2006年10月8日日曜日

ロリータ

  この間、新聞の書評で読んだのですが、『テヘランでロリータを読む』という本があるのだそうです。イスラム原理主義下において否定される個人の尊厳、思想の弾圧、差別、 — そしてそれらは特に女性に対して顕著であった — 、と隣り合わせの暮らしの中でおこなわれた、西欧の小説を読み解こうという試み。かくして読まれた本の一冊がタイトルにもある『ロリータ』なのですが、果たしてこの試みにおける主役であった女子学生たちにとって、『ロリータ』とはどのような物語であったのか。それは、あるひとりの人間の欲望によって奪われたひとりの少女の人生の物語であった — 。物語は読むものに引き寄せられ再創造されるたびに、新たな姿とテーマを得て、その深みを増していくのだと実感させられるエピソードであるかと思います。

そんな私にとって『ロリータ』というのは一体どういう物語だったのか。テヘランの女子学生たちはロリータに感情移入して読んだといいますが、私にとっての感情移入の対象は、ひとりの人生を奪った主体であるこの物語の主役、ハンバート・ハンバートに他なりませんでした。少年期青年期のやり残しが後を引いたがために引き起こされた少女への偏愛。ハンバートはこれをニンフェットへの愛であるとして、さまざまに分析的なことをいいますが、こうしたことのどれもが自己弁護のようである。自分のゆがんだ執着を絢爛たる言葉によってごまかして、あたかも崇高なものであるかのように見せかけて、現実の残酷や欺瞞を直視しないようにしている、とそのように感じたのでした。

ハンバート・ハンバートの手記という体裁ととったこの物語は、それゆえに一種独特の感触を持っていて、私にとってはまるで夢のような感覚でした。鮮烈でありながらどこかつかみ所がなく、現実味もあるようでないようで、そしてやっぱり自分にとって都合が良い、 — よいことも悪いことも双方において — 、そんな感触が残ります。自分の罪を自覚していたハンバートは、罪悪感を理屈で屈服させることで自分の欲望の開放に成功し、けれど最後には惨めな末路に — 。あのラストへ向かっての転換は、欲望のために無軌道に膨張しすぎた夢を閉じたいと思う、そういう意識であるかのように私は感じて、とかいっていますが、結局はみんな悪いやつだ! ってな感じの話なのがあれですね。

成長したロリータとの再会の場面というのがすごく印象的だと思うのです。夢の少女であったロリータへの幻滅。今まで夢のうちに見られていたすべてが、結局は現実の地上のものであると突きつけられるかのようなシーンに、やっぱり結局はハンバートの妄動が引き起こした虚飾の世界のできごとだったんだろうなあという気持ちになって、けれどハンバートの妄想と執着の王国においては常に犠牲がともなっていたということを考えると、人間は自己の欲望を決して開放すべきではないと、そういうように感じたものでした。

しかし、それにしても『ロリータ』というのは多層的、重層的な物語であると思います。まずストーリーがあって、しかしそのストーリーを紡ぐ文体というのが非常に重要で、パロディや引用の宝庫ときているから、私なんかはこれはあれじゃないかみたいな感じで目移りしてしまって、そしてそこにもなんらかの意味がきっとあるのだと思います。残念ながら、私にはそこまでは読み解きはできません。だから、引用のつまみ食いをしながら、ハンバート・ハンバートの手記をただただ読む。だいたいそんな感じで読んでいます。

  • ナボコフ,ウラジミール『ロリータ』大久保康雄訳 (新潮文庫) 東京:新潮社,1984年。
  • ナボコフ.ウラジーミル『ロリータ』若島正訳 東京:新潮社,2005年。

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