2004年10月28日木曜日

キャメロット・ガーデンの少女

 現代のおとぎ話なんて文脈で語られることの多い映画で、けれど内容が非現実的だとかそういうわけではないんです。高級住宅地に住む少女とはみ出し者の青年の交流を描くという、一種のボーイ・ミーツ・ガールストーリー(ガール・ミーツ・ボーイというべきかな?)。けれど恋愛ものみたいのを期待しては駄目です。きれいな映像やファンタスティックな色合いがこの物語のあたりを和らげていますが、ラストにいたるその時まで心の中になんか重苦しい違和感ややるせなさがだんだん堆積していくようで、本質的には悲しい映画なのです。

少女と青年が心を通わせたのも、どちらもが自分を取り巻くコミュニティから排斥されているものであるからに他なりませんで、少女は青年に自分も持つ鬱屈とそれを解消できる自由さを感じ、それゆえ彼に親しみを感じたのでしょう。流れ者の青年はそもそもその存在からが異質でありますし、少女もまた自分と(主に両親を中心とする)この街とのあいだに横たわる相いれなさを感じているわけです。

これがまさにこの物語のテーマでありますが、こうして文章にするとすごく陳腐に見えますね。実際映画での描き方も陳腐さを残していて、でもこれはあえてそのようにしていると考えるべきでしょう。ありきたりのプロットが緻密に丁寧に構築されたことによって、終幕の劇的転換が極まります。冒頭から徹頭徹尾語られてきた異質なる自己への偏愛は、ようやく出会えた自分自身の影を疎外し排斥してしまう悲劇のラストシーンにおいて、自らを縛る現実を強烈に転倒させ変質させる動力として機能するのです。

って、いつもそうなんですが、私の書く文章って意味がよく分かりませんね。あらすじを書いちゃいかんと思ってるからなおさらそうなるんですが、なにしろこの映画(だけじゃありませんが)、ラストの展開をいってしまうと、これからみるという人にとって台無しになってしまうという、それくらいの衝撃性を持っています。

閑話休題。この映画のありきたりなプロットとラストシーンの唐突さは、きわめて密接に関係しています。普段は異なる文脈で語られるため決して出会うことのない物語の方法が、少女を介在としてクロスするのです。異質な物語要素が出会ういうその前提は、物語 — 特にその背景 — を平板と感じられるまでに単純化することよって成立しているのです。

もし物語がありきたりを脱しようとしていたら、あるいは表面的な技巧に走ろうとしていれば、最後の突破は得られなかったでしょう。つまりこの映画は、すべてあのラストシーンのために用意されたものであるといってよいくらいのもの。一旦は物別れに終わると思われた、夢と現実が交錯する必見のラストシーンであると思います。

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