表紙買いをきっかけにしてはまってしまった漫画家というと、篠房六郎が今のところ筆頭かなあなんて思うんです。これまで何度も何度も書いてきた『ナツノクモ』の作者ですね。けれど、はじめてこの人の漫画を読んだときには、のちにここまではまるだなんて思っていませんでした。面白いなあとは思ったし、特に読み切りの『空談師』は白眉といってよく、派手さはないが静かに深い世界が描かれていて、ぐいぐいと引きつけられるようにして読んだことを覚えています。この読み切り『空談師』は、連載『空談師』や『ナツノクモ』のベースといえるような作品で、リネンのボードゲームを舞台とし、つまりオンラインゲームの世界で起こってることを描いています。ですがそうした仮想の世界を扱っていながら、その向こうの世界に息づくプレイヤーの存在がメインであるのですね。この二重の世界構造ゆえに、読者は存在しないはずのプレイヤーを濃厚に感じることができる。あたかも、漫画の向こうのゲーム世界の、さらにその向こうに、名も知らず顔もわからない彼彼女らが暮らす現実の世界があるのだと、そのような錯覚におちいるのですね。
この独特のリアル感が篠房六郎の持ち味なのかと思うのですが、漫画のテーマが一種まわりくどく表現されているというか、表に描かれる表層とその向こうに広がる世界が、密接でありながら分離的というか、多面的、多層的であるというか。けど、多分これは作者の意図するところではないのだと思うんです。どうしてもそうなってしまうんだという、そういう類いなんだと思うのですね。
『篠房六郎短編集 — こども生物兵器』に収録されるのは、一押しの読み切り『空談師』に表題作の『やさしいこどものつくりかた』と『生物兵器鈴木さん』。『やさしいこどものつくりかた』は表紙にもなっています。あの、鉄パイプを手に血まみれで座り込んでこちら睨みつけてるメイドさんがヒロインです。
鉄パイプでメイドって、一体そりゃどういう取り合わせなんだって感じがしますが、ええと、これで殴るんですよ、主人の頭を。なんだかたまにおかしくなるというか調子の狂ってしまう主人の頭を、鉄パイプでいい感じに刺戟を与えてもとに戻す — 、とか書くとものすごく不謹慎な漫画のように感じられますが、そんなんじゃないです。いうならばどつき漫才みたいなもので、けどこうしたコミカルな表現の向こうにシリアスな事物を配置して、さらにそれらをとおして、人間の心を描こうとしているのです。偽物と本物という問題。私たちはそれらしいレスポンスを返すものに、本物の知性や心、魂、命を思ってしまいますが、しかしそれがただそのような反応をするようにプログラムされているだけだとしたら? 結局はふりに過ぎないのだとしたら、その、人に似て人ではないなにかに対しどのような思いを持てばいいのか。そうした問題を前に立ちすくみ葛藤するのが前述のメイド、シムレットであり、彼女の抱える問題を引き受けるということは、すなわち人の心とはなにかという根源的な問に立ち返ることであるのだと思います。
篠房六郎という人は、非常に馬鹿馬鹿しい漫画を描いたりもする人だけど、けれど根は真面目な人なんだろうという気がして、ふたつの『空談師』や『ナツノクモ』で描こうとしたように、人と人の繋がり、心や思いの問題みたいなことを、自分自身のテーマとして持ち続けておいでなのだろうなと思うんです。そういう視点の見え隠れするところに私はきっとひかれていて、それはつまりは私自身も迷い、悩んでいるものが描かれているからにほかなりません。
ああ、『生物兵器鈴木さん』について書けなかった。馬鹿で他愛もない話なんだけど、少年時代のノスタルジー、照れ臭くて自分の思いをはっきりさせられないとかね、そういうのが感じられて結構好きなのですが、まあまた今度書く機会もあるでしょう。
- 篠房六郎『篠房六郎短編集 — こども生物兵器』(アフタヌーンKC) 東京:講談社,2002年。
2 件のコメント:
篠房六郎さん、表紙良いですよね!。
いつもすごいインパクトを感じます、下手すると内容より。最近店頭ではあんまり本を買わないのですが、平積みになっていたら間違いなく手に取るでしょう。
ええ、この人の描く表紙はすごくいいと思います。粗削りで、一見ラフなようにも見えるんだけど、その実とてもしっかりしているという、そこがすごくいいと思います。だから、私がこの人のファンになったというのは、やっぱり表紙の力、絵の持つ力もあるのでしょう。
この人のものにかぎりませんが、表紙買いをさせてしまう表紙というのは、やはりただならぬものなのだと思います。
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