2007年10月31日水曜日

カルドセプト

Culdcept 10th Anniversaryちょっと、これを聞いてくれ!

武重そして次作。『カルドセプト』は現在、新プロジェクトを進めております。

鈴木開発は僕ら大宮ソフトが、担当しています。

武重ハードはニンテンドーDS。パブリッシャーは、セガさんです。

ほら、私、先月にいってたじゃないですか。心機一転、Nintendo DSあたりで出してくれないかなあってやつですよ。それが思わずかなってしまったわけであります。わー、嬉しいなあ。出るのは来年のいつからしいですが、ほんとその日が待ち遠しいと思います。いやあ、ほんと、嬉しいニュースでありました。

私が、Nintendo DSで出して欲しいといっていた、その理由というのをちょっと引用してみましょう。

ハード持ち寄って通信対戦するのも簡単だし、WiFi使ったオンライン対戦も可能だし。なにより、どこででも遊べるというのは嬉しい。キャラクターやマップをポリゴンで表現する必要なんてないんだし、それこそオリジナルカルドセプト風にドット絵でオッケー。むしろ、私はその方が嬉しい。だから、DSで出て欲しいなあ。カルドセプトの他人の手札が見える仕様はそのままで、けどオプションで手札を伏せられるようになっても面白いんではなくて?

Nintendo DSは外部メディアにデータを書き出せない(オフィシャルではそうよね?)から、ソフトとセプターデータが不可分となり、ちょっとこのへんはやだなあと思わないでもないですが、まあセカンド・エキスパンションでもデータコピー不可の呪いがあったわけですから、仕方がないと思いましょう。それよりもメリットですよ。ハードを持ち寄って対戦可能であることはもちろんのこと、WiFi対戦もできるようになるに違いないと思ってるんですが、そうなると私にとっては初のネットワーク対戦可能カルドになるわけです。WiFiだから場所も選びませんでしょう? それこそ居間で、自室で、さすがに相手のいることですからいつでもというわけにはいかないでしょうが、好きな場所で気軽に対人戦できるというのは魅力であります。だってね、カルドセプトは対人戦をしてなんぼのゲームですよ。残念ながらCPUではぬるすぎるのです。対人戦、負けそうになったら切断するやつがいるよ、なんていいますが、そのへんは自動でハウント状態に移行するとかは無理なのかな。セプターが復帰したらハウントが解けるって感じで。とにかくオンラインが一人でもいる限り続くような仕様になってるとベストだろうとは思うんだけど、そんなにうまくいくもんかどうかはわかりません。

携帯機でカルドセプト、となると、モノポリースタイル — 本腰入れて戦う従来の路線に、携帯電話で展開されたカードバトルスタイル — アナザー・チャプター、もあってもいいのかなと思います。あと、カルドセプトはカードをコンプリートしてからがスタート地点という、導入において多少敷居の高さのあるゲームですから、一見さんでも楽しめるようなゲストモードが欲しいです。ダウンロードプレイ限定でいいんです。数種類の構築済みブックから選べたり、ランダムで押し付けられたり(開いてみるまでわからない!)、初心者相手にする上級者なら全カードランダムでいいんじゃない? ちょうどいいハンデだよ。ろくな武器はいってない! とか、ここぞというときになぜゴブリン! とか、わあわあいいながら遊ぶのも目先が変わって楽しいかも知れないし、もしかしたら苦し紛れの新コンボ発見なんてのもあるかも知れない。とにかく、はじめてカルドセプトに触れる人に、このゲーム面白い! って思ってもらえるようなモードが欲しいんです。そうして目覚めた人の中から、明日のセプターが生まれるとなれば、どんなにか素敵だろうと思います。

いずれにしても、楽しいものであれば幸いです。キャラクターとかはポリゴンじゃなくていいんで、というのも無印カルドの魔女っ子が好きな私です、中途半端なポリゴンはいらん、2D、ドット絵最高! 見栄えは確かに大事だし、カードのシリアスイラストがなくなったりしたらいやではあるんですが、それよりも重要なのはゲーム性です。とにかくこれ面白いからやってみ、と人に勧めてまわりたくなるような出来であれば最高です。

蛇足

サターンではヘッジホッグ、PSではバンディクート、じゃあDSでは配管工が出たりするのかな? かな? こうした、にやりとできるような遊びがあるのかどうか、ちょっと楽しみであったりします。

Xbox 360

PlayStation2

Dreamcast

PlayStation

SEGA SATURN

コミックス

  • かねこしんや『Culdcept』第1巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2000年。
  • かねこしんや『Culdcept』第2巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2001年。
  • かねこしんや『Culdcept』第3巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2002年。
  • かねこしんや『Culdcept』第4巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2004年。
  • かねこしんや『Culdcept』第5巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2005年。
  • かねこしんや『Culdcept』第6巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2007年。
  • 以下続刊

CD

引用

2007年10月30日火曜日

RICOH GR DIGITAL

 トラブルに対処すべく出動していた私、なんとかやっつけてやれやれ事務所に戻ったら、係長が呼ぶんです。ま、またトラブルか!? 正直もう勘弁して欲しいと恐る恐る寄っていったらば、トラブルどころじゃないですよ。なんと、GR DIGITALの後継機が発表されたそうじゃありませんか。わお、そろそろ出るらしいとは聞いていたけど、ついに出たか。見れば、広角単焦点という基本コンセプトはそのままに、画素数を上げ、低ノイズ高画質を目指したという、まさしく正常進化というにふさわしいものであります。この目立った機能アップを目指さないっていうスタンスは、GRのコンセプトが秀逸であること、またそのコンセプトが受け入れられているということを明らかにしていると思います。そして、カメラとしての完成度の高さを雄弁に物語るものであると思います。

GR DIGITALのモデルチェンジがなって、じゃあ旧GR DIGITALは過去のものになってしまうんだろうかと思ったら、なんとファームアップによって大幅な機能追加がなされるのだそうですよ。モノクロ撮影のバリエーションを増やしたほか、より詳細な設定を可能とするなど、これのおかげで新GRにかなり近づくことができる、現行ユーザーとしては大変ありがたい計らいです。さらに驚かされたのは、なんとテレコンバータが出るんですね。35mm換算で40mm相当とのこと、若干広角寄りだけど、準標準、ちょっと興味のある画角ですね。正直なところ、新GRよりテレコンバータの方が嬉しいかも知れません。いや、そりゃもちろんベストは新GR + テレコンなんだと思いますけど。

さて、あえて今まで触れてこなかった新GR DIGITALに追加される機能について。高解像度化とか高画質化は当然あることだと思っていたし、Caplio GX100に搭載された1:1モードもくるだろうと予測していたわけですが、まさか電子水準器がついてくるとは思いのほかでした。写真を撮る時にですね、うまく水平をとれず、結果不安定な絵になってしまい、まずかったなあ、ちょっといやだなあと思うことはたびたびありまして、水準器があったらなあ、そんなことを思ったことは実はあるのです。まあ、実際に水準器取り付けたりはしませんでしたが、おそらく私のように思った人はあったはずで、そしてそうした要望が電子水準器として結実したのでしょう。こりゃちょっとすごいですよ。

当たり前の話ですが、ファームアップでは水準器はつきません。だから水準器が欲しいなら買い足して、という話になるのでしょう(買い足したら、現行GRは常時テレコン装備になりそうな予感)。でも、正直それだけの余裕はないわけで、今の愛機を使い続けることになりそうです。実際、極端に見劣りのするようなこともないわけですし、まだまだ初代で戦えそうです。

参考

2007年10月29日月曜日

あっちこっち

 実は、四コマ漫画であれこれ書くのは非常に難しいのです。これはとりわけきらら系列に顕著で、理由は簡単、気を抜くとどの漫画に対しても同じようなことを書いてしまうから。あるいは、面白いと思っていながらも、その面白さを言語化しにくいということもあるからかと思います。このへん、明確な物語の流れを持った漫画については書きやすく、だってその漫画の持つ面白さの独自性云々をそれほど考えないでもいいですからね。物語を追うことで私の感じたことを書けばいい。しかもありがたいことに、作者の側で物語が独自のものになるよう工夫されてますから、なおさら楽というわけです。と、なんでいきなりこんな愚痴じみたことを書くのかというと、先達て買いました『あっちこっち』という漫画、面白いのだけど、それを思ったままにただ書いても、多分この漫画の独特の味というのは伝わらんと思ったからなのです。

『あっちこっち』は、高校生の男女が過ごす日常を面白おかしく描いた漫画、ってちょっと違うな。日常に似て若干非日常なのりが楽しいというべきなのではないかと思います。主人公は仲間内から朴念仁とみなされている眼鏡男子、伊御さん。彼のまわりには、伊御さんラブラブの小動物系女の子つみきさんと、天然少女姫、マッドサイエンティスト系お騒がせ娘真宵がわいわいと集まって — 、ここでのキーパーソンはつみきであろうかと思います。さっきもいいましたように、つみきは伊御さんのことが大好きで、口では全然そんなことないかのようにいいながら、態度が好きということをあらわにしている、そんなキャラクターなんです。そんなつみきさんをいかに愛でるか、一種それがテーマといってもいいのかも知れません。真宵の策略、伊御さんの思わせぶりにして大胆な行動言動、表向きにはクールを装うつみきはあっさり撃沈させられて、時にはでれでれにとろけてしまい、時には嫉妬、恥ずかしさのあまりヴァイオレンスに走る。照れている様やら羞恥の様やら、そうしたつみきの織り成す景色を楽しむ、これが『あっちこっち』の味わいの一要素、それもかなり大きな要素であると思います。

でも、これだけではないのです。登場人物を整理してみます。飄々としてけれど実はハイスペックな伊御さん、伊御を上回るどころか疑いなくこの漫画における最強生物であるつみきさん、姫は鼻血をともに状況を加速させ、真宵はアグレッシブにチャレンジし自業自得的に自爆する。そしてここに伊御の友人榊が加わることで成立するスーパーな日常。平穏に見せて実際は常にフルコンタクトな毎日、高高度にて繰り広げられる空中戦をさらっと見せて、しかしこれが姫の大どじ、つみきのでれでれで一気に減速、それまでのハイスピードが嘘みたいににやにやの渦に飲まれてしまいます。

この緩急なんだと思うのです。どちらにしてもオーバーな表現なんだけど、その向かう方向が違うからアップダウンが生じて、その双方が際立ちます。これがもしどちらかだけだったら、この漫画の印象はきっと全然違ってたろうな、今感じている振り回されるよな面白さはなかったのかも知れないと思います。

蛇足

アップダウン、緩急でもっとも鮮烈に際立たされるもの、それはやっぱりつみきの可愛さなんじゃないだろうか。なんて思ったりするものだから、ここは姫がよいのだといっておきたいと思います。

  • 異識『あっちこっち』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年10月28日日曜日

二丁目路地裏探偵奇譚

 表紙を見たときの感想は忘れもしません。うわっ、彩度低っ。白地バックの画面両端に配置されたタイトルは、あくまでデザイン優先、可読性は押さえられ、背景に引っ込んでしまっています。表紙で一番目立つ位置、すなわち画面中央を陣取るアリスにしても、これでもかの黒仕様。めっちゃくちゃ彩度の低い、極限まで色味の押さえられた衣装は、それこそ濃淡の美の世界。そして、これが白背景に映えるのですよ。って、当たり前ですが。なんてったって極端なハイコントラストですもの。むしろ攻撃的といっていいくらいの印象をふりまいて、そしてそれはアリスも同様です。傘のうちから肩越しに見返るその雰囲気も婉然として、金髪ツインテール、大きな黒リボン、クマも濃いつり目に覗く虹彩は赤! そう、赤がこの彩度の低い表紙において非常に効果的であるのです。タイトル一文字目の赤は背景に追いやられたタイトルに注意を向かわせ、アリスの目は射すくめるかのような熱を帯びてこちらに向かってきます。いや、それにしてもいい表紙だわ。私が無類のハイコントラスト好きであることをさっ引いたとしても、売り場にて目を引くことにかけてはなかなかのものでありました。ただこのインパクトの強さが、四コマ漫画を好む読者にどう働き掛けるかなんですが、 — いい方向に向かわしてくれたら嬉しいなあって思うんですが、このへん実際どうでしょう。

さてさて、思わず表紙について熱くしゃべってしまったわけですが、中身もなかなかに悪くない漫画なのですよ。ヒロインは二人、吸血鬼を自称するアリスに敏腕探偵助手を自称するショコラ。この二人、われ鍋にとじ蓋というか、実にいい塩梅のコンビでありまして、アリスとラブラブのハードボイルド神父や生活力とやる気に欠けた探偵所所長を加えての、ナンセンスなコメディが実に楽しいわけですよ。

この楽しさ、面白さは一体なにに起因するのだろう。そんなことを考えてみたのですが、やっぱりそれはアリスの可愛さなんじゃないかと。正直、この漫画が始まったとき、クマも濃厚なきつめヒロインを好きになれるものだろうかなんて思ったものでしたが(私は、一部のロリィタの人が施すクマメイクをいいと思ったことがありません)、連載を追っていくうちに、なんてこともなく受け入れてしまっていました。して、それは一体どうしてなんだろうと考えてみれば、それはいわゆるギャップによる効果が働いたゆえなのではないかと思うのです。

アリス、わがままで尊大な自称吸血鬼。けれどそんな彼女は意外に親切で、家庭的で、有能で、怖がりの甘えん坊で、神父様大好きの、吸血鬼らしからぬ吸血鬼であるのです。この漫画においては、一事が万事そうだと思ってよいと思うのですが、いわゆるパターン、基本的なお約束を反故にすることで生まれる面白さが支配的です。アリスは日差しを苦にすることもなく、十字架もにんにくも平気の平左で、あ、でも心臓に杭を打たれると…死ぬのかな。ともあれ、そんなことで灰になる生物なんているわけないと、劇中世界にファンタジー設定を持ち込んだ張本人からがこうなんです。こんな具合に、約束事を常識で打ち消していく面白さ、そしてファンタジー設定を思い込みか、妄想かと辛辣に否定していく運びもあって、この漫画はそうでないようなふりをしながら、基本、普通の世界の法則に従っているようであるんです。

けど面白さの肝はそれだけで終わるわけではなくて、ハードボイルド神父が吐く、比喩によって過剰に装飾された台詞、これがまたナンセンスで、なにがいいたいのかさっぱりわかんねえよ! ベタはベタで、やり過ぎなほどに追求して、ナンセンスなギャグにしてしまうわけですよ。こうしてこの漫画は、お約束に対しては冷静な突っ込み、常識でもって対処して、方やベタはそのベタが転げ落ちるほどに多用、追求して、こうして生み出されるアンバランスを、崩れないぎりぎりのバランスで見せるんです。

魚眼レンズ通したように歪まされた背景、わざと傾けられる水平、西洋に感じさせて実はまんま日本という舞台、そして癖のある描線で描き出される登場人物たち、そうしたもろもろが安定を破壊する方向に向かいながら不思議と調和しているのが味だなあと。そして私はこの不思議なナンセンス世界がなんだか変に好きなのです。だから、この面白さを共有してくれる人が増えると嬉しいなあなんてそんなことを思っています。それから、実は、この記事の締めくくりは、神父様ばりのよくわからんハードボイルドぜりふで決めようと思っていたんですが、私にはその手のセンスがなかったようで、それがひとえに残念です。

蛇足

ショコラも可愛いけれど、やっぱり一番はアリスでなくって? いや、それにしてもいい表紙だわ。要素を絞り、引き締められた表紙。正直、帯のあおりが邪魔でした。彩度のコントラスト、赤に捉えられた視線は傘の柄を通じてアリスの表情に導かれて、本当にいい表紙です。けど、明度差がきつすぎるから、長時間見てると目がチカチカするんですよね。疲れ目の私にはちとつらく、そんな理由で長く見ていられないのが残念です。

  • コバヤシテツヤ『二丁目路地裏探偵奇譚』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年10月27日土曜日

とらぶるクリック!!

