2007年7月31日火曜日

ときめきメモリアルONLINE

 多分、この記事が公開される頃には、私はときめきメモリアルONLINE、ひだまりB組の教室にいるのではないかと思います。いや、あるいは最後のイベント、卒業式に出ているのかも。いずれにしても、ともにあの場に過ごした友人たちとともにあるのではないかと思うのです。今日はTMOの最終日。4月に本格復帰してからというもの、できるだけ時間をとっては参加していたのですが、そうした楽しい時間というのが過ぎ去るのは本当にはやいこと。今日でサービスが終了してしまうんですね。なんだか変に現実味がなくて、ぽかりと空白な気持ちがします。なかなか言葉にならないような、そんな不思議な悲しさがしています。

思えばこういう感覚は前にも味わっていて、それはベータの終了時だったのですが、その前日、皆で集まって、輪になって、最後の自己紹介なんてやって、ほぼ徹夜状態で、私は一二時間は仮眠したかな。それで、ベータ期間の終了する正午を待った。あの時も寂しかったけど、でもひと月待てばまた会えるというのだから、今ほどじゃないですよね。今は、時間の経っただけより親しくなった人もいて、だけどその人たちと再びあの時間を過ごすことはかなわないんだと、あの場がもう一度開くことはもう決してないんだろうなと思うから、別れの寂しさ悲しさもより一層深まるのですね。

けれど、消えない繋がりもあるはずで、今私たちは次なる場所を模索しているところです。それがどこになるかはわからない。けれど、どこかに新しい場所を見付けることができればいいなとみんなが思っていて、そしてその場所は今過ごしているTMOとは違うのだということもよくわかっていると思うのです。違う。確かにあの場所は特別だったといっていいんだと思います。私はそもそもMMO自体をやらないプレイヤーでしたが、それでも特段目的のあるわけではないTMOが楽しかった。集まって、チャットして、たまにクイズする、その程度のゲームじゃないかといったこともあったけれど、少なくとも私にとってはそれで充分だったように思います。なによりも、あの場で出会える人が大切だった。だから私は終わるサービスにではなく、あの人たちにこそ心を残したいと思っています。

次の場所がどこになるのか。どこになったとしても、私はあの人たちのいる場所に向かおうと思っています。願わくば新しい場所においても新たな出会いがあることを、そして楽しみや喜びを分かち合えること、ときにははげましあったり支え合ったりして、そういう関係を持続できることを望みたいと思います。

ありがとうございました。あの場で出会った人たち、得られたものは、私にとっての宝であると思っています。だからサービス提供者であったコナミ株式会社にもいいます。本当にありがとうございました。あの場で過ごした時間は、私にとって紛れもなくかけがえのないものでありました。

2007年7月30日月曜日

手塚治虫「戦争漫画」傑作選

 私はもちろん戦後の生まれで、安穏と平和に浸って育ってきたものだから、戦争の本当のところはわかりません。これは父にしても母にしても同じようで、二人とも戦中生まれですが、物心ついた頃には戦後です。それはそれなりに苦労もあった時代とは思いますが、けれど戦争の苦難、悲哀のようなものは聞いたことがなくて、だからやっぱり父母にしても戦争を実感するように思うことはないでしょう。そういえば、以前たまたま駅で出会って話した女性が、大阪の空襲のこと話してくれました。工場に動員された少女時代。大阪は丸焼けになって、瓦もオレンジ色に変わるほどの火勢、焼け野原あちこちに死体が転がっていたといいます。いつ死んでもかまわないという捨て鉢の毎日で、けれど生きるのに必死だった。食べられるものはなんでも食べて、けれどこうしたことは実際に体験した人でないとわかってもらえん。戦争を経験しても空襲を知らない京都の人には、わかってもらえないのだとおっしゃってました。なら、空襲も戦争も、どこか遠くのできごとのように感じる私たちの年代はいかなるものでありましょう。きっとわかるまい。口ではわかった風にいうけれど、本当に理解することなどできっこないのだと思います。

手塚治虫が書いた戦争漫画が新書で出ています。ぱらぱらとページめくってみたら読んだことあるのもいくつかあったけど、なぜだかそのままにしておけないような気持ちがざわざわとざわついたものだから、購入、帰りの車内で没頭するように読みました。そして今更ながら手塚治虫の語る力にほとほと圧倒されて、この人の漫画はやさしくて、言葉の運びも美しいのに、どっしりとのしかかるほどに重いです。こと戦争ものとなるとその実感は普段以上で、痛ましさはいうまでもなく、無力感や絶望めいたやるせなさがコマの端々に顔をのぞかせて、救いがないとはいわないけれど、でも救われないものも多すぎたというように思います。これらはどこまでが手塚の体験で、どこからが手塚の創作であるのか、読んでる私としては判断のつけようもないのですが、けれど読んで感じることは、それらはきっと実体験の反映であるということです。手塚はあの戦争を、餓えや空襲に苦しめられながら、自由の制限されるというかたちで経験したのでしょう。それこそいっぱいいやなことも舐めてきたに違いなく、夢や希望が潰えるのを見て、人間の悪いところがあらわになるところも見て、それで戦争という人がおこしたものに、抑えようもない怒りを感じていたのだろうと思います。

『紙の砦』で、主人公は米兵を前に一度は怒りを炸裂させながら、けれど兵士という個人に対しその怒りをぶつけることはできなかった。それは臆したからではなく、リンチの末に殺された兵士を目の当たりにして、思うところがあったのでしょう。爆弾を落としたそいつが悪いのか。戦争に巻き込まれ翻弄されるなか、人間性を失って憎み合い殺し合うという現実が、おそらくは手塚にとって到底耐えられるものではなかったのだと思うのです。だから手塚は、戦争に取り巻かれるままに残虐性を満足させたものを断罪しながら、一方では軍という組織を離れ人間性を回復させる将官なども描いたのでしょう。

手塚の戦争ものは、内地における暮らしものにこそリアリティが感じられると思えて、それは漫画に描かれたできごとが手塚の実体験であるかのように迫るからかも知れません。かつて身のそばにあったものが永遠に失われるという、深い深い喪失の体験。戦後のどさくさを描く『すきっ腹のブルース』なんかはむしろユーモラスであるのだけど、愛に恋に焦がれながらも意地汚く食に執着する主人公、彼が本当に餓えていたものというのはなんなのかと考えると、胸が詰まる思いがします。

そういえば、野坂昭如なんかもいっていました。戦時中の記憶は餓え一色だったと。激しい餓えとともに青春を過ごした彼らにとって、餓えとは単に食えなかったということではなかったのかも知れません。戦後、なんとか食えるようになったとしても、餓えがまとわりついて離れなかった。餓えの記憶に、体感に、食だけにとどまらない思いが渦巻いているのかも知れないと、そう思いながらも私には結局その想像の向こうに広がる現実の苛酷を知ることはなく、だから本当の意味でわかることなどできなくて — 、ただこうして思いをはせるのが精一杯なのかと思います。

2007年7月29日日曜日

ウィザードリィ エクス2 — 無限の学徒

  6月にはじめたWizardry XTH 2、シナリオクリアなりました。といってもここでいうシナリオクリアというのはメインシナリオだけでして、全クエストをこなしたわけではありません。だから、僕たちの本当の戦いはこれから、なんでありますが、でもまあひとまずは終了。それで、現時点での感想なのですが、なんか辛いシナリオでした。正直ちょっとやり切れないというか、前作においてプレイヤーキャラの友人という位置付けだったNPCがですよ、今回ではシナリオにおける重要な狂言回しとして機能しまして、しかも彼女を止めねばならないというんですから、こりゃもう辛い。きっちり引導渡して、なんかしんみりとしてたら、その後に物語の発端となった娘の痛ましい独白聞かされて、さらにへこみました。しかしこうもしっかり片をつけるとはなあ、意外でした。だってね、昨今の物語は感動のために軽々しく命を弄ぶくせに、ぎりぎりのところでは甘いところがあるものでしょう。最後の最後にみんな生き返って、よかったねー、ハッピーエンド。そんな具合なのかなと思ってたら、ロスト扱いの死亡して、ああやるときにはやるねと思った。シナリオ書いた人も思いきったなと感心して、けれど私としては甘いラストであってもよかったんだ、なんていっときます。

まあ、実際のところ、あのラストでなければならなかったという思いは強いので、あれはあれで仕方なかったんだろうなと。ちょっとショックでありながら、こうしたショックを味わうのも物語追うには必要なことと思って、なのでシナリオについてはここで終わり。ここからは自分のパーティについて話すことにしましょう。

今回のパーティは前作のメインパーティ同様、君主、神女、盗賊、僧侶、司祭、魔術士、スタンダードといってもいいパーティだと思います。このパーティ、ごくごく初期に爆裂槌なる高ダメージ武器を入手するにいたったものですから、ボス戦とかが恐ろしく楽でありました。XTH 2ではシナリオを進めるために固定敵を点々と始末していく必要があるのですが、負ける気がまったくしませんでした。というのも、今回はパーティスキルがありますからね。特に重要なのが、物理攻撃を必ずヒットさせるという集撃の陣でして、ここに爆裂槌の1Hit 300も夢でないという特性が生きてきます。だってね、この武器はもともと1Hitしかしないわけで、とにかく当たればオッケーというシンプルさが素晴らしい。そうなんですよ。必ず当たる集撃で、がつんと当てて、ガツンと稼ぐ。まず負けませんでしたね。というか、1ターンキルが必ずなるわけで、正直、戦術練るのが下手になりそうだなと、そちらが心配になったほどでした。

メインシナリオクリアに200時間を費やしたXTH 1に比べ、100時間程度という極端に少ない時間でエンドロールを見られたのは、ひとえにこのパーティスキルのおかげであると思います。パーティスキルをがんがん使って、パラメータのプラス補正もどんどん延ばして、そうしたらHPの伸びも違います。こうして効率よく強くなって、またそこそこ強い武器も持てましてね(といっても、星天球と連合軍式将軍剣が双璧でしたけど)、だから結構楽にさくさくと進めたという印象です。ありがたいのは、魔封じの盾が2枚あったってとこかな? 君主に突撃の盾とで両盾献身させて、星天球、将軍剣持った神女で神撃を食らわす。で、魔術士の強魔マハンマハンが強烈。防御固めて、特殊能力封じ込めて、魔力の増強して、適当に回復する。これで負けるわきゃないなと思いましたよ。本当。XTH 2の戦闘はかなり楽だと思います。

パーティの死亡について。当初にRip2がついた戦士(後の君主)ですが、なんとその後魔術士が首を刎ねられて死亡。ええと、ダムドかなあ。はっきりいって、腰が引けました。メインパーティにおける死亡事故は以上。ただ、一度呪文禁止域で強気で銀箱開けた揚げ句、コブラの呪いにかかって全滅してます。というか、戦闘よりも宝箱の方が危険ってどうなんでしょう。以上、メインパーティでは死亡回数9、全滅1という結果です。まあ、誰もロストしなかったからよかった。とはいえコブラの呪いは私の心に大きな傷を残したようで、その後は金箱であってもリリースしています。もしかしたら村正が入ってるかも知れないのに!? ええ、例えそうだとしても全滅の危険を冒してまで開けたいとは思いません。腰抜けですか? 腰抜けですね。けれど誰もロスト者を出さずに終えるには、これくらい腰が引けているほうがいいのだと思います。

とりあえず、こんな感じでやってます。現時点においてメインパーティにサブパーティ、そして後三つのパーティが登録されていて、そう遠くないうちに六つ目七つ目のパーティが編成されるでしょう。けど今はパーティふたつで精一杯。今はメインパーティで残りクエストの消化が目標ですが、落ち着いたらセカンドパーティ(侍、修道士、錬金術士、狩人、僧侶、超術士)以下も動員して、低中レベルのユニークアイテムなんかも集めたいなと思います。

2007年7月28日土曜日

突撃!第二やまぶき寮

 私は岩崎つばさというと『サーティーガール』くらいしか知らなかったんですけれど、けれどその後四コマ誌にも進出されて、あ、岩崎つばさだと喜んだものでしたよ。可愛い絵柄、チャーミングなキャラクターたちが繰り広げる楽しい日常漫画。けれど最初はちょっと薄味かなあなんて思っていたんです。なんだかちょっと弱い、惜しいなあ。弱さがあるというのはどういうことかというと、アクの問題なんじゃないかと思うんです。最初はそれこそあんまりにシンプルすぎて、ストレートすぎて、ヒロインの青ちゃんはいい子だし、有能だし、可愛いし、いうことないんだけど、そうした設定が引っかかりなくすっと通り過ぎていくような感じがあって、だからちょっと食い足りないかななんて思ってたんです。

ところが、今となっては結構どころでない好きな漫画になっていて、いやはや私ってどうしてこうレイトスタートなんでしょう。最初は、やまぶき製菓の女子社員寮きっての暴れ者、自由人、青ちゃん大好きの紫子さんだったかな。癖のある寮生のなかでも特に癖のある女性で、とにかくドラマは彼女から始まる、というかトラブルメーカーといったほうがいいかも。けれど気っぷのいい姉御肌、まだ幼さの残る青ちゃんをよく支えて、また漫画もよく引っ張って、こんな具合にいい循環ができてきたと思います。だんだんとキャラクターの本性があらわれてくるに従い、漫画の楽しさもあらわになってきた。寮生みんなが楽しそう。それがなによりでした。青ちゃんと紫子さんを筆頭とする寮のみんながいる。日常をイベントに変える彼女らのエネルギーは見ていてすごく楽しかったしうらやましかった。ああ、いい漫画だねと思ったものでした。

だからですよ、社長の息子山吹統治があらわれたときには、この楽しい今を壊さないで! って本当に思った。憎かったですね。一体なんだこの男はと思って、早く去ってほしいと願ったら、なんと副管理人になっちゃった。うわー、最低だ!

