2006年10月27日金曜日

HR — ほーむ・るーむ

 長月みそかを読むときは、彼彼女らの関係を、にまにましながら見守るのがいいのだと思います。中学生の多感な時期を、友達と一緒に迷ってみたりふざけてみたり、道草しながら歩くみたいにしてゆっくりと、けれど着実に過ごしていく、その日常の風景に垣間見せる表情やしぐさがドキッとするほど魅力的で、ああこんな季節がはたして私にもあったろうかってなんだかふつふつと疑念がわいてくる。ああ、私にはなかったかも知れないね。でも、似たような季節を通過してきたような気もします。少なくとも彼ら彼女らのような青春ではなかったけれど、けれどもし来し方を振り返ったときに、こんな一コマのひとつやふたつくらい見つけることができるのだったら、きっとそれが私と長月みそかを繋ぎ止めるものの正体なのではないかと思います。

この本には、夢がつまっているのです。こんなだったらいいなと、毎年の春、新学期、新しいクラスに不安をともに思った期待が描かれているかのような気がします。あるいはクラブ活動で、新入生の獲得、新しいメンバー、新しい友達、広がっていく人間関係にわくわくして、また戸惑って、そうした微妙な心の揺れ動きを思い出させてくれるみたいで、だから私がにまにましてしまうのは、私のかつての期待やなにかがめくったページの一コマ一コマに見透かされているみたいな気がするから。この期待の入り交じった落ち着かなさを思春期のそれというのなら、やっぱりあの季節は青春であったんだと思います。なら、この漫画は間違いなく青春の真っ直中を、照れもてらいもなく実直に、夢に思い描いた理想をそのままに描き出して見せていると、そういっても言い過ぎではないと思います。

けれど、ここに描かれているのは、本当に夢のような理想だけなんだろうかとも思うんですよね。これがただの夢で、理想だけをもって組み上げられたものだとしたら、このしっとりと肌に残るような実感はなんなのだろう。私の通っていた中学は、給食ではなかったし、プールもなかったし、こうしたものが私の過去の実感を呼び起こすことは決してないはずなのに、体育館の壁際に、印刷室の暗がりに、文具店の陳列に、夜店の屋台の灯に、私の実感はうずくのです。それらの記憶は、きっと私のものではないというのに、デジャビュを感じたときのように、私はこれを知っているという鮮烈な感触が肌の表面をなでていく。 — 共有している感覚がそこかしこにちりばめられているためなのでしょう。違う時間、違う場所で経験した、細部は違っていてもおおまかに同じような体験が、コマの端々、できごとのそこここにほのめかされているものだから、知らず知らずに私の記憶は呼び覚まされて、実感は再構成されて、

そして私は山葉第二中学校に迷い込むのです。そこで出会うのがあの子たちであるとしたら、私が彼ら彼女らのあれこれにどうしようもない親近感を得るというのもしかたがないのかも知れません。

長月みそかの漫画は、理想が、夢が、実感が、どれも不可分に結びついていて、そしてそれらを絡めてとめる媒体はきっと対象への愛なのだろうと思います。愛が世界を包み、あたたかなまなざしが惜しみなく注がれている。そんな感じがするから私はこの漫画を好きになり、同じく愛を注ぐものとして参加したいと思ったのです。

蛇足

梶井素子が大好きです。大歩危小歩危、鉄分豊富、機械に強くてちょっと地味。最高です!

  • 長月みそか『HR — ほーむ・るーむ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

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