2005年5月11日水曜日

無伴奏チェロ組曲

 私はそもそも昔からバッハをはじめとするバロック音楽が好きだったのでありますが、中でも『無伴奏チェロ組曲』が好きでして、というのも、実際自分もこの曲を(チェロではないにせよ)演奏してきて、思うところが多いというせいなのでありましょう。大学にサクソフォンで入学して、最初に練習してくるようにと渡された曲が『無伴奏チェロ組曲』の第一番でした。ジャン=マリー・ロンデックスによってサクソフォン向けに編曲されたものを使ったのですが、なにしろ私はその頃オーセンティシティなるものにとりつかれていたもんだから、原典版やら自筆譜やらを図書館で借りだしまして、すっかり楽譜を書き換えてしまったのも懐かしい思い出です。

さて、このように正統性にとりつかれた私でありますから、『無伴奏チェロ組曲』の録音にしてもやはり正統性を求めるわけでありまして、ということはどういうことかといいますと、私は演奏の規範としてカザルスを選んだと、そういうことなのであります。

なぜパブロ・カザルスが規範になるのかといいますと、長く価値のない練習曲のようなものとして埋もれていた『無伴奏チェロ組曲』を発掘し、よみがえらせたのがカザルスであったからなのですね。加えてカザルスは近代チェロ奏法を確立したともいわれるビッグネームなのでありました、つまり私は、カザルスに現代におけるチェロ演奏のルーツを見た。だから、他のチェロ奏者による『無伴奏チェロ組曲』を差し置いてでも、カザルスの古い録音を重く見たのです。

でも、なんというか、カザルスの時代というのはまさにロマンティックの時代でありましたから、ほら、以前フルトヴェングラーの振るベートーヴェンの九番で書いたときにもいってましたが、演奏者の情念みたいなのがあふれる演奏をこそ求められた時代があったんです。つまり、カザルスの『チェロ組曲』というのもそうしたロマンティックの時代の産物であるというわけで、その後はやった、楽曲の作曲された時代背景や当時の慣習に基づいた正統的な演奏こそを理想とする視点からすれば、ずいぶんとずれたものにほかなりません。ところが私は、楽譜(つまり楽曲)における正統性の根拠を原典版や自筆譜に求め、なのに演奏ではロマンティックカザルスを規範にするという、とんでもなくまちまちなことをしていたのであります。

まあ、若いということは恥ずかしいということであります。

けどね、ロマンティックカザルス演奏の『無伴奏チェロ組曲』を聴いてみればわかることなんですが、その存在感のすごさは圧倒的でありまして、そりゃ若輩の私がとりつかれたように夢中になるわけですよ。録音は古く、当然のようにモノラル、ノイズもたくさん出て所々ひずんでいるようなものであるのに、聴けば、ぐわーっと目の前に音楽の実体が湧き上がるように立ち現れて、もうすごいのすごくないのって。この曲を初めて聴いたときの感動というか衝撃というかは、他に類のないものでありました。

そんなわけで、私は演奏の模範とか規範とか参考だとかをすっかり忘れて、何度も何度も繰り返し再生しては、聴きほれていたんです。バッハによる楽曲の強さもありますが、それに付け加えてカザルスの演奏の確かさも素晴らしく、私はすっかりカザルスのバッハに参ってしまっていたのでした。

0 件のコメント: