2008年2月29日金曜日

みのりスクランブル!

 今、ペンギンがちょっとしたブームなのでしょうか。たとえば『ペンギン娘』、私この漫画は読んでないのですが、面白いのかな? 映画では『皇帝ペンギン』なんてのもありますね。四コマ周辺を見回しても、『ドボガン天国』、『火星ロボ大決戦!』など、ペンギンが極めて重要なポジションに着いている漫画はいくつも(?)思い出されて、そして今ここに新たなペンギン漫画『みのりスクランブル!』が登場です。これはレーベルこそはまんがタイムKRコミックスだけど、四コマではありません。『フォワード』掲載のコマ割り漫画であります。

ペンギン漫画といいますが、鳥としてのペンギンを愛でようという漫画ではありません。八木山幸博士によって作り出されたペンギン型アンドロイド・ペンギノイドの活躍する、いわばSFもの。ペンギンのペンギンによるペンギンのための王国を築こうと闘争するペンギノイドたちを描いた、感動巨編なのであります。そして地球の海は、巨大ペンギンヴォーテックスにより支配されることとなるのでありました!

ごめん、嘘。けどペンギノイドが活躍するってところまでは本当です。

ペンギン好きが高じてペンギンの研究者となった父にほどこされたエリート教育が災いし、決定的にペンギンを嫌いになってしまった少女、たまきがヒロイン。しかし父は娘にペンギン嫌いを克服させるべく、八木山開発のペンギノイドを投入してきた。それがタイトルロール、みのりであります。

必殺技はフリッパー形態フォームから繰り出される手刀、そして南極海トーピード。けど、あんまり役立ってるとは思えません。むしろペンギノイドは愛玩用というか、手のかかる可愛い妹にしか見えなくて、だからこそペンギン嫌い克服の秘策であったということでしょうか。今ではみのりもたまきのよい友達です。

この漫画の基本形は、八木山博士がトラブルの種を蒔き、それをたまき&みのりが解決する、というものであるのですが、トラブル影響度の微妙さ、ご町内商店街巻き込んで、というそのサイズが絶妙なのです。もともと私には、商店街を中心とするような町内巻き込みものが好きという傾向があったりしまして、すなわち『みのりスクランブル!』の舞台、これが私の好みにドンピシャであったというわけです。

陰謀があるわけではない、悪意なども皆無。実に幸いな展開が楽しい漫画です。登場人物がそろいも揃って元気で、はつらつとしているから読んでいて気分がいいし、絵もよく整理されてわかりやすい。それになによりテンポがいいから、次々とページがめくられていって、だれない、飽きない、読み疲れることなくすいすい読めて、これはあたりの漫画だと思える感触がありました。よくあるパターン、お約束を絡めながら、決して感動の展開に向かおうとしないその意気やよしです。むしろお約束の逆を張る。しかしそれさえもが話を前に進ませる力になって、簡単に逃げず、ただでは終わらず、毎回毎回の舞台をよくよく駆け回ったうえで、きれいに落ちをつけるというのですから、読んで得られる満足感もそれだけ大きなものになるのですね。

ところで、うちにもペンギンのぬいぐるみがいます。

Stuffed penguin

ひとりの時にはテレビを見ていることが多いみたいです。

Penguin watches Nigel Marven

こんな感じにペンギンに参ってしまっている私ですから、二重三重に『みのりスクランブル!』は面白くて、いや、これ、ほんとにいいですよ。読んでいてちょっとしたしあわせ気分です。

あ、そうそう。作者は医者にかかってください。先が読めなくなったりしたら困ります。お願いします。

  • ちはや深影『みのりスクランブル!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年2月28日木曜日

ろりーた絶対王政

 油断できないなあ。そんな感じ。タイトルにろりーたなんてあって、一体どんなあざとさが!? なんて思う人もあるかも知れないけれど、むしろ逆。はっとするように繊細で、心の奥に染み入るような感情の揺れ動きが美しい、そんな漫画です。タッチは少年誌風というよりも少女漫画のそれ。そのためか肉感的な色気よりも気持ちに働きかける要素のほうがずっと大きいと感じられて、それがまたなんともいえず心地よいのです。ヒロインは二人。双子というけれど、あまりに小さな妹はどう見ても小学生で、なんか訳ありっぽい? 姉は可憐というより辛辣で、辛辣というより鮮烈で。妹は可憐であって幼気で、いたいけであって健気で、そして無邪気で — 。その無邪気さが心をかき乱すのですね。ああ、いや、私の心じゃない。主人公、鷹彦の心をです。

鷹彦は高校生男子。女の子に興味がないわけではないけれど、過去にあったいろいろが女の子への距離を作ってしまって、だからちょっとかたくなですね。そんなシャイボーイのうちに可愛い双子が住むことになったという、 — いわゆる同居ものであるのですが、同居もののお約束は匂わされはするものの発動することはなく、いやむしろ、パターンをはずれながら、深まりを見せようというのです。

深まり。謎めいた姉妹の守ろうとしている絆と、からめ捕られるように共犯関係に引き込まれていく鷹彦。翻弄され幻惑されたその先に鷹彦のたどり着いたものというのが、小鳥遊姉妹の他の誰にも見せようとしない素顔であったというのですからたまりません。向けられる悪意をすべて背負ってでも妹を守ろうとする姉るる、健気なそぶりにかくして意地を張り続ける妹りり、不安に揺れるふたりの心、特にりりの気持ちが鷹彦の言葉に決壊するシーンなどは、見ていて思わずもらい泣きでした。

鷹彦の不器用さが、朴訥さが、気持ちの揺れ動きをより大きなものに変えたと、そんな風に思われるのです。簡単には認めないぞ、流されてたまるもんかって意地を張っている彼が、それでも認めざるを得なかった。その言葉のそっけなさに透けて見える本音、不器用なだけにね、効いたと思うんです。小鳥遊姉妹にも、読者にも。そして、ここに承認されることの喜びというのが感じられて、ああ自分のやっていたことは正しかったんだ、自分はここにいていいんだと実感できる喜びですよ。居場所を見出すことのできるということの意味、価値が広がり、わだかまっていた気持ちが一気に押し流されて、晴れてしまうのです。

それは、りりの不安に心を重ね合わせるようにして読み進めてきたものにとってはなによりの救いであったろうし、また鷹彦の側に立ってりりを見守るように読んできたものにとっては、この誰よりも頑張り続けてきた人を受け入れ、そのままにして見過ごせば流され消えてしまったかも知れない無形の価値を、確かなものとして掬い上げることができた、それはやはり喜びであるのだろうと思うのです。他の誰も気付いていないかも知れない君の価値を、僕は知っている。そこに通いあう心の機微があれば、それを人は絆というのでしょう。鷹彦にとって、ちょっと気になる女の子であったりりは、より以上に意味のある存在として揺るぎないものとして意識されるようになり、だから2巻以降で語られるであろう、また違った鷹彦の不器用さの世界が成立するのでしょうね。

『ろりーた絶対王政』は素朴な恋愛の劇を通して、人と人との関わり方、必要とされる喜び、認められる喜びを感じさせてくれる、そんな作用を持っています。それはあまりに純朴で、ちょっともどかしく思うところもあるのだけれども、そうしたもどかしさも含めて、人の心の揺れ触れ動く様は甘く溶ける誘惑であると知らせてくれるのですね。ええ、誘惑ですよ。さりげないしぐさに、意図せざる誘惑に篭絡されてしまう、そうした傾きのある、ちょっぴり危険な漫画であります。

  • 三嶋くるみ『ろりーた絶対王政』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年2月27日水曜日

まじん☆プラナ

 本来ならそんなに意識されることではないはずなのに、無闇に色っぽい漫画だなと、そんな感想抱いてしまうのは、絵の持つ雰囲気のためなのではないかと思います。絵が色っぽい。過剰に色気を表に出そうというような漫画ではない(そうか?)のに、端々に色気が感じられて、表情に、しぐさに、造形に、そして描線さえからも、ほのかに色気が漂ってくるようなのですね。のびやかにしてなまめかしい。そんな表現がしっくりとくるような、そんな画面にドキドキします。けど、直接的な表現は避けてるんですね。出てもへそ程度、けどその抑制され方が強烈に効果的で、やっぱりドキドキします。すべてはコマの外、アングルの妙によってあらわにされることがありません。あとはご想像にお任せしますとでもいいたげなこの手法、ああ、想像力には限りがないのだなあ、本当にそう思います。

私この漫画読んで、描線に対するフェティシズムがあってることを、ことさらに意識させられましたね。って、まだこの話引っ張るのか。ええと、次いってみよう。

帯の惹句、フラグ立ちまくり。っていう表現がやたらとうまいなと思うんです。実際読んでみたらそんな感じなんですよ。ちょっと淡泊で優柔不断そうな少年有人を主人公に据え、そのまわりを魅力的な美少女で固めてみましたという構成。物語の動因となるプラナ、ツンデレ幼なじみ茉莉、あとはおかん(?)とか猫又とか冬将軍とか蔵管理人とか。ありのまま思った事を話すと、『瑠璃色の雪』とか思い出しました。いや、だって、幼なじみ、巨乳、眼鏡とくればやっぱり奈川陽子思い出すのが筋ってもので、それにちょっと違うけど雪女いるしで、思い出さないほうがおかしい。何を言っているのかわからないと思うので、ええと、次いってみよう。

この手の漫画としては非常にオーソドックスというべきか、学校そして自宅という本来日常そのものであるはずの舞台に、ランプの魔人という非日常が投げ込まれることで成立する非日常的日常。けど、もともとこちら側の住人であるはずのおかん、茉莉あたりもかなり非日常臭いというか、のっけからの卍固め、前日譚においてはキン肉バスター、強すぎるぜおかん。ともあれ、この非日常感は病みつきになります。

癖になりそうな非日常感、小ネタ多めの非日常的日常にこそ、この漫画の面白さはあると思うのですが、またそれだけではないとも思っています。ただでさえ魅力的な非日常的日常、これを彩るのが、有人を巡っての感情の流れ、そして、そこはかとなくひどい人がいっぱいであるなど、そうした細かな描写であるのです。ツンデレ幼なじみ茉莉は、有人に対してはあからさまに好感度マックスの実によいツンデレであるというのに、有人の友人河原には冷たい冷たい、むしろむごい。その対し方の落差、手のひら返すかのような態度には笑わずにはおられない。そしてこれは茉莉だけではないんですね。

基本形といってもいいくらいの典型的キャラクター付けをされている各登場人物であるというのに、それがありきたりになっていないのは、彼らの感情行動がいきいきとしているからだと思うのです。性格性質のパターンをパロディの素材として用いながら、うまく流れにのせている。これが実に自然であるものだから、パロディ的な面白さと王道的な楽しさを一度に得られるのですね。小ネタの利用にしても、下手をすればあざとく感じられるかも知れないところが、ちっともそんなことない、漫画にうまくとけこみ、流れを乱すこともなく、けれど効果的に働いて、これは本当にセンスのたまものなのだろうなあと思っています。本当にうまい。先ほどいった茉莉の手のひら返しにしても、それがストレートにおかしみ、笑いに変わるのは、そこに嫌みがないからで、さらにいえばそれが許される流れができあがっているからでしょう。河原、茉莉をはじめとする皆にして、そういうキャラクターなんだ、そういう役割を担っているんだ。意識するにせよしないにせよ、そうした流れが感じられるのです。これはやっぱりうまいな。さっぱりとして嫌みがない。それはそれはたいしたものだなと思っています。

でも、読んでいる最中は、上にぐだぐだ書いたようなことはどうでもよくって、色っぽい線だなあって思ってる。小気味よいテンポ感も相まって、気持ちよく、楽しく、すらすらと、そしてドキドキと、そんな感じであるんですね。

蛇足

そういえば最近書いてませんでした。ええと、茉莉はおそろしく魅力的な娘だと思っていますが、それこそツンデレのよさに開眼するくらい? けどプラナやリッカも魅力的で大変困ります。しかし、キャラクターの魅力が強い漫画です。容易にあらがえないものがあると思います。

  • nino『まじん☆プラナ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年2月26日火曜日

稀刊ツエルブ

 明日は『稀刊ツエルブ』の発売日。もしかしたら一日早く売られたりしていないかなとたまたま覗いた書店(三件目)に見付けることができまして、ああ一日早く読める、嬉しいな、買って参りました。『ツエルブ』というのはどういう雑誌かといいますと、表紙にサーティライフ応援マガジンと謳われているように、三十代を応援するという趣旨で刊行されている — 、まあ私も三十代であるわけですが、 — 女性誌なんです。2008年13月号の特集は30代からのPCワーク!。けれど、仕事色を前面に押し出すでなく、むしろ三十代という年代をいかに素敵に過ごすかというライフスタイルを提案する、そんな雑誌なんですね。三十代というともう若くもないし、けれどおばさんといわれるのも抵抗がある、それこそ微妙な年代であるわけですが、けれど本当は三十代っていうのはこんなにも素敵なのだよと、三十代女性っていうのはこんなにも魅力的なのだよと、そんな主張が感じられて、読んでいる私にしても元気づけられるというか、ええ、本当に嬉しくなる。そんな本であるのですね。

ページめくるごとに懐かしさが込み上げてくるようです。『ママはトラブル標準装備!』。私が『まんがタイムジャンボ』を買いはじめた時期というのは、まさしく『ママトラ』が掲載枠をかけてしのぎを削っていた、そんな時期でありました。

『稀刊ツエルブ』は、漫画家海藍氏の初期作品集。デビュー当時、あるいは投稿時代といってもいいのかも、漫画家としての色が確立される前の若い作品がこれでもか、ありったけ収録されている、そんな本であります。『トリコロ』以前といってもいいかも知れません。ストーリー色弱いものがあれば、ネタよりも全体の流れを意識したようなものもあって、ある種実験的、海藍という漫画家の成長の軌跡、初期の輝きを一望できる、そんな一冊なのですね。

しかしすごく懐かしい。氏の若草の頃。『まんがタイムジャンボ』に掲載されていたものがあれば、『ポップ』に掲載されたもの、そして私のまだ氏を知らずにいた頃のものまで、網羅的といってもいいくらいに収録されて、さすがメディアワークスというべきでしょうか、マニアの心をつかむ構成です。知っているものもあった、知らないものもあった、そしてそのどれもに思い出がつまっているようではないですか。好きだったなあ。もちろん『トリコロ』の海藍も好きだし、その後の紆余曲折含めて嫌いになれない私がいるのですが、それでも初期の海藍は格別と思います。懐かしさのせいですかね。まとめて読みたいと思っていた『ママトラ』を、今こうして読めたという、その思いのせいですかね。多分そうでしょう。感情の動きが、私を内側から揺さぶっていると、そんな風に感じられて、だから私は今ちっとも冷静ではありません。いやあ、駄目ですね。しかし、私は一体なにがこんなに嬉しいんだろう。いや、本当に駄目ですね。

『トリコロ』以後の海藍の面白さは、構成の緻密さ、そういうところにもあらわれて、対して初期の漫画は、ずいぶんおおらかであると感じられます。もちろん、今の作風に繋がる要素もある、当然ですね。けれど、もうちょっと、なんというか、粗削り、詰めの甘さ、気楽さ、そういった部分がちらほらと見て取れて、これはおそらく作風が固まるまでの右往左往の苦しみ、試行錯誤の跡なのかも知れないなあと感じます。絵柄もずいぶんと違って、しかも意識的に変えているとみえるものもあって、そうしたところも愛おしい。ああ、お頑張りやしたなあ。本当にこれは足跡だと思います。氏が真に偉大な作家になるかどうかはこれからにかかっているわけだけど、けどかつて萌え四コマと呼ばれていたジャンルにおける氏の功績は大きかった。それはそれは大きかったと思っています。

『ツエルブ』には、そこに至るまでの軌跡が収められているんですね。少なくとも海藍という作家個人の軌跡が見て取れる、履歴書とでもいえそうな出来に仕上がっています。この、氏のまさに伸びようとしていた頃に私は読者として関わって、氏に引き上げられるようにして、四コマ誌の世界にのめり込むようになったんですね。だから、ことさらに今日この本を手にできたことを喜ばしく思っているのだと思います。

  • 海藍『稀刊ツエルブ』東京:メディアワークス,2008年。
  • 海藍『トリコロMW-1056』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2008年;特装版,2008年。
  • 海藍『トリコロ』第1巻 (まんがタイムきららコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 海藍『トリコロ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 海藍『トリコロプレミアム』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。

CD

Platform, taken with GR DIGITAL

In carriage二月ももう末となり、つまりはGR BLOGトラックバック企画の締め切りですよ、というわけで、今月もこりずに写真を掲載したいと思います。さて、今月のトラックバック企画、お題はなにかといいますと鉄道です。鉄道といいますと、私にとっては日々利用する足、まさしく日常の舞台でありますが、しかしただありふれたものではない、そういう魅力が鉄道にはあると思います。といったわけで、トラックバック企画「鉄道」に参加します(と思ったら、締め切り昨日だった)。

今月のお題が決まってから、いつも以上に鉄道がらみのものに注意して生活したのですが、けれど気にするとあんまりよくないものでもあるようで、あんまりピンとくるものは撮れませんでした。なので過去に遡ったりもして、車両から、駅から、軌道、踏み切り、高架等々、いろいろ見て、このへんが好きだなと思ったものを選び出しました。

より正確な表現をするなら、好きだと思った写真を選んだんじゃなくて、いいなと思った時を撮ったものを選び出したと、そのように思っています。

選ばれたのは駅の風景ばかりで、私にとって鉄道というと、車両そのものももちろん思い出されるのですが、それよりも駅、プラットフォームの風景というのがより強く印象深くあるようです。駅は、人と人の交錯する、そういう場所であるからかも知れません。

Platform

Station

2008年2月25日月曜日

シスター・ルカは祈らないで!!

 竹内元紀という人を知ったのは、ネットでの評判からだったんですね。エロくないエロ漫画を描く人で、いやエロ漫画じゃないですね、下ネタ系のギャグ漫画描く人で、そのくだらなさが実におすすめなのだという人がいたんです。へー、それじゃちょっと読んでみようかな、くだらないといわれて読もうと思う私もどうかと思いますが、とにかく買ってきました『Dr. リアンが診てあげる』。女医なのかふりだけなのか、見た目子供のリアンがニセ医療行為をするという漫画であったのですが、着目すべきは端々にこれでもかとちりばめられたギャグです。エロ、下ネタがそれこそ駄洒落のレベルで押し寄せてくるのですが、それが本当にくだらない。小学生男子級といったらそれらしいかと思うのですが、しかしその小学生ギャグてんこ盛り漫画を買い続けているんですから、一体これってどういうことなんでしょうね。

有り体にいうと気に入ってるんです。『Dr. リアン』はもとより『仕切るの?春日部さん』もすべて押さえていて、まあ当然ですね。だから当然『シスター・ルカは祈らないで!!』も買いました。先日、雑誌買いに寄った書店で見付けて、ああこれは買わなければと思ったんだけど、雑誌買ったら残りが百二十二円しか残らなかった。なので今日まで持ち越したんです。しかし、医療もの、学園ものときて、今度はシスターもの。聖職者ですか。少しは芸風変わったのかなあ、ちょっと期待しながらページ開いたら、わあ、驚くほど変わっていない。テンション高いのか低いのかわからない独特ののりで、緩急なしにとめどなく連呼されるギャグ、下ネタ、エロワード。ああ、なんにも変わっていない。そのことに感動でした。そして読み終えて満足しました。ああ、面白いなあ。人にはすすめられないけど。

世の中には、変わらないというそのことが価値となりうる、そんなことがあるんですね。だなんて、なんかいいこといったようなつもりになっているわけですが、昔好きだったという雰囲気が失われず残っているという、それがいいじゃありませんか。って、昔というほど昔じゃないんですけど。だって、もう成人してたし。仕事もしてたし。

いい年した人間が、くだらないくだらないといいながら、下ネタギャグ漫画を読んでいる。正直どうかと思える話ですが、それでもたまにはくだらないもの読みたいです。下ネタっていっても、どぎつい、えげつないなんてことは皆無、とはいえ間違っても爽やかなんかではないのですが、ナンセンスな、いい加減なのりがひたすら続くと、押し切られて笑ってしまうんですよ。考えたら負け、畳み込みに身を委ねるのがきっと正しくて、そうしたら変にリラックスできて、そんな時に、ああいいなあと思えるんじゃないですか。軽くていい加減で、色んな意味で台無しな漫画。その雰囲気がなにより、ああいい漫画だと思います。家族には見せられないけど。

2008年2月24日日曜日

「世界樹の迷宮」スーパー・アレンジ・バージョン

 昨日届けられた『世界樹の迷宮』のCD群。早速オリジナル・サウンドトラックを聴き、その後速やかにスーパー・アレンジ・バージョンに移行、そして驚愕です。『スーパー・アレンジ・バージョン』というのは『世界樹の迷宮』のBGMをアレンジしなおして収録したアルバムであるのですが、これが絶品。よくもまあといったらおかしいけれど、奥行きもあれば膨らみもある実に豊潤な音楽世界を作り上げていて、これは本当にすごいと思えるものでした。大幅にアレンジされている、そうかも知れません。ですが、それは間違いなく『世界樹の迷宮』の音楽であり続けています。これぞまさしくアレンジの妙技であるなあとうなりました。

結構なアレンジが加えられて、しかしそれでももとの世界が揺らがずにしっかりとしている。これはアレンジャーの腕の確かさもあろうかと思いますが、また同時に作曲者古代祐三氏の音楽の強さがあるからだろう、そのように思わないではおられません。もとになった曲は、今の時代にあえてFM音源駆使して、往年のゲーム音楽のらしさを強調しようとした意欲作ですが、それでもこうしてアレンジされてしまえば、ゲームという枠にとらわれない広がりがあらわにされてしまう。ゆえにすごいと感心するのです。

アレンジはフュージョン色強いものあれば、オーケストラルな雰囲気色濃いものもあり、実に様々。アレンジャーの個性の違いが多様な質感を生み出して、こうしたところにもまた広がりがあると感じられるのですね。しかし、このアレンジというのも力はいっています。それこそゲームのアルバムなんかには、おざなりなアレンジで誤魔化しているのもあったりするでしょう(買って聴いて泣きそうなのもあったよ)。けれど、このアルバムに関してはそんな感じまったくありません。これはおそらくはゲーム周辺の市場の成熟がある、それに加えて作り手側のよりよいものを作り上げようという意欲があるのでしょうね。実にいいアルバムであります。それこそ『世界樹の迷宮』を知らないという人にすすめてもいいと思えるくらいに。

そして、プレイヤーには特権があります。ゲームを通して積み上げられた記憶、感情、そうしたもろもろが音楽を媒介としてあふれるようですよ。目の前に情景が浮かぶ。音楽の広がりとともに、それはより現実的な感触をともなって立ち上がってくるようです。風に揺れる木の葉の一枚一枚、街の風景、行き交う人々の姿、そして忘れられた廃虚に差し込む光。すべてがまるで自分の立ち会ったことであった、そう思える確かさをもって浮かんでは消える。ああ、こればかりはプレイヤーでないとわかりません。あの迷宮をくぐったものでなければ感じ取れない世界がある — 、まさしく特権であります。

参考

CD

Toy

2008年2月23日土曜日

「世界樹の迷宮」オリジナル・サウンドトラック

 世界樹の迷宮 II』の初回版、きっと品薄になるのだろうなあ。そう思った私はちょっと願を掛けたのです。CD付きの初回版、無事購入できました暁には、『世界樹の迷宮』のサントラまとめて買います、って。そうしたら無事手に入れることがかないましてね、ああ嬉しいね、じゃあとばかりサントラとドラマCDをまとめて発注したのでありました。それがおとついの夜のこと。それで今日には荷が届いているというのですから、今の物流はものすごいなとあらためて思います。千葉から京都まで中一日。いやはや、すごい時代です。

さて、『世界樹の迷宮』のサウンドトラックは、まさしくオリジナルというにふさわしいというべきか、DS音源版とPC-88のFM音源版の二枚組で、凝ってるなあ。普通ならどちらか一枚、まあPC-88音源版で決まりだろうというところが、DS音源版まで収録されて、音質の面での制限が感じられるDS版に、より広がりを感じさせる上質な88版。こういう聴き比べも面白いなあ。けど聴くとなったら躊躇なく88版を選びます。だってDS版はもう実機で聴きまくりですから。

ええ、『世界樹の迷宮』、全然進んでいません。というか時間がとれないから。ギター弾く、漫画読む、本も読む、文章書く、もういっぱいいっぱい。ゲームのために割ける時間はないよ、といいたいけれど、人間やろうと思えばかなりの時間は捻出できるのだそうですから、私の情熱が足りないってことなのでしょう。とりあえずレベルあげながら、クエスト消化中。ああ、先は見えないね! メインパーティだけでこれなんだから、セカンド、サードを考えると途方に暮れます。金で経験値が買えればいいのに。

オリジナル・サウンドトラックはオリジナル色が強いだけに、強烈な印象を残しません。ああ懐かしい、と思えるほど過去にはなっていない、というかまさしく今プレイ中のゲームですからね。けど、それでも88版のクリアな音質は素晴らしい。立ち上がってくるような質感、音ひとつひとつの分離、そして奥行き、全然違います。いいねえ。いかにも昔風の音を積み上げて作り上げられた音楽は、しかしまさしく今の音楽であって、こうしたアプローチはありえるのだと主張するかのような存在感を持っています。

こういう一種特別な機会を作り上げたのはゲームというジャンルであるわけですが、ゲームミュージックというのは、そしてあるいはアニメの音楽も、やはり特別な可能性を持っているという思いを新たにしました。付随音楽としての制約もあるけれど、同時にかなりの冒険も可能、それこそ実験的なコンセプトでも大丈夫という、懐の深さを持っていると感じます。

参考

CD

Toy

2008年2月22日金曜日

飛行機・ロケットのひみつ

しみじみと昔を思い出していう、ああ、私が子供だった頃、日本はそれほど豊かではありませんでした。不況だったせいもあるかも知れませんが、ものが身の回りにあふれる、そんな経験は皆無だし、みんなつつましく暮らしていた、そう記憶しています。うちは父が普通のサラリーマンで、そんなに稼いでくるわけでもない、平均というか、総中流っていいますか、貧しくもないけれど裕福でもないって、そんな家庭であったんですね。そんなうちで子供時代を過ごした私は、本がなによりの贅沢で、そんなには買ってもらえなかったのですけれど、たまには買ってもらえることもあって、漫画だったら『ドラえもん』そして『ひみつシリーズ』、それくらい。でもそれで満足していた。そんな時代でありました。

なんでこんな話になったかというと、テレビ見てまして、海外の風景が映って、ああ海外旅行いきたいなあ。そんなこと思って、けど私、子供の頃、自分が海外旅行にいける日がくるだなんて思いもしなかった。それこそ、飛行機だって乗れないだろうって思っていて、それが北海道への家族旅行、飛行機に乗って、移動して、ああ、子供の頃の夢がひとつかなったって思ったのでした。

