2004年10月31日日曜日

真・三國無双

 このあいだ、テレビで『英雄 / HERO』をやってるのを見て、あのアクションの絢爛さは素晴らしいですね。ちょっとけれん味がたっぷりすぎる嫌いもないではないのですが、それも含めての中国アクションという気がします。と、その剣劇があんまりにもかっこよかったので、ああ自分もやってみようと思って久しぶりに引っ張り出してきたのが『真・三國無双』の第二作目です。これは、時代こそは違いますが、やっぱりけれん味たっぷりのオーバーアクションが楽しい中国活劇で、尋常じゃない強さの武将を操り雑兵敵将をばっさばっさとなぎ倒す、まさに爽快感が売りのゲームなんですね。

これ、私、一時期封印していました。なんでかといいますと、基本的に大味なんですね。大味を楽しむゲームといえばそうなのですが、あんまり長くやっているとだんだんその面白さを感じられなくなってきます。使えるプレイヤーキャラクターこそはたくさんですが、マンネリ感が強いんですね。実際このゲームは人気のあるシリーズで、さらに続編もでているのですが、私はこの第二作で買うのをやめました。

けど、久しぶりに引っ張り出してみると、やっぱり面白いんですよ。あんまり細かいことを考える必要もないし、とにかく前線を駆け回って、敵の首領をやっつければ勝ち。このシンプルさがこのゲームの命でありましょう。見た目やシステムこそは最近のゲームですが、ベースの部分は昔のアクションゲームと同じであるかと思うんですね。

最近のゲームは設定やらなんやらが細こうてかなわんという人にはお勧めで、アクション好きならばともかくやって損はないと思います。微妙に底は浅いですが、いいゲームですよ。

2004年10月30日土曜日

ディズニー紙幣

今朝の新聞で紙幣特集をやっていて、紙幣の肖像についてのインタビューが掲載されていました。そうしたら、ディズニーキャラクターの紙幣をという意見があって、正直腰が砕けました。

日本の紙幣に、アメリカンカルチャーの代表格であるディズニーが登場して、紙幣を印刷するたびにキャラクターの使用料がライセンシーに支払われるわけですよ。もちろん紙幣にはライセンス表示があって、これが紙幣偽造防止技術の一端を担います……

そんな国いやだな。

バードケージ

  アメリカ大統領選挙が11月2日にせまって、アメリカのみならず日本のニュースでも随分取り上げられて、他人事とか思っていちゃいかんのかななんて気持ちにさせられます。ですが結局私は有権者でもなんでもないのだから、ブッシュ支持だ、いやケリーだみたいには思いません。どちらが勝ったからといって変化があるとか思えないんですね。いや、ケリーが大統領になったら日本叩きの風潮が復活するぞとか、ブッシュについてもイラク戦争のことを中心にいろいろいわれてるは知ってますが、でもなあ私は投票できないからなあ。

さて、なんでいきなり大統領選挙の話なんかしはじめたのかといいますと、ブッシュ候補が同性婚の禁止を掲げて保守層の獲得を狙っているんですよね。いや保守層の獲得をとかではなく、この人の場合はそもそも彼自身が保守派であるわけですから、心底本音の意見だと思います。ですが、私、ことこの同性婚を禁止できるよう憲法改正をというのには反対なんです。

実は私はゲイカルチャーが嫌いじゃないんです。あの人たちの装いとか生み出すいろんなものだとか、もちろん音楽も含めて、なんでか好きなんですよね。自分が一種排斥されかねない存在ということを痛いほど理解して、しかしそれをあえてカミングアウトしているという強さにもとづくものなのか、感じるものがありますよ。

『バードケージ』は、そのゲイカルチャーにおける結婚騒動を面白おかしく描いた映画でして、自分自身の思想信条性癖の自由、これは人間の尊厳に直結する一大事であると思うのですが、それを自ら隠さなければならないという悲しさが根っこにあるんです。けれど最終的にはゲイカルチャーの勝利に終わるところが最高じゃないですか。私、この映画が大好きです。音楽も好きで、なんでか映画のDVDは買ってないのにサントラは持ってるという、微妙に不思議な話であります。

実は今回初めて知ったのですが、この映画、『Mr. レディ Mr. マダム』のリメイクだったようですね。実はこちらは見たことないのですが、多分面白いのでしょう、続編もでてます。この機会に両方買ってしまおうかなんて思ってます。

こうして映画にもなって、ある程度認知されてるように見えるゲイカルチャーですが、けどやっぱり風当たりが強いんでしょうね。そうした状況を心底理解するのは、同じ現場に立ったことのない私には難しいのですが、なんとか彼らの内心の自由が守られて欲しいと願うのです。同性婚のことにしても、結局はその関係を結ぼうとする当事者の問題だと思うのです。それを制度でもって縛ろうというのは間違ってると思うのです。

サウンドトラック

2004年10月29日金曜日

Clover

    なんか最近いろいろなものがムック(?)展開されていて、ほらあの週刊なんとかみたいなもので、仮面ライダーとかガンダムのとかいろいろでてますね。けどいくらなんでも一年戦争とSEEDを同じ文脈で語ろうというのは無理がある、って今回はそういうのをいいたいのではなくて、CLAMPです。書店で見た『CLAMPノキセキ』の最新号が『Clover』を特集していて、それで私は思い出したのです。私はこの『Clover』という漫画がCLAMPのなかで一番好きなのでした。

CLAMPといえば、一番の出世作は『カードキャプターさくら』でしょう。NHK BSでアニメ放映されたことで爆発的にヒットし、ゲームにはなるし映画は毎年制作されるし、確実な収益が期待できるおたく層を狙った商品展開も華々しく、とにかく一般世間へのCLAMP浸透はこの漫画によってなされたといって間違いないかと思います。

さて、なかよしでちょうど『カードキャプターさくら』が連載されていた頃、不遇の雑誌Amieでは『Clover』が掲載されていました。なかよしよりも少しおねえさん向けで、趣味性の非常に高い独特の雰囲気がある雑誌でしたが、あまり人気が出なかったようでほどなく廃刊されました。私は講読していなかったので詳しくはないのですが、少なくとも『Clover』を世に出したという点でAmieには幾許かのセンチメントを持っています。

私が雑誌Amieに持った趣味性の非常に高く独特の雰囲気があるという評価は、おそらくは『Clover』に起因するものでした。繊細な絵で、漫画というよりもストーリーを持ったイラストレーションとでもいうべきか、すごくオリジナルだった。CLAMPらしい耽美(同人誌臭さといいかえたほうが適切でしょう)も『Clover』に関しては煩わしさを感じることなく、レトロSFのテイストが満ちたこの世界には、喜んで耽溺したいとさえ思ったのでした。

実は、この漫画はアニメ化もされてるんですね。わずか数分の小品でミュージッククリップみたいな演出のされた素敵なものだったのですが、残念ながら今見ることはできません。それに漫画自体も完結されておらず、こうした宙に浮いた状態の続く、少し不遇の漫画です。でも、こうした不安定で地に休まることのない状態さえ『Clover』の独特の世界観を裏書するようで、私はやはりこの漫画が好きなのです。

『Clover』のDVDがついていたなら、間違いなく買いましたね

2004年10月28日木曜日

キャメロット・ガーデンの少女

 現代のおとぎ話なんて文脈で語られることの多い映画で、けれど内容が非現実的だとかそういうわけではないんです。高級住宅地に住む少女とはみ出し者の青年の交流を描くという、一種のボーイ・ミーツ・ガールストーリー(ガール・ミーツ・ボーイというべきかな?)。けれど恋愛ものみたいのを期待しては駄目です。きれいな映像やファンタスティックな色合いがこの物語のあたりを和らげていますが、ラストにいたるその時まで心の中になんか重苦しい違和感ややるせなさがだんだん堆積していくようで、本質的には悲しい映画なのです。

少女と青年が心を通わせたのも、どちらもが自分を取り巻くコミュニティから排斥されているものであるからに他なりませんで、少女は青年に自分も持つ鬱屈とそれを解消できる自由さを感じ、それゆえ彼に親しみを感じたのでしょう。流れ者の青年はそもそもその存在からが異質でありますし、少女もまた自分と(主に両親を中心とする)この街とのあいだに横たわる相いれなさを感じているわけです。

これがまさにこの物語のテーマでありますが、こうして文章にするとすごく陳腐に見えますね。実際映画での描き方も陳腐さを残していて、でもこれはあえてそのようにしていると考えるべきでしょう。ありきたりのプロットが緻密に丁寧に構築されたことによって、終幕の劇的転換が極まります。冒頭から徹頭徹尾語られてきた異質なる自己への偏愛は、ようやく出会えた自分自身の影を疎外し排斥してしまう悲劇のラストシーンにおいて、自らを縛る現実を強烈に転倒させ変質させる動力として機能するのです。

って、いつもそうなんですが、私の書く文章って意味がよく分かりませんね。あらすじを書いちゃいかんと思ってるからなおさらそうなるんですが、なにしろこの映画(だけじゃありませんが)、ラストの展開をいってしまうと、これからみるという人にとって台無しになってしまうという、それくらいの衝撃性を持っています。

閑話休題。この映画のありきたりなプロットとラストシーンの唐突さは、きわめて密接に関係しています。普段は異なる文脈で語られるため決して出会うことのない物語の方法が、少女を介在としてクロスするのです。異質な物語要素が出会ういうその前提は、物語 — 特にその背景 — を平板と感じられるまでに単純化することよって成立しているのです。

もし物語がありきたりを脱しようとしていたら、あるいは表面的な技巧に走ろうとしていれば、最後の突破は得られなかったでしょう。つまりこの映画は、すべてあのラストシーンのために用意されたものであるといってよいくらいのもの。一旦は物別れに終わると思われた、夢と現実が交錯する必見のラストシーンであると思います。

2004年10月27日水曜日

チュー坊がふたり

 私は田渕さんが好きで、だって女の子が可愛いじゃありませんか。絵として可愛いだけじゃなくて、その心象風景や感情のこまやかさ、ちょっとかわりもののところも含めて全部が可愛い。もうなんと表現したらいいのでしょう。いじらしいかな? いやちょっと違います。愛おしいでもよくよくいいあらわすことができなさそう。ため息ついて胸の中が空っぽになってしまいそうな、そんな可愛さがあるのですよ。

わかるかなあ、わっかんねえだろうなあ。分かるという方はご一報ください。

さて、『チュー坊がふたり』は田渕由美子作品の中でもちょっと異色。これは田渕さんの子育てエッセイ漫画でありまして、二人のお子さん — うろ太さんとのか子さんが中学生であった頃からの数年にわたる家庭の光景が描かれているのです。

内容はどこの家にもありそうな話だと思うんですが、それがどうして田渕さんが描くとまったく違って見えるから不思議。すごくほのぼのとして、すごく楽しそうで、けどちゃんと親子なんだなと思うところもあって、すごく素敵な関係が築かれていることが分かります。だもんで、読んでるとなんだか暖かな気持ちになるんですね。やっぱりこれは田渕さんの田渕さんたる所以であります。なぜ私が田渕さんを好きかというと、こうした田渕さんの持ち味がすごく暖かで安らげるものだからだと思うのです。

はてさて、おとめちっくの漫画家を妻にした夫(オットセイ)の趣味は私と同じで、女の子らしいワンピースとかはそれはそれは素敵なものだと思います。けれど他に類を見いださないデリシャスファッションの娘さんも素晴らしいものだと思います。

けどここはやはり田渕さんの肖像がいいなあ。崩したタッチも美化加えたものも、どちらも素晴らしく素敵です。

ああ、なにいってるか分かんなくなってきちゃった。

2004年10月26日火曜日

二重言語国家・日本

 タイポグラフィに興味を持ったのがコンピュータのためだとしたら、書字に興味を持ったのはいったいどうしてだったのでしょうか。それは実は読んだ本のためでして、それがこの『二重言語国家・日本』です。

『二重言語国家・日本』とは興味をそそられるタイトルですね。私はまさにこのタイトルに魅かれて手に取って、その内容のあまりの腑に落ちなさに怖れをなして、理解のためには自分も書字をしてみなければならないと思ったのでした。この本の著者は書家石川九楊でありまして、日本語及び日本語に支えられる日本の思考文化もろもろは、漢語と和語の混在する二重言語に強く影響をされているというのが主張です。そして、音に重きを置く欧語に対し日本語は書字の世界である云々。日本語の根幹はあくまで書字であり、ワープロ文化のなんと軟弱なことよ、みたいなことが書かれているわけです。

はじめてこの本を読んだとき、本気でいってるのかこの人と、正直いけないものを見たような気持ちになりました。理論理屈で書かれているように装ってはいますが、この本のベースは著者の身体観に基づくまさに体験的知の世界でありまして、いくら理屈で考えても飲み込めるわけがないのです。実際に書字をして始めて見える世界があるんだよといわれてるようで、それは脳という身体の一部器官のみに偏った世界観ではなくて、まさに全身で捉え考える、身体の知の世界であるように思われたのでした。

それが分からないというのは悔しい!

私の書字への入り口は、こうした負けん気というか、理解しがたい世界をかいま見たい欲求というか、そういうひねくれたものであったのでした。

この本が1999年のものということは、私が書字をしはじめてもう五年が経ったわけです。で、少しは分かったのかといわれれば、少しは分かった気がするんです。いやもちろん石川九楊に頭から賛成するわけではないのですが、それでもいっていることのベースみたいなのがちょっと理解できるかなと思われるんですね。

少なくとも、書字をはじめてから日本語タイポグラフィへの興味が減じたのは事実です。書字において表現される多様な世界に比べれば、合理性こそ感じられどそれ以上には思えない日本文字のタイプフェイス。こんなこといってると日本語タイプフェイスに関わる人に怒られそうですが、明朝などにはうろこが書字の痕跡をとどめ、またブラッシュスクリプト(手書き書体)である楷行書フォントの類いが多く用いられるという事実、そして看板などには書字がそのまま用いられることも珍しくない。そういうところには、日本人の書字への傾倒が現れているななどと思うのです。

だいぶ石川九楊に毒されてるなと、自分でも思ってるんですよ。

2004年10月25日月曜日

タイプフェイスとタイポグラフィ

私は今や書字が書字がといって、手書き文字を愛するようになっておりますが、その根本大本は活字が活字がといってタイプフェイスを愛していたのでありました。いや、もちろん今でもタイプフェイスは好きですよ。よく組まれたタイポグラフィは目に優しく美しく官能的でもあります。特に洋書にみられる、伝統的な欧文タイポグラフィの美しさたるや、整然と並び天と地を繋ぐ知の命脈を感じさせます。アバンギャルドな近代のタイポグラフィには、新しい秩序を模索し挑戦する気魄気概がみなぎっています。

ああ、なんて素晴らしいんだろう。私もタイポグラフィを学びたかったというのはついこないだもいったことなので繰り返しません。

さてさて、この本が私の最もしっかりしたタイプフェイスの教科書でした。この本はもともと1984年に刊行された『文字の歴史とデザイン』が解題改訂されたものでして、今年、更なる改訂が加えられたようですね。こうして長く綿々と読み次がれているということは、つまり内容は決して古びないということの証拠でありましょう。

さてその内容はというと、活字体の歴史が中心です。どのように活版が開始され、どういう字体がいつごろ生まれ、改良され、今に至ったかがよく説明されています。基本的な字体の区分やレタリングの基本、組みについても解説説明はなされていますが、やはりこの本の中心は歴史でしょう。字体の歴史にはその文字が生まれるにいたる経緯や意図が含まれるのでありますから、やはり歴史を知るということは重要なのです。

昔、Macintoshを買ったとき、そしてプリンタを購入したとき、字体が充実しているのに感動しました。特に欧文書体の充実は素晴らしく、基本となる字体はすべて揃ってたんじゃなかったかな。ほんと、このときの感動がタイポグラフィに興味を持たせることになったのでした。

いい道具はいい発想を生みますが、まさにコンピュータはそういう道具であろうと思います。後はその発想を裏付ける知識や経験が重要。こうした本は知識や理屈を支える一助となってくれるものと思いますよ。

2004年10月24日日曜日

ユニバーサルHTML/XHTML

 ノンデザイナーズのシリーズに『ノンデザイナーズ・ウエッブブック』というのもあって、迷わず私は買ったのですが、残念ながらこちらは『デザインブック』以上のものでなく、むしろはるかに劣るものでありました。『デザインブック』は何度も何度も読み直して、人にも随分勧めてきたのだけれど、『ウェブブック』はそうではなかった。『ウェブブック』にはWebの理想というものが見られなかったからです。印刷屋の理論を無理矢理持ち込んでいるみたいになってる恨みがあって、私は深く読み通すことはできませんでした。

じゃあ、Webの理想というのはなんなのだろう。そういった疑問を持たれた方にお薦めしたいのが、神崎正英氏の『ユニバーサルHTML/XHTML』です。

Webの理想 — それはWeb上に存在する情報を効率的に把握し、効率的に利用できる環境にほかなりません。OSや使っているソフトウェアを問わず、どんな環境からでも情報を利用することができるということでありまして、これこそがまさにユニバーサルな情報共有、本来Webはそういう世界であったはずなのですが、なんでか途中から違う方向に行ってしまったのですね。

HTML/XHTMLは情報を共有するのに非常に適したやり方で、なにしろその本質はただのテキストファイルでありますから、WindowsでもMacintoshでもUnix、Linuxからでも、さらには携帯端末からでも利用できる。そして適切なマークアップが行われることで、効率よく情報を仕分けして、取り出して、利用することができるというわけなのですね。加えて、コンピュータが情報を把握できるようメタデータが整備されたならば、その利便性はより高いものとなるでしょう。まさにセマンティックWebの到来なのであります。

とまあ妙に意気込んでしまっていますが、こうした理想が本来Webにはあったのですが、世間巷のWeb関係の本は、視覚的なデザイン — 見た目だけにとどまるものが多すぎて、情報をデザインするということに言及するものはほとんどないというのが現状。セマンティックWebの到来など夢のまた夢なのであります。

近年はBlogブームということもあって、比較的正しいXHTMLで構築されたサイトも増えてきて嬉しいかぎりではありますが、できればツールに頼るばかりではなくて、『ユニバーサルHTML/XHTML』やThe Web Kanzakiで紹介されているような、情報共有と情報利用の利便性を高めるという理想にも触れていただきたいと思う次第であります。

2004年10月23日土曜日

ノンデザイナーズ・デザインブック

 私は高校を卒業後シャープの書院を買いまして、今の若い人は書院といってもなんだか分からないかも知れないので補足しますと、ワープロです。今はコンピュータが全盛で、ワープロといえばコンピュータ上で動作するソフトウェアのことになってしまっていますが、昔はワープロの専用機なんてのがあったのでした。ワープロと表計算とちょっとした住所録管理なんてのができて、価格は今のコンピュータくらい、あるいは高いくらいでした。

