なんだかもったいなくって、少しずつ読んでます。『ふたりごと自由帳』。だから、感想も少しずつ書いていこうと思います。今日は、小坂俊史編。
私が小坂俊史ときいて思い出す漫画はなにかというと、まずはなにをおいても『ひがわり娘』、これ、私の講読している芳文社の四コマ誌で連載されていたものです。そして女子スリーピースバンドを扱った『サイダースファンクラブ』でしょうか。他にもいろいろあって、私も他にもう少し持っているのですが、そのどれもに共通するのは、登場人物の破天荒さというかナンセンスぶりというか。自分勝手で非常識で、けど人間くさくて、なんか憎めないやつなんだよなあ、って感じ。けど、ちょっと小憎らしい。こんちくしょうって思うんだけど、ほんとお前ってどうしようもないやつだよなあ、ははは。そんなあっけらかんとしたところの強い作風だと思います。
でも、それは一面だったのですね。『ふたりごと自由帳』は小坂俊史、重野なおき両氏が同人誌にて発表した漫画をまとめたもの。つまりこれらは、描きたい題材を選んで、商業的な成功どうこうという要素を抜きにして、作られたものであったのですね。だからこそ、これまで私が触れてきたものとは味わいを大いに違えて、ナンセンスなギャグを得意とする小坂俊史がギャグをやらない。驚きだったとはいいません、だって予想していたことだもの。けれど、その心象風景のあまりに自分に訴えること、驚きをこえて嬉しくなった。ときに少し引っ込み思案の人たちの、内面に広がる思いのおかしさ、切なさ、いとおしさ。屈折していたり、あるいはまたあまりに素直すぎたりして、突拍子もない行動の原動力にもなる人間の心。それが、まあこんなにもしんしんと、淡々と、日常に紛れることもなく息づいているものだ。人は、人は、小さくて、弱くて、切なくて、悲しくて、そしてたくましいものであるなあと、そういうものを感じさせる作風。小坂俊史のよさは、こうしたところにも隠されていたのかと、これまでこの一面を知ることなくきたことがちょっと悔しいと思える漫画たちです。
でも、本当に人間くさい。それが漫画的というよりも文芸的といいたくなるような筆致で表されていて、ダイナミックさはもとより感じられない。本当にささやかな小品集といった味わい。ファンタジーに逃げず、あくまでも日常あるいは生活感を出発点とするような、違ういい方をするなら、ああそういうことってある、私もそんな風なこと考えたことあったわ、なんて共感に満ちた掌編たち。それが嬉しいのですよ。
こんなこといったら、笑うかも知れない。私は学生の頃、なんだか妙な思いにとらわれて、神戸線の電車飛び乗って、三宮を越えてずっと向こう、須磨の方までいったことがあったのです。日常を抜け出したいという思いであったのか、たまたま私が不安定なだけだったのか。目的もなく、ただ海が見たいなと思っただけの小旅行。なにを得られたわけでもないけれど、あの時の私にはきっと必要なことだったのだと思います。
小坂俊史の漫画を読んで、そんな昔のことを思い出しました。思いは共鳴する。今、そんなことを考えています。そして、私はこの漫画を読んで、身の回りにこの漫画について話のできる人がいないということをすごく残念がって、私の胸の中に生じた思いは、誰にも吐き出されることもないままに、胸の中、反響しながら虚空に落ちていくようです。
それではあんまりに寂しすぎるから、私はインターネットの闇に向かってこうして思いを放っているのかなって、そんなことも思った。だとしたら、小坂俊史も自分の中の思いを、こうした同人という活動において世に放ったのかも知れないと、そんなことに気付きました。大丈夫、小坂さんの放った思いは、きっと多くの人が受け取って、自分の思いに共鳴させながら読んでいることと思います。そしてその思いが、その人たちの中でまた違ったなにかに変わっていくのだとしたら、それはどんなにか素晴らしいことであろうと、そんなことを思います。
- 小坂俊史,重野なおき『ふたりごと自由帳』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
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