2005年2月28日月曜日

名前のない鳥

  山崎まさよしのライブアルバム『ONE KNIGHT STANDS』に歌われるこの歌を聴いたとき、あまりに悲しい情景が風にばたばたと煽られて切なくて、なんだか泣きそうになったのです。擦れっ枯らしに生きればいいのを、純粋さというやつがこの世のどこかに残っているかも知れないと探してさまようようで、今もやっぱり、聴くたび胸のどこかにぽかりとあいた穴から、ひゅうひゅうと風が吹きつけてくるようで、私たちに安住の地はないんじゃないだろうかと悲しく思い、けれど心の奥に一本強い梁のようなものを抱いているようにも思えてくる。そいつを支えに、私たちは探し物を続けなければならんのだなと、そんな予感がしてくるのです。

この歌はやっぱり山崎まさよしの独特の歌い口が、砂が風に舞うような空しさを強く感じさせて最高なのですが、他に、元ちとせの歌うバージョンも心の底から振り絞られるような強さがあって素晴らしいと思っています。

元ちとせは『ワダツミの木』で広く知られるようになって、けれどインディーズ時代にリリースされたアルバムに『名前のない鳥』が入っていて、私はこれを、以前勤めていた職場の同僚に聴かせてもらったのでした。

はじめ出会った頃、その人は私を、クラシックとかを堅苦しく聴くような人間であると思ったのだそうです。ですが、そう思った直後に、山崎まさよしのアルバムを聴く私を目の当たりにして、意外であったといいます。そんな風にして、私が山崎まさよしを聴くと知っていたこともあって、元ちとせを教えてくれたのでしょう。

ちょうどその頃、私はちょっとひどく落ち込んでいて、なにもかもいやになってふさいでいて、見てられなかったんでしょう。その人が、このアルバムを、いいから持っていけと呉れたんです。嬉しかったですよ。アルバムを貰ったということが嬉しいんじゃなくて、気にかけてくれているということが嬉しかった。だから、私は今でもその人のこと、感謝しています。

落ち込んだ私に、元ちとせはすごく力を与えてくれたと思います。口の悪い、もうひとりの同僚は、元ちとせはよくないよくないといいますが、私にはすごく伝わってくるものがあって、特に、やっぱりこの『名前のない鳥』が大きかった。内向きにこもった私に、この歌の情景はすごく近くに感じられて、なによりその温度があっていたのですね。私は数ヶ月ふさいで、結局どこかに空白を残しながらも戻ってきたのですが、あの時、この歌は私にとっての大切な助けであったと思います。

元ちとせ

山崎まさよし

2005年2月27日日曜日

しろがねの白鳥

 ルネサンス期イギリスを代表する作曲家のひとり、オーランド・ギボンズ作曲のマドリガル『しろがねの白鳥』は、その美しさ、愛らしさによってよく知られる曲ですが、その主題の痛ましさ、そして死の悲痛を表現するために用いられた増三の不協和音 — この表現のあまりに効果的なことからも、よく取り上げられる名曲です。

マドリガルというのは、イタリアに発祥した世俗歌曲マドリガーレがイギリスに流入し、独自の発展を遂げたものです。恋愛や牧歌的な暮らしが主なテーマでした。しかしマドリガルは徐々に洗練されて、後期ルネサンスにいたっては、その内容を充分に深化させていたのでした。『しろがねの白鳥』は、成熟したイギリス・マドリガルの精髄ともいってよい位置を占める曲のひとつです。

この五声部のマドリガルは、白鳥に関する伝説を歌っています。

命のあるうちは決して鳴くことのない白鳥は、その死の際にはじめての歌を歌い、そして二度と歌うことはない &mdash

このシンプルにして美しいテーマを、透明で豊かな和声にて描き、そして最期、白鳥のに呼びかける、そのdeathという言葉に不協和の響きをもって、痛ましさを端的に、しかしありありと表現するのです。

本来は — この時代においては特に — 、禁忌であった増三和音を効果的に用いることで、死の悲痛がかたちをなして胸に迫るようです。それまでのハーモニーが清浄に神秘性を讚えたものであっただけに、その出現は聴くものをどきりとさせるに充分であり、その異質さが逆にこの曲の美しさの核として際立って輝いています。

あまりにこの曲が美しかったので、私はゴシックやルネサンスの音楽に釘付けとされたのでした。シンプルにして果てない美しさを湛えた曲の数々に、魂ごとつかみとられるような思いがあったのです。

私のおすすめはヒリアード・アンサンブルの歌うもので、以下のリンクの最上部 "English and Italian Renaissance Madrigals" というのがそれです。昔はばらばらに出てたのが二枚組にまとめられて、それでこの安さ。いい時代になったなあと思います。

他のものも、試聴したかぎりではなかなかよくて、この際にいろんなバージョンをそろえるのもいいかもなと思います。けど、輸入盤の最後にあげたのは、ちょっと肉感がたっぷりめで、私にはうえっとする感じがある。じゃあ紹介すんなよって感じですが、こういうリッチな感じの歌い方が好きな人もいるかと思いまして。

しかし、Amazon.jpは検索が駄目ですね。『しろがねの白鳥』を探して、全然引っかからないんです。"Silver Swan" でも駄目、"Silver Swanne" ならなおさら駄目。取り扱ってないのかと思ったら、ちゃんとあるんですよね。

なので、とりあえず目ぼしいものを取り上げてみました。本国アマゾン(amazon.com)は試聴が充実していますので、なかなかおすすめです。いろいろ楽しんでみてください。

輸入盤

国内盤

2005年2月26日土曜日

白鳥の湖

 『白鳥の湖』に関しては、紹介するべきかどうか、結構悩みました。あまりにも有名なタイトル、あまりにも有名な旋律。あえて自分が紹介する必要もないよなあ、とか思ったんですが、やっぱり紹介するのでした。

『白鳥の湖』は確かに有名な曲ではありますが、けれど知られているのは部分に過ぎないと思ったんですね。情景でのオーボエの旋律は確かに超有名で、じゃあその旋律をのければどうなんだろう &mdash いや、「四羽の白鳥の踊り」とかも申し分なく有名だよなあ。

本当はバレエで見るのが一番よいと思うんですが、私はこれをバレエで見たことがないんですね。人気のある曲だからオケはもちろん、吹奏楽編曲なんかもいろいろあって、プロ、アマ問わずたくさん聴いてはいますが、バレエはない。これはもうまったく画竜点睛を欠いているといわざるを得ないでしょう。

けれど、この曲は音楽だけで聴いても充分に魅力的なんですね。私のイメージではこの曲は非常に暗い、夜の湖に真っ白な白鳥が一羽空を見上げるような厳しい寂しさ。その厳しさというのは、切なさの突き刺さるような旋律、そして悲劇的な終止からイメージされたのだと思います。

そういえば、『白鳥の湖』のラストには悲劇的なものとハッピーなのの二種類があったはず。どっちが一般的なんだろう。いやあ、駄目ですね。こんな基本的なところでつまずいてるようじゃ。

私は常に全曲版、原典版を志向する人間で、これほど美しい部分があるなら、きっと総体はもっと素晴らしいはず、と思うんですね。全部聴きたい、余すところなく聴きたいという欲張りなんです。

だけど私がクラシックのCDを買いはじめた頃はまだ高くて、全曲版を買おうとすれば五六千円は軽く飛んでいく。まだ聴き始めだったこともあって、いろいろな種類を聴きたいという要求もあったことから、全曲版、数枚組のアルバムは自然後回しになっていったのでありました。

けれど、今やCDは随分安くなって、二枚組でも千円台というのも珍しくなくなって、けれどこの頃には私の趣味が変わっていて、マイナーどころを探すようになっていたんですね。だから、全曲版の『白鳥の湖』は持っていません。持っているのは一般に組曲と呼ばれる抜粋だけ。けれどこれでも、充分にチャイコフスキーの音楽の魅力は伝わってきます。

趣味が変わってしまって、ロマン派の音楽にはあまり興味を持てなかった私ですが、聴いて見ればこれらは大変美しいんですね。豊かなオーケストラの響き、美しいメロディ、そして物語性。今なら躊躇なく全曲版を手にすると思います。

『白鳥の湖』の録音では、アンセルメが定評があるんですよね。カスタマーレビューでは省略ありと書かれていて、けどちょっとくらいなら気にしないかなあと思います。ちなみに輸入盤に目を向ければ、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』とのカップリング盤が見つかります。ちなみに国内盤はプロコフィエフの『シンデレラ』とのカップリング。迷うねえ。迷うわあ。

私が持ってるのはカラヤン、ベルリンの盤。これはすごく絢爛で、ものすごく美しい。絶品ですよ。

他にもあったはずなんだけど、よう見つけられんかった。すんません。

2005年2月25日金曜日

白鳥

 私がはじめて買ったクラシックのCDは、ソニーベスト100の『動物の謝肉祭』だったんですよ。レナード・バーンスタイン指揮で、『動物の謝肉祭』の他にはプロコフィエフの『ピーターと狼』とブリテンの『青少年のための管弦楽入門』が収録されています。まさに入門者セットというべき一枚で、なにしろ私はかたちから入りたがるたちですから、実にうってつけでしたよ。

このカップリングは人気があるのか、バーンスタイン&ニューヨークフィル以外にもたくさん出ていて、あんまりたくさん持ってても仕方がない気もしますが、聞き比べてみても面白いかも知れませんね。

『動物の謝肉祭』はいろいろな動物が登場する楽しい小組曲なのです。あの有名な『天国と地獄』のカンカンや自身の『死の舞踏』がパロディにされてたり、そうそう、新年に紹介しましたラモーの『めんどり』も引用されてて、他にも『動物の謝肉祭』なのにピアニストという曲があるなど、いたるところに遊びが見られるんです。

『動物の謝肉祭』に登場する鳥は以下の通り:「おんどりとめんどり」、「森の奥のカッコウ」、「鳥カゴ」、そして最もよく知られている「白鳥」です。「白鳥」はメロディも美しく叙情もたっぷりなので、とにかく大人気。もともとはチェロと二台のピアノの曲なのですが、いろいろな楽器で演奏されていますね。もちろん私も、サクソフォン吹いてたとき、あちこちでやりましたさ。やっぱりうけるんですよ。耳慣れた曲の威力たるやすさまじいものがあると実感しました。

