2004年10月5日火曜日

ベルリン・天使の詩

 今日なにげなく見ていた医療系バラエティ番組で全身性エリテマトーデスが取り上げられていて、ふと昔見たドラマのことを思い出したのでした。それは本当にひどいドラマで、映像は添え物、陳腐な筋。その作家の作るのはいつもそんな屑同然のしろものなのに、なんでか巷では人気があるんですね。

そのドラマに、病のために日光のもとに出られない女性が、最後に(なぜか)死を覚悟して(なぜか)全裸でお日さま燦燦輝く海岸だったかをストリーキングするという感動極まるエピソードがありまして、私はそれを見て吐き気がしました(冗談抜きで、今思い出しても怒りで吐き気がします)。

全身性エリテマトーデスは自己免疫疾患の一種で、罹患した人たちはいったいどんな思いであるか。特定疾患に指定される原因不明の難病であるこの病気は、つまり決定的な治療法が分かっておらず、罹患された方たちは再燃緩解の繰り返すなか不安を感じながらも、そうした感情を殺して病気と共存する生活を余儀なくされています。こういう現実があるというのに、よりにもよってくだらないお涙頂戴の小道具にしやがって。私は当時自己免疫疾患の類いにアンテナを張っていたので、このドラマはどうしたって許せなかった。もちろん今も許していません。

けれど、こういうことを書き連ねても哀しかったり虚しかったりするので、今日はそういう思いを打ち消してくれるような、幸いな気持ちになれる映画を紹介したいと思います。

この映画は、二人組の天使が人間の世界に関わるという、ちょっと不思議な構図を持っているのですが、面白いのはその構図だけではありません。人間とは違って絶対的な存在に近い天使なのに、そのうちの一人が人間の生き方に共感を示してしまうんですね。天使から見れば不完全で弱くて小さくて、貧しかったり病んでたりする人間なのに、そうした生の中で得られる実感を求めてしまうんです。

冷たいものに触る、たばこを吸い、コーヒーを飲む。手がかじかんだらこすりあわせる。

そうした生き方をしたいと思うんですね。

私はこの映画を見たとき、ある意味超越的に描かれている天使というのは、なんだろうかと思ったんです。天使は生きている実感に乏しく、虚しさにたまらなくなることもあるらしい。これは、私たちにしても、同じではないかと思ったのです。

もちろん、私たちが完全性や超越性を手にしようとしているなんて思ってもいません。ですが私たちだって、自分の生を生ききっていないという虚しさにさいなまれることがあります。これは結局、生きることに無頓着であるせいで、この映画で使われる言葉に従えば、瀬に降りていない、ということなのだと思ったのです。

私たちは、いうまでもなく有限の存在です。なのに普段はそれを忘れて、生きているということを浪費して、なのにつまらないとかむなしいとか不平不満ばっかりもらして、いったい何様のつもりであるかと思ったのです。

だから、私は、時にはむなしさを感じることもありますが、それでも生きることに後ろ向きではありたくないと思ったのです。その時その時を、よどみなく生きたいと思ったのです。生の実感に憧れ、そして瀬に降りてそれに触れた天使のダミエルに、自分も続きたいと思ったのです。

そういう意味では、この映画は私の生き方を間違いなく変えたといえるでしょう。それだけのものに出会えることは人生においても希有だと思っています。私は運がよかったのだと思っています。

なのにまた廃盤です

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