昔、萩尾望都の漫画にはじめて触れたときに感じた感覚、これはすごいぞという驚きと興奮、次から次へ目の前に展開する物語の沸き立ちに、心奪われるのは当然至極のこと。今、私は山下和美の『不思議な少年』を前に、その時に変わらぬ感動を覚えています。幅広く豊かな表現は確かで、その一コマ一コマ、台詞の一語、描線の隅々にいたるまで力強い躍動がみなぎっている。すごい漫画家だ。山下和美はすごい漫画家だ! 私はそう叫びたくなるほどの衝動に突き動かされて、たとえそこが街の雑踏のただ中であっても! 高揚が、高揚が満ちるのです。
雑誌『モーニング』に最初の『不思議な少年』が掲載されたとき、私はこれが続くとは思っていなかったから、とにかく矢も盾もたまらず雑誌を買ってきて、読んで、打ちひしがれる思いでした。私がこれまで読んできた山下和美の延長にある漫画でありながら、これまで読んできた山下和美とは違って、その表現が極まったと思わないではいられなかったのです。
多分、同じ思いを抱いた人は多かったのだと思います。暗く重く難解な『不思議な少年』は、その後も掲載されて、単行本が出、版を重ね、巻を重ねています。
『不思議な少年』は暗い? 重い? いや、そんなことはありません。この漫画には私たち人間の世界のありようが時に淡々と、時に幻想的に、そして狂乱に似た高揚をもって描かれていて、私はそうした表現に対峙させられて、あたかも山下和美の問い掛けに立ちすくむようです。テーマは常に人間で、人間ほど難しいものはなく、また面白いものもなく、美しくて汚い人間の奥底をさらうみたいに掘り起こす山下和美の筆は遠慮も容赦もあったもんじゃない。なのに、この表現が最後にはしんと心に広がるのだから、山下和美という人は本物であるというのです。
山下和美は大いなるものではあるけれど、偉大というのとはちょっと違って、昔、本で読んだスピンクスのような威風を感じさせます。それも、すごくチャーミングなスピンクスだと思う。私、こんなスピンクスになら命をとられてもかまわないなあ。この人の漫画を読むときには、そんなドキドキを胸にしているのです。
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