バーンスタインの録音では、ソリストに若手も若手、十代とか二十歳そこそこの演奏家を起用しているのですが、さすがというのは、白鳥を演奏するのが若かりし頃のゲーリー・カー! ゲーリー・カーというのはコントラバスのヴィルティオーゾで、私は一度、彼の弾くコントラバス協奏曲を生で聴いたことがあったのですが、いやあ、すごかったですよ。高い技術レベル、そして音楽性。あの鈍重に感じられるコントラバスが、オーケストラにしっかり対峙して、もう場内はスタンディングオベーションが出るほどの熱狂。あれほどの演奏に出会えるのもまれでしょう。素晴らしかった。

その彼が、コントラバスで白鳥を弾いているのです。はじめて聴いたときは、さすがに私もものを知らず、げげ、コントラバスかよなんて思ったのですが、聴けばそんな偏見吹き飛びますよ。ゲーリー・カーの名前を覚えました。カーがヴィルティオーゾとして活躍していると知ったのは、大学に入ってからだったのですが、それまできっちり覚えていたのですから、いかに印象深かったかということがわかります。

「白鳥」以外でのおすすめは、鳥ならば「カッコウ」。鳥にこだわらなければ「水族館」でしょうか。「水族館」は美しく幻想的な曲で、「白鳥」に負けない人気のある曲です。

ついでに、『ピーターと狼』にも鳥が出てきます。それはなにか? 小鳥とアヒルなんですね。この曲もなかなかよくできて楽しいものなので、おすすめですよ。

余談でした。

2005年2月24日木曜日

The Cuckoo

 『ザ・カッコー』はアイルランドのトラディショナル・バラッドで、なにしろカッコウはその特徴ある声で知られて、詩の題材や音楽の主題によく使われています。以前紹介しましたブリテン島とアイルランドのフォークソング本にもカッコウをタイトルとする曲が三曲収録されています。そのうちの一曲は、今日紹介する『ザ・カッコー』と歌詞の一部を同じくしていまして、もしかしたら途中で枝分かれしたものであるとか、そういう関係のあるものなのかも知れません(いや、本当のところは知りませんよ)。

アルバム『バスケット・オブ・ライト』のノートによると、『ザ・カッコー』はサマーセット地方の民謡であるそうです。

『ザ・カッコー』の歌詞を見ると、カッコウが非常に象徴的に扱われていることがわかります。美しい声でよいニュースを告げるカッコウ。その告げるものは常に真実であり、ですが続くヴァースでは、恋人の嘘に傷つけられた女性の悲しみが歌われます。カッコウが飲むという白い花の露に対比されるのは、枯れた花に流された涙で、これはつまり真実を求めながらも得られない現実の苦に対する恨みの歌なのでしょう。あなたの裏切りがいかに私を傷つけたか、その苦悩を不実な男達に知らせたいという思いが込められています。

うん、実に私好みの主題ではありませんか。

しかし、ジャッキー・マクシーの歌唱というのは、なんと素晴らしいのかと思います。圧倒的な透明感、歌詞のシラブルもそれぞれ際立って、言葉のリズムはメロディの起伏を支えて軽快。英語という言葉のうちにある音楽性は、この粒立ったリズムなのだろうと感じられます。

そして、もちろん伴奏も素晴らしい。二本のギター、ベース、グロッケン、そしてシンプルなドラミング。なすべきことをわかっているというのは、こういうことなんだと思います。誰もがあるべき位置を理解して、すべきことをまっとうして、なのにひとりひとりの個性もはっきりとしている。抜群のバランス感覚が光る、最高のアンサンブルであると思います。

ああ、私もこんな風に音楽をやりたい。もっとギターを練習しよう。カッコウは夏を告げる鳥です。来る夏を遠くに見ながら、練習を続けましょう。

2005年2月23日水曜日

Bye Bye Blackbird

 知らない人にとってはクラシックの敷居の高さは並大抵ではないのだと思います。聴く前には時代背景やら作曲家、演奏者についてなど、なんだかいろいろ勉強しなきゃいけないような感じだし、それにうかつなことをいえば袋だたきにされそうな気がする。

なんでこんなこというかといいますと、実は私にとってジャズがそうなんですね。私は昔サックスを吹いていたものだから当然(なのか?)ジャズも聴くんですが、けどジャズについてはどうも口ごもってしまいます。うかつなことをいうと袋だたきにされそうな気がする。いや、そんなことないっていうのはわかってるんですよ。けど、なんだかそんな気がしてしまうんです。被害妄想ですかね。

けれど、私がいつもクラシックについて、なにも知らずとも曲を聴いて、それが好きだ、よいと思うんだったらそれでいいというように、ジャズもそれでいいのだと思うんです。聴けばビートは心地よいし、流れるように沸いてくるフレーズもすごくビビッド。乗りのよい曲では心から嬉しくなってくるし、メロウな曲はすごく素敵でうっとりする。ああ、もっと真面目に勉強(おお、この考え方は間違っているぞ)すればよかったな。オムニブック(教則本)とかも買ったんですけどね。とか思うんです。

マイルス・デイヴィスは、ジャズトランペットの第一人者で、ハードバップ、クール・ジャズというジャンルを切り開いたひとりとしても知られています。この人の演奏は、聴いていただければもう瞭然ですが、すごくおしゃれで洗練されているんですよ。熱い演奏ですよ。けれど、じかにその熱さを表に出してくるんじゃない。少し遠くに熱さを置いて、その最も美しく輝くところを見せるような粋があります。

彼らのジャズの特徴は、少人数でのコンボ・スタイルであるのですが、そのせいか、音楽がすごく身近にせまって感じられるのです。もう、肌に直接触れるような生々しさがあって、けれどべたつく感じなんてまったくない。仲のよい友人とあってるみたいな親しみが感じられるから、私にはとても嬉しくなってくるんです。

『バイ・バイ・ブラックバード』は、メロウなジャズであると思います。スロウテンポでそれがすごく気持ちよく、そしてセンチメンタル。聴いていれば芯から落ち着いた気分になれる、それが人気の理由でもあるのかも知れません。

マイルス・デイヴィスは、『バイ・バイ・ブラックバード』を複数録音しています。この時代のジャズは、今かなり安く手に入りますので、いろいろ聴き比べてみるのもきっと楽しいかと思います。コルトレーンを始め、様々なミュージシャンが取り上げるジャズ・スタンダードの名演でもあるので、そういうのを聴いてみるのもすごく楽しいんですよね。

ジャズ好きの友達とか、ひとり欲しいなあ。

2005年2月22日火曜日

ペンゴ

 ペンギンが出て来るゲームといえば、コナミの『けっきょく南極大冒険』、ハドソンの『バイナリーランド』を思い出す人も多いでしょう。けれど、私にとってのペンギンゲームとは、セガの『ペンゴ』なのであります。

『ペンゴ』は、迷路を造る氷のブロックを利用して、敵をやっつけるというシンプルなゲームではありますが、私の子供の頃にはこれが画期的だったんですよ。だって、喫茶店にインベーダーゲームを内蔵したテーブルが残っていた時代だったんですよ。考えても見てください。無機質な砲台でかくかくしたインベーダーを追っ払うのと可愛いペンギンを操るなら、どっちがいいですか? そりゃもう、ペンギンのほうが楽しいに決まってるじゃないですか!

とか熱く語りながらも、私がペンゴを遊んだことっていうのは、ほんの数えるほどしかなかったんですよね。当時はゲームというのは非常に金のかかる遊びでして、もちろん今でも金はかかりますが、物価とかそういうのを考えたら、きっと昔のほうがずっと高価でしょう。そいでもって、まだ貧乏があちこちに残っていた時代だから、ゲームをしようとなると、本も買えない、漫画も買えない、プラモデルなんて絶対買えない。節約しようにも、そもそも買い食いなんてしない、買ってる漫画はドラえもんだけ、じゃあいったいどこを削ろうっていうんだー!

ゲームというのは、本当に高価な、大人の遊びだった時代があったのです。

こんな時代でしたから、ファミコンというのはまさに福音といってもいい機械でした。一度ソフトを買えば、あとはずっと遊べるんですよ。1プレイ百円なんてことはないんです。親からしたらファミコンなんてのは金のかかる遊びではあったでしょうし、いろいろ問題視する声も多かったのですが、けれどゲームセンターに子供が入り浸ることを考えれば、きっとファミコンのほうがいいという考えもあったのではないかと思います。

けれど、ファミコンも万能じゃないんですよ。ファミコンを出していたのは任天堂です。その頃セガはまだばりばりのハードメーカーで、自社でゲーム機を出していました。つまり、ファミコンにはセガのゲームは供給されなかったんですね、基本的に(基本的にというのは、ファンタジーゾーンとか、一部は出たんですよね。サンソフトからでしたが、確かに出たんですよ)。なので、『ペンゴ』はファミコンでは遊べなかったのでした。

けど、なんで子供の頃の私は『ペンゴ』を知ってたんでしょうね。多分、ファミコンが出る前のゲームウォッチの時代に、『ペンゴ』が出てたんだと思うんです。出てたといっても、ちょっと大きめの、携帯向けじゃないやつだったような記憶があるんですが、あんまりにおぼろげなので、さすがによく思い出せません。なんか赤っぽい画面だったような気もするんですね。

あとは、学研の科学とかに『ペンゴ』がのってたのかなあ。いや、さすがに学習雑誌にはのらんか。じゃあ、あれだ、友達んちで読んだ『ゲームセンターあらし』かも知れない。でも、やっぱりあんまり自信がない。

とにかくこんな風に、当時ゲームにテレビに邁進していたわけではない私は、細かい情報を少しずつ集めながら、『ペンゴ』というゲームへの憧れを膨らませていったのでした。

ゲームコーナーで、一度だけ『ペンゴ』をプレイしたことがあります。忘れもしない吉祥院ボウル。なんでその時吉祥院ボウルにいったのかは思い出せないのですが(アイススケートかな? 吉祥院ってスケートリンクありましたっけ?)、吉祥院ボウルのゲームコーナーに『ペンゴ』があったのですね。

