2005年10月3日月曜日

ナツノクモ

 体調崩して、仕事を休んだ帰り道。例月どおり、四コマ単行本だけでもと思って寄った書店で『ナツノクモ』を見つけました。『ナツノクモ』は『空談師』の篠房六郎の作品で、私はこの間『空談師』で一文書いたときまで、この漫画のことを知りませんでした。Amazonのレビューやらをみると、またネットワークゲーム上でのことを描いているようで、きっとまだ描き足らないのだろうなと思いながらも、ネットワークゲーム以外のテーマもないだろうかと不足に感じていて、けれど、こうした感想は誤っていました。

『ナツノクモ』は、舞台こそはネットワークゲームですが、テーマは人間です。これまでの、ふたつの『空談師』でも同様、ネットワークを越えたところに息をしている人間を描いていましたが、『ナツノクモ』ではそれが極まっている。私は一度読んで、胸がいっぱいになって、苦しかった。けど、苦しかったけれど、それ以上のなにかが確かに感じられて、それはのどのすぐそこにまで込み上げて、けれどいまだ言葉にはなり得ずにいます。

心を漫画から引き離してみれば、いろいろいうことは可能なのです。例えば、これまで以上にはっきりと表現されている、オフラインでのこと。オンラインとオフラインの違いが意識されている。ロール(役割)を演ずることではたされる、治療や成長、変化。そうした試みはオフラインでもおこなわれていることで、しかしあそこまでオンライン世界が発展したならば、確かにこのような手法でのセッションは可能でしょう。いや、オフライン以上に効果は高いかも知れない。身体という、どうしても意識しないではおれない枠組みを取り払うことのできるオンラインなら、ロールプレイもきっとしやすいに違いありません。

と、こうしたことを書いても、私の心の中にあるものからかけ離れていくばかりで、そうじゃないんです。

ざっくばらんに、例えばアメコミ風の傷つきながら戦うヒーローという構図で見てもいいのですが、けれどそれもやっぱり私の中のものとは決定的に違って、なんというんでしょう。私には、あの園の人たちの気持ちがわかる気がするのです。小さな共同体を築いて、ロールプレイを行いながら、欠けた部分を埋めていく、なくしたものを再び取り戻そうとする。そうしたささやかな場と、それが脅かされることの不快さ。望んでいることは大きなことではなくて、例えばそれは、せめて人並みにとか、そうしたちょっとした願いだったりするんですが、外部の人たちは興味津々で、触れられたくないところにまで踏み込もうとする。けれどそれはどうしようもなく堪え難いことで、けど相手にされないさみしさも悲しさもあって、怒りみたいなものもあって、それは自分でも満足に収めることのできないもやもやしたもので、だから時に爆発させて、うまくやっていきたいのになんでそれが自分にはできないんだろうという鬱屈が深かった。

自分は、あの園の人たちに自己を過剰に投影しているのだと思います。これを読み進めていくことで、自分の中に鬱屈してはらされないままになっているものが、少しでも解消されることを望んでいるといっていいかと思います。 — けど、多分私が一番望んでいることは、多かれ少なかれ問題を抱えている園の人たちが、少しでも彼ら自身の望むようなよりよいものになれるといいなということで、私は漫画という仮想の、さらにオンラインという仮想の向こうに、実存を見つけ出したいと思っているようです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

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