2006年8月30日水曜日

ラビリンス — 迷宮

昨日、ちょっと新井素子の名前を出したものだから、今日はちょっと新井素子でいってみようかと思います。それも、昨日いっていた『グリーン・レクイエム』ではなくて『ラビリンス — 迷宮』。なんで『ラビリンス』なのかといいますと、私のはじめて触れた新井素子の小説がこれだったから。そして、ほとんどSFを読まずにいた私に、へーっ、SFってこういうのもあるんだー、と思わせてくれたものであるから。ええ、はじめて読んだときの印象は、今もかすかに胸の奥に残っています。

高校の部室に『ラビリンス — 迷宮』が置かれていて、判型は新書だったから、1984年の版ですね。ロッカーの中から発掘されたのですが、回りの誰に聞いても自分のじゃないっていうから、ずっと前の先輩が残していったものかも知れませんね。もらってもいいって聞いたらオーケーが出たので、もらってきた。そして読んだ。というような出会いだったのです。

内容は、あんまり詳しく書くと未見の人に悪いからさっさと書くとして、迷宮に住む怪物にいけにえとして娘を捧げる風習のある集落での物語。怪物はいけにえをとるかわりに知恵を与えてくれるという、ここまでを読めばまるで神話だとか昔話だとかそういう印象です。その年のいけにえとして選ばれたのは、強くたくましいサーラと利口で落ち着いたトゥード。果たしてこの娘たちの行く末はいかに!?

ちょっとネタバレになっちゃうかな。だからここから先は読まずに、ぜひ本を読んで欲しいと思います。今、なんか絶版になってるみたいではあるんですが、古書で買えるでしょうし、気の利いた図書館ならあるんじゃないかな。とにかくネタバレがあると初読時の印象が全然違ってくると思うから、この話を知らない人には、この先あんまり読んで欲しくありません。

では、ネタバレ。未開社会におけるファンタジーものと見せて、実際は近未来ものであったというのはいい仕掛けだったと思います。バイオテクノロジーによって生み出された生物。知恵もあり強靱であるが、しかし人を喰うという欠点があった。彼が、文明の滅びた後に迷宮に住み、しかもその迷宮というのが一時はやった巨大迷路ですよ。うまいねえ。やられましたよ。私はこの話を読んで、文明が失われ、歴史や記録が記憶の中で変貌していくには一体どれくらいの時間がかかるんだろうと思って、この話に示されるだけの時間でどれくらいの世代が交代するのか、そしてそれだけの時間でどれだけ社会が変わるのか、いろいろ考えたことを思い出します。この物語を読んで、歴史を見る目が変わったといいかえてもいいでしょう。歴史上の時間を、ただの数字として捉えるのではなく、どれだけの世代交代がおこなわれたのかという、人間単位での捉えかたをするようになったのです。

歴史を語ろうというときには一世紀という時間はちょっとした単位でしかないように感じますが、実際自分自身でその時間を計ってみると到底そんな簡単な時間ではありません。一世紀といえば百年です。今からさかのぼれば1906年。つまり明治39年。明治! 夏目漱石の『坊ちゃんで』が発表されたこの年、私の祖父はまだ一歳。祖母は生まれてさえいませんでした。曽祖父母、あるいはさらに一代前が活躍していた時代なんですね。祖父の父、私の曽祖父は庄屋であった! 庄屋! マジで!? 全然具体的に想像できないんですが。ちなみにこれは母方の話。父方はというと宮大工だったとかいいますね。ええーっ、宮大工! 全然具体的に想像できないんですが。社会はすっかり変わりました。価値が変わりましたし、テクノロジーはもうまったく違うといってもいいくらいで、私には曽祖父母の時代の空気を想像することはできません。

こんな風に、時間に対する私の実感を書き換えたのが新井素子の『ラビリンス — 迷宮』でした。同様に私のSF観を書き換えたのもこの本でした。少なからぬ影響をこの本から受けていると、そんな風に思っています。

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