ワープロを使えるということはどういうことかといいますと、個人でもフォントを扱えるということでありまして、つまりちょっとした印刷物を作りたいときに重宝するのでした。私は音楽関係の知人が多いので演奏会のプログラム作りなんかを頼まれることも多くて、見様見まねで文字を組んでレイアウトに格闘して、もちろん複雑なデザインなんてできないし画像の取り込みなんてのも無理だから、プリントアウトを切り貼りしたりして、ちょっとしたお小遣い稼ぎにもなったんですね。古きよき時代の話です。

私はセオリーもなにもなしになんとか組んでやっつけるという、まったく見様見まねの我流であったのでした。ちゃんとデザインを学びたいと思ったこともありましたが、資金や時間の余裕がなく、やるべきことは他にもあってそれはかないませんでした。そんな私のデザイン理論は、ロビン・ウィリアムズ(役者とは別人です)の『ノンデザイナーズ・デザインブック』に学んだものであります。

私、これを書店で偶然見付けて、まるで宝の山でも見付けたように狂喜しました。内容は分かりやすくシンプルで、けれどデザインの初歩を知るにはうってつけです。今までやっていたことの裏付けになったこともあれば、間違いを知ることにもなって、とにかくひとつの指針ができたのです。ああ、けれどちょっと遅かった。この本を手にした頃には、プログラムやちらし作りとかから手を引いちゃっていたんですね。

『ノンデザイナーズ・デザインブック』は、ちょっとしたデザインをやってみようと思っている人には間違いなく役に立つ本です。一読すればデザインが変わること請け合いですよ。

ノンデザイナーズのシリーズ(けれど『ウェブブック』はお勧めしません)

2004年10月22日金曜日

ルーツ

 私はなんだかこのところずっと空虚で、空虚な胸にからっと乾いたジプシーキングスの音楽はよく響きます。フラメンコでというか、こうしたラテンの世界ではサウダーデなんていう形容があって、サウダーデというのは過ぎた昔を懐かしむ思いや哀愁切なさだなんていうんですが、けどそこにはセンチメンタルや女々しさはないんですね。はるか高くに抜ける青空の広さ、世界を渡っていく風の自由さを持って、そして少し苦くもあるような、そんな思いがサウダーデなのだと理解しています。

私にとって最もサウダーデを感じさせる音楽というのが、ジプシーキングスの音楽なのです。一般によく知られているジプシーキングスといえば、おそらくビールのCMに使われた「ボラーレ」あるいは鬼平犯科帳のエンディング曲に使われた「インスピレイション」でしょう。「ボラーレ」はひたすら陽気な曲ですが、「インスピレイション」にはサウダーデが感じられないでしょうか。シックに沈む静かな曲調が、一転弾ける火花の鮮やかさで彩られる一瞬の妙。私はまさにこの一曲でジプシーキングスに惚れたのですね。ええ、まさに惚れたのです。

『ルーツ』というアルバムは、なかでもよりサウダーデに溢れています。ジプシーキングスの原点回帰ともいわれて、肌に肉薄してくる切々とした歌声が心の奥底にたゆたうんです。フラメンコギター特有の乾いて歪んだ音色も、すごく素敵。三曲のファンダンゴを聴けばすぐに分かる渋く哀愁に満ちた深み、くすんだ色合いに艶をもって輝くギターの音色。もちろんすべての曲が素晴らしいのですよ。第一曲目のAven, Avenを聴いた瞬間にもう骨抜きで、Soledadなんてまるで胸に突き刺さるが如く!

ジプシーキングスのサイトで試聴もできるので、できれば一度聴いていただきたいと思うのです。いや、ほんと、すごく素敵。なんて素敵な男達なんだろうと思いますから。

2004年10月21日木曜日

セキララ結婚生活

 けらえいこといえば『あたしンち』がアニメ化されたことですっかり著名になってしまって、この人の飄々とした漫画が好きだった私などはかなり喜んだのでありました。なんといいますか、スイス人の女の子が『あたしンち』を見て、うちの家と一緒だっていってたのが面白くって、みかんさん家は思ったよりもワールドワイドに普遍性を持っているようです。もちろんうちの家もあんなでして、不思議に共感しながら、昔を思い出して腹立たしい思いにもなったりして、漫画が悪いんじゃありませんよ。悪いのは料簡の小さい私です。

さて今回ご紹介しますのは、『あたしンち』以前のけらえいこの仕事であります、『セキララ』のシリーズです。

『セキララ』のシリーズといいましても、最初の二冊は漫画で読むハウトゥーとして出版されたもの、後の二冊はそれらハウトゥー漫画の後日談として出版されたエッセイ漫画で、ちょっと趣は違います。けど面白いのはどちらも一緒で、私はどれも好きですよ。

けらさんの漫画の面白いなと思うのは、あんまり力んでなくて、自然体というかありのままというか、表現されている内容がすごく身近に感じられるところなんですね。これはもちろん『あたしンち』なんかがそうであるわけですし、けど『セキララ』のシリーズ(特にハウトゥーの二冊)はもっと粗削りで生ものって感じがしていて、その感覚がすごく好き。新しいものになるほど技術や表現の幅が広がって読みやすくなっていくんですが、初期のダイレクトな感じも捨てがたいのです。

実は私、用意周到というわけでもないんですが、いつ結婚することになっても困らないように、こうしたハウトゥー本を用意して準備万端で望んでいるわけなのですね。けど一向にその知識が必要になることはなくって、今もなんだかぶらぶらしているわけです。駄目ですね、いやほんと駄目ですね。

(これは冗談なので本気になさらないでくださいましよ)

大学の同期が結婚したとき、このシリーズをセットにしてプレゼントしました。うまく活用してくれていると嬉しいですね。

2004年10月20日水曜日

夕凪の街 桜の国

 私はこの物語に出会って、心からよかったと思いました。原爆にまつわる物語であり、悲しかったり切なかったり、やり切れなかったり、けれど私はやはりこの物語は深く強く、そして美しいものだと思うのです。常に涙なしでは読めない、けれど多くの人に読んでもらいたい物語であると強く強く思っています。

物語は、原爆の落とされたあの時から十年経った昭和三十年、平野皆実をめぐるものが第一部。そして皆実の弟の子らの時代 — それは私たちの時代といってよいかもしれません — の物語が第二部。私は雑誌で第一部を読み涙を絞り、第二部前半でもやはり切なくなって、ですが今回出版されたこの本を通して読んで、すくわれる思いもしたのです。

お願いがあります。できればこの本を多くの人に読んでもらいたいと思うとはさっきもいいましたが、それは単なる願望ではなくって、つまりはこの記事を読んだあなたにもこの本を手にして欲しいのです。

記事末尾のリンクからアマゾンで購入すると私が得してしまうので、アマゾンで買うときはブックマークかなにか経由でいってもらうとして、でもできれば一般の書店で買って欲しいと思います。かなり品ぞろえのいい書店でないと置かれていないと思いますが、できればそうして欲しいのです。

この本は双葉社の大英断で出版されたもので、きっと売れないと判断されたのでしょう、ページ数の割に高めの値段がついています。ですが物語の質は折り紙付きです。本といわずなんといわず、あらゆるものは質で計られるべきで、量で判断するものではないと私は日々思っています。

それでも買えないという人は、図書館にリクエストして欲しいのです。リクエストを出すと大抵所蔵されます。そうすれば多くの人の目に触れる可能性が高くなります。

この本に、思想的などうこうというものはありません。残虐な描写やなにかもありません。あるのは淡々と描かれた美しい物語と深い感情です。

私はこうした良書が、一般に売れないという理由でただただ埋もれていくのが悔しいのです。気付けば絶版していて、お勧めしようにもお勧めできないというようなことになるのが嫌なのです。そうして知られないために売れず、売れないために出版されず(なんのために再販制があるのか)、多くの良書が日の目を見ないという現実があるのが悲しいのです。

切ない思いはさせるかも知れませんが、どうぞお手に取っていただきますよう、お願いいたします。

2004年10月19日火曜日

プラトーン

 二十世紀アメリカの汚点のひとつである泥沼のベトナム戦争。プラトーンは、もう皆さんご存じのことと思いますが、新兵がベトナムの戦場で体験したことを描いた大作でありまして、監督オリバー・ストーンの自伝的映画でもあります。

ジャングル内での戦闘は極度の緊張と弛緩の繰り返しであり、ために兵士は正気と狂気の間で揺れ動くのでしょう。人間性への信頼を失わしめるような行為が戦場にはやはりあって、なぜそうした残虐な衝動に駆られるのか、平時に暮らす私たちには理解できるようでできないのだと思いました。この映画はそうした状況心境をよく描いていますが、現実の戦場というのはどれほど過酷なものか、やはりそれは前線に出たことのない私たちには分からないのだと思ったのです。

ベトナムの戦場では、いったい誰が敵であるのか分からず、そうした状況ゆえに引き起こされた事件の多さは私たちも聞くところです。ソンミ村の事件などはあまりの苛烈さゆえによく知られていますが、大小の虐殺はいたるところであったといわれています。

この映画は、そうしたアメリカの恥部を隠すことなく描いて、また兵士たちを必要以上に英雄視することもなく、淡々と兵士として表現している。こうした姿勢が様々な立場をとる人たちや実際自身も兵士としてベトナムに立った退役軍人たちにも共感と理解を生ましめたのだろうと思うのです。

しかしですね、この映画で描かれる悲劇や、もちろん実際にベトナムで起こった悲劇は、今も変わりなく世界を覆って、主義である思想であるのために犠牲になる人のなんと多いことか。テロリストに報復するといってモスクに爆撃が行われ、あるいはそこにテロに荷担する人たちもいたのかも知れませんが、そうでない人も多かったはずで、こうした行為がかつてのソンミ村での惨事とどう違うのか。民族意識の発露であるかあるいは復讐であるのか、もう間違いなく無関係の小学校を占拠して行われた殺戮にいたっては、いったいなにであるというのか。

