2006年8月31日木曜日

ヨイコノミライ

  ヨイコノミライ』の第3巻が出ていたので買ってきました。読めば物語がずいぶん動いていて、けれど第1巻2巻で受けたようなショックみたいのはずいぶんと薄らいでいたように感じました。いや、これはひとえに私が慣れただけなのかも。その後も続々出版されているきづきあきらものを片っ端からといってもいい感じでもって買って読んでいるのですから。でも、『ヨイコノミライ』第3巻に関しては、実際に衝撃的なところは少なかったのだと思います。むしろ蒔かれた種が芽を出すまでの淡々とした準備の時期という、そういう印象のある巻でした。じゃあ、面白くなかったのかといえばそうではなく、波乱を前に緊張が徐々に増していくという感触、こうなれば後は第4巻を待つばかり。どうなるんだろう。後一冊で、どんな風に盛り上がってどんな風に解決をみるのだろう。と、読み終えてからはそんなことばかり考えています。

でも実際どうなるんだろう。最後のシーンに向けてスパートを切れるだけの準備は済んだ。伏線となるようなできごとはもう充分に盛り込まれただろうし、ここから動きを出すには、しかもダイナミックに、そしてショッキングに出すには、誰がどう動いたらいいかというのもなんとなく見えてきて、けれどそうして動いた後に救いがあるんだろうか。いえ、私はこの漫画に関しては、必ず救い、カタルシスがあるはずだと踏んでいまして、そのあたりは心配していないのですが、ただその救いが漫画の登場人物にまんべんなくもたらされるのかということを心配しているのです。

この漫画は、以前にもいったように漫画研究部に所属する多かれ少なかれおたくである少年少女たちを扱っているのですが、それぞれがそれぞれに違った個性と問題を抱えていて、それらは読んでいて嫌になるほど誇張されているのですが、けれどある種リアルであるとも感じるのです。確かにいる、確かにいた、そして私にも多かれ少なかれこうした傾向はあった、いや今もなお持ち続けている……。読んでいて揺れますね。特に、私の持っていて乗り越えたいと思っていた(いる)ものと同じ問題を抱える人を見ればなおさらそのように思って、それはおそらくは詩織や萌絵に対しての感情なのですが、対して男性キャラについてはどうだ。天原はいっぺんひどい目に遭ったほうがいいなとか、瞬に関してもそうだなとか、けどきっと瞬じゃなく一輝がひどい目に遭うんだろうなあ。とにかく読者である私のひいきがすごい。こんなに読んでいて、キャラクターへの好き嫌いがガツンと強く出るのはまれなことだと思います。

でもそんなにも強烈に好き嫌いを出してしまうのは、きっとそれだけ漫画の中の彼らのことを皮膚感覚に引きつけるようにして感じているからなんだろうと思います。だから読んでいて痛ましく思うこともあれば、それはあんたの自業自得だわと突き放したく思うほどに嫌悪したりする。こうした少々特殊な感情移入の先には、きっと大きな感情の動きがあるだろうという予感がされるから、最終巻がより以上に楽しみになるのです。

きづきあきらだから、きっと肩透かしみたいなことはないはずです。私の予測を上回って見せるか、あるいは思ったままの展開であっても想像もしなかったような内面の描写を見せて、私の心を持っていってくれるに違いない。期待が大きすぎて失敗するかも知れませんが、けどきっと大丈夫に違いあるまいと思いながら、この一ヶ月を待ちたいと思います。

  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第1巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第2巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第3巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2005年。

2006年8月30日水曜日

ラビリンス — 迷宮

昨日、ちょっと新井素子の名前を出したものだから、今日はちょっと新井素子でいってみようかと思います。それも、昨日いっていた『グリーン・レクイエム』ではなくて『ラビリンス — 迷宮』。なんで『ラビリンス』なのかといいますと、私のはじめて触れた新井素子の小説がこれだったから。そして、ほとんどSFを読まずにいた私に、へーっ、SFってこういうのもあるんだー、と思わせてくれたものであるから。ええ、はじめて読んだときの印象は、今もかすかに胸の奥に残っています。

高校の部室に『ラビリンス — 迷宮』が置かれていて、判型は新書だったから、1984年の版ですね。ロッカーの中から発掘されたのですが、回りの誰に聞いても自分のじゃないっていうから、ずっと前の先輩が残していったものかも知れませんね。もらってもいいって聞いたらオーケーが出たので、もらってきた。そして読んだ。というような出会いだったのです。

内容は、あんまり詳しく書くと未見の人に悪いからさっさと書くとして、迷宮に住む怪物にいけにえとして娘を捧げる風習のある集落での物語。怪物はいけにえをとるかわりに知恵を与えてくれるという、ここまでを読めばまるで神話だとか昔話だとかそういう印象です。その年のいけにえとして選ばれたのは、強くたくましいサーラと利口で落ち着いたトゥード。果たしてこの娘たちの行く末はいかに!?

ちょっとネタバレになっちゃうかな。だからここから先は読まずに、ぜひ本を読んで欲しいと思います。今、なんか絶版になってるみたいではあるんですが、古書で買えるでしょうし、気の利いた図書館ならあるんじゃないかな。とにかくネタバレがあると初読時の印象が全然違ってくると思うから、この話を知らない人には、この先あんまり読んで欲しくありません。

では、ネタバレ。未開社会におけるファンタジーものと見せて、実際は近未来ものであったというのはいい仕掛けだったと思います。バイオテクノロジーによって生み出された生物。知恵もあり強靱であるが、しかし人を喰うという欠点があった。彼が、文明の滅びた後に迷宮に住み、しかもその迷宮というのが一時はやった巨大迷路ですよ。うまいねえ。やられましたよ。私はこの話を読んで、文明が失われ、歴史や記録が記憶の中で変貌していくには一体どれくらいの時間がかかるんだろうと思って、この話に示されるだけの時間でどれくらいの世代が交代するのか、そしてそれだけの時間でどれだけ社会が変わるのか、いろいろ考えたことを思い出します。この物語を読んで、歴史を見る目が変わったといいかえてもいいでしょう。歴史上の時間を、ただの数字として捉えるのではなく、どれだけの世代交代がおこなわれたのかという、人間単位での捉えかたをするようになったのです。

歴史を語ろうというときには一世紀という時間はちょっとした単位でしかないように感じますが、実際自分自身でその時間を計ってみると到底そんな簡単な時間ではありません。一世紀といえば百年です。今からさかのぼれば1906年。つまり明治39年。明治! 夏目漱石の『坊ちゃんで』が発表されたこの年、私の祖父はまだ一歳。祖母は生まれてさえいませんでした。曽祖父母、あるいはさらに一代前が活躍していた時代なんですね。祖父の父、私の曽祖父は庄屋であった! 庄屋! マジで!? 全然具体的に想像できないんですが。ちなみにこれは母方の話。父方はというと宮大工だったとかいいますね。ええーっ、宮大工! 全然具体的に想像できないんですが。社会はすっかり変わりました。価値が変わりましたし、テクノロジーはもうまったく違うといってもいいくらいで、私には曽祖父母の時代の空気を想像することはできません。

こんな風に、時間に対する私の実感を書き換えたのが新井素子の『ラビリンス — 迷宮』でした。同様に私のSF観を書き換えたのもこの本でした。少なからぬ影響をこの本から受けていると、そんな風に思っています。

2006年8月29日火曜日

ROM-レス。

 買おうか買うまいか直前まで迷っていたのが『ROM-レス。』です。あんまりに四コマ単行本の刊行点数が増えたせいで、今月なにが出るのかなんてまったくちっとも把握できなくなってしまったのはいつごろくらいからだったでしょうか。単行本の発売日近くなると版元のサイトで確認して、今月何冊とだけ把握して書店の平積みで探すというのがパターンです。それで今月は『ROM-レス。』がどうしようか迷った。ええ、以前みたいに一冊二冊しか出ないのならばいいんですが、最近は三冊四冊と出ますから、一冊あたりの単価の高いKRコミックスはどうにも買いにくいのです。どうしようかなあ。書店で決めるか。それで結局は買ったのですから、迷ったり悩んだりがほんと馬鹿みたいです。

なんで悩んだのかといいますと、漫画としてちょっと微妙であると思っているのです。レストランを営む若き店長のもとにやってきた久凪という女の子。実は彼女は、ゲームから実体化した女の子だったのです! って、なんだこの設定。正直私はこの漫画を始めて見たときには、あかんと思ったものでしたよ。いくら『まんがタイムきらら』がマニア向けにチューニングされた雑誌であるとはいえ、これはないだろうよと思った。でも、当初そんな風に思っていた私が、しっかり『ROM-レス。』は覚えているのです。いや、『ROM-レス。』だけじゃないですね。同じ作者の漫画である『にこプリトランス』も『レンタルきゅーと』も、ちゃんとタイトルから覚えています。私はきらら系に関してはもう記憶が追いついてなくって、タイトルいわれてもわからない漫画、誰が書いてるかさえもわからない漫画、見ても前回が思い出せない漫画が山ほどあるのですが、そんな中、白雪しおんはばっちり覚えているのですから、なにか光るものがあるのは間違いないのだと思います。

ですが、なにが私のどこに引っかかったというのか。実はよくわからんのです。気弱でシャイな主人公が兄妹や前の恋人に振り回されてというシチュエーションがいいのでしょうか。ええ、確かに私の必勝形(?)である気の強くわがままな(けれど実は情の深い)女性に振り回される主人公という形式ではあります。でもこの漫画の持つ魅力の根本はそこではないと思っています。ではなんなのか。ウェイトレスの制服の着せ替えか? いや、そこでもない。じゃあなにかというと、主人公静夜と久凪のむずがゆくなりそうな微妙関係であるんでしょうね。すなわち普通のラブコメの形式に追い込むのが一番しっくりくると思うのです。そしてそれが、突っ走るでもなく、奇をてらうでもなく、マイペースにマイペースに展開される、そのペースがきっと読んでいて心地いいのだろうなあというように思います。

とすれば、私の最初に感じていた微妙という評価の理由もわかってくるように思います。というのは、私は漫然と展開されるラブコメものがあまり好きではないようなんですね。気が短いんでしょうね。好きなら好きでガツンといけやあ、とか思ってるんだと思います。けれど、この漫画に関してはそういうもどかしさを感じることもなくて、読んでいるうちになんだかいろんなことがどうでも良くなってくるような感じで、それはやっぱりこの作者特有のペースがなにより心地よいからなんだろうと思います。

蛇足

この漫画に関しては、明示的に誰といえるようなひいきがないのでパスです。ただ、単行本後書きや表紙裏表紙に見える作者のハイテンションはかなりいい感じかも。こういうのって谷町気分っていってもいいのかな? なんかこういうみずみずしいハイテンションを見ると、よっしゃ応援すっかあ、って気になるんですよね。なんか変ですね。でも、せっかくですんで、これからもちょいと応援していきたいと思いますよ。

蛇足2

カバー裏表紙見て驚いた! グ、グリーン・レクイエム!?