飛行機なんて、それくらいすごいことだった。少なくとも私の中では。ましてや海外旅行なんて夢のまた夢。だって、私が子供の頃って、おいそれと海外なんていけるもんじゃなかったんですよ。『アメリカ横断ウルトラクイズ』。三十代くらいの人だと覚えがあるでしょう。クイズに勝ち残ってアメリカはニューヨークを目指す。秋の恒例特番で、二時間のスペシャルを四週連続くらいでやって、すごく人気がありました。アメリカなんていけるわけないよ、けどもしかしたら、そんな思いで参加した人が残ってしまってさあ大変、テレビの向こうから、係長、会社休んじゃってごめんなさい! なんて謝ってるんですね。なんかおおらかな時代でした。

全盛を誇った『アメリカ横断ウルトラクイズ』の人気、陰りを見せたのは、海外旅行が身近なものになったからだと思っています。それまではハワイでさえも、小金持ちのいくところでした。クラスで海外にいったことのあるという子供、一体どれくらいいたろう。いなかった? いても、ちょっと金持ち風ひけらかす感じでね、すごい! 羨望です。『ドラえもん』でいえばスネ夫のポジションですね。そして私はさながらのび太で、きっと自分が海外旅行にいくことなんてあるまい、そう決めつけていたんですね。

飛行機は、私にとっては憧れの機械。自分が乗る乗り物ではなくて、それこそロケットやなんかと同様、手の届かない、特別な、選ばれた人のためのものでありました。それが今は乗ろうと思えば乗れる、ロケットだって、民間人が宇宙に出られる時代になってますからね。今は高嶺の花でも、私がいきているうちに小金持ちの娯楽くらいにはなりそうな勢いです。まるで夢のようですね。ええ、正直なところいいますと、子供の頃、子供部屋の床に座り込んで夢見た未来、越えてしまっています。ああ、すごい時代だな。今は不況だ、なんだかんだいいますけれど、私の実感からすれば豊かな時代です。少なくとも日本においては。これから先はわからないけれど、確実に私の子供だった時代よりも豊かであるといっていいかと思います。

海外になどいけるはずがないと思っていた私は、2001年、イタリアにいったのを皮切りに、香港・マカオ、中国は九寨溝と、もう三度も海外に出ているんですね。本当、信じられない。子供だった私は、これからの一生で、一度でも海外にいけたらすごいなって思っていました。二度ならどんなだろうって思ってました。それがもう三度もいっているんですね。飛行機に乗ることすら無理だろうと思っていた子供でした。それが海外にまでいけて、もう私は子供の頃に夢見たことはすべて果たしてしまった。だから、今はもう余生なんだよと、これで死んでしまうことになったとしても、子供の頃に夢見たことはすべてかなったんだから、もういいんだよって、しみじみ話した時の母の複雑な表情が忘れられません。

けど、ほんと、もうすべてかなったんだなって。自分は、決して裕福でもないし、余裕もなにもあったもんじゃない、ほんとにしょうもない人間だけれども、それでも仕合せな人生を歩んできたんだな。そんなこと話したくなる夜もあったのでした。

2008年2月21日木曜日

世界樹の迷宮 II — 諸王の聖杯

 世界樹の迷宮』、メインシナリオをクリアして、とりあえずパスワードをとれるようになったのは今年の頭のことでした。けどまだやるべきことは残っている! エクストラダンジョン(フロア?)の踏破や追加クエスト、図鑑の完成などなど、やっぱりそれくらいはしれっと片付けられてしかるべきですよね。……。いや、実は全然目処が立っていません。メインシナリオクリア時点でレベルがカンストしていたために、いったんメインパーティを引退させ、鍛え直している最中なのですよ。いや、最下層にチャレンジできるくらいには育ってるんです。だったら、なにが問題か? なに、簡単な話ですよ。モンスターのドロップするアイテム群、正直あれらをすべて集めきれる自信はないですね。ええ、もうまったく、ちっとも集まりそうな気がしないですね。

一番の問題は、アイテム集めが楽しくないことだと思うんですが、まあそれは言わぬが花ですね。暇な時、隙間時間を利用して迷宮潜ること幾度でしょうか。図鑑を見て、空きを確認して、出現期待ポイントうろついてちまちまと倒す。ゲーム中で数日経てばボスも復活しているから、そいつを倒しに戻るんだけど、これがまたアイテムを落とさないんですね。もう、いやだ。ほんとにこれ揃うのか? もしかしたら、アイテムドロップ率を上げるスキル博識あたりの出番なんだろうなと思うんですが、正直博識にポイントを割り振る余裕はないような気がします。いやしかし、ここは思い切って博識に振り直すべきか? まあこのへんはあわてて結論出さず、もっぺんレベルがカンストしてからでいいと思います。あ、今度は引退じゃなくて休養ですね。

さて、なぜここにきて『世界樹の迷宮』であるかといいますと、今日がほかならぬ『世界樹の迷宮 II』の発売日だからです。『世界樹の迷宮』はそれこそ気化蒸発するような勢いで消えたとかいいますが、はてIIはどうなんでしょうね。私は遅れて『世界樹の迷宮』知って、オークションで高値で買った口なのですが、また同じようなことするのはいやだなあと思って素直に予約。そうしたら、ありがたいことですね、無事発送されたそうでして、明日には届くことでしょう。けど、パスワードでの一部設定持ち越しにおいて、図鑑完成データとそうでないデータでは違いがあるらしいと聞きますから、ああ、これはおあずけコースか? 図鑑完成まで封印か? しかしだなあ、悠長にアイテム揃えているだけの余裕なんてねえですよ!

だいたい、クリアしていないゲームも多すぎるんです。Wiz XTHもアイテムコンプリートしてないし(フルコンプしないとクリアとみなさないというのは、むしろ不健全なのでやめたほうがいいですよ)、PCゲームだって個別ルート(?)に入れてない時点で中座しているものがあれば、そもそもインストールさえしていないものもあって、じゃあ買うなよ! ってな話ですが、だって初回特典付きが欲しいじゃないですか!

結局私にかかってはゲームも物欲なんですね。

あ、『世界樹の迷宮 II』について一言。今回はガンナーのために買いました! さては眼鏡か、眼鏡だな!? いや、残念ながら違います。私が心引かれたのは金髪です! 銃構えるその姿が、凛々しくて最高じゃないですか。それに眼鏡はアルケミストで足りていますしね。

ところでどうでもいい話なんですが、ドクトルマグスの黒髪女子千夜さんにちょっと似てませんか?

CD

Toy

2008年2月20日水曜日

眠れる惑星

  書店にて4巻が発売されていることを知って、そして帯にてこれが最終巻であると知って、驚きました。第4巻で終わりなんか。核心に向けて話が動き出したばかり、そのように思っていたものですから、余計に唐突に感じられて、けれど見事に終わらせましたね。1巻から読み返して、各話のサブタイトルに表れた登場人物の名前を数えてみれば、そして少し落ち着いて反芻してみれば、作者がこの漫画に描こうとしていた世界について、もっと近づいていくこともできるのでしょう。けれど今はまだ曖昧のままに、漂うような感触残したままにしていたいと、そんな風に思っています。

そして、この漫画は、世界が眠りに落ちるという異常事態を描いて、けれどそれは決して主題ではなかったのかも知れないと、そんな感想を持っています。人類のすべてが眠りに落ちた世界において、唯一覚醒に導くことのできる存在であった淳平は、結局は状況に流されるままに終始して、むしろ能動的に状況に関わり、事態を動かしていたのは女達でした。けれど、彼女らにしても、なぜ世界中が眠りに落ちることになったのかという謎には達することができず — 、いやそんなことはないはずだ、謎は最後に明かされたじゃないか、ちゃんと読んでるのかといわれそうですが、謎は明かされるべくして自ら明かされたのであり、その謎の解かれ方にしても、謎を解く存在としてあらかじめ選ばれていた彼女の口寄せめいた説明に過ぎないわけで、そのシーンを見て、ああ、眠りに落ちた世界とはいわばギミックであったんだと、そのように思ったんですね。

世界はギミックに過ぎなかった。それはつまり、この漫画の中心にあったものとは、異常状況下において再編成される社会でもなければ、ましてや人間の世界を奪還せんと奮闘するドラマでもなくて、いうならば登場人物個々人の心を巡る印象に触れようとする、淡くナイーブなスケッチであった、ということなのかも知れません。だとすれば、これは非常に陽気婢という人らしいと思えて、既作において感ぜられた雰囲気、印象に通ずるものがある、そのように感じて、不思議と納得したのでした。

自分たちを除くすべてが眠った世界で、どのような振る舞い方を選んだか。彼女たちの選択を描くことは、すなわち彼女らのキャラクターを描くことにほかならず、だからこの漫画の中心には彼女らこそがあったのでしょう。もちろんもっとも注力して描き出されたのはメインヒロインである悦吏子であり、そして物語は彼女が引き受けるかたちで終わりに向い、謎を端々に残して閉じられました。最後、動き出した世界での淳平の意味、徐々に曖昧の中に沈み込もうとするかのようなシーンが立て続けに描かれて、私はその一連の描写に多少の不愉快を覚えたのですが、あるいはこの曖昧になろうとする世界への不快さ、それは、そのまま淳平の世界に対して感じているものに同じなのではないだろうかとも思われて、私はあたかも淳平に繋がる、いやむしろ包まれているかのような感触をもって読み終えたのです。

私は今はこの奇妙な感覚にとどまっていたいから、あえて読み返すことをせず、曖昧の中に流されるままにあろうと思います。けれど、いずれまた理解したい欲求の高まりとともに読み返すでしょう。おそらくは分析的に、ぐさぐさと、ばらばらに解体するような思いで読むのでしょう。そうしたら今確かに感じている印象は変質してしまう。なくならないまでも、違ったものになってしまうだろう、だからしばらくは読み返すことをしません。感覚が薄れて、印象が、体感的なものから記憶そのものに移行しようとするその時が読み返しの時。その時のために、全巻を揃えて、わかるところに置いておこうと思います。

  • 陽気婢『眠れる惑星』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第3巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2007年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第4巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2008年。

2008年2月19日火曜日

思春期クレイジーズ

なんか、亀田大毅氏が車はぶつけるものとかゆうてしもたというニュースを見たのですが、ええと、これ読んで、けしからんとか不届きだとか、そういった感想抱くよりも早く『思春期クレイジーズ』を思いだしていた私自身がどうでしょう。しかも記事読むどころの話でなくて、RSSリーダーに表示された見出し一瞥した時点で心は『思春期クレイジーズ』にとんでいたというのですから、不届き千万、あんたはあほかの世界であります。しかし、この漫画、妙に心に残る台詞が多いのですよ。それはたとえば……、おおっと、この漫画には十八歳未満は閲覧できない呪いがかけられているので、要件満たさない人やそうしたものを好かんという人は、ここでお別れです。

ええと、ちゃんと警告した。けど、一応は青少年の目に触れる可能性もないではないから、危険な用語はすべてに置き換えてお送りしたく思います。

いったい、件の見出しのなにが『思春期クレイジーズ』を思い出させたというのでしょう。それはまぎれもなく問題の発言、車はぶつけるものであります。ヒロインであるおソノさんの友人、佐耶がいうのですよ。は舐めるモノで… は飲むモノよ。それも自信満々でいうんですね。そのシュールなことったらなくて、おかしい、おかしいよ。けどおかしいのは佐耶だけでなく、神社の娘である弥生、これもまたおかしくて、その宗門では未通女でないと巫女を務めることが許されないからといって、それを回避しつつするという。見た目お嬢さんの弥生が、ひいているおソノさんに向かってにこにこと言い放った台詞がこちら。とにかく今はは常識よ?

そんな常識は知りません。

この一言にこの漫画のおかしさは集約されるのかも知れません。本当ならばガチで常識の側にいるはずのおソノさんが、間違った常識に固められて、流されてしまうというむちゃくちゃな話。ちょ、ちょっと待って、話し合おう。そう言いたげなおソノさんが、あれよあれよと丸め込まれて、けどなんか最後には、あ、ここでちょっとネタバレがきます。嫌う人はこの先読まないでください、佐耶の弟佐ノ介とめでたくできちゃって両思い、なんとなくいい話、純愛もの? みたいになってしまう強引さ。いや無茶といったほうがいいのかも知れません。非常識を常識にしている友人あるいは姉を持った不幸とでもいうんでしょうか。けど、まあ最後にはそれなりに丸くおさまるんだから、あれはあれで仕合せなんかな? ともあれ、なんとなく脱力の感動恋愛ものであります。

関西が舞台なんですよね。方言での会話が、妙にしっくりとして、無茶、ラディカルな状況を和らげていたと感じます。非日常的なシチュエーションに方言の醸し出す日常臭さが、変にマッチしていたのも面白く、こうした味わいがおそらくこの作者の持ち味なのだと思います。最初は線の硬さに馴染みにくさを感じたものでしたが、雰囲気の柔らかさが多少の欠点をカバーして、それになんといってもおソノさんが可愛かったのがなによりでしょう。さっぱりとして明るくて、強気に見せてあかんたれで、いい造形であったと思うのですね。それから佐ノ介も。コアでマニアックなネタで押しきりながらも、そっち方面の嗜好を持たないものも引き込みかねないと思わせるのは、雰囲気の楽しさ、そして登場人物の愛らしさであったのではなかったかな、そんな風に思っています。

とはいっても、読み終えて、さらに面白かったと思った私にしても、そっち方面の心の扉が開かれることはありませんでした。残念、というべきなのかどうかはわかりませんが、なんかもやもやとして行き着かない感じが残るのですね。こうしたローレベルの嗜好というものは(あ、下じゃなくて本能に根ざしたっていう意味ね)、かくもたやすく変化することはないのだなと思った次第でありました。

