2006年8月6日日曜日

帰っておいで、スヌーピー

 チャーリー・ブラウンという男の子』と一緒に買った『帰っておいで、スヌーピー』。DVDソフトとしての名前は『スヌーピーの大冒険』なのでありますが、私の中ではより原題にそぐう訳である『帰っておいで、スヌーピー』という邦題で統一しております。って、相も変わらず頑固だねえ。でも、おたくないしマニアというものは、普通の人からしたら理解もできないところにこだわりを見せるものですから、こういう名前に対する思い入れなんてのもそうした一例。私の習性でありますから、もうしかたがないというほかないでしょう。

そして、おたくのもうひとつのこだわりポイント。それは声です。昨日いっていました『チャーリー・ブラウンという男の子』の声は、私の馴染みの坂本千夏版でありまして、やったぜ! みたいな話だったのですが、じゃあ『帰っておいで、スヌーピー』はどうだったかと申しますと……、これは決してやったぜとはいえない、そういう結果と相成りました。

最初にことわっておきます。私が坂本千夏版がいいというのは、それが単に私に馴染んでいるからというだけの理由です。他の吹き替えが劣っているといいたいわけでないということにはどうぞご留意ください。それこそ昨日いっていたように、各種吹き替えを収録したDVDなんてのが出たら[中略]多くのファンが喜ぶはずなんです。だって誰しも馴染みの吹き替えというのがあって、経験や好みによって、どれがいいとかこれはうまくないとか、本当に人それぞれだと思うのです。そして私にとっては、坂本千夏版が馴染んでいた。単純にそれだけの話なのです。

さて、『帰っておいで、スヌーピー』の吹き替えはどうだったかといいますと、以前にもちょっと触れていましたが、古田信幸版であります。チャーリー・ブラウンやライナスが大人っぽい男性ボイスで、わーい、すごい違和感! だって、坂本千夏版ではいわゆる日本アニメっぽい女性演ずる子供ボイスであるのが、古田信幸版では海外青春ドラマっぽくなってるんだもん。同じパラマウントから出ているDVDで、これほど傾向を異にしたものが併売されているのもすごいと思いますが、ほんと、どちらかに統一して欲しいものだと思います(となると、必然的に坂本千夏版ならざるを得ない。というのは、『ピーナッツ』映画の第1作には古田信幸版吹き替えが存在しないからです。ああ、なんというバイアスのかかった発言であることでしょう!)。

でも、吹き替えが馴染みのものではないといっても、映画の質には違いがなく、見ていてやっぱりじんとさせる、本当にいい映画だなあと思います。なんとなく粗末に扱われていたスヌーピー。そのスヌーピーが昔の友人に会いにいって、そして今の友人たちといよいよ別れるというときの状況がほろりと涙を誘って、スヌーピーの葛藤、悲しみのあまり声も出ないチャーリー・ブラウン。多分チャーリー・ブラウンたちの胸中には、なんでスヌーピーに優しくしてやれなかったのかという後悔が渦巻いていたのだと思います。別れの際になって、はじめてその大切なことに気付く。私たちの日常にもよくある話で、私たちはおりにこうした後悔を噛みしめながら、けれどまた日常に中に身近にいる人の掛け替えのなさを紛れさせて、そしてきっと近い将来に悔いるのです。誰もの経験する悲しみをよく描いた佳作であると思います。

私の好きなのは、スヌーピーと別れたチャーリー・ブラウンの独白に似た歌のシーンです。どうして世界中の好きな人たちを集めて一緒に暮らせないんだろうって、どうして別れがあるんだろうって — 。こうした悲しみはきっと世界中の誰もが同じく抱く普遍的なものでしょう。だからチャーリー・ブラウンの悲しみを誰もが共有できるはず。そうした共感性の強さが、この映画をことさら名作としているのかと思います。

DVD

引用

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