けれど、この副管理人、だんだんとやまぶき寮の雰囲気に染まっていくかのように、角が取れ、よさが見えてきて、今となってはもう欠くことのできない重要なメンバーって感じになって、ええ、私副管理人ももういやじゃないです。好きですよ。最初の辛くあたられた時期、犬のこがねとともに庭住まいをしていた時期を抜け、副管理人として青ちゃんのサポートにつくようになって、最初彼を怖がっていた青ちゃんが打ち解けていったように、私も打ち解けたのだと思います。カバーを外したところ、表紙に描かれた漫画を見ても、もう副管理人のいないやまぶき寮は考えられないといった具合。なんだかこがねとも強い繋がりあるようで、いいキャラクターになったなあなんて思っています。

いいキャラクター、岩崎つばさの漫画はキャラクターがいいんだと思います。あんまりアクは強くないかも知れない。けれどみんなすごくいい人で、その人たちの作り出す場の空気が温かくてほっとするような穏やかさにあふれているものだから、読んでいてすごく嬉しくなるのだと思います。悪い人がいない。悪い人がいたとしても、きっとその人のいい部分が引き出される、そんな感じの漫画です。

2007年7月27日金曜日

あねちっくセンセーション

 今日は『あねちっくセンセーション』の第2巻の発売日。ということで地上三十階書店にて買い求めようと探してましたら、なんと『天使のお仕事』の2巻も出ているではないですか。こいつはたまらん、示し合わせたように同日発売と相成った姉コミックスに、戸惑いながらも心は購入と決まっているのですから、私という人間はもう本当にどうしようもない。けれどこれはまだ序章に過ぎないのかも知れません。というのは来月には『アットホーム・ロマンス』の第1巻が発売されるというのですから。しかし一体この状況はなんなのでしょう。今、四コマにおいては姉ジャンルが大人気!? しかも刊行ラッシュ!? 今、市場は、それほどまでに姉を求めているというのでしょうか!?

けれど、ほんと、実際のところ、姉もの増えてきたなと思いますよ。王道のパターンというと幼なじみヒロインとか、まあ幼なじみがなんなら同級生ヒロインでもいいや、そういうのがそれこそ一般であったと思うのですが、気付けば妹ブームというのが吹き荒れて、それでついに姉の時代到来!? その姉というのも優しくて甘々な姉という幻想の産物なんかじゃなくて、兇悪にして傲慢不遜の存在、まさしく人類の敵というほかない、そうした姉が描かれているからまた驚きです。例えば芳文社を見てみると、苛烈な姉漫画が二本あって、ひとつは『あねちっくセンセーション』、もうひとつは高原けんじの『花咲だより』。理不尽、偉そうという、まさしく姉らしい姉。しかし、本当に今市場はこうした姉を求めているというのでしょうか? 私にはわからない、私にはわかりません!

といいながら、『あねちっくセンセーション』買ってるんですから始末に置けないというんです。好きかといわれれば、迷いも躊躇もなく好きだと答えることでしょう。実際、連載を楽しみに読んでいるのも事実であるし、こうして単行本が出れば買って読んで、やっぱり面白いなあと思って、そしてこの面白さ、2巻は1巻を上待っていると思います。

2巻が1巻を上回った理由は、姉さくらの弱点が次々と発覚していって、いつまでも弟春人は負けてばかりじゃないぜ。いわば対等になれる可能性が出てきたっとこじゃないかななんて思うんですが、まあそれでも可能性は可能性に過ぎなくて、弟は負けっぱなしだなあ。その結局は負けちゃうところがいいといったらおかしいけれど、和気あいあいとほたえて、紙一重で負けておくという、そこに弟の美学があるような気がしませんか? この漫画は実際そうだと思います。姉が嫌いなら弟はこうはならない、姉にしても、弟が嫌いならああはならないでしょう。けれどお互いに好きのどうのと言葉にしないのが姉弟というもので、じゃあその肉親の情はどうやって確かめられるかというと、結局は拳で語るしかない、いやごめん嘘、拳じゃなくて命令と服従だな。もちろん弟だからといって理不尽な命令なんでも聞くなんてことはなくて、適当に抵抗したりするんだけど、姉もしたたかだから、どの程度ならいうことを聞かせることができるかという、その許容範囲を知っているんですね。だから一種馴れ合いだと思う。馴れ合いの中に、約束事として成立した服従があって、そこでは指令と遂行が互いの信頼を確認しあうためのコードとして機能しているのです。

こうした感覚を持っているものとしては、『あねちっくセンセーション』は実に面白いのですよ。さくらと春人には姉と弟のコード体系があるように感じられて、春人がさくらをおちょくるのは、きっとかまって欲しいというサインなのだろうし、そしてさくらが春人に常勝するのも、春人の負けることによってポジションを安心させるという、そういった機構における約束なんだと思うのですね。もちろんこうした約束は姉弟によって違いがあるし、強度もそうなら、適応の範囲も異なるのが普通だと思いますが、『あねちっくセンセーション』では三種の姉弟関係を持ち込むことで、姉弟の約束事の多様性を満足させ、そして中心に据えられたのは典型的な姉弟の関係。基本がしっかりしているから、絵空事が絵空事と思えない。慣れたコードに近しく描かれる展開に、私は言い知れぬ安心を覚えるのであると思います。

蛇足

さくらもいいですが、撫子がいいですね。あの不死身という設定。あれは面白いわ。ちょっとひねった設定加えて、そこから面白さ、おかしさをひき出すことにかけては、この人はかなりのものだなと思います。

なのに、第3巻で完結予定!? そりゃないよ。できたら続いて欲しいなあ、無理ない範囲でなんて思う私は、まだこの漫画の面白さに浸っていたいようですよ。

2007年7月26日木曜日

トーマの心臓

   萩尾望都の名前を知りながらも決してその作品を読もうとはしなかった私が、遅まきながらも作品に触れ、その深さに打たれたときのことははっきりと覚えています。行きつけの書店に文庫を見付けたのでした。有名な人だからと、評価の高い人だからと、古典に手を伸ばすような気持ちで、読むことへの楽しみや高ぶりのためではなく、漫画に関する教養を身に付けようという、そんないささか無粋な理由で一冊を買い求めた、それが『トーマの心臓』でした。ギムナジウムにて繰り広げられる、美しい少年たちの物語。一人の少年の死という衝撃的な場面に始まり、謎のメッセージ、そして身を投げた少年に生き写しの少年エーリクが転校してきて……。これこそが私にとってのはじめての萩尾望都体験であり、目もくらむような強烈な一撃を与えた作品です。

こんな話があるのかと面食らった気持ちでした。もう二十年以上も前に描かれた漫画で、しかし旧さはまったく感じられない、それどころかふつふつと湧くような生命の息吹にあふれていて、これがこれが漫画の世界なのかと、目が開く気がしたものでした。それから私は萩尾望都の文庫を買い集めて、それは自分に足りなかったものを埋め合わせようとするように性急な買い方、読み方で、けれどすごく充実していました。友人に、萩尾望都はすごいから、だまされたと思って買ってみろと強引に勧めて、萩尾ファンを一人増やしたことも懐かしい思い出です。その人も、その後萩尾望都の漫画を買い集めて、こうして人をいったん捕えれば夢中にさせてしまう力がある、強力な魅力に満ちた作品群です。

『トーマの心臓』がこんなにも苛烈に働き掛けたのは、はじめての萩尾望都だったというだけでなく、やはり作品の持つ力であると思うのです。陰鬱で謎めいて、耽美で退廃的な影も持つ漫画。けれどその向こうには、光と闇の狭間に苦しむ心のドラマがあり、そして愛が苦悩に交錯するのです。その物語は、はじめて読んだその時、すでに大げさではないかと思ったほどにドラマチック、ダイナミックで、けれどひとたび没頭すれば、その描かれ方に魅惑されてしまいます。大げさだなんて思わない。絵が、場面が、ビビッドに情感を伝えてくる。ドラマが生きている、思いはあふれ、乱れ、そして明澄な静けさに溶け込むようにして終わって — 。悲しみもあった、切なさはいうまでもなく、けれどいつも救われたという感じに包まれながら読み終えるのです。そして私はきっと言葉を失ってしまうから、『トーマの心臓』についてはなにもいえなくなるのです。ただ、ただ読んでみて欲しいと、読めばわかるんだからと、それ以外にいえなくなるのです。

今日、書店で新しい萩尾望都のシリーズが出ているのを見付けて、それが『トーマの心臓』でした。私はそれを買おうかどうか迷って躊躇して、そして帰って文庫を読んで、そのすごさに打たれてしまった。文庫のなんのという判型なんか関係ないと思った。萩尾望都の作品は、そんな低いレベルのものにとらわれない。物質やなにかを超えた高みに位置するものであると、そんな思いを再び深めただけでした。

  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;1) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;2) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館文庫) 東京:白泉社,1995年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館叢書) 東京:白泉社,1989年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第3巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。

2007年7月25日水曜日

Half moon, taken with GR DIGITAL

MoeリコーGR BLOGにて催される恒例のトラックバック企画。七月度のお題が発表されたときには、まあまた私の苦手そうなと思いました。スローな風景。ふと時間の流れが止まったような、日常のせわしなさから切り離されたようなそんな時間の流れる穏やかな風景。それを撮ればいいんだろうなと思いながら、こうして先頭に持ってくるのが萌えTシャツ。スローな風景はスローシャッターで撮った写真のことじゃないんだってば、というわけで今月もトラックバック企画『スローな風景』に参加します。

私は日頃、できるだけスローに、スローに生きようと心がけているところがありまして、というのも頑張ってしまうと途中で息切れしてしまうものですからね、兎のようではなく亀のように、ゆっくりと少しずつ着実に進んでいこうと、そんなことを思っているわけです。ですが、気付けばせかせかと過ごしてしまって、時間がない時間がないなんていっている。それが家に帰る道すがら、ふと空を見上げれば月が出ていて、半月。ああ、そういえばもうずいぶん月なんて見てなかったな。そうなんですよ、私は日常の風景を見過ごしにしたくないからカメラを持って、毎日持ち歩いているというのに、それでもいい加減に見過ごしてきたものがあったんですね。と、反省。がらんとひらけた空、月を撮っておこうと横道にそれた、それがこの写真です。

Half moon

実はこの写真とは別に、どうだろうなんて思った写真もありまして、ある朝、出勤途中寄った神社にて鳩が狛犬の頭に止まってましてね、近寄っても逃げない。人を怖れない奴等だなあなんて思ったんですが、それが妙にほのぼのしてるかなって。けど、なんでかぎりぎりになって月見上げた写真に変更。果たしてどちらがスローかといわれると……、やっぱり月かなあ? 皆さんはどうお感じですかって聞いて、どっちもスローじゃないよっ! なんて返事が返ってきたら私のスローとは一体なんだろうって感じになっちゃいますね。

Pigeons on dog's head

2007年7月24日火曜日

エル・ポポラッチがゆく!!

 Amazonでなんだか夏の大バーゲンとかやってるよって聞いたものだから、どんなだろう、欲しいのあるかなってわくわくしながら見にいきまして、こういうとき、まず見るのはゲームですよね。以前、春のバーゲンだったと思うんですけど、では、発売日に購入したゲームが特典付きでお安く提供されているのを見付けて、愕然としたり、いやね、まだ封さえ切ってなかったものですから(今も未開封だけど)、もう本当に悔しくて悔しくて、もうひとつ買っちまおうかと思ったくらいでした。買いませんでしたけど。ゲームを見たら次に見にいくのがDVDストア。実は欲しいのがあるのですよ。アニメかというと、残念、アニメじゃない。アニメは欲しいのが多すぎて危険すぎるから見ないようにしてるんです、っていう事情はおいておいて、ええと『シャーロック・ホームズの冒険』が欲しいんですね。昔、NHKで放送されていた海外ドラマですよ。これ、23枚組という大ボリューム、もちろん価格も結構なものだから、欲しいなと思ってもおいそれと手を出せるものではなく、涙をのんではや数年が経ちました。と、こんな感じで欲しいの買えないのとバーゲン商品をぶらぶら眺めていたところ、ちょっと気になるものを発見。1min. ドラマ『エル・ポポラッチがゆく!!』。おお、これはNHKでやっていた変なドラマじゃないですか。

私がはじめてエル・ポポラッチに遭遇したのは、今年の正月のことでした。NHKはですね、紅白が終わった後にですね、『年の初めはさだまさし』なる番組をやっていましてね、今年で二年目? さだがファミリー引き連れてなんか端書読んだり、歌ったり。わりと面白いんですよ。しかもこれ生放送だから、結構危険な領域に踏み込んだりしましてね、そういうところも楽しみどころだと思うのですが、そう、今年の私はさだまさしで始まったんですよ。

笑って、歌に心揺さぶられて、そして番組終了後、突然始まったのが『エル・ポポラッチがゆく!!』なる番組。いや、これ番組なのか? 私は最初、てっきりコマーシャルかと思いました。新番組の宣伝じゃないなとは気付いたものの、けれどこれはNHKのイメージ広告? いや、そうだとしたらなんか変すぎる。主人公はマスクを付けたレスラー? 街にふらっとあらわれて、街の人たちと交流を深めていくみたいなストーリー? が淡々と展開されるんだけど、なぜか米屋の地下にリングがあったり、ほんとよくわからない不条理感。これをさだ見た後で見たんですよ。しかも夜中、結構な時間、脳はつかれてるし眠たいし、けど目を離せない。早く終わらないかなあ、もう寝たいんだけどなあと思うんだけど、番組は延々続く。次へ次へと回が進み、多分、こんときに全部見たんだろうなあ。目を離せないまま、最後まで見てしまったのでありました。

その後、時代劇の後なんかにポポラッチが放送されるようなこと数回経験して、なんかぽいっと放送しちゃう、予告もなんもなしにやっちゃう、そういう企画みたいですね。でも、私はこれが1min. ドラマなんていうシリーズだったとは今の今まで露知らず、しかもこれDVDが出とるのか。なんか、欲しくなるなあ。ちょっと興味がそそられる。なんでかわからないけれど、私を釘付けにしてしまうそんな番組であるようなのです。

ドラマでは鈴木京香が素敵だったなあ。この人、正ヒロインだと思うのですが、なんかしっとりとしたいい美人ですよね。この美人が、なんか変な不条理なドラマにて淡々と役をこなしていく様は実に美しく凛々しくて、ポポラッチと恋仲になったりする!? なんて思ってたらどうもそうでもないみたいで、とにかくほんとよくわからないんですよ。筋もあったようでないというか、結末も変によくわからないまま、それこそ終わったんかどうかもわからないまま終わったというか、このへん、DVD見たらわかるのかなあ?