  • 白雪しおん『ROM-レス。』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年8月28日月曜日

最後の制服

  一見無秩序に見えることとねお試しBlogですが、これでも一応ルールといえるようなものがないわけではないのです。一例を挙げますと、複数タイトルが同時に紹介の候補として上がったときの優先順。過去に紹介されていないものが優先されるようにという配慮は一応しているつもりです。だから今回はちょっとイレギュラーです。8月29日はまんがタイムKRコミックスの発売日で、例によって複数冊買い込んできたのですが、ここで本来なら『ROM-レス。』が取り上げられるはずのところが、急遽『最後の制服』にシフトしました。なんでか? それはあまりにこの漫画の行く末が不安になりそうな展開があったからなのでした。

展開といっても、漫画の内容がどうこうってことじゃないんですよ。私がまず驚いたのは単行本のページ数です。『ROM-レス。』は奥付含まずで118ページ、同日発売の『三者三葉』第4巻も同じく118ページ、ところが『最後の制服』第2巻は192ページ。わお、なんだこれ、倍近いじゃないか。こんな分厚いまんがタイムコミックス、はじめてみたよ。

今まで単行本が出ずにたまった原稿を、一気にこうして本にしたということなんでしょうか。なに、残り一冊分を残してあるのさ、ということなのかも知れませんが、なにしろ売れなきゃ続きが出ないのが普通というジャンルでありますから、正直、この過去に類を見ない出しかたにはおそろしいものがあります。ちなみに連載は来月で完結です。だから冷静に、単行本未収録分のページ数を数えればこのへんの疑問は多少はクリアするのかも知れませんが、でも続きの出るか出ないかはひとえにこの第2巻の売れ行きにかかってるんですよね。

というわけで、買ってみてください。面白いですよ。舞台は女子校、女の子同士のくすぐったいような恋愛模様が描かれていて、いや、果たしてそれを恋愛模様といっていいんだろうか、揺れる季節の揺れる思いがきらきらと、そして時にはメロウに輝いている素敵漫画なのであります。

『最後の制服』第1巻では、物語はまだ単発のエピソードのまま、うずうずと方向性をあらわにはせずにあったのですが、第2巻では大きなストーリーが動き始めています。私があなたを、そしてあなたが私をどのように思っているかという気持ちをはっきりとさせながら、複数の恋模様が息づいて、それは仕合せに向かうのか、それとも行き過ぎる季節のはかない思い出としてとどまるのみであるのか、その結末は第3巻を待たねばならない。ああ、だから私はここで立ち止まりたくはないのです。

マリア様がみてる』がそのブームの先鞭をつけたのか、あるいは場が温まっていたところに『マリア様がみてる』が飛び込んだのか、それは私にはわかりませんが、『最後の制服』もそうしたブームの一翼を担うものであろうと思います。ですが、私にはこれが、ただ女の子同士の恋愛ものがブームだから出てきたようなものとは思われないのです。『マリア様がみてる』が切り開いた地平があってはじめてこの漫画もかたちとなったのかも知れませんが、そのへんは私にはようわかりませんが、ただ、私がいいたいことは、この漫画はこの漫画としてしっかりとできあがっているということです。『最後の制服』という世界をかっきりとかこって踏ん張っている。それまでこうしたジャンルを遠巻きに見ていただけの私をここまで引きつけたのは、間違いなくこの漫画独自の世界であるのです。

だから私は、この世界が完結しないままに放られることをことさらに怖れているのでしょう。好きになった世界がなおざりに捨て置かれるかもしれない可能性さえも我慢ならないというのでしょう。

蛇足

「mad afternoon」が好きです。なんか物悲しくて、どうしようもなく好きです。

  • 袴田めら『最後の制服』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 袴田めら『最後の制服』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年8月27日日曜日

鉄子の旅

   今日はちょっとショックな話。ええと、『鉄子の旅』、後三回で終わるんだそうですよ。今回含めて後3回だそうだから、2006年12月号が最終回ですね。そっかー、再来月で見納めかあ。その後に単行本が出たとして、それを読んで完結。まだもうちょっといけそうに思ったんだけどなあ。この衝撃の告白に対しての正直な感想を申しますと、この漫画に出会うのが遅すぎたのだ、その一言につきるのだと思います。

もし、第1巻、第2巻が出たころ、2004年の時点でこの漫画を知って読んでいたら、漫画の人気が出るとともに徐々に盛り上がっていくことができたわけで、だったら2006年のこの時期に終わると聞いても、そうか、長かったものなあ、お疲れさま、と普通にその事実を受け入れることができたのだと思うのです。ですが、私がこの漫画を読みはじめたのは今年に入ってからで、単行本をすべて集めたのもついこないだのことで、急激にぐぐーっとあがったテンションは漫画の領域をはずれ、実際の鉄道にまで向かいそうになっていたんです。ところがここにきて、急にはしごを外されたような気分です。

ええ、わかってます。なにもかもが遅すぎたんですよ。本誌連載を追いながら、だんだんと変化していく雰囲気にも気付いていながら、その先にあるものを見ようとしていなかったのは、ひとえに私が盲目的であったということなのでしょう。今こうして終わるということを知ってみれば、少し前からの流れが、最終回へ向けての盛り上がりを作るための助走だったのかも知れないという気にもなってきます。事実、バリテツの横見氏のハイテンションが普通になってきて、そして鉄道マニアでなかったはずの菊池氏が鉄道に歩み寄りを見せて、この流れが加速すればこの漫画の基本形は破綻する。でも、私は新しいパターンに移行しながら、続いていくものだと思っていたんですね。やあ、観測が甘かったなあ。そんな気分です。

でもさ、前回なんてすごく感動的だった。大井川鐵道の旅。今までの『鉄子の旅』にはなかったパターンで、そしてラストのワンカットに私はじんとして涙をこぼしそうになって、そうかあ、あの渾身のラストは終わりを予感させていたのかも知れません。それだけに、この回を単行本で読む日には、本当に泣いてしまうかも知れないなあ。最初はどたばた、途中には変に迷走して見せたりもしていた(京都の回なんて本当にひどかったと思うぜ)『鉄子の旅』は、こうして大きなステップを踏んで、堂々終わってみせるのだと思います。

来月、再来月、どんなサプライズがあるかわかりません。だから、私は本誌を楽しみにしたいと思います。今度ばかりは、目当ての『ナツノクモ』以上に、『鉄子の旅』に注視したいと思います。

  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第1巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第2巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第3巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第4巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第5巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • IKKI』2006年10月号 小学館,119頁。

2006年8月26日土曜日

QUIZなないろDREAMS 虹色町の奇跡

 調べてみて改めて知る『QUIZなないろDREAMS 虹色町の奇跡』の人気。アーケード用ゲームとしてリリースされて、その後プレステにサターンにと移植。さらにはドラマアルバム、小説にまで展開されていて、人気あったんですね。私はというと、この当時は格闘ゲームが熱かったものだからクイズゲームにはまったくといっていいほど注意を払っていなくって、だからこのゲームは借りたその時まで知らないでいたのでした。

借りた。そう、このゲームは借りたのです。もう何年前なんだろう。こちらからは『ダブルキャスト』と『キャプテン・ラヴ』を提供、かわりに『QUIZなないろDREAMS 虹色町の奇跡』と『トゥルー・ラブストーリー』を借りた。件の人は『キャプテン・ラヴ』は未プレイだそうです。対して私は『トゥルー・ラブ』を未プレイ。LOVEか!? LOVEのせいなのか? あるいは中黒のせいなのでしょうか。いずれにせよ一勝一敗気分なのであります。

このゲームのリリースは1996年、コンシューマ機に移植されたのは1997年みたいですね。今から十年前。この十年でゲームというものは進んだんだなと思いましたよ。グラフィックからシステム回りの操作性、圧倒的な違いがあって、今改めてプレイすると、いろいろ瑣末なところに微妙な違和感を感じます。

実は、今日一日だるくてですね、テレビ見る気にもならない、ギター弾くどころか座ってる気力もない。本読む気にもなれず、漫画にさえも手が出ない。でもなんかやりたいなあと思いまして、ゲームなんかやりたいなあ。けどWizardryなんかこんなときにやったらあれだぜ。気を抜いて迷宮に潜って、大量死を招いたことは一度や二度じゃないんだ(自慢にならないか)。『ワンダと巨像』なんてのも駄目だぜ。しんどいのに、アクションやシューティングなんてしてられないよ — 。

こんなときに浮上してくるゲームというのが、気楽に遊べて結構楽しいもの。そう、クイズゲームなのであります。

『QUIZなないろDREAMS 虹色町の奇跡』はクイズゲームとしても画期的で、やはりこの時期はやった美少女ゲームの要素が加味されていて、プレイヤーは九人の女の子の間をいったりきたりしながらその仲を深めていくんですが、目当ての女の子と出会うのがちょいと難しい。というのはですね、主人公はボードゲーム状のマップをルーレットの出た目でもって移動していくのですよ。つまりこんな具合。日曜日は二マス向こうだというのに、あああ、なんてこった3を引いちまった!! まあ、こういううまくいかなさがこのゲームの面白さなんではないかと思います(でも、次からはルーレット、OFFにしよう)。

こんなルーレット次第のゲームが成立するのはなんでかというと、充分目押しが利くからなんですが、どうも私は目押し力が足りないみたいで、普段は結構いけるのですよ。連続で1を引きながら、イベントをことごとく片づけていったりして、よし日曜日がきた、気合い入れていこう、となるとなんでか外すんです。まあ、私らしいよね。私はいつもここぞというところで失敗してきて、それはゲームにおいても例外ではないようです。

なんか、クイズとかシステム回りのこととか書かずに終わっちゃった。まあいいか。もしまた今度このゲームで書きたくなったときにそのへんのことを書こうと思います。

中古で探そうかな……。

PlayStation

SEGA SATURN

CD

2006年8月25日金曜日

デジカメチャート

 リコーから新しいカメラが出たというニュースを読みにいった先で見つけた、デジカメチャート。設問にYes/Noで答えていくことで、お勧めのデジカメがわかるというものです。

あなたにピッタリの1台をズバリ診断! デジカメチャートでチェック! / デジタルARENA

現在用意されてるのは一眼レフと広角コンパクトの二種類だけなのですが、とりあえずやってみました。

その結果がこれです。

デジタル一眼レフカメラ
オリンパスイメージング E-500
広角コンパクトデジカメ
リコー GR DIGITAL

ええーっ、なんでオリンパスなんだ??? 一眼買うならソニーと決めてるんですけどね。で、コンパクトカメラはリコーに確定して、このへんは実に妥当なラインであるといえるでしょう。

さて、この診断を紹介したのは他でもありません。イラストの、イラストの女の子がかわいいよね。いや、本当にかわいいと思います。まれに見るかわいさだ。本当はここで、どこがどうかわいいかくだくだ書きたかったのですが、かわいいという感情に支配されてどうにもその先に進めなくて、 — はっ、もしやこれが萌えってやつなのか!?

イラストレーターは大城ようこう氏。おぼえておこっと。

参考

ちょっと大きめの画像が用意されてて、ああ嬉しい、すごく嬉しい、なんかちょっと仕合せ気分です。

2006年8月24日木曜日

RICOH GR DIGITAL

 私のお友達が夜景をとるのに苦慮しているみたいだったので、今日は趣向を変えて、デジタルカメラで夜景を撮るコツみたいなのをやってみようかと思います。それにちょうどタイムリーでもあったのです。今、季節は夏から秋に向かい、どんどん日暮れが早くなっていきます。秋の日はつるべ落とし。気を抜けば帰り道はすっかり夜です。写真を撮るには光量が重要なのはいうまでもないことで、つまりこれからどんどん日常散歩写真家にとってうまくない季節に足を踏み入れつつある。こういうときにはどうしたらいいか。日中撮る。いや、それは仕事があるから無理だわ。いくらなんでも怒られます。そうなると方法はひとつ、光が少ない状況であってもちゃんと写真を撮れるように工夫するのです。

光量が少ない状況で写真を撮るにはどうするか。結局写真というのは、フィルムないしは撮像素子にあたる光の総量が問題になるわけですから、暗い場合は絞りを開く、そしてシャッターもなるたけ長時間開けておく、という具合になります。

けど、絞りを開けるったって限界があるし、スローシャッターを切ると手ぶれが……。こういう場合に力になるのは三脚ですが、街歩きに三脚なんて持っていってられません。じゃあ、どうする? そういう場合は、カメラを固定できそうなものならなんでも使ってみるのがよいのではないかと思います。

My town
f/2.4 1/3 ISO64

例えばこの写真は、左側に金属の角柱がありまして、カメラの底面を押し付けるようにして撮影しています。シャッタースピードは1/3秒とかなり遅いですが、目立ったぶれは見られません。なお、シャッターを切る動作が原因でぶれるのを嫌って、2秒のタイマー(シャッターボタンを押してから2秒後にレリーズされる)をセットしています。

Night pond
f/4 2sec ISO64

この池の写真は、さらに光量が不足している状況で撮影しました。多少絞って、シャッタースピードは2秒。なんでこんなスローシャッターが可能だったかといいますと、池の手すりを利用しているからです。手すりの上部、ちょうど平らになったところにカメラをすえて撮影しました。こういうやり方だとほとんど手ぶれは起こらないので、安心してスローシャッターを切ることができます。

私のカメラは露出補正も可能だし、絞り量も自由自在、絞りシャッター速度を手動で設定できるモードもあるので、暗所での撮影でも比較的自由が利くのですが、一般的なコンパクトカメラだとこういうのは難しいかも知れません。けどカメラの自動露出は、普通、撮影時にぶれないようなシャッター速度を確保しようと努力するように作られています。つまり暗所では絞りを開放方向に持っていき、シャッター速度をなるたけ稼ごうとするわけです。それでもシャッター速度が遅いという場合は、ISO(感度)を高くするのですが、感度は高くすればするほど画質低下を招いてしまうから、あんまりやりたくないですよね。

カメラの自動露出は、画面全体の明るさを平均して、18パーセントのグレーと同じ明るさにするように努力します(けど最近のカメラは利口だから、常にそうとは限らないんですが)。だから、夜景を撮ったのはずなのに明るくなってしまってしまらない、なんてことが普通にあり得ます。明らかに暗い場所で撮影する場合、カメラが示す+-0の位置で露出を合わせると、露出オーバーになるのです。もしカメラに露出補正の機能があるなら、思い切って-2.0くらいまで持っていってもいいかも知れません。前掲の池の写真はマニュアルで撮ったのですが、-2.0かそれ以上にマイナス補正をかけています。街の写真は-0.3なのですが、それでも結構明るくなってしまいました。多分-0.7か-1.0くらいでよかったんじゃないかと思います。

マイナス補正をかけるというのはどういうことかというと、絞りを絞る方向へ、あるいはシャッター速度を上げる方向に向かいます。さっきいいましたように暗所では普通絞りは開放になるから、シャッター速度が速くなるというわけです。暗所では思い切って-0.7から-1.0くらいの補正をかけてみるのもいいかも知れません。

以上をおさらいするとこんな感じになるんじゃないかと思います。

  1. 電柱や柵など、三脚がわりに使えるものを探す
  2. 絞りを開く
  3. マイナス補正をかける
  4. 感度をあげる
  5. 自分は木、自分は木と暗示をかける
  6. 手ぶれも味と割り切る

長刀鉾

ほら、手ぶれも味でしょう?