  • 紺野あずれ『思春期クレイジーズ』(メガストアコミックス) 東京:メガストアコミックス,2007年。

引用

2008年2月18日月曜日

存在の耐えられない軽さ

 友人の結婚式にいってきたのです。ああ、正確にいうと、時間を間違えて結婚式には間に合わず、披露宴だけの参加だったのですが、いやはや疲れはてました。いや、結婚式、披露宴に疲れたわけではないです(本当によい時間を過ごしました)。その後にちょっとお茶でもなんて話になって、そのいった先ですよ、話が終わらない。何時間でもしゃべる、しゃべる、しゃべる、もうくたびれた。っていうか、もうこんな時間ですよ! みたいな感じであわてて帰ってきました。まあ、いつもの面々なのですが、あの人たちと話をすると、決まって終電を心配しなければならない。ほんと、はらはらするというか、いや、話自体は面白いのでいいんですけどね。

さて、そこでいろいろ話した中で、運命が引きあうみたいな話が出たんです。いや、厳密にいうと違うんだけど、細かく説明できるほど脳がちゃんと機能していないので、詳細は省かせてください。そして、私は運命なんてないよという立場をとっている、その話をした人は私のそのスタンスを実によく理解してくれているのですが、それでもその人は運命的なものはあるよ派なので、そういう話をするわけです。

私が、運命なんてないよと強く思うようになったのは、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の影響が極めて強かった、そんな風に思っています。人生は一度きりの経験に過ぎない。二度三度と繰り返して試してみることができない人生においては、すべての出来事が必然であったか偶然であったか、しょせん計ることなんてできないんだ。そんな印象を強く受けたものでした。そして、そのたった一度の人生は、ドイツのことわざにいう一度きりはなにもないのと同じことを敷延してみれば、極めて軽いものとならざるを得ない。だって、人生とはまさに、ただの一度しか経験できないものであるのですから。ああ、一度きりの人生を生きる我々存在は、どれほどに無に近いものであろうか。そうした問をテーマに繰り広げられる変奏曲、私はこの小説について、そんな感触を得たのでした。

すべては偶然の積み重ねによって起こる人生は、振ったさいころの目が成功値であろうと失敗値であろうと、もう取り戻すことができない過去として確定されたが最後、それを引き受けていかねばならないのだろうなあ。望むと望まざるとに関わらず、起こったことは必然偶然の区別なしに、すべてが自分の人生なんだ。今日の話の結論はそういうものであった、少なくとも私にとってはそうだったと感じています。そして、そうした結論もまた『存在の耐えられない軽さ』に導かれたものではないのか。できてしまったものは、うまかろうとまずかろうと、平らげなければならない。どこかに美食の一皿がある、究極の一皿、その幻想を夢見ながらも、自分には偶然だか必然だか知らないが、とにかく差し出された皿がある。いや、それしかないのかも知れない。そうした時に、その皿をどのように受け入れるか、それが人生なのかも知れないなあ、そして人生の選択肢は、出されたものは文句いわずに食え、それしかないのかも知れないなあ。そんなことを思った一日の終わりでした。

さて、この本、ついこないだに新訳が出てたんですね。それはちょっと興味深いといいますか、読んでみたいですね。以前の訳とはまた違う知見が得られるのではないか、そういう予感がするから、余裕があれば手を出してみたいと思っています。そして、今日この新しい訳本の存在を知ったこと、これもまた偶然、けれど私にとっては必然じみたもののように感じられて、でもそのどちらであるかは一度きりの人生では判明させることのできないことであるのですね。ああ、軽い、人生とは、そして私たちとは、どれほどに軽いものであるのでしょうね。

2008年2月17日日曜日

デモクラシーの冒険

 姜尚中とテッサ・モーリス−スズキの対談本が出ていると聞いたのはもうずいぶんと前のこと、いつか読もうと思いながらも今の今まで先延ばしにしてきたのですが、思いついて注文して購入して、読みました。そうしたら思った以上に軽い作りになっていて、驚きましたよ。なんだか芝居がかった演出がそこかしこに見られて、不思議な見せ方をするものだなあといぶかしみながら読んだのですが、けれど中身は普通の対談。いや、そうかな? 本当に南の島でくつろぎながらの雑談、おしゃべりなのかといわれたら、いやあそれはさすがに演出だろうと思うのだけれども、いずれにせよこうした体裁とってる時点で普通じゃないですよね。

けれど、そうした演出あってのことか、読みやすさに関しては抜群でした。ちょっと込み入ってわかりにくいところや、前提となる知識が求められるところなどでは、無知を装う担当編集者O氏に対しての説明がそのつどさしはさまれるから、私みたいにデモクラシーという手続きや政治そのものに詳しくないものにも優しい、平易に読める工夫のされた本であると思います。

結構軽く読める本で、しかしなかなかに考えさせられるところも多かったものだから、今後、なにか思うところや迷うところがあれば、読み直してみるのもよさそうだと、そんな風に思っています。こんなこと思ったのは、この本が、基本的な部分を確認した上で、これより先に進むにはどうすればいいのだろうという問の形式を持っているからだと思います。デモクラシーとはどういうものであるのか。過去に議論されてきたよい政治、悪い政治について語り、今は悪い政治になりつつあるのではないか、あるいはなっているのではないか、そういう確認がされて、ではこの状況を脱するにはどうしたらいいのだろうか。こういった具合に話は進み、どこそこの国ではこういうやり方がされたりする、それもいいですね、他にやり方としてはこんなことできないものでしょうか、こんな感じです。日常の言葉に近いところで語られている、そういう感触があるから、納得しやすく思えるところもあるのでしょう。

ただ、私が彼ら二人の話に納得するのは、私自身がこの本において語られた代表されてない人々に含まれる立場の人間だからかなという気もするのですね。政党は、マルティチュードを抑圧する — NGOやNPOなど、多様な連帯を志向する人々の可能性を、国民国家の内部に封じ込めようとする権力装置という見出しがあるのですが、ここでは政党により代表されなくなってしまった人間が辿る末路、有権者ではなく消費者として振る舞うほかないといった、そうしたことが語られます。そして私はここにきて、自分はまさしくその代表されない人間なんだろうなあと思ったのですね。私が前から漠然と思っていたことというのは、すでに既存の理論においてくみ取られていたのだなと思って、安心したというか、納得したというか。そしてそうした論をもとに展開する話ですから、私が受け入れやすく思うというのも当たり前であったのだというのですね。

全体にソフトな本だから、ハードなものを求める人には物足りないところもあるのではないかと思います。また、政治思想的な立ち位置から到底受け入れられないと感じる人もありそうだなと思うところもありました。だから、万人にお薦めしていい本ではないと思うけれども、政治ってなんだろう、デモクラシーってなんだろう、あるいはどうだろうと思っているような人には向きの本であるかも知れません。そして私にはよかったように思う、おすすめされたデモクラシーマニフェストづくりはなんだか妙に気恥ずかしくてできないけれども、考えるきっかけを与えてくれたという点で、読んでよかったと思える本でありました。

  • 姜尚中,テッサ・モーリス−スズキ『デモクラシーの冒険』(集英社新書) 東京:集英社,2004年。

引用

2008年2月16日土曜日

コップがさね

 そういえばこんなの買っていたのでした。コップがさね。コンビから出ているおもちゃなのですが、職場から最寄り駅へ向かう途中の商店街、いかにも個人商店という感じのおもちゃ屋で、一歳前後の子供向けだとどんなのでしょうとうかがったら、これが出てきました。もちろんこれだけっていうことはないんですけど、いろいろ、知育の面とかもろもろ含めてこういうのが人気ですよって出てきましてね、対面販売ってよいものじゃと思いましたね。実際に子供の発達とか、おそらくお子さんお育てになった経験からのことかと思うのですが、いろいろアドバイスくださる感じで、ネットとはまた違うよさがある。私はこういう感じ好きだから、個人商店に優しい時代がまたきて欲しいと願っています。

さて、コップがさね。買ったはいいんですが、実際に姪がどうやって遊んでいるか、見たことがないんですよね。大きさの違うコップ、というか器が十個入っていまして、順番に重ねることもできるし、伏せて積み上げることもできるし、そして積み上げたものを破壊することもできるのですね。今、姪は大人に積み上げさせたものを破壊するのが楽しいみたいです。コップがさねには、コップ塔のてっぺんにのっかる大きさの熊の人形がついているんですが、その熊は毎回毎回吹き飛ばされて、ああかわいそうだ、すまねえなあ、熊。

おもちゃにもいろいろあるけれど、こういうシンプルなもの、おおまかなルールやなんかはあるけれど(入れる、重ねる)、別にそんなの従う必要もない、自由に遊べばいいというのがいいと思います。今は破壊しているばかりの姪も、もうちょっと育ったら自ら積み重ねはじめるだろうし、器にものをいれたり、それこそままごとの食器に使ったりと、多様な遊び方を発見していくことでしょう。この、多様な遊び方に耐えるというところ、それから構造が簡単で壊れたりもなさそうなところもそうですね、こうしたところがよいと思ったから買ってきて、それが姪にも好評であるらしいというからありがたいと思います。

けど、五年ほどしたら器のいくつかは失われて、塔になることはきっとなくなるんだろうなあ。まあ、それもまたおもちゃのあり方かと思います。

2008年2月15日金曜日

かくしたのだあれ

 いくら気に入ってくれたとはいっても、一歳そこそこの子供にしろくまちゃんは早かったんじゃないかなあ。反省しまして買ってきたのが、五味太郎の『かくしたのだあれ』でした。いつも立ち寄る書店の絵本の棚にささっているのを見て、あ、こりゃよさそうだと思って買った、典型的な衝動買いであるのですが、実際これはよいですよ。五味太郎らしいといっていいのかわるいのか、ひょうひょうとしたユーモアのセンスが素晴らしい。そして絵がとてもチャーミングだと思います。小ぶりの絵本で、値段もえらく安いし、ストーリーもなにもあったもんじゃないんですけど、それでも繰り返し開いてみたくなる。そんな魅力のある本なんです。

なにが魅力かといわれると、それはもう反復の妙としかいいようがないと思います。

てぶくろ かくしたの だあれ

この要領で、左ページに小物が、右ページにはそれを隠している動物が紹介されるのです。これだけのことなのに、めちゃくちゃ面白いのはなんでなんでしょう。向かい合わせになった鶏、右側の一羽がとさかに赤い手袋を隠している! こんな具合。動物もトリからワニからカマキリ、魚、そして人間の子供とバリエーションに富んでいるから、次は一体なにが出てくるんだろうとわくわくして、いや、もう見て知ってるんです。けど、なぜかめくるのが楽しみになる。これ、子供だったらなおさらだろうなあ。ことやつらときたら、繰り返しが大好きときてますからね!

隠される小物も、歯ブラシや帽子、フォークとスプーンなど日常に見かけるものが中心で、しかも磁石などという子供にしたら宝物みたいなぶつまで出てきて、こちらも子供をわくわくさせるに違いないだろうなあと思えるものばかりです。これらが動物の一部に繰り込まれるかたちで隠される、それはいいんですが、この動物の数、どんどん増えていくんです。最初は二体だったのがしまいには十二体にまで増えて、このエスカレートしていく感じ、見た目にも増えてる! って実感できるところ、これもいいですよ。子供は繰り返しが好きなものですが、加えてエスカレートするっていうのも大好きだから、この本はあらゆる方面から子供に働き掛けそうだ、そんな予感に満ちているのです。

子供をわくわくさせるものっていうのは、大人にも同様に働きかけるところがあるようで、こんなにも単純なものが面白い。あらためて知ったような思いがします。そして、その面白いと思うことがまた面白い。ええ、絵本というのは常々発見です。

  • 五味太郎『かくしたのだあれ』(どうぶつあれあれえほん) 東京:文化出版局,1977年。

引用

2008年2月14日木曜日

しろくまちゃんのほっとけーき

 『しろくまちゃんのほっとけーき』は、子供の頃に好きだった絵本。けど、うちの本じゃありませんでした。ということは近所の誰かのうちにあった? それともかかりつけの医院かな? ともあれ、常ではないけれどちょくちょく見る機会のあった絵本で、好きでした。さて、なぜ今この本を取り上げるのかといいますと、このあいだ姪にと思ってこの本買ってきたからなんですね。ええと、実をいうと姪は言い訳だったかも知れない。自分が欲しかっただけなのかも知れません。人間、時には子供の頃の思い出にふけりたいこともあるわけで、それもあんまりすぎると不健全ですが、たまにはいいものです、よね?

