今朝、いつもの通りにメールの確認でもしようとiBookの目を覚まさせると、インターネットがまったく使えなくなっていることを発見しました。ADSLモデムの不調だろうと、電源を切って再起動させても状況は改善せず、いろいろ手を尽くしてみても問題はわからない。使っているプロバイダがこけたのかと思いサポートに電話をするもそういう事実は無く、どうやら私の利用している電話回線にノイズが発生しているらしいという疑いが濃厚でした。
ああ、昨夜まではなんの問題もなく働いていたというのに。ネットから切り離されてみて、いかに自分がインターネットというものに依存しているか気付かされました。別段、普段なら、そんなに気にしないメールだというのに、なにか大事なものが届いてるんじゃないかと不安になる。ダイアルアップで確認し、けれどいつも通りの便利は得られないわけで、復帰するまでどうしようとまた不安になる。
山本夏彦翁いわく、なかった昔には戻れない。ええ、もう私はインターネットのない状況には戻れないのだろうと思い知りました。
文春から出ている新書は山本夏彦の入門には実にうってつけで、『百年分を一時間で』は二冊目にあたります。最初のは『誰か「戦前」を知らないか』。私の入門は、この一冊目からでありました。1999年に出た本ですから、いかに最近の読者であるかということがうかがえます。
文春新書に収められている三冊は、あるひとつのテーマを軸に、夏彦翁と工作社の若き社員が和気藹藹、話した言葉のその調子を残しているから読みやすくわかりやすく、だから私はこれが山本夏彦入門にいいというのです。
わかりやすいからといって、中身が薄いだなんてことはまったくなく、確かにコラムほど濃密ではないけれど、それは調理の仕方が違うだけのこと。山本夏彦の面白さ、飄々として、しかし時に厳粛さものぞかせる、万華鏡のような人柄を充分堪能できるでしょう。これが面白いと思ったら、他の著書にも手を出して、翁の名人芸とでもいうべきか、寄せては返す波の音を堪能されるとよろしいでしょう。
さて、なぜ今日『百年分を一時間で』を取り上げたのかといいますと、この本に収録された最後の話「電話」が振るっているからです。文明の利器、電話があらわれて世の中は変わった。会いにいくのにアポイントメントが必要になった。人間関係を変えた。時間と距離をゼロにしたいという人類の切望を電話はかなえて、時間は浮いたはずなのに世の中は慌ただしくなる一方。
電話を例にあげてはいますが、電話はただの口実で、近代文明を批判しているんです。私の文章じゃ夏彦流のすごさは出ないから、ぜひ新書でお読みください。
この「電話」という短文に、インターネットに挑戦するという夏彦翁の言葉があったのですよ。政治経済倫理を根底から揺るがしかねない魔物のようなインターネットのデテールを知り、本質を見たいというのです。私もそうした立ち位置を身に付けるべきだと思い、氏の話を再読しました。インターネットが止まっただけで暮らしが立ち行かないみたいに動揺するのはなぜなのか、今やその根っこの不安を知るには自分の目だけが頼りなのですから、便利の一面にただ飲まれるばかりの無批判であっていいわけがないのです。
- 山本夏彦『百年分を一時間で』(文春新書) 東京:文藝春秋,2000年。
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