2006年8月23日水曜日

Mellow Yellow

 毎号買っているデアゴスティーニの『ゴールデン・ポップス』。今月は私にはなかなかに嬉しい選曲で、スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』、そしてドノヴァンの『メロー・イエロー』。以前にもいっていましたが、私はDonovanが結構好きでして、Sunshine Superman、そしてMellow Yellow。ラジオでかかればそれだけで嬉しい曲でありまして、それをこの度改めてCDで聞いて見れば、その出だしの金物の存在感の確かさにうっと圧倒されましてね、音質は高いにこしたことがない。心の底からそう思いましたよ。

Mellow Yellow、こうして書いてみるとわかる、タイトルが脚韻を踏んでいますね。MellowとYellowは頭のアルファベットが違うだけで後は同綴りで、こういうのを見ると私は『不思議の国のアリス』のDo cats eat bats?を思い出してしまうのですが、こうした言語のセンスの高さあるいは言葉遊びめいたものへの傾倒というのは1960年代の特にサイケデリックとかいわれたジャンルの音楽に特に多いように思います。そしてDonovanもサイケデリックの流れの中にある人なんだそうですね。

だからなんでしょう。私、サイケデリックロックだとかがどうも好きみたいなんですよ。以前、映画『プラトーン』の感想で、自分はきっとマリファナ派だとか馬鹿なこといってましたが、この時代に人気のあったサイケデリックサウンド、ある種の酩酊感を伴うような音楽が、どうも私にはぐっとくるようなんです。

Mellow Yellowは、気だるいテンポ、変にほの明るさを感じさせる曲調が特徴で、どうもこうもやくたいもない歌詞が繰り言のようにリピートされるのですが、それが格好いいんだからしかたない。ブルースのシャッフルリズムに乗って、けれどどうにもブルージーとは言い難い曲、けれど聞いている私は自然に揺れて、この巻き込まれ感覚というのがすごく気持ちいい。シンプルで、けれど他にはないというこの感覚は、やはりDonovanらしさというしかないのかと思います。

なんかアルバムで聞いてみたいですね。アルバムもリマスターでボーナストラックのたくさん入ったものが出ているみたいで、けどそのシリーズってどれくらいの枚数が出ているんでしょう。ああ、ここでどうせ買うなら全部欲しい病が出てますね。この性格のせいで、既存のアルバムになかなか手を出せないのです。いかん癖です。いかん癖だと思います。

引用

2006年8月22日火曜日

トムとジェリー アカデミー・コレクション

 子供の頃、夏休みになると朝に古いアニメが放送されるのが恒例で、『はじめ人間ギャートルズ』とか『ど根性ガエル』とか、懐かしい、本当に好きで、毎年この恒例の放送を見るのを楽しみにしていたのでした。そしてですね、忘れてはならないタイトルがありまして、それは『トムとジェリー』。好きでしたよ。内容はというと、実にアメリカらしいどたばたのコメディで、ネズミのジェリーとそのライバルであるネコのトムが、食うか食われるかの戦いを繰り広げるという、文章で書くと結構どぎついですね。でも実際は、ネズミのジェリーのしたたかさがトムを圧倒しましてね、まさしく、あべこべだネコ叩き、てな様相を見せるのでありました。本来の狩る側狩られる側という立場が逆転したアニメでして、私ら子供はもう大喜びで見ていたものでした。

以前、いっていましたね。Amazonがやっているキャンペーン、DVDを三枚買うと一枚が無料になるというやつですが、本命である『チャーリー・ブラウンという男の子』、『帰っておいで、スヌーピー』と併せて購入したのが、この『トムとジェリー アカデミー・コレクション』なのでありました。

いや、懐かしいですね。あのオープニングのライオン。がおーってほえるんですね。いや、本当に懐かしくって、あのテーマソング「トムとジェリー、仲良くけんかしな」がないのは残念でしたが、それで本編の面白さが変わるわけでもありませんから特には気になりません。けど、見てて思ったんですが、私は老いちゃったんだなということに気付かされてしまいまして、ええとですね、私はいつしかジェリーよりもトムに感情移入するようになってしまっていたのですね。

考えてもみてください。トムはですよ、あのうちに飼われている家猫です。そしておそらくは、ただの愛玩動物としてではなく鼠を駆除することを期待されている。とここまで諒解してくださったら話は早い。仕事として鼠を駆除しようと努力する、それも結構な努力しているトムをですよ、あの世界はひどい仕打ちでもって報いるんですね。そりゃジェリーからすればトムは敵ですよ。あらゆる手段で抵抗します。それはいいんです。でもね、偶然からなにからなにまでがトムに対しては逆風です。あの世界ではあらゆるものがトムの邪魔をするように仕組まれていて、見ていて私はトムがかわいそうでしかたがなかったのです。

その点、生き死にの関係しないような話、ほら『アカデミー・コレクション』なら「ピアノ・コンサート」とか(これもちょっとあんまりですが)、そして「ワルツの王様」。「ワルツの王様」はよかったです。正直、これがなかったら私は今になって『トムとジェリー』に幻滅したかも知れない。やっぱり私には、こういう平和的なもののほうが好みのようであります。

DVD

UMD

2006年8月21日月曜日

ゼイリブ

 私の好きな映画、『ゼイリブ』。以前紹介しました『モンスター・イン・ザ・クローゼット』級に好きな映画です。昔、テレビでこの映画が放映されまして、食い入るように見ました。放送されるたびに見て、だって名前だって筋だってしっかり覚えています。いい映画だったわ。ちょっとなんかうらぶれたみたいな雰囲気なんてのが漂っていましてね、私が人に映画をお勧めするときは、『モンスター・イン・ザ・クローゼット』か『ゼイリブ』で決まり。これに『アタック・オブ・キラートマト』が加われば完璧なんですが、ってごめん、『キラートマト』は冗談です(セットで紹介するのは本当なんですが)。

さて、昨日おとついと、プロパガンダに関係する記事において『ゼイリブ』に触れてきました。これ、どういうことかといいますと、『ゼイリブ』という映画が非常によくプロパガンダというものを表現しているなと思えるものですから、どうしても触れずにはおられなかったのです。

主人公がふとしたことをきっかけに手にした不思議なサングラス。これを通して見ると、街中の至る所に隠されていたメッセージがありありと浮かび上がってくるのです。そして、今まで気付くことのなかった敵の姿も! 侵略や支配と聞くと単純に武力であるとか強制力によるものを思いつきがちですが、この映画は違うのです。隠されたメッセージが大衆を動かしている。我々人類は、知らない間に敵の支配プログラムのもとに暮らしており、知らない間に搾取されていたのです。まさしくここにプロパガンダの恐怖がある! とかいうと、まるでこの映画がひとつの思想を軸に展開される、小難しい映画であるかのように感じられるかも知れませんが、そんなこと全然ありませんので安心してください。『ゼイリブ』はまず第一にエンタテイメントであり、そしてそのうちに問題提起や皮肉も含んでいるといったらいいでしょうか。とにかく私の好きな映画でした。最近目にする機会がないのが残念でなりません(もしかしたら、昔のビデオが残ってるんじゃないかな)。

ちょっと余談ですが、『ゼイリブ』の監督のジョン・カーペンターは、あさりよしとおの漫画『宇宙家族カールビンソン』のジョンくんのモデル(?)であります。『カールビンソン』にはまんま『ゼイリブ』をモチーフにした回もあって、こちらもなかなかに圧巻(?)です。ぜひ『ゼイリブ』に併せて『カールビンソン』もご覧になって欲しいものだと思います。きっとその方が両方が何倍にも面白くなると思います。

2006年8月20日日曜日

カサブランカ

  今では誰もが名作と認める映画『カサブランカ』。私も何度も見ましたよ。NHKのBSがちょっと古い映画を集中的に放送していたりしましたが、そういう機会に見て、あの極めて有名な主題曲As time goes byの演奏されるシーンにぐっときて、そしてラストシーンではヴィシー水というものがあるということを覚えました。

さて、ここで重要なのは『ヴィシー水』というのがどういう意味合いを持っているかということです。実はこの映画の作られた時、フランスは敵国ドイツとドイツによって打ち立てられたヴィシー政権に分割統治されていたのでした。そしてこの映画には反ヴィシー政権、反ドイツ的というメッセージが色濃く立ちこめています。件のヴィシー水というのは、反ヴィシー政権(ひいては反ドイツ)を観客に植え付けるための小道具として用いられていたのです。

つまるところ、『カサブランカ』はプロパガンダ映画だったんですね。悪の枢軸ドイツに対抗するアメリカにおいて、国民を鼓舞し、ドイツ討ちてしやまんという思いを高めんとする目的で作られた映画であったのです。こんな風にプロパガンダは簡単に庶民の生活に入り込んできて、私たちはというとそれとわからぬうちに影響を受けてしまっているのです。その有り様たるや、まさしく『ゼイリブ』の世界なのであります。

私がこの映画をはじめてみたときは、もうとっくに第二次世界大戦なんて終わってしまっていましたから、ナチスドイツは悪として断罪されているし、連合国が勝利しフランスは開放されるということも歴史的事実として確定していたわけです。ナチスドイツは悪い奴で、巨悪に立ち向かう主人公はやっぱり正義の味方であるのですよね。がんばれ、負けるな、みたいな気持ちにもなるわけです。ですが、ドイツの評価がまだ定まっていない時期(つまり戦中)にこの映画を見ていたらどうでしょう。多分私は、同じようにがんばれ、負けるな、ナチスなんてこてんぱんだと思ったのではないでしょうか。まあ、戦中ならば日本の軍国少年であったろう私がこの映画を見る機会なんてのはきっとなかったに違いないのですけどね。

今、私たちがこの映画を見ようというときには、すっかり戦争という背景を過去に追いやって、ラブロマンスとして見るのだと思います。戦時下の危機的状況において、逃亡する二人。かつての恋人。揺れ動く心と心、そしてAs time goes by。今ではあり得ないようなきざな台詞がかっこうよくって、ノスタルジーの中にかつての憧れが浮かんでは消えるといった様子で、やっぱりこれはよいものだという気持ちになります。

よいものだから残ったのか、あるいは残ったからよいものなのか。私は前者だと思います。もしかしたら、それまでに触れてきた評価や名せりふとの触れ込みに影響されてのことかも知れないと思いながらも、やっぱりこれはいい映画なんだろうと思います。

2006年8月19日土曜日

ナチ・ドイツと言語 — ヒトラー演説から民衆の悪夢まで

 私はゲッベルスの手腕を大いに認めているものです。ゲッベルスとはナチスドイツの宣伝相であった人物であり、さまざまな手段でもってナチスドイツの思想をドイツ国民に浸透させていきました。その行き着く先が大空襲であったり殲滅収容所であったり、そしてドイツの敗戦であったりするのですが、しかしたとえ結果がそうであったとしても、それらは彼の宣伝の技術の高さをおとしめるものではないでしょう。内容を問わないという但し書き付きではありますが、私はゲッベルスの宣伝技術を買っています。あの技術は使える。だから、私たちは彼の用いた宣伝の手法を大いに知り、学ぶべきものであると考えます。

