この漫画を読んでいると、ときに覚悟をしておかないといけないなという気分になりまして、なんの覚悟か — 、悲しいラストを迎えるための覚悟、いつかきっと訪れる悲しい結末を受け入れることのできるように、心積もりをしておかないといけないと思わせるのです。『花と泳ぐ』はジャンルとしては幽霊同居もの(それってジャンルなんだ)にあたる漫画です。ある夜、大学からの帰り道、思いがけずであった幽霊と同居することになった笹川幸太が主人公。あっけらかんとして能天気な幽霊菊子に、彼女を追う女子高生霊媒師下田ふみ、そして幸太の親友梅ちゃん、猫の会長が加わってのほのぼの日常コメディが繰り広げられて、しかしこの説明のどこに覚悟を要するなにかがあるというのでしょう。
ここでちょっと余談です。私は、四コマ漫画というのは、時間の流れにともない推移する物語を追うよりも、その時々の状況 — シチュエーションを表現するのに向いていると思っています。もちろんストーリー四コマと呼ばれるものがあるのは百も承知で、しかしあえてストーリー四コマと表現されるそこには、本来四コマはストーリーを描かないものという理解があるわけです。その時々に生起する状況を受けて、その場限りのコメディを描くのに長けている。何度新年を迎えようとも、時間の流れを無視し、延々今を繰り返し続ける。四コマは、それでも不自然を感じさせない。特に、シチュエーションを描くタイプの四コマはそうであると思います。
『花と泳ぐ』は、一見シチュエーション寄りの表情を見せて、幽霊があらわれた! しかも同居することになっちゃった! きれいな人だなあなんて思いながら、例年の行事を迎え、イベントを過ごしていく。そこには、もしかしたら菊子が成仏するかも知れないといういつかが、語られつつも、きれいに拭われているように感じられて、いつか終わる日が来れば成仏するなり決着するんだろうけれど、それまではこの楽しげな日常が延々と繰り返されるのだろうだなんて、そんな気にさせるのです。
けれど、口八丁ぐりぐらはそういうタイプの作家ではありません。この、一見今を延々繰り返すかのように見える漫画は、始まったその時から終わりを内包し、いつか訪れるラストに向かって確実に歩みを進めています。描かれる今は、ただ流れさるのではなく、予定された終幕に向かって事実として積み上げられています。その日が来ることを読者に予感させるモノローグもときに挿入されて、 — そしてそのモノローグに、結末が決して仕合せなばかりではないということが匂わされるから、読者である私は、いつかきっと描かれる悲しい結末を覚悟している。今が、描かれる今があまりに仕合せだから、きっと最後はつらいだろうと、そういう心積もりをしているのです。
実は、口八丁ぐりぐらには前例があって、『まんがタイムきららキャラット』で連載されていた『おこのみで!』、残念ながら単行本にはならないそうなのですが(出たら買うのに)、そのラストにおいて含みを持たせつつ、つらい話を描いている。いや、つらいばかりではないんです、そこには確かに仕合せだった時間が織り込まれているから、一言につらいとはいいきれないのだけれども、けれど避けて通れないことを避けずにまっすぐ表現したものと私は理解していて、だから私はこの人たちは、そういう状況を前にして逃げない作家であると諒解したのです。
きっと、『花と泳ぐ』は最後に一波乱あるのだと思います。そしてそれはおそらくは、モノローグに感じられるようなつらいもので、けれどそこにはきっと今描かれている時間が、仕合せだった巡り合わせがぐっと畳み込まれているに違いないと、そんな風に決めつけています。あとは、それがいつか。多分、そう遠くないうちに訪れるのではないかと思っています。
余談
シチュエーション寄りっていってるけれど、実質その時々に発するイベントに駆動されるというのなら、イベントドリブンっていってもいい? そう書くと、わあ、プログラミングみたいだね。
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