私たちは簡単に過去の教訓を忘れ、その上厚顔無恥にも、すっかり忘れて他人事みたいになっている過去のドキュメントに簡単に共感を示して、そしてけろりと歴史は繰り返すなんていうのです。そりゃそうでしょうよ。無理解と非寛容の精神でもってぶつかり合うことでしか生きられない人間は、非人道的な道を歩むようあらかじめ決められているに相違なく、不幸と悪意の連鎖から抜け出すことなど到底かなわぬのでありましょう。

なんて馬鹿馬鹿しいことでしょう。なんて馬鹿馬鹿しいことでしょう。

2004年10月18日月曜日

正しい暮し方読本

 タイトルだけを見れば、なにやら堅苦しい本なんじゃないかと思うかも知れません。なのではじめに断っておきますと、これは絵本です。絵本でこのタイトルということは、つまり教育絵本で、子供に訓育やらなにやらを教え込もうというやつだなと思われるかも知れませんが、それも違います。

『正しい暮し方読本』が教えることは、正しいとはつまりどういうことなのか、堅苦しい枠組みの中で生きることがいいことなのか、そういう生きる上で大切なことばかりです。自分の暮し方を考え直す機会を与えてくれるので、大人にこそお勧めの一冊です。

子供に限らず人は、他の人と自分が違うことを気にして、時に合わせてみたり、あるいは自分を主張してみたり。けれどまったく他人の枠にはまってしまっても、意固地に自我に固執してしまってもいけません。大切なのはしなやかな主張であって、自分の好きなこと、やりたいこと、そして一番正しいと思うことを軽やかに行うということなんだろうとこの本を見れば思います。

私は正しい象の見方がとりわけ好きです。世界というものは見る人それぞれのものであって、どういうふうに見るかという心がけひとつで、まったく違って膨らんで楽しいものになるようです。けど、私は象をこんな風に見たことがないんですね。ただ単に象を象としてしか見てなくって、ああ侘びしい想像力の持ち主と自分で自分をくさしちゃいますね。

この本には、人生を暮らす際にきっと役立つちょっとした発想がたくさんあります。こういう柔らかさに子供の頃から多く触れられれば、その子はきっと正しい大人になれるんではないかと思うんですね。

2004年10月17日日曜日

推手

推手というのは中国武術の対人練習の方法で、互いに触れ合わせた手の甲を推したり引いたりして、攻撃を受けて流し、相手のバランスを崩し、そして触れた手から敵の動向を察知できるようになるための訓練です。

映画『推手』は、息子に誘われてニューヨークに移住した太極拳の老師が体験するアメリカ社会を描いているのですが、このアメリカというのは決して明るくもばら色でもありません。老人社会と移民の問題が全面に押し出されて、ともすれば社会的弱者になりやすい彼らの生き方がクローズアップされているのです。

映画は主に主人公とその息子夫婦の家庭で展開する、ファミリーストーリーなのですが、太極拳家の老人が家庭の中で居場所を失っていく哀愁がなんともいえず胸に迫るんです。老人は年をとってからアメリカにきたので英語ができません。そのせいでアメリカン人の息子の妻とうまくコミュニケーションをとれず、不和は広がり、そしてうまく追いやられようとされるのは老人のほうなのですね。

ですが、この老人はよいケースなのです。老人には学もありそしてなにより太極拳があり、映画のクライマックスではカンフーマスターの面目躍如、大活躍を見せるのですが、結局この大乱闘にまでいたったのには老人がどれほどこの街で鬱屈して暮らしていたかという、そのせいだと思うのです。ひとりの人間として誇りを持って生きるということが困難になったとき、老拳士ならずとも自分はここにあると主張したくなるのではないでしょうか。一歩も引かない老師の姿には、人間の尊厳が感じられます。

ひとつの家庭の物語であるとはいいましたが、この家庭は当然アメリカの縮図であり、そして私たちにも関係のないことではないのです。様々な立場にある人たちが、それぞれを尊重しつつ、よい関係を築くことができるようにという、そういう願いさえも感じられるラストは、静かですがそれだけ深く心に通るのです。

お願いです、DVD出してください

2004年10月16日土曜日

ぼくの地球を守って

    私は原作主義者であることを公言し、なににしても原作が優れ、派生物(小説にせよ映画にせよアニメにせよ)は劣るのだという姿勢をがんと取っています。ですが何事にも例外はあります。それが今日ご紹介する『ぼくの地球を守って』。ビデオアニメとしてリリースされた『ぼくの地球を守って』は、原作序盤の浮つきを注意深く排除し、緊張感あふれるサスペンスとして展開します。むしろ冗長さが指摘される原作ですが、アニメは物語があふれる直前で踏みとどまりコンパクトにまとまりをつけることに成功しました。

私は『ぼくの地球を守って』は名前を知るだけで、読んだことがありませんでした。ですが、ある日テレビでシリーズが放送されるということを知って、つまりこのアニメから入ったのですね。ビデオに録って見て、なんという素晴らしい物語であるかと思いました。物語は序盤から波乱を含んで始まり、ですがはやる気持ちを抑えてむしろ静かでさえあります。その押さえられた波乱が解き放たれてからの展開の早さは、もう心をまるごとさらわれるかのようです。

アニメは物語の導入にあたる部分だけを語って閉じられます。冗長に過ぎアマチュア臭さが鼻につく原作の序盤をうまく捉えて、ですがアニメはそれ自身がひとつの作品として結晶しました。そしてこれより先は原作の爛熟が素晴らしい。序盤を過ぎ、自ら走り出し飛翔する物語『ぼくの地球を守って』は、緊張感にあふれるアニメを引き継ぐことにより、物語の全体を支えきるだけの推進力を生み出すことができる。こういっても言い過ぎではないと私は思っています。

私はおそらく原作を最初に読んでいたら、最初の数巻で投げたと思うのです。このアニメがあってはじめてこの漫画を知ることができたと、心から感謝したい気持ちでさえあります。

2004年10月15日金曜日

ARMS

 昔『スプリガン』という漫画を人から薦められて、それ以来私は皆川亮二のファンです。なんというか、多分この人の書いた漫画は全部持ってます。こういうことをいうとどうも意外と思われるらしいのですが、私の印象は少女漫画読みなのでしょうか。少年漫画も好きで読んでますよ。だって心は少年ですもの。

いや、馬鹿なこといって申し訳ありません。けれど弁明しておきますと、ARMSは心が少年であろうとなかろうと、読めばきっと面白いと思うに違いないのです。異常な能力を持つ少年少女たちの出生にまつわる秘密。望むと望まざるとに関わらず、過酷な運命に巻き込まれていく彼らが、逃げることなく困難と自分自身に立ち向かっていく。その彼らの姿に胸を打たれないということがありましょうか。

私などは、単行本発売を待って待って、買ったら一息で読んでしまって、それでなおまた頭から読み直して、心が震えます、目頭が熱くなります、胸の深いところがしびれているみたいで、やはりこの漫画は名作だと思うのです。

ただ、この漫画はヘビーで、ちょっと気楽に読もうかというものではありません。主要人物は守られているため安心して読み進むことができるといっても、人死にはたくさん出ますし、その死に方も無惨というか残酷というか、少年たちの運命がそうであるだけ、描写もすさまじさを増しているんですね。

『スプリガン』でも死者も出ますし残酷なシーンも、過酷な物語もあるにありましたが、『ARMS』よりは少年誌を感じさせました。『ARMS』はとにかく重いのです。それだけの深みはあり、読みごたえは充分、表現も内容に負けず濃密強靱でありますが、ゆえに重い。人を選ぶ漫画であるかも知れません。

改めて全22巻を並べてみると、長いですね。私は物語の最後には息切れを起こしてしまって、バンダースナッチの出てくるあたりなどはほうほうの体でした。

次回読むときは、気力体力ともに万全で臨みたいものでありますね。

  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第1巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1997年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第2巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1998年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第3巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1998年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第4巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1998年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第5巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1998年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第6巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1999年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第7巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1999年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第8巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1999年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第9巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1999年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第10巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,1999年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第11巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2000年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第12巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2000年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第13巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2000年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第14巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2000年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第15巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2000年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第16巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2001年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第17巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2001年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第18巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2001年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第19巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2001年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第20巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2002年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第21巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2002年。
  • 皆川亮二,七月鏡一『ARMS』第22巻 (少年サンデーコミックススペシャル)東京:小学館,2002年。

2004年10月14日木曜日

ファイナル・アリス

デル・トレディチはアメリカ生まれの作曲家。連邦芸術基金は、アメリカ建国200年を祝うための音楽をデル・トレディチに委嘱し、そうしてできたのがこの曲です。なんというか、ナンセンスな馬鹿馬鹿しさが全編に漂っていて、けど楽しい。フルオーケストラのための曲ですが、フォーク楽器のグループとマイクを使うソプラノ独唱もともなって、マイクというのもハンドマイク(拡声器というあれですよ!)だそうです。思いっきり真面目にナンセンスを演じる、そういう面白さがアメリカで大人気を博したんだそうですよ。

デル・トレディチは、難解な方向に向かう現代音楽の流れからはずれ、分かりやすくロマンティックな音楽に帰ろうじゃないかという運動(ネオ・ロマンティック・ムーブメント)を提唱した人だそうです。その結果生まれてきたのが「アリス」の連作だったのでしょう。確かにしかめ面して聴くよりも、頬に笑みをたたえて聴いたほうが、この曲に関しては正しいといえそうです。

デル・トレディチの音楽は、残念ながら日本では知られておらずCDもほとんど出ていません。私が彼を知ったのはまさにこの『ファイナル・アリス』によってですし、その後文献でお目にかかることはあっても、音楽を聴くという機会はほとんどありませんでした。当然「アリス」の連作についても同様で、調べてみたら子供のアリス — 『夏の日の思い出』も発売されていたようじゃありませんか。残念なことをしました。私、買いそこねていますね。

と、こんなわけで今日ご紹介したアルバムは両方とも絶版しています。けど、機会があれば聴いてください。(少なくとも私の聴いたことのある『ファイナル・アリス』は)親しみやすく楽しい曲ですので、クラシック音楽といえばしかめ面して聴くものだと敬遠する方にこそお勧めしたいのであります。

  • デル・トレディチ,デイヴィッド《ファイナル・アリス~不思議の国のアリスより》バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ),サー・ゲオルク・ショルティ指揮,シカゴ交響楽団 ロンドン,POCL-3380(CD),1980年録音 1993年発売。
  • デル・トレディチ,デイヴィッド《夏の日の思い出》レナード・スラットキン指揮,セントルイス交響楽団 ワーナーミュージック・ジャパン,1996年発売。

2004年10月13日水曜日

Alice

 改作ものはつまらないなんていってた私でありますが、けど原作こそが最上でそれ以外は見るにも堪え難いというような、そういう偏狭さは持っていないつもりです。というわけで本日紹介しますのは、不思議の国のアリスにインスパイアされて作られた映画、ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』です。

この映画はすごいですよ。全体的なストーリーはなんとなく原作通りなのですが、細部であるとか見せ方であるとか雰囲気であるとかエピソードであるとか、もうまったく別物としてみたほうがいいです。よくある「おとぎの国」という雰囲気はまったく払拭されて、なんていったらいいのかなあ、不気味とかグロテスクとかそういう形容がぴったりくる映画に仕上がっています。

不気味、グロテスクなんていったらまるでひどい映画みたいに思われるかも知れませんが、全然そんなことありません。独自の映像の世界が繰り広げられて、めくるめく悪夢みたいな素晴らしい作品ですよ。私は始めてみたのが深夜放送で、その時はあまりにショックでなんといったらいいか分かりませんでした。

この映画の素晴らしさは、ちょっと言葉ではいいあらわしがたいのですが、精神の奥底の無意識に押し込まれたどろどろの感情が、そのまま映像に現れてきたようなそういうビビッドさにあるのです。残酷さとか、怖れとか、あるいは突拍子もない連想とか、そういうものが映画の根底に流れています。まごう事無きシュールレアリスムの世界でありまして、『アンダルシアの犬』とかが好きだという人には堪えられない映画であること請け合いです。そしてキャロリアン(コアなルイス・キャロルファン)はそういうのが好きに決まってますので、アリスファンには安心してお勧めできるというわけなのですね。

でも、忠告しておきますが、子供が見たら多分泣くような映画なので、間違えてお子様にプレゼントなんてことはしないでください。

2004年10月12日火曜日

おとぎのアリス

 アリスを題材にとった絵本はごまんとありますが、残念ながらそのほとんどはお寒いかぎりの代物で、はっきりいいましてアリスの改作もの — 絵本物語問わず — にろくなものがあったためしがありません。アリスの世界は言葉遊びや理屈の遊びに支えられて、それこそが魅力だというのに、改作ものは大抵その魅力の部分をこそげとって、つまらない、愚にも付かないところにとどまってしまっています。ディズニーのアニメも然りです。

けれど『おとぎの“アリス”』はちょっと違います。というのも、これはルイス・キャロル自身が小さな子供向けに書き改めたものだからでして、いうならば正統のアリスの系譜に列なるものです。

とはいうものの、私はこれを買いそこねたんですね。今買うとなれば新書館から出ている『子供部屋のアリス』で、しかもこれも新版として昨年復刊されたところのようで、早速買いにいかなくちゃいけません。けど、私の記憶が確かならば、現在入手できない『おとぎの“アリス”』のほうがオリジナルの『The Nursery “Alice”』に忠実で、それゆえ評価が高かったはずです。

いや、本当にオリジナルに忠実を求めるのなら、オリジナルの洋書を買えよって話なんですけどね(けどそれも絶版ってのはどうしたもんだろう)。

『不思議の国のアリス』といえば思い出されるイラストは、当時人気の挿し絵画家ジョン・テニエルによって描かれたもので、あのちょっと硬質の木版画ですね。『おとぎの“アリス”』ではその絵に彩色が施されていまして、ちゃんと絵本として楽しめるように作られています。

ルイス・キャロルが労働者階級の女の子と知りあって、その子にアリスの本を贈りたいのだが、と友人に相談した逸話が残っています。労働者階級の子供は学力に劣るから絵本版のアリスのほうがいいだろうかという、ちょっと失礼な話ではあるんですが、当時人気のあったアリス物語を、文字の本に慣れた年代の子らだけでなく、もっと小さな子供にも楽しめるようにしたというのは、子供好きだったルイス・キャロルの配慮だったかも知れませんね。

  • ルイス・キャロル『子供部屋のアリス[新版]』ジョン・テニエル絵,高橋康也,高橋迪共訳 東京:新書館,2003年。
  • ルイス・キャロル『おとぎの“アリス” オリジナル版』ジョン・テニエル絵,高山宏訳 (ほるぷクラシック絵本)東京:ほるぷ出版,1986年。
  • ルイス・キャロル『おとぎの“アリス”』ジョン・テニエル絵,高山宏訳 (ほるぷクラシック絵本)東京:ほるぷ出版,1986年。

2004年10月11日月曜日

地下の国のアリス

 昨日は、知られざるアリスの世界を明らかにする注釈付アリス(詳注アリスとも呼ばれる)をご紹介しました。引き続いて本日は、オリジナルの不思議の国のアリスについてお話しようと思います。

オリジナル? 不思議の国のアリスにオリジナルがあるってことは、現在流布するアリスはオリジナルじゃないってことなの? ルイス・キャロルではない誰かの手による改作翻案ものなのか? ってそういうわけではありません。現在流通する『不思議の国のアリス』は、間違いなくルイス・キャロルの手になるものですから、その点ゆめゆめ勘違いなどなされませぬよう。

まず、はじめに事実の確認をしておく必要があります。アリスの物語の主人公であるアリスは実在の人物でした。アリス・プレサンス・リデルといいまして、オックスフォード大学クライストチャーチ学寮長の娘でした。クライストチャーチ学寮に所属していたルイス・キャロル(この人は数学の先生でした)は1856年アリスと出会い、1862年7月4日金色の昼下がり、ボート遊び中にアリスを含む三姉妹にお話をせがまれます。このとき即興で作られたのが『不思議の国のアリス・オリジナル』、というわけです。

オリジナルのアリス物語は『地下の国のアリス / Alice's Adventures Under Ground』といい、その年のクリスマスのプレゼントとしてアリスに贈られています。全編ルイス・キャロルによる手書き、イラストも自身の手になるものでした。

この物語がジョージ・マクドナルドにより見いだされ、増補改訂をともない出版されたのが、皆様ご存じの『不思議の国のアリス』です。『地下の国のアリス』は章も少なく、全体に簡素な印象を受けます(手書きですしね)。また出版にそぐわない私的な記述があったりして(『不思議〜』では穏当なものに差し替えられています)、まさにアリスのためだけの物語であったわけです。

現在ではこの物語もファクシミリで出版されており(最初の出版は1886年)、私たちでも読むことができます。その日本語版(ファクシミリはもちろんオリジナル)が本書です。一度絶版していたのが復刻されて、それだけ手にしたいという人が多いということでもあるのでしょう。アリスの物語が好きという方には、手放しでお勧めしたいくらいの本です。

2004年10月10日日曜日

衛星シミュレータ

人に教えてもらって知ったのですが、コロラド大学の物理学科が公開しているサイトに、地球を回る衛星をシミュレートできるアプレットがあるんです。マウスで小さな星を宇宙空間に放って、地球を回る衛星にするというものなのですが、地球の引力やその周りを回る月の引力がよく再現されていて、星の動きが本当に自然です。

衛星の動きを知ることができるというだけのものですが、これが楽しいんです。いくつも星を放って数十の衛星の輪を作ってみたり、ボイジャーが木星を使ってやったみたいにスイングバイで加速させてみたり、そうしたことが本当に手軽に試せるんですね。すごく面白いですよ。

衛星シミュレートアプレットのURIを削っていくと、他のアプレットを紹介しているページが現れます。磁力とかテレビの仕組みとかドップラー効果とかのシミュレータがあるのですが、面白いのがマイクロウェーブ・オーブン、電子レンジのアプレットですよ。

私はこれで、なぜマイクロウェーブによって水分子が振動するか分かりました。他にも、電子レンジ内にマシュマロを配置して、庫内にどういう風にマイクロウェーブが照射されてるか知ることができる実験アプレットとかもあって、これら全部見せ方とかがうまくて面白いんですね。

こうした実験アプレットを自宅で手軽に利用できる、本当にいい時代になったものだと思います。説明書きが英語なので、理解に骨の折れるところもありますが、それをおいてもお勧めです。

日本の大学では、こういうことやってくれてるところってないんでしょうか。ご存じの方いらっしゃったら、教えてくださいな。

不思議の国のアリス / 鏡の国のアリス

 児童文学の古典で最も広く読まれ最も愛されているのは、おそらく『不思議の国のアリス』です。日本だけではありません。本国イギリスはもちろん、その他各地においても高い人気を誇っています。