なぜなら、そうした知識や理解がプロパガンダに抵抗する力になるからです。こういうことをいきなりいうと、こいつ被害妄想なんじゃないかといわれるかも知れないですが、あえていいたいと思います。私たちはプロパガンダとは無縁ではありません。普段何気なく見ているものの中に巧妙に宣伝が紛れ込んでいる。知らない間に私たちは隠されたメッセージを受け取っていて、知らない間にそのメッセージを受け入れてしまっている。私はそうした状況にぞっとします。知らない間に、私の考えが作り替えられていくのです。最初はおかしいと思っていたことが、次第にそういう考えもあるねと変わり、いつの間にかそれが正しいのだと思うにいたる。

これはあり得ることです。本当にあることなのです。

そんなわけで『ナチ・ドイツと言語』を引っ張り出してきました。ずいぶん前に買って、長くご無沙汰していたものですが、読んでみたらやっぱり興味深いなと思わせる内容があって、その内容というのは、ナチスドイツ政権下においておこなわれた宣伝活動とその成果の検証とでもいったらいいでしょうか。プロパガンダが、どのような場で、どのような言葉でもっておこなわれたか。そしてその言葉はどのように受け取られたのか。読めば読むほど、大衆というのはプロパガンダの前に脆いのかも知れないと暗鬱とした気分になれますね。実際気分はもう『ゼイリブ』ですよ。

この本では、ナチスドイツによっておこなわれたプロパガンダだけが取り上げられているわけではありません。反対に、民衆の側にあったアンチナチスドイツの言語(教育、ジョーク、そして夢)も評価されていて、それを見ればあの国全体がナチス思想一色に染まったかのように思える時代が、実はそうでなかったということも見えてきます。けど、良心的な人たちがいて、その人たちが内心反ナチスであったとしても、ナチス化しようとする傾向はとまらなかったということが私にはなによりおそろしく思えるのです。

ジョークについての章に非常に私の心を打つ一節がありました。ちょっと引用してみましょう:

政治的ジョークは[中略]体制への順応にたいする《心理的アリバイ》(H・シュパイアー)としての機能もあったかもしれないという、まことにうがった解釈も出てくる。すなわち、権力からの締めつけに反対して立ち上がろうとはしない反抗の欠落について、深層意識においてひそかに抱かれている自己批判の感情を抑圧し、堪えやすくするためのアリバイかも知れない、というわけである。

心の中ではナチスドイツに反対してるんだけど、その反対を実際の行動に移せないという自分が許せない。そのような人にとっては、ナチス批判のジョークをいうことが、実行力のない自分自身へのいいわけになった。自分は確かにナチスに反対してたんだよという証拠やアピール(とりわけ自分自身への)になったのかも知れない、ということです。

私は自分を恥じます。行動力に乏しく、表立っては声も上げない自分に。そして、そうした自分へのいいわけを用意しているということに、このうえもない恥ずかしさを感じます。そして私のような、声を上げることもしなかったくせに、いっちょまえに反対派を気取っている人間というのも、いわばプロパガンダの共犯であるのでしょう。ここに加えていっておきますが、私は確かにプロパガンダに屈しています。まだそれが正しいのだと思うまではいってませんが、そういう考えもあるねと考えるようになってずいぶんになります。ここでおかしいと思うものに対しておかしいといえる位置まで戻れなければ、完全敗北でしょう。

『ナチ・ドイツと言語』は、いわゆる岩波用語で書かれているので非常に取っつきにくいのですが、内容は抜群に面白いです。こういうことを一般にわかりやすく説ける解釈者が出ればきっとよいのにと思うんですが、なかなか思うようにはいかないものだと思います。

引用

2006年8月18日金曜日

The Rider Tarot Deck

  よく人のことを見ているね。私はそんな風にいわれることが多いのです。といっても、じろじろ眺めまわしてますっていうわけじゃないんですよ。身近にいる人の人となりをそれとなく察知して把握するという能力に長けているといわれることが多いのです。でもこういうのって、いろんな職場を点々としながら働いている人なら、誰でもやっていることですよね。つまりひとつ職場に長居してこなかった私もその例に漏れず、職場の雰囲気、周囲の人間模様の把握に努めてきたんです。でも、多分私の場合それだけじゃありません。これまでの奇妙な職業体験のなかにぽつりとある占い師という経歴。これが利いているのかと思います。

ただただ人を待って、なんの因果か向かいに座ったというだけの初対面の人にずけずけと話をするというのが占い師であると思うのですが、これって正直気分は果たし合いでした。だってわかるわけないじゃんよ。知り合いでもない、名前さえも知らないんです。けどわからないとはいえないのです。だから、カードの出た目を必死に読んでああでもないこうでもないと検討して、おそらく現状にもっともふさわしいと思われる解釈を出してみる。その反応を参考に読みを深めていく。最初の一言で相手は味方にも敵にもなるのだから、本当に緊張しましたね。

さて、私はタロットを使う占い師だったので頼りはカードの出た目であったわけですが、でもカードと同じくらいに頼りになるものがありました。それは、向かいに座っている依頼者その人です。服装、顔つき、しゃべりかた、しぐさ、あらゆるものが雄弁にその人自身を物語ります。そうなんですね。やっぱり占いの出発点は本人なんです。本人の人となりを出発点として、カードを経由し、そしてその人の中にある答えに到達しようというのが、私のタロットであったかと思います。そういう意味では、占いというよりももっとありきたりな、自分自身を見つめ直そうというセッションであったのだと思います。

とはいえ、依頼者が私に心を開いてくれるかどうかが最初の分かれ道、そういう意味ではやはり最初の一言というのは大きいのですよ。占って欲しいことを最初に聞き取りしますが、どうしても洗いざらいにというわけにはいきません。だから、与えられた情報に本人の人間を加える必要があって、つまり信頼を勝ち取れるかは最初の人間観察の結果に大いに影響されるといっても言い過ぎではないと思います。

さて、以上は余談。私がはじめて買ったタロットはSwiss 1JJという伝統色の強い、けれど独自性もあるというデッキでした。けど、今占いに使うとしたらWaiteを選ぶんじゃないかと思います。数札がトランプ同様ただの数札である1JJと違い、Waiteは数札もイラストで表現されているから大変にカードの意味をつかみやすいんです。なにしろ私はもう何年もちゃんとは占っていませんから、ここで普通の数札を見せられてもピンとこなくなってるんですね。だから、Waiteが便利です。

一時期はミニチュアのWaiteを持ち歩いていました。頼まれれば、どんなときにでも占えるようにとの配慮ですが、最近は私が占いやってたということを知っている人もまれになりましたから、持ち歩かなくなって久しいです。去るものは日々に疎しといいますが、カードにおいてもそれは同様、占わなくなった私はだんだんと鈍くなってきていて、以前のようにはもう占えなくなってしまっています。

けど、それでも日常生活には充分すぎるくらい詳細に人となりを観察できるのは、あの時の経験があってのことなんだろうなと思います。なんでもやっておくことは助けになるんだなと思います。

2006年8月17日木曜日

編集王

   実は私は子供の頃からあくの強い漫画であるとかが嫌いで、熱血ものも嫌いで、スポーツものも嫌いで、とにかく敬遠していたんです。でもいつの間にか好みが変わってしまっていたようです。スポーツものには相変わらず好き嫌いが強いのですが、でも今好きで読もうという漫画はあくの強いものが多く、今日本屋で見つけた文庫、思わず手に取って第3巻を一気に読み通してしまって、そのまま書店にあっただけをまとめて買って帰ってきた漫画『編集王』なんてのは、あくの塊みたいな漫画で、しかも暑っ苦しい漫画で、でもちょっとでも見てしまうともう目が離せないという漫画で、面白いんです。もう馬鹿で馬鹿でしかたがないような漫画なんですけど、面白いんです。

実は私は、この漫画を連載時にちょっと読んでいたんです。バイト先、普段めったにこないやつが読み終えた雑誌を控室に捨てるようにして残していく。そうした雑誌は皆の共有物として供覧されて、そうして私は『編集王』を知って、いやあすごいインパクトです。土田世紀の書き込みの緻密さに圧倒されるは、主人公カンパチの熱さ、暴走っぷりにたまげるは、それであれでしょう。なんでか知らんけどいっつもカンパチは裸で、というのはたまたま私がその時読んでたのがマンボ好塚の話だったせいなんですが、けどとにかくなんかカンパチが丸裸で走ってるという印象はずっとぬぐうことができなかった。なので私にとって『編集王』とは、漫画編集男カンパチが裸一貫情熱のあらんかぎりをもって暴走してみせる漫画であったのです。

ちょっと真面目な話。私はこの漫画を読んで驚いたんです。これ、漫画雑誌を作ろうという編集が主役の話であるのですが、それが妙に赤裸々で、夢も希望もないかのようなあからさまな描きよう。ええ、当時私は学生でしたから今に比べてもなお数段甘い夢想に生きていて、そうした私らに突きつけるかのような世知辛い会社社会の描写はどうにも受け入れがたい理不尽さ。それこそ自分たちの業界の恥部をさらすようなことするなんてものすごいこと考えやがるなあと、ほとほとあきれるようで、けれどそれでも描きたいものがあるんだというような勢いというのも同時に感じられるから、たとえ最後に主人公が勝たなかったとしても、苦い現実を飲み込まざるを得ないのだとしても、先を楽しみに楽しみに読んでいた。スリリングだったんですよね。そうかあ、こんなふうにひた向きに漫画に情熱そそいだ編集者があったから漫画の隆盛があったんだ、って勘違いしてた。うん、この勘違いというのは時代背景の話で、私当時はこの話が懐古話だと思ってて、それこそプロジェクトXみたいな感じなんだと思ってたんですね。でも、そうじゃありませんでした。過去のことなんて描いてなかったんだなと、今、一から読み直して思いました。

すまじきものは宮仕といいまして、この漫画見てたら本当にそんなことを思います。善かれと思ってやってることを頭ごなしに潰す人があって、それは結局自分が理解できないからであるとかそういう現実は嫌というほど見てきて、この漫画にもやっぱりそういう話はたんと出てくるから無闇に落胆したり、変にストレスをためてみたりと、多分この漫画の対象読者であったろうサラリーマンなんかには現実味を感じられる話も多かったのではないかと思います。特に若い人には、共感できる話が多いのではないかと。でも、結局これまで着々と作り上げられてきた現実の重みというのは、一介の新人ごときに動かせるようなものでなく、だから自分の思いをありったけに裸で疾走するカンパチの姿が輝いて見えるんじゃないか。あんなに不器用で、思い詰めたら一直線の単細胞青年がそれこそちょっとしたヒーローに見える瞬間があって、そんなときに私は、こざかしいこといってるんじゃなくて、本当は自分も駆け出したいのかも知れないなんて思うのです。

でも、この漫画のヒーローは常勝ではありません。正義でさえありません。社会において一方的な正義はなく、カンパチの側から見れば理不尽でしかないことも、反対側から見れば一定の意味を持っているということが描かれていて、そういった意味では煮えきらず、すきっとせず、苦さの広がるようなこともままあって、でも私はそれだからこそこの漫画は魅力的なのだと思っています。勝ち取ったものといえば、ほんのささやかな仲間内の内心の実質、けれど大勢から見ればなんの意味もない。そうしたことは私たちの暮らす日常にもたくさんあって、けれどカンパチのように脇目も振らずに走れるわけでない私には、そのささやかな勝利さえもつかみ取れない。そうした頭が大きくなってしまった人には、一見馬鹿みたいなカンパチが変にうらやましく見えるのかも知れません。彼同様に、やっぱり自分も駆け出したいのだろうと思ってしまう、そうした危険な魅力をはらんだ漫画が『編集王』なのであります。

  • 土田世紀『編集王』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 土田世紀『編集王』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 土田世紀『編集王』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 土田世紀『編集王』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊
  • 土田世紀『編集王』第1巻 (ビッグコミックス ワイド版) 東京:小学館,2000年。
  • 土田世紀『編集王』第2巻 (ビッグコミックス ワイド版) 東京:小学館,2000年。
  • 土田世紀『編集王』第3巻 (ビッグコミックス ワイド版) 東京:小学館,2000年。
  • 土田世紀『編集王』第4巻 (ビッグコミックス ワイド版) 東京:小学館,2000年。
  • 土田世紀『編集王』第1巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 土田世紀『編集王』第2巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 土田世紀『編集王』第3巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 土田世紀『編集王』第4巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 土田世紀『編集王』第5巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 土田世紀『編集王』第6巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 土田世紀『編集王』第7巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 土田世紀『編集王』第8巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 土田世紀『編集王』第9巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 土田世紀『編集王』第10巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 土田世紀『編集王』第11巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 土田世紀『編集王』第12巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 土田世紀『編集王』第13巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 土田世紀『編集王』第14巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 土田世紀『編集王』第15巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 土田世紀『編集王』第16巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1997年。