なんだか本編よりも特典映像の方が長い『エル・ポポラッチがゆく!!』。ちょっとおふざけ感もあって、けれどみんな真面目にやってるってことは伝わってきて、この不思議感はちょっと他にはないような気がします。だから、だから、買っちゃおうかな、どうしようかな。買っちゃっても後悔しないだろうけど、いつでも見られるポポラッチというのもなんか変な感じがする。ほんと、その存在自体が不思議なドラマであると思います。

2007年7月23日月曜日

反社会学講座

 女房と畳は新しい方がいいっていうから、きっと本もそうに違いないと、買ってきました『反社会学講座』。あれ、あんた、この本持ってなかった? ええ、持ってますよ。というか、既刊、全部揃えていますね。なんかマッツァリーノのファンみたいですね。そういえばサイトのチェックも結構まめにやってるし、ついでにいえばエッセイなんかも読んでます。ええ、好きなんですよ、この人の文章。ちょっとひねくれた風で、悪ふざけやら皮肉みたいなのがあちこちにちりばめられていて、けれどいってることといえば結構真っ当で、それになんといっても主張がある、視座がある。おかしいって思っていることに対しては、そいつぁちょいと妙じゃねえかい、と真っ向から啖呵を切って、けど口先ばかりじゃないよ。種々様々のデータ、資料、統計を駆使して、おかしいってところを根元からあらわにする。けれどそれがお説教くさくないのですからたいしたもので、ああ、こりゃ希有だね。読んで、面白がって、そうかこんな調べ方があるのかと勉強にもなって、ついでに溜飲を下げ、活力もわいてくるっていうもの。ええ、私はこの人の文章読むと、なんだか浮き立つようで、変に元気がわいてくるんです。

けれど、さすがに同じ本を買うっていうのは尋常じゃないよな、なんていう意見もございましょう。正直、私もそう思います。けど、それがファンっていうもんなんだ。いや、そりゃただの盲従だな。そういう態度はいけません。じゃあなぜこの本を買ったのかというと、補遺がついてくるからです。題して「三年目の補講」。『反社会学講座』旧版が出版されたのは2004年でした。そして今は2007年。この3年の間になにがどれだけ変わったのか、また変わらないものはなんなのか、こういう検討がされているとでもいったらいいのかなあ。まあ、ちょっとしたおまけみたいなもんですが、けれどおまけというにはしっかりとしている。本文に不備があらば補足し、異論反論があれば再検証し、また同じ統計からその後の変化を追跡したかと思えば、思いがけない見識まで披露されて……、ええと例えば、マッツァリーノ曰くまだまだネットには質・量ともに、図書館に取って代わるほどの情報はありません。実は私も同意見です。

私は本家こととねにて初学者のための音楽講義というコンテンツを公開していますが、これがオリエンテーションすなわち導入部で止まっているのはなぜなのか。その理由、まず第一には、生徒が忙しくてこれなくなった。これ、生徒に音楽のもろもろを教えるために用意した資料だったんです。つまりは再利用だったってわけ。そして第二の理由、こちらが切実、私が勤めていた図書館をやめたから。私の働いていた図書館はいわゆる専門図書館で、音楽に関する資料、文献もろもろへのアクセスが極めて容易であったのです。私はあれらを作成するにあたり、多くの資料にあたり、裏をとり、面白そうなエピソードをピックアップして、そして同僚に意見を求めて、できるだけ正確なもの、妥当性の高いものを作ろうと骨を折っていたのです。ですが、その資料が利用できなくなった。これ、もう大打撃ですよ。本当ならオリエンテーションを終えたら、すぐさま歴史編に移るつもりだったんです。ですが歴史こそは資料が大切で、自宅にも何冊も歴史関係の本を確保してるんですけど、けれどそれでは足りないのです。全然足りない。だからといってWebに答えを求めるなんてもってのほか。あれが書かれた2001年時点はいうに及ばず、今2007年であっても大同小異です。よくまとまってるなあと思えるものはあるけれど、それはごく一部。大半は参考にするにも弱すぎるものばかりで、だからWebというものは、読み物探すにはよくっても、資料となるとからっきしだと思っています。本当だったら大学や研究機関がさ、信頼に足る情報源として機能しなきゃいけないんだと、特に文系学問、さらにいえば音楽、音楽学。けれどそういうのがほとんどないってどういうことだよ。私みたいな個人がやったって焼け石に水なんだよ、それこそ学会とかなにしてるの、って思ってるんだけど、でもまあ駄目なんだろうね……。

なんの話してたっけ? あ、そうか図書館か。残念ながらWebは情報源としては図書館にはるか及びません。私はちゃんとした図書館員になりたくて司書の資格を取ったのですが、その課程において知ったのは図書館をツールとして利用するための技術でありました。図書館には情報源がたくさんある。もちろん、すべての図書館にあるわけじゃない。残念ながら日本の図書館は、資料のアーカイブとしてよりも貸本屋的な機能が中心で、それは結局は利用者の求めがそうだからとしかいいようがないのですが、けど本当は図書館というのは、調べものをするためのツール群を用意する施設であるのです。ヨーロッパやアメリカなんかは図書館における最前線であるといっていいと思うのですが、ライブラリアンのステータスが半端でないといいますね。図書館学以外に専門課程も修める必要があったはずで、そうした専門知識を駆使し蔵書を構成し、また利用者に対して適切なリファレンスをおこなう。公共図書館でもかなりのものだといいますが、大学図書館ともなるともうそりゃ半端でないんだそうで、調べたいことがあるんだけどって聞いたら、ちょっと待ってろ、山ほど本を抱えてきてさ、お前の知りたいことはこの本とこの本に詳しい。これとこれとこれには関連する論文が収録されている、ほらここからここまでがちょうどそのテーマだ、みたいな具合なんだって、アメリカに留学していたという人から聞きまして、私はそういうライブラリアンになりたかったんだけど、けど私にはそういうことは求められてなかったなあ。頑張ったんだけどなあ。ある作品について知りたいと問われれば、論文集やらエッセイやらかき集めて提供したりできる寸前までいってたんだけど……、けれど私のそうした機能はあの図書館では結局必要とされず、だからやめるほかなかったんですね(だって専門駆使して時給800円だぜ、そりゃねえよ)。

なんの話だっけ? ああ、図書館か。

パオロ・マッツァリーノの調査活動見てると、ああこの人は図書館を知っていると感じられて嬉しくなるんですよ。図書館には資料があって、適切に利用すれば、こんなにもたくさんのことがわかるのだ。資料、統計、本の類いは、表面をなぞるだけならただの数字、文字、データの羅列に過ぎないけれど、多様な情報へのアクセス仕方を知り、読み解き、組み合わせをおこなうことによって、再び命あるものに還元することができるんだって、その手本みたいなんですから、本当に興奮します。情報は単体ではえてして弱いものですが、だから様々な情報で支え合い、補強して、またひとつの情報が次の情報をひき出すための呼び水となったりもして、当初の予想以上にいろいろなことがわかったりするのも非常に面白い体験なんです。これは学問だとかなんだとかは関係なくて、とにかく知るという、情報を咀嚼しわかるという楽しみ、喜びの洪水です。本来図書館とは、そうした知の楽しみ渦巻く遊園地、アトラクションであるのですが、けれど今は半分以上眠ってるっぽい? 残念よね。ほんと、残念だと思います。

あ、そうだ。パオロ・マッツァリーノは世界有数のふれあいウォッチャーだそうですが、氏に触発されて私もふれあいを求めたりなんとかしてみたところ、私の住むまちにもふれあいが発見されたのですね。その名もふれあい回遊のみち。その入り口に立つ案内の写真を撮りました。見てください:

  • Guidepost
  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』(ちくま文庫) 東京:筑摩書房,2007年。
  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』東京:イースト・プレス,2004年。

参考

引用

  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』(東京:筑摩書房,2007年),258頁。

2007年7月22日日曜日

ふたりごと自由帳

 昨日は小坂俊史編、とくれば本日は重野なおき編で決まりでしょう。重野なおきは、芳文社においては『ひまじん』、竹書房においては『Good Morning ティーチャー』、そして双葉社にては『うちの大家族』を連載し、そのどれもが人気という、地味ながらも才能の光る作家です。おそるべしはその連載数。上にあげただけでなく、『たびびと』(芳文社)、『千秋しまってこー!!』(竹書房)、『のの美捜査中!』(白泉社)といった連載もあって、これらがことごとく単行本化されているという事実を見ても、着実に売れる作家であるというのは間違いないところでしょう。しかし、なんでこうも支持されるのか。残念ながら、私には私の感じているところしかわからないのですが — 、人柄でしょうかね。漫画に、漫画の登場人物を通して現れる作者の人となりというかが、なんかすごくよいのだと思います。明るくて、前向きで、さっぱりした感じが気持ちいい、そんな人柄。そして、この感じは『ふたりごと自由帳』においても健在で、ああ重野なおきらしいなあと思った。つまりは、読んで気持ちのいい漫画だなあ、ってことであります。

『ふたりごと自由帳』での重野なおきは、小坂俊史同様、日常の暮らしに発想されたと思しい漫画が展開されていて、それもなんだかにんまりと笑ってしまいたくなるような恋愛、ぶきっちょという表現が実にしっかりくるような、そんな恋愛を描いたものが多くて、面白かった。なんというか、みんな今の状態で足踏みするのは嫌なんだという、とにかく前に向かおうという意気込みにあふれているというか、けどなんでそういう踏み出し方しちゃったの? みたいなところがすごく可愛らしく、そう、登場人物のアプローチの仕方が、ちょっとずつまどろっこしくて、ああでも確かに恋愛状況に入るとこんな感じかもね。なんか普通じゃいられんもんね、なんて思ってしまってほほ笑ましいのですよ。

でも、恋愛というのは常にうまくいくばかりでなくって、失恋の苦さ、そうしたものも、恋愛成就ものと同じくらい描かれていて、けれどそれが重苦しいばかりでなく、心に引っかかりながらもきれいに離れていくように感じられるのは、登場人物が自分の心の痛みも悔いもなにもかもを、少し突き放して客観的に見ているからなんだと思うのです。ああ、自分の心が痛いといっているよと、けれどそれでべそべそと泣いたりはしない。痛みを整理して、自分の心の動きをきっちり精算して、一体なぜ、私はこのように思うのだろう、その理由やきっかけが明らかにされて、そして後は余韻。余韻には、言葉にされなかった心の色がほんのりとあらわれて、しんみりとしたり、けれどきっと立ち直れるだろうと、やっぱり前向きなんでしょうかね、今とそしてこれから先のことがうかがえるような、そんな膨らみがあるのです。

私の好きだなと思ったのは、金魚の話でした。無理してる、けどその無理してることが明らかになって、そして……。面白かった。なんか、ほんとぶきっちょで、けどぶきっちょ同士がそれなりにひきあうような、そんな可愛らしさがいいなあって思った漫画です。そして「君に幸あれ」。この感情の流れ。私にも身につまされるところがあって、人はこうした負の感情からは容易には自由になれなくて、けど重野の漫画のいいところは、一旦は落ち込ませながらも、けれど最後にはきっと前向きに終わらせてくれる。人によっては、楽観的すぎるというのかも知れないけれど、重野なおきの明るさ、前向きさは気持ちがいい。ああ、自分もこうであれればいいね、皆もこうであれればいいねと、そういって静かに微笑んで本を閉じることのできる、そういうよさのある漫画であると思います。

  • 小坂俊史,重野なおき『ふたりごと自由帳』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。

2007年7月21日土曜日

ふたりごと自由帳

 なんだかもったいなくって、少しずつ読んでます。『ふたりごと自由帳』。だから、感想も少しずつ書いていこうと思います。今日は、小坂俊史編。

私が小坂俊史ときいて思い出す漫画はなにかというと、まずはなにをおいても『ひがわり娘』、これ、私の講読している芳文社の四コマ誌で連載されていたものです。そして女子スリーピースバンドを扱った『サイダースファンクラブ』でしょうか。他にもいろいろあって、私も他にもう少し持っているのですが、そのどれもに共通するのは、登場人物の破天荒さというかナンセンスぶりというか。自分勝手で非常識で、けど人間くさくて、なんか憎めないやつなんだよなあ、って感じ。けど、ちょっと小憎らしい。こんちくしょうって思うんだけど、ほんとお前ってどうしようもないやつだよなあ、ははは。そんなあっけらかんとしたところの強い作風だと思います。

でも、それは一面だったのですね。『ふたりごと自由帳』は小坂俊史、重野なおき両氏が同人誌にて発表した漫画をまとめたもの。つまりこれらは、描きたい題材を選んで、商業的な成功どうこうという要素を抜きにして、作られたものであったのですね。だからこそ、これまで私が触れてきたものとは味わいを大いに違えて、ナンセンスなギャグを得意とする小坂俊史がギャグをやらない。驚きだったとはいいません、だって予想していたことだもの。けれど、その心象風景のあまりに自分に訴えること、驚きをこえて嬉しくなった。ときに少し引っ込み思案の人たちの、内面に広がる思いのおかしさ、切なさ、いとおしさ。屈折していたり、あるいはまたあまりに素直すぎたりして、突拍子もない行動の原動力にもなる人間の心。それが、まあこんなにもしんしんと、淡々と、日常に紛れることもなく息づいているものだ。人は、人は、小さくて、弱くて、切なくて、悲しくて、そしてたくましいものであるなあと、そういうものを感じさせる作風。小坂俊史のよさは、こうしたところにも隠されていたのかと、これまでこの一面を知ることなくきたことがちょっと悔しいと思える漫画たちです。

でも、本当に人間くさい。それが漫画的というよりも文芸的といいたくなるような筆致で表されていて、ダイナミックさはもとより感じられない。本当にささやかな小品集といった味わい。ファンタジーに逃げず、あくまでも日常あるいは生活感を出発点とするような、違ういい方をするなら、ああそういうことってある、私もそんな風なこと考えたことあったわ、なんて共感に満ちた掌編たち。それが嬉しいのですよ。

こんなこといったら、笑うかも知れない。私は学生の頃、なんだか妙な思いにとらわれて、神戸線の電車飛び乗って、三宮を越えてずっと向こう、須磨の方までいったことがあったのです。日常を抜け出したいという思いであったのか、たまたま私が不安定なだけだったのか。目的もなく、ただ海が見たいなと思っただけの小旅行。なにを得られたわけでもないけれど、あの時の私にはきっと必要なことだったのだと思います。