  ああもう、可愛い、可愛い、面白いってことで、もうどうしようもないんですが、なにが可愛いのかといいますと、『とらぶるクリック!!』ですよ。以前、私はこんなこといっていました。『とらぶるクリック!!』は最初どうにも馴染みづらかった — 。けど後にこの漫画の面白さに目覚めて、遅ればせながらコミックス購入して、しかし、わたくしのばかばかばか、どうして1巻の出た当時、買おうかどうか迷いながら見送ったのか。なんてことがどうも悔いになっているようで、反動ですか? なんですか? 今ではむやみやたらと好きになってしまっているのであります。

さて、私がこの漫画の面白さに気付きはじめた頃、いや素直になれたといったほうがきっと正しい、それはいつだったのかといいますと、第2巻に収録されたなつメロ登場のあたりなのですね。また眼鏡かよって、いやいや、今回はさすがにそうじゃない。いや、ごめん、やっぱりそうなのかも知れない。正直、自分でもちょっとよくわからない……。でも、そうじゃないんだって信じたい。

なつメロ、榎本棗、漫研を飛び出てPC部に流れてきた女。眼鏡、引っ詰め髪、ちょっとツンデレ風の、どうにも素直になれない不器用な女の子なのですが、一見地味でいかにもサブキャラな彼女の果たした役割は大きかった、私にはそんな風に思われるのです。彼女は、一種固定化していたPC部一年三人組に割り込んで、その関係を壊すことなく、おのおのの持つ魅力、個性を際立たせました。とりわけ面白かったのが、さわった機械を壊してしまう琴吹杏珠、ヒロインですが、彼女との関係です。あまりに不器用な棗に対して、空気読めないといっても言い過ぎでない杏珠がぐいぐいと踏み込んでいって、そこに生じる軋轢、すれ違い、けどそれよりも杏珠の素直さに振り回される棗ですよ。そこが極め付けによかったなあと思うんです。

ほら、私も実はそうなんですが、シャイというかなんというか、自分の思うところをはっきりといえない、それどころかまったく逆のことをいってしまうような人ってあるでしょう。本当は混ざりたいのに、声かけて欲しかったくせに、いざ声かけられたらいらないっていってしまう、そういう人です。そこをもう一声、さらに二声あって、仕方ないなあ、そうまでいうんだったら入ってあげてもいい……、となるはずだったのに、杏珠ってやつは空気読めないから、じゃあ仕方ないね、残念って退きやがるんです。ああ、おい、ちょっと待ってくれ、もう少し押してくれたらうんっていったのに……。そうしたやり取りが無闇に可愛らしく、それに杏珠は空気読めないから、ちょっと距離を置き気味の棗をぐいぐい引っ張っていって、部員でもないのに、まだ知りあってちょっとしか経ってないっていうのに、なつメロなんてひどいあだな付けてですよ、それじゃまるで昔からの友人みたいじゃないですか。私はこの一連の杏珠を見て、空気読めない人もこの地上には必要なんだって思いました。天真爛漫で、素直で、ちょっと馬鹿っぽいところもないではないんだけど、この漫画の持つ和気あいあいとした親密さの中心には、杏珠の空気があるんだなあとそんな気がしたんです。実際、こんな子、身近にいたら騒がしいし難儀かもなあって思うけれども、けれどこういう子がいることで成立する空間もあるんだなって、そしてそれはきっとすごく優しい空間なんじゃないかなって、そんな風に思ったんです。

そして、この優しい空間の中で、一年生諸嬢は自分らしさというか、お互いのよさも悪さも出し合って、とんがりながら、助け合いながら、みんな対等な感じでつきあっていて、多分私はそうした雰囲気にほだされたのですね。自然体でいられる関係 — 、人見知りだったり、人間関係に不器用だったり、空気読めない甘えん坊だったりしても、仲間内では素直になれる。すごく居心地のいい、けれど決して閉じられたりしていない、そんな関係が素敵で、見ていてなんだかいいなあって思ったんです。

だから私も、杏珠の天真爛漫さに引っ張られるままに素直になれた口なのかも知れません。優しくて、楽しくて、暖かな雰囲気を感じさせてくれる空間に、知らず引き込まれていたのですね。そしてそれは、私にとって、すごく喜ばしいことであったのでした。

蛇足

なつメロはべらぼうに可愛いのだけれども、それでもやっぱり柚が好き。

2007年10月26日金曜日

ルポ最底辺 — 不安定就労と野宿

 ずいぶん前に、失業者たちを見ると胸が締めつけられる思いがすると、そんなことをいっていました。昨年には、ワーキング・プアに関する特集番組を見て、他人事じゃないといっていました。そして今、自分はただ運がよかっただけなのだなと、自分の身の仕合せを噛みしめる思いでいます。なにが幸運だったというのか。それは家族に恵まれたこと、正規雇用ではないもののなんとか仕事にありつけていること — 。しかしこれこそは本当に運でした。

学校を出た頃、私は、仕事を求めても求めても見つからない現実に心底疲れ果てていました。非正規の、安い仕事にぶら下がりながら、それこそ世の中怨むような気持ちで荒んでいました。なにかましな仕事はないかと、ハローワークにいったりもしたんだけど、そこで目にしたのは、あまりにたくさんの求職者でした。自分のできそうな仕事、条件のあいそうな仕事を、少ない持ち時間の中、破れかぶれな気持ちで選び出し、けれどそのどれもにチャレンジできるわけでなく、せいぜいひとつといったところ。面接を受けて駄目、また駄目というのを繰り返すと、自信なんてちっとも持てなくなるんです。自信がないから、面接で飲まれるんでしょうね。うまく受け答えとかできなくなるんです。悪い循環だったと思います。ハローワークのトイレに入ると、呪詛の言葉がいくつも書かれていて、それを見て自分たちの無力さにまた打ちひしがれて、こうした状態があと少し続けば私は本当に駄目になっていたと思います。

状況が好転したのは、なんかいい仕事ないっすかねー、とことあるごとにいっているのを聞いて、正規じゃないけれど比較的ましな仕事があるよと紹介してくれた人があったからです。本当に運がよかった。あの人とはずいぶん疎遠になったけれど、今でも感謝しています。けど、もしあの人に出会えていなかったらと思うとぞっとします。私は当時はやりのパラサイトシングルだったから、路頭に迷うようなことはなかったろうけれど、あてどもない職探しと挫折の連続に、きっと病んだろうと思います。だから、私は本当に運がよかった。けれど、ただ運がよかったといって安心していていいのか。身の上の危機は去っていないというのに、いやむしろいまだ問題の当事者であり続けているのに。

生田武志の『ルポ最底辺』は、大阪は西成区、釜ケ崎に代表される寄場の状況を、丹念な筆致でつづった労作です。単に資料やデータにあたるだけでなく、野宿者(ホームレスをこの本ではそう呼びます)支援の活動を通して得られた体験や記録、そして自らも日雇労働の現場で体験した事実が紹介されて、まさしく一級のルポルタージュ、タフな現地報告となっています。著者は当事者でありながら、自身の体験の持つ圧倒的な現実感に圧倒されることなく、まるで自分自身を外側から見るような淡々とした表現を守って、しかしまた傍観者となることもないという絶妙のバランスを実現しています。語られる内容は多岐にわたり、野宿者の生活の過酷さ — 、冬期の寒さなど住環境の問題に始まり、彼らの生活を支える労働の厳しさから医療の問題、彼らを食い物にする存在があることが語られたと思えば、本来彼らを守るためにあるはずの諸制度が機能していない、こうした現実がいやというほど紹介されます。これら著者の見て体験してきた事実を知れば、野宿者たちが普段どれほどに誤解されているかがわかろうというものです。誤解のあるために偏見が生じ、そしてその偏見が彼らに向けられることで、またそこに不幸が生じる。最悪の循環があるということが感じられるのです。

しかし、重要なのは、そうした野宿をする彼らの多くは、本人の資質に問題があったからそうした状況に追い込まれたわけではないということです。いうならば、運が悪かった。リストラや倒産などが原因で職を失ってしまった。次の職が見つからず収入がないために、貯金を切り崩し、借金をし、ついに家賃が払えなくなれば住居を引き払うよりなく、野宿となれば、住所のないためいよいよ職を得ることはかなわない。ここにも最悪の循環が見られます。ほんの小さな不幸がきっかけとなって、ドミノが倒れるように最底辺にまで落ちてゆく。私のドミノは、家族が私を受け止め続けてくれていること、仕事を紹介してくれる人があったこと、この二点で止まったに過ぎません。もし私が親元を遠く離れて生活していればどうだったろう。あの時、あの人が仕事を紹介してくれていなかったらどうだろう。おそらく、私のドミノは止まらなかったと思う。行政の提供するサービスは、残念ながら私には役立たなかった。窓口には親身になってくれる人もあったけれど、一生忘れられないようなこともあって、けど重要なのは、親身だろうとどうだろうと、私にとってあれらはなんの有効性も持たなかったということです。

あの時、運のよかった私ですが、次もそうであるかはわかりません。なんの職能もなく年ばかり重ねて、むしろ状況は悪くなるばかり、次こそは私のドミノは止まらないだろうと覚悟しています。そんな私ですから、この本はまったくもって他人事ではあり得ず、自分のおぼろげな不安が妄想なんかではなく、それこそ充分なリアリティをもって起こりえることであるのだと、路上に暮らす彼らの現実は対岸の出来事なんかではなく、それこそ今の私は波打ち際に立って寄せる波に足を洗われているのだと、そうした実感を深めました。それだけに、労働や社会のはらむ問題、 — 非正規雇用の増加やセーフティネットの不備に代表される — 、の解決は急務であるとの思いを新たにして、またこうした問題に無関心であることの危険を思いました。

しかしここでひとついやなこといいますが、この最悪のドミノ倒しは、私のような駄目な人間だけに起こる問題でなく、今この文章を読んでいるあなたにとっても他人事ではないんですよ。人生ゲームの最後には開拓地が用意されていますが、底辺に落ちても逆転狙える開拓地、そうした復活のチャンスを持たないゲーム盤が今の私たちの暮らす社会なんです。そして私たちは、ルーレットの気まぐれによって簡単に転がり落ちることができるんです。そんな馬鹿なと思う人は、この本を読んでみてください。また私の脅しに同意する人も、この本を一度手にしてみてください。この世には希望もあるが絶望もまた深いのだと、そういうことがわかるから。しかし人は絶望の中に希望を生み出すこともできるのだと、そういうこともわかるから。この本は現実の底をうがつかのように深く力強く語る力を持って、読むものの心を揺さぶります。だからあとは、読んだものがこうした万人の問題をどう引き受けるかにかかっている。読み終えたその時が、そのものにとってのスタート位置になるのだと、私はそう思います。

2007年10月25日木曜日

Almost square, taken with GR DIGITAL

Chocolate毎月末には恒例のGR BLOGトラックバック企画が控えていて、私もささやかながらそれっぽい写真を撮っては、公開、トラックバックするよう努めています。もちろんたいした写真撮れるわけでもないから、枯れ木も山の賑わいというがごとき状況ではあるんですが、そんなでもやっぱり楽しいんですよね。もしこうした企画がなかったとしたら、きっと一生撮ろうとしなかった題材っていうのがあると思うんです。その方面への傾きを持たないということもあらば、そもそもそういう発想がなかったということもあって、だからこの企画はすごく刺激的、私の視野や発想を広げてくれるものであると思っています。

そして今月のお題、これもまた私の発想にはなかったもので、けれど今回に関しては参加せず見送ろうかとも思ったのです。なぜか? それは、お題がスクエアであったからです。スクエアというのは、Caplio GX100のスクエアフォーマット、1:1モードで撮られた写真のこと。あー、GRじゃあだめだあ。けどスクエアというのも多義的な言葉だから、それこそ恣意的な読み替えしたらどうだろう、なんて思ったけれど、応募規定にGR DIGITALは、「1:1モード」がないので、スクエアが似合う作品をトリミングして下さいってあらかじめ書いてある。オーマイ、もう駄目だ。

そんなの、ばっさりトリムすりゃいいじゃんかって話なんですが、私は写真の公開にあたっては、no retouch, no trim, no selectを謳ってるから、できれば今回もそれでいきたかった。それがかなわないなら、見送っちゃおうかなあと思って、けどそれもつまらないからなあ。なんとかならんかなと思っていたところ、馬鹿な解決策を思いつきました。というわけで、トラックバック企画『スクエア』に参加します。題して、だいたいスクエアです。

Almost square

2007年10月24日水曜日

篠房六郎短編集 — こども生物兵器

 表紙買いをきっかけにしてはまってしまった漫画家というと、篠房六郎が今のところ筆頭かなあなんて思うんです。これまで何度も何度も書いてきた『ナツノクモ』の作者ですね。けれど、はじめてこの人の漫画を読んだときには、のちにここまではまるだなんて思っていませんでした。面白いなあとは思ったし、特に読み切りの『空談師』は白眉といってよく、派手さはないが静かに深い世界が描かれていて、ぐいぐいと引きつけられるようにして読んだことを覚えています。この読み切り『空談師』は、連載『空談師』や『ナツノクモ』のベースといえるような作品で、リネンのボードゲームを舞台とし、つまりオンラインゲームの世界で起こってることを描いています。ですがそうした仮想の世界を扱っていながら、その向こうの世界に息づくプレイヤーの存在がメインであるのですね。この二重の世界構造ゆえに、読者は存在しないはずのプレイヤーを濃厚に感じることができる。あたかも、漫画の向こうのゲーム世界の、さらにその向こうに、名も知らず顔もわからない彼彼女らが暮らす現実の世界があるのだと、そのような錯覚におちいるのですね。

この独特のリアル感が篠房六郎の持ち味なのかと思うのですが、漫画のテーマが一種まわりくどく表現されているというか、表に描かれる表層とその向こうに広がる世界が、密接でありながら分離的というか、多面的、多層的であるというか。けど、多分これは作者の意図するところではないのだと思うんです。どうしてもそうなってしまうんだという、そういう類いなんだと思うのですね。

『篠房六郎短編集 — こども生物兵器』に収録されるのは、一押しの読み切り『空談師』に表題作の『やさしいこどものつくりかた』と『生物兵器鈴木さん』。『やさしいこどものつくりかた』は表紙にもなっています。あの、鉄パイプを手に血まみれで座り込んでこちら睨みつけてるメイドさんがヒロインです。