ゲームセンターなんかにいくと、クレジットなんて入ってないのに、レバーだけがちゃがちゃいわせてゲームしてるつもりになってる子供っていますよね。ちょうどそんな感じだったと思うのですが、『ペンゴ』の筐体に近づいてボタンを押してみたら、ゲームがスタートしたのです。1クレジットで三回できるような設定だったのだと思います。けれど一回のプレイだけで放置されていたのでしょう。

こんな風にして、私は念願の、本物の『ペンゴ』をプレイすることができたのでした(しかも二回も!)。

最初に紹介しました三大ペンギンゲームは、今やすべて携帯電話で遊べるようになっています。携帯電話を持っていない私には、携帯電話でゲームをするという感覚がいまいちつかめずにいるのですが、ですがもし私が携帯電話を持ったら、『ペンゴ』をダウンロードするのではないかと思います。

子供の頃に手の届かなかったものを、もう一度やりなおすみたいにして、ダウンロードするのではないかと思います。

2005年2月21日月曜日

ながいながいペンギンの話

  子供の頃に買ってもらった、いぬいとみこの『北極のムーシカミーシカ』は本当にお気に入りで、同じ作者のものをとせがんで買ってもらったのが、この『ながいながいペンギンの話』でした。私が子供の頃の岩波少年文庫は、カバーもない本当にシンプルな装幀で、白いカバーのかけられたフォア文庫とは随分違って見えました。けれど内容にかわりがあるわけでなく、逆に地味なその雰囲気が魅力的に思えて、すぐに私のお気に入りになったことを覚えています。

ペンギンの兄弟、ルルとキキが迷子になり、いろいろな危険を乗り越えながら親元に戻るまでの、本当にシンプルな物語なのですが、この単純さが、ペンギンの兄弟の体験して思ったことを、ストレートに子供の胸に伝えるんです。

ペンギンの兄弟は、ずっと二人だけだったわけじゃなくて、クジラの友達ができたり、また恐ろしいと聞かされていた人間のセイさんと出会った。そうした出会いがあって、また別れがあって、その別れの風景は子供心にも切なくて、涙が出たんですね。

そして、最後の南極の冬のシーンなどは、その寒さを自分自身も感じるようでした。白いゆきあらし、まっ白いはらっぱに立つペンギンたちの姿が、目を閉じればありありと浮かんでくるようで、この頃読んだ本はどれも私の心に大きな世界を描いて、今も大切な思い出としてしまわれています。

南極越冬隊から帰ってきた人がペンギンを連れ帰ってきたというニュースを見たことがあります。その時私が思ったのは、この物語に描かれたようなことは現実にあるんだということ。それまで遠くの南極の、それも物語の中の南極の出来事としておぼろげだったルルやキキが、まざまざとかたちをとって、あの冒険が本当の出来事 — それも自分も一緒に体験したことのように思えて、胸中に思いがあふれました。

ですが、こんなにも好きだった話だったのに、去るものは日々に疎しで、すっかり忘れてしまっていたんですね。ですが今日、ふとしたことで思い出して、それまで忘れていたことが嘘みたいに、ルルとキキの世界が胸に広がったんです。

子供の頃にふれたものというのは、忘れたつもりでいても、そんなことはないのだと思いました。大切に思ったものは、ずっと心の中にあるのだと、実感したのでした。

鳥のカップリング

nonoteにて、文鳥の同性カップルの話題が出ています。桜文鳥が白文鳥に片思いするもかなわず、つれなくあしらわれているのだそうで、健気に追いすがる姿がいじらしいとのこと。鳥って同性カップルを作ることがあるっていいますが、文鳥もそうなんですね。

とか思っていたら、ドイツではペンギンの同性カップルが誕生、なのだそうです。それも、三組も! あまりにタイムリーな話題だったので、思わず笑ってしまいました。

ちょいと引用してみましょう。

ペンギンはフンボルトペンギン。14羽のうち5組のペアができた。卵を産まない組があったので、DNA鑑定で性別を調べたら、3組が雄同士だった。[中略]新たに雌4羽を増やしたが、3組の雄同士は離れようとせず、雌とも接触しない。「雄・雌」ペアと同じように巣穴をつくり、侵入者を威嚇。互いにおじぎや首ふりなどのしぐさを見せ、交尾もしようとするという。

なのだそうですよ。雌雄のバランスが悪いから同性カップルが生まれたんじゃないかと考えて雌を増やしたけれど、バランス云々が問題なんじゃなくて、彼らの性向がそうだったということみたいですね。

この話題に談話を寄せている米国の生物学者ブルース・ベージミルさんの専門というのも、ちょっと驚きです。なんと、動物の同性愛などについて研究されてるんだそうで、学問の主題が多岐にわたることは重々承知しているつもりではありましたが、それにしてもいろんな研究があるんだなあと思いましたよ。

さて、ブルースさん曰くペンギンの同性ペアも不思議ではない。同性ペアの鳥が繁殖時に一時的にペアを離れ、元通りになった事例もある、さらには動物の世界も『同性愛』が自然な感情と考えられるのではないかとのこと。ここで重要なのは、動物の世界というところではないかと思うんですね。

といいますのも、同性愛は長く変態性欲として退けられてきた歴史がありまして、このごろは大分受け入れられてもきていますが、それでもまだまだ偏見はあるわけです。彼らの性向を変態性欲というのには、その大本に異性愛こそが自然で、同性愛は不自然という考えあってのことかと思います。

ですが、ブルースさんの研究主題が語るように、動物の間でも同性愛が成立している。文鳥やペンギンの事例を見てみても、不自然であったのは、同性愛ではなく同性愛をかたくなに否定しようとする考えのほうであったのではないかと思えてくるんですね。

いや、しかし面白い話題です。久しぶりの明るいニュースで、私もペンギンのカップルを、暖かく見守りたいと思います。ただ、以前男性から言い寄られかけた経験のある私としては、桜文鳥氏の応援はしかねます。気持ちはわからないでもないんですけど、白文鳥氏の気持ちもわかるんですね。いたいほどわかるんですよ。

いやあ、恋愛っていうのはむつかしいもんですね(と、無理矢理しめてみました)。

引用

2005年2月20日日曜日

ブラックバード

 Blackbird fly, Blackbird fly —

ラジオから聴こえてきた女性ボーカルに手をとめること数度。シンプルなギター伴奏に少しハスキーな歌声がすごく心地いいうねりになって、あまりに魅力的だからタイトルを確認したら、Blackbird。そうだ、ビートルズの『ブラックバード』だ。覚えのあるメロディ、時々に口に上る歌詞も印象的な『ブラックバード』。ブラックバードは、アイリッシュ系のフォークソングではよくモチーフにされる鳥で、名前の通り黒い体に、そして美しい声でなく鳥なのだそうです。

歌っているのは、サラ・マクラクラン。『アイ・アム・サム』という映画で使われたため、この映画のサウンドトラックに収録されています。

私は映画は未見なのですが、聞けばビートルズナンバーを要所要所に使った、ビートルズ・トリビュートといっていいような映画みたいですね。そのため、サウンドトラックに収録されるのもビートルズナンバーばかりでして、当然アルバムもトリビュート盤に仕上がっているんですね。

聞き覚えのあるビートルズのナンバーが、様々な個性を持ったアーティストにカバーされたことで、また違う顔を見せて、もはやビートルズとは古典であるということをまざまざ見せつけてくれるのですよ。ロックでありながらただのロックではない彼らの音楽は、ビートルズという起源を離れても、なお充実して豊かな音楽の源泉になっている。これはすごいことだと思いますよ。

彼らが活躍していた時代には、彼らの曲は最新のモードとして世に受け入れられて、いうならば流行曲であったわけですが、しかし数多ある流行曲のなかで、今のビートルズの位置を得るような音楽は多くはないのです。はやりとともにすたるのがたいていで、しかしビートルズの音楽は時代や地理的な距離を越える力を持っていたんですね。思えば、今も残る名曲とされるクラシック音楽についても、こうした道をたどったのでしょう。その時代その時代に生まれ、新たな領域を切り開いたものが次の時代には古典として受け入れられる。こうした体験を生身で体験できた先の世代に、私は少し嫉妬するような気持ちがします。

私にとっては『ブラックバード』があまりに印象深かったのですが、他のカバーも名演ぞろいで、原曲を比較的忠実に再現するようなものもあれば、新たな息吹を感じさせるようなものまで、その広がりはなかなかのものです。

映画を見たことがなくとも、サウンドトラックだけで充分に独り立ちできる力のある、魅力的なアルバムであるとうけがいますよ。

2005年2月19日土曜日

かもめの歌

  杉山先生のフランス語講座で紹介された『ホテル・ノルマンディ』聴きたさにパトリシア・カースのアルバムを買ってみたら、立花先生の講座で紹介されてた『永遠に愛する人へ』も収録されていてベリラッキー! ものすごく情感にあふれた歌い方が魅力で、そりゃアルバムを探してしまったわけです。前述の二曲以外もものすごくよくって、一時期はポータブルCDプレーヤに入れっぱなしにして、聴きまくっていました。それでも、全然飽きない。なんという深さであるかと思いましたよ。

このアルバムには日本版のみのボーナストラックが入っていまして、それというのが本日紹介します『かもめの歌』です。最初は何の気なしに聴いていたのですが、あるときライナーノートを見てみてびっくり。なんと、この歌は中島みゆきの作詞作曲なんですね! しかも、調べてみればパトリシア・カースのために書き下ろされたものであるとのことです。いやあ、まさかフランスの歌手のアルバム、それも日本では一般に知られていない人のアルバムを買って、そこに中島みゆきの歌があるとは思いもよりませんでしたよ。

中島みゆきの作詞作曲といいましても、フランス語での歌詞はちゃんとむこうの人(『永遠に愛する人へ』のJ. Kopf)が書いてまして、それも翻訳というよりは新作といったほうが正しいでしょう。日本語でのタイトルこそは『かもめの歌』ですが、フランス語の歌詞にはかもめはおろか鳥すら出てきません。歌詞が大幅に変えられたためか、聴いてみても、日本語をベースにできた曲とは思えない。もう、最初っからフランス語で発想されたような曲のようで、しかもそれがパトリシアにマッチしているんですよ。

これは、中島みゆきの歌が、言葉を強く志向しながらも言葉に引きずられていないためなのでしょう。音楽が言葉に頼るのではなく、それ自体で独り立ちできるだけの膨らみを持っているのです。だから、歌詞がフランス語になろうと揺らがない。強い言葉があって、音楽は言葉に負けない強さをもって、両者が互いを支えあっている。これが中島みゆきの魅力であると思うのです。