2006年8月16日水曜日

ダーティペアの大盛況 DVD-BOX

『ダーティペア』、DVDが出ているから買えば見られるのはわかっているけれど、正直今の私には厳しいなあ。でもまた見たいなあ。というか、あの島津冴子演ずるユリの活躍をまた見たいものだなあと思います。

以前こんなことをいっていましたが、実際私はDVDを買ってはいなくて、けど今度こそ買いそうな気がします。というのはですね、DVD-BOXが出るんだそうですよ。テレビシリーズにOVA展開された版を加え、さらに『ダーティペアFLASH』も収録! わお、FLASHは別売りにして欲しかったかもーっ! って、これFLASHのファンが聞いたら怒りますね。

でも、FLASHも入っていて定価29,400円(税込)なんだから安いよなあ、なんて思います。DVD10枚組。一枚あたり2,940円(税込)。古いアニメだからこんなものなんでしょうか? でも収録時間約1,325分で三万円を割るというのは、かなり低価格であると思えます。加えてアマゾンだと25%オフで、22,050円(税込)。ああ、これは買いかも知れん。この価格なら、心機一転気分で『FLASH』も見ようかねなんて思えます。

2006年11月にはDVD-BOXだけではなくて、OVA『ダーティペアの大勝負 ノーランディアの謎』、『謀略の005便』も、こちらはバンダイビジュアルから、発売されるとの話で、これが安かったら嬉しいなあ。これにワッツマン教授出演の劇場版を加えたら、映像作品としてはコンプリートになるのかな? いずれにせよ、好きだったアニメがこうして続々リリースされるとなると、一ファンとしては嬉しくて動転しそうであります。バンダイビジュアルのはとりあえず置いておいても、DVD-BOXは買っちゃおうかなあ。初回生産限定商品という表示が私をしてそういう気分にさせるんですよね。正直ちょっとがんばりたいと思います。

実をいいますと、もうひとつ、別の懐かしアニメのDVD-BOXが出るという話も聞いていまして、それも11月に出るんだそうで、なんでこんなに一時にまとめて出るのー。とかいいますが、こちらに関しては本当に欲しい。でも『ダーティペア』も見たい。まとめて両方買うくらいの予算は普通に組めるけど、かといって余裕があるわけでもないし。ああ、なんというジレンマ!

とりあえず、『ダーティペア』の予約締め切りまでは後一月半ほどありますから、ゆっくり考えたいと思います。

引用

2006年8月15日火曜日

アームストロング砲

  『アームストロング砲』、司馬遼太郎の短編なのですが、これがまたべらぼうに面白い。時は幕末、佐賀は肥前鍋島藩において購入、研究されたイギリスの新兵器がアームストロング砲なのですが、日本という東洋の小国のまたその一藩に鬱屈するかのごとく垂れ込めた新技術新知識への渇望がひりひりするように肌にさして、はらはらもすればわくわくもさせて、私は正直『アームストロング砲』には期待していなかったのですが、結果的に大いに印象に残る一編となってしまいました。そういえば、私のはじめて触れた司馬遼太郎といえば『アームストロング砲』に同じく短編集である『人斬り以蔵』。一番頭に収録された『鬼謀の人』にアームストロング砲をもって彰義隊を壊滅させる場面が出ていて、こうして司馬遼太郎の小説は、短編長編を問わず互いに関わりを持ちあって、その時代時代を生き生きとさせてやみません。

しかし幕末もののなんと面白いことでしょうか。人には時代の好き好きというのがどうもあるようで、私の父は戦国から江戸にかけてが好きな模様。対して幕末は好みでない。ところが私は戦国にはどうもピンとくるところがなく、幕末あたりが好みのようです。多分私が幕末を好むのは、学問者の活躍する場面というのが多かれ少なかれ出てくるからなのだろうと思います。世界の新技術新知識を咀嚼吸収しようと学問に打ち込み、そして時代の流れに引き寄せられ、あるものは活躍を見、またあるものは流されるままに消えていく。そうした悲喜こもごもを合わせ、幕末という動乱の時代に生きた人たちの生がいとおしくてたまらない。そんな私ですから、『アームストロング砲』はまさにピンポイントで面白さのつぼに入ったのでしょう。面白かった。本当に面白かったです。

面白かったといえば、司馬遼太郎の大砲関係の話はどうにも面白くできているのか、『人斬り以蔵』に収録の『おお、大砲』もどえらい面白かった。思いがけない展開の妙に、そして不思議な諧謔味。そして最後の一言、

「侍のころは、ばかばかしいことが多かったな」

幕末というのは、古びて形骸化した価値の馬鹿馬鹿しさが、来るべき時代に追放されようとした時代であったのだと思います。そしてアームストロング砲は、まさしく世界の最先端が固陋を打ち破る一弾を放った、この時代を象徴するかのような兵器であったのだろうと思います。

引用

  • 司馬遼太郎『人斬り以蔵』(東京:新潮社,1969年;改版:1987年),218頁。

2006年8月14日月曜日

Le Grand Tango

 ピアソラがブームになって、弦の奏者も管の奏者もこぞってタンゴを取り上げるようになって、おしゃれな雰囲気、そして情熱的な様がとにかく受けたんでしょう。テレビでも演奏会でもとにかく聴いたという、そういう時代があったのですが、例によって私ははやりには抵抗するたちですから、ピアソラを聴くようになったのはそれから数年後のことでした。ちょうどピアソラのアルバムがいい感じに値崩れしたという事情もあったのかと思います。ヴァイオリンの名手ギドン・クレーメルの演奏するピアソラを安価に一度に買ってきて、一時などは本当にこればっかり聴いていました。大学の行き帰りの車内、当時はまだポータブルCDプレイヤーを使っていて、ディスクをいちいち取り換えるのも面倒くさいからと、まさしくピアソラのヘビーローテーション。その頃はまっていたライトノベルのBGMにピアソラが妙にはまって、今でもピアソラを聴くとその本を思い出すことがあるというのは余談。いずれにせよ、耳に残って、記憶にしっかり染みつくほどに聴いたのでした。

しかし、これらアルバムに収録されているのはそれこそどの曲もよいのだけれども、今日たまたま聴いたLe Grand Tangoの素晴らしいこと。最初は非常に落ち着いた、むしろ陰鬱といっていいような出だしを見せるのに、途中ヒステリックにかきむしるかのような高揚を見せて、しかしそれで破綻するような心配がまったくありません。畳み込むように繰り返されるフレーズもひしひしと迫ってくるようで、かといってどこかに落ち着きも湛えているから聴きやすいのだと思います。うまいなあ、いい曲だなあと、改めて感じ入ったのでした。

思い返せば、ピアソラブームの立役者といえば、ヨーヨー・マの存在も確かに大きかったのだけど、ギドン・クレーメルでありましたね。それまでクラシックを聴くような層には知られていなかったピアソラを取り上げ、一挙クラシックジャンルにおけるスタンダードといった位置を確保しただけでなく、一般層にまで浸透させてしまった。その最初期のインパクトがLe Grand Tangoを収録するアルバム『ピアソラへのオマージュ』だったのだと思うとその影響力に舌を巻きます。しかし、聴けばやっぱりわかるのですね。すごいです。こりゃ確かに人心を引きつけますよ。タンゴ界の異端であったピアソラは音楽の大舞台に躍り出て、ひとつのジャンルとして未だに確固たる地位を保ち続けています。それはひとえにピアソラの功績であるとはいえ、その足がかりを築いたのはやはりその音楽を紹介した演奏家の力もあってのことなのだと思います。

そう思えば、このアルバム、この演奏というのは、演奏家と作曲者の共同制作によって生み出された極めて幸福な結晶であるのでしょう。実際、名盤であろうかと思います。

2006年8月13日日曜日

脱走兵

 私はギターを弾くのですが、そもそもなんでギターをはじめようと思ったのかというと、歌の伴奏をできるようにしたいという思いがあったからなんです。歌の伴奏というのはどういうことかというと、誰かのバックでというのじゃなくってですね、自分が歌うときの伴奏です。私は自分のつまらない人生を送るにあたって、ささやかな楽しみとして歌くらいは歌いたいと思っていたんです。そしてその伴奏をしたいという一心でギターを手にしました。当初歌いたいと思っていた歌というのは、フランスの歌、シャンソンでした。当時私はフランス語を結構熱心に習っていて、フランス語というと歌で言葉を覚えましょうなんていう風潮があるものですから、とにかくいろんなフランスの歌に触れる機会があって、そうして知ることになったのがボリス・ヴィアンの『脱走兵』でした。私はこの歌を、ギターを持ってかなり初期の段階から歌っていて、そして最近になって改めて歌い直そうと思うようになったのです。

歌い直そうと思ったきっかけというのは、今の社会状況に一言申したい、とかそういう理由ではまったくなくて、実に単純な話、最近ギターの技術があがってきたから、ちゃんと伴奏らしい伴奏で歌えるようになったかなと試してみたというだけの話なんです。そう。確かに技術はあがっていました。それっぽく歌うことができるようになっていて、それこそ以前はギターに神経をもっていかれていたのが、歌に集中して歌えるようになっているから、歌もよくなっているのではないかと思います。なんでも続けるということが大切なのだなあ。改めて実感しています。

さて『脱走兵』という歌ですが、この『脱走兵』という邦題は微妙に間違っていまして、もともとのタイトルはといいますとLe deserteur。辞書で調べると確かに脱走兵という訳語ものっているのですが、それよりも別の訳語である裏切り者であるとか、あるいは少しひねって懲役拒否者とか、そういうタイトルの方がより実態にそぐうのではないかと思います。実際、『懲役拒否者』というタイトルで紹介されているケースもありまして、つまりこの歌の主人公はまだ兵隊になっていないわけですから、脱走兵というのは本当はちょっと変だという話なんです。

大統領閣下。召集令状を受け取りました。けれど私は戦争にいきたくありません。誰も殺したくありません。今まで戦争の嫌なところを散々見てきました。だから私は逃げ出します。フランス中を回りながら、戦争にいくなと説得して回るつもりです。私が邪魔なら、どうぞ射殺してくださいますよう憲兵にご命令ください。

というような内容の歌です。しかもこの歌、戦時下フランスにおいて発表されたものだから、ばっちり放送禁止になっているのだそうで、こういうエピソードを聞くと、歌が社会にしっかりと関わりを見せていた時代があったのだと、歌に社会情勢を変えうる力があると信じられていた時代があったのだと、なんだかすごく不思議な気分になります。そうなんですよね。今は歌は人生のささやかな楽しみや慰めのためのもので、社会を変えうるなんてとんでもない。そもそも政治的ななにかを歌に求めようだなんておかしいよ、という時代で、けどそうした歌からは実感というものも抜けていくようで、ありもしない夢のような、幻のような愛や恋やを歌って、心に届くところは少ない。確かにその方がおしゃれかも知れないし、時代にはあってるのかも知れないけれど、歌の本来持っていた力というのは不当に弱められているのだといわざるを得ないのかも知れません。

もちろん、そういう表面的な歌はほんの一部に過ぎなくて、そうしたものを越えた先には豊かな歌の世界が今もあるということは諒解しています。けれど、それらは一般の耳目に届くようなところまで浮上してくることは少なくて、そういう点から見れば、かつて社会の一端を担っていた歌はその役割をおりたのだと思わざるを得ないのです。

ボリス・ヴィアンの歌う『脱走兵』は、なんだか飄々とした感じの歌い方も相まって、独特の味わいを持っています。内容こそはプロテストソングですが、これを聴いて異議申し立ての気炎を即座に感じるということは難しいのではないかと思います(特にフランス語のわからない私たちにとっては)。けれど、そうした歌いぶりのなかには確かに実感がともなっていて、そのリアルな情感があったからこそこの歌は今にも残っているのだと思います。歌は、表面的な音の現れを越えた先に真実をはらんで、そしてよいものはきっと残るのだと、そんな風に思うのです。

2006年8月12日土曜日

デュープリズム オリジナル・サウンドトラック

 これこれ、これですよ。左の男の子がルウ、右の女の子がミント。『デュープリズム オリジナル・サウンドトラック』がついに再販されて、やっとまともな価格で手に入るようになりました。しかし嬉しいですね。自分の好きで聴いていて、人にも勧めたいと思ってきて、そうしたものが普通に手に入るようになりました。ああ、嬉しい。本当にありがとう、スクウェア・エニックス! と大絶賛したい気持ちでいっぱいです。

さて、実は『デュープリズム』再熱の兆しです。といっても私の個人的な再ブームなのですが、というのはですね、なんと『デュープリズム』をモチーフにした同人ゲームがあるというのを最近知ったのですよ。その名も『DuoPrincess』。わーっ、これは買わなくっちゃだわ! 決断したら早いのが私です。購入しました。今日発送されたそうです。明日明後日には到着するでしょう。楽しみです。

しかし、同人の世界もすごいですよね。昔は漫画やレターセットなどのグッズくらいしかなかったのが、今はCDからゲームから、さらには実用ソフトまであったりして(漫画に特化されたドローソフトが出展されてるのを見たときには、ちょっと感動した)、もう本当、すごいの一言ですよ。クオリティもあがっています。同人なんてどうせエロでパロディでなんて思っている人もいるかも知れませんが、そりゃ偏見ってものです。そりゃエロでパロディもたくさんありますが、そうした中にもよいものはあり、そして当然、そうしたカテゴリからはずれたところにもよいものはたくさんあります。私は制作には参加しない、いわゆる読み専であります。それも、特に熱心とはいえない参加者です。そんな私ですが、おりにこうした対象作品への愛が溢れるものに触れれば、いやおうなしにテンションがあがります。その対象が私にとっても愛しいものであればなおさら! ああもう、『DuoPrincess』を知ったときには、あまりのあまりでテンションが天井を突き破らんばかりにあがって、勢いでサントラまで買おうと思ったら、こっちは品切れしてるみたいで買えませんでした。

自分の消費動向がわかるエピソードですが、その根底にあるのはやはり作品への愛であろうかと思います。その作品というのは『デュープリズム』。何度だっていいます。私はこのゲームが好きで好きで好きで、このゲームの登場人物たちが好きで好きで好きで、そして音楽も好きで好きでしようがないのです。明るさがありギャグがあり、そうかと思えば悲しさありシリアスありのこのゲームに出会えたことを、私は本当に幸運であったといって恥じるところがありません。

音楽

ゲーム

2006年8月11日金曜日

D-LIVE!!

  私が楽しみに読んできた漫画『D-LIVE!!』がついに完結です。全然意識せずにいたのですが、もう三年も続いていたんですね。そりゃあ、斑鳩も卒業するわけだわ。ってなんだか間違った感想のような気がしますが、けど本当に思いがけない早い完結で、正直あともう少し続くものだと思っていたんですよね。師を乗り越え、数段ステージがあがったところで活躍する斑鳩の姿があって、そして終わるものだと思っていたら、確かに後日談はあったとはいえそれはあくまでもさわり程度であって、だからちょっと残念かなあと。でも、きっとこれでよかったんだと思います。ずるずると引き伸ばすのではなく、すっぱりと終わらせて、相も変わらず斑鳩は元気にやってますよというところを匂わせて、これまでの話が躍動感に溢れて面白いものばかりだったから、この先の斑鳩の活躍も見えてくるようで、これはこれでよいラストでしょう。

漫画についての感想は、以前のコミックバトン企画で答えたものに変わらず、やっぱり私はこの漫画を秘密のヒーローものと考えてるんですね。人知を超えたスーパーな存在であるヒーローが、なぜだか普段は身を普通の人間にやつして暮らしている。ところが、一旦ことが起こればひた隠しにしていた実力をあらわにして、悪い奴らをばったばった倒してみたり、誰もがさじを投げた困難な作戦をクリアしてみたりと、その姿が格好いいんですよ。斑鳩に関しては、スーパーマン以来の伝統である普段はさえないという要素まであるものだから、活躍時とのギャップがまたすごく、だもんだからよりいっそう爽快に感じられるというものなのでしょう。もう、大好きです。何遍でも読み返して、何遍でもわくわくすることのできる漫画であると思います。

以前にもいっていましたとおり、私の好きなタイプの話はシンプルな短編です。だから正直ラストへの大きな流れには乗りきれないところもあったかも知れません。でもさ、それでも基本的には小さな単位のミッションの積み重ねでできているからそんなに駄目ということもなかったんだけど、 — だけど、一番好きなミッションというのが潜水艦救助ミッションであるとか、ボス猿決定戦だとか、やっぱりそういう小ミッションに落ち着くというのが私らしいんじゃないかと思います。そして、やっぱり春日委員長編ですよ。鈴鹿8耐の興奮があり、そこに乗るかたちで話を膨らませてみせた委員長をともに逃亡しようという話。よかった。すごくよかった。特に最後の、なにか大切なところをわかりあえたというような対話がよかった。そんなだから、ラストエピソードでの委員長の扱いはひどいよね。とはいっても、彼女の役割をきっちりはたしたという感じもするから、あれはあれでありなんですが。

私が大きなミッションがあんまり好きな話でないというのは、流れが大きすぎて乗り切れないというだけではなくて、少年誌的微温があんまりに強すぎるように感じられるからなのだと思います。基本的に勧善懲悪で、正義は必ず勝つ話ばかりです。だから、時には正義側があまりに有利になりすぎていて、これ、主人公サイドが超S級エージェントの集まりであるという設定があるからなんとか破綻せずにいられただけで、ある意味ライバル不在といってもいい展開でした。そういうのは特に大ミッションにおいて顕著だったから、私がこうした話にあまり乗り切れないというのも当然だったのかと思います。

けど、ひとつひとつのミッションは、問題とその解決への流れに盛り上がりを演出して、本当によくできていました。だから、私はなんのかんのと不満も口にしながら、それでも結局は好きで読み続けていたのだと思います。『ARMS』に比べればスケールもちょっと小さな地味な話だったかも知れませんが、けど私はこの漫画、結構、いやかなり好きです。いつでもまとめて読めるよう待機させてあって、どこから読んでも面白い、いつ読んでも楽しめる、本当にいい漫画であると思います。

  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第1巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第2巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第3巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第4巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2003年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第5巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第6巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第7巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第8巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2004年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第9巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第10巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第11巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第12巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2005年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第13巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第14巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。
  • 皆川亮二『D-LIVE!!』第15巻 (少年サンデーコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。

2006年8月10日木曜日

機動戦士ガンダム

声優の鈴置洋孝さん死去 「ガンダム」のブライト艦長役

2006年08月10日19時17分

 鈴置 洋孝さん(すずおき・ひろたか=声優)が6日、肺がんで死去、56歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日しのぶ会を開く予定。連絡先は東京都渋谷区桜丘町29の10の賢プロダクション。

 「機動戦士ガンダム」のブライト艦長などを演じたほか、舞台のプロデュースも手がけた。

asahi.com:声優の鈴置洋孝さん死去 「ガンダム」のブライト艦長役 - おくやみ

声もありません。以前、『ガンダム』でマ・クベを演じていらっしゃった塩沢兼人さんが死没されたときもショックで、なにかぽっかりと空虚な気分で胸がいっぱいになったことを覚えていますが、今度のニュースを見てもやっぱりそうした感じがしまして、56歳とのことですが、早いですね。まだまだじゃんとか思いますが、人生とはままならないものですね。

これまでにも、なんべんもいってきたように、私はまさしくガンダム世代でありまして、ガンダムのアニメを見て、プラモデルを作って、小説も読んだ、ゲームもした。そんな私たちにとって、ガンダムというのは間違いなく特別なタイトルで、そしてその特別なタイトルにこの鈴置洋孝という人は関わっていた — 『ガンダム』の物語には欠かすことのできない人物、ブライト・ノア役をされていたのが鈴置氏でした。

ガンダムが登場して、もう二十五年が経ったのかな。なんだかあっという間で、振り返ったらすぐそこに少年時代、わくわくしながらテレビの前に陣取ってわいわい見ていた情景を生々しく思い出すくらいに鮮烈で濃厚で、けれどたとえ記憶がどんなに鮮やかであったとしても、時間は経っていたのですね。青年は壮年になり、そして旅立たれる方もひとりふたりと。こうした悲しみはおそらくこれからが上り坂でしょう。悲しいことだけれども、受け入れなければならない現実なのでしょう。

にしても、56歳は早すぎると思います。私はこういう人たちは死なないと思ってるような節があるからなおさらで、受け入れて納得をするにはまだもう少し時間がかかるでしょう。ゆっくりと偲びながら、だんだんと受け入れていくのだと思います。

BANDAI CHANNEL / バンダイチャンネル

引用

2006年8月9日水曜日

ラディカル・ホスピタルよりぬきキャラクターズファイル

 私のひらのあゆ初遭遇はまさしくこの『ラディカル・ホスピタル』でありまして、衝撃でした。私の購読している『まんがタイムラブリー』に突如あらわれたかと思うと、それがもう面白いのなんのって。私はそれまでは『ラブリー』一誌しか買っていなかったのですが、『ラディカル・ホスピタル』求めて他誌まで買いはじめるようになって、そして今に至る。大量の四コマ漫画誌に埋もれるような生活を送るきっかけとなったのは、間違いなく『ラディカル・ホスピタル』との出会いであったのです。

そして、その『ラディカル・ホスピタル』の単行本は11巻を数え、さらにはよりぬきまで出た。ああ、よりぬき。魅惑の響き。最近はよりぬきってあんまり聞かないですけど、昔は結構ありましたよね。うちにも『よりぬきサザエさん』とかありましたよ。あんまりに大量に単行本が出たせいで、途中から知ったという人に敷居が高くなって、よりぬきというのはそういう人への救済なのだと思います。いわばベスト盤。今からアルバム全部を集めるのはしんどいけど、ベスト盤なら欲しいなあ。そういう需要に応えるのが『ラディカル・ホスピタルよりぬきキャラクターズファイル』であると思います。

ベスト盤だから、既刊を全部揃えているよー、なんていう読者にはちょっと不足かも知れません。そりゃそうですよね。単行本に載っていないようなのが収録されたら、その数ページのために買わないといけないはめになります。それじゃそれこそ、ベスト盤に新テイクだとか未発表曲が収録されているようなもので、だから私はこの仕様は結構良心的だと思います。って、既刊全部そろえている私がなんで知ってるの? 簡単な話です。買ったんです。既刊全部揃っているというのに、買ったんです。しかたない、マニアだから。本当にマニアというものはしかたがないと思います。

私はタイトルに『キャラクターズファイル』とあるから、てっきりそれぞれのキャラクターに特化したような話を出していくのかななんて思っていたのですが、実際には普通のハイライト集みたいになっていたのが意外でありました。キャラクターの紹介とかもありますが、それもあんまりガツンとはこない感じかな。全体に薄味といっていいと思います。

けど、薄味で多分正解です。だって、私らみたいなのはコアな部類であって、こういう連中に満足行くように作ったら、一見さんには正直きついでしょう。帯にもあります。ラディカル・ホスピタルを初めて読む人へのガイドブックです。よりぬかれている漫画は実際結構悪くないバランスで、十冊を超える既刊からよくうまいことこれだけ抜いたなと思いました。そりゃ人によっては、ええーっ、なんであの話が入ってないの? みたいなこともあるかも知れないけど(私にとっては「コアラよ」がなかったのが残念)、でも結構うまい取捨選択であったと思います。でも、時系列や話のつながりをまったく関係なしに抜いて並べてなんらおかしいと思わせないのは、それだけ一回一回の話が独立して機能しているという証拠なんでしょうね。読む人にも無理させず、毎回のテーマを理解させつつ、大きなストーリーというのもないわけではないという、このマルチな読ませかた。やっぱりよくできた漫画だなあと思います。こうしたベスト盤の成立することが、逆に『ラディカル・ホスピタル』の完成度の高さを表してるのかもなあと思ったりしたのでした。

ともあれ、とにかく面白い漫画であると思います。本格的に読みたい人は既刊を一括でいっていただいて、とりあえず雰囲気を知りたいわという方はよりぬきで楽しんで、というのがいいんじゃないかと思います。どうせマニアになれば、全部買うんだし。って、そういうのって私だけですか?

余談

「二人の医局」が収録されてたのはちょっと嬉しかったなあ。好きなんです、あの話。

引用

2006年8月8日火曜日

ミス&ミセス

 私にとって阿部川キネコとは、『明智クン!!』の作者であり、『辣韮の皮』の作者であり、『WAKI WAKIタダシさん』の作者であり、こうした漫画の作風こそが阿部川キネコらしさと思っているから、『ミス&ミセス』には驚きました。というのは、以前『お菓子な片想い』で書いたときの出だしでありますが、本当にこれを雑誌に見つけたときは驚きました。いや、これはちょっと事実を正しく伝えていませんね。最初見つけたときには阿部川キネコとは気付かなかった。地味だけどいい感じの漫画よねなんて感じで読みはじめて、そこで初めて作者が誰か気がついた! ええーっ、阿部川キネコなの!! やられた。正直やられたと思いました。

でも、本当にすごいよね。タッチも雰囲気もがらりと違えて見せて、これ、違う名前で描いてたらどれだけの人が阿部川キネコと気付くんだろう。それくらい違うんですよ。正直、悪乗りの粋に突入しているとは思いますが、あんまりに鮮やかだからそれが全然嫌な感じがしないんです。やられたーって思いながらも、そのやられた感がすごく嬉しい。もうすっかりだまされましたわーって喜んでいるような始末で、さらに嬉しいのが、漫画としても実に面白いというところでしょう。いわゆる主婦向けを装いながら、その端々に阿部川キネコ的毒を仕込んでいるから、二重三重に面白い。この漫画が連載されている間は、本当に読者を楽しませるのが上手だなと感心しっぱなしでありました。

ジャンルとしてはなんになるんだろう。パロディ? は絶対ないとして、やっぱり女同士の友情ものと見るのが一番素直な見方なんだろうと思います。タイトルがそうと示すように、未婚者と既婚者の女性二人が主人公で、それぞれに違った生活、価値観を持ちながら、しっかりと友人関係を築いているのです。その二人の関係がすごく自然で、ありそうな感じで、それでまた二人を取り巻くできごと、婚家との関係とか、二人の他の友人とか、そういうのもまたありそうな感じで、なんだか考えさせられたり、ただただ面白かったり、そして最後にはちょっとじんとしてみたりとか、ええいどこまで真っ正直に描いてるかわからん阿部川キネコで感動なんてしてたまるものか、なんて突っ張ったりもするんだけど、だって感動しちゃうのはしかたないじゃない。本当に、懐の深い作家だと思います。

さて、私は『ミス&ミセス』以外の漫画も知っていて、それでこれに出会って、わあこの漫画すごくいいわ。阿部川漫画の中でランクをつけるなら、最上位にこれを置いてもいいなあというくらいに好きなんですが、もしですよ、『ミス&ミセス』が阿部川キネコ初遭遇だったらどうでしょう。私は多分阿部川キネコの前歴を知らなくても『ミス&ミセス』を好きになったと思います。ここで私の習性発動。きっと阿部川キネコ既刊を集めだすでしょう。問題はここですね。果たして『ミス&ミセス』しか知らなかった人が、この人の基本スタイルに出会ったときの衝撃ってどんななんだろう。

私はもはやそのショックを感じることはありませんが、人によれば愕然としたりするのかも知れませんね。そう思うと、どちらから入ってもサプライズだなあ。おいしい漫画だなあなんて思ってしまいます。

単品でもおいしい。他と合わせてもおいしい。よい漫画です。

  • 阿部川キネコ『ミス&ミセス』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。

2006年8月7日月曜日

本当にあった読者の最強ハプニング

  私は四コマ漫画をよく読みますが、それでもあえて手を出さないジャンルがあるのです。それはなにかといいますと、いわゆる実話系といわれるジャンルで、読者から寄せられた体験談をもとにして構成された、赤裸々体験談を漫画化したものといえば伝わりやすいかと思います。なんでこれには手を出さないかというと、見るに堪えない、読むに堪えないというようなものがままあるからで、身近にこんなおかしなことがあったんです、というのならよいけど、こんな嫌なやつがいるんです、というのならまだしも、だからこんな復讐をしてやりました、みたいなのになると、笑えないよなあなんてことにもなりかねなくて、だから基本的にこのジャンルには近づかないようにしているのです。

でも、毎度毎度のことですが、ダブルスタンダードが私の基本です。つまり、実話系でも読むものがある。例えば『まるっと病院パラダイス』なんかがそうでしたね。そして作者によってはやっぱり読むのであって、それが今回取り上げようという、たかの宗美の漫画です。

たかの宗美は多作な作家です。ナンセンスギャグを描いたかと思うと、ペットものも描いていたりして、そして実話系でも描いていた。目録を見ると『本当にあった笑える話まるごと読者投稿』というのがあったみたいですが、これいつの間に出て、いつの間に消えたんでしょう。2004年時点ならすでにたかの宗美にはまっていたはずなのに、思いがけず見落としてしまっていたようです。というわけで、私の初の実話系たかの宗美遭遇は『本当にあった最強オフィスハプニング』と相成ったのでした。

オフィスに起こるおかしなできごとや、不思議な人たち、そしてやっぱり嫌な人やその人への仕打ちみたいなものもあって、けど割りと嫌な感じはせず、それどころか読んでいて面白いと思えたりもして、これは多分たかの宗美の作風あってのことなんでしょう。この人の描く漫画は、ちょっと突き放し気味というか、あっさりとした味があって、そのせいで下手するとしつこくなりかねない実話系のネタが、テンポよく、嫌みも抑え目に表現されるのかと思います。『オフィスハプニング』ではオフィスのできごとに限局されるから、余計にそういう印象を強くさせたのかも知れません。面白かった。特に自衛隊関係のネタ(自衛隊ってオフィス?)がすごく面白くて忘れられないほどです。

で、『本当にあった読者の最強ハプニング』。ちょっと苦手な感じのネタも多い(ブス系は大嫌い)のですけど、けどブスだからと一方的に蔑視されたりするというネタは実はないんですよね。だからか、結構苦手ながらも読めたりなんかして、そしてやっぱり私にとって非常に面白いと思えるネタもあって、例えばそれは化粧が病みつきになった夫だとか、罰ゲームの勢いで男同士で関係を持ってしまった話だとか、たいそう面白かった。これはネタがというわけじゃないけど、初物を食べるときは東を向いて笑うとかもおかしかった。結局はこの人の表現の仕方が好みにあってるのだろうと思います。そしてこの人の漫画がとにかくいろいろ出版されるというのは、私同様に感じている人が多いということでもあるのでしょう。

あ、ここで異例の蛇足。23頁「誤爆」の彼女さん、かわいいよねえ。ウルトラにかわいいよねえ。いや、単にそれだけ。それだけの話です。

2006年8月6日日曜日

帰っておいで、スヌーピー

 チャーリー・ブラウンという男の子』と一緒に買った『帰っておいで、スヌーピー』。DVDソフトとしての名前は『スヌーピーの大冒険』なのでありますが、私の中ではより原題にそぐう訳である『帰っておいで、スヌーピー』という邦題で統一しております。って、相も変わらず頑固だねえ。でも、おたくないしマニアというものは、普通の人からしたら理解もできないところにこだわりを見せるものですから、こういう名前に対する思い入れなんてのもそうした一例。私の習性でありますから、もうしかたがないというほかないでしょう。

そして、おたくのもうひとつのこだわりポイント。それは声です。昨日いっていました『チャーリー・ブラウンという男の子』の声は、私の馴染みの坂本千夏版でありまして、やったぜ! みたいな話だったのですが、じゃあ『帰っておいで、スヌーピー』はどうだったかと申しますと……、これは決してやったぜとはいえない、そういう結果と相成りました。

最初にことわっておきます。私が坂本千夏版がいいというのは、それが単に私に馴染んでいるからというだけの理由です。他の吹き替えが劣っているといいたいわけでないということにはどうぞご留意ください。それこそ昨日いっていたように、各種吹き替えを収録したDVDなんてのが出たら[中略]多くのファンが喜ぶはずなんです。だって誰しも馴染みの吹き替えというのがあって、経験や好みによって、どれがいいとかこれはうまくないとか、本当に人それぞれだと思うのです。そして私にとっては、坂本千夏版が馴染んでいた。単純にそれだけの話なのです。

さて、『帰っておいで、スヌーピー』の吹き替えはどうだったかといいますと、以前にもちょっと触れていましたが、古田信幸版であります。チャーリー・ブラウンやライナスが大人っぽい男性ボイスで、わーい、すごい違和感! だって、坂本千夏版ではいわゆる日本アニメっぽい女性演ずる子供ボイスであるのが、古田信幸版では海外青春ドラマっぽくなってるんだもん。同じパラマウントから出ているDVDで、これほど傾向を異にしたものが併売されているのもすごいと思いますが、ほんと、どちらかに統一して欲しいものだと思います(となると、必然的に坂本千夏版ならざるを得ない。というのは、『ピーナッツ』映画の第1作には古田信幸版吹き替えが存在しないからです。ああ、なんというバイアスのかかった発言であることでしょう!)。

でも、吹き替えが馴染みのものではないといっても、映画の質には違いがなく、見ていてやっぱりじんとさせる、本当にいい映画だなあと思います。なんとなく粗末に扱われていたスヌーピー。そのスヌーピーが昔の友人に会いにいって、そして今の友人たちといよいよ別れるというときの状況がほろりと涙を誘って、スヌーピーの葛藤、悲しみのあまり声も出ないチャーリー・ブラウン。多分チャーリー・ブラウンたちの胸中には、なんでスヌーピーに優しくしてやれなかったのかという後悔が渦巻いていたのだと思います。別れの際になって、はじめてその大切なことに気付く。私たちの日常にもよくある話で、私たちはおりにこうした後悔を噛みしめながら、けれどまた日常に中に身近にいる人の掛け替えのなさを紛れさせて、そしてきっと近い将来に悔いるのです。誰もの経験する悲しみをよく描いた佳作であると思います。

私の好きなのは、スヌーピーと別れたチャーリー・ブラウンの独白に似た歌のシーンです。どうして世界中の好きな人たちを集めて一緒に暮らせないんだろうって、どうして別れがあるんだろうって — 。こうした悲しみはきっと世界中の誰もが同じく抱く普遍的なものでしょう。だからチャーリー・ブラウンの悲しみを誰もが共有できるはず。そうした共感性の強さが、この映画をことさら名作としているのかと思います。

DVD

引用

2006年8月5日土曜日

チャーリー・ブラウンという男の子

 アマゾンに注文していた『スヌーピーとチャーリー』が到着しました。原題がA Boy Named Charlie Brown。私はかつてNHKで放送されたときのタイトルである『チャーリー・ブラウンという男の子』というタイトルが気に入っているので、頑なにこの邦題を使い続けています。というのはですね、日本では『ピーナッツ』はどうにもスヌーピーというキャラクターが人気を博して、その他のキャラクターに関しては知られていないという実情があるせいか、『ピーナッツ』ものが翻訳される際には、どうしてもスヌーピーといれねばならないみたいなのです。ですが、『ピーナッツ』映画第一作においては明らかにスヌーピーはメインではありません。メインはあくまでも我らが主役チャーリー・ブラウンであり、そしてもっとも重要な脇役はライナス・ヴァンペルトであるというのは、この映画をご覧になった方ならご理解いただけるかと思います。でも、商業的に考えると『チャーリーとライナス』にはできないんでしょうね。

さて、まずは嬉しい話。『スヌーピーとチャーリー』の吹き替え配役は以下のとおりでした。

チャーリー・ブラウン
ピーター・ロビンス
坂本千夏
ルーシー
パメリン・フェルディン
渕崎ゆり子
ライナス
グレン・ギルガー
横沢啓子
シュローダー
アンディ・フォーシック
一龍斎貞友
スヌーピー
ビル・メレンデス
松本梨香

やっぱりライナスは横沢啓子だったんですね。というわけで、私の馴染んでいた吹き替えと同じということで、違和感なく見ることができて大変よかった。やっぱり吹き替えにおいて声優というのは非常に大きな要素であると、今さらながら確認した思いでしたよ。

さて、『チャーリー・ブラウンという男の子』というタイトルで正しいのか改めて調べてみたところ、LOCAL CACTUS CLUBというサイトを発見しました。ここではさまざまな『ピーナッツ』関連情報が扱われているのですが、なかでもありがたいのは劇場版アニメの情報、そして劇場版吹き替えに関する情報。ああ、こんなにもバリエーションがあるんだ。そして注目はシュローダー。LOCAL CACTUS CLUB掲載の情報では鈴木みえとあるのが、DVDでは一龍斎貞友とあります。ええーっ、異同があるの? ということは再録音??? と思ったらそうではなくて、鈴木みえの現在の芸名が一龍斎貞友なんだそうですって。はあ、驚いた。

見て、やっぱり非常に素晴らしいと思いました。なにをやっても駄目なチャーリー・ブラウンが、スペリング・コンテストにおいて意外な才能を発揮して — 、というストーリーを軸に、スヌーピーのレッドバロン、シュローダーの弾くベートーヴェン、そして再びスヌーピーのスケーティングという、アニメーションのよさを再確認させるような副エピソードがあって、でもやっぱり一番いいのは以前にも紹介しました、ライナスの最後の台詞。じんと泣けてきます。そしてルーシーの言葉。すごく胸に染みる温かい言葉であると、どんなであってチャーリー・ブラウンは皆から愛されているのだ、ということがわかる名シーンで、やっぱり泣けてくるのでした。

