2005年6月7日火曜日

漢字と日本人

 君は主義者かねと薮から棒に聞かれてたまげたことがあります。私に対してのことですから、きっとアカかといわれてるのだと思ったら、それが大間違いでして、右翼かというんですね。なんでですかと聞き返したらば、私の以前に渡しておいた書き置きに正字が含まれていたからというわけで、ああ、そうじゃそうじゃ、確かに私は正字正假名をつかうことが頻繁です。

けれど、別にこれは右翼だからとか保守主義者だからというわけではなくて、習字をやっているから、— 手と目に字を習わせるためであるからと説明申し上げて、主義者というほど上等なもんではないとお断りしました。けれど右翼というのを本来の保守傾向の意味でいうならば、私は、こういった文化的な方面においては、まごうことなく右であるなと自己分析するものであります。

けれど、文化伝統主義者と自らもいう私のだらしなさったらありませんで、そもそも私の目にも手にも正しい字や仮名遣いというのはありません。私が日頃書いているのは、皆さんと同じく戦後略字の数々です。戦後の、どちらかといえばリベラルな環境で育って、私はあんまりにも素直でしたね、文部省とやらのいうことを疑わなかった。国語の授業において、漢字や仮名遣い、送り仮名、文体を、教科書や教師のいうままに習って、それでいいと思っていた。けれど、そうした文部省やらのいうことが、こと日本語においては絶対ではないと知ったのは、高校の時分の社会科の教師の一言がはじめでした。

板書の送り仮名に駄目を出された教師は、間違いではないといったのですね。これら仮名は読みやすくするために送るのであって、いわゆる本則が絶対ではないのだうんぬん。すわ開き直りかあるいは言い逃れかと思って調べたら、実に教師のいうことは正しくて、私はそれ以来、仮名の送りに関しては本則を絶対視しません。

大学にて学んでいた頃。『〈藝術〉の終焉』という本を講読したことがありました。この本では藝術は藝術と一貫して記されていて、国安先生は芸と藝の意味の違いを知っておいでだから、どうしても藝術を芸術と書くことはできずにいらっしゃるのだと教員から知らされて、けれど私はその意味をよくわからず、けれどきっと意味があるのだろうと藝の字は空で書けるようにしました。

日本語における漢字の重要性を理解しない日本人はいないことでしょう。ですが、ご存知でしょうか。世の中には仮名書き論者というのがおりまして、最近でこそその勢力を弱めていますが、日本語から漢字を放逐して、かなだけでかくようにしようというひとたちがあるのです。ついでにいうとローマ字論者というのもあって、その人たちは、日本語から漢字や仮名を放逐して、ro-ma ji dake de kakou to iimasu。

今からすれば、なんと無理矢理という感もあるのですが、けれど戦前戦中あたりにはこうした派閥は結構幅を利かせていました。実際私は、図書館の蔵書にローマ字論に則って書かれたものを見つけたことがありますが、しかしそれにしても読みにくかった。ちっとも内容が頭に落ちてこないのです。今、こうしたローマ字ばっかりの和書だとか、あるいは仮名のみで書かれた大人向けの本というのを目にすることはちょっとありませんが、けれどこれら仮名書き論やローマ字論が今の私たちにまったく影響していないわけではないのです。

私たちが不断使っている漢字ですが、常用漢字という枠組みがあることはご存知であると思います。例えば、ここ数年、よくよくメディアに現れる拉致という言葉ですが、ちょっと前まではと表記されていました。これはなんでかといいますと、拉致の拉の字が常用漢字でないためでして、新聞は常用漢字表外の文字を使わないようにしていましたから、こうした交ぜ書きというのがたくさんあったわけです。例えば破綻(破たん)なんかもそうですね。補填(補てん)なんかもそうでしたね。

この交ぜ書きという醜悪がまかり通っていたのは、常用漢字というものがあったからなのですが、この常用漢字の正体とはいったいなんであったのか。常用漢字はかつて当用漢字と呼ばれていましたが、そもそも当用というのは当座の用という意味で、つまりさしあたって使用される漢字という変な呼び名であった。なぜか?

高島先生の『漢字と日本人』には、この奇妙な漢字に関する事実が、わかりやすく説明されています。国安先生が藝術を芸術と書かれないわけについても書かれています。こと重要なのは最終章でありますが、ここにいたって、私はことのあまりの悔しさに泣いてしまったほどです。

ですが、お恥ずかしいことですが、私はこの本を読んで、自分のものを知らないことをあらためて思い知って、自らを呪わないではおれませんでした。戦後の日本語の誤りの中に学んだ私は、自分の使う言葉のおろそかであることを表向きには嘆いて見せるくせに、実際には、結局言葉というのはコードでもあるわけですから、私だけが意固地に逆らっても仕方がないと、半ばあきらめてしまっています。日常の用には、それこそ常用だか当用だかの表中にある、略字使ってればいいじゃんかと、そんなやけっぱちな気持ちであって、恥知らずにも中途半端のどっちつかずをやっているのが私という人間の浅ましいところで、— けれど私はわたくしの用には、なるたけ正しいものを使いたいと思っています。

しかし、これはまた思っていた以上のセンチメンタルぶりですね。自分でもちょっと笑っちゃいますわ。

  • 高島俊男『漢字と日本人』(文春新書) 東京:文芸春秋,2001年。

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