アリスの翻訳の多様さ、パロディのバリエーションはすごいですよ。ピチャンチャチャチャラ語なんて知ってますか? アボリジニの言葉なのですが、こうした少数言語にまでアリスは訳されてるんですね。もちろんエスペラント版なんてのは当然のようにありますし、他にもグレッグ式速記版とか、アリスの世界は非常に多様な広がりを見せているのです。

それほどに愛されているアリスですが、その秘密は多少不気味な世界がもつ魅力にあるといってもいいのではないでしょうか。首を刎ねよが口癖の女王や、狂った帽子屋、三月兎などの強烈なキャラクター群。ルイス・キャロルの創造した奇妙な生物ジャバウォッキーというのも印象に残るでしょうか。フラミンゴとハリネズミを使ったクロッケー、小動物と繰り広げる堂々めぐりのレースなどといったシチュエーションの面白さも忘れることはできないでしょう。

しかし、このアリスの世界に山と盛り込まれた謎については意外と知られていないのですね。

アリスの世界に取りつかれた諸氏諸嬢には、マーチン・ガードナー(パズル作家)により注釈が付されたアリス本をお勧めしたい。これらの本には、アリスの世界に含まれた謎を暴かんとする有志によって考察検証された註が盛りだくさんに含まれているのですよ。今までなんとなくよく分からないままにしていたことも、こういう故事、事象、お約束に基づいていたのかと、はっとする解が見つかること請け合いです。むしろ、そこまでルイス・キャロルは考えてなかっただろうというところまでの掘り下げに感嘆します。

件の帽子屋が狂ってるのは、英語に「帽子屋のように気が狂っている(mad as a hatter)」という成句があるからですが、この本によれば、当時帽子屋は本当に気が狂ったのだそうです! 首の延びたアリスはクライストチャーチ学寮(ハリー・ポッターの舞台のモデルでもあるそうですね)の暖炉飾りがモチーフであるとか、チェシャ猫の座っている木は存在しているだとか、鏡の国に出てくるシープ・ショップ(羊のおばあさんの店)も実際にあって、今ではアリス・ショップと名を変えて営業中です、などなど。知らなかったこと、知るとびっくりするようなことを、たくさん見付けられることと思います。

一時期日本ではやった謎本みたいに思われるかも知れませんが、雰囲気はより学術的で真面目で、けどそれがおかしいんですね。こうしたなぞに挑戦している人たちはもちろん立派な大人で、こうした大人を魅了してしまうのがアリスの世界であったのでしょう。世界中で読まれているというのも当然と、そんな気にさせてくれますよ。

絶版でしょうか? だとしたら非常に残念なことです。

  • ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』ジョン・テニエル画,マーチン・ガードナー注,石川澄子訳 東京:東京図書,1980年。
  • ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』ジョン・テニエル画,マーチン・ガードナー注,高山宏訳 東京:東京図書,1980年。
  • ルイス・キャロル『新注不思議の国のアリス』ピーター・ニューエル画,マーティン・ガードナー注,高山宏訳 東京:東京図書,1994年。
  • ルイス・キャロル『新注鏡の国のアリス』ピーター・ニューエル画,マーティン・ガードナー注,高山宏訳 東京:東京図書,1994年。

2004年10月9日土曜日

Webブラウザの選択肢

Microsoft社は自社製OSに自社製ブラウザInternet Explorerを融合させることで、Webブラウザのシェア争いに勝利しましたが、どうやらその状況に動きが出てきているようです。

アンドリーセン曰くSafariやFirefoxといったブラウザがIEの対抗馬として有力されはじめているとのことでして、ああやっとこさ状況がまともになると思えるニュースですね。

IEのバージョンアップが長く滞ってることに不満を感じるユーザーが増え、それが代替ブラウザへの移行を進める原因になっているみたいな記事もありまして、いってることは真当だと思いますが、代替ブラウザという言い方は失礼だよなと思うんですよね。あたかもIEがスタンダードあるといいたいかのようではないですか。本来オープンで環境を選ばないはずのWWWなのに、IEが事実上のスタンダードになったことでIE向けだとか、ひどいところだとIE(とWindowsの組み合わせ)以外は不可だとか、そういった異常な状況が生まれてるんです。ところがここにきて、Firefoxユーザーが増えつつあるとすれば、異常事態が改善されるかも知れないという希望が見えてきます。

今朝の朝日新聞土曜版でも、セキュリティーの甘さがよく問題になるIEに代わるWebブラウザとしてFirefoxが紹介されています。コンピュータの専門誌とかならともかく、一般紙にMozillaプロジェクトが紹介される日が来るとは思いませんでした。

この傾向は実に望ましいことです。できればIEとFirefoxという二大ブラウザだけでなく、Operaやその他のWebブラウザも選ばれる時代になれば、本当によいと思います。

カルドセプト

 キング・オブ・ボードゲームズ

私は、コンピュータゲームで実現されるボードゲームに関して、カルドセプトの右に出るものを知りません。さいころの目に従って環状マップをくるくるまわり、土地を確保し目標額を達成したら勝利。頼るは手持ちのカード五十枚と練りにねられた戦略だけ。見るものをはっとさせるようなアイデアが場の空気を動かし、勝利への意志が結果に直結する、まさに人間力の試されるゲームがカルドセプトです。

(画像はPS2用『カルドセプト・セカンド・エキスパンション』)

コンピュータ相手に戦っていても面白いカルドセプトなのですが、本当に面白いのは対人戦で、特にいろいろな地域から集まってくる人たちと戦ってみると、それぞれの流儀とか癖が見えて面白いんですね。護符を重視する人とか(軽視したら勝てないけど)、安いカードをうまく使う人、トリッキーなものに走っている人。こうした選択はもちろん個人個人で違うわけですが、でもやっぱり普段戦って切磋琢磨しあって、情報も交換しあっている人たちの戦略は似てきます。私はこういうグループを学派と呼んでるんですが、違う学派と戦うというのは本当に面白いです。

ちなみに私も学派を形成してまして、snowdrop学派の特徴は護符の運用に弱いところです。わはは、駄目ですね。

ドリームキャストの『カルドセプト・セカンド』はネット対戦もできて、距離や時間の壁を越えた交流があったと聞きます。残念ながらPS2の『セカンド・エキスパンション』ではネット対戦ができないのですが、それでも年一度くらいに行われていた大会の予選や合宿、研究会でたくさんの人と出会って、知り合いになれたのはよかったです。ゲームで広がる人間の輪というのももちろんあって、それは小さなものではないと思ったものでした。

今は時間もなくてなかなかプレイすることのできないカルドセプトですが(なにしろ、セカンドは発売日に買ってまだカードが揃っていない)、機会があったらまたプレイしたいなと思うんですね。なんというか、いつも心のどこかにしまい込まれている、そういう大事なゲームになっているのだと思います。

2004年10月8日金曜日

学習を捨てる

私の愛用するインプットメソッドはEGBRIDGEなのですが、日本語入力ツールというのは、ある程度学習した時点で学習を止めるのがいいらしいですね。あまり学習をさせすぎると、それ以上覚えなくなるのか、望ましくない変換で固定してしまって、違う変換を学習してくれなくなるみたいなのです。

最近、副詞の「よく」を欲望の欲と変換するようになってしまっていました。他にも、「つかえる」を使えるではなくて仕えるに変換し、いくら「よく」や「使える」と変換しても、学習してくれなかったのです。これは正直ストレスになっていました。

私は元来インプットメソッドの学習には頼らないので、違うメソッド(ことえりやMS IME)を使ったとしても、文字変換をおかしくするということはほとんどありません。なので、今日学習を破棄してみました。すれば、スムーズに学習が反映されるようになってくれて、もっと早くやっておけばよかったと思います。

ふしぎをのせたアリエル号

 後書きによれば、この本はリチャード・ケネディのはじめて書いた本だそうなのです。どのように書けばいいかなんてまったく分からないまま書き出して、その結果がこの素晴らしい一冊なのですから、この人のなかにはどれほど豊かな世界が広がっているというのでしょう。私はこの人に憧れて、児童文学にのめり込んでしまったのでした。私が高校生だった頃の話です。

私は海洋冒険ものが好きです。海底二万海里、ニワトリ号一番のり、他にはなにがあったでしょうか。船という限定された世界は、無限とも思える海原 — 外世界に対峙して、そしてライバルの艦船! 同業者であり海軍であり、けれど極め付けは海賊船でしょう。ひたすら夢、目標を胸に進む船のロマンにはただただしびれます。

冒険小説といえば男の子のものという感覚もあるかもしれません。ですが、アリエル号はそうした男の子とか女の子とかつまんないこと関係なしに楽しめること請け合いです。

主人公のエイミイは人間になった人形の船長キャプテンに迎えられ海に出ます。そこからはもうスリル、サスペンス、ミステリアス。物語中に古典や聖書がちりばめられて、それが大きな謎になっています。数が大きな意味を持って物語に関わるのですが、数字と文字の関係を無理なく日本語に表した訳者には脱帽です。あれよあれよと読み進んで、最後には哀しみも。すべての謎が明らかにされるラストに落ちる哀しみの滴は、胸にじんと広がって豊かです。

航海というのは、人生に似ているのかも知れません。そこには喜びも哀しみも、人生に関わることはすべてあって、人は心を揺らしながらも人生をわたりきろうと帆を張るのでしょう。アリエル号はもしかしたら哀しいエイミイが心の中に生み出した空想なのかも知れないと、今この歳になって思います。けれどひとつの航海を終えてエイミイは、哀しみを越えたのだと思うのです。