さてここでちょっと疑問が。この映画の一番最後の台詞なんですが、ここだけ英語になっています。以前見た版ではちゃんと日本語に吹き替えられてたんだと思うんですが、いやそんなに難しい英語ではないからわからないなんてことはないんですが、それまで吹き替えでやってきて、そして最後の最後の胸に迫る台詞、まさしく決めぜりふをなんであえて英語にしたんだろう。すごく疑問に思います。

私は、あの台詞は、私の一番馴染んだ言葉で聞きたかった。一番胸にしっくりと入る言葉で聞きたかったと思います。

ところでですが、誰しもこれだという吹き替えがあるんだと思うのです。もし、もしこういうのが可能ならの話ですが、各種吹き替えを収録したDVDなんてのが出たら、それが一枚五千円一万円となっても買う人はいるかと思います(ここに)。だから、願わくばそうした盤を出して欲しい。そうすれば、多くのファンが喜ぶはずで、今まで知らなかった翻訳なんかにも触れることができるわけですから、また違った楽しみも得られると思います。

こんなことはどだい無理かも知れませんが、でももし可能であれば出て欲しい。そんな風に思います。

DVD

VHS

2006年8月4日金曜日

数独

 突然ですが、数独にちょっとはまってしまったようです。発端は水曜日のこと。電車で隣り合わせたおじさんが数独をやっているのを見て、一体これはどういう仕組みになってるんだろう、興味が出て、Wikipediaで調べてみたら解法がざっと示されていた。ああ、これでなんとかいけそうだと思いました。でも、問題がないとどうにもならないですよね。だからちょっと調べてみたら、出るわ出るわ、じゃんじゃん出てきます。無料で遊べる数独サイトは山ほどあって、ここでは紹介しきれないほどです。というわけで、私が最初に取り組んだのはNHKオンラインが提供しているSUDOKUです。なにぶんはじめてのチャレンジですからちょっと戸惑いましたが、それでもなんとかいけるものです。ガイドなしで初級も中級もクリアできましたよ。

そんな私の目下のお気に入りは、Web Sudokuです。ここはなにがいいかというと、問題が自動生成ではないんですね。世にSudokuサイトはたくさんあって、その中には明らかに問題を自動生成しているものもありまして、自動生成でも解けるようには作ってあるんですけどね、でも、やっぱり人間が考えて作ったものの方が面白いのですよ。自動生成と人間の作ったものはどうやって見分けるかというと、最初に配置されている数字の位置が鍵になっています。人間が作ったものはというと、数字の置かれている升目が明らかに対称を描いていたりして、こういうものは解いているときに妙な引っ掛かりがなくて解きやすいと感じます。

数独のいいところは、無心になってとけるところであろうかと思います。ヒントはすべて盤面に用意されているから、考えて考えて考え抜いたら解けるようになっているんですね。私はまだ初心者だから、そんなに難しいのには挑戦していないし、先ほど紹介しましたWeb Sudokuの一番簡単なパズルであっても、十分以上かけてしまうんですから、まだまだ先は長いなと思います。だって、数独選手権なんかだと、ひとつ解くのに三分とかいう人もいるとかいうじゃないですか。そういう人は、もう盤面を見た瞬間にいくつかの数字が浮き上がって見えるのでしょう。でも、私みたいな凡人でも、何度もやっているうちにそれに近い感覚は得られるんじゃないかと思います。ざっと見回すだけで、簡単なものならひとつふたつ数字が拾えるのです。後はその繰り返しですね。拾った数字が次のヒントになりますから、列行の関係を見てみたり、あるいは一列の中で考えてみたりと、解き方のノウハウはだんだんと身に付いていくんじゃないかと思います。そしてノウハウに気付くたびに、ひとつ脳のつかえがとれる。そんな気がします。

さて、今日は数独ということで、ゲームで出ている数独をまとめてみました。本はというと、山のように出てるから目録を作る気になれなかったんです。でも、もうひとつ理由があります。コンピュータで遊ぶ数独は、答え合わせが非常に楽なんです。数字を埋めた、どう? その瞬間に答え合わせが済んでしまうから、数をこなしたい人にはきっとゲームの方が向いているのだと思います。

でも、一マス一マス数字をつきあわせていってというのも、また違った面白さがありそうです。もし機会があれば、紙の上で解く数独もやってみたいと思います。

あ、紙のメリットといえば、メモしやすいというのがありますね。だから最初のうちは、紙の版で解いていくほうがいいのかも知れません。

Nintendo DS

PSP

PS2

PS

Windows

2006年8月3日木曜日

モン・スール

 こないだ、モン・スールじゃなくてマ・スールなんじゃないのかなんていっていた私ですが、これすっかり勘違いでした。私はこれが兄から見た妹の物語だと思っていたものですから、その先入観でスールはsœur(妹)に違いないと決めつけてしまっていたのです。ですが実際はそうではなくて、seul(唯一のもの)だったのです。このタイトルを日本語に直すならば『私のただひとりの男性』になるかと思われます。すなわち、この物語は妹の視点で描かれたものであると、タイトルがすでに主張していたのでした。それを勝手に『僕のいもうと』だなんて誤解していたのですから、本当に失礼いたしました。けど、もしかしたらスールという響きに妹という意味を透かそうという意図があったりなんかしたものでしょうか。だとしたら、うまい名付けかたであると思います。

読んで見ての感想。悪くないですね。暗い話です。主要登場人物は四人。その誰もがどこかで誤ってしまって、そのせいで取り返しのつかないことになってしまって、けどそこに本当に救いはなかったのかというと、そういうわけでもなかったのだと思っています。本当に大切なものが失われるまえに、なんとか手を伸ばすことができた。その手が届いたかどうかは読者一人一人が読んで、自分の実感として諒解すればよいのだとそういう風に思います。作者は後書きで、マルチエンディングなんですよなんていっています。確かに、私もそのように感じました。あのラストの情景、美波の視線が空に向かうあのシーンを見て、私がふと思ったものはというとフランソワ・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』でした。映画のラストシーン、やっとたどり着いた海を見つめるドワネル少年の表情に私たちはなにを見るのか。

それはあたかも自分を映す鏡のようです。私たちは、彼彼女の見たものを思うことで、自分自身の心のうちをつぶさに描き出すのです。

この漫画は、そういう意味で映画みたいです。またある意味、演劇みたいでもあります。ひとつのシチュエーションの中で繰り広げられる科白劇。登場人物一人一人が、自分の失敗から目をそらしていたのが、ひとつの過ちが露呈したことをきっかけに変わっていく。自分の失敗を棚上げして他者を責めるばかりだったのに、自分の失敗も他者の失敗も苦いながら飲み込んで見せて、彼らの世界はきっと変わったのだと思うし、これからも変わっていくのだと思う。そしてそこに見つけ出されるだろう希望である望みであるは、同じくやはり私たち読者が一人一人抱いているものの映しなのだと思います。

だから、私はこの物語に救いがないなどとは思いません。投げっぱなしとも思いません。苦しいばかりとも思いませんし、暗闇の中には光だってあるのだと思う。私たちの胸の奥にも消えずに残る過ちや後悔は、苦さをもろとも飲み下すことでしか乗り越えることはできないのだと、過去に押しやるのではなく今の私の一部であることを自覚しまっすぐ見つめる覚悟ができて、そうしてはじめてこの物語は完結するのだと思います。

  • きづきあきら『モン・スール』(ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。
  • きづきあきら『モン・スール』(SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2003年。

引用

  • きづきあきら『モン・スール』(東京:ワニブックス,2006年),213頁。

2006年8月2日水曜日

Jelly Tones

 この八月でiTunes Music Storeは一周年。というような訳で、一周年御礼のフリーダウンロード曲が五曲用意されております。そのうちの一曲がケン・イシイの『Sunriser』。ケン・イシイ、懐かしいなあ。実は私は、一枚だけケン・イシイのアルバムを持っているのです。それは『Jelly Tones』、当時購読していた雑誌『MACLIFE』で紹介されているのを見て、こいつはちょっと買ってみようと思って、お初天神近くのフコクパレットをあがったところにあったDISCPIERで買い求めたのでした。思い出しますね。邦楽フロアにいってイシイ・ケンのこれこれというアルバムはありますかと聞いたら、洋楽フロアにありますよと案内されていってみたら、あっという間に売り切れたんですよ、という話でした。でも、メーカーが増プレスするとアナウンスしていますというので、注文してそして買って、これが私の初テクノとなりました。

さて、『MACLIFE』というのはMacintoshの専門誌でした。なんでそんな畑違いの雑誌にケン・イシイが特集されたのかといいますと、このアルバムのジャケットに関係しています。アニメ『AKIRA』を彷彿とさせるこのジャケットアート、実はこの印象はあながち外していなくて、作画監督補として制作に名を連ねた森本晃司が関係しているのです。

このアルバムには初回限定版が存在しています。初回限定版はCDとCD-ROMの二枚組で、CD-ROMには『Extra』のビデオクリップが収録されていたのです。このCD-ROMがついてくるという点で、またそれがデジタルアニメーションであったとかなんでしょうか、そういう経緯から『MACLIFE』で特集されるにいたり、そして私のような人間がレコード店に足を運んだ。この、本来のケン・イシイの需要層ではなかったはずの人間がこのアルバムを買い求めたことで、初回限定版はあっという間に売りきれ。なのでメーカーは異例の初回限定版二次プレスに踏み切ったという、そういう話みたいなのです。

それまでケン・イシイのことなんてまったく知らなかったくせに『Jelly Tones』を買い求めたのは、おそらく私のようなコンピュータがらみの人間、そしてアニメファンであったのではないでしょうか。でも、おそらくそうした層の中からも、新しいケン・イシイファンは生まれたのではないかと思います。確かに最初はマルチメディアタイトル、アニメーションが目当てであったけれど、テクノミュージックの面白さをこのアルバムによって知ったという人間はきっと少なくないと思います。少なくとも、私はそうでした。

この文章に出てきた『MACLIFE』はもうなくなってしまって、お初天神近くのDISCPIERもすでにありません。だって『Jelly Tones』発売からすでに十年が経過しているのですから、変われば変わるというものです。ですが、ケン・イシイはまだ第一線で活躍していて、なんだか私は嬉しくなりました。久しぶりに聞いたケン・イシイの音楽はなんだかずいぶんとおしゃれで明るい感じになっていて、こういうのもよいなあと思いました。iTMS一周年記念の曲は、思わず私に昔を懐かしませて、なんだか本当によいギフトになったと思います。

2006年8月1日火曜日

忘れません

今日は送別会でした。私が今の職場にきたのが三年半前。一緒に働いていた人が、違う部署へと異動することになったのです。なんだ、異動かとはいわないでくださいましよ。その人は外部からきている人であったので、異動となると今後同じ職場で働くことはまずあり得ない。あえて会おうとしない限り、きっと会うことはないんじゃないだろうか。そうですね。人生にはよくあるタイプの別れのひとつであろうかと思います。

今日の送別会のあることを聞いたのは先週のことでした。そうかあ、お別れなんじゃねと実感を深めて、別れというのは寂しいものです。だから、私は以前にいつか歌いたいといっていた浜田隆史氏の歌、『忘れません』の練習を始めたのでした。機会があったら歌おうと思って、歌の情景としては去るもの送るものが逆ではあるのですが、けれど私はこの歌を歌いたいなと思ったのです。

はじめはin Gで練習しはじめて、それだと高音がつらいからと、in Dに落としてみました。今はそれを2カポでやっています。前奏間奏後奏もそれっぽくして、ちっともうまくならないといいながらも、少しは進歩しているのだなと思ったりなんかしながら歌ってみて、なおさらいい歌であるなという思いを強めたのでした。

歌詞が大変によいと思います。素直な飾らない言葉は目の前にいる友人に語りかけるようで、そして内面に思うところを吐露するくだりなどは非常に情感に溢れて、歌っていても気持ちのよい歌です。思うのは、言葉に曲がうまく寄り添っているということ。言葉が曲にのり、曲は言葉の抑揚に馴染んで、お互いがお互いをよく支えているのだなということがよくわかります。音楽の大本は歌にあり、歌は声であり言葉であると、そのように思わせる力のある歌であると思います。

しかし残念ながら、私は今日はこの歌を歌う機会を持てず、ただギターを運んだだけで終わってしまいました。けれど、今日は確かに歌えなかったけれど、いつかこの歌をまた歌おうという日がきっとくると、そんな気がするから、忘れないようたまには歌って、大切にしていきたいものだと思っています。

オリオンはiTunes Music Storeにて購入可能です。一度試聴だけでもしてみてください。