジーに逃げるのは一番あかんのじゃないかなあと。この漫画に立ちこめる性を取り巻く幻想は、確かによくできていてそうなんだと思わせるに充分でありますが、けれどそれはそうした幻想を共有しているからそう思えるだけであって、ちょっと身を引き離してみれば、体のいい理由を自分の外 — 例えばそれは時代だったり社会だったり — に求めたいだけなんだと気付きます。

だから、やっぱりこの漫画は、男にとって都合のよいファンタジーでしかないなというのです。

けれど、多分作者はこうした幻想とそれを支えようとする仕組みに無自覚ではなかったと思います。体がおいてきぼりにされたような、感傷ばかりが目立つ漫画ですが、最終巻における心だけにも体だけにもなれないというあたりまえの結論は、ある種実感の希薄である現在 — 肥大した心を支えられない身体感覚の弱さに誰もが気付いているといいたいからこその駄目押しではなかったのかなと思えます。

ともあれ、この漫画や、この漫画を取り巻く状況といったものは、ちょうど、ほら千葉の浦安辺りで、主催者も参加者も一緒になって守っているファンタジーがありますが、そんな具合に、それが幻想に過ぎないとわかっていながらも守られていたファンタジーなのかも知れません。そうしたファンタジーの向こう側にあったものというのは、結局たいしたことのない、あたりまえのものに過ぎないというのが相場でありますが、これにしてもみんなで買い被っていただけなんじゃないかと思ったりしています。

それでは、本題。

私は字を習ったり音楽をやったり、またこうして文章を書いたりしていますが、そういうときに一番大切だと思うものは実感だったりします。その字や音、いいたいことに対して、実感が伴っていないとよいものはできないばかりか、もうそれ以前の問題で、まったく筆も進まなければ、身動きさえもできない。そういえば私は、子供のころ、読書感想文が嫌いでした。作文の書かされるという感じが嫌で嫌でたまりませんでした。実感もないのになにも書けるはずはないのです。

『センチメントの季節』に話を戻せば、そうした実感が一番強く出ていたのは、おそらくは最初の二巻までだったんではないかと思うんですね。ひとりの人間の内部に広がる性に関する幻想は有限で、さしてバラエティに富んだものではないのです。けれど同じことは描けない。この漫画を見ていて、そうしたジレンマを感じることがあったのは事実です。

ですが、そうしたかぎりのあるファンタジーを縦横に駆使して、エロを描き続けている人というのは確かにいるわけでして、そういう人って偉大だなあと、私はいつも思います。これって揶揄や皮肉じゃなくて、素直な感想ですよ。

引用

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