いったんは姪に引き渡した本、今は引き上げてきて手もとにあります。といってもこのまま取り上げるつもりじゃなくて、ちゃんと返しますから安心してください。いやね、買ってきてすぐに渡したんですが、やっぱりちゃんと読み直してみたいなあと、そう思ったから取り戻したんです。いや、借りたっていうべきなのかな。いずれにせよ、そう遠くなく姪のもとにやるつもりです。

『しろくまちゃんのほっとけーき』。タイトルにあるように、しろくまちゃんがホットケーキを作るというお話です。内容は、さすがに絵本、それも年少の児童向けですから、シンプルに輪をかけてシンプルです。

わたし ほっとけーき つくるのよ

絵本の内容は、本当にこの一言に集約されるのですね。

可愛いながらも、無闇に表情つけるでなく、シンプルな線、シンプルな造形に徹した絵が素晴らしいと思います。カラフルなんだけれど派手派手しさはなく、モダンで上品な色調が実に新鮮。著者はグラフィックデザイン畑の方なのだそうなのですが、面目躍如とはこういうことをいうんだろうなあと思わせる出来にほれぼれします。

無駄の廃された絵です。だからこそ子供を引きつけるのでしょうね。一歳そこそこの、実際のところ本見せてもわかってるのかわかってないのかようわからんくらいの子供が、しろくまちゃんに魅入られるがごとく、顔寄せていくんだそうです。そして、ホットケーキのできていく過程がまた魅力的で、あれはわくわくしますよ。私みたいのでもなんか心が浮き立つみたいですからね。今ではホットケーキなんて、別に特別でもなんでもない、むしろなんか昭和の懐かしさ感じさせる食べ物であったりする、そんなくらいのものですが、この本見てると、すごく特別な食べ物に感じられてきて、ああ美味しいホットケーキ食べたいなあ、そんな気にさせられる威力秘めているのですね。

さて、姪の母親は、早速ホットケーキのもとを調達したのだそうです。表向きは姪のため、なんでしょうが、でもきっと多分、自分のためなんじゃないかと思いますよ。自分が食べたいんだ、昔からやつを見てきた私です、そんなところだろうとにらんでいます。

引用

2008年2月13日水曜日

Parker 45

 昨年末に万年筆を買って以来、再び万年筆熱に浮かされているわけですが、なんか今万年筆ってブームになってるんですね。全然知りませんでした。道理で売り場がにぎわっていたわけですよ。年末の百貨店、文具売り場に向かう最中、はたして万年筆なんて今も扱っているのかなと心配していたら、ちゃんとスペースが確保されていたどころか、結構な人出があって、さすがは百貨店だなあ、感心してたらなんてことはない、ブームだったという落ち。うへえ、ということは図らずもブームに乗っちゃったわけですね。なんかやだなあ(私はブームとか嫌いです)。

かつて日本では、パーカーというとモンブランに並ぶ高級筆記具メーカーとして知られたものでして、贈答品などに使われることもしばしば、入学祝いとか就職祝いですね、でありました。けれど私の世代においても万年筆はさすがに昔の道具、一種アナクロな趣のある道具となっていて、だって身の回りに万年筆使っている人なんて皆無でしたからね。象徴的存在でしかなかったといったら言い過ぎかも知れませんが、けれど使い勝手でまさるものはいくらでもあったわけですから、ここであえて万年筆を選ぼうという人はよっぽどの趣味人か、時代からはずれている人でした。ということは、大学の入学祝いに万年筆を贈ってくれた伯父も、たいがいアナクロの人であったのでしょう。まあ実際の話、そうだったのだと思います。趣味人であることも確かだけれども、伯父は、そして私も、ある種古い時代をうちに抱えて生きている、そんな人種であるのでしょう。

私が万年筆を欲しくなったのは、使っている人を実際に見たからです。臨床心理のドクターでした。まあかなりお年召された方なんですが、その人が使っていたのがParkerのデュオフォールド。いやね、Parkerってある一定の時代を経てきたものにとっては絶大な価値を持ったブランドなんです。で、私が使っていたのもParker。ああ、万年筆を不断使いにできるというのはなんと素敵なことだろう、そう思って万年筆を欲しくなって、買ったのがSonnet。けど不断使いにしてるのはPelikano Junior、こういうところに肝っ玉の小ささが露呈します。

以前使っていたペンというのは、Parkerの45でした。父親が若い頃使っていたペンで、しまい込まれていたのを勝手に引っ張り出して、勝手に使っていました。一体いつごろのものであるかはわかりませんけど、カートリッジが問題なく使えたところからしても、そんなに旧くはない? あるいはカートリッジの形状は変わっていないのかな? ともあれ、これをシステム手帳にさして、メモからノート取りから書類の記入など、日常の用に使っていました。当時はシャープペンシル全盛期で(といっても、今もそうだと思うのですが)、万年筆どころかペンで鉛筆でノートを取る学生さえいない、まさしくアナクロの学生をやっておりまして、大学の先生あたりには懐かしいだなんて好評でしたが、学生うちでは、まあいうまでもなく変わり者扱いでしたね。

私が万年筆からボールペンに移ったのは、京セラの水性ボールペンの書き味がよかったからで、ボディの重さだけで書ける、力を加える必要がないという特性、書きよさのためでした。だいたい、この頃には大量にものを書くということがなくなっていて、大学を出たらノート取ることなんてなくなったし、手帳に書き入れなければならないほどの予定もないわけで、ああ手帳と万年筆の時代は終わったな、そう思って、お疲れさま、そっと片付けたら、見つからなくなってしまいました。いやあ困りました。探してるんですけどね、出てこないんですよ。Parker 45のボールペンは出てきたんですけど、手帳が出ない、一体どこにしまったんだ? タイムカプセルに入れたつもりはないんですが、とにかく大切に仕舞ったことは間違いない。大切に片付けると二度と見つからない法則発動で、もう洒落になりません。まいったなあ、ダウジングの出番?

かわりに見つかったのがParkerのカタログでした。1993-1994、1994-1995、1996-1997、1998の四冊で、つまりこれくらいの時期が私の万年筆全盛期。いつかデュオフォールド欲しいなあって眺めてたわけですよ。この頃は選べるペン先の種類が豊富で、デュオフォールドならXF、F、M、B、XXB、BO、XXBO、MI、ソネットならXF、F、M、B、XB、MO、MRO、MIと揃っていました。今はXF、F、M、Bからしか選べない、ずいぶんと整理されたものです。これはボールペン替え芯においても同様で、今はF、M、Bの三種類ですが、以前はXFもあって、今うちにあるParker 45にはこのXFが入っています。もちろん問題なく書けて、もう何年くらい使ってないんだろう、なのに普通に線が引けることに驚きました。しかしそれにしてもXFは細すぎます。当時私がどれほど細い線を好んでいたかということがわかろうというものですよ。今はMくらいが好みだから、本当に変わりました。ええ、様変わりといっていいでしょう。

私が昔使っていた45を探しているのは、もう一度使いたいからというよりも、昔の自分はどのようなペン使いをしていたのだろう、それを知りたいからなのですね。自分以外の誰にも線の引けなくなったペン、ハンク・ジョーンズ氏にサインをねだって渡したら書けない。ペンじゃなくて手帳の紙が悪いんだとおっしゃったジョーンズ氏、Parkerのブランドに信頼を置いていらっしゃったんですね。あの頃の私は本当に悪筆だったから、その癖がペンに染みついてしまったんでしょうね。ペンには申し訳ないことをしました。

毛筆体験を経てすっかり手を違えてしまった今の私にとって、あの頃のペンはどのような感触をもたらすのだろう。それを知りたいのです。だから探しているんですが、一向に見つからず、返す返す残念な話です。そろそろ逆行催眠の出番かと思っています。

2008年2月12日火曜日

のの美捜査中!

  重野なおきは私のひいきにしている四コマ作家であります。その重野なおきが数年にわたり展開してきた警察コメディ『のの美捜査中!』がめでたく完結いたしました。確か私の記憶が確かなら、『ヤングアニマル』誌に短期で連載された後、一定の支持があったのでしょうね、長期連載にシフトしたのでしたっけ。エリートでありながら、ポカミス連発で降格してきたのの美を主人公に据えた、ちょい推理あり、ちょいギャグありのコメディ。非常に冴えた天才少女でありながら、鈍くさく、どこか抜けているというヒロインの性格のためでしょうか、肩ひじ張らず楽しめる、そんな雰囲気が楽しい漫画でありました。

けれど、この漫画、初期と後期でずいぶん雰囲気が違っています。初期には推理ものとしての性格が強めに付与されていて、毎回ひとつの事件を扱い、そしてそこにはトリックが用意されている。それをのの美が解き明かすという趣向であったのですが、まあもちろん本格推理なんていうのを期待しちゃいけません。軽い推理コメディといったところでしょう。のの美の所属する組織、警察ですけど、これに関してもなんだか楽しそうな、面白そうな、そんなのになっていますから、やっぱり警察コメディ。推理小説や探偵小説に出てきそうな趣向をうまくピックアップして、四コマ仕立てにしてみました。そういうタイプの、おかしみを楽しむための漫画であったのですね。

ところが、なんだか途中からラブコメ色が強くなってきましてね、のの美の相棒である真田軍平、微妙な距離で引きあうもどかしさが表現されるようになってきて、中盤から後半にかけては、むしろこうした恋愛模様が中心になってきたように思います。警察さらには探偵や怪盗も含めた多様な登場人物、彼らのうちにもカップルが生まれたり、あるいは振られ続けるやつがいたり、やっぱりこのあたりはキャラクター主導の四コマだなと感じさせてくれます。

けどそれも楽しいものだ、そう感じられるのは、やっぱりそこに重野なおきの味、得意があるからだろうと思います。この人、『ひまじん』みたいなおそろしくミニマムよりの漫画を描いたりもしていますが、基本的には大人数でわいわいやるのが楽しいタイプの漫画家だと思うのです。たとえば『うちの大家族』、そして『Good Morning ティーチャー』。『のの美捜査中!』ののりはといえば『Good Morning ティーチャー』に近いように思いますが、それでもやっぱりどれとも違った独特の位置に着けている、そういう風に思います。『Good Morning ティーチャー』においても恋愛要素は多く出てくるけれど、やっぱりこちらは青春時代のそれという感じが強く、対して『のの美捜査中!』では、恋愛がメインとなっても、そればっかりにはならない感じ。指向性は強くあっても、驀進するような勢いはありませんでした。あるいはそれは、のの美にしても軍平にしても、もう両方気持ちは決まってる、読んでるこっちはすっかりわかってるんだから、後はいつどうくっつくかだけってな、いわばタイミングをはかりつつの不器用恋愛劇が見物であったのでしょう。

かくして、恋愛あり、練馬の存亡を賭けた決死の活躍ありの最終巻、ちょっと大げさすぎる舞台を用意して、けれどそれがどうにもこうにもしょぼさを残している、これもまた重野なおきの味であるなあ、そう思いつつ、きっちり大団円にもっていく生真面目さもこの人の味であったと思います。ええ、描かれるべきことは描きました、しっかりと仕事をこなしたうえで遊びもそこかしこに感じさせる、そんな作風は『のの美捜査中!』にも健在でありました。

  • 重野なおき『のの美捜査中!』第1巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2004年。
  • 重野なおき『のの美捜査中!』第2巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2005年。
  • 重野なおき『のの美捜査中!』第3巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2006年。
  • 重野なおき『のの美捜査中!』第4巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2007年。
  • 重野なおき『のの美捜査中!』第5巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2008年。

2008年2月11日月曜日

クロジとマーブル

 気付けば私が猫好きなのは、四コマというジャンルに長く居着いているからではないのかと、そんな風に思うのは、四コマ漫画において猫漫画は確固とした位置を確保しているからで、そこでは猫と飼い主の関わりや、猫各個体の個性の違いが、時にコミカルに擬人化されて、時に観察をともに現実味もって描出される、そのバリエーションが楽しいのですね。そこに現れる違いは、猫の個性もありますが、やはり作家性じゃないかそんな風に思うものですから、好きな作家のものともなればやはり読みたくなってくる。というようなわけで、『クロジとマーブル』、当然のように購入しています。

そして読んでみて、ちょっと意外な感じがしたのです。というのは、私の富永ゆかりという人に対する印象のためでして、ちょっとナンセンス加味されたギャグを交えてコメディ展開する人、そんな風に思っていたからなのですね。『クロジとマーブル』に関しては、コメディタッチはあるけれど、ナンセンス風味、そしてギャグといったものは控えめで、逆にというべきでしょうか、ヒロインにして二匹の飼い主である宮野みやの境遇、これが結構シビアです。就職浪人中、バイトによって生計を維持しているという、聞くも涙、語るも涙の物語。働きにいく先も実にリアリティあふれていて、1分間に3冊本を箱につめていただく作業です、ああー、話に聞いたことのあるあれかあ。けど、もちろんバイトはこれだけではなくて、思いついた頃に違った職種、いろんなものが出てきまして、安定せず大変な日々を送る宮野さんですよ。そしてそんな日々に潤いを与えてくれるもの、それが二匹の猫、クロジとマーブルであるのですね。

クロジ、そしてマーブル。この名前はそれぞれの模様からきているのですね。真っ黒のクロジ。マーブル模様のマーブル。もしかしたらこれは作者が実際にお飼いの猫から発想されたものでしょうか。著者近影には三匹の猫、そのうちの二匹がクロジ、マーブルを思わせる風体で、そしておまけの実写版クロジとマーブル。もちろん漫画の二匹は現実の二匹とは違った猫であるんでしょうが、こうして実写版作られると、ああ本当にいるのかもー、そんな気がしてきて、よいですね。ええ、猫漫画読んでて思うのは、こんな猫が実際に身近にいたら私の暮らしも少しは豊かになるんじゃないかなあ、そんな思いにとらわれてしまうものだから、やっぱり猫漫画というのは危険です。

『クロジとマーブル』に感じられるもの、それは先ほどいいました猫と暮らす毎日の豊かさ、それにつきるのではないかと思うのですね。超売り手市場という新聞見出しに疑問感じざるを得ないほどの逆境にあっても、猫がいるから頑張れる。猫が支えになっているという状況は、一見すればぎりぎりではあるのだけれども、けれどそこにはお金や物の有無で計ることのできないなにかがあるのだと感じさせてくれます。そのなにかこそが猫と暮らすことの価値、あるいはもっと広くペットといってもいいですね、ともに暮らす動物がいるということ、それは同居人をもつということとはまた異なる、独特の価値であるのだよ、ということが伝わってくるようであるのですね。そしてそれは豊かであるということ、まさしく心に豊かさをもつってことなんだよと、そういう気がします。

かくいう私は、そういう豊かさ実感しない暮しをあえて選ぶものでありますので、だから時に心に兆す侘びしさやらいろいろを、こうした漫画によって紛らわす。いや、違う、もっとポジティブな意味がある — 。つまりこれは豊かさのおすそ分けなんだと思います。

  • 富永ゆかり『クロジとマーブル』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年2月10日日曜日

おはよ♪

 のびのびと育った娘、美咲の表紙も溌溂として、そして漫画はというと、これもまた溌溂。伸びやかな美咲、すくすくとした成長ぶりが変にアンバランスに映るのは、彼女が小学生だから。そんな美咲に戸惑いながらも、普通に小学生として対処する明ちゃんは紳士だね。ええと、この漫画の主人公は美咲でもその母親雪乃でもなく、ふたりが間借りしている先の息子です。名は明。勤め先の倒産をきっかけに実家に帰ったら、見知らぬ母子がいて驚いた。小学生に見えない小学生と、小学生の娘を持つとは思えない母親、見た目と中身のギャップに戸惑い、恋心抱きつつもそれを口にのぼすことさえできない甲斐性なし。はたして明の明日はどっちだ!? そんなお話です。

