今日は、というか、今日も職場で字に関するごたごたがあって、それはつまりコンピュータの扱える文字、扱えない文字の問題です。
今更説明する必要もないようなことではありますが、一般に使われているコンピュータにはすべての漢字が収録されているわけではありません。戦後略字に対する正字、あるいは俗字や誤字のたぐいなんかには、コンピュータで扱えない字が多く含まれています。ですが、そもそもが人の手によってなり、長年にわたって変化しつつバリエーションが生み出されてきた書字を、すべて電算機上に再現することは不可能であると私は思うのです。
私は、石川九楊の『二重言語国家・日本』に触発されて字を書くようになったのですが、この書き始める以前と以後で、文字に関する考え方が全くといっていいほど違ってしまったのです。
実はかつて私は、コンピュータにはすべての文字が収録されるべきであると考えていました。つまり異体字をすべて収録せよといっていたわけで、渡辺の辺であるとか、山崎の崎の異体字は、すべて電算機上で表現可能にされるべきであると考えていたのですね。けど、実際に手ずから書くようになって、この考えがいかにばかばかしいものであるかに気付きました。ええ、そもそもすべての文字というのは、私たちが容易に集めて扱えるようなものではないのですから。
漢字というのは、複数のエレメントが組み合わされて表現されるものであり、それは偏や旁、冠、構えといったものに分類されていることは、わざわざ説明することもなく皆さんご存知でしょう。さて、この部首に表れる木や人といったエレメントの配置は、結構ダイナミックに行われていまして、木偏に公と書く松は、木を冠にして書かれることもあれば、逆に公が冠になることもあり得ます。これは崎という字の山偏が、冠にくることがあることからも容易に想像でしょう。
また手偏ですが、私たちは普段この手偏を三画で書いているかと思います。横画、縦画、最後に右上に向かってはねあげるようにして手偏は完成しますが、けれど私は手のかたちそのまんまが偏になってる字を見たことがあるんですよ。けど、これは間違いじゃありません。示偏がネみたいにじゃなくて示で書かれるのに同じことです。
漢字というのは、元来このようなダイナミズムによって生み出されるものであるのですが、残念ながら電算機はこのダイナミズムを内包するには力が足りません。第一、コンピュータというのは合理性の権化みたいなものですから、こうしたグロテスクな — 我々の身体そのものの写しといってもいい — 漢字を扱うには向かないものなのです。
『一日一書』は、京都新聞に連載されていたコラムで、一日に一文字(一語というのが正しいかも知れない)を紹介し、書字にまつわる解説や石川九楊の思うところがつづられるという形式で、結構人気のあるコーナーでありました。ちょうどこの連載がされていたとき、私は新聞の記事をチェックするような仕事もしてて、その合間にこの記事を読むのがすごく楽しみだったのです。
なにしろ、紹介される文字というのは古今の能筆の手になる書字です。たった一文字が置かれて、ですがその文字の持つ広がりというのは電算機上に浮かぶものとは比べ物にならないほどで、楷書があり行書があり、草書、隷書、篆、金文、碑文、篆刻、そしてかなとバリエーションも豊富で、なによりダイナミック! こうした豊かな書字の世界を見て私は、手で以て字を書かなくなった時代というのは、合理的でありながらも貧しいと思ったのでした。
この文字の豊かさは電算機上にはあり得ないものです。だから私は、手でもって字を書きたいと思う。つたないながらも、手でもって、筆先と紙面の出会う場に書字を行いたい。こうして出現する文字は、単なるコードや符号にとどまらない、自らの身体の写しであります。それは、いつかたどり着きたいと願う、書字の宇宙への一歩足跡であります。
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