2007年9月18日火曜日

ハリー、見知らぬ友人

 昨日、ジャン=ポール・ベルモンドの演ずるミシェルを評して、隣人にこんなのがいたらたまらんなあなんていっていましたが、隣人にいるとたまらんということに関しては、ハリーもどっこいどっこい……、いやあるいはそれ以上かも知れません。

ハリー。一体このハリーというのは誰かといいますと、フランスの映画『ハリー、見知らぬ友人』に出てくる、主人公ミシェルの高校時代の友人です。バカンスを過ごすべく別荘に向かう途中、途中立ち寄ったサービスエリア(?)のトイレで、ミシェルはハリーに再会するんですが、ミシェルはこのハリーのこと、まったく覚えていないんですね。けれど、ハリーはミシェルのことをよく覚えている。当時書いていた詩など、すらすらとそらんじるほどに覚えている。そして、そのハリーがどうしようもなく親切な奴で……。親切? いや、本当に親切なんですよ。本当にあり得ないくらいの親切な奴なんです。

どれくらい馬鹿親切かといいますと、ミシェルの車が故障したのを見て、新しいミツビシの四駆を買ってあげるよ、君に必要なのは快適な四駆なんだ、とさらりといってのけるような、そんな男なんですよ。うわ、そんな友達、僕も欲しいよ! って思います? けど現実問題としたら難儀な話ですよ。普通、友人間においても引くべきラインというのがあると思うんですが、これ以上は立ち入ってはならない、これ以上は、たとえその人のためと思っても踏み込んではならないという線を引かれてしかるべきところを、ハリーは頓着しない。すべて、ミシェル、君のためなんだ。僕は君の才能に惚れている。その才能っていうのも、高校時分の学校の文集に載った詩や小説ですからね。当然、ミシェルは当惑しますわね。一体この賞讃ぶりはなんだろう、あまりの崇拝ぶりには見ているこちらも目を丸くして、そしてその親切は暴走をはじめます。

はじめは車を買う、手伝い、援助を申し出るという、比較的視聴者にも納得のいく範囲にとどまっていたハリーの親切ですが、ミシェルの才能を開花させるために邪魔と思われるものを排除するにいたってはありがた迷惑以外のなにものでもなく、しかもなにが恐ろしいといっても、そこには一片の悪意もないのです。ハリーは、本心からミシェルのためと思っているから、ためらいも後悔もなく親切を遂行するのですが、その親切が本当にミシェルのためになっているかどうかというと — 。詳しくは見てのお楽しみ。この映画に親切の危険領域を見ることになろうかと思います。

あんまりここで映画の内容をどしどしいってしまうのもなんですが、でもまあちょっとだけ。ミシェルが何年もかけて修繕している別荘ですが、ミシェルの意向も聞かずに父がバスルームをピンクに改装してしまっていた! これがこの映画において最初にあらわれるありがた迷惑であろうかと思うのですが、木質もあらわに薄暗い別荘において、このピンクのバスルームの異質さっていうのが半端じゃないんですよね。見るたびに笑ってしまう、ある種別世界を作っちゃってるといっていいくらいに浮いていて、けどこのあんまりな異質さって、よかれと思ってどしどし個人の領域に踏み込んでくる親切やらありがた迷惑のメタファーですよね、多分。それで、ミシェルはそのありがた迷惑の王国であったバスルームを、多分別荘内で一番明るい部屋だからだと思うんですけど、最終的に書斎代わりに使っちゃったりしてたわけですけど、これってありがた迷惑もいずれは慣れて受け入れちゃったりするってことなのかな? わかんないけどさ、この映画にはこうした象徴的なシーンや要素がやたらとあるように思われて、ここまでいうと牽強付会も甚だしいけど、情事のあとに生卵を飲むことを習慣にしているというハリーっていうの、創世記における蛇を想起させるための仕掛けだったりするんじゃないかとか思ってしまうわけで、こうした思わせぶりなところも含めて、この映画は受け入れられたんだと思います。

ところで、この映画のラストっていうのがとんでもないと思うんです。すべてが終わって、ミシェルはもとの日常に戻りましたみたいな感じで終わってるけど、いや、全然元には戻ってませんから。だってね、すべてが変わってしまっている。ハリーの最初にいっていたように解法(ソリューション)っていうのは確かにあって、そしてそのソリューションを適用したことによって、家族は円満、お父さんも本来あるべき自分を取り戻せたのでした、めでたしめでたし、え? そんな話だったっけというようなラストですよ。警察は? とか考えちゃいけないんです。けれど、これはやっぱりハリウッド映画ではないから、本当なら解決されるべきことがらが放置されているということは見過ごしにしちゃいけない、ここにもちゃんと意味があるんだと考えるのが自然であると思います。

引用

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