まあ、ちょっと嘘なんですけどね。けど、明が甲斐性なしというのは本当。実の母に甲斐性のなさを見透かされ、けど当の思い人である雪乃さんにはまったく気付いてもらえず、小学生にさえちょいちょいからかわれる始末で、けれど彼が甲斐性も度胸もないから、この漫画はほのぼのと楽しめるものになっているんだと思います。私も甲斐性なしなので、奴の気持ちはよくわかります。だからいうのですが、きっとこの先も進展することはないでしょう。

当初、見た目ギャップ母子で押し通すのかと思われた『おはよ♪』は、徐々に幅を広げていきまして、ほがらかな親子、けれどそのほがらかさ、明るさの裏に喪失感が隠されていたりして、これがキャラクターの厚み付けになっていくのだろうなあ。そんな風に思っています。父親のいない美咲。対して、見た目も中身も年相応の小学生(いや、ちょっと小柄か)である友達の萌香には父親があり、だんだん父親が疎ましくなっていく年ごろですね、嫌いじゃないけど敬遠してしまう、そんな複雑な時期にさしかかっている彼女がうまいこと対比されることで、美咲の特別な感じが見えてくるように思っています。

見た目大人っぽく、けれど中身はものすごく幼い美咲。多分ね、子供っぽいのは地なのでしょう。けれどそんな美咲には後悔があるから、それが逆に彼女の明るさに拍車をかけて、より子供っぽく見せているようにも思えるんですね。萌香はそうじゃありませんね。見た目は子供だけど、いつまでも子供扱いされるのはごめんだし、美咲の無邪気な振舞いに恥ずかしさ覚えたりして、けれど父親に素直になれず突っかかってばかりの萌香と、つらい過去を胸の奥に押しとどめ、常に明るく振る舞っている美咲、はたしてどちらが大人なんでしょうね。わかんないですね。わかんないです。

それに比べて、男子はしょうがねえなあ、そう思わせるのが八嶋の存在で、好きな子をいじめてしまうというのはもう仕方のない、習性というか業というか、男の子は仕方ないよねえ。もてない男子、もてる男子、いろいろいるけど、この漫画にてクローズアップされるのは、いかにも小学生男子八嶋、甲斐性のない明ちゃん、娘大好きでぶきっちょそのもの萌香の親父さん。男はほんとにしようがねえなあ。そう思いつつも、なんだか安心してしまうのは、小器用でない朴訥さ、共感かね? かもね。けど、思春期の娘もつ父親なんて、みな萌香の親父さんみたいなもんですよ。憎めないわ。三世代にわたるぱっとしない男たち、いい味出していて素敵です。けどこれって自己弁護?

漫画の中心には魅力的な女性があって、別に小悪魔的でもないし、お色気ふりまいてなんてこともない、穏健なほのぼの家族ものの味付けがありがたいと思います。そしてそれは、作者の家庭なんかもそうなんでしょうね。娘1号、娘2号との暮しの風景がちょこっとかいま見えるおまけもあって、この作者であるからこの漫画の雰囲気もあるのかも、そんな風に思ったり。ええ、実は私、作者ともちの身辺記が好きで、飾らない自然体っていうの? 楽しいわ、面白いわ。こういうの、すごく魅力的と感じます。けど、右手折っちゃった話は洒落にならんですね。そんなわけで、私も保険証、写しでもいいから、携帯したいと思います(けど、保険証もってても救急初診は大目にとられませんか?)。

  • ともち『おはよ♪』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年2月9日土曜日

天獄パラダイス

 まとめて読むと印象ががらりと変わる漫画っていうのがありまして、私にとっては『天獄パラダイス』がまさしくそんな感じでありました。最初、連載で読んでいた時には、若干の緩さ、キャラクターの可愛さに、ああ悪くないねえ、そんなくらいの感想であったのだけど、実際単行本でまとめて読んでみると、印象違いますね。なに、この多幸感! 緩いなんてもんじゃない、緩みっぱなし。漫画がじゃない、私の感情がですよ。けど、私は発売日にこの本買ったわけでなくて、遅れて買った。初動に貢献しなかった、申し訳ない、ちょっと悔いています。そして『天獄パラダイス』は本日発売の『まんがタイムきらら』にて最終回を迎えました。ちょっとしんみり。そしてお疲れさまでした。これまで楽しい時間を過ごすことができました、ありがとうございました。

『天獄パラダイス』のよかったところ、ウニとナルニアの可愛かったところ。ヒロイン美愛を通じて、間接的に、仮想的に、したわれ、なつかれ、そして愛でるところのできるところ。愛し愛されるということは、本当、人の仕合せの源泉であるのだな、それが実感できるほどに三人の関係はあたたかで、やわらかで、読者としてしか参加できない身でありながら、心が緩んで、優しい気持ちになれる、そこがよかった。けど、よさはそうしたプラス面にのみあらわれるものではありません。

『天獄パラダイス』のよかったところ、仕合せの向こうに、切なさや寂しさがあるとはっきり描かれていたところ。いずれ別れがくる、そのことを誰もが知っていて、時に意識する。させられる。そしてそれは今の関係を思うきっかけとなって、切ないね、切なかった。だって、みんなのことが好きだって、あらためて確認させられるわけですよ。別れは不可避である、それはわかってる。けどわかっていても感情はどうにもならないじゃないか。そうした切ない思いが、波のように押しては返すのですね。そしてその度に、今のこの仕合せな関係を愛おしく思う、少しでも長く、この仕合せが続いてくれるよう願う。その感情が、読者である私にも伝わってくるのですね。切なさが、寂しさが、ことさらに仕合せな気持ちをかき立てて、ああ、これはただ可愛い、楽しいだけの漫画ではありませんでした。

描かれていたもの、それはつまり感情であったのだと思うのです。心の動く様、誰かを好きになるという仕合せが、不安や嫉妬といった負の感情を生みだすことにも繋がる、そうしたことが描かれていたと思います。しかしこうした場合、どちらかだけはないのですね。仕合せが大きなものであるほどに、不安もまた育ち、私たちは日頃そうした不安を日常に紛らわせ、意識しないようにしていますが、この漫画の登場人物たちには、それが具体的な心配として提示されていたわけで。だから、紛らわすことなどできなかった。だから、なるたけこまやかにそれは描かれることとなり、いわばそうした感情、思いのバランスが漫画の中核になっていました。天秤は吊りあっていなければならない、漫画の最初に提示されていたこと、これはすなわち仕合せと不安の釣り合いでもあったのですね。

感情の絡まりあうところ、ウニを連れ返すべく追ってきたルルラの美愛に寄せる思い、その一連の流れなどは、甘く、苦く、押し寄せる感情は確かな重みをもって、胸をうずかせたものでした。丁寧な筆致でした。派手な盛り上げはいらないのかも知れない。静かであればこそ届くものもあるのだろう。そう思える、好場面でありました。

なら、最終回だってそうなんです。甘さ強めであったけれど、そこには描かれたこと以上の苦さもあったはずで、そうしたところに思いをはせることができれば — 。そして、そのように思ってしまうのは、これまで描かれてきた皆、五人の関係、繋がりに説得力があったればこそ。ああ、寂しいよ。けど、その寂しさを踏み越えることが、生きるということなんだろうなあ。そして、寂しさの深く兆すからこそ、仕合せや喜びも強く大きなものとなるのだろうなあ、そのように思ったのでした。

なお、『天獄パラダイス』、2巻は出ないとのことです。最初に私の悔いたこと、遅かったかと思ったこと、それはすべてこの事実に由来しています。それでも以下続刊と書かずにおられないのは、私のあきらめの悪さあるいはそれを望む気持ちのためかと思います。ですが、続きは同人誌にてまとめられるかも知れないという話ですから、もしそれがかなったならば、きっと購入したいと思います。そうした可能性を作ってくださったこと、ありがとうございました。また、二度目になりますが、楽しかったです、ありがとうございました。

  • 凪庵『天獄パラダイス』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2008年2月8日金曜日

ゆずりは!

 佐藤両々は面白いなと、はじめに思ったのは『保育士のススメ♥』読んでだったんじゃなかったかな。これが連載されていた時期というのが2004年。手慣れてきれいな絵、かわいらしいキャラクターに、ちょっとシビアなネタとわずかな毒気が効いていて、この人の漫画はいいな、そう思ったものでした。もともと私は職業ものが好きであるのですが、保育士とその娘の生活もろもろを描いて、実に濃厚、豊潤とでもいったものでしょうか。面白いわ、これは。なにより無駄がなく、引き締まっているところ、そこが素晴らしくって、本当に期待される漫画だと思っていたら終了、ええーっ! って、なんか最近こんなことばっかり書いてますね。けれどこれは後に『ミルキィーパンチ☆』として復活しまして、やああの時は嬉しかったです。

その二作が一冊にまとめられて単行本になりました。表紙には女性二人、けれどこれどちらも和歌子ですね。『保育士のススメ♥』では中学生だった和歌子が、『ミルキィーパンチ☆』では保育士になりまして、母の後を継いだのか! と思ったら母は現役、まだまだ頑張るよってなもので、二人が対比されることで、ベテラン保育士と新米保育士の違いがよく表現されて、これもまた面白いのです。新米ならではの苦労や迷いがあるかと思えば、時代の変化、それをものともせず受け入れ乗り越える母先生のたくましさ、などなど。『保育士』では描けなかったろうことがうまく補われた、そういう感触が残ります。主役の立場を違えたふたつのタイトルがひと繋がりになることで、保育の仕事を描くに関しても、また保育士を母にもった娘の物語としても、幅が広がった、本当に豊かになったものだなあ、そんな風であるのですね。

そして、なんでかこれが変に情緒に働き掛けるのだからおかしなものです。とりわけ『保育士のススメ♥』においてそうなのですが、読んでいて不思議とじんとするのです。保育士という仕事に全力で取り組む母に対して、娘和歌子は複雑な思い抱かぬわけでもないといったところ。けど、和歌子ももう中学生。仕事の大変さや尊さに理解を示さないでもなく、けどそれでも譲れないところもあって、もうお母さんはっ! こんな具合にふたつの感情があらそうこともしばしばで、けど母は強くて、ちょっとやそっとじゃ勝てんのですね。しかもこの母、無神経といえば無神経、その無神経に和歌子はかりかりしてるんだけど、けれどそれでも気持ちがぴっと繋がるみたいなところがあって、ええ娘やないかあ、ぐっとくるのですよ。

下手したら涙ぐみかねない。母はそりゃもちろん娘大事だ、娘も母が大事だ、それは当然のこととして、けどそれで素直になれないものが親子でしょう。けれど、面倒だったりわずらわしかったりする感情の奥に、そっと情がひそんでいるのもまた親子でしょう。ええ、親子ものとしても良質な漫画であります。保育の仕事を表に押し出し、また保育士の、リアルなのかデフォルメなのか、ちょっと特異な生態描きながら、同時に母と娘の思いが絡み合う感情のドラマになっています。これはちょっとできすぎかも知れない、それに和歌子はいい子過ぎる嫌いもあるしさ、でもその和歌子はあのお母さんの娘だから — 、納得させられるところがあるんです。そしてこの家のドラマはこの先も続いていくのかも知れない、余韻嫋々のラストを迎えまして、ああやっぱり佐藤両々はうまいわ! やられましたよ。笑って、仕掛けに気付いて、そうか! 感心して、やるなあ、また笑って、そして気持ちはしあわせにあふれて — 。いい漫画です。

  • 佐藤両々『ゆずりは!』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年2月7日木曜日

先生はお兄ちゃん。

 私の昔の友人に、妹ものが好きなのがひとりおりました。その人には妹が12人あったりしてそれはそれは大変だったのですが、ええと、確か実妹がひとりあったのでしたっけ。それで私は聞いたのでした。実際に妹がいたりしたら、こうした妹ものって微妙だったりしない? 返事は実に振るっていました。理想の妹を探しているんだよ — 。思わず涙を拭いましたね。

それはさておき、『先生はお兄ちゃん。』の単行本が出ましたよ。いやあ、早かったなあ。伸び方やプッシュされ具合から見て、いずれ出るとは思っていましたが、これほど早いとは、予想外というか、実は期待していたというか。実際、この漫画、結構ホットなタイトルであると思っているものですから、時期過たず打って出たなあ、うんうんうなずいております。

『先生はお兄ちゃん。』、タイトルにもありますように、お兄ちゃんが先生です。主人公は妹、桜木まゆ、女子高生、美少女、身長148……、約150cm。普段は寡黙にしてクール、慌てたり騒いだりなどとは無縁といった雰囲気を持った妹がですよ、こと兄のこととなると豹変してしまうのですよ。この変わりようこそがこの漫画の売りであります、あるのですが — 、うん、実にバイオレンス。兄を殴る、殴る、殴る、罵倒する。もう、変態呼ばわりでありますからね。しかしこれは妹にも言い分があるでしょう。というのも兄は極度のシスコンで、妹可愛さに人の道踏み外してしまうんじゃないか、心配してしまうほどである、そんな兄なのですね。

