2007年10月26日金曜日

ルポ最底辺 — 不安定就労と野宿

 ずいぶん前に、失業者たちを見ると胸が締めつけられる思いがすると、そんなことをいっていました。昨年には、ワーキング・プアに関する特集番組を見て、他人事じゃないといっていました。そして今、自分はただ運がよかっただけなのだなと、自分の身の仕合せを噛みしめる思いでいます。なにが幸運だったというのか。それは家族に恵まれたこと、正規雇用ではないもののなんとか仕事にありつけていること — 。しかしこれこそは本当に運でした。

学校を出た頃、私は、仕事を求めても求めても見つからない現実に心底疲れ果てていました。非正規の、安い仕事にぶら下がりながら、それこそ世の中怨むような気持ちで荒んでいました。なにかましな仕事はないかと、ハローワークにいったりもしたんだけど、そこで目にしたのは、あまりにたくさんの求職者でした。自分のできそうな仕事、条件のあいそうな仕事を、少ない持ち時間の中、破れかぶれな気持ちで選び出し、けれどそのどれもにチャレンジできるわけでなく、せいぜいひとつといったところ。面接を受けて駄目、また駄目というのを繰り返すと、自信なんてちっとも持てなくなるんです。自信がないから、面接で飲まれるんでしょうね。うまく受け答えとかできなくなるんです。悪い循環だったと思います。ハローワークのトイレに入ると、呪詛の言葉がいくつも書かれていて、それを見て自分たちの無力さにまた打ちひしがれて、こうした状態があと少し続けば私は本当に駄目になっていたと思います。

状況が好転したのは、なんかいい仕事ないっすかねー、とことあるごとにいっているのを聞いて、正規じゃないけれど比較的ましな仕事があるよと紹介してくれた人があったからです。本当に運がよかった。あの人とはずいぶん疎遠になったけれど、今でも感謝しています。けど、もしあの人に出会えていなかったらと思うとぞっとします。私は当時はやりのパラサイトシングルだったから、路頭に迷うようなことはなかったろうけれど、あてどもない職探しと挫折の連続に、きっと病んだろうと思います。だから、私は本当に運がよかった。けれど、ただ運がよかったといって安心していていいのか。身の上の危機は去っていないというのに、いやむしろいまだ問題の当事者であり続けているのに。

生田武志の『ルポ最底辺』は、大阪は西成区、釜ケ崎に代表される寄場の状況を、丹念な筆致でつづった労作です。単に資料やデータにあたるだけでなく、野宿者(ホームレスをこの本ではそう呼びます)支援の活動を通して得られた体験や記録、そして自らも日雇労働の現場で体験した事実が紹介されて、まさしく一級のルポルタージュ、タフな現地報告となっています。著者は当事者でありながら、自身の体験の持つ圧倒的な現実感に圧倒されることなく、まるで自分自身を外側から見るような淡々とした表現を守って、しかしまた傍観者となることもないという絶妙のバランスを実現しています。語られる内容は多岐にわたり、野宿者の生活の過酷さ — 、冬期の寒さなど住環境の問題に始まり、彼らの生活を支える労働の厳しさから医療の問題、彼らを食い物にする存在があることが語られたと思えば、本来彼らを守るためにあるはずの諸制度が機能していない、こうした現実がいやというほど紹介されます。これら著者の見て体験してきた事実を知れば、野宿者たちが普段どれほどに誤解されているかがわかろうというものです。誤解のあるために偏見が生じ、そしてその偏見が彼らに向けられることで、またそこに不幸が生じる。最悪の循環があるということが感じられるのです。

しかし、重要なのは、そうした野宿をする彼らの多くは、本人の資質に問題があったからそうした状況に追い込まれたわけではないということです。いうならば、運が悪かった。リストラや倒産などが原因で職を失ってしまった。次の職が見つからず収入がないために、貯金を切り崩し、借金をし、ついに家賃が払えなくなれば住居を引き払うよりなく、野宿となれば、住所のないためいよいよ職を得ることはかなわない。ここにも最悪の循環が見られます。ほんの小さな不幸がきっかけとなって、ドミノが倒れるように最底辺にまで落ちてゆく。私のドミノは、家族が私を受け止め続けてくれていること、仕事を紹介してくれる人があったこと、この二点で止まったに過ぎません。もし私が親元を遠く離れて生活していればどうだったろう。あの時、あの人が仕事を紹介してくれていなかったらどうだろう。おそらく、私のドミノは止まらなかったと思う。行政の提供するサービスは、残念ながら私には役立たなかった。窓口には親身になってくれる人もあったけれど、一生忘れられないようなこともあって、けど重要なのは、親身だろうとどうだろうと、私にとってあれらはなんの有効性も持たなかったということです。

あの時、運のよかった私ですが、次もそうであるかはわかりません。なんの職能もなく年ばかり重ねて、むしろ状況は悪くなるばかり、次こそは私のドミノは止まらないだろうと覚悟しています。そんな私ですから、この本はまったくもって他人事ではあり得ず、自分のおぼろげな不安が妄想なんかではなく、それこそ充分なリアリティをもって起こりえることであるのだと、路上に暮らす彼らの現実は対岸の出来事なんかではなく、それこそ今の私は波打ち際に立って寄せる波に足を洗われているのだと、そうした実感を深めました。それだけに、労働や社会のはらむ問題、 — 非正規雇用の増加やセーフティネットの不備に代表される — 、の解決は急務であるとの思いを新たにして、またこうした問題に無関心であることの危険を思いました。

しかしここでひとついやなこといいますが、この最悪のドミノ倒しは、私のような駄目な人間だけに起こる問題でなく、今この文章を読んでいるあなたにとっても他人事ではないんですよ。人生ゲームの最後には開拓地が用意されていますが、底辺に落ちても逆転狙える開拓地、そうした復活のチャンスを持たないゲーム盤が今の私たちの暮らす社会なんです。そして私たちは、ルーレットの気まぐれによって簡単に転がり落ちることができるんです。そんな馬鹿なと思う人は、この本を読んでみてください。また私の脅しに同意する人も、この本を一度手にしてみてください。この世には希望もあるが絶望もまた深いのだと、そういうことがわかるから。しかし人は絶望の中に希望を生み出すこともできるのだと、そういうこともわかるから。この本は現実の底をうがつかのように深く力強く語る力を持って、読むものの心を揺さぶります。だからあとは、読んだものがこうした万人の問題をどう引き受けるかにかかっている。読み終えたその時が、そのものにとってのスタート位置になるのだと、私はそう思います。

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