私はこないだ『御先祖様万々歳!』を『アニメ大好き』で見たみたいにいっていましたが、正確にいうとこれ間違いです。『アニメ大好き』で放送されたのは、『御先祖様万々歳!』を編集して作られた劇場版『MAROKO』でありました。私はこれを見て、そのあまりのインパクトに圧倒されて、当時私は、とりあえず『アニメ大好き』で放送されるアニメはビデオに録るということをしていましたから、後で数度見返して、その度に強烈な印象を得て、どうコメントしたものか、けれど最後に残る寂寥感。こればかりはいつも変わらないんです。寂しさの質、内実はその時々で違っていたかも知れないけれど、いつも心に寂寥を抱えて立ちすくんでしまうのです。
さてさて、前回ね、『御先祖様万々歳!』、大筋は覚えているけれど詳細は忘れていた旨書いていましたけれど、これは『MAROKO』にも関係しているのですよ。さっきいいましたけれど、『MAROKO』は総集編です。『御先祖様万々歳!』から本筋を損なわない範囲でカットして、再構成して、そうしてできた映画です。だから大筋をつかむには充分。瑣末な部分がないから、テーマをつかみやすいといえるかも知れません。そう、例えば『御先祖様万々歳!』において語られた麿子の真実、なんと『MAROKO』ではそこがカットされている。これはこのアニメにおいては、麿子が何者であるかということはそもそも問題ではなかったということを示していて、つまり最初から主眼は四方田家の三名、父、母、息子を巡る物語でしかなかったことを明らかにしています。
いや、あるいは物語でさえなかったかも知れません。家族という自明に思われていた関係に対する疑義を描くこのアニメは、いわばかつて存在すると信じられていた物語なるものの欺瞞を、あの劇中にさらに演劇手法を持ち込むというやり方でもって露にしようとしていた、のかも知れないのですから。
私は先日、かつてあったものを失ってしまった人の姿が寂しいと、手にさえしていなかったものを失ってしまった憐れさが身にしみるだなんていっていましたが、この手にしていなかったという点、これはもっと深いのかも知れませんね。ないことに薄々気付きながら、あるいははっきりと自覚しながら、あえてだんまり決め込んで、まるでそれがあるように演じてきたんだ。ところが思わぬイレギュラーのために、そのなかったということが白日に下にさらされてしまった。そういう話なんだと思います。わかりにくいですね。ちょっと整理しましょう。
前回私は、麿子の介入でそれまでの日常を失ってしまった、なんていっていました。けど、本当はそんな日常なんて最初っからなかったんです。家族というフィクションを演じ、捏造の日常に甘んじていたことは第1巻の時点ではっきりと告げられていて、だからいつ解体してもおかしくなかった。麿子はその解体を後押ししただけ、いずれは崩壊する予感に満ちたうちだったのですから。最後の最後、ゴミ回収車の運転士のいう、手抜き工事の発覚なんてのもそのへんをいってるのかもね。とにかく、彼らは家族なんて希薄な前提に過ぎないと自覚しながら、それをそれなりに守っていた。ただそれだけ。そしてこの話は、家族というあり方の危うさを、手を替え品を替え見せてくれた。だから、麿子が誰であるかなんてどうだっていいんです。
最後、あの犬丸の憐れさは、ないものに思慕し、求めるものの憐れさだと思うのです。彼は家族の無意味を悟っていて、だから古い家族を否定しようとしたのだけど、その後、新しい家族を手にしたいともがいてしまった。けどね、そんな新しい家族なんてのはもう手にすることなどかなわないのだから、彼はああして一人さまようしかなかったのかなあなんて風に私には思われて、そしてその姿は、近代の色の残る時分に生まれて、近代を脱しようという今に漂う私のような人間には自分の写しのようにしか見えなくて、だからこそ余計に憐れを思う、 — 彼を通して自分自身を憐れんでいるのだと、そんな風に思います。
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