この漫画のヒロインつぐみは、アパートの一室に引きこもって出てこようとしないいわゆる引き籠もりタイプでありまして、けれどその暮らしは質素ながらも実に朗らかで、暗さや悲嘆なんてものはかけらもないんです。そんなつぐみを見てると、私もどちらかといえばインドア派ですから、こういう暮らしというのにはなんだか憧れてしまったりしていけません。けれどもね、忘れちゃいけないのですが、つぐみはアパートから出ようとしない駄目な人のようでありながら、実はそうではなくて、在宅でできる仕事を見つけては精を出す自立した人なのです。楽しみや趣味もあれば、たびたび訪ってくれる友人もあって、実際のところ、私なんかよりもずっと立派だよなと思うのです。
私はこの漫画を読むたびに、つぐみの生活感というのは実に健全で理想的であると思って、人はこうした暮らし方をすべきなのではないかなと思わないでいられません。いや、引き籠もれっていってるわけじゃないのですよ。私たちが見習ったほうがいいというのは、つぐみの生活の端々に感じられる足ることを知る精神なんです。
飽食やぜいたく、身の回りにものがあふれていることに慣れてしまって私たちは、その上更なる欲求を満足させようと汲々としていますが、こうした生活スタイルというのはむしろ窮屈で不幸であるなと私は思うのです。それに引き換え、つぐみの多くを持たず、多くを望まない暮らしぶりというのは、傍目には貧しく思えども、その内実はむしろ豊かなのではないだろうかと。健やかなのではないだろうかと。この漫画を読んでは『埴生の宿』の歌を思い出し、どこか私は穏やかになるのです。
とまあこんなことをいいだしたのはなんでかといいますと、なんか昨今の状況を見ていると、かのバブル前夜を思い出すからなんですね。バブルの空疎な熱狂を迎える前に、まるきん、まるびという言葉がはやりましたが、まさにこの持てる者、富める者こそ幸いであるという表層的に過ぎる評価基準の危うさを、この頃はやりの勝ち組、負け組という言葉から感じられてならないのです。
私たちは未だ不況下におりますが、それでも時期は少しずつ狂乱の季節に向かって動きつつあるようで、ああまたあの時みたいな軽薄な価値観が跋扈するのかもしれないと、いやな気持ちであるのです。あの頃の価値観を代表する言葉としては三高なんてのもあって、今ならセレブとでもいったところでしょうか。
私はこうした、ものの実に向かうことない、虚飾丸出しの価値観というのがどうにもあきません。
私は、貧しい者こそ幸いだとまではいいませんが、それでも富めるばかりが幸いではないだろうよと思うんですね。だから私は、ものにあふれてまだ不足をいうよりも、少なくとも自分に足る分を知るほうがよいと思う。つぐみの暮らしはよい暮らしだというのは、そんな考えからであるのです。
蛇足というかむしろ本題:
ところで、この重野さんというのは、よほどの地力のある漫画家だと思います。登場人物にしても舞台にしても、最低限度にまで切り詰めたような不自由な漫画であるのに、あれだけのネタを出して、しかもそのネタというのが生きて面白いというのですから、よほどのセンスのある人であると驚嘆します。
私は、制限されているという不自由は、むしろ表現にとってプラスになると考えるものなのですが、この人を見てると、自分の考えはあながち間違っていないのではないかと、そんな気がして嬉しいです。
あ、そうそう。私の記事はどうにも辛気臭くっていけませんが、『ひまじん』にはそんな辛気臭い湿っぽさはありませんから、ご安心くださいましね。
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