小坂俊史の漫画を読んで、そんな昔のことを思い出しました。思いは共鳴する。今、そんなことを考えています。そして、私はこの漫画を読んで、身の回りにこの漫画について話のできる人がいないということをすごく残念がって、私の胸の中に生じた思いは、誰にも吐き出されることもないままに、胸の中、反響しながら虚空に落ちていくようです。

それではあんまりに寂しすぎるから、私はインターネットの闇に向かってこうして思いを放っているのかなって、そんなことも思った。だとしたら、小坂俊史も自分の中の思いを、こうした同人という活動において世に放ったのかも知れないと、そんなことに気付きました。大丈夫、小坂さんの放った思いは、きっと多くの人が受け取って、自分の思いに共鳴させながら読んでいることと思います。そしてその思いが、その人たちの中でまた違ったなにかに変わっていくのだとしたら、それはどんなにか素晴らしいことであろうと、そんなことを思います。

  • 小坂俊史,重野なおき『ふたりごと自由帳』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。

2007年7月20日金曜日

ゆびさきミルクティー

   以前読んだ知人の日記。兄が、お前が出てるぞといってにやにやしながら雑誌を持ってきて、そうしたらそれが最悪。主人公が女装趣味の男で、その名乗る名前が私と一緒なんだ、本当に最悪 — 。みたいな内容で、ピンときましたね。主人公が女装趣味の男。もうこれはあれしかないよ、って思って『ゆびさきミルクティー』? そしたらドンピシャですよ。そう『ゆびさきミルクティー』は女装してセルフポートレートを撮るのがライフワーク(?)の高校生池田由紀を主人公とする漫画で、ジャンルとしてはラブコメになると思うんだけど、ただ単純にラブコメと言い切ってしまうにはちょっと異質な感触もある漫画であります。

異色というのは、主人公が異性装者だからというわけではなく、むしろそこはかと漂うエロというか、それもなんか屈折した陰鬱なエロが感じられるところだと思うのですが、例えば、1巻表紙がこれ:

でもって、2巻はこう:

正直、鬱屈した男の視線があると感じられて、まあそう感じるのはそうした要素を私も持ってますっていう告白に限りなくイコールであるんですが……、ともあれフェティッシュへの傾きが強すぎて、読んでてたまに辛くなります。けれど、そうした傾きがこの漫画の味を決定する最大の要因であることもまた確かだから、こうした要素に嫌悪を感じるという人には勧められない漫画であると思います。

この漫画の味 — 、幼なじみの森居左と同級生の黒川水面の間で揺れる由紀の心の動きが、あまりにもナイーブに描かれるというそこではないかと思っています。由紀はあくまでも男であるのだけれど、その男であるということに戸惑いを覚えているとでもいうように異性装に打ち込んでいって、自分でない自分を演じることで、埋められない願望であるや果たされない欲望、煮え切らない自分への嫌悪、自分も含めて変わりゆく人の思いなどもろもろ、扱いきれない感情を引き受けようとするかのよう。けれどそれでも引き受けるにはいたらず、またもや揺れるという堂々巡りのスパイラル。読んでいてすごくもどかしかったのだけれど、そのもどかしさにこの漫画のらしさは集約されていると思います。

この漫画、最初は単巻ものであったらしいですね。なので第1巻の末においては、そのもどかしさを払拭する方向に向かって、いつまでも女性を演じられるわけではないという現実に直面した由紀が、少し堂々巡りの輪から抜け出す方向に一歩を踏み出した。そういう感触があったのでした。すべてを説明しているわけじゃない、けれど由紀の心の方向性は感じ取れるといったような含みのある描写、結構いいなと思ったものでした。

この漫画はその後も巻を重ねます。一旦は確定したと思われた由紀の心は再び揺れはじめ、また由紀、左、水面以外のキャラクターもかかわりを持つようになってきて、錯綜しているな、少しごたついた印象があります。私がこの漫画をはじめて読んだのは、ちょうど4巻が出た頃のことで、その頃は楽しみに読んでいたのですが、その後巻を重ねる毎に違和感が膨らんでいって、違和感は主に性的表現の屈折しつつもダイレクトに現れるというそこに濃厚で、正直最近ではちと辛いなんて思うことも多かった。なんて思ってたら、今、いったいなにが起こってるのでしょう。3月に出るはずだった第8巻が発売延期。それどころか、なんか単行本がことごとく絶版? ええーっ、なんかまずい事件とかあったっけ?

最初の印象に、独特の面白さを感じて読み続けてきた漫画が、中途半端の状況で止まっちまうってことにでもなったら、ちょっとやり切れないなあ。なんて思うってことは、今でもまだ楽しみにしているってことなんだと思います。とにかく、優柔不断の由紀。彼の思惑の確定するその時を待っているのは確かなことだと思います。

2007年7月19日木曜日

Nike Free 3.0

 そして結局買ったのでした。Nike Free 3.0。先日、スポーツ用品店で見たといっていたあれですよ。通常のナイキのシューズを10、裸足を0とした場合、この靴はちょうど中間に位置するんだというのがFree 5.0の売りであったのですが、それをさらに推し進めたFree 4.0というのがあり、そしてFree 3.0なんてのまで出て、確かにこの靴はすごい。全体にメッシュ。Free 5.0だとメッシュを合成皮革が覆ってまだずいぶんスニーカーらしく見えるのですが、3.0ともなるともうメッシュが全面に押し出されていて、ほんとにこれ大丈夫なのか、強度とかどうなんだと心配になるような塩梅で、けれど天下のNikeの靴なんだから、すぐにぶっ壊れるなんてことはないんだろうなと思います。

(画像はNike Free 5.0)

前回、Free 3.0を見付けたといって書いてみて、翌日に自分のサイズの在庫があるか確認にいったんですね。問い合わせてみると、27.5は売り切れてしまっている模様。残念。でも、お入り用なら注文しますよという話で、なんだ通常出荷なのか。そりゃ安心と思って、その日はそれでおしまい。再び訪れたのは先週くらいでしたかね、給料日を目前にして、余裕を持って注文しようかなと思って、どうせならきちんと足にあったのを欲しいと思ったものだから、その旨話したらフィッティングしてもらえたのでした。まずは在庫のあったFree 3.0, 26.5cmを出してもらって、それとは別にFree 7.0, 27cm。それぞれ足に合わせて、なんと26.5cmの時点で少し余裕があるそうじゃありませんか。指、伸ばしてますか? 伸ばしてます。で、つま先あたりを指で押して、5mmほど余裕がありますね。ちょっときっちり気味ですが、26.5cmで大丈夫そうですよ。ゆったり気味の方がいいなら、27.0cmを発注しますとのこと。さあ、どうしたもんだろう。私は基本的にゆったり気味を好んで履いてきたのですが、ここは一度きっちりサイズを試してみようかな。

こんな感じの経緯でもって、私はFree 3.0を入手するにいたったのです。あ、入手といっても先立つものの都合もあるから、実際に手に入れたのは昨日のことです。

履いてみました。そして歩いてみましたさ。全体にメッシュの靴、ぺらぺらかと思ったらそうでもなく、かかとまわりは固めに補強が入っているようです。そして、履いた感触。全体に今履いている5.0に大きくは違わないのですが、指先の感触が違います。もしかしたら、大きめの靴、きっちりの靴という違いもあるのかも知れません。けれど、Free 3.0においては、指先これで大丈夫なのかといいたくなるほどに、感触がダイレクト。靴底の薄さというのが実感されたのでした。

そして三十分ほど歩いて帰ってきて、足の裏が軽く疲れていて、ああこの感触ははじめてFree 5.0履いたときに似ている。あの時はインナーソール入れて、きっちり5.0で歩いていたわけですが、その後インナーソール取っ払って4.0相当にして、それでずいぶん慣れたと思っていたのに、3.0は予想以上、それ以上だったというわけですか。今、3.0はインナーソールを入れてるけれど、もしこれを取っ払ったら2.5くらいになるのかな? けれど今はそこまでは追求する必要なさそうかと思っています。

Freeを履いているとですね、歩いているとき、背骨を意識していることがわかります。もちろん、いい加減に歩けばそのへんのもろもろ吹っ飛んでしまうわけですが、けれどせっかくの靴、きちんと歩こうという意識も働くのかも知れません。そもそもゆがみ気味の体ですが、そのあたりの矯正も含めて、歩くということを再発見しているという感触です。

私信

先日の話について

成功したそうです。よかった。本当によかった。

2007年7月18日水曜日

荘村清志のギターで世界の名曲を

 NHK趣味悠々、毎年のようにギター関連の講座を開いてくれるのは実にありがたいところ。そして今年の講座はクラシックギター。荘村清志を講師に迎え、初級編と中級編、恐ろしい勢いで毎週レッスンが消化されていきます。恐ろしい勢い? ええ、すごい勢いです。番組の構成は前半分が初級編、後ろ半分が中級編。全十二回の番組で各六曲を仕上げるとなると、一曲に割り当てられる回数は二回ということがわかります。で、前後半で曲が違うから……、そう、一曲あたり三十分に満たないのですよ。それでは弾いていただきましょうといって、ざっと曲を見たら、次週は仕上げです。は、早すぎる! いくらなんでも駆け足すぎやしませんか!?

だなんて思って、まあ実際駆け足なんですけど、それでも生徒さんはしっかりと曲を弾けるようにまでなるんですから、頑張ってらっしゃるわあって思います。収録にどれくらいの時間かけたんでしょう。一週間くらい開いてるのかなあ。とにかく、最初は一生懸命つっかえつっかえやってますって具合だったのが、次週にはまがりなりにも通せるようになっていて、本当、頭が下がります。私も頑張ろう。

番組は今日から『マリセリーノの歌』、『涙』に入って、つまり折り返しですね。私としては珍しくこれまで全部視聴してきて、選曲、よく考えられてるなあって感心して、やっぱり有名な曲があるということは重要なことですよ。親しみやすく弾きやすく、また人に聴かせて喜ばれることも多いのは有名曲。有名でなくとも、聴いてああいい曲だねと思えるような曲を学べるというのは、学ぶものにおいてもやる気になりやすいだろうし、それに人に聴いてもらえるということは張り合いにもなります。だから、いい選曲だと思うわけです。

『禁じられた遊び』は別格だと思いますが、他にも有名曲は多く、映画音楽からのピックアップが多いですよね。今日放送の『マリセリーノの歌』もそうで、私は『汚れなき悪戯』という映画は知らなかったのですが、この曲には聴き覚えがありました。そんな具合に、クラシックギターに造詣深くなくても弾いて、聴いて楽しめる。初級編ならそんなに難しくないし(我流の私でも初見でなんとかなる程度です)、中級編にしても練習すればなんとかなりそうねと思わせるくらいに難度が抑えられているから、そこそこ弾いている人にはちょうどいい曲集なんじゃないかと思います。まったくの初心者にはきついかもは知れませんが、当座の目標と思えばわりと悪くない感じ? この手のテキストは番組が終わってしばらくすると買えなくなるのが一般だから、とりあえず押さえておくというのもいいんじゃないかと思います。

2007年7月17日火曜日

夢を忘れない

  私が沢田聖子の『夢を忘れない』という歌を知ったのは、アニメになった『赤ずきんチャチャ』のサウンドトラックにこの曲が収録されていたから。なんだ、アニメかなんておっしゃらないでください。私は常々思っているのですが、アニメには思わぬ名曲が多い。それも、サントラにのみ収録されるような、 — まあ有り体にいえば、レコード会社の絡みやなんかで収録されるような場合もあるらしいんですけど、けれどそうしたものが思わぬ輝きを放つことがあって、『夢を忘れない』もそんな一曲なんじゃないかと思っています。

四分あまりと短い歌です。女性ボーカルの透明な歌声が伸びやかに、爽やかに、そして少ししめやかに、けれど聴けば頑張ろうと、そんな風に思える歌です。正直、これは応援歌だと思う。夢に、今に、生きることに疲れてしまった、そんな人にこそ届くのではないか。くじけてしまった心を、頑張れなんていうように無理に後押しすることなく、不安や辛さがあってもきっと越えていけるよ、大丈夫だよと、はげましてくれる、力づけてくれる。そんな歌なのです。

私は疲れたとき、くじけそうなとき、ことさらあえて音楽でもって心を支えようとはしない、そういう冷めたところのある人間なのですが、けれど日常に音楽を携帯して聴いている、シャッフルまかせに聴く音楽、思いがけずこの曲が流れてくる。そうすると、はっとして心が立ち止まるような思いがします。どことなく厳粛で、けれど許されたような優しさに包まれて、そして私は自分が今疲れていたと、無理に意固地に頑張ろうとしてたと気付くのです。そんな経験はこれまでに何度もあって、一息もつかずうつむいて一心不乱に進んでいるみたいな、そんな重苦しさに光の差すような気がして、ああ、なんていい歌なんだろうって思うのです。そして、自分はまだ大丈夫だって、しなやかさを取り戻した心で、晴れやかな気持ちをともに再び歩いていこう、一歩一歩を、その瞬間をこそ大切にしてと思えるようになるのです。

だから、私はいつかこの歌を自分でも歌えるように練習しようと思っていて、自分が人になにかをなせるかなどと思うことは、それ自体がおこがましいことですが、けれどそれでも勇気づけたい人っているじゃないですか。うつむいた人、辛さ苦しさに押しつぶされそうになった人、もう歩き出せなくなってしまった、けれど本当は誰よりも前向きに生きたい人がいるというときに、私にはなにもいうことができないから、なんの助けにも力にもなれないから、だからせめて歌の力を借りてでも、勇気づけたい、元気を出してとはげましたい。きっと、大丈夫だよと、気休めなんかじゃなくて、心からの応援をしたいと思うことがあるのです。

そして、この歌を歌うことは、なにごとにもくじけてしまいがちな私自身も救うのではないかと、そんな風に思っています。また歩き出せる、自分は大丈夫と、そう思う力を注いでくれる歌であると思っています。

2007年7月16日月曜日

とらぶるクリック!!

 最初のうちは、うーん、これどうだろう、なんて思っていたのに、気がついたら好きになっているものってあると思うのです。慣れた? ほだされた? それとも面白さに気付いたのかな? それは漫画によって違ってる。なので今回は門瀬粗の『とらぶるクリック!!』について考えてみたいと思います。『とらぶるクリック!!』は『まんがタイムきららキャラット』に連載されている漫画、高校PC部に在籍するお騒がせ三人娘のどたばたとした日常を愛でる漫画であると思うのですが、なんといってもヒロインの設定がきています。PCどころか機械が駄目な体質で、なにが駄目といっても、触れるだけで機械を壊してしまうという特異体質。実際にこういう人っているらしいですけどね。帯電体質っていうのか、静電気ため込みやすい(というかむしろ発する?)人は、機械もの壊してしまうっていいますね。でも本書のヒロイン琴吹杏珠は一味違うぞ。だって故障程度ですまされません。きっちり爆発させてしまうという過激さで、でも、なんだ、PC爆発ってなんだか昭和テイストだな!

正直な話、しくじったって思ってるんです。いやね、私、買おうかどうか迷いながら、購入を見送ったんですよ。好きか嫌いかといわれると、嫌いじゃない、けれど好きと明言できない、そういう感じの微妙なライン上にあったっていえばいいでしょうか、ええと、これ第1巻の発売された頃の話、だから2006年9月の話。けど、後悔は先に立たず、なんであんときに買っとかなかったんだ、つまり今は好きだって話です。

キャラクターの個性をつかみあぐねたのが失敗だったかなって思うんです。キャラクターは基本的に五人。先にいった、PC壊す人。ヒロインにしてぼけ担当。ぼけがあるならもちろんつっこみもいて、それが長谷部茉莉。そしてPC部の妖精内藤柚が加わって、後は部長とか副部長とか。そんなに多い人数じゃないんだけど、なんで私はこんがらがってたんだろうって思います。琴吹杏珠に関してはオッケーでした。とりあえずキャラクターは立ってます。でもなんでか後は曖昧としていて、はっきりと区別がつかなくて、だから毎回の連載はそれなりに読んではいたけれど、しっくりときていなかった。そう、きっと一度既刊読み返しをやっていたら違ったんだと思います。ある程度、キャラクターが見えてきた時点で、第1回に遡って既刊を全部読んでみる。これやると、ふーん面白いね、って思っていた漫画が、おお、こんなに面白かったっけか、みたいに一挙に昇格することもあって、『とらぶるクリック!!』でそれやってたら、間違いなく昇格しただろうのになあ。今、遅ればせながら第1巻を手にして読み直してみて、そう思います。

だって、面白いんだ。最初の頃、PC爆発ネタが濃厚だった頃、基本的に爆発落ちの漫画なんだな、みたいにしか読んでなくて、いやね、そりゃ柚のフラッシュメモリが煙出したり、細かいところに面白みが仕込まれてるなあとは思いましたけど、けどその時の私はそこで止まってた。だから買わなかった。遅れて買ったら初版初刷なのに帯がなかった。後悔しています。なんであのとき、カラーページ、後書き、カバー下まで確認していながら買わなかったんだ。わたくしのばかばかばか。まあ、自分の見込みの甘かったことへのペナルティとして甘受するほかないでしょう。

読み直して、第1巻時点でこんなに面白かったんだと思った『とらぶるクリック!!』ですが、けれど本当に面白いのはこれ以降かと思います。私が単行本にまで遡ろうと思ったのは、連載されている今が面白いからに他ならず、新しいキャラクターなつめろを加えて、また部長の秘密もあらわになるなど、けれど面白さは新キャラクターのためじゃない。もとからいるキャラクターの持ってる可能性が、開かれているからだと思います。

PCクラッシャーとあだ名された琴吹杏珠は、まさにその代表格といっていいと思います。当初こそはPCを壊し、自販機を壊し、iPadを壊し、破壊の限りを尽くした彼女、機械に近づくことさえかなわぬ不幸キャラであった彼女が、触っても壊れないコンピュータを手に入れてからは、典型的PC初心者になって、今どきあり得ないほどのピュアぶりを発揮、さらには巨大掲示板に染まり、周囲に痛さをふりまき、友人たちを赤面させる。動いてる、動いてますよ。当初設定から状況が動き出して、キャラクターの持ち味がどんどん膨らんでいっていると感じられて、そしてそれは今もなお進行している最中なのだと思います。第2巻はより面白く、第3巻はそれ以上に面白くなるんじゃないかなあ、なんていう風に思って、だから2巻の出る前に第1巻を入手せねばならないと思ったのでした。

蛇足

さて、そんな遅れてきた読者である私のお気に入りは誰かというと、内藤柚です。小柄、人見知り、コンピュータ得意、実は眼鏡、147センチ! クレバーで明らかに情報系生物でAAAで気を使いすぎで今もなお減っている。オフ会の話は最高だったと思っています。

あ、そうじゃ。まんがタイムきららWebでも『とらぶるクリック!!』は読めまして、その名も『Webクリ!!』。

このWeb連載は、宣伝効果としてはかなり高いものだと思っています。少なくとも私にとっては。ここに出せば、大抵のものは好きになれるんじゃないかな、なんて思う私です。

2007年7月15日日曜日

かっちぇる♪

  続き読みたさにたまらず追加オーダーを入れた『かっちぇる♪』第3第4巻が早速届きました。って、すごいね。なんと中一日ですよ。夜十時過ぎに注文、翌朝一番に発送処理、今日昼前に到着って、恐ろしいですジュンク堂書店。在庫のあることを確認して注文してるから当然といえば当然かも知れないけど、それにしてもこのレスポンスはすごすぎる。かくして、想像以上の早さで全巻が揃って、ああなんかすごくたまらない感じ。うずうずとしている。やっとかんといかんことはたくさんあったと思うのに、座り込んで、ざくざく音立てるようにして読み進めてしまいました。そして、そして、やっぱりこの手の漫画はいいわね。青春の光の影とでもいおうか、輝かしく素晴らしい時間が確かに流れていると実感できる。けれど、彼女らはこんなにも楽しげだというのに、私の心の奥にぽつりと黒い染みみたいなのがあると感じられるのはなんででしょう。本当になんでなんでしょう。

もし時間が戻るのなら…… もっといっぱい色んなことすればよかったと後悔しています

私にも人並みに高校時代というのがあって、それはそれなりに部活やったりして、弱小ながらもコンクールに出て、銅賞もらって(吹奏楽コンクールで銅賞は参加賞と同義です)、毎年恒例の大イベント、定期演奏会に向けて頑張ったりした。誰も信じないかも知れないけれど、そんな頃があったのです。土日もなく毎日練習、練習後には演奏会に向けての会議やらなんやら、ときには険悪になったりもしたけれどそれなりに充実していた二年とちょっとだった。だから、私はこうした漫画を見て、ああ私もそうだったって、追いかけたもの、目指したなにかは違うけれど、私も昔は同じだったんだよって、思えばいいのに、胸には空白ばかりが広がっているのはどういうことなのでしょう。私は自分の高校時代に負い目がある。毎年、定演の季節がくれば空白にとらわれて、気をおかしくさせて、いらいらとして、いつしかその空白は感じなくなったけれど、けれど本当をいうと、うっすらと年間をとおして身の回りに立ちこめているって知ってる。気付いているから、私はそんな空虚を払いたくて、こうした漫画を見てはその真っ直中に思いを放つのです。青春の頃よ今一度と、帰らない時間を追想しては、得られなかったなにかを自分の中に探そうとするかのようです。

でも、『かっちぇる♪』はちょっと違う感触を自分の中に残しました。読み終えて、いや、読んでいる最中からもずっと感じていたのだけれど、この漫画に出てくる女の子たちは、私にどこか似ている。自分を持て余している。自分の立つ位置に戸惑っている。特に杉山がそう。杉山というのは、この漫画のヒロインで、バレー部のキャプテンです。なのに、こんなにも自信がなくて、ほんと大丈夫かと心配になるような娘で、けどそんな娘だけど、ちゃんと成長してさ、自分にも譲れないものがあるんだって、自分の居場所はここなんだって、そうはっきりといえるようになったのです。

でも、これは杉山だけではなかったと思います。だって、この漫画の主要六人は、皆それなりに自分を持て余していて戸惑っていたから。そもそも思春期っていうのがそういう時期だっていうんだろうけど、私もそうだったように、きっと誰もがそうだったんだろうと思うんだけど、だからこそ、まちまちだった彼女らがだんだんと近づいていって、馬鹿なことも、楽しいことも、そして不安も苦しさもしんどさも分け合うようにして、チームになっていく過程が見えるようなこの漫画、読んでいてすごく幸いな気分でした。

それだからこそ、最終話は辛かった。身につまされて辛かったのです。杉山はやっぱり私に似ています。杉山のその後は私よりもおそらくは緩やかに進行したのだろうけれど、私は、それこそ絶縁状叩きつけるみたいにして終えたから。それこそ卒業アルバム、クラブ活動の写真に私は写っていない。私ははじめからどこにもいなかったかのようにいなくなって、それはやっぱり見付けてくれる誰かを待っていたのかも知れません。

実をいいますと、全話読み終えて、私はかっちぇるって言葉の意味をわかっていません。どっかで説明があったんじゃないかと思って探したりもしたんですが、やっぱりどこにも触れられていなくて、けれどもしかしたら、関西弁でいう寄せるなのかなって思っています。遊びの仲間に加えて欲しいときに、よーせーてーっ、っていうんです。よーせーてーっ。そういうのが苦手な子らがひょんなことをきっかけに集まって、自分たちの場所を築いていく、『かっちぇる♪』とはそうした漫画で、そしてその場所は変わることなく自分を待っていてくれる — 、そこに私はたまらないうらやましさを感じてしまうのです。

  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第1巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2002年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第2巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2002年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第3巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2003年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第4巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2004年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第5巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2005年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第6巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2005年。

引用

  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第6巻 (東京:講談社,2005年),167頁。

2007年7月14日土曜日

Yotsuba&!

  昨日、待つに待たれないので『かっちぇる♪』中巻を別の書店で注文しましたっていう話をしていましたね。更新を終えて、やれやれメールでも確認するかと思いまして、メーラー開いたらAmazonさんからメールが届いているではありませんか! やられたっ、てっきり確保されずにキャンセルされるつもりでいたから、参ったなあどうしようなんて思いまして、メール開いてみたら、あら、違う本でした。Yotsubato&!第4巻だったんですね。おお、いったいどんな風に翻訳されるのかって楽しみにしていた漫画ではありませんか。

本が届いて、いの一番に開いたのは、やっぱり風香の失恋の回、そう、グッバイマイラブですよ。勢い込んで開いてみたら、OH MY ! 、フランス語じゃないよ! SAYONARA, LOVE. って、かあー、日本語かぁ。この発想はちょっとなかったわ。完敗であります。

けれど、こうして英語で読んでみても思うんですが、『よつばと!』は面白いなあ。だってね、すらすらと英語読めるわけでない私がですよ、それでもやっぱり笑ってしまうんですよ。すべてがちゃんと理解できているわけではないにも関わらず、それでも面白くって笑ってしまうっていうのは、やっぱり絵の力もあるのかなあ。もともとからして語る力のある絵に英語が付いて、わかってもわからなくってもぐいぐいと読めて、これは力になるわ。英語の理解力が、感覚的につくっていうものですよ。実際の話、ほー、こういう場面ではこんな風にいったらいいのかなんて思うことは多くてですね、外国語で書くときにこうした発想を役立てられれば最高でしょう。

さてさて、以前いってたラジオ体操は、まったくラジオという表現を使わないで、Morning Calisthenicsとされていて、へえ、Calisthenicsっていうのは美容体操か。知らない単語でした、勉強になりました。

まだざっとしか見てないのですが、今回の気になったところといえば、みうらの台詞、バーチャル世代だ ゲーム感覚だなでありまして、これこんな風に訳されています:THIS ISN'T REAL! I FEEL LIKE I'M IN A GAME! 台詞の意味がまったく違っちゃっています。ここでのみうらは、動じず魚をさばく恵那に対してのもの。生きた魚を開く行為に対し、バーチャル世代の子供はゲーム感覚でやっちゃうんですよ、マスコミが少年の凶悪犯罪に対し吐く無責任な決めつけですが、そういうニュアンスでいってるわけです。なので、翻訳はちょっと変。これは現実なんかじゃない! ゲームの中にいるみたい!じゃあ駄目なわけです。って、これ、翻訳者は大いに困ったところなんじゃないかと思うんですが、だってね、向こうの人は日本のマスコミのいうゲーム感覚云々といった言説には触れてないわけですからね。一体、みうらはなにをいってるんだろうってな感じだったんじゃないかなって思うのです。

そうだ、面白いっていえば、お姉ちゃん! アメリカったらひどいのよじゃないかって思うんですか、どうでしょう。環境問題にも興味津々の恵那が、アメリカの排出量について怒りにまかせていったこの言葉。アメリカの読者にはどのように届くのか。ちょっと興味深い(意地悪な意味でじゃなくてね)。実際、こうしたシリアスなお子たちは多いと思うんで、子供だって地球温暖化について考えてるんだぞって。ほんと、いいシーンだと思います。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. Texas : ADV Manga, 2007.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. Texas : ADV Manga, 2007.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (東京:メディアワークス,2005年),129頁。
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. (Texas : ADV Manga, 2007), p. 129.
  • あずまきよひこ,前掲,58頁。
  • Azuma, Kiyohiko, op. cit., p. 58.
  • あずまきよひこ,前掲,99頁。

2007年7月13日金曜日

かっちぇる♪

  もうずいぶん以前のことなのですが、このBlogを読んでくださっている方から推薦いただきまして、『かっちぇる♪』っていう漫画が面白いですよって。長崎を舞台に繰り広げられる、バレーボールの漫画なんだそうです。そうかあ、『かっちぇる♪』かあ、読んでみようと思いながら、その機会を持つこと今の今までかなわず、いえね、ずっと覚えてはいたんですよ。地上三十階書店にいったりした日には、ぶらりと店内一周しながら探したりしていたんですが、どうにも出会えずにいて、けどそりゃとんだ心得違いをしていたせいだわ。っていうんは、私、この漫画、ずっとB6判型だと思っていたんです。そうしたら、なんと新書サイズじゃなかかー。って、無理してろくに知らん長崎弁つかわんでええです。

