昨日の夜のニュースで倉橋由美子さんが亡くなられたという報に接し、ちょっとがっくりときてしまいました。六十九、— まだ六十九か、早いなあと思って、前にもちょっといったことがあるかと思いますが、人が死ぬということはひとつの可能性が消えるということです。それで世界が豊かになるか貧しくなるかはわからないとはいえ、けれど私にとって、倉橋さんが亡くなられたということは、世界の一部が欠けてしまったのと同じようなことであるから、だからやはりショックでした。
けれど、残念ながら私は倉橋さんについて思うには、あまりにその著作を読んでいないのです。読んだといえば、話題作が数冊といったところ。ふくむところは多いのにもったいぶるようなところはまったくなく、あっさりと素直な文章。なのにたっぷりと描かれる世界のよく落ち着いて、力動的であること。不思議な、力感を感じさせない力強さのある小説を書く人でした。
そんな倉橋由美子が小説について書いたというから、早速書店に出向いて購入したら、出版後ひと月にして第二刷でした。やっぱり売れてるんだなあ。この本というのが『あたりまえのこと』でした。
内容は「小説論ノート」と「小説を楽しむための小説読本」のふたつにわけられます。
読んで見ればわかるのですが、非常にやさしくていねいに書かれているから、すうっと胸に通る気持ちよさがあります。引っ掛かりがなく、特段重々しく書かれている感じもなく、だからといって軽いのかといえばそんなことはありません。読んでいる自分自身に響くような文章からはしっかりとした手応えが感じられ、だから私はこんなふうに思った:よい文章というのはさらりと読めて、それでただ流れ去るばかりのものではないんだ。
こういったわかりやすさ、読ませる文章を重視するというのは倉橋さんの基本姿勢だったのでしょう。「小説を楽しむための小説読本」にも、こうした傾向がはっきりと表れていて面白いです。なんでか日本では難渋な文章を好むところがありますが、そういうのを指して倉橋さんはほとんど寝言
と手厳しい。この本は万事この調子で、よいものはどこがよいのか、悪いものはなにが悪いのかと、すっぱりすっぱりと割り切った筆致で整理していくものだから、読んでいるこちらもなんだか嬉しくなっていく。簡単なことだったんだとわかる。簡単なこと、すなわちこれがあたりまえのことであるのでしょう。
私のような気を抜けばすぐに難渋文にむかいがちの寝言型人間には、そのあたりまえが難しく、ふと気がついたら、誰にも相手にされないような独りよがりをやっていることしばしばです。だから、こういうあたりまえのことを指摘してくれる本や人というのは本当に貴重であるのです。
倉橋由美子の真っ当さは、その小説からも感じ取れるほどに一本芯の通ったものでしたが、この本ではその健全が健全のまま一体をなしています。とまあ、私はすぐものごとをややこしく表現する。倉橋由美子のらしさがありのままだといったほうがずっと通じるというのに、ですよ。
引用
- 倉橋由美子『あたりまえのこと』(東京:朝日新聞社,2001年),148頁。
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