中島みゆきの絶妙の歌詞は心をえぐり、そしてその音楽は心の最奥に深く響き渡って、やっぱり中島みゆきはいいな! と私はパトリシア・カースを聴いて再度確認したのでありました。

Patricia Kaas

中島みゆき

2005年2月18日金曜日

かもめのジョナサン

  高校の頃、図書館にあるのを見付けて読みました。独特の雰囲気がある本です。登場人物はすべてかもめだというのに、人間となんら変わることない存在として書かれていて、すごく啓示的なストーリーが目の前にちらついて、落ち着かなくなったことを覚えています。かもめにとっては日常の技術である飛行をただひたすらに追い求めた果てに、新たな地平を見つけ出すジョナサン。それは完全なる世界にして、永遠の凝縮されるところでした。すなわち『かもめのジョナサン』とは、ひとつの意識が世界を超越する、解脱体験の物語であるといえるでしょう。

この本が書かれた時代を思い起こすとわかりやすいのではないかと思います。1970年、まさにベトナム戦争の真っ直中、理想を見失った若者がアメリカを探してさまよった60年代がここに凝縮しています。意識によって世界を分析しようとする西洋的思考への疑いが渦巻いた時代でもあり、ヒッピーカルチャーが対抗的に用意した答えは、体験的知の世界でした。世界は分別されるものではなく、全にして個であり個にして全である。そうした禅的思想が若者を捉え、いわばそうした神秘的体験への傾きが『かもめのジョナサン』を書かせたのだろうと想像できます。

神秘的体験、— オイゲン・ヘリゲルが著わした『日本の弓術』に描出される弓術の神髄。チャンのジョナサンに語る言葉:自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならぬ……には、ヘリゲルに向けられた阿波師範の言葉が重なります。

彼らの得たものとは、身体や物理的な制約、空間的距離にとらわれることなく、精神が対象に同一となる体験とでもいえばいいのでしょうか。それはまさに無の境地であって、時間も空間も、世界も自分自身も、すべてがひとつの意識として溶け合い、いやそこには意識さえもないのかも知れません。おそらくはグールドが音楽に求めたエクスタシーもこうした体験であり、すべての行為は突き詰められることで、完全なる調和にいたる手段になりえるのだと思わされます。

とまあ、こんなこといいながら、私はこうした考えにまったく心酔しているわけでもなかったりして、いやはや中途半端なのであります。けれど音楽を、特に聴くだけではなく自らの体験として行うときなどには、こうした感覚に近しいものを得ることがあって、結局はそうしたあやふやな体験をしっかりと掴み取りたいという思いが、私を音楽の場に引き戻したのですから、いってること考えてることとは裏腹に、すっかりとりつかれてしまっているのかも知れません。

あらゆる事物が、無我の境地に達する可能性を隠し持っている。私にとってはそれが音楽であり、すなわち私は六本の弦上で、飛ぶことの練習をしているのかと思います。

Audio Books

引用

2005年2月17日木曜日

オトコのいる部屋

 一時期私が、インコ飼いたいインコ飼いたい、それもコンゴウインコが飼いたい、体長は一メートルくらいあって、八十年くらい生きるらしいけど、それでも欲しいんじゃあ、っていってたのは、この漫画が原因です。だってさ、この漫画を見ていると鳥との暮らしも悪くなさそうだと思うんですよね。なにより楽しそうで、私の生活が変わるかもという感じがするじゃありませんか!

といっても、この漫画はこれまでに紹介したたかの鳥漫画とは違って、脚色ばりばりのコメディです。なので現実のコンゴウインコは、漫画に出てくるオトコのようにはいかないでしょう。けれど、実際のインコも楽しいと思ったんですね。だから欲しいと思ったんですね。

私はたかの漫画全般のファンですが、なかでも『オトコのいる部屋』が好きで、これが一番面白く、誰にも薦められる漫画であると思っています。主人公は平凡なOLで、たまたまコンゴウインコを拾ったというだけの女です。できる女でもなければ、ましてや超人的な活躍などあろうはずもない。けれどこんな普通の主人公であるアキがオトコと出会ったことで、どれほど変わるかというその変貌っぷりが面白いんですね。

変貌というけれども、むしろ開き直りといったほうがよいのかな。たかの宗美らしい破天荒ぶりが、現実的の線を越えるか越えないかといったところで発揮されて、それがすごく爽快なんです。いやあ、悩む主人公ですよ。自分のあり方に悩み、行く末に悩み、だからすごく親近感がある。私が職を探して暗かった時期に、アキもリストラの憂き目に遭ってみたりして、いや会社も倒産したんだよな。ともあれ、そういう境遇が二転三転する面白さに、オトコがいるからがんばれるという前向きさも加わって、すごくいい漫画に仕上がっています。ええ、今の暮らしがつまらないんだという人にも、今まさに苦境にあるという人にも、同じくおすすめできるよい漫画であると思います。

さて、冒頭のインコを飼いたいという話が頓挫した理由とはなんだったのかといいますと、第一に、鳥はトイレのしつけができません。これは結構私には大きい理由かも。なにしろ大きな鳥ですから、籠を用意するというのも難しいでしょう。だからといって屋内放し飼いなどしたら、えらいことになりそうです。

第二に、オウム、インコの類いは木をかじるんですね。ギターは木でできているわけでありまして、もし我が愛器が鳥にかじられることにでもなれば、と思うと、ちょっと鳥を導入しようという気にはなれませんでした。

第三に、コンゴウインコは高いんですよ。それこそ雛で十万とかあるいはもっとしますからね。いや、払おうと思えば払えない額じゃないですよ。けれど、導入にそれだけかかって、さらに育てるのにもお金がかかります。私が金持ちだったらよかったんですけどね、なにしろ甲斐性がないですからね。甲斐性なしには鳥を飼うのも簡単ではないのですよ。

とまあ、こんな情けない理由で、コンゴウインコを飼うという夢は夢のまま終わったのでした。今では、不幸な鳥を増やさずに済んで、よかったんだと思っていますよ。いや、負け惜しみじゃないですから。ほんまですよ。

  • たかの宗美『オトコのいる部屋』第1巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2002年。
  • たかの宗美『オトコのいる部屋』第2巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2003年。
  • たかの宗美『オトコのいる部屋』第3巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2004年。
  • たかの宗美『オトコのいる部屋』第4巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2004年。

2005年2月16日水曜日

空にカンパイ!

セキセイインコ、ボタンインコと順調にきて、さてお次はといいますとオカメインコ。オカメインコはオーストラリア原産のインコでして、とさか状の羽とほっぺの丸い柄がチャームポイントです。というか、本当に可愛い。人の言葉を覚えて、よく懐くんだそうですね。すごく人気のある品種で、雛もなかなか手に入らないとか聞きます。

『空にカンパイ!』は、オカメインコの空と暮らす広井さん一家のお話しです。空と相思相愛の夏海さんと空を愛し空からはライバル視される陸さん夫妻、そして空。なんだかほんわかと可愛い三人家族の、事件らしい事件も起こらない穏やかなホームドラマが大好きでした。

なんというか、空の独占欲が可愛かったんですよね。空は夏海さんが好きなので、夫である陸さんに嫉妬しましてね、ひどい仕打ちをするんですが、それでも陸さんが空を好きというのが、なんだか不憫でけどほほ笑ましくってよかったんですね。陸さんって、なんてったらいいんでしょう、あんまり男っぽくない(ちょっと中性的)なんだけど、男の人っぽい鈍感さがありましてね、不思議とリアルな親近感があって、可愛かった、好きだったんですよ。

けど、残念ながら、単行本化されなかったんですね。人気があると思っていたので、単行本化されることなく終了したときには、本当、愕然としました。ええーっ、うそやろー、って思いました。この漫画は四コマ誌に連載されていたのですが、このジャンルにおける単行本の出なさ、消えるときには無情にあっという間に消えるという不人情さを思い知ったのは、まさにあの時でありました。

『空にカンパイ!』、『ブックブックSHOW』、『ようこそ紅茶館!!』、『大人ですよ!』、『えびすさんち』を読めた頃が、私と四コマ漫画の蜜月であったと思います。とまあ、こうしたことを言い続けると愚痴になっちゃうのでここらでやめますが、でも、今あげたタイトルは、どれもよかったのに。なんで終わったんだと思います。終わらないでも、今も続いているものでも、充分面白いのに日の当らないようなものもたくさんあって、中堅の冷遇されること、切なくてやり切れませんわ。

ところで、オカメインコはインコの中ではおとなしい種類だそうですが、ギターとは共存できそうなものでしょうか。かじらないようなら、飼ってみたいななんて思うところもありましてね。いや、嘘。やっぱり充分に世話できないと思うから、駄目だと思います。不幸な鳥を増やすのはいけません。

  • 月原こなん『空にカンパイ!』

2005年2月15日火曜日

紅丸ぼたん

たかの宗美の鳥漫画第二段は、ボタンインコのつがい、紅丸とぼたんのいる暮らしを描いた『紅丸ぼたん』。この漫画を見るかぎり、ボタンインコはしゃべらないみたいですね。けれど盛んに鳴き交わし、謎の行動をするところなんかは、とても可愛いのだそうです。作者いわく、ハムスターに似ているところがあるとか。けど、大きな声でなくことのないハムスターとは違って、ボタンインコの鳴き声はそれはそれは大きいみたいですね。アフリカのジャングルで意思を疎通するには、大きな声が必要だったんでしょう。

たかのさんの鳥漫画は、基本的に脚色なし、絵もリアルというよりは漫画記号的でシンプルなものでして、なのに読みはじめるととまらない面白さがあるんですね。これは多分、作者の鳥に対する好きという気持ちに、ただならないものがあるからだと思います。鳥は鳥の都合で、好き勝手に暮らしているばかりですが、その好き勝手なやつらの行動をうまく拾い上げて、面白いストーリーに作り替えてしまうんですね。けど、作為とかが透けてみることはなく、すごく自然。そうそう、鳥ってそんな感じやんねとうなずくこともあれば、ほー、そうなんなことしよるんやと思うこともあって、共感できたり新鮮だったりで、もうすごく楽しい。多分、私は鳥を自分の目で観察するよりも、鳥好きの他人の目で見るほうがいいのかも知れません。だって、私はたかのさんやこうのさんみたいに、鳥のいろいろを見付けられませんから。

