私は、ついこないだから体調を悪くしてしまって、ほんの二日程度ではありますが寝込んでいました。腸が塞がったために起こる苦しみに七転八倒してみたり、熱に浮かされておかしな夢にうなされてみたりと、でもまあ一日二日で快方に向かうようなものですから、たいしたものではありません。一応、明後日には完全復旧している予定。まあ、予定通りには物事運ばないものだから、どうなるかはちょっとわかりかねますけれどもね。
さて、病気で寝込んだとき、私はいつも夏目漱石の『思い出す事など』を思い出すんですね。『思い出す事など』というのは、療養先で吐血し生死の境をさまよった体験 — 修善寺の大患と呼ばれています — がつづられた小品でして、いやあ、はじめて読んだときはショックでした。
さほど長い文章ではなく、さほど込み入ったことも書かず、おそらくは漱石が自身の脳裏に浮かんだことを順々につづった、そういうふうな趣のある文章なのでありますが、それゆえというべきか、すごく人間漱石の味が出ている文章だと思うのです。死を間近にみて、そうでなくとも病中には人間弱気になるものですが、そうした心境にあって自分につながる人の命が存えるよう祈ってみたり、また自分を支えてくれている人に感謝の念を感じてみたり、そしてついには、そうした地上此岸のことを離れ、広い思索に向かう漱石は、なんだかすごく不思議で、そして身近な人のように感じられるのです。
そうかと思えば、淡々と日常のこと、さらには病状を記していたりしまして、こういうところはやっぱり読みやすくわかりやすく、けれどそれが淡々と伝えられるうちにどんどん凄みをましてきて、細君に血を吐きかけた後の三十分許は死んで
いたという危篤状態の最中、医師が交わした短い会話にいたっては言葉もなく、ましてその事態をあくまでも客観的に記述する筆致は、やにわに怖れさえ抱かせるほどの深さがあると、何度読んでも思います。
その後、もうお父さんに会えるのはこれが最後かも知れないからということで子供たちが連れられてくるのですが、またその時の描写も格別で胸に染み入るようなものなのですが、そういうのいいだすと仕舞に私は全ページに言及し始めますからはしょりまして、だんだんと恢復していく様、そして最後漱石が修善寺を去るときの模様をみれば、おそらく病に臥せって心細さに打ちひしがれたことのある人なら、この文章に共感を、理解を得られるものであると思います。
なんか、ほうっとするんですよ。一時が凄惨であっただけに、その後の日常に帰っていくときの様子がすごくありがたいものと感じられるのです。だから、私はいつも病気が癒えようとするときの、妙にぼうっとして気だるくて、けれど意識は醒めかかっているような、そういう頃合いにこの文章を思い出します。それで、また読みたいなと思うのです。
さて、ちょいと私事。
病気で弱りに弱って、息も絶え絶えになった私に、うちのものはえらい大声で話しかけてくるんですが、申し訳ないがそういうのはやめて欲しいです。声が小さくて聞こえないからっていうけど、声も出ないほど衰弱してるものに大声で話しかけるのはあまりにむごい仕打ち、音圧で打ち負けそうになるんです。
ちゃんと耳は聞こえてますから。私の場合、危篤だとかそういうわけでもありませんから、小さな声でいいんですよ。
- 夏目漱石『思い出す事など 他七篇』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1986年。
- 夏目漱石『夏目漱石全集』第7巻 (ちくま文庫) 東京:筑摩書店,1988年。
- 夏目漱石『漱石全集』第12巻 東京:岩波書店,1994年。
引用
- 夏目漱石「思い出す事など」,『漱石全集』第12巻 (東京:岩波書店,1994年)所収【,401頁】。
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