鉄パイプでメイドって、一体そりゃどういう取り合わせなんだって感じがしますが、ええと、これで殴るんですよ、主人の頭を。なんだかたまにおかしくなるというか調子の狂ってしまう主人の頭を、鉄パイプでいい感じに刺戟を与えてもとに戻す — 、とか書くとものすごく不謹慎な漫画のように感じられますが、そんなんじゃないです。いうならばどつき漫才みたいなもので、けどこうしたコミカルな表現の向こうにシリアスな事物を配置して、さらにそれらをとおして、人間の心を描こうとしているのです。偽物と本物という問題。私たちはそれらしいレスポンスを返すものに、本物の知性や心、魂、命を思ってしまいますが、しかしそれがただそのような反応をするようにプログラムされているだけだとしたら? 結局はふりに過ぎないのだとしたら、その、人に似て人ではないなにかに対しどのような思いを持てばいいのか。そうした問題を前に立ちすくみ葛藤するのが前述のメイド、シムレットであり、彼女の抱える問題を引き受けるということは、すなわち人の心とはなにかという根源的な問に立ち返ることであるのだと思います。

篠房六郎という人は、非常に馬鹿馬鹿しい漫画を描いたりもする人だけど、けれど根は真面目な人なんだろうという気がして、ふたつの『空談師』や『ナツノクモ』で描こうとしたように、人と人の繋がり、心や思いの問題みたいなことを、自分自身のテーマとして持ち続けておいでなのだろうなと思うんです。そういう視点の見え隠れするところに私はきっとひかれていて、それはつまりは私自身も迷い、悩んでいるものが描かれているからにほかなりません。

ああ、『生物兵器鈴木さん』について書けなかった。馬鹿で他愛もない話なんだけど、少年時代のノスタルジー、照れ臭くて自分の思いをはっきりさせられないとかね、そういうのが感じられて結構好きなのですが、まあまた今度書く機会もあるでしょう。

2007年10月23日火曜日

SF/フェチ・スナッチャー

  このところ、表紙にひかれて買った漫画を連続して取り上げていますが、この表紙買いっていうの、改めて考えると、結構成立する条件が厳しいんです。まず、表紙買いっていうくらいだから、内容に関する知識が事前にあっちゃ駄目なわけで、それに、この作者わりと好きだったんだ、っていうのもちょっと違う。まったく知らないとか、ちょっと知ってるだけとか、それくらいの乏しい知識の中、表紙に引きつけられるままに買ってしまう。やっぱりこうでないといけません。だから表紙買いされる漫画ってのは自然マイナー作に偏りを見せて、だってメジャー作だとどうしても評判とか耳に入ってしまいますから。レビューを読んだ、友達が面白いっていってた、なんだか賞とったらしいよ、などなど、こうなっちゃ表紙買いっていえませんよね。と、こんな具合に条件をどんどん厳しくしていくと、純粋に表紙買いといえるものってほとんどないように思います。ですが、そんな乏しい表紙買い体験の中、これぞといえるものが私にはあるのです。それは、西川魯介の『屈折リーベ』です。

って、『SF/フェチ・スナッチャー』じゃないの? なんて声が聞こえてきそうですが、大丈夫、『屈折リーベ』であってます。

私と『屈折リーベ』の出会いは、かつてJR神足駅前にあった書店で果たされました。今から考えても、不思議な店であったと思います。妙にマニアックな品揃え、特に広い店でもなかったのに、二階の漫画フロアにはこれ!という漫画がやたらとあって、とにかく衝動買いをさせるのですよ。思い起こせば、『しすこれ』買ったのがここでした。『おつきさまのかえりみち』もここでした。だから当然『りんごの唄』買ったのもここだったわけで、この店のおかげで私の視野はずいぶんと広がりました。深みにはまっただけかも知れませんけど。あ、そういえば『こども生物兵器』買ったのもここだわ。いやあ侮れないなあ。ほんと、あの旧店舗には魔法でもかかってたのでしょうか。

『屈折リーベ』はまさしく表紙買いでした。西川魯介という漫画家は名前さえも知らず、だから本当に表紙だけだったのです。ショートヘアの凛々しい女子が眼鏡越しにこちらを見ている。また眼鏡かよ! そうだよ、眼鏡が好きでなにが悪い。こちとら幼稚園に通ってた頃からの眼鏡好き。筋金入りてなもんですよ。だから私は『屈折リーベ』の表紙にあらがうことができず、ふらふらと買ってしまった。この漫画に関しては、以前にも書きました。だから今回は『SF/フェチ・スナッチャー』を取り上げたいと思って、というのも、これ、『屈折リーベ』買った翌日に買ってるんですよね。

『屈折リーベ』と併置されてたんですよ。けどいかな私も、いきなり『SF/フェチ・スナッチャー』買っちゃうほど豪気ではありませんでしたね。レトロSF感、それも多分にパチモン臭さが加味されている、そんな表紙なんです。特撮、それも東宝系のパロディっぽさが匂う表紙、中を見ますとそれ以上に不思議な空気に充ち満ちている。なんせのっけからスクール水着型宇宙人と戦う女子高生ですからね。眼鏡型宇宙人捕り手を相棒に、栗本玻瑠は日夜この地球に潜伏する宇宙人を追うのである! って、真面目に書く内容じゃないよなあって感じ、正直ちょっとあり得ない。

けれどあり得ない設定はまだまだあって、なんと地球人の唾液は異星人たちにとって劇薬であるのだ。だから玻瑠は舐める。下着に、水着に、上履きに身をやつしたホシを駆り出すべく舐めるのだ! レズでフェチの変態という汚名を着せられて、それでもなお玻瑠は戦い続ける。頑張れ栗本玻瑠、負けるな栗本玻瑠。果たして玻瑠の明日はどっちだ!?

もう最高。『屈折リーベ』を皮切りにして、『SF/フェチ・スナッチャー』で深みに落ち込んだ私は、以降、今に至るまで、西川魯介を追い続けています。なんの気なしの衝動買いが、こうまで深刻に影響及ぼすという好例で、いやあ、ほんとこれこそ表紙買いの醍醐味でありますよ。

2007年10月22日月曜日

りんごの唄

 こととね本家で展開しようとしていた表紙で買ったシリーズ、その三は先日取り上げました『フスマランド4.5』、その四は少し毛色が変わって『R. O. D.』。それにしても眼鏡優位だなあ(実は『おつきさまのかえりみち』も眼鏡でした)、というのはおいといて、その二、その一は一体なんだったのでしょう。本来ならその一、その二があってはじめてその三以降が続くと思うんですが、当時私は書きたいもの、書きやすいものを優先して、最初の二冊を後回しにしたのです。というわけで、今日はその二を取り上げたいと思います。その二は、 — 加賀美ふみをの『りんごの唄』であります。

表紙で買ったシリーズこちらを見つめる表紙シリーズでもあるといってました。そう、確かに『りんごの唄』もそうした表紙であると認識していたんですが、久方ぶりに引っ張り出してきたら、ちょっと記憶が違っていました。真っ赤な表紙、こちらを向く女の子の顔が大きくあしらわれている、ここまでは記憶どおりだったのですが、目を閉じているんですよね。三つ編みの少女、マフラーを巻き両の掌を頬にあてている。赤という色がぱっと注意をひくものの、少女の表情はあたかも時が止まったように感じさせるような静けさを帯びていて、力のある表紙でした。

『りんごの唄』は成年コミックです。そのためなのか、恒例の冒頭立ち読み可の措置がとられておらず、購入の時点では内容を伺い知ることはできませんでした。その時、私の得ていた情報はふたつ。ひとつは、この作者が私の講読する四コマ誌に描いていたこと。おばあちゃん子の女の子が主人公のその漫画は、すごく穏やかで、チャーミングで、好きになれそうな空気を持っていました。そしてもうひとつの情報というのは、帯に書かれた惹句でした。名作連載『りんごの唄』復活!!、そしてストーリーテーラー・加賀美ふみをのこの連載作品は、今でもとても哀しくて、今でもとても素敵です。これ読んで、ちょっと悲しい恋愛ものなのかな、まああの四コマの感じなら大丈夫だろうと判断したんです。ですが私は加賀美ふみををちっとも知ってはいなかった。ええ、本当にそう思います。

はっきりいいますと、しくじったって思ったんです。悲しいとあるから、ちょっとは悲しいんだろう、あるいはそれ以上かもと、それなりに覚悟して買ったんですが、予測を軽く上回りました。悲しい話であること、それは確かで、またある種仕合せにたどり着くことも実際なんですが、それにしても陰惨すぎやしないか? 悲しいどころじゃない。どんだけの不幸なんだと戸惑いを隠せず、正直通読するのもやっとでした。

痛ましいのは、設定からも話の展開からも仕方がないんです。ヒロイン、赤井りんご、エキセントリックでどこか捨て鉢な女。主人公高木はそんな赤井に危なさを感じつつも、関係を重ねるうちにだんだんと魅かれていって、しかし赤井の真実を知って背を向けてしまう。高木にとって赤井とはなんだったのか、赤井にとって高木とは? 彼らはお互いに代替可能な存在に過ぎないのか、それともかけがえのないものであったのか、この漫画はただその一点を確かめようとしていたのだと思います。自分を無二の存在として受け止めて欲しいと願い、またそのように誰かを抱き留めたいと、迷って、もがいて、苦しんで、そしてたどり着いた果て — 。あの明確に決着を描かず、余韻を残して閉じられたラストには、語る以上に雄弁な情感が広がっていたと私ははっきり肯って、そしてこの漫画に出会えたことを苦く思うことはあっても、買って損をしたと思ったことはただの一度もなかったと、ここに明確に書きつけておきたいと思います。

  • 加賀美ふみを『りんごの唄』(PEACEコミックス) 東京:平和出版,2003年。

引用

  • 加賀美ふみを『りんごの唄』(東京:平和出版,2003年),帯。

2007年10月21日日曜日

おつきさまのかえりみち

 表紙で買ったシリーズはやらないみたいなことをいってましたが、なんでかそっち方面のスイッチが入ってしまったようで、そう、本日取り上げるのも、表紙買いタイトルです。三浦靖冬の『おつきさまのかえりみち』。残念ながらAmazonに画像が用意されてなかったので、実際にどんな表紙であったかお伝えすることはできませんが、ちょっとサイバーパンク風、 — いや違うなあ。不透明水彩で色付けされたっぽい少し濁って重めの表紙は、レトロさと温かみにあふれていて、実際の話、すごく素敵なイラストレーションに仕上がっています。遠景にはどこか懐かしさを感じさせる町並みが広がり、近くには昭和中期を彷彿とさせるディテールに彩られたガジェットが。金魚が宙を泳ぎ、生身もあればブリキのおもちゃ思わせる外観のものもあって、そしてその中央には青いミニのワンピース(スクール水着モチーフ)を着た少女が一人、行き過ぎようとする金魚に手を伸ばそうとしている、そういう表紙であったのです。

これが本当に素敵な表紙だものだから、レトロな世界を舞台に語られるSF、ファンタジーを期待して買った人も多かったようですね。けど、開けてびっくりですよ、結構ハードなエロ漫画なんです。Amazonみるとアダルト指定されていますけど、実際には成年指定されておらず、そのためアダルトものと気付かず買ってしまう事故が多発したと聞きます。思いがけないエロに、それもロリ色の強い内容にショックを受けたものも少なからずあったでしょう。ですが、戸惑い持て余してしまったケースの影には、これをきっかけとして目覚めてしまったものもあったはずです。

え、私ですか? この本と出会った書店はですね、見本を一冊用意して、冒頭数ページを確認できるようにしていてくれたのですよ。そう、そういう内容であることをわかったうえで買いました。だから私に関しては、知らずに買ったんだ、こんな内容だなんて知らなかったんだ、なんて言い訳はないのです。表紙が好きだから買いました、内容も好きそうだから買いました。実際それがすべてであります。

けれど、もしこれをエロとしてのみで評価するなら、私には非常に厳しいものがあります。基本的に重く、暗く、つらく、痛ましいのです。実際、ハッピーエンドといえるものといったら、冒頭の「ヨトギノクニ」くらいしかないんじゃないか? けど、これにしても終わりに至るまでのシチュエーションが絶望的に痛ましく、確かに内容を見れば純愛なんだけれど、悲しすぎるよ。悲しすぎるのですよ。

こうした悲しさややりきれなさが三浦靖冬の持ち味なんだと思います。愛されない女の子の悲しみがあれば、暴力的な衝動に突き動かされるままに愛する少女を傷つけてしまう……、自責と後悔が描かれて、痛ましい性描写とそれ以上に痛ましいシチュエーション、読んでいてなんともいえない悲しみに包まれるんです。そして私は、エロとしてはひたすらに明るいものが好きだから、そうしたものしか受け付けないから、この人のエロは忌避しつつ、しかしその物語られる情深い世界には引きつけられてやまないのです。だから私はこの人の描いたものが出れば、きっと必ず購入して、やはりその陰鬱な世界に深く身を沈めるのです。

もしこの物語で性描写が控えめならばと思ったことはありますが、それはただ広く人に勧められるからというだけのことで、エロがいけないと思うからではありません。こういう前提をご理解いただいて、この人にもっと光が当たり、広く知られるようになったらよいなと思っています。あなたがもしエロを気にしないという人であるなら、この人のことを知って欲しいと思います。

2007年10月20日土曜日

フスマランド4.5

 ずっと昔のことなのですが、こととね本家におきまして、表紙で買ったシリーズと銘打ったシリーズ更新をしたいものだと思っていたのです。ですが、結局2タイトル扱っただけでストップしてしまいまして、当時は毎日、本やらなにやらの感想を書いていたわけでなく、それで延ばし伸ばしにしているうちに、勢いがそがれてしまったのですね。けれど、もし今、かつてのかなわぬ思いもう一度なんてやってみても、当時と違って買っている本の数もずっと多いし、それに伴い表紙買いも増えているわけですから、やっぱり無理っぽいな、なんて感じがします。

『フスマランド4.5』は、まさしくかつての表紙で買ったシリーズ紹介された一冊で、ですが当時は文字だけの更新でしたから、肝心の表紙がどうであるかをお伝えすることができず、それがちょっとした心残りであったのです。けれど、今は違います。お試しBlogはAmazonの協力を得て、表紙絵を紹介することが可能であるのです。

また眼鏡かよ! だなんておっしゃらないでください。確かに眼鏡ですけど。ですが、ここで注目すべきは眼鏡ではなく、正面向いてこちらを見つめている、その構図なのです。どうも私はこうした目に弱いようでして、そう、表紙で買ったシリーズとは、こちらを見つめる表紙シリーズでもあったというわけなのです。私は、表紙にてこちらをまっすぐに見つめる嘉智子に文字通り魅入られるようにして、この漫画を手にしたのでした。

非常にオーソドックスな少女漫画です。異世界ものといえばいいでしょうか、女子寮の一室、四畳半の和室の押し入れが異世界に繋がっていて、その異世界がフスマランド。いわばおとぎの国、妖怪、魔物や童話の世界の人たちが、勝手気ままに楽しく暮らしている世界です。そしてフスマランドに迷い込んだカチコは、絶世の美女にその姿を変えるのです。

けれど、この漫画のみるべきところは、ともすれば楽しげで、どたばたとしたフスマランドにあるのではなく、あくまでもこちらの世界で暮らし、悩んだり迷ったりしているカチコそして星也にこそあったと思うんです。カチコは星也に憧れていたけれど、星也が心のうちに抱えていた悩みや苦しみには気付いていなかった。カチコがようやく星也の心の真実に気付いたその時は、手遅れ一歩手前。世界に背を向けるように閉じてしまった星也を呼び戻すべくカチコは星也のもとに駆けつけて — 、その場面が本当に素晴らしかった。カチコは星也に呼びかけるも、フスマランドにおける美しいカチコに星也は心を開かない。ゆえにカチコはフスマランドでの姿を捨てるのです。それは自分自身に向き合うことに他ならず、そしてカチコは自分自身を受け入れ、星也を救うにいたるのですね。

少女漫画における一大テーマとは自己を承認するプロセスであるだなんていいますが、それは結局、憧れのあの人に選ばれるというかたちでなされることも多く、僕はそのままの君が好きだよってやつですよ。他力本願といいますか、他者によってなされた承認を後追いするかたちでしか自己承認を果たせないような話も珍しくないんです。ですが、カチコは紛れもなく、自身の力で自己を勝ち取っています。そこがよかった。カチコがかつてのみじめだった自分を乗り越えるラストシーンに物語は集約されて、感動的で、なにより美しかった。そう、確かにカチコは凛々しく美しい女性であるのだと、そう思わせる、屈指の名シーンであったと思います。

  • 大和和紀『フスマランド4.5』(KCデラックス — ポケットコミック) 東京:講談社,1998年。
  • 大和和紀『フスマランド4.5』(講談社コミックスフレンド) 東京:講談社,1985年。

2007年10月19日金曜日

しすこれ — うんっやっぱりコレしかっ!!

