2005年6月13日月曜日

倫敦! 倫敦?

 私は高校に通っていた時分に、手当たり次第、触れたもの目に留まったものをなんでも読むという乱読期を経験したのですが、ところがその反動が出でもしたのか、その後数年は、もうまったくといってもよいほど本を読まなくなりました。それこそ、字ばっかりの本を読まなくなった。当時はあんまり金銭的に余裕がなく、本が買えなかったという事情もあるのでしょうが、それにしても読まなかったですね。再び本を読むようになったのは、学部の三回に上がってから。このときは、とにかく興味を引いたタイトルをとにかく買って手もとに置くというやり方で、特にジャンルを決めるでなく、西洋東洋の区別もなく、哲学文学戯曲エッセイなんでも読むという、— こういう乱読が私の基本的な傾向のようですね。

長谷川如是閑の『倫敦! 倫敦?』を見つけたのは、まさにこの再びの乱読期においてでした。このときはまだ如是閑の名前も知らず、だからとにかくこのタイトルにひかれて買ったのです。そして読んで見て驚くことといったら、その文章に表れる意思の明晰さ、そして表現の鮮烈さ。ほれぼれと読んだものでした。

長谷川如是閑、倫敦の道路を評してコンクリートで堅めた上に木口を並べてその上をアスハルトで鏡のように砥ぎ上げてあると記し、そして聖ポール大聖堂の地下墓所について書かれた一文の際立ちようといったら! 竜巻のような柱が林立している薄暗い地下室のつめたい重い空気が洋服の上から肌に沁み込んでくるようで、覚えず身慄いしながら入ったが、 — 如是閑の見たおどろおどろしくも荘厳なるクリプトの様相を、自らもまた追って眼前に見る思いでありました。

私はこの本を読んで、紀行の面白さに目覚めたのです。紀行がただ旅先の情緒を伝えるだけでなく、批評する視点が異文化を捉え、旅先の地も自らもあらわにするものであると知ったのです。なんとスリリングな体験だろうか、旅というのは! 私が旅を愛するのは、如是閑翁の視点から見た旅の姿があまりに魅力的であったからだと思うのです。もしこの本に出会えていなかったら、私がイタリア紀行を書くことは決してなかったでしょう。それくらい、旅と紀行への見方がひっくり返ってしまうくらいに、私にとっては大きな本だったのです。

さて、なんで今日長谷川如是閑を取り上げたのかといいますと、如是閑翁は体が決して強いほうではなかったんだという話を聞いたことがあるからなんですね。私は、如是閑の仕事を垣間見て、こういう大きなことをする人はきっと頑健な疲れ知らずに違いあるまいと思っていたのですが、ところが事実はそうではなく、弱い体をいたわりながらの人生であったというではありませんか。

私は、自分自身が決して丈夫なほうではないので、こうした話を知って、それまで以上に翁を好きになったのでした。そうか、体の弱さは関係ないのだと、自分ももっとがんばれるという気にもなって、— いや私と如是閑翁では、その基礎となる教養も出来も違うんですけどね。

引用

  • 長谷川如是閑『倫敦! 倫敦?』(東京:岩波書店,1996年),158頁。
  • 同前,194頁。

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