2007年9月21日金曜日

牢屋でやせるダイエット

 なんだか最近、というかいつだってそうなんですが、巷ではダイエットが流行っているみたいですね。ビリーのブートキャンプは社会現象っぽく盛り上げられて大人気だし、あの岡田斗司夫だってダイエット本を出してしまう。なんだ、すごいなあ、大はやりだなあ、だなんて今さらながら驚いて見せてますが、私はというとまったくといっていいほどダイエットには縁がなくて、だからこのへんは横目で見て素通りです。とかいっていたかったのですが、流行に疎すぎるというのもまたいけないなと思うものですから、前々よりちょっと興味のあったダイエット本を買ってみました。著者、中島らも。そのタイトルは『牢屋でやせるダイエット』。ほら、実に効果ありそうなタイトルでしょう?

でも、本当は違うんです。この本は、大麻所持で捕まった中島らもが、拘置されていた22日間を振り返ってつづった手記なんです。厚生労働省の麻薬取締官が自宅に踏み込んできた。これを皮切りに、中島らもは一転、拘置所という非日常に身を置くこととなります。拘置所とは一体どういうところなのだろう、普通の生活していればちょっとお世話になりそうにないところですが、この本には中島らもという希代の才人の目で見、肌で感じた拘置所の姿があります。果たしてそこに非人間性を見るのか、あるいは人間の温かみを感じるのか、それは読んだものがそれぞれ胸に抱けばいい感想です。そして私はというと — 、なんか悲しかった。じんわりとしみるように悲しかった。中島らものあんまりな人間臭さが、たまらなかったのです。

最初は反抗的だったらもさんが、この独特のシステムによって運用されている施設になれていくに従って、馴染んでいく経過が悲しかった。非人間的装置であると一度は見限られた拘置所だけれど、だんだんとそこに人の息遣いを嗅ぎ取っていくその過程に、人の悲しさが見えるように思えて、いや悲しさというと勘違いされるかも知れないね。いじらしさであるといってもいいと思う。どんなに血の通っていないと思える冷えきったシステムであっても、人があらば通う心もある、通じる情もあるのだねと。読みながら、もしかしたらストックホルムシンドロームなんじゃないかと思ったりもしたのだけれども、中島らもの通わせようという情は、看守や取締官に対してだけでなく、ついにはまだ見ぬ被疑者たちへと向かい、かつて同じ独房に寝起きしたものへ、そして自分の出ていった後にやってくるだろうものへ、等しく温かく注がれるのです。

昔、グレン・グールドという変わり者のピアニストがありまして、孤独が人を詩人に変えるだなんていっていたのでした。彼は彼自身に対するインタビューの中で囚人をやってみたいとよく思ったなどといっていて、俗世間を脱し孤独に向きあうという一種のメタファであると考えればいいと思うのですが、けれど中島らもはこれを実際にやってしまったわけです。いや、囚人というのはちょっと違うけれど、けれど拘置所の独房で二十日あまり思索の日々を過ごして、深く内省し、人は善と悪という概念を持ったがために、自ら内に抱える悪からは逃れ得ないと、そして人はどこかしら欠けた心を持っているがゆえに、なにかにすがっていなければ生きてかれないのだと、そして自分の場合、それは大麻であったのだと — 。そうしたあまりにまっすぐ過ぎる視線でつぶさに語られる人間観が切なく悲しかった。人の弱さを否定しない。人は弱いものだということを、多分誰よりも知っていたから、私も含めて弱い者たちは、この人を放っておけなかったんだと思う。

実際、この人が大麻で逮捕されたときにしても、テレビや新聞はこの人のことを悪くいったかも知れなかったけれど、私のまわりのらもファンは、この人らしいといって、そんな悪口ちっとも取り合わなかった。むしろ、こんなんで逮捕なんて、逮捕するほうがあほやわ、実刑なんて許されへんと、最後の最後まで中島らもを応援していた。それは、お互いに自分の弱さを知って、それを責めもしなければなじりもしない、ただただ弱さを弱さのまま受け入れて、けどその弱いままではいたくない、進もう、歩いていこう、今のこの混迷を抜け出して少しでも光の当たるところに向かおうと思う、いわば同志のようであった私たちの、仲間意識に似た共感が後押しした思いなのかも知れないと思います。

そしてその共感があるがゆえに、今私はたまらなく悲しくて悲しくて、それこそしようがないのです。吐く息さえも悲しくて、どうしようもないのです。

引用

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