  実に私という人間は趣を解さない男でありまして、巷にいうブルマやスクール水着、それらの価値であるとか魅力であるとか、まったくもってわからないのです。ほんと、あれらのどこがいいのだろう、おおっぴらに口にはしないものの、ずっとそんな風に思ってきたのです。けれど、今月の『まん研』読みまして、少しわかったように思います。そう、これはいうならば、ナボコフの小説に表された感情に似ています。アナベルという名の少女、彼女と関係を持とうとするも不首尾に終わった少年時代の記憶に、自分が海岸線のようにまっすぐにのびた四肢と熱い舌をもつあの少女にとりつかれてしまったきっかけを思う — 。ブルマやスクール水着に言い知れぬ魅惑を感じる人たちは、果たされることなく永遠に失われてしまった日々を思い、いわば郷愁に似た感傷を得ているのかも知れないと気付いた思いがしたのでした。

けど、まあ、そんな風に、それこそ他人事みたくいっている私にしても、実際のところ同類です。今月はブルマを中心に展開した『まん研』、フェティッシュへの傾倒を多分に感じさせる漫画でありますが、これとほぼ同一ののりで展開する『しすこれ』を私は所有しているのです。表紙買いでした。ということは、レオタード好き? いえいえそうではなくて、むしろ裏表紙ですね。チャイナ服を手にする体操着姿の真名のかたわらに立つ綾瀬はメイドの衣装を着込んで、ってことはあんたメイド好きか! いやそれも違います。 — 眼鏡ですね。この本の出た当時、まだ更生をしていなかった私は、綾瀬の眼鏡に魅了されたのです。まるで吸い寄せられるように1巻を手に取って私は、躊躇なくレジへと向かったのです。

けど、実際に漫画を読んでみてですよ、最初はちょっと微妙だなあと思ったものでしたよ。コスプレ大好きの真名が、あの手この手で姉、綾瀬にコスプレをさせる、基本これだけの漫画です。ストーリーといえるようなものがあるわけでなく、事件が起こるわけでもなく、妙に淡々としたコメディに参ったなあと思うんだけど、読んでるうちに病みつきになってしまいました。いや、なにね、最初の頃は微妙だなんていってたけど、ぬるいコメディが妙に効いてくるんです。当初姉妹だけだった登場人物が、友人が増え、ライバルが登場し、混沌の度合いが増すにしたがって、面白さも加味されていったといったらいいでしょうか。ちょっとアホのりで、コスプレ対決みたいな方向に向かったかと思うと、あんまりエロさを感じないエロもあって、実に混沌としたバカっぽさ。けどそれがいいんです。

そんな具合にいつしか気に入ってしまっていたうおなてれぴんですから、『まんがタイムきららMAX』にて再会したときには嬉しかったです。ストーリー形式の漫画から四コマに変わって、ちょっと風合いは違うけれど、混沌とした感じ、暴走する人たちがあの手この手でコスプレを強いるみたいな、そういう味わいは変わらずあって、やあ面白いなあと。やってることからしたらもっと派手な印象になってもよさそうなのに、割合地味目に落ち着いてしまっているそのギャップもたまらない感じで、微妙ではあるんですよ、けどその微妙さも含めた不思議具合のマイペースが引きつけるのです。

引用

  • ナボコフ,ウラジミール『ロリータ』大久保康雄訳 (東京:新潮社,1984年),23頁。

2007年10月18日木曜日

I-O DATA USB 2.0/1.1対応 外付型ハードディスク HDC-U/Mシリーズ

 Mac OS Xの新バージョン、Leopardの発売日が確定して、はや数日が経過しました。今度のバージョンアップでは多くの新機能が追加されるものですから、ユーザー間では結構な盛り上がりを見せていまして、けどこれはTigerの時もそうでしたか。Tigerで話題になった機能といえば、コンピュータに保存されているデータをインデックスして検索を容易にしてくれるというSpotlightあたりでしょうか。実際に搭載されてみると、インデックス作成するのにやたらリソースを消費するとか、困ったところもなかったわけではないのですが、けれどこれが出た当初には、結構話題にされたものでした。さて、新OS、Leopardにおける注目機能といったらなんになるのでしょう。正直たくさんありすぎて困るくらいなんですが、この中で特に興味のあるものとなると、一体どれでしょうかね。そうですね……、Time Machineあたりが気になります。

Time Machineというのはなにかといいますと、一言でいえば、バックアップ機能です。外部ハードディスクに、差分バックアップを自動でおこなってくれるという機能なのですが、どうもインターフェイスまわりがずいぶん整理されたようで、わかりやすくなっているのだそうです。一般的に面倒で、また必要なファイルを復元しようにもそれがどこにあるかわかりづらいために、充分に活用されることの少ないバックアップを、まるでタイムマシンで時間を遡るかのような感覚を演出することで、なんか面白そうだ、ぜひ体験していみたいと思わせることに成功しています。

私は以前職場で、Windowsで使える自動バックアップソフトの設定をしたことがあったのですが、あの時は、これで最悪の事態は避けられるだろうという安堵感を得るとともに、できればこいつの出番はないに越したことがないなと思ったものでした。セットアップした環境を復元できるようイメージファイルを作成し、さらに差分バックアップもおこなって、でもやっぱりそれを積極的に使うことは避けたかったのです。だってそうですよね。バックアップなんていうものは、それこそ転ばぬ先の杖に過ぎないのであって、杖があるから積極的に転びたいだなんて思いません。ですが、Leopardに搭載のTime Machineとなると話は違ってきて、ぜひ一度、世代を遡ってみたいと思う。そのインターフェイスに触れたい、経験したいと思うんですね。正直、ちょっとあり得ないことだと思います。

さて、アイ・オー・データからLeopardに多くの製品を対応させる予定であるとの発表があったそうです。そうか、やる気だなあなんて思いながら記事を読んでみたら、USB接続のハードディスクをTime Machineに対応させるぞなんて書いてあって、HDC-U/MシリーズHDP-US/Mシリーズなのですが、これはちょっと気になってきますね。私は外付けハードディスクを一台保有していますが、これはiTunesの音楽ファイルを保存しているものだから、Time Machine用には使えません。だから、余裕ができたら一台買わないといけないなあと思っていたんです。そうしたら、この発表でしょう。ちょっと魅力的に感じてしまいましたよ。なにより、興味のある機能に対応させますという、そこがいいなあと思って、だからいずれこれのポータブルでないほうを買いたいなと思います。

2007年10月17日水曜日

グリーン・レクイエム

  こないだ職場の人と雑談してまして、遺伝子組み換え作物について話してたはずなんですが、途中から遺伝子組み換え人類の話になりまして、そういえばと、先日のイベントでいってた馬鹿話を思い出したのでした。その馬鹿話っていうのはなにかといいますと、『ガンダムSEED』なんですが、あのアニメに出てくる人の髪の色っていうのは、演出であるとかなんとかでなくて、まんまなんだそうですね。なんか、台詞にピンクの髪ってのがあったとかいいますね。見てたその人は、あれって映像上の表現じゃないんだ! ってたまげたらしいんですが、でもねよくよく考えたらSEEDの登場人物って、遺伝子改造を受けたコーディネーターが中心なんですよね。ということは、そのピンクの髪っていうのは遺伝子改変の結果だったんだよ! みたいな話をしまして、けど日本では古来から緑の黒髪っていうじゃないですか。そういえば、昔、緑の髪を持つ女性が出てくる小説を新井が書いていましたっけ。話していたその人曰く、読んだはずだけど内容を思い出せない。そうなんですよね。私もこの本持ってるんですが、中身思い出せない。ほんと、どんな内容だったっけ……。

そうした話をしていたのが先週末のことでした。そして、今日、私がちょいとお邪魔しました施設にですね、たくさん本が、漫画が用意されておりまして、私こういうの見るとチェックせずにはおられないんですが、いやあ、あったのですよ、『グリーン・レクイエム』。しかも漫画版。多分文月今日子だったと思います(まさか複数タイトルあるとは思ってなかった)。へえ、漫画になってたんだと思って手に取って、そのまま読みはじめてしまいました。頭からがっつり読んだわけではなくて、ぱらぱらとめくりながらの粗読みですが、けどだんだんと思い出してきて、そういえばそういう話だったっけ、で結末はどうだった? なんて思ったところでタイムアウト。おおう、残念。ラストは次回に持ち越しか。けど、本当に不思議なくらい内容忘れているのが意外です。ヒロインが髪に葉緑体を持つ植物性の人間(?)だったってことしか覚えてなくて、ピアノが出てくることも忘れてたし、研究所とかも忘れてたし、植物に影響することも忘れていました。

読んだときに、わりと面白かったけれど、文体含め雰囲気が趣味じゃないなと思ったことを思い出します。出た当時にはそれが受けたのかも知れないけれど、私が読んだときは大学在学時ですから十年くらい経ってますね、やっぱりなんだか受け入れがたいと、変な少女趣味といったらいいか、作られた感じ、これは当時の言葉でいうブリッコだな、ちょっと気色悪いと思ったことを告白しておきます。またこれはSFという触れ込みだったと思うんですが、けど読んだ感じSFとは思えなくて、SFっぽい設定や状況は出てくるけれど、せいぜいファンタジー、それもライトファンタジーだと思った。今でいえばライトノベルとしてひと括りにされる感じだと思います。面白かったけど、ちょっとなって感じです。けど、その後読んだ続編は、こりゃどうだろうと思ったんですから、やっぱり正編はいけてた部類なんだと思います。

漫画になれば、そうした独特の臭みはなくなりますから、少女漫画的という別種の空気を纏うわけではありますが、それは割合受け入れやすくて、やっぱ小説と漫画だったら、漫画の方が荒唐無稽設定を受け入れさせやすいのかな。そしてラブストーリーが、しっかりとしかしさらっと展開して、なんか矛盾したこといってますが、重くなりがちな展開でも、さらりと表現しやすいといったらよいでしょうか。小説のコミカライズとして、うまくいっていると思いました(といっても、原作をまったくといっていいほど忘れてるんだから、説得力ないね)。

この小説と漫画の相性のよさというのは、『グリーン・レクイエム』の持つ少女漫画的空気もあるのかも知れません。漫画的な雰囲気、ライトさが、実際の漫画表現にもよくマッチしたという好例なんじゃないかと思いました。いや、説得力全然ないんですけどね。

2007年10月16日火曜日

BUFFALO DDR2 667MHz SDRAM (PC2-5300) 200Pin S.O.DIMM

 Macintoshの新しいOSが10月に出るなんていいましてね、けど出るっていっても月末だろうとか思っていたら、急転直下、どうも今日らしい。いや、今日といってもアメリカ時間での話だから、日本でいえば明日ですね。なんでそんなことがわかるんだといわれましても、例えばApple StoreWe'll be back sook.という張り紙して、店を閉じているとか、それも日本だけでなく本国のストアも同じ表示出していましてね、いよいよくる? Mac OS X Leopardを今か今かと待っているような人間は、Appleの動向に釘付けなんじゃないかと思います。というか、私が釘付けなんです。はっきりいうと、Blogの記事書いてる場合じゃないって感じなんです。

とはいっても、他になにができるわけでもないから、こうして例日のごとく更新しているわけですが、にしてもなんだか落ち着かないですね。一体何時にリリースだろう、ニューヨーク時間の9時ならあと半時間ほど、クパティーノ基準だと後3時間、Dashboardに世界時計展開して、まだかなまだかなって思ってて、いやあ、4年前を思い出しますね。あるいはTiger発売の頃? とかいってたらきましたね(現在21時40分です)。ちょっと、iMac見てきます。

(この間、実際にApple Storeをさまよっていました)

オーマイ、なんてこった! Leopardはリリースされたけれど、iMacにはプリインストールされてないんだ。って、そりゃそうか。Leopardは10月26日発売だもんな。ってことは、一体どれくらいのタイミングで注文したらiMacにLeopardがプリインストールされてくるんだろう。というか、LeopardプリインストールiMacを予約注文させて欲しい!