でも、鳥を淡々と観察し続けるという楽しさは、よくわかりますよ。鳥を飼わなくなってずいぶんになりますが、それでも庭に遊びにくるメジロやヒヨドリを見ていて飽きません。蜜柑や林檎を切って餌台にさしておけば、鳥たちが集まってくるんですね。メジロは二羽三羽と連れ立って、ヒヨドリはたいてい一羽で、果物をつついて、その様は見ているだけで本当に楽しい。時間を忘れます。

死なせてしまうのがあまりにつらいから、動物は飼わないといいました。だから野鳥を愛で、漫画に描かれた鳥を楽しむのでありますが、悲しいことに、漫画の鳥であっても、やっぱりその向こうには生きた鳥がいるのでありまして、だから亡くなったということを知ったときは悲しかったです。まるで自分の飼っている鳥を亡くしたみたいな、そんな気持ちさえありました。それまでの漫画が、楽しいところ、可愛いところを切り取った、本当に仕合せなものだったから、その気持ちはなおさらでした。

けれど、悲しくともつらくとも、すべての生き物には死がつきものであることを忘れてはいけない。死があるから、すべての生が価値あるのだと、そのことは忘れたくないなと思いました。ええ、鳥の死であっても、その重さは決して軽んじていいものじゃありません。

  • たかの宗美『紅丸ぼたん』(ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2004年。
  • たかの宗美『紅丸ぼたん』第2巻 (ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2004年。

2005年2月14日月曜日

ぴっぴら帳

  私はしゃべる鳥は飼ったことないんですが、子供の頃、近所に九官鳥飼っているお家があって、天気のいい休みの日には、鳥と遊びにいったりしてました。まあ、子供ですからろくな言葉教えないんですけどね。さすがに得意な言葉はクソババア!!ってことはありませんでしたが、確かに名前はキューちゃんだったような気がします。

と、こんな風に書けば『ぴっぴら帳』は九官鳥の漫画みたいに思えますが、さにあらず、ある日キミちゃんの生活に迷い込んできたセキセイインコのお話です。

作者は『こっこさん』のこうの史代で、『こっこさん』はストーリー漫画でしたが、『ぴっぴら帳』は四コマ漫画です。作者独特のおかしみは四コマにおいても健在で、安定したテンポでネタ振りと落ちが交替する四コマの味わいをしっかり堪能できるんではないかと思います。やっぱりストーリーの形式とはちょっと違った感じがあって、大ゴマもないしページをめくる前の溜めもないしで、より穏やかな感触があります。でも、基本的なところは共通しているから、この二タイトルを手にしてみれば、様式を問わない作者の個性というものがよく見えてくるのではないかと思います。

『ぴっぴら帳』のおかしいのは、インコのぴっぴらさんやジャンボ、カナリアのかな子さんらの仕種もろもろももちろんそうで、いやあ鳥のやることなすことというのはどれほど面白いんでしょうか。けれどこの漫画の面白さはそれだけじゃありません。そうした鳥たちも含めた、登場人物の思い掛けない個性が面白いんですね。

小さくておとなしくて可愛らしいキミ子ちゃんの趣味好み、飲むと出る癖の意外さ、ダイナミックさ。キミちゃんの働くいのうえ食堂のおかみさんの特技、おやじさんの技術(渾身のイチゴショートを見よ!)。

素朴な絵柄にありきたりの中身を期待したりしてると、足下をすくわれるおかしさがあります。まず発想が面白いし、そのアイディアを余すことなく絵に写している、そのこともすごい。もう私は、すっかりファンになってしまいました。そうなんです、ここ数年むやみに嘘臭い広島弁を使いはじめたのは、こうのさんのせいなんです。

しかし、それにしても各扉にあらわれるキミちゃんは可愛いです。飾らない素朴な美しさに、ときには色気も感じさせて、ああこんなお嬢さんが身近にいたら放っときゃしないのになあ。

  • こうの史代『ぴっぴら帳』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2000年。
  • こうの史代『ぴっぴら帳』完結編 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。

引用

2005年2月13日日曜日

文鳥

 夏目漱石も文鳥を飼っていました。うちのと同じ白文鳥だったようです。うちに文鳥がやってきたいきさつは、迷子になっていたのを保護したというものでしたが、漱石の場合は、鈴木三重吉が鳥をお飼いなさいと勧めたのがきっかけでした。そのへんのことは、漱石が書いて残した小文『文鳥』に書かれていて、本当に短い文章ではありますが、鳥のことをよく見て、詳細に書かれた描写が美しいです。漱石も、勧められるままに飼いはじめたみたいな風ではありますが、本当はこの鳥のことを気に入っていたのだと思います。そういう気分が伝わってくるんですね。

(画像は新潮文庫『文鳥・夢十夜』)

明治四十年から四十一年にかけての話ですから、漱石が四十の頃の話です。文鳥を飼って、その姿、声を楽しみにした日々が書かれて、細々世話をしてみたり、いろいろと知らないことがわかったり、また鳥が懐くのを心待ちにするかのような記述も面白く、なにか、その一コマ一コマが目に浮かぶようで、ほほ笑ましくなります。そうなんです。鳥は、その姿を見ているだけで楽しくさせるよさを持っています。美しい姿、美しい声。それに文鳥は、慣れれば手にも乗りますから。ですが、漱石の鳥は手乗りではなかったようです。

ただ、こうした美しいものも、暮らしの中に入ってしまえば、いつしか当たり前のものになってしまって、忘れがちになるんですね。うちの場合も、最後の最期は毛布のかけ忘れという、世話をないがしろにしたのが原因でした。その頃、鳥の世話は母の役目になっていましたが、だからといって私も小さい頃は鳥のことが好きで仕方なかったのですから、世話をしなかったのは私にしても同じ。母を責めませんでした。可哀相なことをしたと言い合いながら、母は母で、私はまた私で、自分の不注意を責めたことであろうと思います。

この小文に見られる漱石の態度というのは、遣る方ない怒りを人に向けることで紛らわせたのではありますが、結局三重吉に宛てた言葉のすべては、自分自身への責めであったのだろうと思うんです。漱石は、自分の不調法なことを悔いたのだと思います。鳥を手に取って、その様を最も悲しんだのは漱石自身であったのだと思います。

2005年2月12日土曜日

それは十姉妹

私は動物の中では鳥が一番好きで、野鳥も好き、愛玩用の鳥も好き、カラスでさえ好き、当然水炊きも好き。子供の頃は、白文鳥を飼っていたんですよ。私が幼稚園から帰ると、母がなんかばたばた騒いでて、鳥を部屋に閉じこめたというから網をもって捕獲したのが最初でした。それがわが家に鳥がやってきたはじめてのことで、ペットショップから雌を飼ってきて、卵から帰ったひなをまた育ててという、小鳥を飼ったことのある人ならわかる、お定まりのコースをたどったのでした。

天気のいい日は、鳥カゴの前で鳥に話しかけたり歌ってあげたり、懐かしい思い出です。

十姉妹は、いとこが飼っていました。十姉妹も可愛いですよね。なんかぴーちくぱーちくしてるばっかりの鳥ですが、鳥カゴの中にいっぱいいるのを見てると、無性に嬉しくなってきます。鳥好きならわかるはず。鳥は見てるだけで楽しいんです。

さて、その鳥の生態を観察して漫画にしたのが『それは十姉妹』。著者が、自分の飼う十姉妹を見たまま淡々と描写したものでして、脚色というものは基本的に存在しません。けれど、こうした鳥っていうのは、それ自体がドラマなので、脚色なんていらんですよね。鳥の、なに考えてるかわからない毎日が、ただただ続くだけの仕合せ。そして、鳥の儚い命もまた深く印象に残って、寿命は仕方ないと思いますが、それでもその日特に寒かったとかそういうことがあれば、可哀相なことをしたという後悔が募る。ええ、私のうちで一番長生きした文鳥というのは、私が幼稚園のころに捕まえたというまさにそいつであったのですが、最期の夜は冬の冷えた夜で、しかも毛布を掛け忘れた。もう充分長生きではあったのですが、可哀相なことをしたという気持ちは長く残りました。

私にはそういう鳥の思い出があるからか、『それは十姉妹』はすごく面白く読めました。しかも、作者の観察も精緻で、よくよく鳥を愛していることがわかる。だから、本当に面白いんですね。私は中途半端な愛し方しかしてなかったんだなあと思いました。

私は、死なせてしまうのがいやなので動物を飼おうとは思わないのですが、基本的には好きなんです。本当は飼いたいけど、動物を不幸にはしたくないから飼わない。だから、飼いたい気持ちをこうした漫画で慰めているのだと思います。

  • たかの宗美『それは十姉妹』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2003年。

2005年2月11日金曜日

鳥のカタログ

   『鳥のカタログ』という曲名の美しさ。鳥を愛したフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンが、採譜し分析した鳥の歌を、ピアノの鍵盤の上に写し取ったのがこの曲集です。それぞれの曲名は、テーマとなった鳥の名前がそのまま用いられていて、十三の曲中に七十七種の鳥の声が収録されています。まさにカタログというにふさわしい充実ではないですか。

鳥の歌をそのまま、あたかもスケッチするようにピアノに写し取ったとはいいますが、けれどこの曲を聴いてすぐさま鳥を思い浮かべられる人というのもいないんじゃないかと思います。というのもですね、鳥の歌はあまりに高い音域で、素早くちちちちと歌われるものだから、人間の楽器であるピアノに表すには困難すぎるのですね。だから音域は下げられて、速度も随分とゆっくりになっています。

じゃあ、これを早回しにするともとどおりになるのかと、実際にこれを実験した人がいらっしゃいましてね、以前偶然インターネット上でその成果を耳にすることがあったのですが、見事に鳥のさえずりに聴こえて感動しました。今回、『鳥のカタログ』を取り上げるにあたって、もう一度探してみたのですが、見付けられませんでした。もしご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。

以前、鳥を飼っている人に、『鳥のカタログ』のCDを差し上げたことがあったのでした:人間には非常にわかりづらく、[中略]ですが名曲です。人にはわからずとも鳥にはわかるらしく、どうぞ鳥たちにきかせてあげてください

