2007年10月10日水曜日

ナツノクモ

  昨日、私には誰かに必要とされている自分を確認したいという欲望があるのだと、そういうことをいっていました。自分という人間に価値があるということを、誰かを自分の庇護下に置くことで証立てしたいのだと、他の誰でもなく自分自身に対して、お前はこうして誰かに必要とされるほどに価値がある人間なのだと言い聞かせたいと、そういうことをいっていました。そして私はあの文章を書いたあと、こんな台詞を思い出していました。あいつが俺にすがりついてた間だけ、俺はみじめじゃなかったんだ。篠房六郎の『ナツノクモ』、第1巻に見える主人公コイルの台詞です。

この漫画の存在を知った2005年から2007年の今にいたるまで、過剰なまでの思い入れをもって物語を追い続けたきっかけには、間違いなくあの台詞があったと、今振り返ってもなお思います。自分自身の価値を見失い、酒とオンラインゲームに依存してしまった男が主人公。この爽やかさのかけらもない設定に、私は自分自身を投影していたのです。酒に、ゲームに逃げ込んでいる間だけは、自分の駄目さから目をそらすことができる。現実にはなんの影響も及ぼさない仮想の強さを誇っても空しいばかりで、だから自傷行為めいた危険な状況に身を置きたがって、 — けれどそんなゲーム上での出来事に意味がないことは自分自身がわかっている。このジレンマが凄まじかった。ゲームにおいて無意味を繰り返す自分自身を客観的に見てみれば、なにもなしえない、それこそクランクのいうように自分は土くれのようなもので、誰かに与える事も愛される事もないものだと思い込んでいる実態が転がっている。愛されることを欲しながら愛されることに怯えるエンジン男の悲哀を、私は自身の問題と重ね合わせていたのでした。

どこかに問題を抱えた人物ばかりが出てきる漫画でした。そして私は彼らのうちに私自身を見ていました。コイル(エンジン男)に関してもそうなら、今の動物園をまとめているクロエに関してもそうで、 — ですから、その為に払う犠牲は全部私にとっての喜びなんです — 。自己否定をベースに築かれたゆがんだ支配欲の発露を見て、悲しさにいっぱいになったものでした。自尊感情の欠如が引き起こしている諸問題、誰もが愛をせがんでいるのに、愛し方も愛され方もわからずにとまどっている、そんな漫画でした。だからこそ、この漫画は特別であったのです。自分自身の価値を信じられない自分にとって、この漫画の登場人物たちは他人ではなかった、一人一人が厳しい問い掛けを突きつけてくる、そんな存在であったのです。

私がこの漫画の完結を心から願ったのは、そうした理由からでした。私は、しょせん漫画の中の存在に過ぎない彼らが自分の価値に気付き、立ち止まっていた今から次へと歩き出せるようになることを、本当に心の底から願っていました。彼らの立ち直りのプロセスを追うことで、私自身の問題にも立ち向かえるような気がしていたのです。私の中にわだかまる思いは、この物語の完結に伴うカタルシスによって、押し流されるに違いないと、そのように思っていたのでした。

『ナツノクモ』の連載は、非常に残念なかたちで終わってしまい、7月末に出るはずだった最終巻もいまだに出る気配すら見せずにいます。一説によると、大幅な加筆があるかも知れないとのこと。だとしたら、最終巻は広辞苑くらい分厚くてもいいななんて思うのですが、いずれにせよ、私には、そしておそらくは作者にも、連載のラストは食い足りなかった。明かされてないこと、そして解決しない問題はたくさんあった。解決に向かって動き始めたかと思われた物語は、最終話を迎えてなお私の中ではいまだに完結をみず、さまよっています。私の彼らに託した思いも一緒にさまよっていると、そんな風に思われるから、つらさに身が切られるかのような思いがします。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

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