けどほんと、どうしよう。Apple曰く、Leopard Up-to-Dateプログラムなんてのがあるそうで、

300以上の新機能を搭載した、Mac OS X Leopardが2007年10月26日に出荷開始されます。

2007年10月1日から2007年12月29日までの期間にプログラム対象のMacをご購入いただき、Mac OS X Leopardが搭載されていない方は、1,280円(税込)でMac OS X v10.5 Leopardへアップグレードできます。

なんだそうで、これは今iMacを入手してあとで1,280円払うか、あるいは環境移行後のアップデートにかかる手間を嫌って、26日頃まで待つかを選べということなんでしょうな。

けど、ほんとどうしよう。今のタイミングでiMacにLeopardが入ってくるとかだったら、迷わず予約して、というか実際の話クレジットカード握りしめて待ってたんですが、そうしたら明日、メモリモジュールを買いにいきます! BUFFALOのS.O.DIMMを買うんです! 2G x 2枚を買うんです! っていうつもりだったんですが、ううー、思わぬ肩透かし。振り上げた拳を降ろす先がないじゃないですか。

でも、まあいいや。ちょっと落ち着きました。そんなに焦っても仕方がないし、もうしばらくはiBookとつきあっていきたいと思います。けど、明日メモリの価格を確認しに、ヨドバシカメラには寄るつもりです。

2007年10月15日月曜日

鯛という名のマンボウ アナゴという名のウミヘビ — 食品偽装の最前線 — 魚・肉・野菜・米

 この手の話は正直今更という感じもしないでもなく、というのも私のうちは昔から自然食やってまして、食品添加物であるとかの問題を指摘する(ないしはあおり立てる)ような本、資料は子供の頃からたくさん読んできたものですから。なんで自然食やるようになったかというとひとえに私のせいなんですが、アトピー性皮膚炎やらいろいろやらかしましてね、そしたらそうした問題の根本に食の問題があるというじゃないですか。母は弱って困って参ったんだと思いますが、こういった経緯で自然食に取り組むことになったのでした。だから食品添加物やら農薬やらそうしたものの危険性は、当事者である私自身も理解していて、近所の谷口さんの誕生日パーティだったかな? にお呼ばれしたときのことですが、お母さんが子供にジュースを振る舞おうとされて、忘れもしませんファンタ・グレープでした、ところが私はそれをきっぱり断り、それは私の体に良くないからお茶をください。なんか嫌な子供だな。谷口さんの誕生日ということは、多分小学一年くらいの話じゃないかな。いずれにせよ、そういったことに関しては、特に関心持つまでもなく、自然に知っているというような感じであったのです。

けど、それでも買いました。なんでかというと、書店で手に取って読んでみたら、結構読ませるんです。ちょっと煽る嫌いもないではないけれど、代用魚や食肉偽装など、昨今話題になっている食の安全、業界への不信に対する情報をうまくまとめて、それに話のもっていき方が面白い。テレビのワイドショーではないけれど、名前は明かせない情報提供者、つまり業界関係者ですね、からの聞き取りを、生々しい語り口を残して紹介しているというそのスタイルは、なんだかなあ、ほんとかよと思わせながら、けどあながち嘘でもなさそうだというあたりをうまくつくんですね。そうした関係者の談話のあとには、こんな話がある、こんなことがなされているという例がばんばか紹介されて、それらは別に真新しい話ではなく、白身魚はナイルパーチかメルルーサ、流通するシシャモの多くはカペリンという別種の魚とか、聞いたことありますでしょう? そうしたあちこちで耳にする、それこそ見知ったなじみのことが出てくるから、実際他の話にしても本当なんだなと思います。というか、本当でしょう。

でも、私は代用魚の問題はそれほど深刻ではないと思っています。深刻ではないというのは代用魚の使用であって、代用魚で偽装ではないですよ。シシャモの例なら、カペリンをシシャモといって売るから駄目なんであって、最初からカペリンですといったらいいんですよ。メルルーサだって、鱈といって売るからいけない。こうした偽装をおこなうというのは、カペリンやメルルーサでは売れないからなんだそうですが、でもそれは騙している限りは永劫解決しない問題ですよ。水産資源には限りがあり、枯渇が現実的な問題となっている以上、新たな資源を開発するほかないというんだったら、私は海ヘビでもナマズでもブラックバスでも食べますよ。貧乏人は麦を食えじゃないけど、裕福でない私は文句いわずに代用魚で我慢します。ただ、それと知らされずに食べさせられるのはごめんだから、業界あげて周知して欲しいもんだと思います。そうした正の方向への努力をせずに、どうすれば誤魔化せるか、だませるかという負の方向にばかり努力するというのは本当勘弁して欲しい話だと思います。

この本にも出てきますが、先達て問題となったミートホープの食肉偽装だって、それをきちんと表示さえしてくれれば、私は構わんと思っているんです。サーロイン風、でも中身は豚と鹿と兎。豚ならともかく鹿や兎なんて食えるかっていう人もいるかも知れませんけど、フランス料理店でジビエとかゆって出されれば、そんなもんかと思ってみんな食うじゃんか。それこそ、プリンに醤油でウニ(バニラのフレーバーが微妙らしい)みたいなB級色が漂ってるくらいでちょうどいい。ちゃんとした肉は高いんだ。だからこれは屑肉盛り合わせ、けど見た目はステーキ肉。ちゃんとした肉食べたければそれなりにするもんだよっていうのを、業界も消費者も諒解しとかないといけない。ところが現実はそうはいかず、消費者は安かろう悪かろうを承知で安価安価を求めるものだから、真っ当な質を妥当な価格で提供する業者は立ち行かなくなって、結果、魑魅魍魎みたいなのばっかりが残るという、まさしく悪貨は良貨を駆逐するですよ。食品だってそうなんだろうけど、製造業だってそうですよ。本当、いつから日本人は正当な対価を払えなくなったんでしょう。無形の価値に対して出し渋るのは昔からだけど、有形の価値にまで出し渋るのは正直やり過ぎ以外のなにものでもなく、そうして業界、消費者がお互いに首を絞めあってるような状況の末が今なんだろうと思います。

微妙にエキサイトしてますが、けど代用魚、代用肉あたりではまだ笑えるんです。魚の話なんて、読んでりゃお腹が空いてきますからね。けど添加物のくだりとなるとしゃれにならんなあというほかなく、正直ありえんわ、首をかしげながら読むばかりでした。

ちょっと例を挙げると、まあこの辺は皆々様もご承知でしょうが、養殖畜産の現場における抗生物質投与であるとか、結構ハードです。風邪をひいた子供がハマチの刺し身で回復するとか、使いすぎの抗生物質が耐性菌を生み出す土壌になっているとか、本当、人間は自分で自分の首を絞めている。他にもいろいろあって、ほら、最近胸の大きな女の子が増えたなんていいますが、これ、成長促進目的で家畜に与えられるホルモンが問題だなんていいますよね。SNS大手のmixiでは胸の大きなことに悩みを持つ女性のコミュニティがあって、そこでこうしたホルモン投与に関する問題が真剣に語られていたことを思い出します。こうした異常を引き起こす食肉を摂取した結果、小学生くらいで胸が大きくなる男の子がいるとか、数年前から現実的な問題としてクローズアップされているわけですよ。

そして、この本の扱う内容はよりディープに、薬剤で死なない菌や虫を駆除するために放射線照射がなされているとか、しかもそれが催奇形性を有するという実験結果があるとか、そのためアメリカは一旦研究を取りやめたんだけど、日本では一部で使用されている。今ではアメリカでも、その他諸外国でもやっているとくれば、私らは一体なにを食べればいいんだろう。以前、『美味しんぼ』でも取り上げられたことがありましたが、輸入柑橘類のポストハーベストも尋常ではなく、その危険性は私が子供だった頃からいわれ続けていますが、いまだに状況は変わらず。そして、ここに最近話題の遺伝子組み換え作物がきて、気分はもう八方塞がりです。

まあ私は遺伝子組み換えイコール悪とは考えていないのですが、というのは私らは食品食べてその遺伝子を摂取しているわけではありませんから。遺伝子を組み換えて、人間に毒性を持つようになればそりゃ大問題ですが、そうでない場合はどうなんだろう。私らは三食豚カツ食べても豚にはなりませんし、米を食べても植物にはならんわけです。でも、BSEの異常プリオンの問題もあるからなあ。最初私は病原性蛋白質という話を聞いた時、信じられなかったんです。だってね、蛋白質って消化酵素の働きによって分解され、アミノ酸として腸から吸収されるというんでしょう? だったらその異常蛋白質が脊髄や脳に蓄積されるってどんなメカニズムよ、どこをどう通って脳までいくのよ、とか思ってたんですが、どうやらこれは事実らしい。だから私は遺伝子組み換え作物に関しても、もしかしたら安全性に問題があるのかも知れないという可能性を捨てていません。大げさに考えたりはしてませんけど、一応ね。

あんまりに長くなったので、ちょっとだけ引用してこの記事を終えたいと思います。「第五章 米編 知らないうちに外国産ブレンド米」からです。

カビの発生や虫の被害を防ぐため、米には薫蒸剤が使われてきた。[中略]米などの穀物燻蒸には、有機塩素系の殺虫・殺菌剤「クロルピクリン」(一九四八年に農薬登録)の使用が認可されている。

[中略]

クロルピクリンは「化学兵器禁止法」で、第二種毒性物質の指定を受けているから、まさに化学兵器そのものだ。

調べてみましたら、確かに載ってます。クロルピクリンではなしに、トリクロロニトロメタンという名称で、化学兵器禁止法上の第二種指定物質に表示されてますね。定義を見ますとこんな感じ。

この法律において「毒性物質」とは、人が吸入し、又は接触した場合に、これを死に至らしめ、又はその身体の機能を一時的若しくは持続的に著しく害する性質(以下「毒性」という。)を有する物質であって、化学兵器禁止条約の規定に即して政令で定めるものをいう。

さらにもういっちょう。

この法律において「第一種指定物質」とは、指定物質のうち化学兵器以外の用途に使用されることが少ないものとして政令で定めるものをいい、「第二種指定物質」とは、第一種指定物質以外の指定物質をいう。

これ読みますと、日頃は化学兵器以外の目的で使われているけど、その気になったら兵器としても使えるから扱いには気をつけようね、ってことだと思うんですが、それをまさに化学兵器そのものと言い切っちゃうのがいわばこの本の味であって、また叢書名にブラック新書という胡散臭さ満点の名前をもってくる晋遊舎の味であると思います。

こんな感じでちょっと煽り気味の嫌いもあるし、著者もいうように、業者という業者がすべてそれをやってるわけではないという前提を外してはいけないけれど、それはそれとしてこういう実態が現実的に存在しているということ、そしてそれはおおむね広くおこなわれている模様ということは知っておいたほうがいいんだろうなと、そういう感じです。けど、実際、しびれますわ。まさしく逃げ場なし! って感じ、ひりひり焼けつく感じがしますね。

引用

2007年10月14日日曜日

ROLAND CUBE Street

 私は基本ひきこもり系の人間なので、ついぞその機会を持つことなく今の今まできてしまったのですが、実はストリートで歌ってみたいなあなどと思っていたりするのですよ。うだうだいってる暇があったら、実際に歌いにいくのが一番いいとは思うんですが、どうしたもんかちゃんとしなあかんと思ってるところがあるようで、またストリートにはストリートのルールがあるんじゃないかなどと思ったりもして、まあちょっと腰が引けているわけです。私の悪い癖ですね。最初に悪いパターンを思い描いて、そのせいで打って出られない。万全の態勢を築いてからなんて思っていて、けれどその万全とやらはどこまでやったら万全なのかよくわかってないから、ハードルばかりがばんばか上がっていく。非常に馬鹿な話です。けど、まあいつかどこかで歌っていると、そんな風にはもっていきたいと思っているんです。

さて、ストリートでやるとして、結構耳にするのは、やっぱりアンプは必要だよという意見です。外でやると、音は散る一方ですから、ギターでは非力だっていいますね。過去に私も舞台で他の楽器とあわせたことがありますが、中規模のホールであったにも関わらず、まったくといっていいくらいに駄目。通らない。負けっぱなし。実際、ギターには他の楽器に対抗できるほどに音が大きくないという弱点があって、だから二十世紀に入る頃くらいから、ギターの音量を増大させるための試みが数々おこなわれてきたといいます。リゾネーターを持つギターが作られ、アーチドトップのギターが作られ、けれどそれでもまだまだ要求には応えきれない。結局、電気的に音を増幅する機構が開発されたことで決着がつき、つまりはマイクあるいはピックアップ、そしてアンプですね。そして今私が興味を持っているのが、このアンプという機械なんです。

けど、アンプならひとつもってます。VOXPathfinder 10という小さい奴ですが、けれどこれは電池で駆動しないので、外でやるには不向きですよね。そうなんですよ、今興味のあるというのは、電池で駆動するタイプのアンプなんです。

電池で駆動できるタイプのアンプで、特にストリートで使いやすいと評判のあるのといえば、CRATETaxiですが、実際これは私も使われているところを目にしたことがあります。2チャンネルの入力を持ち、内蔵の充電池で最長8時間使えるとかいいますが、けどちょっと大きすぎるなあなんて気がして、いや重さが8kgあるというのはいいんです。けど30Wの出力というのはどうなんだろう。オーバースペックなんじゃないかと思うんです。じゃあ、姉妹品の15Wモデルはどうだろうと迷って、けれどなんでかこれらに関しては今まで躊躇してきました。なんでなんでしょうかね。

最近、Rolandからストリート使用を前提としたアンプが出たのだそうです。電池駆動のCUBE Streetというモデルで、2.5W * 2の5Wだそうですが、カタログによるとクラスを越えた音量感。けど実際のところどれくらい出るんだろう。参考になるのがやっぱり電池が使えるMICRO CUBE。Googleあたりでこいつについてちょいと調べてみると、わりとしっかりした音が出るらしい、結構低音が出るし、室内使用ならボリューム半分で充分すぎるとかなんとか、さらに実際にストリートで使っている人もいるという話です。これが2W。対してCUBE Streetは2.5W。多分充分だな、買ってみようかな、なんて思ったりなんかしています。

けど、私のギターにはピックアップついてないからなあ。このへんがネックになるのですね。なんだよ散々ここまで引っ張ってひどい落ちだなって、私だってそう思いますけど、ないのは仕方がない。だって、当座必要とは思ってなかったし、一台目はなしでいきたかったんだもの。こうなりゃ、L.R.BaggsM1 Activeでも導入してみるか、なんて思ったこともありましたけど、あんまりサウンドホールまわりにものくっつけるの好きじゃない。おお、なんて注文が多いんだろうこの人は! そんなわけで、いつかお金貯めて、ピックアップ付きのギターを買おうと思っています。できれば全天候型がいいなあ、なんて考えるとRainSongあたりが視野に入ってきますが、いや、あんな高いギター買えないし。でもちょっと欲しいんだけど、面白そうだし、けれど実際買うとなったらサイド/バックが合板あたりのギターにするんじゃないかなって思います。いや、わからんけどね、ほんと。

というわけで、物欲はあってもお金がついていかないというそういう話でありました。

2007年10月13日土曜日

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか

 人の読書傾向というものは、日頃出入りする書店に大きく左右されると思うのです。このBlogの記事見てみても、ふと寄った書店で表紙買い、みたいなことはちょくちょく書かれていて、だから品揃えの充実した書店を行きつけに持つというのは、重要なことだと思うのです。あるいは棚の内容に心を配っているような、そういう書店。Amazonのおすすめではないけれど、その書店のおすすめが感じられる店というのはすごくいい。主の好みや主張が匂うようなそういう棚があれば、なんだか嬉しくなってしまって、そうかあ、こんな本があるんだと買ってしまう。残念だけど、そういう書店は少ないんですけどね。実際、私の日頃寄る書店は、売れ筋商品並べてますっていう、主張しないタイプであって、けれど逆に売れ筋を知るということに関してはいいのかも知れません。

売れ筋、中でも新書をたくさん入れる書店があるのはありがたい。新書というのは、その時々のはやり廃りをよく反映して、読まなくともおおむね世情をうかがうことができる、そういうものだと思います。けど、なんだか最近の新書って、いや新書に限らないですけど、むやみにタイトルを長く付けたものが多いですね。『さおだけ屋』あたりからの風潮だと思うのですが(私はあの本に関しては無闇に褒めすぎたと反省しています。そういえば、押し売りめいたさおだけ屋が逮捕されてたりしましたね、あの本とはちっとも関係ないですけど)、あんまりに甚だしいものがあると、逆に手に取る気を失ったりして、そういう意味では『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』は危なかった。これ、著者が森達也だったから買ったんですが、もしそのことに気付いてなかったら、そのままパスしてしまったろうと思います。