確かに、鳥達の反応は上々との返事をいただくことができ、私もちょっと嬉しかった。差し上げてよかったと思いました。

手紙では、人にはわかりにくい曲だみたいに書きましたが、私はそもそもどんな音楽にしても人にわかるものではないと思っていますから、『鳥のカタログ』にしてもおんなじで、だからか、普通の音楽と同じように聴くことができるのです。日頃耳慣れた音楽とは確かに違う種類の曲ですが、ですが、この曲が素晴らしく美しいことは鳥ならずともわかります。

この曲を自然の中で流すと、鳥たちが集まると聞いたことがあります。この曲をもって野山に入れば、鳥たちも集まるのではないか。そんなことを考えては、なんだかわくわくします。

2005年2月10日木曜日

こっこさん

 私の母なんかが子供の頃は、庭に鶏を飼っていて、それはそれはひどく追い掛け回されたんだそうですよ。家の中まで追いかけてきたという話で、そのせいで今でも雄鶏は怖いんだそうです。けれど、私は鶏に関してはそういう記憶はないんですね。小学校や近所の友達のうちに鶏はいたけれど(友達ん家にいたというのもすごいな。さすが昭和だ)、そんなに凶暴じゃなかった。自分の世界に生きているようなやつらばっかりで、子供がそばでなにをしてようと、我関せずといったそぶり。全然あぶないことなんてありませんでした。

だから私は、鶏の真実をいまだ知らぬままなのかも知れません。いや、あえて知ろうとは思わないですが。

こうの史代さんは、以前にもいいましたように、私の好きな作家のひとりで、なにが好きといっても、朴訥とした画風にうら悲しさとほの明るさの同居した穏やかな作風が優しくて、けれども物語ることは静かにしみとおってくるところがいいんですね。けど、むやみに名作風味を加えてるようなのとは一味も二味も違いますよ。面白みがあります、おかしみがあります。細やかな画風、やはらかな時間、暖かく澄みきった空気、そして、しっとりとした愛おしく世界へ向ける眼差しの確かさ—。

この人の漫画は、間違いなく今を舞台に選びながら、けれどどことなく昭和の匂いがします。昭和に生まれ育って、ゆえに平成へはようついていかれへん私には、こうの史代の描く世界はひたすらに心地いい、子供の頃に確かに自分も感じていた空の広さ、風の匂いが感じられる、懐かしい世界なのです。だから、私はこの人の漫画を読むたびに、嬉しいような悲しいような気持ちがまぜこぜになって、なんだか笑みとともに涙がにじんでしまうんです。

『こっこさん』は、鶏のいる生活のどたばたを軸にして展開する漫画ですが、けれどそれだけには留まらずに、人間ひとりのうちには、豊かな世界が広がっているのだということをあらためて気付かせてくれる。普段は見過ごしにしている瞬間瞬間にも、凝縮された永遠があるのだということを教えてくれる。言葉ではなく、漫画の一コマに込められた意識の強さが語るのです。絵が、その向こうに確かにある広がりを、つぶさに伝えるのです。

みずみずしくけれど落ち着いた表現の力。しっとりと、けれど湿っぽくはない。諧謔が湿っぽさを払います。やっぱり指先でそっと触れるような優しさが嬉しくなって、— 私にはもうあんなゆったりとした時間は過ごせない — やっぱりちょっと切なくなるんです。

引用

2005年2月9日水曜日

元気爆発ガンバルガー

 中学高校時分の友人から来た年賀状に、『ライジンオー』のDVD-BOXが出ていて昔を思い出しましたと書いてあって、ああ、そうでした。あの頃はその友人と一緒に、勇者シリーズだとかエルドランのシリーズとかを追っていて、楽しかったなあ。と、昔をしばし思い出したのでした。

友人はDVD-BOXを思わず買おうかと思ったけど買えないみたいなことをいっていまして、私はといいますと、『ライジンオー』系列の二作目『ガンバルガー』のDVDを欲しい。そんな風に答えて、そうなんです、制作者をして平成のカルトアニメといわしめた『ガンバルガー』を、私は欲しくてしょうがないんです。今も迷っている最中なんですよ。

『ガンバルガー』は、私にはすごく面白い番組で、過去から綿々と蓄積されてきたヒーロー系ロボットアニメの語法をうまく取り回しましてね、お約束の中に意外性ある展開を見せようという意欲がひしひし伝わってくるところがよかったんですね。普通、合体だとか必殺技の使い回されるカット — バンクシーンを、その回のためだけにいじるということはありませんが、『ガンバルガー』ではそれがあったんですね。思えば、バンクシーンに変更が加えられる(コスチュームが毎回変わるとかですね)ようになったのはこの頃くらいからだったと思うのですが、私にとってはその変更が非常に効果的に使われたのが『ガンバルガー』だったのです。

合体の阻止もありました。合体できないために、普段は合体後にしか使われない武器を、合体前の小ロボット二体で使ったこともありました。こうした、なかなか他では見られないような工夫が、一年間を飽きさせることなく、気持ちいいテンションを持続させていたのですね。

なのに、あんまし人気がなかったってのはなんでだ?

意外性はストーリーにも見られて、けれど私の期待に応えるかのような展開も用意されていて、まさに私好みの作品であったと思います。そもそも、正体を明かしてはいけないヒーローというのは私の大好物でありますし、どたばたご町内ウォーズというのもポイントが高い。敵であるヤミノリウスIII世のキャラクターもいい味を出してて、記憶を失った彼が亜衣子先生への愛に目覚める後半のシーケンスなどは最高でした。

最終話前後の二転三転も素晴らしかった。そして、最終回をもってきっちり物語にけりをつけた潔さもすがすがしかった。あの一年はあの一年で完結して、たるみのない立派な作品になったと私は思っています。

さて、実はこのアニメは音楽もよくて、しかもサントラにしか収録されてないような歌が非常に面白かったんですよ。主人公三人それぞれのテーマソングというのがありまして、歌詞を入れ替えても歌えるようになっているんですね。まあ、説明するのが難しいのでしませんが、大変面白い試みでした。そして、最後のディスクである『歌は綴るよ!』に収録された『風になるとき』は名曲です。脚本家金巻兼一によって作詞作曲されたこの歌は、ひとつの経験を超えてさらに広いフィールドに旅立っていこうとする少年たちを送るのに、ふさわしい歌であったと思います。歌詞、曲ともによく、もしこのアニメが広く知られていたら、今ごろ卒業式の定番曲になっていたんじゃないかという、それくらいの力のある歌なのに、残念ながら知られていません。

くそう、悔しいなあ。

2005年2月8日火曜日

ガンバルシカナイジャナイ?!

私は、それほど聴いているわけじゃないんですが、大黒摩季が結構好きでありまして、安定した歌唱にまっすぐの歌詞、聴いていて気持ちのいい歌手の筆頭格です。そもそもからして私は女性ボーカルが好きなのですが、それでも別格といえるような人はいます。いや、たくさんいるのであんまり説得力はないんですけどね、けれど大黒摩季はよい歌い手であると思います。

しかし、この『あぁ』に収録されてる歌は面白いですよ。基本的に同じことを歌っているのですが、『あぁ』では前向きに夢に向かおうと、後悔しないように先に進んでみようと呼びかけるようで、ところが『ガンバルシカナイジャナイ?!』ではもっと下世話に、ぐちゃぐちゃ考えてるくらいだったら、やりたいことやったらいいじゃん! っていうんですね。

この、八方破れかぶれな感じはいいですよ。まさに、今の私がこんなんですからね。どっちみち大変ならやりたいことしようって、本当に私はこの歌にうたわれてるようなことを信念にして、無謀な道をまっしぐらです。

私、いつも思うんですけど、無理をできるのって若いうちだけみたいにいうのって、言い訳じゃんかと思うんですね。人並みであることをあきらめるなら、いつだってやりたいことに真っ向取り組めるはずなんじゃないかと思うんですね。いや、もちろん人それぞれに事情がある、どうしても無理なこともあるだろうとは諒解しますが、けれどそれでも、そうした無理を押さないことには、開く扉も開かんのだと思うんです。

私は、昔は小賢く、公務員にでもなって適当に定年まで働いてなんて思っていたのですが、なんでか大学にいこうと決めたときに重大な方針転換があったようでして、やりたいことをやらんでどうするって、そんな気持ちになったんです。きっと成功なんてするはずがないから、辞めるなら早いうちだ。もう何年もそういう声を聴きながら、それでもなんでかあきらめようとしない。いや、一回あきらめたというのにさ、また戻ってきてしまったんだわ。

いやあ、馬鹿です、馬鹿ですが、どうせ一度しかない人生で、ドイツのことわざにいわく一度は数のうちに入らない。人間の一生なんて、そもそもはじめっからないのと一緒なんですよ。じゃあ、そのないものをなくしてしまうんじゃないかと怖れて、びくびく小さくなって生きることこそ馬鹿馬鹿しいじゃんか!

