昨日に引き続き、ゴダール作品を見ました。『勝手にしやがれ』。これも『気狂いピエロ』同様に、ゲームショップの閉店セールで買った一枚なのですが、 — つまるところ、ヌーヴェル・ヴァーグは人気がなかったといっていいのかな? けど、そもそもこれをゲームショップに置いたのが間違いというほかなくて、だってこの手の映画を見る人間って、よほど映画ないしは映画史に興味があるような人間だろうし、あるいは青春の頃にジャン=ポール・ベルモンドの格好良さに憧れたみたいな人間、つまりはある程度歳いった人ですよね。この手の人は、あんまりゲームショップに出入りしないと思う。仮に出入りしたとしても、すでに持ってるとか、そういうタイプなんじゃないかなあ。けどまれに私みたいなのが買っていくんだと思います。安くなってるのを見て、お、ラッキーとばかりに買っていく、そういうこともあるのでしょう。
でもね、この映画、今でこそ大人気とはいかないけれど、封切られた当時はそれはそれはすごい人気だったんだそうですよ。どれくらい人気だったかというと、私の父、もう六十を過ぎている、その父が、私が見ているのを途中だけちらりと見て、ジャン=ポール・ベルモンドか、『勝手にしやがれ』見てるのかと、一瞥してわかるわけです。父の若かった時分、この映画はそれくらい若者の間に浸透していて、フランス映画が人気であったということもありましょう、また映画自体が若者のみならず庶民の娯楽として絶大の力を持っていたということもありましょう。けど、それにしてもすごい反応力だった。40年前の映画なんですけど、その歳月を経て記憶に残らしめるほどに浸透したのでしょう。いやはや驚きです。
『勝手にしやがれ』はヌーヴェル・ヴァーグといわれる様式(?)の映画なのですが、ジャンルとしてはフィルム・ノワール。犯罪を描いたものであります。当時の若者に絶大のアピールをしたジャン=ポール・ベルモンド演ずるミシェルは、よくいえば無頼、悪くいえばろくでなし、いやならず者の方がぴったりかな? 本当にとんでもないやつで、隣人にこんなのがいたらたまらんなあと思わせるに充分な悪党です。次々と車を盗んでは乗り換え、金がなくなれば女にたかり、さらには強盗も辞さないという傍若無人っぷりを発揮して、うわ、なにこのサイコパス? たまらん奴だなあ、そんな風に思うのですが、この映画自体は彼の犯罪をテーマにしているわけではありません。むしろ、彼がパリにまで追ってきた女、パトリシアとの掛け合い、彼女との関係の中にこそ意味がある。その場その場に生じる欲求ないしは欲望に素直すぎるミシェル、彼がパトリシアに求めたものってなんなのだろう。ぬくもりや触れ合いなんてやわなもんじゃないですね。安らぎなんかでもない。癒し? は!? なにそれ? そんな生易しいものじゃない。彼の欲望はもっとぎらぎらした、生々しいものですよ。
生きることは欲望をただ充足させることであるとでも言いたげな彼の放埒な生き方。自由どころか、勝手気ままな生き方。あくまでも彼は自分のやりたいことのために生きているのだけれども、その生のスタイルが自分自身を罠にはめるかのように束縛していって、最後には破滅させてしまう。破滅したかったのかといわれるとノンでしょう。けれど、望みのものが手に入らないなら破滅の方がましだと考えていたのは確かで、生きること、得ることを望みながら、同時に失うことを求めている、そういう匂いが映画全体から感じられる。台詞からも、映像からも、そしてなによりジャン=ポール・ベルモンドから、濃厚に感じられるのです。
ミシェルのきわめて刹那的な生を描いたこの映画が、当時、なんでそれほどまでに人気を博したのかは、その当時の世相なんかもあわせてみないことには伺い知れないものがありますが、けれど若者とはえてして快楽を志向して刹那的に生を消費したいと思うものなのかも知れないとはいっちゃいけないものでしょうか。私みたいに、積み上げることにしか興味のないように見える人間でも、刹那の快楽に生を散らす誘惑に駆られることはあるのです。そして、そうした危険な誘惑に挑む若者の姿を、ジャン=ポール・ベルモンドはこれでもかと体現してくれた。明日のある身の我々にはおおよそ真似のできないことを、さっそうと、スタイリッシュにやってのけるベルモンドは、きっとことさらに格好良かったのでしょう。そしてその格好良さは、私にもわからないではないのです。善きものに、光に惹かれるそぶりを見せる私ですが、それでも闇や背徳に憧れる心はあって、そしてそれは、条件さえ許せばミシェルの生に重ね合わされたことでしょう。ただ、私は生まれるのがちいとばかり遅かったと、それだけのことかと思われます。
ところで、刹那的であったミシェルの生ですが、しかし彼が本当に最後に求めて手に入れられなかったものってなんなのだろう。彼は手の届く範囲のものなら片っ端からくすねようとしたわけだけれど、最後には到底手の届きそうにないものに手を伸ばそうとしていたと思われて、そして結局は手に入れられなかったわけで。それがなにかと迫るところがこの映画の謎であり、観客である私がともに踏み分けていくべき深みなのだろうと思います。
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