けど、慌ててネット書店に発注出して、よかった。実際、探しても探しても見当たらんもんだから、一体どこで買えるんだろうと大きなインターネット本屋さんにて調べて見たら、なんともう買えんようになっとるみたいじゃないですか。極め付けは2巻でした。なんと、注文さえできなくなってる。あかん、これは急いで買わんと手に入らんと、とにかくボタン押しまくって、2巻は別のネット書店で買った。そうしたら、なんと3巻4巻が届かへんのよ。ああ、しくじったわあ。実は別のネット書店には3巻4巻の在庫があることわかってて、だったらこっちで決着すればよかった。とはいえ、一度注文出しておいて、やっぱりやめましたなんて情のないことはできん。けれど商品が確保できませんでしたといわれる未来を待つほど残酷なこともない。ええい、買ったる。えっと、ちょっとまってて、ジュンク堂の在庫、空にしてくるから。……。というわけで、ジュンク堂池袋本店の『かっちぇる♪』は私が買い占めました。まさに今。もしAmazonから3巻4巻が届いたとしても、それはもうそん時の話。別にかまわんし。探してるっていう人がいるなら譲る用意はあります、って、それはちゃんと手もとに届いてからの話ね。

こんだけ焦ったのは、もう先が読みたくて読みたくて仕方なかったからなんです。私が最初に手にしたのはジュンク堂から取り寄せた第2巻でした。これをさらっと読んでみて、あ、面白いな、なんて思ったんです。なんかね、登場人物みんな、どこか能天気な人たちばかりで、熱血というほど熱血ではなく、シリアスというほどシリアスじゃないんだけど、けれどそんな態度の向こうに、バレーボール楽しもうっていう気持ちが見えて、なんか楽しそうだなあっていう感じ。バレー漫画でスポーツものというほどバレーボールが出てくるわけでもないんですが、バレー部を取り巻く青春を、スナップ写真撮るみたいに切り取ってみました、そんな感じの漫画だと思います。

こんな感想を持ったのですが、けれど第1巻が届いて、最初から読んでみたら、あ、面白いなどころじゃないなと。この漫画に出てくる人たちって、どこかに自分を持て余したり持て余されたりしていたんだっていうことが一番最初に描かれていて、なんか青春って悲しかったりもしたよね、って思い出した。うまくできない自分に自信が持てなかったりしたじゃない。友人関係だったりさ、あるいは好きでやってることでもさ、なんでも、うまくできることなんてほとんどなかったような気がする。そんなとき、妙に空白で空虚な感じで、なにやってるんだろうって思ったり。ああ、彼女らもおんなじなんだろうなって思ったら泣けてきた。情けなさとかじゃなくて、そんな彼女らがバレーボールを通じて知りあい、バレー部という場において互いに支え合い繋ぎ止めあってるような、そんなところがいいなと思って、友情だなんてことさらにはいわないし、熱血だとかシリアスとかはやっぱり似合わなくって、でも彼女らは、いい加減にはしたくないよって、そんな風に思ってるんだって伝わってくるから — 。そうした前提で読んでみれば、無力感に打ちひしがれながらも前に出ようとする杉山の姿は重かったなと思って、バレー部を取り巻く青春漫画っていう印象よりも、青春の波立ちに一本打ち込まれた杭がバレーボールであるのだろうなって、そしてその杭をよりどころとして過ごされる彼女らの時間はどんな風であるのだろう……。

なんて思ったものだから、3巻4巻ががぜん読みたくなって、だって5巻6巻はもうあるんですよ。はやく、とにかくすぐに中巻がこないと、焦って先を読みそうだ、封印するにも限界があろうよって、そんな感じであったのでした。

先についてはまだわからないけど、きっと多分もっとなにか素晴らしくなりそうな予感がしています。だから、その時にはまた書くこともあるでしょう。というか、きっと書きそうに思います。

蛇足

羽柴ヨネがいいですね。クール、真面目、実力派、だけど不器用。そんな様が妙に可愛かったり。とにかく凛々しい女の子はいいものだと思います。

  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第1巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2002年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第2巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2002年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第3巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2003年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第4巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2004年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第5巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2005年。
  • かわくぼ香織『かっちぇる♪』第6巻 (講談社コミックス(月マ)) 東京:講談社,2005年。

2007年7月12日木曜日

ショパンとバイエル

 もう十年ほども前のことになるんですね。よしまさこの『ショパンとバイエル』、そのタイトルがきっかけで買った漫画でした。その頃、私は毎日のように寄る書店があったのですが、そこに新刊として並んでいたのだろうと思います。十年前といえば、ちょうど四コマを読みはじめた頃にあたるでしょうか。当時の私は少女誌そして女性誌を買い、急速に漫画の視野を広げていました。その以前に私の知っていた漫画の世界、主に少年誌に連載されるようなもの、それらが漫画というジャンルにおいては一角を占めるだけに過ぎないということを知って、少年や青年向けには現れない、また異なるシリアス、リアリティを持つ漫画があると知って — 、私はその新しい世界の発見に夢中になったのですね。女姉弟の中で育ってきたのもあるのかも知れません。その新たな世界が持つ実感の方が、より自分にしっくりくると気付いてしまって私は、今もなお少女向け女性向けの漫画にとらわれています。それが絶対とは思わないけれども、けれどその実感は、青年向けの漫画が持つリアリティを凌駕して、 — 心に触れるかのように感じるのです。

『ショパンとバイエル』は少年が主人公。けれど構造としては、少年の思いを寄せるピアノ教師こそが主体なのだと思います。厳しく冷たい言葉を放つ女性教師は……、私としてはそういう態度どうだろうなんて思うのですが、けれどその態度の向こうにある心のかたちに少年は気付いてしまった。その媒介となるのが当時はやりのコンピュータ、そして通信。この漫画が発表された1998年はどんな時代だったろう。実はこととねはもうありました。けれどインターネットはまだ主流といえるほどに成長しておらず、パソコン通信がまだ盛況だった。そんな時代。多分、彼らが言葉を交わしたのはパソコン通信だったのでしょう。画像どころか色彩さえもない、純然たる文字の世界。画面に浮かび、流れ、消えてゆく文字の世界。チャットも盛んで、CD-ROMという媒体が牽引したマルチメディアブームの影、最後の花火打ち上げるように、夜、11時を待って人は文字の世界に没入して、キーボード叩き、心のうちを誰かに届けようとしていた。そんな時代だったと思います。

本当に心が届くのかい? 文字だけで、心が通いあうのかというと、そういうこともあったのですよ。あれは、なんといったらいいんだろう、夢の世界みたいだった。ここではすべてが自己申告制だものね(笑)。画面のこちら側の現実を脱ぎ捨てるようにして、生身の精神が出会うように感じた私たちは、かつて経験もしたことのないような新しい関係に浮かされていたのだと思います。もちろん、その熱の冷めるとともに消えていった関係もあり、けれどその熱さを現実に繋ぎ止めたケースもあることはやはり確かで、だから今『ショパンとバイエル』を読むと、懐かしくて、おとぎ話みたいで、けれどこういう話もあり得たろう。会ったことのないと思っていた、現実には決して触れることのなかった心が、ネットワーク越しに触れるというロマンチックに、なんだか心がほぐされてしまうのですよ。

少年は中学生で、ピアノ教師は27歳、大人の女で、現実の世界ならきみにキスできるのに、けれど現実にはそれはかなうべくもないことと知っていたのはほかならぬバイエル、彼自身でした。その埋まらぬ距離に煩悶する思いに切なさは込み上げ、だから最後に彼の仕掛けたからくりが効いてくる。現実はあくまで現実で、じゃあネットはしょせん虚構に過ぎなかったのかといえば、そんなことはないのだよと、最後の最後、すべての繋がったとき、バイエルであった圭吾の思いは高らかに世界を歌いあげたのだと思います。

引用

2007年7月11日水曜日

人体模型の夜

  中島らもは、私の読書体験において決して抜くことのできない作家で、いや、作家っていうのとはちょっと違うかな? っていうのは、私にとっての初中島らもは新聞連載のコラムであって、その名も『明るい悩み相談室』。読者からの相談を受けて中島らもが答える。けどその相談がちょっと普通と違って、ほら、普通新聞とかの身の上相談って、誰にもあり得そうなことを取り上げるでしょう? でも『明るい悩み相談室』は違う。こんなので悩んでんのいったい日本に何人いるものだか、下手したらこの人だけじゃないのみたいなのが続々出てきて、そうした特異な悩みを解決すべく答える中島らもの文章もふるっていて、面白かったなあ。茶化してるんじゃないんです、わりと真面目なんですよ。でもその真面目の軸が普通からかけ離れていて、目からうろこ的体験があって、常識を疑ってみるというのはこんなにも楽しいことなんだと教えてくれたのは中島らもでした。と、こんな具合に面白い中島らもがその後小説書くようになって、私もいくつか読んでいるのですが、今日はそんな中から『人体模型の夜』を取り上げたいと思います。

『人体模型の夜』、なんか珍妙なタイトル、けれど私はこのタイトルすごく好きで、忘れられない小説のタイトルを挙げろといわれたら、きっと候補にあがります。それくらいに好き。そしてその内容についても忘れられないものがあって、ときに、例えばラーメン屋に入ったときなどに思い出す。なんかね、身体的な部分、触覚嗅覚といった感覚に訴えるところのある小説だからだと思います。

身体に訴えるというのは、まあ当たり前なんですけどね。っていうのは、この小説、身体の部位をテーマにした短編が十二編たばねられたもので、そうした特質もあってか体感的に残る感触がある。妙な気色の悪さ、ぞっとする怖さというより、うえっとくるおぞましさ。基本的には怪奇譚なんですが、ホラーと思わせて現実的なところに落とされる話が多いというのも特徴かも知れません。実際にもありそうと感じた話が、ことさら私の記憶に残ったってだけなのかも知れませんけれど。

今回、最初に『明るい悩み相談室』に触れたのは、胃袋に関する短編が、明らかに『明るい悩み相談室』に寄せられたケースをもとにしているからでした。冗談めかした相談も多いこの連載において、シリアス味もないではない相談で、そのせいか私の記憶にも引っかかって忘れられないものとなったのですが、もしかしたらそれは中島らもにとってもそうだったのかも知れないですね。その時の中島らもの答えは、この短編においてもあらわれているんだけど、けれどそれは通過点に過ぎなくて、より深みに向かって落ち込んでいくような嫌な感じのある短編に仕上がっています。ちょっと終わりに向かって焦り気味という感もないではないけれど、その切迫感のせいもあって、がつがつとラストに向かおうという気持ちが強くなって、そして小気味のいい落ち。ああいいひねりだなって思いましたとも。あの悩みを受けて、数年寝かした結果がこういうかたちに落ち着いたのかと思った。私の子供の頃の引っ掛かりがいい感じにいなされた、そんな風に感じたのでした。

もしかしたらこの短編に限らず他のものにしても、なんらかの原体験のようなものがあるのかも知れないですね。なにか引っ掛かりやわだかまりのようなものがあって、それが小説というかたちをなして満足させられた。そんな感じがしています。けれどその小説は、読んだものに新たなわだかまりや引っ掛かりを残して、それが例えば私がラーメン屋でふと思い出すといったような話。かくしてわだかまりは連鎖して、そのわだかまる感じを決着させたいのか逆なのか、ざわつく気持ちに押されるように読みたくなることもある、そんな一冊です。

戯曲

2007年7月10日火曜日

論文作法 — 調査・研究・執筆の技術と手順

大学は卒業にあたり論文を必要とするものと思っていたのですが、学部によっては、あるいは大学によっては必要なかったりするみたいですね。けど、可能であらば論文は書いたほうがいいと思っています。たとえそれができの悪いものであっても、一度は経験しておいたほうがいいものだと思うのです。ひとつのテーマに取り組んで、あれやこれやと頭悩ました結果を文章に落としていく。こうした一連の作業を通して、頭の中にもやもやと立ちこめる思いや疑念、疑問、迷い、情念、思いつきからひらめきまでを整理し、明確な輪郭を持つ論にまとめる術を学ぶことができる。まあ、論だなんて大げさなこといわなくてもですね、自分の思っているところを誰かに伝えるための方法が学べるわけで、こうした技法はですよ、その後の人生で一度も論文書くことがないとしても、無駄にはならないと思うんです。実際私は論文書いて、得るところが大いにあったと思っています。だから私は大学にいっといてよかったなあって、本心から思うのです。

大学では論文を書くにあたり、ゼミ(ゼミナール、最近はセミナーっていうの?)においてその方法をみっちりと仕込まれるのが普通です。少なくとも私の大学、専攻においてはそうでした。論文を書くための指南書というか、テキストを講読しながら、その実際的な方法を学んでいくんです。またこのテキストを読むこと自体もひとつの訓練で、資料をあるいは著者のいわんとするところをよく把握しまとめる力をつける、そうした練習にもなっているのです。

大学の三年のゼミ、採用された指南書はふたつありました。ひとつは『音楽の文章術』、非常に実際的な手続きをよく説明する良書です。そしてもうひとつはウンベルト・エーコの『論文作法』。論文を書くとはどういうことかといった心がけから資料の集め方、整理法、そして実際に書くという作業について。丁寧な筆致で例も豊富に説明する、これもまた良書であったと思います。『音楽の文章術』みたいに、ツールとしての便利さがあるわけではないのですが、けれど論文を書くということ、つまりは研究するという姿勢において大切なことに触れるような、そんなところのある本でした。ちょっと情緒的かも知れない、例えばが多すぎる、くだくだしいと感じるところもあったりしたけれど、けれどそうした部分も含めて読んで面白かった。論文というものは大げさな新説をぶち上げるのが本筋じゃないんだよといってくれてるようで、先もわからず不安だった私たち学生に、頑張ろうという気持ちを沸き立たせるようなところのある本でした。

でも、私はそれでも誤ったんですよね。エーコが例として出したアドルフ・アッピアに取り組む学生の話。歴史家や理論家によって多量に研究され尽くされている、もはや何もいうべき新しいことはないように思われるテーマを選択した学位志願者が、研究の結果アッピアの書き物[中略]や、アッピアに関する書き物について文献表を作成することに成功した、という逸話を曲解して、詳細な調べ勉強さえすればいいという間違ったやり方を選択した揚げ句、読んでいてつまらないと評される論文(ともいえない代物)をでっち上げるにいたったのです。あれは失敗でした。態度がすでに間違っていた。自分がその対象についてどう取り組みたいかという、それさえもなかった。だから私にとってあの作文は悔いです。けれどその悔いがあったからこそ、次に私はまっすぐに対象に向かう勇気を奮うことができたんだと思います。少しはましな論文を書けたという実感を持てて、そうして私は前に進むことができるようになったのだと、そしてエーコがこの本においていっていた本当のことを、目をそらすことなく正しく受け取れるようになったのだと思います。