『王様は……』は、童話昔話あたりを取り上げて、その続きを考えてみましたといったような感じでつづられるエッセイ調の読み物で、まれに勘違いしている人もあるようですが、『本当は怖い○○』の類いとは違います。ジャンルとしてはパロディでよいのだと思います。かなりシリアス、それから辛辣、語り口こそは丁寧で優しいけれど、根底には森達也らしい問題意識がしっかりとあって、今の世情を森がどのように捉えているかがよくわかります。そして、今の世情というものがある方向に傾きを見せているということもうかがえると、そういう風に思います。

森達也は自分自身を評して曰く、いくつかのドキュメンタリー作品を引き合いに「タブーに挑戦する男」などと形容されることがあるが、目的意識や使命感があったわけではなく、要はタブーに対して鈍感なだけなのだ。鈍感であるがゆえに、普通なら取り上げようとする前に自らやめてしまうようなことをやってきたのだと、今風にいえば空気読めないと、そういうことをいっています。そしてその傾向はこの本においても感じられて、正義感に酔いバッシングを繰り返すマスコミを描き、熟考せず煽られるままに燃え上がってしまう意識に対しても触れて、けれどこれらは明らかに意識的でしょう。この人は同調圧力から自由なんだろうなと、いや、自由であろうと意識的に生きているのだろうなと、そんな風に感じています。

もちろんこの本には、そうした政治や世相についての言及だけでなく、人間の弱さや悲しさ、清廉潔白一辺倒ではおられない性状なんかにも触れられて、結構多様な内容を扱っています。パロディとしても秀逸で、どうしても笑わずにはおられないようなものもあって、「第十四話 ドン・キホーテ」のラストの対話なんかはまさにその典型、ドン・キホーテの問い掛ける「……おまえはサヨクだったのか」という台詞には意表を突かれて、なんともいえないおかしみにもだえました。「第三話 仮面ライダー ピラザウルスの復讐」、五反田カラオケスナックの段ではおかしみに侘びしさが加わって、これもなんともいえない味わい、すごく面白かった。飄々としているんですよね。題材の選択、そして展開、そのどちらもがうまい。作者は書きながら考えてるんだなんていっているけど、そしてそれは多分嘘ではないと思うのだけど、各話の構成のしっかりしつつもライブ感を残した感触が、あたかも目の前でそうしたパロディを披露されているような錯覚をさせて、一種の芸ですよね、いわんとするところをよく伝えていると思います。

私がこの本を面白いと思って読めるのは、やっぱり私自身が左傾的であるからにほかならないのでしょう。加えて、煽るマスコミや煽られる大衆という構図も嫌いで、その結果形成される世論、そして同調圧力も嫌いで、 — こうしたものを見るたび、感じるたびに私は長い物には巻かれよという言葉を思い出し、嫌な気持ちになります。私は自分自身を変わりものとわきまえていますが、こうした他者とともに歩むことが難しいものにはとかく生きづらい世であるなと思っていて、そうしたわだかまりを持つ私には、森の言説はすごくしっくりときます。それこそ鳥でも獣でもないような私は、どちらにも組みせず、双方から罵られるのかも知れないかもねと思いながら、けれどそれならそれでいいかと思えるのは、こうした変わりものが他にもいるとわかっているからではないかと思えて、そういう意味においても、森の書くこの本が出版された意義は大きいと思っています。

引用

2007年10月12日金曜日

24時間KISSできない

 つい先日、まんがタイムWebなんてのがオープンしまして、まあ見にいったりしちゃってるわけです、四コマ漫画とか好きだから。そうしましたらコンテンツのひとつに漫画家リンクなんてのがありまして、私、あんまりこれまでそうしたのを意識していなかったんですが、結構な人がサイトやらBlogやらやってらっしゃるんですね。ふーん、なんて思いながら見ながら、結局開いたのが蛸壺堂ってなんだそれ。前から知ってるじゃないか。ていうか、たまに開いて見てるじゃないか。にもかかわらず、なおも開いてしまう。そして、開くと必ず読んでしまうのが『強制同居人』。だって好きなんだ。助けて美和子!! 無害なガンオタをよそおったホモと密室でふたりきりにとかお前の面割れてるから「少年に女装させて喜ぶ特殊趣味の男」という深みにはまるだけだとか、もう最高だと思う。そして一通り読み終える頃にはですね、まもるの可愛さに完全にKOされてしまってて、あんなに可愛いんだったら少年もいいなって……。というわけで、今日取り上げるのはBLです。

『24時間KISSできない』はまさしく表紙買いでした。新刊で面陳列されているのを、これ、ちょっとどうだろうと思って買った。でもなぜかその後なかなか読む機会がなく、すなわち半年ほど寝かせてしまったってわけなのですが、けどこうして実際読んでみると、なんでもっと早く読まなかったんだろうってそんな気になるから不思議です。収録されているのは2タイトル3編。表題作『24時間KISSできない』が2作、そして『君さえいなければ』。どちらも弱気可愛い系の年上が受け、ちょっと強引で悪ぶっている年下が攻めという構図です。

実をいいますと、私はこれまでこうした本の需要層において論争が起こるという、それが理解できずにいました。俗にいうカップリング論争。どちらが攻めか受けかで激論が戦わされるといいますが、けどこの漫画読んで、ちょっとその気持ちが理解できたように思います。

どうも私、可愛い系の年下攻めがつぼのようです。普段は悪ぶってるのにいざとなったらへたれ受けみたいなのが好きみたいです。だから、ちょっと最初『24時間KISSできない』は乗り切れなくて、けれど『君さえいなければ』はよかった。クールを装う年上に、情熱をあらわにしながら素直になれない年下。真相を知ってしまったために傷ついてしまった自分のプライドを守るため、一度は相手を突き放すものの、それでも好きという気持ちは止められないというそこがよかった。そして自分の心の変化に戸惑いながら、それを受け入れ、そして自分に向けられた愛を受け入れるというそこもよかった。BLらしいシンプルで強引な導入も、のちの気持ちの揺れ動きを重点的に描くためのスタイルだと考えれば気にならない。行きつ戻りつする気持ちが最後には寄り添うという、いわば王道といえるストーリーに、ああ、面白かったとそう思ってから『24時間KISSできない』を読み返せば面白かった。こうして私の守備範囲は拡張されていくのだろうなとしみじみ思える一冊でした。

けど、『君さえいなければ』がよかったっていうのは、その可愛い系の年上に不幸な影が差していたからなんじゃないかと思うんですね。なんか、そういうのに私はとことん弱いようです。二人して仕合せに向かって歩いていければいいじゃないかなんていうラストは、もう直撃しますね。だから結局は、これもまたひとつのつぼであったとそういうことなのかも知れません。

引用

  • ps16(「【さきちゃん編】」,『強制同居人』)
  • 和樹編3(「【和樹編】」,『強制同居人』)

2007年10月11日木曜日

リボルテック ダンボー

 よつばとリボルテックが出たときに、欲しいなあ、けどリボルテック屋敷になるのいやだからなあ、なんていって躊躇してましたけど、けどやっぱり欲しいという気持ちが拭えないんですよね。実は、先日『よつばと!7巻を買った書店にですね、よつばとリボルテックがあったのですよ。売りものじゃなくて、ディスプレイですね。平台一面に敷き詰められた『よつばと!』新刊をアピールするべくよつばとリボルテックが登場、というか思っていた以上に小さいですね。ちょこんと座り込むようにしているよつばが可愛くて、ちょっとポーズを動かしてみたりしましたが、きゃしゃでドキドキする。ほー、こういうものなのかあ。面白かった! そしてちょっと私の物欲も満足したのでありました。

でもさ、なんだかダンボーも出るらしいじゃないですか! って、前から知ってましたけど、でも実際の写真を見るとすごいですね。なんだかドキドキします。ダンボーというのは、恵那とみうらが夏休みの工作で作った着ぐるみで、まさしくリボルテックそのままです。これ、本当にすごい再現性だと思います。それこそ昔のフィギュアといったら、いわれてみればそうかも知れない、けどよくよく(どころか)見たら別人じゃん! というのが基本であったわけですが、今はもうそれじゃ通りません。稼働フィギュアであってもこの再現性! しかもみうらヘッドがついてくる! ああ、みうらは可愛いなあ。じゃなくて、ダンボーは可愛いなあ。以前、あずまきよひこ.comでダンボーの写真見たときにも思いましたけど、これは本当にレベルが高い。よくもまあ、こういうキャラクター作り出したもんだ。感心してしまいます。

さて、ダンボーの出てくるの第5巻ですね。で、ここで5巻から6巻まで読みふけっちゃいましたが、参ったな、ちょっと確認するだけのつもりだったんだけどな。『よつばと!』5巻といいますと、もうじき英語版が発売されるんですよね。Amazonで確認したら、まさしく発売は昨日10月10日、だから本当にもうじきうちにも届くはずなんですが、ちょっと楽しみですね。一体ダンボーは英語版ではどういう名前になってるんでしょう。

ちょっと調べてみましたらね、段ボールはcorrugated cardboard、段ボール箱がcorrugated cartonっていうんだそうで、ということはcorrugatedあたりをもじってくるのかなあ。別に英語に直すにあたって、ダンボーをダンボーのままにする必要はないわけですから、きっと英語の語感をうまくあしらった名前を付けてくるものと思われます。

英語に訳すのが難しいといえば、第5巻にはいきているからつらいんだがありましたね。これ、本当にどう訳するんだろう。手のひらを太陽にでしたっけ? これに相当するような歌、英語圏にもあるのかなあ。しかも、微妙に歌詞を変えることでおかしみがでるようなそんな歌。こんなの訳すとなったら、大変だな。けどうまく訳せたらすごく面白いと思う。ちょっと楽しみです。

  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第7巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 以下続刊
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. Texas : ADV Manga, 2007.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. Texas : ADV Manga, 2007.

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (東京:メディアワークス,2006年),130頁。

2007年10月10日水曜日

ナツノクモ

  昨日、私には誰かに必要とされている自分を確認したいという欲望があるのだと、そういうことをいっていました。自分という人間に価値があるということを、誰かを自分の庇護下に置くことで証立てしたいのだと、他の誰でもなく自分自身に対して、お前はこうして誰かに必要とされるほどに価値がある人間なのだと言い聞かせたいと、そういうことをいっていました。そして私はあの文章を書いたあと、こんな台詞を思い出していました。あいつが俺にすがりついてた間だけ、俺はみじめじゃなかったんだ。篠房六郎の『ナツノクモ』、第1巻に見える主人公コイルの台詞です。

この漫画の存在を知った2005年から2007年の今にいたるまで、過剰なまでの思い入れをもって物語を追い続けたきっかけには、間違いなくあの台詞があったと、今振り返ってもなお思います。自分自身の価値を見失い、酒とオンラインゲームに依存してしまった男が主人公。この爽やかさのかけらもない設定に、私は自分自身を投影していたのです。酒に、ゲームに逃げ込んでいる間だけは、自分の駄目さから目をそらすことができる。現実にはなんの影響も及ぼさない仮想の強さを誇っても空しいばかりで、だから自傷行為めいた危険な状況に身を置きたがって、 — けれどそんなゲーム上での出来事に意味がないことは自分自身がわかっている。このジレンマが凄まじかった。ゲームにおいて無意味を繰り返す自分自身を客観的に見てみれば、なにもなしえない、それこそクランクのいうように自分は土くれのようなもので、誰かに与える事も愛される事もないものだと思い込んでいる実態が転がっている。愛されることを欲しながら愛されることに怯えるエンジン男の悲哀を、私は自身の問題と重ね合わせていたのでした。

どこかに問題を抱えた人物ばかりが出てきる漫画でした。そして私は彼らのうちに私自身を見ていました。コイル(エンジン男)に関してもそうなら、今の動物園をまとめているクロエに関してもそうで、 — ですから、その為に払う犠牲は全部私にとっての喜びなんです — 。自己否定をベースに築かれたゆがんだ支配欲の発露を見て、悲しさにいっぱいになったものでした。自尊感情の欠如が引き起こしている諸問題、誰もが愛をせがんでいるのに、愛し方も愛され方もわからずにとまどっている、そんな漫画でした。だからこそ、この漫画は特別であったのです。自分自身の価値を信じられない自分にとって、この漫画の登場人物たちは他人ではなかった、一人一人が厳しい問い掛けを突きつけてくる、そんな存在であったのです。

私がこの漫画の完結を心から願ったのは、そうした理由からでした。私は、しょせん漫画の中の存在に過ぎない彼らが自分の価値に気付き、立ち止まっていた今から次へと歩き出せるようになることを、本当に心の底から願っていました。彼らの立ち直りのプロセスを追うことで、私自身の問題にも立ち向かえるような気がしていたのです。私の中にわだかまる思いは、この物語の完結に伴うカタルシスによって、押し流されるに違いないと、そのように思っていたのでした。

『ナツノクモ』の連載は、非常に残念なかたちで終わってしまい、7月末に出るはずだった最終巻もいまだに出る気配すら見せずにいます。一説によると、大幅な加筆があるかも知れないとのこと。だとしたら、最終巻は広辞苑くらい分厚くてもいいななんて思うのですが、いずれにせよ、私には、そしておそらくは作者にも、連載のラストは食い足りなかった。明かされてないこと、そして解決しない問題はたくさんあった。解決に向かって動き始めたかと思われた物語は、最終話を迎えてなお私の中ではいまだに完結をみず、さまよっています。私の彼らに託した思いも一緒にさまよっていると、そんな風に思われるから、つらさに身が切られるかのような思いがします。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

2007年10月9日火曜日

今夜、すべてのバーで

 私はこのBlogにおいても、生きることはつらいのだ、そしてなにより悲しいのだと、そんなことばかりいっていて、けれど人は自分のうちに弱さという奴を抱え込まないではいられないようですね。今私の友人が、一人その自分の弱さを前にして、打ちひしがれながら、はい上がる機会をうかがっている最中なのだと聞きました。自分の決めたルールを守れなかったことに自信を失ってしまっている、そのようなことをいっていて、そして危険性についてもわかっていたはずなのにたががはずれてしまったことへの自己嫌悪なんかもあるのではないかと思うけれど、けれどそんな沈んだ時期を抜けて、前へ進みたいと思う気持ちが生まれてくれればいいと思っています。その人にとっての光のようなものが、どこかに見出されれば幸いだと、そのように思っています。

そして私がそのように思うのは、やはり中島らもの教えがあったからだと思うのです。中島らも、先日いっていた『牢屋でやせるダイエット』の人。私はこの人の新聞連載が大好きで、子供の頃に毎週の悩み相談を楽しみにしていたのですが、気がつけば小説家になっていて、その一番最初が『今夜、すべてのバーで』だったんじゃなかったかな。私はこの本を高校生の時分に読んで、学校の図書室にハードカバーが所蔵されたのを一番に借りて読んだのですが、その時の印象は鮮烈に焼き付いて忘れられなくなって、だから後に文庫で買って手もとに置きました。

私は幸い、アル中になったことは一度もなくて、けれど軽度の依存はあるんですが、まあ致死性のあるものではないから、緩慢に駄目になっている最中です。でも、大学に通っていた頃は酒がはなせず、いきまっては飲んでいた。当時友人から、会うたびに飲んでますねといわれて、それで自分の危うさに気がついて、けれどそれからも少し酒は続きました。今はやめてます。ほとんどというか、まったくといっていいくらい飲まず、それは自分が精神的にも依存を深めるタイプであると知っているからです。そこに酒の薬物としての依存性がのっかってきたんじゃたまらない。緩慢にどころか、急速に駄目になってしまうことでしょう。健康を失い、バランスを失して、きっと転がり落ちるだろうと思います。