とまあ、こんな感じにやけっぱちです。やけっぱちの私に、このシングルは大変気持良く響くんですね。ええ、やってやるぞ、まけるもんかぁって思いますからね。

2005年2月7日月曜日

ネクストキング

思えばこれが私らの間で流行していたのは、四年ほど前の話になるんですね。ついこの間のことのように思っていましたが、時間が経つのは驚くほど速い、矢の如しですね。

このゲームがリリースされたのは1997年だから、私が手に入れた当時でもすでに入手困難な状況でした。でもまあそれでも持ってるということは、つまりはあの手この手を使ったということでありまして、まあ、私にも狂った季節があったということであります。やっぱりインターネットは頼りになるなあと、オークションやら中古ソフト取り扱いサイトやらを駆使して、けれど今オークションを覗いてみたら、結構出物がありますね。しかも初回版で新品なんてのまで出てて、あぶねー、入札しちゃうところでした。

思ったよりレアじゃないみたいで、ちょっとショックですね。いや、レアだから欲しがったわけじゃないので、別にかまわないんですけどね。

このゲームはどういうゲームかといいますと、ボードゲームタイプのギャルゲーという理解で正しいと思います。ライバルがあって、女の子が十二人出てきて、好かれるためにあの手この手の策を弄する。ただ作者が、あの『俺の屍を越えてゆけ』の桝田省治だから、結構二転三転させられて、ひとりプレイでも面白い。けど、多分一番楽しいのは対人戦だと思います。普段は笑った顔の向こうに隠している攻撃性を、思わず露呈させてしまったりしましてね、そんな人だと思わなかったなんていわれるんですね。いや、そんな人です。江戸の敵を長崎で討つ。目の前に弱ってる敵がいたら、とりあえずそいつも討つ。そんなタイプの人間なんですね。

このゲームのいいところは、女の子のキャラクターが一筋縄ではいかないというか、結構ずるくていいかげんというか、桝田省治の女性観がそのまま出ているところかと思います。とかいっても、彼女らもただのパラメータに過ぎない人たちですから、それなりの対処でもって遇していたらそれなりに好いてくれる、— 現実の女性たちほど剣呑ではない — のですが、それでもいわゆるギャルゲーに出て来るような自動的な感じはなかった。人の悪さはその人の魅力であると常々思っている私ですが、そうした人の悪さが感じられるところは、さすが桝田製であります。

いや、あれは桝田省治の人の悪さかも知れんとも思います。

このゲームの雰囲気は、主題歌にうまく表されていて、こういうところもやっぱり桝田省治のうまさです。女の子がね、私をものにしたかったらせいぜいがんばってね、ってそそのかして、貢がせて、男の尻を叩いて、って歌なんですね。いや、違うわ。聴き直してみたら、そんな歌詞、みじんもなかった。けど、そんな風に思い込んでたのは、ゲームの内容のせいなんでしょうね。ええ、ゲームの内容っていうのは、基本的にそういう感じなのです。

ああ、たまには私もそんな風に高慢ちきな態度でもって、尻を叩かれたいもんですわ。って、これが現実の話なら、多分五分と持たないと思いますけどね。

プレステ

セガ・サターン

以下CD

2005年2月6日日曜日

頑張らない派宣言

 私はがんばるのが嫌いです。ひねくれてるんです。がんばること自体が嫌いなのではなくて、がんばっているということを見せるのが嫌い。どんなにしんどかったり苦しかったりする状況でも、しれっとした顔をし続けたい。なんでもないように見せたいのです。けれどこういうのは損な性分で、世間一般というやつはがんばった顔をしている人間を評価することが多いもんだから、私はどうも評価されにくい — といえば、あまりに自分を買いかぶりすぎてますね。けれど、私はがんばっていますというアピールを好む人がいることも事実。けれど私にはそういうのはどうにも理解できないんです。

だって、わざわざがんばっていますって喧伝するやつって、どこかうさんくさいじゃないですか。だまされてるんですよ。あんた、だまされてるんですってば。

木野評論の第31号は「頑張らない派宣言」を題目に、がんばることが求められた時代から、そういう価値が薄れた現在への移行を特集していまして、面白いタイトルですよ。がんばらないということを最初にいってしまうことで、本当ならあかんことを正当化しようとしているわけです。しかも正当化の理由がちっとも見えてこないから、これはもうモットーの押し付けですね。

けど、がんばらないということは、つまりどこかにがんばることを意識していることであるとは思いませんか。がんばらないという価値に対して、がんばるという価値があることを前提にしている。だから、これは結局は、求められるがんばりに応えることができないといっているだけかと思うのです。わざわざいうわけですから、がんばらないといけないような気持ちがどこかに隠されている。そういう、ちょっとややこしさがあって、がんばることが嫌いな私はやっぱりがんばらないことも嫌いです。

私にはもっとシンプルなほうがいいです。人は、自分の好きなことをしているうちは誤らないっていったのは森巣博だったかなあ。例えば、自分の読んで面白いと思う本は、ずっと集中して読みふけっても、それは楽しいからそうしているわけで、がんばってるわけじゃないんです。ギターを弾くのも、それが楽しくて、上達すると嬉しいからやってるんです。傍から見たら、何時間も同じことをやり続けて、なにが面白いのかと思う。だから、がんばってるなあと思うかも知れないけど、本人は別にがんばってるつもりなんかない。だって、苦痛じゃないもの。確かに疲れるししんどいかも知れないけれど、それがいやじゃないんだもの。

がんばっているという意識があるうちは、どこかに無理があるんだと思う。そういううちは駄目なんじゃないかと思います。

すべての人に、こうやって楽しんでできるなにかがあれば、きっと世の中はもうちょっと生きやすいんじゃないかと思ったんです。生きることはしんどいかも知れないけど、しんどさの反面、同じくらい楽しいことがあればそれでとんとんです。空しさを埋めるための空虚な快楽じゃなくて、自分の手にずしりと感じられる楽しみや喜びがあったら、がんばる気などなくても、乗り越えられることは増えると思います。

生きることに取り組まないといけないだなんて思っている人は、そうした喜びやなにかを見付けられなかった人なんじゃないかと思います。だからがんばって生きようとして、そんでもってがんばりすぎるから、ぽきりと折れてしまうんじゃないでしょうか。

がんばらなくったっていいのに、そんな必要どこにもないのに、なんて思うのは、私がただ恵まれているからなんでしょうか。

  • 木野評論』第31号 京都:京都精華大学情報館,2000年。

ちょっと蛇足

「頑張らない派宣言」といってるこの本を読むのにがんばらんといかんのは、なんか問題かと思う。それにしても、たった五年で状況は驚くほど様変わりしたんだなと、時間の経つ早さ、ものごとの古びる早さには恐れ入りました。

蛇足その二

木野評論というのは京都精華大の出している雑誌で、どちらかといえば学術系に属するようなものだと思うんですが、そういう感じはあんまりしません。なんだかサブカル系学芸誌といった感じ。けれど開いてみると、やっぱりちょっと臭いね。ぐちぐちと物事をこねまわしたがるような匂いがするから、あわない人にはあわない本かと思います。

2005年2月5日土曜日

五人少女天国行

『五人少女天国行』とはいったいなんぞやといいますと、嫁入り前に死ぬと天国に行けるというお告げを信じて、女の子五人組が実際に首を吊っちゃうという映画なんですね。なんてひどい映画! と思うかも知れませんが、この娘たちにとっては、生きている世界のほうがずっとひどかったんですね。昔の中国農村が舞台となっておりまして、この因習的社会では嫁いだ女はまるで奴隷やなんかのように扱われて、そんなだから娘たちには我慢がならなかったんでしょう。

邦題は『五人少女天国行』と、死ぬことが主題みたいになっていますが、原題は『出嫁女』、嫁いでゆく女たちが主題であるとわかります。ちなみに英題も『Five Girls to be Married』と、結婚にウェイトが置かれていることがわかりますね。

しかし私は邦題で知ったので、ここは『五人少女天国行』で話を進めていきましょう。

ここ数日の話ですが、なんだか日本では自殺がはやっているみたいですね。閉めきった場所 — 室内や車内に練炭を持ち込んで、一酸化炭素中毒を狙うというのが流行の手のようで、今日も、私の知っただけでも、二件ほど集団自殺が見つかっています。

けれど世の中が苦しかったり生きにくかったりしたとしても、なんでそこで慌てて死のうとするんだろうと、ニュースを見て私は暗鬱としました。断っておきますが、私はどちらかといえば自殺する側に近い人間であると自ら思っています。ですが、そうした立場を自覚する私でも、わざわざ死に急ぐことはないではないかと思うのです。

生きていれば、今よりもよい状況を見つけ出せる可能性があります。今はなにも希望を見いだせないとしても、いつか自分にとって大切ななにかを見付けられるかも知れません。いずれにしても、生きるのに疲れたと結論を出すには皆若すぎて、それは命をないがしろにしている、死を冒涜していると私は思ったのです。

私は、ひとつの命は地球より重いだなんて、さらさら思っちゃいませんが、ですがひとり死ぬということは、ひとつ可能性が失われるということです。その可能性がよい方向に向かうか悪くなるかはわかりませんが、少なくとも人ひとりの内に広がる世界がひとつ消えて、それだけ世界は貧しくなると思うのです。

それにしても皮肉なことだと思うのですが、生きたいと思う人が生きられない現実がある一方、過不足なく生きられる人間がわざわざ死のうというのです。いや、死んだ人には死ぬだけの理由があったのでしょう。だから、それについてはとやかくいいません。ですが、いらないといって捨てられる命があるなら、もっと生きたいという人にその命が与えられたらよかった。死に急ぐ人には短い命でよいのです。世界をわずかずつでも豊かにできる人にこそ、長く続く命はふさわしかった。少なくともそうした人は、命を粗末にするのではなく、ひとつの意味あるなにかを目指して、充分に生きようとしたことでしょう。

だからこそ、私は悔やむのです。受容に供給が合わない現実をまざまざ見せられて、私はこの世の不公平を嘆きます。

2005年2月4日金曜日

べたーふれんず

 『べたーふれんず』がついに出版されました。これは『まんがタイムナチュラル』という、実験的かつ短命な隔月誌に連載されていた漫画でして、ですが私、最初のほうは読んでなかったんですね。姉妹誌である『まんがタイムポップ』を買ってましてね、ナチュラルには手を出していなかったんです。いや『まんがタイム』って系列誌が馬鹿みたいに多くって、全部買ってたらあっという間に部屋が雑誌で埋まります。当時は私にもまだ良識というか自制というかがあったので、全誌は買っていなかったんですね。

けれど、今となってはナチュラルも買っておけばよかったって思います。ナチュラルレターという、作家さんが絵端書書くみたいにして近況報告をするページというのがありましてね、その雰囲気がすごくよかったんです。悔やんでも遅いのですが、あの独特の親密さやしっとりした感じを見過ごしたのは失敗であったと思います。

けど、失敗はそれだけじゃなかったんですね。というのはですね、四コマ漫画というのは連載されてるのが全部単行本になるわけじゃなくて、一冊に満たないような量で終わる場合も間々ありまして、だからナチュラルに連載されていた漫画の大半は、単行本になる気配もなくそのまんまにされているのですね。面白いと思った漫画もやっぱりたくさんあったんです。けれどそれを単行本として手に取ることはできず、四コマ漫画というのはそういうもんなのだと諒解しているつもりではあっても、やはり納得いかないというか、切ないというか、そういう感情は拭えないものなのです。