2004年10月7日木曜日

まんがサイエンス

  私が子供の頃、学研の科学をとってまして、当時子供に科学の先端知識を伝えるために連載されていた漫画は『チックンタックン』でした。宇宙人の王子チックンとおつきの爺やタックンハットが、地球人少女ミコちゃんを巻き込んでの楽しい科学漫画で私は大好きでした。各学年にそれぞれのチクタクが掲載されていて、描いてる人が違うからそれぞれ絵柄や設定が違ってるんです。タックンの手がメカっぽいのは高学年のチクタク、低学年はシルクハットのリボンが手になっていました。私が好きだったのは低学年のチクタクでした。

余談ですが、後にテレビアニメ化されるんですね。私は見ませんでした。きっと駄目になると思って白眼視して、そしてその直感は正しかったんですね。偶然にほんのわずか見たことがありましたが、失望してテレビを消しました。

さて、学研の学習漫画といえば「ひみつシリーズ」が名作のめじろ押しで、私、これも大好きでした。初期のが特に好きでしたね。『恐竜のひみつ』を最初に買ってもらって、次が『からだのひみつ』でした。一冊を残して、全部手元に残っています(さすがにカバーがないのがほとんどですけどね)。唯一手元にないのは『幽霊宇宙人いる・いないのひみつ』です。これ、当時子供だった私は怖くて、従姉に預けたんです。これにはニューネッシーとかシーサーペントとか、あと日本に現れたという小型UFO、そして念写(ウェストミンスター寺院や月の裏側!)。怖かったというのは幽霊でした。けど残念ですね。幽霊というのが、かのマーガレット・ブラウン。霊媒ピアニストとして知られた夫人で、グレン・グールドがレコード評でぼろくそにけなしてるんです。今からでも手に入るなら欲しい一冊です。

いよいよ本題。今日ご紹介するのは、現在学研『5年の科学』で連載されている科学漫画『まんがサイエンス』です。著者があのあさりよしとお氏で、逆に教育に悪いんじゃないかなんて気もしますが、けれど面白いんだから仕方ありません。科学知識を分かりやすく(時に怪しく)解説する専門家と子供たちの心温まるエピソードが読んで面白く、そしてためになります。

基本的には短編なのですが、ロケットであるとかロボットであるとか、大きなテーマは長編で描かれます。トピックごとに一話にまとめて、けれど連続した物語としてのカタルシスもあって、これは実によくできた、名作であるといっていいと思いますよ。今の子供たちはこういうの読んでるのかと、うらやましくなります。いや、もちろん自分の時代には自分の時代の、それぞれいいものがあったわけです。今も思い出に残る名著があって、そして今『まんがサイエンス』も読むことができる。そういう、自分の子供の時代が今に受け継がれること、そして今現在、世代を超えて同じものを手にすることのできる喜び、それがなにより嬉しいのです。

  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第1巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1991年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第2巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1992年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第3巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1993年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第4巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1994年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第5巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1995年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第6巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,1998年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第7巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,2000年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第8巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,2002年。
  • あさりよしとお『まんがサイエンス』第9巻 (ノーラコミックスDELUXE)東京:学習研究社,2004年。

2004年10月6日水曜日

アクエリアス

 このアルバムに収録されているCartoon Heroesは、コマーシャルにも使われていたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。元気いっぱいの楽しい曲で、聴けばこちらも元気になれそうな気がする。なので私はこの曲が大好きです。

調べてみれば、Aquaというのはデンマークのグループなんだそうですね。ボーカルはリーナ・グローフォード・ニューストロンといいまして、この人の特徴的な声質がグループのカラーを決定づけています。キュートと申しますか、少女っぽいといいますか、声優っぽいともいえますか。妙に訴えかけるものがあるんですよね。

リーナのアニメ声も魅力的でありますが、もう一人のボーカル、レネー・ディフのどことなくユーモラスな歌い方も面白いです。どちらもが双方の持ち味を壊すことなく、お互いにうまくよさをひきだしている、そんな感じがします。

元気だとかアニメ声だとかそういうところばかりに注目しててはいけません。アルバムで聴けば、当然スローな曲もあるわけでして、そうした曲も実に素敵なんです。しっとりと歌い上げて、実に叙情豊か。ああ懐の深い人たちだなと思いましたよ。もう、ほんとに心が持っていかれそうに美しいですから、機会があればぜひ聴いてみてください。

さて、いいのはボーカルだけじゃありませんよ。ダンサブルというのですか(私は踊らないのでよく分かりません)、ビート感がよく利いたポップな曲調も楽しい、聴いていて元気になります。しかめ面とか技巧的なうんぬん関係なしに、キャッチーで美しく楽しい音楽を求めるとこうなりますよという好例であると思うんです。子供向け映画のサウンドトラックを制作してたという話もあるのですが、うなずける話です。きっと子供にも人気だったんじゃないかと思うんですよね。

2004年10月5日火曜日

ベルリン・天使の詩

 今日なにげなく見ていた医療系バラエティ番組で全身性エリテマトーデスが取り上げられていて、ふと昔見たドラマのことを思い出したのでした。それは本当にひどいドラマで、映像は添え物、陳腐な筋。その作家の作るのはいつもそんな屑同然のしろものなのに、なんでか巷では人気があるんですね。

そのドラマに、病のために日光のもとに出られない女性が、最後に(なぜか)死を覚悟して(なぜか)全裸でお日さま燦燦輝く海岸だったかをストリーキングするという感動極まるエピソードがありまして、私はそれを見て吐き気がしました(冗談抜きで、今思い出しても怒りで吐き気がします)。

全身性エリテマトーデスは自己免疫疾患の一種で、罹患した人たちはいったいどんな思いであるか。特定疾患に指定される原因不明の難病であるこの病気は、つまり決定的な治療法が分かっておらず、罹患された方たちは再燃緩解の繰り返すなか不安を感じながらも、そうした感情を殺して病気と共存する生活を余儀なくされています。こういう現実があるというのに、よりにもよってくだらないお涙頂戴の小道具にしやがって。私は当時自己免疫疾患の類いにアンテナを張っていたので、このドラマはどうしたって許せなかった。もちろん今も許していません。

けれど、こういうことを書き連ねても哀しかったり虚しかったりするので、今日はそういう思いを打ち消してくれるような、幸いな気持ちになれる映画を紹介したいと思います。

この映画は、二人組の天使が人間の世界に関わるという、ちょっと不思議な構図を持っているのですが、面白いのはその構図だけではありません。人間とは違って絶対的な存在に近い天使なのに、そのうちの一人が人間の生き方に共感を示してしまうんですね。天使から見れば不完全で弱くて小さくて、貧しかったり病んでたりする人間なのに、そうした生の中で得られる実感を求めてしまうんです。

冷たいものに触る、たばこを吸い、コーヒーを飲む。手がかじかんだらこすりあわせる。

そうした生き方をしたいと思うんですね。

私はこの映画を見たとき、ある意味超越的に描かれている天使というのは、なんだろうかと思ったんです。天使は生きている実感に乏しく、虚しさにたまらなくなることもあるらしい。これは、私たちにしても、同じではないかと思ったのです。

もちろん、私たちが完全性や超越性を手にしようとしているなんて思ってもいません。ですが私たちだって、自分の生を生ききっていないという虚しさにさいなまれることがあります。これは結局、生きることに無頓着であるせいで、この映画で使われる言葉に従えば、瀬に降りていない、ということなのだと思ったのです。

私たちは、いうまでもなく有限の存在です。なのに普段はそれを忘れて、生きているということを浪費して、なのにつまらないとかむなしいとか不平不満ばっかりもらして、いったい何様のつもりであるかと思ったのです。

だから、私は、時にはむなしさを感じることもありますが、それでも生きることに後ろ向きではありたくないと思ったのです。その時その時を、よどみなく生きたいと思ったのです。生の実感に憧れ、そして瀬に降りてそれに触れた天使のダミエルに、自分も続きたいと思ったのです。

そういう意味では、この映画は私の生き方を間違いなく変えたといえるでしょう。それだけのものに出会えることは人生においても希有だと思っています。私は運がよかったのだと思っています。

なのにまた廃盤です

2004年10月4日月曜日

死刑台のエレベーター

 昨日紹介しました地下鉄のザジ、ザジの監督はご存じルイ・マルでありまして、彼の第一作が今日ご紹介する『死刑台のエレベーター』です。

ヌーヴェル・ヴァーグの先駆にして、まさにフィルム・ノワールの真骨頂。完全犯罪は成立するのか。思わぬ偶然のいたずらに翻弄される男女、危機一髪の連続にはらはらさせられるスリルとサスペンスの名作です。この映画によってルイ・マルという名前が人々の知るところとなり、逆にルイ・マルといえばモノクロームの緊張感あふれるこの映像を思い浮かべるほど。ルイ・マルの名をしらずとも、この映画なら知っているという方も少なくないでしょう。

私がこの映画を始めてみたのは高校の時で、ドライでクールな映像、陰鬱な大都会パリに幻惑されました。多分この幻惑には、マイルス・デイビスのジャズも一役買っていたことかと思われます。でもこのときはまだ、音楽がマイルスだって知らなかったんですね。大学に入る直前くらいに偶然知ることとなって、大変驚いたのを覚えています。

モノクロの映画には、多分私の偏見だと思いますが、幸福感とか晴れ晴れとした感じよりも、陰鬱で乾いた印象があって、ほらチャップリンの映画も喜劇で楽しいけれどどことなく哀しさがたたえられているでしょう? 『死刑台のエレベーター』にいたっては空も街並みも重苦しくのしかかってくるようで、花の都パリも、人間性のあらわにされる苦悩と焦燥感の王国です。二組の男女が、一時の花を摘もうと軽率に、破滅的な人生を生き急いで、私はそのさまにしびれました。そんなこんなで、人間の内面を描くにはきっとカラーよりもモノクロームがむいていると思う次第です。