この本は、中島らもがアル中に転落、復帰したときのことをベースにして書かれているんだそうですね。あくまでもこれはフィクションなんだけれども、読めばどこかに実感の生々しくこもる、手記めいた感触が得られて、私なんかはいたたまれなくなります。自身の体験を小説というフィクションに託し、そしてそこに描かれたこととはなんなのか。多分、高校生の頃はよくわかってなかったろうと思います。けど、今の私は、この本は、人の弱さ、なにかに依存しないではおられない欠乏した心の世界を扱っていると、そんな風に思っていて、あなたも欠乏している、もちろん私だってそう、欠けたる心を持て余し気味に慰撫しながら生きていく、私たち人間の物語がここにあるのだと思うから、ときにこうして触れたくなるのですね。

久しぶりにこの本を開いて、この本のテーマは直接的に『牢屋でやせるダイエット』に繋がるものなのだと実感したのでした。そういえばこの本の主人公小島は最後に酒の依存から脱したけれど、それでまた異なるなにかに依存するんだろうなと、そんなことを思わせる含みを持っていて、そこに私は自分自身を見付けた気がしたものでしたっけ。そしてその実感はおそらくは誤りではなく、結局私たち欠けた心しか持たない弱いものは、なにかによっかかりながら進むしかないのかも知れません。だとしたら、私はその支えになれないものか。誰かの支えになれないものか、なんていうけれど、これはきっと赤河医師のいう思い上がりに過ぎなくて、けれどもっとたちの悪いことに、私はこうして人の助けになろうとすることで、誰かに必要とされている自分を確認したいのです。すなわちこれも依存の一種で、すべてわかっていっている自分の偽善にはへどが出ます。けれど、それでも誰かの助けになるならば重畳と、そうした開き直りをする自分の浅ましさにも気付いている。私はそんな自分をなににもまして嫌悪します。

2007年10月8日月曜日

花と泳ぐ

  この漫画を読んでいると、ときに覚悟をしておかないといけないなという気分になりまして、なんの覚悟か — 、悲しいラストを迎えるための覚悟、いつかきっと訪れる悲しい結末を受け入れることのできるように、心積もりをしておかないといけないと思わせるのです。『花と泳ぐ』はジャンルとしては幽霊同居もの(それってジャンルなんだ)にあたる漫画です。ある夜、大学からの帰り道、思いがけずであった幽霊と同居することになった笹川幸太が主人公。あっけらかんとして能天気な幽霊菊子に、彼女を追う女子高生霊媒師下田ふみ、そして幸太の親友梅ちゃん、猫の会長が加わってのほのぼの日常コメディが繰り広げられて、しかしこの説明のどこに覚悟を要するなにかがあるというのでしょう。

ここでちょっと余談です。私は、四コマ漫画というのは、時間の流れにともない推移する物語を追うよりも、その時々の状況 — シチュエーションを表現するのに向いていると思っています。もちろんストーリー四コマと呼ばれるものがあるのは百も承知で、しかしあえてストーリー四コマと表現されるそこには、本来四コマはストーリーを描かないものという理解があるわけです。その時々に生起する状況を受けて、その場限りのコメディを描くのに長けている。何度新年を迎えようとも、時間の流れを無視し、延々今を繰り返し続ける。四コマは、それでも不自然を感じさせない。特に、シチュエーションを描くタイプの四コマはそうであると思います。

『花と泳ぐ』は、一見シチュエーション寄りの表情を見せて、幽霊があらわれた! しかも同居することになっちゃった! きれいな人だなあなんて思いながら、例年の行事を迎え、イベントを過ごしていく。そこには、もしかしたら菊子が成仏するかも知れないといういつかが、語られつつも、きれいに拭われているように感じられて、いつか終わる日が来れば成仏するなり決着するんだろうけれど、それまではこの楽しげな日常が延々と繰り返されるのだろうだなんて、そんな気にさせるのです。

けれど、口八丁ぐりぐらはそういうタイプの作家ではありません。この、一見今を延々繰り返すかのように見える漫画は、始まったその時から終わりを内包し、いつか訪れるラストに向かって確実に歩みを進めています。描かれる今は、ただ流れさるのではなく、予定された終幕に向かって事実として積み上げられています。その日が来ることを読者に予感させるモノローグもときに挿入されて、 — そしてそのモノローグに、結末が決して仕合せなばかりではないということが匂わされるから、読者である私は、いつかきっと描かれる悲しい結末を覚悟している。今が、描かれる今があまりに仕合せだから、きっと最後はつらいだろうと、そういう心積もりをしているのです。

実は、口八丁ぐりぐらには前例があって、『まんがタイムきららキャラット』で連載されていた『おこのみで!』、残念ながら単行本にはならないそうなのですが(出たら買うのに)、そのラストにおいて含みを持たせつつ、つらい話を描いている。いや、つらいばかりではないんです、そこには確かに仕合せだった時間が織り込まれているから、一言につらいとはいいきれないのだけれども、けれど避けて通れないことを避けずにまっすぐ表現したものと私は理解していて、だから私はこの人たちは、そういう状況を前にして逃げない作家であると諒解したのです。

きっと、『花と泳ぐ』は最後に一波乱あるのだと思います。そしてそれはおそらくは、モノローグに感じられるようなつらいもので、けれどそこにはきっと今描かれている時間が、仕合せだった巡り合わせがぐっと畳み込まれているに違いないと、そんな風に決めつけています。あとは、それがいつか。多分、そう遠くないうちに訪れるのではないかと思っています。

余談

シチュエーション寄りっていってるけれど、実質その時々に発するイベントに駆動されるというのなら、イベントドリブンっていってもいい? そう書くと、わあ、プログラミングみたいだね。

  • 口八丁ぐりぐら『花と泳ぐ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 口八丁ぐりぐら『花と泳ぐ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年10月7日日曜日

みそララ

 芳文社はなんだかやる気なのかも知れません。まんがタイムコミックス初のオールカラーコミックス。過去にカラーページをそのまま収録したものはありましたが、オールカラーとは本当に前代未聞なんじゃないでしょうか。しかし、もともとの連載がオールカラーならともかく、そうでないページももちろんあるわけで、塗り直したの? いや、この作者ならやりそうな気がする、なんて恐る恐るページを開いてみたら、ああ二色のページはそのままなんですね。ちょっと安心しました。そして、このスタイルもわりといいなあと思って、だってね、ほら、他の漫画でもカラーのきれいな人とかいますからね。そういう人の漫画もオールカラー、せめてパートカラーになったら嬉しいなあなんて思ったりしたんです。けど、いくらオールカラーが売りとはいえ、表紙にオールカラーとでっかく書くのは勘弁してください。これじゃまるで作者名がオール カラーみたいじゃないですか。デザイン会社を舞台とする漫画なのに、これじゃちょっと悲しすぎます。

さて、『みそララ』、デザイン会社を舞台とする四コマ漫画です。会社倒産を機に、事務職からデザイン会社へと転職をした麦田美苑が出会う新しい日常がつづられるのですが、その風景がすごくほほ笑ましくって楽しくて、この漫画のサブタイトル、今日も明日もタノシゴト、本当に仕事に取り組むということの楽しさが伝わってくるような、そんな漫画であります。

麦田は経理から時々コピーライターに、そしてライターへと、少しずつステップアップしていくのですが、そのたびたびに戸惑って、あちこちに頭を打ちながら七転八倒四苦八苦して、けれどその度に少しずつ仕事に対する気持ち、態度がしっかりしていくんです。仕事の大変さにいっぱいいっぱいになってやってしまう失敗なんかは、見ていておかしく楽しいけれど、それが不快に感じないのは、麦田が一生懸命に取り組んでいるってことがしっかり表現されているからだと思います。ほのかな憧れで入社したデザイン会社。そのほのかだった気持ちが、だんだんプロの現場で磨かれていく過程が素晴らしい。未熟だから緊張するし、余裕なんて全然だし、そんな麦田の一生懸命につきあって、伴走するかのような同僚たちも気持ちいいじゃん。最初こそはいけずで意固地で意地悪で、なんだよ、不快な漫画だなあと思わせる原因にもなっていた米原梨絵も、1巻読み終わる頃には、なんだ素直じゃないだけのツンデレなお嬢さんなんじゃないか、キャラクターがわかってきましてね、麦田、米原、そして営業の粟屋の三人の、助け合いながらのちょっとずつステップアップストーリー、すごく温かいと思える。実に気持ちのいい漫画に仕上がっていると思います。

さっきも少しいってましたけど、私、最初、この漫画読んで、不快だなあと思うことがしばしばあって、だからちょっと嫌いでした。米原があまりに険がありすぎたせいなんですが、それがだんだんと和らいできて、そして女祭り。これが私にとっての転換点でした。いや、麦田、米原、粟屋にとってもそうなんだと思います。それまでのちょっとずつ歩み寄りながらも、踏み込むにはまだ距離のあったという関係を、一気に進展させた出来事。三人が本当に仲間になった、そしてその打ち解ける様にほだされて、私も一気にこの漫画を好きになって — 、目からうろこが落ちるなんていいますけど、本当にそんな風に急速に好きになるってことあるんですね。私は単行本で頭から読み直しても、米原のことを嫌いだなんて思いませんでした。むしろ今では米原が一番好きなキャラクターであるというくらいなもので、ほんと、最初にちょっと嫌だと思っていたなんてまったく嘘みたいです。ああ、これ、米原ってわけじゃなくて、『みそララ』って漫画に関しても同じ。今では、心から好きといえる、そんな風になっているんです。

  • 宮原るり『みそララ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年10月6日土曜日

ごちゃまぜMy Sister

 花の湯へようこそ』の単行本が出るって聞いたときに、私はなんだかすごく意外だなって思いましてね、なんでかといいますと、きっと出るなら『ごちゃまぜMy Sister』の方が先だろうと思っていたからなんです。妹純のことが大事で大事でしかたのないお兄ちゃんたちの活躍する漫画。兄にとって純がどれくらい大事かというと、思い余って妹のクラスに出席番号を持ってしまうほど。しかもこの兄がすごい。成績優秀の上、クラスの皆からそれなりに慕われ頼りにされているという人望の厚さ。その活躍ぶりを見れば主人公はこの兄秀といってもいいんじゃないかと思うくらいなのですが、けどやっぱりヒロインは純だと思います。

さて、私にとっては今の今まで出ていなかったのが不思議といっていいくらいの『ごちゃまぜMy Sister』、ようやく発売されまして、読んでみたら懐かしいネタがいっぱい。そういえば秀は純のクラスメイトたちとカラオケにいってたっけとか、そうそう歌は下手だっけとか、けれど驚かされるのはその揺るぎなさ。第1話時点ですでにできあがっているんですね。

長男秀は妹純に大和撫子として育って欲しいと願っており、次男健は元気さを、弟優は優しさをそれぞれ求めているという前提が第1話の一本目に語られて、そして肝心の純はというと成績優秀、スポーツ万能、部類の健啖でちょびっと粗雑で、けれど素直な娘さん。そんな純を心配するあまり、秀は36番目の生徒として妹のクラスに潜り込み、そして健は37番目。このあたりの流れ、第1話の時点で確立してますからね。それ以来、手を替え品を替え綿々と今まで続いているのですからさすがです。

以前、私はいっていました。渡辺志保梨の面白さは、シンプルなパターンが繰り返されるそこにあるのだと。だとすれば、『ごちゃまぜMy Sister』はまさしく渡辺志保梨の本領発揮です。シンプルだけど人好きのキャラクターが、基本のパターンを反復しながら、その面白さを深めていきます。繰り返されるギャグ、おなじみのパターン。そこに笑いが生まれるといっても、単調におちいっちゃ意味ないですよね。でも、渡辺志保梨なら大丈夫。これでもかと切り口見せ方違えてくるから、飽きない。いや、これが本当なんですから恐れ入ります。数年にわたり読んでいる『ごちゃまぜMy Sister』ですが、今なお継承される基本パターンには変わらぬ面白さがあって、本当揺るぎないなあと感心します。

さて、ここからちょっと余談。

「模範生」に出てくる彼女は中学生に見えますが社会人だと言い張っていますというその彼女っていうのが、明らかに『大人ですよ?』の小夜子のことをいっていて、当時少し話題になったことを思い出します。それで秀に訳される前の英文はどうだったんだろうっていって、いろいろ英作したことも懐かしい。けど、それでどういう文章にしたんだっけかなあ。思い出せないので今新たに訳してみるとこんな感じ?

She looks like a junior high school student, but she insists that she is adult.

けど、ちょっとsheが多すぎる気がするので、ひとつ減らすべく書き直すとこんな感じ?

Looking like a junior high school student, she insists that she is fullgrown.