多分、この本はまだなんもよくわかっていない学生の頃に読むよりも、ある程度いろいろが見えてきてから読んだほうが面白いんだと思います。けどあくまでも論文を書くための本ですから、論文を書かなくなった今あえて読もうという気にもなりにくく、ですがそれでもいつでも手の届くところに置かれている。なんだかちょっと特別な本みたいじゃないですか。いや、実際に私にとっては特別な本であるのだと思います。

引用

2007年7月9日月曜日

Boy’sたいむ

  手違いから男子寮に入ることになった女の子、葉山ひろむをめぐるどたばたの楽しい『Boy’sたいむ』ですが、この漫画に問題があるとしたら、男子として生活しているひろむの方が、女子モードのひろむよりも可愛いってとこなんじゃないかなあ、なんて思うのですがどうでしょう。ショートヘア、眼鏡で少年っぽいいでたち。ベースにある女の子っぽい思考、行動様式にこれら要素が加わることで、実に中性的な感じになっていましてね、そして極め付けは一人称がってとこでしょうか。いやあ、これは実際置島が迷うのも仕方がないよって、うんうんうなずきながら読んでいます。

置島ってのはですね、ちょっといい男で女のコ大好きというそんな少年だったのですが、本来ならいけ好かないポジションである彼がですよ、なんでそういうことになったのか、ひろむのちょっとしたしぐさにドッキリとして、迷う。自分が倒錯しているのではないかと迷い、けれどそれでもひろむに迷い、さらに2巻ではまた違った嗜好をも開花させ、一体作者は置島をどうしようというんだろう、なんてこと口ではいいながら、本心ではやれやれもっとやれと思ってるんだから、それこそ『バーコードファイター』よろしく、俺、男のひろむが好きなんだ!ってな感じの展開をわくわくしながら待っている節があるものだから、ほんと自分のことながらたいがいだと思います。

さて、女の子なのに性別を偽って男子寮に暮らすというひろむの物語。寮生は三名、先ほど紹介しました倒錯美少年置島にむやみやたらと体育会系の寮長、そして女ひろむに思いを寄せる龍太郎。それぞれがそれぞれにちょっとずつ違った描かれかたしてるから、うまくコントラストが出て味になっています。特にコントラストは置島と龍太郎に顕著で、方や美少年、方や少年。方や繊細、方や粗雑。方や男ひろむLove、方や女ひろむLove。ってな感じで三角関係!? かと思いきやひろむが全然そんな風じゃないから、両者ともに片思いなところがありまして、その振られっぷり、そのかみ合わなさも味のひとつであります。とかいいながら、ひろむもちょっと意識してない風でもない、まあうまく盛り上げてくださるわけですな。

ひとり上でピックアップされなかった寮長、この人の位置はまた独特で、その男らしさに対するストレートな猛進ぶりでひろむをはじめ寮生全員巻き込んで大変なことにしてしまうという、そういうキャラクターであるのですが、なかでもひどく巻き込まれるのはひろむで、女だというのに男らしさを身に纏うというか……、けどこうしたちょっと理不尽な目に合わされる女の子がヒロインで、なのにこうして楽しく読めるというのは、やっぱりひろむがやられっぱなしじゃないからだと思います。し返すときにはちゃんとやり返すしたたかさを持っていて、いわば対等ですな。決して負けっぱなしにはならない、負けるとしたら寮長が天敵だけど、それはなにしろひろむだけじゃない。寮生みんなが平等にひどい目に遭ってるから、やっぱりひろむは彼らに対等なんだと思います。そういうスタンスが、読んでいて理不尽を理不尽に感じさせず、からっとした(?)、ちょっと爽快さもある雰囲気のもとになってるのかと思います。

ところで、やっぱりこの漫画、将来いつか終わる日がくると思うのですが、その時にはひろむが女であったことがばれたりするのかな……。望むべくは、ひろむを男と誤解したまま置島とゴールみたいな、そういう変なカップルみたいになって欲しいものだ、とかいいながら、その実本心ではこうした微妙な距離を維持したまま、つまり恋愛成就みたいなのとは縁のない終わりが一番望ましいだなんて思ってるんだから、ほんと、私ってやつはわがままにできているわけですよ。

  • 藤凪かおる『Boy’sたいむ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 藤凪かおる『Boy’sたいむ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

参照

『バーコードファイター』における台詞、オリジナルは以下のとおり:

わいが……。わいがす…、好きな桜ちゃんは……。桜ちゃんは……、男なんや!!! わい、男の桜ちゃんが好きなんや!

実に屈指の名台詞であります。

2007年7月8日日曜日

棺担ぎのクロ。 — 懐中旅話

  こいつはなんだかぶってやがんなあ、『棺担ぎのクロ。』の連載が始まった頃、私はそんな風に思っていて、それは別に嫌いってわけじゃない。ただ、あんまりに見慣れた四コマの雰囲気とは違っていたから、少し距離を置いて様子を見ていたのでした。確かに、すごくぶっている漫画。ファンタジー色を持つ四コマはきらら系列にはたくさんあるけれど、『棺担ぎのクロ。』は飛び抜けて濃厚にファンタジーで、いやむしろメルヘンくさいといったほうがいいのかも。日本漫画の柔らかさに、ヨーロッパ的重さ固さが同居するような手応えがあって、けれど私はヨーロッパに幻想を見たいと思っているような人間だから、ことさら意地悪な見方をしようとしていたのかも知れませんね。けどさ、読んでたらわかります。この漫画は、ヨーロッパ的味付けをほどこされながら、ヨーロッパではないんです。そこにあるのは、もしかしたら私も育ってきた環境の、有り体にいえば八十年代から九十年代にかけて醸成された、日本におけるヨーロッパ的なるもの。私もすごく好きな空気。だってそこで育ってきたんだもの。けれどそれゆえにかたくなだった。だからかたくなさが抜けてしまえば、後はもう一緒に踊るしかないじゃないですか!

にしても、このきゆづきさとこという人は希有であると思います。この人の描く漫画は、絶妙のバランスによって成立していると思うのです。それは例えば、微妙に理屈っぽかったり、微妙に説明的だったりするところを、それと感じさせないぎりぎりに収めて、けれどそれで突き放したようにもしないというバランス感覚。あるいは独自の色彩や、かなり作り込んだ世界観を、独りよがりにならないように押さえ込みながら、けれど確固たる立ち位置を確保して、決して他に紛れさせることのない — 、そういうバランス感覚。他人の色に染まらない、自分自身の色を持っているってことをほかならぬ自分自身が一番よく知っているというそんな感じがするのです。

けれどそれは孤高ってわけじゃない。歩み寄りもすれば、一緒に踊りもするという柔軟さがある。それは下手をすれば敷居を高くしかねない独自の世界を親しみやすいものに変え、どうぞお上がりといった人懐こさでもてなしてくれるようだといったらどうでしょう。ええ、私は最初そのチャーミングさに気付かず、いや気付いていたからこそかな、遠巻きにしてしまったわけです。けど、一度その世界に踏み込んでみたら、やあこれはすごく素敵な舞台じゃないかと、やんや喝采を送るひとりになってしまっているんですね。

上にいったような感じ、『棺担ぎのクロ。』に実によく現れた特徴だと思うのです。一見すごく独自かもしれない、けれどその実、読者とも共有できる感覚がたくさん盛り込まれているものだから、親しみやすくそしてチャーミング。けど、そうした特性を決して表立って喧伝するようなところがないから、読んでみないとわからない、けど読めばわかる、そして一旦それとわかれば、このうえもなく大切なものになるんですよ。この漫画を、そして作者を介して広がる世界に、私も愛した時間や空気がちりばめられている。だから、まるで宝探し。自分にとって大切なものが見つかれば、それだけこの漫画がかけがえのないものに変わっていくような気がして、ええ、なんか言葉交わすこともなく深まりあう友情みたいな感じなんだと思います。

今日は蛇足はなし。かわりに主人公クロについて。上に書いてきたこの漫画に関する感触は、そのままクロに通じるところがあると、そんな風に思います。一見とっつきにくいんだけど、よくよく近寄ってみれば、人懐こさもあってそれになによりチャーミングだ! けどそれは迎合してるとかじゃなくってね、あくまで自分独自のカラーがあるから、決して他人には染まらないのさ。なんか、ちゃんとした個人が確立されてるって感じがあってさ、あんたは私とは違う、けれどもしかしたら大切に感じるなにかは同じなのかも知れないよって、そんな感じのわかりあい方、べたつかずさらりとして、クールだけれど暖かでもある、そういう繋がり方が気持ちいいんだと思います。

2007年7月7日土曜日

1年777組

  今日は2007年7月7日。7並びがなんだか嬉しかったので、777にちなんだものを取り上げたいなと思いまして、さて777といえばなんでしょう。一般的にはパチンコかな、なんて思って『ななみまっしぐら』を一旦マークはしたものの、他にはなにかなかったかなあ。いや、あるんですよ。気付かないふりしているだけで、777といったらあれしかないって漫画があって、けどあんまりべただからどうしようかと思って — 、そう『1年777組』ですよ。『まんがタイムきらら』にて連載中の漫画。おそらくは、現在の連載においてはもっとも最古参であろうかという漫画で、思えばずいぶんと雰囲気を違えてしまったきらら誌ですが、けれどそうした中に変わらず馴染みの顔があるというのは、なんだかほっとした気持ちになれるものだと思います。

『1年777組』、この漫画はそれ自体がほっとさせてくれる雰囲気を持っているものですから、その効果はなおさらだと思います。巨大な学園において繰り広げられるコメディ。友情あり恋ありギャグあり涙あり、いや涙はそんなにないかな? ちょっと悲しいっぽい話があったとしても、漫画の雰囲気が緩和してくれるし、それに最後にはきっと前向きで明るい落ちがあるものですから、そういう安心感も嬉しくて、ちょっと心がかさついていたとしても、読み終わればなんか暖かで緩やかな気持ちになれる。すごく好きな漫画なのです。

そんなに好きなら、なんで書くのを躊躇したのかといいますと、まず一点目、今月末に第4巻が発売されるんですよ(やったー!)。だから、ちょっとフライングだよなあと思った。で、二点目、以前この漫画でもって書いた時、こととね本家の77777カウント記念みたいなこといってて、なんと二回連続で数字絡みかよ! あんまり同じようなネタで更新するのもいやじゃありませんか。けれどそういいながらも『777組』で書こうと決めたのは、それだけ好きだからなんだと思います。

あまりに変わらないと思われた『1年777組』ですが、それでも少しずつ移り行くものがあって、あまりに純真すぎて好きという気持ちが恋心になることのなかったこりすの気持ちに少し変化が見られるなど、だからいつかねこと君の恋が成就することもあるのかなあという期待もあるんですが、けれどできればもう少しこのまま、中途半端かも知れないけれど、この揺れながらも決して行き着くことのない曖昧な状況が続いて欲しいものだと思って、そう、私はこの漫画にあらわれる、かなえたいと思いながらもかなわぬ恋の切なさに魅惑されているものですから。特にそれは、ねことに恋するきつねにおいて顕著。ええ、3巻の末に収録されたきつねメインの恋物語、ああいう切なさですよ! すごく、すごくいいと思うんです。

  • 愁☆一樹『1年777組』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年7月6日金曜日

会計チーフはゆーうつ

   『まんがタイムラブリー』誌上にて連載されていた『会計チーフはゆーうつ』。この漫画が終わったときには、ああひとつの時代が終わったなあと、そんな気持ちになったものでした。なにを大げさなと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、けれど私にとってはこの漫画は馬鹿にできない大きな位置を占めていまして……、それは私の四コマを読みはじめた頃にまで遡ります。

私が四コマを読みはじめるきっかけとなったのは千葉なおこの『OLパラダイス』であったのですが、この漫画が連載されていたのが『まんがタイムラブリー』。そしてラブリーには『会計チーフ』が載っていて、そうなんですね、四コマ読みとしての私の遍歴はこれら漫画に始まったのです。この頃はまだラブリーしか読んでいなかったので、私にとってはラブリー掲載作がすべてでした。はたしてどんな漫画が載ってたっけ、思い返すと、そのどれもがずっと以前に終わってしまっている。そんな中わずかに残っていた漫画もあったのですが、『ソーセージ☆まーち』、『会計チーフはゆーうつ』と立て続けに終わるのを見て、ああ本当に終わったと、そんな風に思ったのです。

これら漫画の位置づけは、正直なところ私にはよくわからないのです。これら以前に私の知るところの四コマ漫画というと、植田まさし、いしいひさいちなどが関の山。そうしたオーソドックススタイルに対し、可愛さの前面に押し出されたラブリー掲載作は異色であったのかも知れないと想像はしながらも、けれど私にとってはこれらラブリーに載っていた四コマが四コマのスタンダードであるのです。刷り込みってやつかも知れません。けれどたまたま読んだ雑誌の、風変わりなOL広田さんの洗礼をうけて広がった四コマの世界。毎回、これといって状況が変わるでもない、はっきりいって繰り返しの日々の中、お定まりのお約束で動いているような四コマが面白かったのは間違いなくて、その後ストーリー四コマがはやり、またきらら系が台頭するようになってきても、変わらずそこに『会計チーフはゆーうつ』があった。読むことができたというのは大きな意味があったのです。

少なくとも私にとっては。

癖の強いOLに振り回される、ちょっと駄目な上司。『会計チーフはゆーうつ』を説明するにはこれだけで充分かと思います。どじな上司、それに激しく突っ込むOLたち。けれどそこにはちょっとした信頼関係もあって、なんのかんのいって仲良くやっていますという、そういう漫画でした。けれど、当初は間違いなくそのパターンの繰り返しであったのが、長く続く間に人間関係も変化してきて、キャラクターに肉付けがされてきたとでもいいましょうかね、そしてついには恋愛にも発展して。正直、読みはじめた頃にはこんな展開になるとは思ってなかった。変わらない日常が変わらないままに続くんだと思ってた。変わらないままに終わるんだと思っていたんですが、けれどそれがこんなにも大きく舵を切って大団円ですよ。まあ、長かったと思います。引っ張りすぎた嫌いもないではない。でもね、それでもひとつの区切りどころではない大きな区切りを付けて、終わって、その終わり方があまりにもダイナミックだったからさ、そうかあ、終わったんだなあ。あの、慣れた日常にはもう戻ることはないんだなあと、喜ばしく思いながらも寂しさ感じるところも少々、有り体にいいますと感慨深いのです。

