2005年10月9日日曜日

のび太の恐竜

  はじめて読んだ漫画が『ドラえもん』で、はじめて見た映画が『のび太の恐竜』。こうした刺激に触れることで、私の恐竜への興味は醸成されていったのだと思います。実際、だって、そうでしょう。自分が本当に好きな漫画の、好きなキャラクターたちが憧れてやまない対象がそこにあって、どうして読者である私が同じようにその対象に憧れないことがあるでしょうか。中生代という、はるかな昔に生息していた巨大な生物への思いが、ロマンたっぷりに語られる様をコマ割りの向こうに見て、あたかも刷り込まれるみたいにして、私も同様のロマンを感じるようになったのでしょう。

恐竜は、確かに私の子供時分を語るうえで、決して欠くことのできない大きな要素なのであります。

私は原典主義者といっていいくらいに、正統性だとかオリジナルであるとかを重んじるたちなのですが、なので私にとっての「のび太の恐竜」はあくまでも第十巻の最後に収録された掌編であったのですね。のび太が恐竜丸ごとの化石を手に入れてやると、ジャイアンたちを相手に無茶な賭けをして、そして実際にフタバスズキリュウを、それも生きたかたちで手にするという果てしないファンタジー。考えればですよ、住宅の裏手をちょっと掘っただけでフタバスズキリュウの卵の化石が、ごろんと出てくるなんてことはないんです。けれど、子供のころの私には、もしかしたら君の身近にも、こうしたロマンがあるのかもしれないよというメッセージが鋭く突き刺さりました。そう、この感覚は今も私の中に息づいています。不思議や奇跡も身近にあって構わないという、そうしたロマンを得たのは確かに『ドラえもん』を通じた語りかけのおかげでありましょう。

私にとって、「のび太の恐竜」は、あの白亜紀に首長竜(厳密にいうと恐竜じゃないんですよね)を返しにいった時点で終わっていたのでした。だから後の恐竜ハンターだとかなんとかは、本当のことをいうと蛇足でした。だから私は、映画は破格としても、漫画に関しては自分の決まりを守って、だから『大長編ドラえもん』を買ったのはずいぶん後になってしまいました。もう『ドラえもん』への興味が薄らぎはじめていた時期でしたから、続きを買うまでにはいたらず、だから『のび太の恐竜』だけしかもっていません。けれど、これを読むとやっぱりじんと込み上げるものがあって、だから後のものにしても読めばきっといいなと思うはずなんです。

けど、私が大長編に手を出さなかったのは、やっぱりきっと映画こそが原典でとか思っているからに違いないのです。杓子定規は損をしますね。

  • 藤子不二雄『ドラえもん』第10巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館、1976年。
  • 藤子不二雄『のび太の恐竜』(てんとう虫コミックス:大長編ドラえもん;第1巻) 東京:小学館、1983年。

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