2005年2月10日木曜日

こっこさん

 私の母なんかが子供の頃は、庭に鶏を飼っていて、それはそれはひどく追い掛け回されたんだそうですよ。家の中まで追いかけてきたという話で、そのせいで今でも雄鶏は怖いんだそうです。けれど、私は鶏に関してはそういう記憶はないんですね。小学校や近所の友達のうちに鶏はいたけれど(友達ん家にいたというのもすごいな。さすが昭和だ)、そんなに凶暴じゃなかった。自分の世界に生きているようなやつらばっかりで、子供がそばでなにをしてようと、我関せずといったそぶり。全然あぶないことなんてありませんでした。

だから私は、鶏の真実をいまだ知らぬままなのかも知れません。いや、あえて知ろうとは思わないですが。

こうの史代さんは、以前にもいいましたように、私の好きな作家のひとりで、なにが好きといっても、朴訥とした画風にうら悲しさとほの明るさの同居した穏やかな作風が優しくて、けれども物語ることは静かにしみとおってくるところがいいんですね。けど、むやみに名作風味を加えてるようなのとは一味も二味も違いますよ。面白みがあります、おかしみがあります。細やかな画風、やはらかな時間、暖かく澄みきった空気、そして、しっとりとした愛おしく世界へ向ける眼差しの確かさ—。

この人の漫画は、間違いなく今を舞台に選びながら、けれどどことなく昭和の匂いがします。昭和に生まれ育って、ゆえに平成へはようついていかれへん私には、こうの史代の描く世界はひたすらに心地いい、子供の頃に確かに自分も感じていた空の広さ、風の匂いが感じられる、懐かしい世界なのです。だから、私はこの人の漫画を読むたびに、嬉しいような悲しいような気持ちがまぜこぜになって、なんだか笑みとともに涙がにじんでしまうんです。

『こっこさん』は、鶏のいる生活のどたばたを軸にして展開する漫画ですが、けれどそれだけには留まらずに、人間ひとりのうちには、豊かな世界が広がっているのだということをあらためて気付かせてくれる。普段は見過ごしにしている瞬間瞬間にも、凝縮された永遠があるのだということを教えてくれる。言葉ではなく、漫画の一コマに込められた意識の強さが語るのです。絵が、その向こうに確かにある広がりを、つぶさに伝えるのです。

みずみずしくけれど落ち着いた表現の力。しっとりと、けれど湿っぽくはない。諧謔が湿っぽさを払います。やっぱり指先でそっと触れるような優しさが嬉しくなって、— 私にはもうあんなゆったりとした時間は過ごせない — やっぱりちょっと切なくなるんです。

引用

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