けど、そんな妹がまた可愛いというのはどうしたものでしょうか。兄に暴言吐き暴力ふるう、冷静に考えればどうしようもない、それこそ桜木兄は理想の妹を求めて別次元に旅立ってもよさそうなくらいだというのに、それをしない。まゆを愛で続ける。それが妹に邪険にされる理由であることを知りながらやめない。もしや、兄は妹にひどい目に遭わされたいのか!? けれど、兄の気持ちもわかるような気がするんですよ。いや、ひどい目に遭わされたいってとこじゃないです。妹を愛でるってところ。なんのかんのいって、まゆには可愛げがある。可愛い絵柄、デフォルメされているために余計そう感じるのかも知れませんが、嫌がるそぶり、怒りの表情でさえ可愛い。それになにより、まゆからは酷薄さが感じられません。そうですね、嫌悪や冷笑が現実的に描かれることがありません。それが表現をマイルドにして、妹のバイオレンスを受け入れやすいものにしているのかと思います。

そして、妹にはもうひとつの特徴が! 普段はクール、これはもうすでにいいました。けれどそれはふりに過ぎず、可愛いものを前にすれば一気に本性あらわになって、ぞんざいでぶっきらぼうなしゃべり口はそのままに饒舌さを発揮、まくし立てんかの勢いでそのものがいかに可愛いか力説するのですよ。おお、こういうのは見たことがある。ほら、おたくの人が自分の好きなものについて話しだしたらとまらなくなるでしょう。話すことがまた気持ちを盛り上げて、興奮が止まらないって感じになる、まゆにしてもそうなんですね。ああ、可愛いなあ。あ、私、好きなもの前にして、とまらなくなってる女子を見るのが好きなんです。ああいうのって心温まりますよね。だから、自然まゆに対しても可愛いなあという気持ち強くなって、ええ、私も一種の変態です。

連載開始当初は変態性の強く感じられた兄ですが、その後同僚の養護教諭神奈月子との関係(どういう関係だか、よくわからんのですが)が描かれることで、徐々に変態性は薄まって、いや妹に関しては相変わらずなんですが、いったん妹を離れると普通の人なんだなあ、多分。そんな風に思えるくらいになってきます。異常な妹好きが知れ渡っている兄、受け持っているクラスの面々もどうしようもない兄貴だなあとあきれながら、けれど不思議とあたたかい。人望あるんだなあ、兄貴。人としてはあれだけど。

こんな具合に、暴力的だったり、変態だったり、好きなもの見るとブレーキ壊れたりする人が中心人物であるのだけれど、それら個性、というか普通なら欠点ですか、こうした要素が面白く、愛せるものになっているというところに、この漫画の個性が極まっているのだと思います。期待されるパターン、望まれる展開が繰り返されるそこに、少しずつキャラクターの個性が広がるから、ワンパターンがワンパターンでなくなってくるんです。見慣れたと思った景色の向こうに、読み取ってしまうなにか、関係や背景といったもろもろがあるのですね。それは、ただ私がそう思いたいというだけ、妄想の産物であるのかも知れないけれど、そうした余地が残されているというのもまた事実。そしてこの余地は、作者によって少しずつ埋められながらも、なお広がっていくものであるのかも知れません。広がるなら、きっと漫画の面白さもともに広がるのだろうな、そんな風に思って、なんとなく期待してしまう。そしてそれは、私がそれだけ引き込まれているということなのでしょうね。

  • テンヤ『先生はお兄ちゃん。』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年2月6日水曜日

くるくるコンチェルト

 明日から、明日から通常営業に戻りますので、今少し、懐かしのタイトルを列挙することをお許しください。といっても、今日取り上げようというのはそれほど懐かしいものではありません。だって去年まで連載されていた漫画だもの。掲載誌は『まんがタイムきららキャラット』、最終回が載ったのは2007年8月28日発売の10月号でした。正直、青天の霹靂。だって、そんな予兆まったくといっていいほど感じられず、単行本出て欲しいなあなんて、呑気に思っていたくらいなんですよ。だから、もう衝撃。狼狽して、なんでや、なんでやのん! あまりのことに、ひねくれて星をにらんだ僕なのさ。

(画像は『GREED — 強欲の卵』)

それまでも、薄々気付いてはいたのですが、私の趣味嗜好っていうのは、とかく一般的ではないんですね。いや、ですが私はここで、あえてこのように主張したい。私に同様の趣味嗜好を持つ同士は、多数派を形成するとまではいわないまでも、それなりの数はいるはずだと。けど、私も含めてそうした彼らは自己主張が下手というか、アンケートに答えない、あるいは答えたとしても言い募らない。よくいえば控えめ、悪くいえば口下手、なのかなあ — 。実際のところはわかりませんよ。けど、そうとでも思わなければやっていけないことってあると思います。ええ、ほんにやりきれんのです。

中山かつみは『くるくるコンチェルト』の前に『てんしのたまご。』というコマ割り漫画を描いていて、個性的な猫天使たちの引き起こすどたばた、結構好きだったのですが、割に人を選びそうな雰囲気があったから、苦手に思った人も多かったんじゃないかと思っています。それでより広範な層に働き掛けられそうな舞台、日常にシフトしたのだと思っていました。

主役は女の子四人組、東雲、あんず、琴子、彩。あ、東雲さんだけ苗字だ。後には東雲の弟が出てきたりして、少しずつ世界は広がっていくのですが、基本的にはこの四人を軸にして動いていくという漫画でしたね。描き方は丁寧、絵は可愛いというだけでなく、切れよくきれいにまとまっているという感じ。話の運びもそうでしたね。それほど大げさにはやらない、だから結構地味なんですが、きっちりきっちりと話題を拾ってつなげていく、そういう堅実的な印象がありました。

だから、大化けはしないだろうけど、淡々と、しっかりと、続いていくんじゃないかなんて思っていたんです。それに話は面白かったんですよ。自転車の回は、ああ自転車っていい乗り物だよねえって思ってしまうほどに爽快さが伝わってきたものだし、節分の話も、見た目はこじんまりとして可愛いのに実は鬼よりも怖いあんず、また東雲姉ののどかさなんかも強く打ち出されて、そうさねえ、キャラクターがあって、その個性を絡めた筋回しがあってという、オーソドックスな漫画でありました。そしてそのオーソドックスが安定を感じさせて、気持ち落ち着けて穏やかに読める、そういう漫画であったと思うのです。

けれどオーソドックスゆえに目立たず、目立たないゆえに押されず、そしてそれが終了のフラグを立てたのだとしたら、あまりに悲しいことです。好きだっていう人は多かったと思うんだけどなあ。それこそ、定番商品だと思っている、いつでもそこにあってくれて当然だと思ってしまう。そんな安心さを感じてしまっていたから、あえて言及しなかった、そんな人もあったんじゃないのかなあ。けど、これが事実だとしたら、それはむしろ悪循環に他ならないわけで、ああ、けど結構コメントしてたつもりなんだけどなあ。届かなかったかあ。がっかりです。

『くるくるコンチェルト』が終了した時、まさかと思って、狼狽した。それは『くるくるコンチェルト』だけの問題ではないと思ったからでした。『くるくるコンチェルト』が終わるのなら(むしろでさえと思いました)、こうした位置にある漫画、似た雰囲気を持つ漫画は、おしなべて危ない、それこそいつ最終回を告げられてもおかしくない、そう思ったから余計に慌てたのです。きりがないからいちいち名前はあげないけれど、買っている雑誌、それぞれにそうした漫画はやっぱりあって、おそろしいことに私はそうした漫画が妙に好きときているものだから、怖い、本当に怖い。アンケートに答える際は、素直に面白いと思ったものにコメントすることも大切だけど、戦略的に振る舞うことも必要なんじゃないか。あるいは、アンケートを離れた場においての情報戦略も考えるべきなんではないか、そこまで考えたものでした。

でも、個人にできることってそんなに多くはありません。私に関してはなおさらですね。こうしてBlogに書くくらいが関の山ですが、もうこれが暗闇に向かってしゃべっているかのような手応えで、いやいいんですよ、私は結構この暗闇トークの感触、気に入っているんです(というか、慣れた)。でもね、ここぞという時には、恨みますね、自分の非力さ。好きな漫画ひとつ推すことさえできない。コップの中の嵐にさえならない。そうした現実に打ちひしがれて、今夜もまた星をにらむのですね。

  • 中山かつみ『くるくるコンチェルト』

参考

  • 中山かつみ『GREED — 強欲の卵』(マジキューコミックス) 東京:エンターブレイン,2003年。
  • 中山かつみ『Cynical orange』東京:FOX出版,2001年。

2008年2月5日火曜日

カラフル曜日

 別に、好きだった漫画の棚卸しをしたいわけじゃありません。けど、今いっておかないと、もう次いついえるかわからない、そんな気がするから、力いっぱいここに書いておこうと思います。ウエクサユミコの『カラフル曜日』が好きでした! いえね、以前『まんがタイムきららMAX』に連載されていた漫画なんですが、これ面白かったんですよ。不幸体質のひよこのもとにやってきたエンゼル。これ、抱き枕といわれてるけど実は別物らしく、しかし神様もなにを考えているんだろう。妙にアダルトっぽいネタが、ポップでキュートなキャラクターの繰り広げるどたばたとした騒動の向こうに見え隠れして、その微妙なバランス感覚、好きだったなあ。そんなこと思いだします。

(画像は『ぐるぐるクリーチャー 第2巻 オボエテロ!』)

エンゼルが抱き枕でなければなんだというのか、それはダッチワイフだなんだっていわれてて、なんと! 抱き枕というのは、伏せ字で表現されたそれを、小学生のひよこが誤って読んじゃったところからきているんですね。さて、おとなしくてちょっとついてない女の子ひよこのもとにはそのエンゼルが一体。妙に要領が悪いというか、やっぱりついてないというか、神父様のもとには三体。こいつら、見た目にはちっこくて可愛いんだけど、口さがないというか、やけに生意気というか、結構トラブルメーカーで、けれどそんなエンゼルがひよこにとっては確かに大切な友達というか、心のよりどころというか、そんなだったのが愛らしく、よかった。けど、神父様にとってはどっちかというと心の重荷というか、振り回されてばっかり。そうしたところも面白かったなあ、そんな感じでした。

記憶が確かなら、生きるのに疲れたひよこは早々に一度死んでるんですよね。死んで生き返ったというか、死んだまま生きているように生活しているというか、ゾンビになったりもしてましたが、見た目可愛いのに、キュートでポップな作風なのに、どことなくシビア、そしてシュール。それは直接的なおかしみ、わかりやすい笑いではなかったかも知れないけど、なんかにやりとさせられるというか、変に癖になる味わいを持っていて、チャンネルのあってしまった人にはきっと強烈に作用したんじゃないかなあと思うんです。そして実際私にはそういう感じで、すごく楽しみにしていたし、すごく大切に思っていた。そうしたら、ある日突然終了。え? なに? えー! ショックでした。あん時は最終回ラッシュとでもいおうか、次々と最終回を迎えるもの続出して、その度にショックで、こんな思いするなら四コマなんぞ読むのやめようか。そこまで思ったものでしたが、けど私も悪いのですよ。

アンケート、出してなかった。私が出さなくても、読者全体の傾向は変わるまい。もしそれで自分の好きだった漫画が終わるとしても、自分は黙って受け入れよう。そう思っていたら、あんまりの最終回ラッシュ。もう、もう、駄目だと思った。そして、声は、声は届けないといけないと、心の底から思ったのでした。

以上、そんなわけで、雑誌のアンケートはすべて出すようにしています。

『カラフル曜日』で面白かった回、割とたくさんあったのですけど、神父様がひよこに世界史を教えるという回、あれはすごかったな。思い出してなおそう思います。ページ数も少なく、本数も限られる四コマで、ヨーロッパ史をばっちり紹介して、それが実にわかりやすく、うわうわ、なにこれ、今までこんなにわかりやすく教えてくれる人はいなかったよ! 感動しました。これは一種の才能だなあ、いやあ面白くなってきたよ、そう思っていたその頃が、私にとっての最初の『MAX』の盛期であったと思います。

その後、四コマにおける精神的冬の時代を迎え、いつしかそれを脱しているわけですが、それでもたまに『カラフル曜日』思い出すこと、例によって例のごとくです。そして、やり残しがあると、人はそれをことさらに苦く感じるのですね。申し訳ない、そういう思いが今もなおくよくよとさせて、いや本当にごめんなさい。もっと早く動けばよかった。こうした気持ちを今なお拭えないんですね。

  • ウエクサユミコ『カラフル曜日』

参考

2008年2月4日月曜日

Rusty bloom — ラスティブルーム

まんがタイムきららフォワード』がお世辞にも安定していたとはいえなかった頃、こんなこといったら申し訳ないんだけど、いつなくなるか、いつ撤退するかと思いながら毎月読んでいまして、けどそれ以上に問題だったのは雑誌の撤退する前に私自身が購読を撤退しそうだったことなんですね。正直、いろいろ厳しいなあと思いながら読んでいました。それが今では、ひと月に単行本が二冊出るような、そんなくらいに成長しまして、ある程度安定もしているのでしょう、そこそこ売れているタイトルもあるようだし、ずいぶん状況は違ったものだ、そんな風に感じます。フォワード発の単行本が店頭に並ぶ様子を見れば、ちょっと感慨めいたものが兆すようにも思います。けれどその思いの底には少し複雑なものがわだかまっていて、未練でしょうか。なにか引っかかるものがある、捨て切れないものがあるのです。

未練、それは思い出すタイトルがあるからなんですね。『Rusty bloom — ラスティブルーム』。『フォワード』の初期連載作であるのですが、実は私はこの漫画が好きでした。もちろん楽しみに読んだのがこれだけということはありません。『サイコスタッフ』、『Recht — レヒト』、『キミとボクをつなぐもの』、楽しみだったといえば、このあたりをあげることができるでしょうか。けれどこれらは、『エンジェルお悩み相談所』の水上悟志、『ちびでびっ!』の寺本薫、『三者三葉』の荒井チェリー、私の中ではすでに評価の定まった人たちで、だからある意味、誤解を怖れずにいえば、既作の延長としてのおつきあいで読んでいたともいえるわけです。けれど『Rusty bloom — ラスティブルーム』に関してはそうではありませんでした。