蛇足、書いとこう。私は気のきついボブのOL、中山有里子が好きでした。けど、大崎も好きだし、沼ちゃんも好きだし、もちろんチーフも好きで、だからなおさら、このあんまりにもうまくまとめられた終わり方、誰も不仕合わせにならない終わり方にほっとしてるんだと思うんですね。でも、なかでもチーフと中山はよかったね。こうなるしかないって感じでしたけど、だからそうなってよかった。他の終わり方なんかないっていう、そんなところに、満足してるというとちょっと違うんだけど、ああ落ち着くところに落ち着いたんだなあ、みたいなそんな気分です。

2007年7月5日木曜日

Nike Free

 すごいの見付けました。といいましても、なんてことはないただの靴なんですが、先日購入して以来かなり気に入ってしまったNike Free 5.0。次に靴買うとしてもこれだなあと決めてしまっているくらいに入れ込んでいるのですが、今日、帰り道、スポーツ用品店の表とおりかかったらNike Free 7.0が入荷していますとの案内があって、それで誘われるままにふらふらと店内に。いや、Free 7.0がすごいっていってるんじゃないですよ。だって、なにしろ私が履いているのは5.0で、しかもこれでも生ぬるいとインナーソールを取っ払って4.0相当にしているくらいです。だから次に買うときは同じく5.0か、あるいは4.0と思っていた。7.0は購入対象ではないのです。

じゃあ、なにが一体すごいのかといいますと、いやあNike、やる気見せてますね。4.0どころじゃないですよ。なんと、3.0っていうんが出てるんですね。まったく知りませんでした。つうか、3.0なのか。4じゃ生ぬるいって人がいるんだ! いやね、実際の話、5.0を4.0にして三十分歩いてる私にしても、別段普通だよなあ、というか、もっと裸足ぽくってもいいよなあなんて思っているわけですよ。だから今度買うときには4.0が欲しいなあ。でもってインナーソール取っ払ったら3.0相当になるのかなあみたいに思っていたんですが、そしたらデフォルトで3.0! これやわ。でもって、これ、インナーソール取っ払ったら2.0相当になる? つうか、そこまで要求するんなら裸足かわらじで歩けって感じですね。いや、でもね、この靴は本当にすごいんですよ。

よくいわれる、Freeを履いて歩いたら、翌日ふくらはぎが筋肉痛になったというような話、残念ながら私にはそういうことはなくて、ってのは以前に愛用していたエアモックもそこそこに裸足感あふれる靴だったってことなんでしょうか。いずれにせよ私には筋肉痛出るようなことなくて、そのへんがっかりしたんですが、けどこれ履いて歩いていると違います。まずですね、足裏に変化が出ます。私は足裏マッサージ師にかたい足だねえといわれるくらいにかたい足裏をしていたのですが、それが自分でも驚くくらいに柔らかくなりました。そして足裏を意識しながら歩く癖をつけたら、腹筋がついた、背筋がしゃんとして背筋も強くなった、そして左右アンバランスだった体も是正されてきている。ほんとう驚きましたよ。今、屋内で裸足でいるときなど、ふと足もと見ると、五指で床をしっかりとつかんでいるんですね。以前はそんなことなかったのに、この靴履いて二ヶ月歩いて、それでこんだけの違いが出るんですから、もし歩くだけでなく走り込んだりしたらどんなにかすごいことになるだろう、なんて思うんですよね。

明日にでも自分のサイズ(27cmだけど27.5cmくらいがちょうどいいみたい)があるかどうか聞いてみて、あるようなら購入、なければネットで購入かなあって思ってます。いや、しかし、本当に走ろうかなあ。どうしようかなあ。カメラ持って走るのはあんまりよくなさそうだから、歩きにとどめるべき? いや、ほんと体動かしたくなるくらい、いい靴なんです。

2007年7月4日水曜日

ビギニング / めぐりあい

 iTunes Storeから届けられるNew Music Wednesday、今週のトップには機動戦士ガンダムが燦然と輝いて、おお、そういえばBANDAI CHANNELがiTunes Storeにガンダム関係の楽曲を提供するだなんだってニュースやなんかで見ましたなあ。そうかそうか、ニュース見たときには探すのが面倒くさいからといってそのままにしていたのですが、特集ページへのリンク付きで紹介された日には、ちょっと見てみようかなって気にもなりますわね。で、見てみたら、結構な充実? 私はてっきり最初のガンダムしかないと思っていたんです。そしたら、歴代のシリーズがずらりと並んでいましてね、で、最初にチェックするのがΖガンダムなんですよね。でもさあ、なんでか知らんけどΖΖとコンパチにされてるは、主題歌入ってへんはで、こりゃちょっとショックですぜ兄さん。こりゃもうあかんわ、パスパスと思いながら『ファーストガンダム パック - EP』を購入。だって、『ビギニング』に『めぐりあい』が収録されてるってんですよ。こりゃ、あらがえません。私は、私はこの二曲がもう好きで好きでたまらんのです。

ガンダム好きには今更いうまでもないことなんですが、井上大輔の歌うこの二曲、映画になったガンダム第三作目『めぐりあい宇宙編』における主題曲、映画のクライマックスに挿入されて、胸が熱くなるとかなんとか、そんなレベルの話じゃないんですよ。好きとか嫌いとか超越してる。いうならば、私の幼い頃に憧れて夢見た大人の世界の原風景として心の奥にがっちりと食い込んでいる。ガンダムの、アニメの、あの宇宙の青く深い映像のその向こうに咲いて散って、そして思いをつなげあった若者たちのドラマとしっかり抱きあうようにして、私のなかに沈み込んでるんです。分かつことのできないくらいに、焼き付くみたいにして私の心の奥に残っている。ふと、日常の合間にメロディが、歌詞がよみがえってくることがある。その度に私はしんみりとして、けれどそれは弱気になってるんではなくて、涙ぐみながらも私はこれからも生きていけると決意するかのような、そんな思いになれる、そういう歌であるのです。

ガンダムの主題歌といったら、そりゃいうまでもなく『翔べ!ガンダム』なんだけどさ、けれど巷で人気なのは『哀・戦士』みたいで、カラオケでアニソン歌おうぜみたいになったら『哀・戦士』歌うやつはわりといるような気がします。確かに『哀・戦士』もいい歌です。悲壮感漂わせながらも前向きに、顔あげて進んでいこうぜみたいなそんな意気軒昂としたところのある歌、そりゃみんなで盛り上がっていこうぜってときにはこれでしょう。けど、私は、テレビシリーズ見ていたときから主題歌よりもエンディング『永遠にアムロ』の方が好きだったというような子だったから、陰気な小学生だな、けれど好きだったんだから仕方がない。こんな憂鬱質の子供だった私には、ちょっと『哀・戦士』は勢いがよすぎた。だから、劇場版見たら、最後に心に残っているのは決まって『ビギニング』、そして時がすこやかにあたためる愛/そして時がすこやかにそだてる愛のフレーズ、そして『めぐりあい』、誰もひとりでは生きられない — 。

誰もひとりでは生きられない、シンプルにして真実をうがつ一言であると思います。ガンダムの物語の帰結をこの少ない言葉で充分に表現して、そしてそれは当時の若者たちの心情を捉える言葉であったのだと思います。私は、その頃はあまりに幼すぎたけれど、後にしっかりととらわれて、そういう人はきっと少なくないと思っています。自分一人で生きているみたいに、どんどん非人情の側に流れていく私に、そうじゃないんだと呼びかける歌、決して忘れてはならない歌だと思っています。

BANDAI CHANNEL / バンダイチャンネル

引用

  • 井荻麟『ビギニング
  • 井荻麟,売野雅勇『めぐりあい

2007年7月3日火曜日

乙女ケーキ

 百合なんて一過性のブームに過ぎなかったんじゃないかと思っていたこの頃。けれど、それでもこうして新たに出版されるものもあり、ちょっと一安心。というのは、私はこうした色合いを持つ漫画が好きだから。この傾きはブーム云々以前からで、だから百合がブームになったときにはそれを素直に喜びながらも、潮が引くとともにせっかく育ったものまでもろともに押し流してしまったりしたら最悪だと怖れもした。けど、『コミック百合姫』はけなげに続いているみたいで、百合自体もブームは落ち着いたみたいですが、ひとつのジャンルとして定着してくれた模様。本当にありがたいことです。

ありがたいついでに買い支えようといいたいわけでもないのですが、タカハシマコの『乙女ケーキ』。書店で見かけて、なんの躊躇もなしに購入。落ち着いた色調ながらも華やかな表紙、けれどそこに漂う陰鬱なイメージが読む前からなにか期待させてくれて、そうしたら掲載一作目からかなりいい感じ。可愛らしく華やかな女の子たちの、じゃれあうような心の行き合いの影に鬱屈したコンプレックスがかいま見られる……。この、コンプレックスやエゴが美化されるでもなくあらわにされて、切ないやらなんやら、けれどこうしたネガティブな感情さえもすくい取って美しさに変えてしまう、そんなところがすごく好き。やっぱり女の子は特別なんだと思わないではおられないのであります。

けど、漫画に出てくる女の子は美しい夢だからな。特にタカハシマコの描く女の子はそうだと思う。この人っぽい表現でいえば砂糖菓子みたいな甘さがあって、砂糖の甘さがとげとげしさや苦さを覆い隠してくれるんだよ。なんて思いながら、けれど人が百合ものに引かれたのは、そうした美しい夢を欲する気持ちがあるからなんだと思います。不安も揺らぎも重苦しさもすべてをひっくるめて美しく変えてくれる、いびつな願いが生み出す不均衡な美がそこにあるように思えて、ネガティブでメランコリックでセンチメンタルでエゴイスティックで、けれどそうした感情をぱっとはらしてくれる明るさがさす瞬間が美しくいとおしい。夢なんだけど、幻想なんだけれど、それでもその美しさに心とらわれることがある。いびつと思いながら、欲してやまない気持ちがあるのだと白状しないではおられない美しさがあるのです。

  • タカハシマコ『乙女ケーキ』(Yuri-Hime COMICS) 東京:一迅社,2007年。

2007年7月2日月曜日

大奥

  面白いらしいとは聞いていました。よしながふみの『大奥』。書店の平積みに見かけ、表紙に見える美しい男の姿にぐっと心引かれながら、けれどその時にはどんな漫画かも知らず、また当時ドラマかなんかで大奥がらみが流行っていたかなんかがあったから、そのせいで見過ごしにしてしまいました。このへん、私のあまのじゃくといわれる所以、はやりものには背を向ける癖があるのです。けれど、いつまでも背を向け続けるのも難しいものがあって、というのはこの『大奥』という漫画、いたるところで人気のようで、文化庁のなんか賞をとったとか? その時に私ははじめて知ったのです。この『大奥』というのは、私たちが一般に知っている大奥とは違うのだと。将軍が女、故に男ばかりが集められたのが大奥 — 。なんと奇を衒った……。とはいえそれが賞をとるのだ。なら、その内容はいかなるものなのか、興味を持たずにはおられなかった。そう、そうして私は遅ればせながら『大奥』を読むこととなったのです。

設定を聞いて驚いて、しかし読んでみればなおのこと驚いて、なにこれは単に男女逆転をやりたかっただけの話ではないね。それこそ、男だらけのハーレムを描こうというものなら前々から決して少なくなくて、けれどそれはその逆ハーレムという設定の奇矯さにとらわれてしまっているとでもいったらいいか、そこに立ち止まるものがほとんどでしょう。けれど、『大奥』においてはその先に進んでいる。なぜ大奥が男により構成されることとなったか、ただ単に将軍が女であったからではない、その背景を描こうとして、そしてその異常状況に点在する理不尽。理不尽、それは自然がもたらす驚異であり、また人の意がからむやり切れぬものであり、そこに翻弄される心があれば、揺れちぎれんばかりにもだえているという悲しさ。やあ、これは深いわ。もともとは男女逆転という単純な発想に始まったのかも知れませんが、その裏にある危機感、混乱が実に肌に生々しく、人の弱さが人に害を為すという空しさ、切なさもほとほと憐れ、胸にひしひしと迫るようです。

私の思い違いの二つ目は、これが将軍一代限りのものと考えていたら、そうではない、徳川三代家光より綿々と続くシステムであったというその広がりでした。第1巻は八代吉宗の時代に始まって、しきたり決まりにがんじがらめの江戸城内において、ことごとくその悪弊を切って捨てようとする吉宗がたどり着いた事実、そして第2巻においては時代を遡り家光の世に起こった事々を描くのですが、しかし、吉宗の時分にはもう慣例となっていたもろもろが、家光の頃にはそうせざるを得ない事情があったと語られる、これはすごく緻密な仕事でありますよ。なんということもなしに読んでいた1巻が、2巻を知った後においてはそこかしこに伏線が用意されていたとわかる。それら因縁は過去へ、異常状況の発したそのときに持ち越されるのですが、その家光を巡る物語のまあ切なく悲しく憐れなこと。理不尽に弄ばれる心の傷つく様、弱く、いじらしく、か細い心の輪郭がつぶさにしかし淡々と描出されて、そしてその心を受けようというものもまた理不尽に取り巻かれ傷ついたものであるという、そこが悲しい。しかしこの嵐に似た悲しみにほのかな灯が点されるような2巻のラストは圧巻で、踏みにじられた心の惨めであったその分だけ、胸に深く感動の沸き起こるのだと思います。

とはいえ、この物語はまだ始まったばかり。第3巻においてはより一層に大きな波立ち、渦巻くドラマが繰り広げられることと思います。

  • よしながふみ『大奥』第1巻 (JETS COMICS) 東京:白泉社,2005年。
  • よしながふみ『大奥』第2巻 (JETS COMICS) 東京:白泉社,2006年。
  • 以下続刊