だから『べたーふれんず』が出版される日がこようとは夢にも思っていませんでした。まずは一冊分の量があったことに驚き、初出一覧でナチュラル刊行期間がが四年もあったというのに驚き、こんな風に私にとってこの漫画は、驚きと意外性のタイトルでした。ですがまずは出版されたことが嬉しい。途中からしかナチュラルを読んでいない私には、これが『べたーふれんず』の全貌を知ることができるはじめての機会であるのですから。

この漫画に関しては、以前『ただいま勤務中』で書いたときにも触れましたが、自由な気風が気持ちいいOL二人組が主人公の漫画でして、でも自由な気風はこの二人だけじゃないですね。連載時には把握しきれていなかった二人のOL、そして姐さんも実にさっぱりとすがすがしくって気持ちいいこと。この人の漫画は、陰鬱さがないのがいいです。空がすかーんと開けているみたいな解放感、吹きつける風のすがすがしさがあります。女性たちの闊達さが、マイペースなこずるさや傍若無人をチャームポイントに変えてしまっていて、ええ、あんな女性になら私も振り回されたいですよ。いや、マジで。

辻灯子の持ち味は、関係性にこそあると思います。自然で素朴に見えて、すごく繊細な人間関係のバランスを描いています。その関係におかしみを盛り込んでくるのですから、きっと並の観察力ではないのでしょう。きっと普通の人なら見過ごすような出来事でも、しっかりと捉えて、それを四コマに表現する。華やかな絵に必要最低限の説明、はまる人にはとことんはまるタイプの漫画であると思います。

そしてだ、『べたーふれんず』最終回は、繊細さにダイナミックが加わった伝説の着ぐるみコント! 私はこれを初めて見たときは、朝の通勤の車内で、笑いが止まりませんでした。何度も何度も読んで、笑いをかみ殺すのに必死でしたね!

どこがどう伝説であるかは、ご自身の目で確かめていただきたい。もう、あの一連のシークエンスは、漫画史に残るといっても過言ではないと思いますよ。

  • 辻灯子『べたーふれんず』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年2月3日木曜日

スーパーメイドちるみさん

 師走冬子はサービス精神が旺盛で、漫画のカバーをはいでみると、その片鱗を見ることができると思います。『スーパーメイドちるみさん』では、作中の小説『火星人と今日子と醤油』の漫画が掲載されているのですが、すごいのはそのゲスト陣。作者の友人知人関係が駆使されて、思い掛けない人の思い掛けない漫画を見ることができるんですよ。一粒で二度おいしいといいますか、ちょっと得した気分というか。いや、それよりも、楽しんで漫画を描いてるんだということが伝わるようで、それがなんだかむやみにうれしかったりします。私は、あんまりにやり過ぎのいちびりは嫌いですが、こういうカバー裏の楽しみは大好きです。

『ちるみさん』第4巻のゲストは倉田ジュリさんでした。私、この人の『おサケの星座』が大好きだったんですね。お酒が好きで、ずっと飲んでる女の子二人組の漫画なんですが、まったくの駄目な人たちで、けれど憎めない味があって、そこがすごい魅力なのです。

鶏のめぐみを愛しちゃってるとりや(なのに焼鳥屋)も、酒が入ると人が変わって温厚になる竹島も、みんなそれぞれに駄目な人たちなんだけど、その駄目さをお互いに理解し合って受け入れているというか、駄目は駄目として、けれどよい部分をきちんとわかっているというか、そういう関係がすごく暖かくてよかった。ギャグの勘所を心得ているというか、漫画も面白くてすごくよかった。

だから、私、この人の漫画、大好きだったんですね。だから、『ちるみさん』の中表紙ゲストとしてこの人の名前を見付けて、すごく嬉しかった。嬉しかったんです。

私は知らなかったのですが、倉田さんは長く患ってらっしゃったのだそうです。『おサケの星座』が隔月連載なのを見ては、こんなに面白い漫画がなんで隔月のゲスト扱いなんだと、ずっと雑誌社の不明を疑っていました。ですが、そうではなく、体調を心配していたための隔月だったのだそうです。

その倉田さんが、先達て旅立たれたとのことです。私にとっては、思い掛けないところでお目にかかり喜んだ矢先の報で、あまりにショックな知らせで、一時は知らないままのほうが良かったとさえ思いましたが、ですが今では知ることができて良かったと思っています。あまりに悲しい事実でありますが、知ることができたおかげで、私は悲しみを感じ、思いを巡らすこともできたのですから。

私はこのことを知らせてくれた人に感謝し、そして先にゆかれた方のご冥福をお祈りしたいと思います。ひとつの才能が失われたことと、才能にあふれた人の旅立たれたことに、哀惜の意を表します。

2005年2月2日水曜日

SHAMROCK

平成を代表する大声優林原めぐみのアルバムです。平成がまだ一桁だった頃、この人の人気は本当にすごくて、アニメを趣味にしている人で林原を知らないという人はいなかったと言い切って不都合ないくらいに人気でした。

人気があるから出演数もすごくて、本当、この人の声はやたらいろいろなアニメ、ゲームで耳にしました。いや、耳にしたというよりも、自分の耳がこの人を追っていたのかも知れない。というのはですね、私は、藤子不二雄の『チンプイ』でこの人はいいなと思うようになりまして、ついにはアルバムまで買うようになっていたんですね。

さて、なんで『SHAMROCK』を取り上げたかといいますと、このアルバムの一曲目が『がんばって!』。そう、一昨日の『がんばれがんばれ』以来、なんでかがんばれソング特集をやっていると、そういうわけなのであります。

さて、この『がんばって!』という曲は、昨日よりもっとがんばってという歌詞が私を打ちのめしたということもありまして、聴かなくなってもうずいぶんになります。多分その頃というのは私が論文書こうとしていたような時期だったと思うんですが、今から思えばその頃の私っていうのはいっぱいいっぱいで余裕がなかったんでしょうね。学者になろうって思っていました。そのためには、たゆまず努力しなければならないって思っていました。そういう思い込みというのが多分負担だったんでしょう。それで、この曲の歌詞に追いつめられたようになって遠ざかってしまったのでした。

けど、本当は好きな歌だったんですよ。がんばろう、がんばりたいという時にこの曲をかけて、気持ちをブーストするんです。いや、本当に効いたんです、効くんですから。ポップな曲調でのりもよくって、気持ちを高めるには本当にいい歌で、大好きでした。

さて、私がこの曲を再び聴くようになったのはなんでかといいますと、いつかiPodを買う日のための準備と思って、手持ちのCDをiTunesに読み込ませたのがきっかけなんですね。林原も入れるかどうか迷ったんですが、というのもこの数年アニメとか声優とかから遠ざかってしまって、もう全然聴かなくなってしまっていたからでして、けれどとにかく入れてみようと思った。そしてそれが正しかったのだと思います。

久しぶりに聴くと、すごくいいんですよ。『がんばって!』もそうですが、このアルバムには結構いい歌が収録されてるんですよ。『がんばって!』から始まって、半分くらいまで好きな曲が続きます。

その性質上、なかなか人には薦めにくいアルバムではありますが、私にとっては間違いなくあたりのアルバムでした。

ところで、このアルバムの初回盤は写真集つき紙ジャケット入りという、なかなかにゴージャスな仕様だったのですが(もちろん、私のは初回盤だ)、なんとその仕様が復刻されるみたいですね。

売れるんでしょうか。けど今あえてこの仕様で出そうということは、欲しいという人がいるということなんでしょうから、やっぱり人気のある人なんですね。この息の長さは、本当にすごいと思います。

引用

  • 有森聡美『がんばって!』 スターチャイルド KICS-345,CD【Shamrock】

2005年2月1日火曜日

関白失脚

 昨日が『がんばれがんばれ』だったので、気を良くして今日も「がんばれがんばれ」で書いてみようと思います。といっても、今日のはタイトルではなくて、歌詞に「がんばれがんばれ」が含まれているもの。そう、さだまさしの名曲『関白失脚』です。

その前に、『関白宣言』はご存じでしょうか? これから結婚しようという女性に、俺は亭主関白でいくからなといってきかせるような歌なんですが、まあ歌ってるのがさだまさしなので、タイトルや歌詞(特に冒頭の)内容から感じられるような、男尊女卑の歌ではありません。むしろ、さみしがり屋なところを強がってみせている、惚れた男の弱みみたいな歌だったりするんですね。

ほいで『関白失脚』です。タイトルをみてもらえばわかると思いますが、これは『関白宣言』に関係していまして、結婚する前は俺についてこいなんてえらそばってみせたけど、今ではすっかり尻に敷かれてしまいましたという、そういうお父さんの哀愁が歌われています。さだ一流のセルフパロディですね。シリアスな風に見せて、あとでそれをコミックにしてしまう。そういえば、もともとはコミカルだったのをあとでシリアスに描きなおしてみせた『雨やどり』というのもありました(私はシリアス版『もうひとつの雨やどり』の方が好みです)。

けれど、やっぱりさだまさしなんですよ。コミカルにみせる歌にこそ、実は深い意味合いを込めようとするような人がさだです。『関白失脚』もまさにそんな感じで、だからこれをただ単にコミックソングみたいに思っていてはいけないんです。哀愁や悲しさ、情けなさを描いてみせて、けれどそうした弱気な態度の向こうに、家族への愛情があふれています。家族の仕合せに自分の幸福をみて、奮起してみせるお父さんの姿があります。そして最後のがんばれの大合唱。この言葉はすべての家族を愛するお父さんに向けられて、そしてその言葉を発するものも共にがんばろうと誓うような、そういう暖かさにあふれています。がんばれ、私もがんばるからという、そういう通い合う心が見えるような歌なのです。

大学の四年の夏前に教育実習に行きまして、私には二度目の実習だったから、なんだかむやみに気楽で、けれどやけっぱちな気持ちもあって、その時たまたまさだにはまっていたんでしょう。放課後の実習生控室で、生徒らが帰ったあとに、この歌を歌っていたんです。そうしたら他の実習生も一緒になりましてね、がんばれがんばれの合唱になって、あの時は本当に面白かった。楽しいなと思いました。

毎日、日誌を書いたり授業計画を立てたり準備しながら、がんばれがんばれ。あれは、そう歌いながら、銘々自分を鼓舞していたんだと思います。そんなわけで、妙に思い出深い歌になってしまいましたとさ。