けど正直自信がないなあ。分詞構文とかいやになるほど苦手だったからなあ。私が英語得意なら、ささっと美しい英文を作ってしまうところなんですが、なかなかそうもいかないのが歯がゆいところです。

  • 渡辺志保梨『ごちゃまぜMy Sister』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年10月5日金曜日

とめはねっ! — 鈴里高校書道部

  書店店頭に『とめはねっ! — 鈴里高校書道部』を見付けて、ほう、2巻の表紙は少年の方かい。1巻では元気いっぱいに筆を持ち上げた女の子、望月結希がずいぶんすがすがしく思えたものですが、2巻は大江縁を控えめに立たせることで落ち着いた雰囲気醸し出して、そういえばこの二人のキャラクターの対比も面白いなんていってましたっけね。主人公に単純粗雑元気と繊細小心内気の男女をもってきて、その元気の方を女の子にしてしまうあたりはかなりいい感じであると思います。今は女の子も元気で粗雑で直情径行で、そしてそれがいいと思えるのですから、昔とはずいぶん変わりました。自由で闊達なふうが、内省的な少年にむしろマッチして、いいコンビだなあと思わせて、そのどちらをも引き立てるようです。

さて、この漫画は、基本的に鈴里高校と鵠沼学園の書道部が対決しながら、互いに刺戟となって、高めあうというような、そういうパターンでいくみたいですね。書道に関しては名門といえる鵠沼、方や弱小の鈴里。両校の部長が双子の姉妹というのはちょっとやりすぎという気もしますが、けれどこういうコントラストを出して、わかりやすさ、けれん味で面白さを引き立てようというのはよくわかります。メインの鈴里は穏やか丁寧可憐な部長に、乱暴者が二人、そして主人公二人がメンバー。対して鵠沼はライバル意識剥き出しの過激な部長、そして美少年が表に立って、あとはモブ。思い切った整理ですが、この割り切りも含めてわかりやすさなんでしょう。あまり多すぎない人数、わかりやすい構図で、書という一見地味な芸術にひそむ面白さ、ダイナミズムを表現していこうというのだと思います。

そして、そのダイナミズム、面白さは少しずつですが伝わってきて、やっぱり書はやってみると面白かったなと思い出すんですね。以前にも少しいいましたが、私は数年にわたり字を書いてきて、けれど習いにいけなくなって、今は書いていないんですね。けどこの漫画見たら書きたいなあっていう思いが出てきて、これはやっぱり漫画に書の面白さが感じ取れるからだと思うんです。けれど、書という営為についていうなら、2巻よりも1巻だったなとは思います。2巻は漫画としての面白さが前に出てきてると思う。だから、読んで面白かったけれど、ちょっと物足りない感じ。この物足りなさが、3巻で解消されるものと期待していますが、実際2巻は3巻で描かれる合宿に向けての橋渡しという印象が強くて、だから3巻。3巻にこそ書の面白さ、一人ただ紙に向かい字を書くということの面白さが描かれたらいいなって思っています。

ああ、それとこの漫画の重大な要素、恋愛ものとしての線ですが、鵠沼の美少年、ちょっと好かんね。だから私は主人公ユカリを応援したいと思います。というか、彼がががっと強く自分の字をものするその時が楽しみなのですよ。いつかくるだろうその瞬間のためにこの漫画を追いたいと思っている、そういっても過言ではないと思っています。

2007年10月4日木曜日

ウィザードリィ エクス2 — 無限の学徒

  6月にはじめたWizardry XTH 2、全クエスト完了しました。というか、してました。ちょっと風邪引いて寝込んでましたが、もしかしてその時にゲームしてた!? なんてあらぬ誤解を招いてもいやだから書いときますけど、クエスト完了は風邪引くよりももっと前の話です。もうちょっと具体的にいうと、テルミン手に入れる少し前でした。シナリオをクリアして以降、八月九月は黙々とアイテム集めにバルタス潜ったり、錬金術師のレベル上げをしたり地味な作業をしていたのですが、なんだか唐突にクエストも進めちゃおっかなあという気持ちが湧いてきまして、そうしたらわりと楽にクリアできてしまいました。やっぱり、レベル上げすぎてたか。慎重はいいんですが、それも過ぎるとゲームの面白さを損なってしまって駄目ですね。

XTH 2をクリアしてみての感想は、やはり以前と同様、ゲームとしての難易度は下がったなあ、につきます。やっぱりパーティスキルの存在が大きいです。迷宮のレベルが上がり敵が強くなってくると、突撃,集撃の陣でもやりそこねが発生してしまい、逆に危険を招きかねません。というわけで、常に先手を取れる疾風の陣が有効になってきたりしましてね、そしてここで重要なのがマハンマハンですよ。この呪文は、旧Wizのハマン,マハマンに相当するのですが、XTH 2では相当な低コスト化がはかられていまして、なんとレベル低下を引き起こさないのです。レベル7の呪文使用回数を0にするだけですからペナルティなんてなきに等しい。敵の攻撃力がやばいと思ったら防御力を強化し、特殊能力がいやなら特殊能力を封じてですよ、魔法だって無効化してしまう。これで勝てないったら嘘ですよ。実際、クエスト終盤に登場する真ラスボス戦でもですよ、楽に勝ててしまいましたから、これは相当なものです。仮に一人や二人死んだとしても、マハンマハンで蘇生、ドレインくらってもマハンマハンで帳消し。これまでのWizのシビアさを考えると、どれほどの楽さであろうかと思います。

けど、これはあくまでも普通にシナリオを進め、クエストをクリアするということに限っての話です。XTH 2ではラスボスに何度でも挑戦でき、しかも倒すごとに強くなって帰ってくるというおまけつきのため、いつまでも楽勝気分ではいかんのですよ。私は全員生きた状態で勝利するを目標にしているわけですが、それもいつまでもつことやら。だってね、シナリオクリアすると、それまでの中ボスが迷宮うろつくことになるのですが、セカンドパーティを差し向けたら、ころっと二人殺されましたからね。笑っちゃいましたよ。油断したつもりはなかったんですが、けど慢心はあったんでしょう。それからはどんなに弱そうに見える敵でも、全力でたたきつぶすことを心に誓いましたとも。

戦闘が楽になったといっているXTH 2ですが、反面厳しくなっているところもあるんです。前作ではこちらだけが使え、敵が使ってくることのなかった各種スキル、神撃や狙撃、乱撃の類いですが、これを敵も使ってくるようになったのです。これがたまらん。特にクリティカルやドレインを持っている奴が斬り込みやら乱撃やらを使ってきたときが最悪で、一度に二人首を刎ねられて、どうしようか茫然としたことがありました。まあ、マハンマハンで蘇生させたんですけど。とにかくクリティカル、ドレインなどの致死的、凶悪な能力を持つ奴がいたら、早期に殲滅が基本であると思います。でもそうすると単体攻撃に特化された神女や献身命の君主がメインの我がファーストパーティでは手が遅いんです。などなど、戦闘が楽になったとはいえ、それなりに頭を悩ませる要素は残っているわけで、こういうところはやっぱりWizardryらしいといえるゲームだと思います。

クエストはクリアしたので、あとはマップを埋めて(未踏破があと五つです)アイテム揃えるくらいですが、アイテムなんて正直揃えられる自信がありません。一応最強クラスの装備も出たりしている(全種族+の女神の槍+4とか)んですが、村正とか出ねえんじゃないかなっていうほど出ません。だって、作った村正が一本あるだけで、とにかく泣くほど刀が出ない。でもまあいいや。こういうのは縁があったら出るでしょうの世界です。だから気長に、期待せず楽しんでいくのがいいのだと、そんな風に思っておきましょう。だから、実際まだまだ楽しめるゲームであると思います。

2007年10月3日水曜日

ハギワラシスコム SDカード 1GB

 デジタルカメラを買ってこの方愛用してきたSDカードが、このところ不調を見せていまして、書き込めないとか消えるとかじゃないんです。ただ、まれに認識しないという、そういう問題が出ていたのです。なんでなんでしょうね。私はデータの読み出しにはGreen Houseのマルチカードリーダ/ライタGH-CRDA13-U2を使っているのですが、これが結構SDカードの差し込みに強い抵抗のある機器でして、そのせいかななんて思ったのですが、けれど実際のところはわかりません。とはいえ、一年以上さしたる問題もなく使えていたのですから、充分元を取れているわけです。ここは新たにSDカードを購入するのがよかろうと、以前母のために購入したハギワラシスコムのSDカードを自分用にも一枚買ってみたのでした。

それでも、なかなか切り替えには思い切れませんで、ひと月ほど未開封で手もとに置いていたのですが、さすがに不調が無視できないと思われたものですから、思い切って切り替えました。カードをGR DIGITALにセットして初期化、すると意外なことに撮影可能枚数が317枚なんですね。これはちょっと驚きました。上海のSDだと315枚だったんです。同じ1GBを謳っていても、メーカーによって少しずつ容量って違うものなのでしょうか。もしかしたらそうなのかも知れませんね。この手のものは規格がばっちり決まっているもんだと思っていたからちょっと意外でした。

カードを切り替えてからまだそれほど日にちが経ってないのでなんともいえませんが、今のところカードを認識しないなどの問題は出ていません。だから、不安定だった原因は以前のカードの劣化、多分端子部分の摩耗が原因なんだと思うんですけど、とみなしていいんだろうと思います。もしこれがまたも頻発するようだったら、カメラ側が原因ってことになるだろうから、メーカーに修理に出さないといけないわけで、そうだとちょっと面倒だなあ。カード側の問題であって欲しいと思います。

けれど、こうしてカードを抜き差しするということはそれだけ傷みやすくなるってことなんですから、できればカードを差しっぱなしで使いたいもんだと思うんですが、カメラのUSB端子を使うのもまたいやで、っていうのは、なんかUSB端子を塞いでいるゴムの蓋って頻繁に開け閉めすると壊れそうでしょう? だから、Bluetoothあたりが搭載されたらいいのにななんて思っています。これだと非接触だし、カメラを対応機器に近づけるだけでデータ移せるしで至れり尽くせりかと思います。実際リコーのカメラにはBluetoothを搭載しているものもあるから、将来のGRにはこれが搭載されることを期待したいと思います。買い替えるかどうかはわからないですけどね。

2007年10月2日火曜日

こどものじかん

  時間は10月1日の昼に遡ります。職場にて、どうにも体調が悪くて仕方がない、はなが止まらない、くしゃみが出る、鼻の奥がひりひりと痛いからどうも熱が出てる模様だと、だから明日休むかも知れませんという諒解を上司にとっていたときのこと。上司曰く、ヴイックス・ヴェポラッブ使いたまえよ。ていうか、あれってコマーシャルなんかではよく見ますけど、実際に使ってる人って身近に一人もいなかったんですが、効くんですか? さあ、上司はにやにやして、なんだあんたも使ってないんじゃんか。そういえば、最近読んだ漫画でヴイックス・ヴェポラッブ使うシーンの出てくるのがあって、『こどものじかん』第4巻、それは一体どんなシーンだったかといいますと……。

風邪をひいて苦しそうなりんを見て、レイジがヴェポラップを塗るというんです、いやがるりんを押し切るかたちで。それ見て、うわあ無茶するなあなんて、ああ無茶というのはレイジがじゃなくて、作者の方。ちょっと過激な描写を売りにしてるところもある漫画ですけど、ちょっとあざとさが過ぎやしないかなんて思うところもあって、どうだろうと思ったら、次のページ、レイジの方がもっとやばかったから、そのへんのもろもろは払拭されてしまいました。

第4巻に入って、これまで以上に教師側の事情などが明らかになって、とりあえず役者は揃ったかという頃だと思います。りんに対しては青木とレイジ、黒に対しては白井、宇佐にはレイジといった、それぞれ対になるような関係が見えてきて、それぞれが欠けているところを互いに埋め合わせるかたちで収束させようとしているのだろうかと思われます。とはいっても、ちょっと大人側が欠けすぎてやしないか。欠けているところがあるのは仕方がない、誰もがどこかに不充分さを抱えているものなんだから、けれどその欠けていることに振り回されすぎているように思えて、特にレイジそして白井。むしろ青木なんかは普通だなあと、生真面目ないい兄さんじゃないか。りんを巡る二人の大人を見て、これは青木が積極介入しないことには救われなさそうだという匂いをぷんぷんとさせて、けれど教師と生徒、大人と小学生というハードルをどう越えるんだろう。りんに対して光源氏計画を発動させている育ての親レイジに対し、あと数年で関係が切れてしまう青木。残り三年というタイムリミットでなんとかできるもんなんだろうかと、微妙に嫌展開も予感させながら、物語はまだ核心に踏み込まず周辺にとどまるばかり、じらせてくれます。

大人側が欠けているなら子供側はどうかというと、りん、黒、宇佐それぞれにやっぱり危ういところがあって、けど宇佐や黒のはそれなりに自己解消しそうかななんて感じもするんだけど、やっぱり極め付けはりんだと思う。ってのは、やっぱり環境が悪いよ。表向きには円満だけど、その裏側にしっかりと策略があって、そしてりんはその策略、違和感に気付いているんじゃないか。あの不安定さ、愛情を過激に求める態度の裏には、それら危機に対する気付きがあって、助けを求める心が青木にゆがんだかたちで向かっているんじゃないか。そうしたぎりぎりの綱渡り的状況を見せられて生じるサスペンドされた感覚、これが『こどものじかん』の読後感を決定づけていると感じます。

ところで、青木はレイジのことをロリコンだと思って敵視していて、けれど自分はそうじゃないなんて思ってるみたいですけど、そのような気付きをするということは、自分自身にそういうことに対する受容体があるってことなんだから、多かれ少なかれ青木もロリコンなんだってことだと思うよ。だからもう認めちゃえばいいのにね、ってそんなこと思ってる私はというと……、アー、アー、きこえなーい。

  • 私屋カヲル『こどものじかん』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年;特別限定版,2007年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第4巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第4巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年;特別限定版,2007年。
  • 以下続刊

2007年10月1日月曜日

よつばと!

 風邪引いちゃいました。参ったなあ。ずいぶん前に書いたことがありましたが、私は楽しいことをすると風邪をひいてしまうんですよ。その楽しみに全力を傾けてしまうんでしょうかね。エネルギー切れを起こしてしまうかのようにして、風邪をひいてしまって、いやはや参りました。子供じゃないんだからとは思うんですけど、どうしてもこればっかりはどうしようもなくって、学ばないようにできているんですよ。きっと古い脳に書き込まれた本能に突き動かされてるんだななどと、馬鹿なこというのもきっと熱のせいです。で、一体なにが楽しかったのかといいますと、テルミンでしょう、疑いなく。夜はちゃんと寝たんだけどな。ちゃんと布団で寝てるんだけどな。なんていってもはじまらなくて、まあ今は風邪を治すことを一番に考えるのがいいでしょう。

というわけで、『よつばと!』7巻が実にタイムリー。牛乳大好きのよつば、父ちゃんのはからいで牧場いくことになったんですが、それがあんまりに嬉しすぎたのか、熱出してしまうというだけの短編があるんです。ああ、子供ってこういう熱の出し方するよねー、って思って、ちょっと待て、すると私はよつば並なのか? まあいいや、それどころじゃない。

熱出した子供って、最初は熱でハイになってるからかな、妙に元気だったりしますよね。よつばもちょうどそんな感じで、牧場にいくと言い張るんですが、あれ、そういえば昨夜私もむやみにやる気が出たっけなあ。翌日仕事だというのに、いろいろ文書したためて、あちこちにポストして、普段だったらあそこまでアクティブじゃない。けど昨日はそれができたってことは、 — そうか熱があったか……。本当によつば並だな。自分ではいい大人のつもりなんだけどな。やってること子供とかわらんのだなあ。

昔の知り合い、ちょっと好きな人だったんですが、その人と外で会う予定があったりすると、お子さんが熱出すのよね。いや、不倫とかじゃない。そんな甲斐性はない。そしたら係長がいうのね、母親の異変を感じて熱を出して引き止めるんだって。ええーっ、なんてこったい。こんな具合に二度ほどご一緒する機会を失して、って一体なに書いてるんだ。ああ、もう駄目くさいなあ。

あずまきよひこの『よつばと!』は、確かに漫画で、ちょっとこんな人っていないよねっていうような感じの人たちを用意するんだけど、けれどその反面、もしかしたらいるかもと思わせるうまさがあります。例えば7巻でいえばしまうーで、こんな理想的な娘、ちょっといないよねー、と思うんだけど、けどもしかしたらと思うところがある。こうした絶妙さ加減が、味として非常に効いていると思います。

父ちゃんにしてもジャンボにしても、やんだにしてもそうですよ。ちょっとずつ自分の身の回りの誰かを思い起こさせるようなところを、誰もが少しずつ持っていて、だからみんながすごく身近に感じられる。もしかしたら、こんなだったらいいなっていう希望がかたちになってるのかも知れないけれど、それならなおさらそう。この漫画を読むたびにまっさらな気持ちに帰ることができるのは、ちょっと理想的で、けど現実とかけ離れてはいないという微妙な不即不離のバランスがためなんだと思います。もりもり力の湧くような漫画ではないし、はらはら手に汗握らせるような漫画でもない。ちょっと普通で、ちょっと変。そんな世界が気持ちがいいから、なにかあっても読めばリセット、洗い立てさっぱりの自分を取り戻せるのだと思います。

  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第7巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 以下続刊
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. Texas : ADV Manga, 2007.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. Texas : ADV Manga, 2007.