『Rusty bloom — ラスティブルーム』の作者、こよかよしの、私はこの人のことを知りませんでした。今もよく知りません。私とこの人のあいだには『Rusty bloom』しかない。錆花という、金属を蝕み人を襲うように変化させるのはびこる世界を旅する黒衣の看護師ソフィ。連盟の貴婦人コンテッサとも呼び称される彼女は、謎をその身にはらみつつ、錆花との戦いの最前線に身を置いている。助手としてソフィに同行するユッカは、錆花とそれを生み出すこととなった事件の真相に踏み込んでゆく — 。こうしたストーリーが、繊細で少々神経質といえなくもない独特のタッチでつづられていくのですが、私にはこれが非常によく馴染んだのですね。面白かったのでしょう。多少粗削りかも知れない、そうは思ったけど、初期『フォワード』で粗削りでないものってあったっけか? どれも多少の粗を持って展開していた中、私にもっとも触れたのが『Rusty bloom』であったということ。先を楽しみにしていました。毎号の描かれる内容に、絵の醸し出す雰囲気に引きつけられていました。『Rusty bloom』と私の接点は『フォワード』だけであった、そのことが、『フォワード』といえば『Rusty bloom』を思わせるほどに雑誌に密接に重なって、けれど客観的な評価としては、私のような読者は少なかったと、そういわざるを得ないのかと思います。

もし今その可能性があるなら、単行本で読みたいと思う、しつこいですか、しつこいですね、けど好きだったものは仕方がない。少なくとも、この漫画があったから私は初期『フォワード』にしがみつき続けたんだもの。連載の終盤は雑誌の最後尾を定席として、もしかして打ち切りもあるのではないか、その可能性を怖れてアンケートにはとにかく『Rusty bloom』が好きなのだと書いて、もしよかったら単行本を出しておくれと。けど、時期が早かった? 時が満たなかった? それとも単に単行本の出せるラインにたどり着かなかった? 残念です。ただただ残念です。なら、いつまでも残念がっていればいいさ。だって、いまだに忘れちゃいない、これからも容易に忘れることなどできそうにないのですから。

幸いといえるのは、それでもラストまではこぎ着けたこと。そしてやはり私は、あの少し甘めのラスト、好きであるんですね。ええ、好きなんですよ。おそらくは、どこかに影のさすように陰鬱で捨て鉢なソフィ、明るさとにぎやかさの向こうにセンチメンタルな心情を隠していたユッカ、彼女らから感じられるメランコリックな情感、それが好きだったのだと思います。最後にそれらは拭われた、けどそれでもどこかにセンチメンタルな匂いは残って、そうしたところが好きでした。ええ、好きだったのです。

  • こよかよしの『Rusty bloom — ラスティブルーム』

2008年2月3日日曜日

のののリサイクル

 『のののリサイクル』、ぱっと見には可愛いキャラクター前面に押し出した、ほのぼの優位の漫画であります。高性能汎用人型ヒューマノイド、ロボット? アンドロイド? の試験素体として選ばれた草餅のの、見た目幼稚園児の彼女がクラスにやってくるところから物語は始まるのですが、この時点では非常に緩く、穏当そのものといった雰囲気が支配的です。ののが結びつける友情、ののの頑張りが状況を好転させるといった、人によってはぬるすぎるといって敬遠しそうな展開が続くのですが、けれどこうした微温的空気が好きという人にはきっとたまらん漫画だろうなあと思います。私に関していえば、中間くらい。ものすごく好きということはない、けれど嫌いでは決してない。そして時には側にあって欲しいと思う、そんな優しげなふうが妙に心をくすぐるのです。

以上の印象、これがすべてを語っていないことをいっておく必要があるかと思います。第1巻時点でほのめかされている、ののの選定に関する疑惑、あるいは過去に起こったという事故。明確には語られていないこれら謎が、今後の展開に関わってくることは必至であり、そしてここにドラマの生まれる余地が残されている。そのように感じられます。のののデータを収集すべく暗躍(?)するものがあらば、かげに彼女をサポートしようというものもあり、まあ皆、ののの生まれた八千代研究所の人だからあやしくもなんともないし(多分)、不必要にシリアス色を強めることもまたないのですが、でもいずれちょっとシリアス展開にはなるのかな。それに、なんといっても『のののリサイクル』というタイトル、リサイクルの意味するところがなにであるのか、まだよくわかりませんからね。今は伏せられている謎がいずれ解明される、その過程にどういう情景が描かれるのだろう、すごく楽しみに思うのです。

本誌、『まんがタイムきららフォワード』ではもう少し話は進んでいて、のののライバルが登場していたり、またささやかながらいろいろ事件も起こったりもして、そうしたひとつひとつの出来事が積み上げられた果てに見えてくるものがあるのだろう、そういう感じを少しずつ強めています。けど、基本的にはののとその友達たちの温かで緩やかな日常の風景、ほほ笑ましく、心地よい、かりかりとした心の角が丸く和らげられるような、そんな色合いは薄らぐことなくしっとりと息づいています。出会えると、ほっと一息つける、そんな感じ。優しさが嬉しいのですね。

癒しだとか、そういうこというと胡散臭い(私が癒し系という時は、悪口であることが多いです。ご注意を。というか確認したら、7件中6件が悪口でした、おーまい)。だから私は、『のののリサイクル』を癒しであるとはいいません。癒しよりももっと前向きなものがある、差し出される手にほのかに伝わるあたたかさ、やわらかさが感じ取れると思うから。そんな『のののリサイクル』を単純に系という言葉に押し込めるなんて、ちょっと私にはためらわれてしまうのですね。

  • 云熊まく,綾見ちは『のののリサイクル』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年2月2日土曜日

Recht — レヒト

 『Recht』は『まんがタイムきららフォワード』にて連載中の漫画、誌名からするとなんだか四コマ誌みたいでありますが、四コマメインではありません。といったわけで、『Recht』もコマ割り漫画であります。中央管理局にすべての情報が集約されている世界、すなわち超管理社会を舞台に繰り広げられる刑事ものです。Rechtというのは、この世界における中央警察、主人公の少年カイが所属する組織であります。けど、カイはRechtにおいては階級が低く、権限もなければ、経験も不足していて、でも情熱が義憤が彼を走らせるのさ! こんな感じの熱血新人刑事ものであります。

さて、カイには相棒がおるのです。アリス。ヒロインです。けど人間じゃない。この世界にはCSと呼ばれるセキュリティシステムがあって、それはマスターに寄り添うパートナー、電子的な生命体なのかな? それとも命とかはないのかな? しかし、かなりの独立性を持っていることは確かで、それが人型ともなれば、実際人と違うところはほとんどないように描かれています。そう、ここであえて人型という表現を使うのは、中央から付与されるCSには様々な形態があって、大抵は動物の姿をしている模様。だから人型はレアなんですね。そのレアをもらっていながら、獣がよかったなどというカイ。貴様、贅沢ものめ。

『Recht』はストーリーの要請上、熱血主人公カイが暴走気味にもがきあがきながら、徐々に世界の中核=管理局中枢に踏み込んでいくことになる、すなわち管理と自由が対立する最前線に立たされることになるのではないかと思うのですが、もしそうなったらアリスとカイはどうなるんだろう。もしかしたら今表に現れているちょいほのぼの感、アリスとカイのほほ笑ましいボーイ・ミーツ・ガール的雰囲気などは吹っ飛んでしまうほどの、ハードな展開におちいるのではないか、そんなこと心配しています。

なぜかっていいますとね、アリスたちCSとは個人情報や生活面での管理を目的に中央管理局から渡されるものであるんですよね。これをカイの父はセキュリティといっていましたが、このセキュリティという言葉、CSの与えられている個人を守るものであるのか、あるいは社会を守るためのものであるのか、そのどちらであるかでずいぶん意味合いは変わってきます。つまり、個人情報や生活の管理とは、カイをはじめとする市民がよりよく生活できるようお世話することを指しているのではなく、社会の円滑運用のために市民を監視するという意味でしかないとしたら、アリスたちCSは中央管理局から送られてきた監視エージェントにほかならないわけです。

まあ、普通に考えたらそうでしょうね。そして、管理と自由の対立する局面において、カイはアリスの真実を知る。CSの役割、監視エージェントとしての機能を持つアリスは、これまでカイの側にあってその関係を育んできたアリスと引き裂かれるわけですよ。不信や失望渦巻く中、カイ、アリスは離反しかねないという状況、しかしこれまでに築きあげられた信頼が彼らを繋ぎ止めた! みたいな展開が予想されるんですが、果たしてこんな感じに運ぶのでしょうか。私の予想などものともせぬ、それ以上の展開があったら理想的ですね。そうなったらもううはうは。なのでぜひそうであって欲しいところです。

今回この文章書いて、『Recht』っていわゆるセカイ系にあたるのかな、そんな風に思っています。普通ならカイの様な新米が中枢にアクセスすることなど容易でないし、けれどそんなカイが世界の変革に立ち会う可能性をつかんでいる、それはやっぱりずいぶんな下駄履かされた状況で、私の乏しいセカイ系の理解からすると、充分にセカイ系の条件を満たしています。けど、そんなカテゴライズはどうでもいいですね。楽しんで読めるかどうかが大切なんですから、というわけで私はこの漫画を充分楽しんで読んでいます。ええ、結構楽しみにしている漫画であるんです。

ところで、微妙にパンチラの多いと感じる『Recht』ですが、個人的にはパンチラはなくてかまいません。というか、あんまそういうの好きじゃないので、むしろないほうが嬉しいです……。布を、もっと布を!

  • 寺本薫『Recht — レヒト』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年2月1日金曜日

GA — 芸術科アートデザインクラス

  うん、頑張ろう。読んでそう思える漫画っていうのがあります。たとえば『GA — 芸術科アートデザインクラス』。私は芸術科は芸術科でも音楽という、また毛色の違う分野の人間なんだけれど、でも目指すなにかがあって、それはそれは手の届かないほど遠大な、それこそ一生かけても完成しないようなそんなのが目標なんですが、でも追い求めずにはいられないんですね。なんでだろう。好きだから? うん、それもあります。けど、きっとそれだけじゃないな。それは、憧れですね。『GA』2巻、一番最後の収録、なんか思い出すものがあったんです。私にも憧れたものがあった。こんなことができればいいなあって思って、がむしゃらだった時期があったなって、そんな風に思って、ああ頑張らないとな。ちょっと反省したのでした。最近私は、なにをするにもさぼり気味です。

憧れというのは、だんだんと欲張りになりますね。最初はごく身近なものだったりするんです。部活の先輩とか。それがCDで聞く演奏家になって、それもいつしかビッグネームになって、どんどん大きなものになっていくんですね。若い頃って無謀だから、いつかこんな風になれるかななんて、そりゃもうど厚かましいこと考えたりしてたけど、無理無理、全然ですよ。ある程度したら、自分のほどが見えてきます。だからまた身近なものを目標にして、あの歌をちゃんと歌えるようになりたい、そんな具合ですね。けど、全然追いつかないの、やっぱり。芸の道は厳しい。もちろん音楽だけじゃないです。文芸の人は言葉に苦悩するでしょうし、漫画の人は漫画、もちろん美術だって、絵、彫刻、書、工芸、すべてにおいて、ちゃんとできるということはそりゃもう難しいものです。

その難しいということが、『GA』では当たり前の前提になっていて、けれどそれでいて楽しむ美術が表現されている。ああ、いいバランスだ。いつも読んでそう思います。目標を持ってひとつことに取り組む青春、憧れに触れる喜び、できるようになる喜び、作ることの喜び、そして苦しみも。友達と一緒に過ごす時間、ともに課題と格闘するなかで深まるものもあれば、時には遊びの中で育むものだってある。いいね、青春だ。もっぺん学生やりたくなるねえ。やり直しなんて死んでもいやだ、普段そんなことをいっている自分にして、そうしたことを思わせるのは、『GA』のあの子らが生き生きとしてまぶしいからだな。ええ、まぶしいですね。あんまりにまぶしいものだから、自分も頑張らないとなって感化されてしまう。単純でしょう? ええ、単純。すごく素直な気持ちになってしまってるんですよ。

『GA』も2巻に入り、さらに世界は広がりました。具体的にいうと、GA一年だけでなく、三年生も登場。硬さもとれ、余裕もできた三年生(横着になったともいえるかも)。それが漫画から、絵からも感じられるというのはさすがの一言といいますか。確かに、大学に入った時、上学年にああした雰囲気感じたなあ。時間と経験の差ですね。いつかあんな風になれるのかなあ。不安感じたものでした。まあ、私は転科したようなもんだから、そういう風にはなれなかったんですが、私のことはともあれ、美校なんかでもおんなじ様にきっと感じることあるんだろうなって思います。あんな風になれるといいな、憧れと、でも自分にできるかな、不安、怖れが交じり合って、けれどそれでも前に進む。人によってはこつこつと、人によってはアグレッシブにがつがつと、場合によっては紆余曲折、寄り道しながら、自分の道を進んでいく。その過程で積み上げられるものが、その人を作るんですね。なら、二年後のGA1の面々、どんな風になるんでしょうね。なんか、想像できそうな気もします。それで後輩から、先輩はすごいなって思われたりするの。まあ、先輩になってみるとまた不安もあって、ほら後輩っていってもすごいのがいたりしますから。絵も音楽もなんでも、実力社会ですよ。

上級生の日常が描かれるようになって、彼らの学校での生活というものが、一層立体的になった。そんな風に感じています。そしてそれは手応え実感として、しっかりと伝わってくる。これ、力を消費するってことなんかな? けど、無駄にってことはないですよ。消費した以上にもらえてるものの方が多いですもん。うん、頑張ろう。そんな気持ちになれるんですから。ええ、大きなものを確かにいただきましたよ。