女房と畳は新しい方がいいっていうから、きっと本もそうに違いないと、買ってきました『反社会学講座』。あれ、あんた、この本持ってなかった? ええ、持ってますよ。というか、既刊、全部揃えていますね。なんかマッツァリーノのファンみたいですね。そういえばサイトのチェックも結構まめにやってるし、ついでにいえばエッセイなんかも読んでます。ええ、好きなんですよ、この人の文章。ちょっとひねくれた風で、悪ふざけやら皮肉みたいなのがあちこちにちりばめられていて、けれどいってることといえば結構真っ当で、それになんといっても主張がある、視座がある。おかしいって思っていることに対しては、そいつぁちょいと妙じゃねえかい、と真っ向から啖呵を切って、けど口先ばかりじゃないよ。種々様々のデータ、資料、統計を駆使して、おかしいってところを根元からあらわにする。けれどそれがお説教くさくないのですからたいしたもので、ああ、こりゃ希有だね。読んで、面白がって、そうかこんな調べ方があるのかと勉強にもなって、ついでに溜飲を下げ、活力もわいてくるっていうもの。ええ、私はこの人の文章読むと、なんだか浮き立つようで、変に元気がわいてくるんです。
けれど、さすがに同じ本を買うっていうのは尋常じゃないよな、なんていう意見もございましょう。正直、私もそう思います。けど、それがファンっていうもんなんだ。いや、そりゃただの盲従だな。そういう態度はいけません。じゃあなぜこの本を買ったのかというと、補遺がついてくるからです。題して「三年目の補講」。『反社会学講座』旧版が出版されたのは2004年でした。そして今は2007年。この3年の間になにがどれだけ変わったのか、また変わらないものはなんなのか、こういう検討がされているとでもいったらいいのかなあ。まあ、ちょっとしたおまけみたいなもんですが、けれどおまけというにはしっかりとしている。本文に不備があらば補足し、異論反論があれば再検証し、また同じ統計からその後の変化を追跡したかと思えば、思いがけない見識まで披露されて……、ええと例えば、マッツァリーノ曰くまだまだネットには質・量ともに、図書館に取って代わるほどの情報はありません
。実は私も同意見です。
私は本家こととねにて初学者のための音楽講義というコンテンツを公開していますが、これがオリエンテーションすなわち導入部で止まっているのはなぜなのか。その理由、まず第一には、生徒が忙しくてこれなくなった。これ、生徒に音楽のもろもろを教えるために用意した資料だったんです。つまりは再利用だったってわけ。そして第二の理由、こちらが切実、私が勤めていた図書館をやめたから。私の働いていた図書館はいわゆる専門図書館で、音楽に関する資料、文献もろもろへのアクセスが極めて容易であったのです。私はあれらを作成するにあたり、多くの資料にあたり、裏をとり、面白そうなエピソードをピックアップして、そして同僚に意見を求めて、できるだけ正確なもの、妥当性の高いものを作ろうと骨を折っていたのです。ですが、その資料が利用できなくなった。これ、もう大打撃ですよ。本当ならオリエンテーションを終えたら、すぐさま歴史編に移るつもりだったんです。ですが歴史こそは資料が大切で、自宅にも何冊も歴史関係の本を確保してるんですけど、けれどそれでは足りないのです。全然足りない。だからといってWebに答えを求めるなんてもってのほか。あれが書かれた2001年時点はいうに及ばず、今2007年であっても大同小異です。よくまとまってるなあと思えるものはあるけれど、それはごく一部。大半は参考にするにも弱すぎるものばかりで、だからWebというものは、読み物探すにはよくっても、資料となるとからっきしだと思っています。本当だったら大学や研究機関がさ、信頼に足る情報源として機能しなきゃいけないんだと、特に文系学問、さらにいえば音楽、音楽学。けれどそういうのがほとんどないってどういうことだよ。私みたいな個人がやったって焼け石に水なんだよ、それこそ学会とかなにしてるの、って思ってるんだけど、でもまあ駄目なんだろうね……。
なんの話してたっけ? あ、そうか図書館か。残念ながらWebは情報源としては図書館にはるか及びません。私はちゃんとした図書館員になりたくて司書の資格を取ったのですが、その課程において知ったのは図書館をツールとして利用するための技術でありました。図書館には情報源がたくさんある。もちろん、すべての図書館にあるわけじゃない。残念ながら日本の図書館は、資料のアーカイブとしてよりも貸本屋的な機能が中心で、それは結局は利用者の求めがそうだからとしかいいようがないのですが、けど本当は図書館というのは、調べものをするためのツール群を用意する施設であるのです。ヨーロッパやアメリカなんかは図書館における最前線であるといっていいと思うのですが、ライブラリアンのステータスが半端でないといいますね。図書館学以外に専門課程も修める必要があったはずで、そうした専門知識を駆使し蔵書を構成し、また利用者に対して適切なリファレンスをおこなう。公共図書館でもかなりのものだといいますが、大学図書館ともなるともうそりゃ半端でないんだそうで、調べたいことがあるんだけどって聞いたら、ちょっと待ってろ、山ほど本を抱えてきてさ、お前の知りたいことはこの本とこの本に詳しい。これとこれとこれには関連する論文が収録されている、ほらここからここまでがちょうどそのテーマだ、みたいな具合なんだって、アメリカに留学していたという人から聞きまして、私はそういうライブラリアンになりたかったんだけど、けど私にはそういうことは求められてなかったなあ。頑張ったんだけどなあ。ある作品について知りたいと問われれば、論文集やらエッセイやらかき集めて提供したりできる寸前までいってたんだけど……、けれど私のそうした機能はあの図書館では結局必要とされず、だからやめるほかなかったんですね(だって専門駆使して時給800円だぜ、そりゃねえよ)。
なんの話だっけ? ああ、図書館か。
パオロ・マッツァリーノの調査活動見てると、ああこの人は図書館を知っていると感じられて嬉しくなるんですよ。図書館には資料があって、適切に利用すれば、こんなにもたくさんのことがわかるのだ。資料、統計、本の類いは、表面をなぞるだけならただの数字、文字、データの羅列に過ぎないけれど、多様な情報へのアクセス仕方を知り、読み解き、組み合わせをおこなうことによって、再び命あるものに還元することができるんだって、その手本みたいなんですから、本当に興奮します。情報は単体ではえてして弱いものですが、だから様々な情報で支え合い、補強して、またひとつの情報が次の情報をひき出すための呼び水となったりもして、当初の予想以上にいろいろなことがわかったりするのも非常に面白い体験なんです。これは学問だとかなんだとかは関係なくて、とにかく知るという、情報を咀嚼しわかるという楽しみ、喜びの洪水です。本来図書館とは、そうした知の楽しみ渦巻く遊園地、アトラクションであるのですが、けれど今は半分以上眠ってるっぽい? 残念よね。ほんと、残念だと思います。
あ、そうだ。パオロ・マッツァリーノは世界有数のふれあいウォッチャーだそうですが、氏に触発されて私もふれあいを求めたりなんとかしてみたところ、私の住むまちにもふれあいが発見されたのですね。その名もふれあい回遊のみち。その入り口に立つ案内の写真を撮りました。見てください:
参考
- マッツァリーノ,パオロ『反社会学の不埒な研究報告』東京:二見書房,2005年。
- マッツァリーノ,パオロ『つっこみ力』(ちくま新書) 東京:筑摩書房,2007年。
引用
- マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』(東京:筑摩書房,2007年),258頁。
0 件のコメント:
コメントを投稿