2007年10月9日火曜日

今夜、すべてのバーで

 私はこのBlogにおいても、生きることはつらいのだ、そしてなにより悲しいのだと、そんなことばかりいっていて、けれど人は自分のうちに弱さという奴を抱え込まないではいられないようですね。今私の友人が、一人その自分の弱さを前にして、打ちひしがれながら、はい上がる機会をうかがっている最中なのだと聞きました。自分の決めたルールを守れなかったことに自信を失ってしまっている、そのようなことをいっていて、そして危険性についてもわかっていたはずなのにたががはずれてしまったことへの自己嫌悪なんかもあるのではないかと思うけれど、けれどそんな沈んだ時期を抜けて、前へ進みたいと思う気持ちが生まれてくれればいいと思っています。その人にとっての光のようなものが、どこかに見出されれば幸いだと、そのように思っています。

そして私がそのように思うのは、やはり中島らもの教えがあったからだと思うのです。中島らも、先日いっていた『牢屋でやせるダイエット』の人。私はこの人の新聞連載が大好きで、子供の頃に毎週の悩み相談を楽しみにしていたのですが、気がつけば小説家になっていて、その一番最初が『今夜、すべてのバーで』だったんじゃなかったかな。私はこの本を高校生の時分に読んで、学校の図書室にハードカバーが所蔵されたのを一番に借りて読んだのですが、その時の印象は鮮烈に焼き付いて忘れられなくなって、だから後に文庫で買って手もとに置きました。

私は幸い、アル中になったことは一度もなくて、けれど軽度の依存はあるんですが、まあ致死性のあるものではないから、緩慢に駄目になっている最中です。でも、大学に通っていた頃は酒がはなせず、いきまっては飲んでいた。当時友人から、会うたびに飲んでますねといわれて、それで自分の危うさに気がついて、けれどそれからも少し酒は続きました。今はやめてます。ほとんどというか、まったくといっていいくらい飲まず、それは自分が精神的にも依存を深めるタイプであると知っているからです。そこに酒の薬物としての依存性がのっかってきたんじゃたまらない。緩慢にどころか、急速に駄目になってしまうことでしょう。健康を失い、バランスを失して、きっと転がり落ちるだろうと思います。

この本は、中島らもがアル中に転落、復帰したときのことをベースにして書かれているんだそうですね。あくまでもこれはフィクションなんだけれども、読めばどこかに実感の生々しくこもる、手記めいた感触が得られて、私なんかはいたたまれなくなります。自身の体験を小説というフィクションに託し、そしてそこに描かれたこととはなんなのか。多分、高校生の頃はよくわかってなかったろうと思います。けど、今の私は、この本は、人の弱さ、なにかに依存しないではおられない欠乏した心の世界を扱っていると、そんな風に思っていて、あなたも欠乏している、もちろん私だってそう、欠けたる心を持て余し気味に慰撫しながら生きていく、私たち人間の物語がここにあるのだと思うから、ときにこうして触れたくなるのですね。

久しぶりにこの本を開いて、この本のテーマは直接的に『牢屋でやせるダイエット』に繋がるものなのだと実感したのでした。そういえばこの本の主人公小島は最後に酒の依存から脱したけれど、それでまた異なるなにかに依存するんだろうなと、そんなことを思わせる含みを持っていて、そこに私は自分自身を見付けた気がしたものでしたっけ。そしてその実感はおそらくは誤りではなく、結局私たち欠けた心しか持たない弱いものは、なにかによっかかりながら進むしかないのかも知れません。だとしたら、私はその支えになれないものか。誰かの支えになれないものか、なんていうけれど、これはきっと赤河医師のいう思い上がりに過ぎなくて、けれどもっとたちの悪いことに、私はこうして人の助けになろうとすることで、誰かに必要とされている自分を確認したいのです。すなわちこれも依存の一種で、すべてわかっていっている自分の偽善にはへどが出ます。けれど、それでも誰かの助けになるならば重畳と、そうした開き直りをする自分の浅ましさにも気付いている。私はそんな自分をなににもまして嫌悪します。

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