2008年2月27日水曜日

まじん☆プラナ

 本来ならそんなに意識されることではないはずなのに、無闇に色っぽい漫画だなと、そんな感想抱いてしまうのは、絵の持つ雰囲気のためなのではないかと思います。絵が色っぽい。過剰に色気を表に出そうというような漫画ではない(そうか?)のに、端々に色気が感じられて、表情に、しぐさに、造形に、そして描線さえからも、ほのかに色気が漂ってくるようなのですね。のびやかにしてなまめかしい。そんな表現がしっくりとくるような、そんな画面にドキドキします。けど、直接的な表現は避けてるんですね。出てもへそ程度、けどその抑制され方が強烈に効果的で、やっぱりドキドキします。すべてはコマの外、アングルの妙によってあらわにされることがありません。あとはご想像にお任せしますとでもいいたげなこの手法、ああ、想像力には限りがないのだなあ、本当にそう思います。

私この漫画読んで、描線に対するフェティシズムがあってることを、ことさらに意識させられましたね。って、まだこの話引っ張るのか。ええと、次いってみよう。

帯の惹句、フラグ立ちまくり。っていう表現がやたらとうまいなと思うんです。実際読んでみたらそんな感じなんですよ。ちょっと淡泊で優柔不断そうな少年有人を主人公に据え、そのまわりを魅力的な美少女で固めてみましたという構成。物語の動因となるプラナ、ツンデレ幼なじみ茉莉、あとはおかん(?)とか猫又とか冬将軍とか蔵管理人とか。ありのまま思った事を話すと、『瑠璃色の雪』とか思い出しました。いや、だって、幼なじみ、巨乳、眼鏡とくればやっぱり奈川陽子思い出すのが筋ってもので、それにちょっと違うけど雪女いるしで、思い出さないほうがおかしい。何を言っているのかわからないと思うので、ええと、次いってみよう。

この手の漫画としては非常にオーソドックスというべきか、学校そして自宅という本来日常そのものであるはずの舞台に、ランプの魔人という非日常が投げ込まれることで成立する非日常的日常。けど、もともとこちら側の住人であるはずのおかん、茉莉あたりもかなり非日常臭いというか、のっけからの卍固め、前日譚においてはキン肉バスター、強すぎるぜおかん。ともあれ、この非日常感は病みつきになります。

癖になりそうな非日常感、小ネタ多めの非日常的日常にこそ、この漫画の面白さはあると思うのですが、またそれだけではないとも思っています。ただでさえ魅力的な非日常的日常、これを彩るのが、有人を巡っての感情の流れ、そして、そこはかとなくひどい人がいっぱいであるなど、そうした細かな描写であるのです。ツンデレ幼なじみ茉莉は、有人に対してはあからさまに好感度マックスの実によいツンデレであるというのに、有人の友人河原には冷たい冷たい、むしろむごい。その対し方の落差、手のひら返すかのような態度には笑わずにはおられない。そしてこれは茉莉だけではないんですね。

基本形といってもいいくらいの典型的キャラクター付けをされている各登場人物であるというのに、それがありきたりになっていないのは、彼らの感情行動がいきいきとしているからだと思うのです。性格性質のパターンをパロディの素材として用いながら、うまく流れにのせている。これが実に自然であるものだから、パロディ的な面白さと王道的な楽しさを一度に得られるのですね。小ネタの利用にしても、下手をすればあざとく感じられるかも知れないところが、ちっともそんなことない、漫画にうまくとけこみ、流れを乱すこともなく、けれど効果的に働いて、これは本当にセンスのたまものなのだろうなあと思っています。本当にうまい。先ほどいった茉莉の手のひら返しにしても、それがストレートにおかしみ、笑いに変わるのは、そこに嫌みがないからで、さらにいえばそれが許される流れができあがっているからでしょう。河原、茉莉をはじめとする皆にして、そういうキャラクターなんだ、そういう役割を担っているんだ。意識するにせよしないにせよ、そうした流れが感じられるのです。これはやっぱりうまいな。さっぱりとして嫌みがない。それはそれはたいしたものだなと思っています。

でも、読んでいる最中は、上にぐだぐだ書いたようなことはどうでもよくって、色っぽい線だなあって思ってる。小気味よいテンポ感も相まって、気持ちよく、楽しく、すらすらと、そしてドキドキと、そんな感じであるんですね。

蛇足

そういえば最近書いてませんでした。ええと、茉莉はおそろしく魅力的な娘だと思っていますが、それこそツンデレのよさに開眼するくらい? けどプラナやリッカも魅力的で大変困ります。しかし、キャラクターの魅力が強い漫画です。容易にあらがえないものがあると思います。

  • nino『まじん☆プラナ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

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