2004年10月26日火曜日

二重言語国家・日本

 タイポグラフィに興味を持ったのがコンピュータのためだとしたら、書字に興味を持ったのはいったいどうしてだったのでしょうか。それは実は読んだ本のためでして、それがこの『二重言語国家・日本』です。

『二重言語国家・日本』とは興味をそそられるタイトルですね。私はまさにこのタイトルに魅かれて手に取って、その内容のあまりの腑に落ちなさに怖れをなして、理解のためには自分も書字をしてみなければならないと思ったのでした。この本の著者は書家石川九楊でありまして、日本語及び日本語に支えられる日本の思考文化もろもろは、漢語と和語の混在する二重言語に強く影響をされているというのが主張です。そして、音に重きを置く欧語に対し日本語は書字の世界である云々。日本語の根幹はあくまで書字であり、ワープロ文化のなんと軟弱なことよ、みたいなことが書かれているわけです。

はじめてこの本を読んだとき、本気でいってるのかこの人と、正直いけないものを見たような気持ちになりました。理論理屈で書かれているように装ってはいますが、この本のベースは著者の身体観に基づくまさに体験的知の世界でありまして、いくら理屈で考えても飲み込めるわけがないのです。実際に書字をして始めて見える世界があるんだよといわれてるようで、それは脳という身体の一部器官のみに偏った世界観ではなくて、まさに全身で捉え考える、身体の知の世界であるように思われたのでした。

それが分からないというのは悔しい!

私の書字への入り口は、こうした負けん気というか、理解しがたい世界をかいま見たい欲求というか、そういうひねくれたものであったのでした。

この本が1999年のものということは、私が書字をしはじめてもう五年が経ったわけです。で、少しは分かったのかといわれれば、少しは分かった気がするんです。いやもちろん石川九楊に頭から賛成するわけではないのですが、それでもいっていることのベースみたいなのがちょっと理解できるかなと思われるんですね。

少なくとも、書字をはじめてから日本語タイポグラフィへの興味が減じたのは事実です。書字において表現される多様な世界に比べれば、合理性こそ感じられどそれ以上には思えない日本文字のタイプフェイス。こんなこといってると日本語タイプフェイスに関わる人に怒られそうですが、明朝などにはうろこが書字の痕跡をとどめ、またブラッシュスクリプト(手書き書体)である楷行書フォントの類いが多く用いられるという事実、そして看板などには書字がそのまま用いられることも珍しくない。そういうところには、日本人の書字への傾倒が現れているななどと思うのです。

だいぶ石川九楊に毒されてるなと、自分でも思ってるんですよ。

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