さて、ルイ・マルのモノクロームが『死刑台のエレベーター』なら、カラーはというと『地下鉄のザジ』なんでしょうか。退廃的な悪趣味、悪ふざけに彩られる原色の映像は、一見同じ監督によるものとは思えないほど異質ですが、しかし『死刑台〜』にしてもが退廃のひとつのあらわれなのですから、やっぱりこれらは同根なのだと思うのですよ。

Zut ! また廃盤ですよ。

(こちらは大丈夫)

2004年10月3日日曜日

地下鉄のザジ

 地下鉄のザジといえばレーモン・クノーの一癖も二癖もある小説ですが、今日紹介しようとしているのはルイ・マルによる映画のほうです。どたばたではちゃめちゃで、ええーっ、これがルイ・マルなのかと思う人もいるかも知れません。ストーリーであるとか細かいところに整合性を求めるよりも、勢いに任せて見るほうが楽しめるタイプの映画です。けれど、多分それだけじゃないような気もするんですよね。

この映画を見てすごいと思ったところは、言語感覚の鋭さによって成り立っているクノーの世界を、映像というまったく違う手法によって描ききっているところです。本当に驚きました。けれど、改めて小説を読み直してみたら全然違うんです。筋も見せ場も細部も全然違うんです。なのに映画を見ると、やっぱり地下鉄のザジに見える。これはすごいことだと思います。

この映画の魅力は、パリのいたるところを縦横無尽に走り回るザジの天衣無縫さもそうですが、それ以上に奇妙な大人たちの言動挙動のかみ合わないところであったり、またふとしたところでかっちりとあうところであったり。そうした見せ方の面白さが、この映画の独自性であり人を引きつけるところであったりするのでしょう。

最初にもいいましたが、論理的整合性だとかあるいはハリウッド映画的分かりやすさを求めると、この映画は駄目です。ルイ・マルの作り出した映像の世界に自ら飛び込んで、一緒になってはしゃぐくらいの気持ちが必要なんじゃないかな。フランス的なコメディってそういうところがあるんだろうなと、この映画を見るたびに思うんですね。

申し訳ないですが、2004年10月3日現在、DVDは廃盤商品の模様です

音楽が媒体を離れる日

このBlogで紹介していく音楽、本、映画、ゲームは、基本的にCDやDVD、本なら冊子体という媒体をつうじて提供されるものになるでしょう。ですが私は、当たり前のことですが、最新のものであるとか過去のものであるとか、そういうことがものの善し悪しを判断することはないと思っています。なのでこのBlogで紹介されるもののなかには、絶版、廃盤であるものが少なからず出てくるでしょう。

例えば、紹介しましたタイトルのなかでは、DVD『ANNA』、CD『デュープリズム』、これらは廃盤商品です。

私はデュープリズムのサントラに関する文章で、次のように書きました。

デュープリズムのサントラは残念ながら絶版です。こうした付随音楽は独り立ちしにくいのが問題で、今から手に入れようとすると中古、オークションなどに頼るしかないのでしょう。しかもとんでもない高値が付いているようで、逆にいえば、それだけのことをさせるなにかがこのタイトルにはあるということなのかも知れません。

音楽のダウンロード販売が普通にできるようになれば、こういう過去に押しやられた音楽(音楽は決して過去のものにはならない!)がすくい上げられるのではないかと、そんなことを期待するんですよね。

デュープリズム

そう、私は音楽や映像が、商業的理由で簡単に流通しなくなる媒体という不安定なしばりから離れて、コンテンツそのものを購入できる時代を望んでいます。音楽は一部可能となっていますが、映像は難しいでしょう。音楽も高音質のものは提供されていません。ですがそうしたものを媒体から離れて購入できる時代は、きっとくると思っています。

ゲームにしてもそうです。実は、今も任天堂のディスクゲームは入手可能です。ディスクさえあれば、任天堂はゲームを書き込んでくれるのです。私は随分前になりますが、発売後かなりたったゲームを入手しプレイすることができました。あの時は本当に感動して、もしあのタイトルがROMカセットで発売されていたならば、入手は困難を極めたことでしょう。

本も音楽も映像ももちろんゲームも、媒体を離れて販売することは可能です。私は基本的に媒体ごと買うのが好きなタイプですが、その媒体ごと買うのができなくなったときに、内容だけでも入手できるような体勢を整えて欲しいのです。

販売数が少ないからという商業的な理由で、私が知りたい、見たい、感じたい作品に触れることができなくなるというのは、私という受け手だけの問題にとどまらず、作品に関わった人たちすべてにとって不幸なことです。

私は、自分がそれほどおかしなことをいっているとは思っていません。ごく自然で、普通のことをいっているに過ぎないと思っています。

2004年10月2日土曜日

RSSのlanguage要素

私がいつも参考にしているThe Web KanzakiのRSS解説ページには、次のようなことが書かれています。

米国製blogツールのテンプレートをそのまま使って、日本語コンテンツなのに言語情報をen-USなどとしないよう注意してください。xml宣言のencodingをutf-8にしたままShift_JISのRSSを送り出している例もよく見かけます。

RSS(RDF Site Summary)によるサイト情報の要約と公開

実は、これ、今皆さんが見ているこのBlog[旧お試しBlog]のRSSがはらんでいる問題であったりします。

実際にRSSを開いてみてみると分かるのですが、RSS 2.0ではlanguage要素の値にen-us(アメリカ英語)、RSS 1.0ではen(英語)が入っています。けれど、これ誤りですね。私の文書には、英語も多少は混じっていますが、主要なものは日本語です。つまりjaが正しいです。

この問題は、このBlogツールを利用しはじめたその日に気付いていたので、プロバイダには連絡済みです。今このBlogツールはBeta版なのですが(日々修正が行われ、よくなっていることが分かります)、正式版では直っていて欲しいものだと思います。

デュープリズム

 デュープリズムはデュープリズムでも、今日のはCDです。昨日紹介しましたゲーム『デュープリズム』のサウンドトラックです。(画像はPS one Books デュープリズム)

ゲームのサウンドトラックはいくつか持っていますが、よっぽどいいなと思わないかぎり私は手を出さないんですね。けど、デュープリズムは買ってしまいました。音楽は、ゲームの雰囲気を盛り上げ決定する大きな要素のひとつです。だもんだから、音楽を聴いているだけで、情景を思い出すようなんですね。背を後押しするような元気な曲、胸騒ぎさせる不吉な曲、どの曲も印象に深くて、ゲームから独立して聴いてもなんら遜色ありません。

アルバムは二枚組で、主人公がふたりいるのにあわせて、ルウ・ディスク、ミント・ディスクという名前が付けられています。けれどどちらがいいというものではないんですね。ルウ、ミントふたりあわせて、ひとつの世界が作られてるのだということでしょう(共有する音楽も多いですしね)。

どの曲がいいかといいますと、なにをおいてもデュープリズムのテーマそしてタイトルでしょう。これらの曲のテーマ(主題)は様々に展開して、いろいろな場面で使われています。ひとつのテーマを展開しゲームの全体に張り巡らすことで、イメージを統一することができます。異なる場面、はじめての場所であっても、テーマがそこが別のなにかに関連していると語りうるわけです。ワーグナーのライトモチーフみたいですね。こういう音楽でもって世界観を統一し豊かにするということが、ゲームでも普通に行われるようになっているんです。

そうしたゲームミュージックの中でもデュープリズムの音楽はいち押しですよ。思えばドラクエでゲームミュージックに脚光が当って、それがここまでの広がりを得るにいたったと、私は古い人ですからそんなことも思うんですね。

デュープリズムのサントラは残念ながら絶版です。こうした付随音楽は独り立ちしにくいのが問題で、今から手に入れようとすると中古、オークションなどに頼るしかないのでしょう。しかもとんでもない高値が付いているようで、逆にいえば、それだけのことをさせるなにかがこのタイトルにはあるということなのかも知れません。

音楽のダウンロード販売が普通にできるようになれば、こういう過去に押しやられた音楽(音楽は決して過去のものにはならない!)がすくい上げられるのではないかと、そんなことを期待するんですよね。

2004年10月1日金曜日

デュープリズム

 プレイステーション末期に出たアクション系のRPG。私はこれをプレステゲーム最高峰のひとつであると思っています。ポリゴンで作られた世界を、ポリゴンキャラクターたちが元気に走っている。キャラクターひとりひとりが丁寧に作られていて、ゲームを終える頃には皆が愛おしくなっている。

派手なゲームではないのですが私は好きです。人形芝居ならぬポリゴン芝居の、ひとつのかたちであると思います。

操作できるキャラクターは二人。ひとつの物語をふたつの視点からたどるのがこのゲームの楽しみ方で、それぞれのキャラクターの持ち味が違うため、同じことを二度するという感覚は少なく、むしろゲーム自体のボリュームは大きくないので、この小さな世界を楽しむため、何度でも繰り返しプレイしたいと思うくらいです。

シリアス色の強いルウの物語、コミカルなミントの物語。どちらが好きかはそれこそ人それぞれですが、最後にはどちらもいい話です。いい話を王道で進むか、そっぽむいてみせてけど実はいい話というか、いや、どちらも涙を絞りますから。

1999年末、プレステ2発売を目前に出たゲームで、あまり話題にならなかったのが不遇であるといえます。隠れた名作にして佳作。今は廉価版も出ているようなので、秋の夜長にプレイしてみることをお勧めします。