2008年11月30日日曜日

GENERATION XTH -CODE BREAKER-

 2008年11月30日は、GENERATION XTH第2章、CODE BREAKERの発売日であります。もちろん私は購入済み。というか、オフィシャル通販使ったから、すでに入手済み、プレイも開始しているのであります。といったわけで、私の生活は迷宮探索を軸にして再構築されることとなりました。朝起きて迷宮潜り、飯食って迷宮潜り、風呂浴びて迷宮潜り、寝る前に迷宮潜り。迷宮三昧でありますね。しかし、なぜこうも迷宮となると心が動かされるのだろう。長年の謎であるのですが、しかしただ単に迷宮があればいいというわけでもないのですよ。謎があり、戦闘があり、そしてロストというシステムがなければどうにもこうにも燃えません。そう、GENERATION XTHはかの名作Wizardryの系譜に連なるゲームであり、ロストシステム完備、クリティカルヒット健在。そして今作ではより以上に凶悪な攻撃もあって……、正直洒落になってません。

でもその洒落にならない状況が楽しいというのですから、WizプレイヤーあるいはXTHプレイヤーは、どこかネジがとんでしまっているのかも知れません。死んだらゲームオーバーなんてあり得ない。全滅したら、別パーティを編成して、救出作戦だろ! で、二重遭難するのね。もう洒落にならない。敵のスペルが後衛のHPをごっそり奪って、1ターンで死亡直前まで追い込まれるのも乙なものです。逆にいえば、こうでなければ楽しめない。毒を食らえば、拠点まで戻れない可能性さえ出てくる。ダメージ床で瀕死どころか、深瀬に飛び込んで全滅もあり得るゲーム。浮遊呪文をかき消しながら水没とか、本当にやめて欲しい。けれど、こうでなければもう楽しめない。普通のRPGはぬるくてぬるくて、正直楽しめない。死んだらペナルティなしで最後のセーブポイントまで戻って再開だなんてあり得ない。ペナルティがたかが罰金なんてあり得ない。死んだら、そのキャラクターをきれいさっぱり失ってしまうかも知れない、そうした恐怖のないゲームには心が動きません。

でも、Wizardryもそうだし、G-XTHもそうなのですが、凶悪なシステムがあるということは、それでも充分クリアできるようにバランスがとられているということでもあるのです。実際、私はG-XTH -CODE HAZARD-をノーリセットでクリアしています。まあ、何度か死んだけどさ。でも、何度か死ぬ程度ですむんです。全滅は皆無。そのかわり、石橋を叩いて渡るようなプレイをしています。出現する敵とのレベル差を常に把握して、苦戦が予想されるならば先に進まず、レベルをあげるために低レベル階に留まる。間違っても、この先にいったら強い敵が出そうだけど、様子見に突っ込んでみようかなんて考えない。しかしそれでも死ぬ時には死ぬんです。というか、普通に一撃死があるのは困るんですけど。クリティカルヒットがどうこういう以前に、通常攻撃で死ぬんですが……。

G-XTH -CODE BREAKER-は、前作からキャラクターを引き継いだおかげで、レベル15からのスタートです。でも、実はこれが危ない。だってね、前作にレベルキャップがなかったら、おそらくはレベル20くらいにまでは育っていただろうと思われるパーティです。それが一律レベル15に足止めくっていて、で、迷宮潜ったら敵のレベルがこっちより高いってどういうことだい。一撃死、当然あります。スペルが凶悪、普通です。一戦するのもきつかったのに、立て続けに連戦くらって、しかも五連戦とかもあり得るという状況に目がくらみます。それでも全滅せずにすんでいるというのは、ちゃんとバランスがとられている証拠だと思うのですが、しかし、半壊くらいは普通にあって、洒落にならない。けれど、この洒落にならない状態が楽しいのですから、やっぱりどこかネジがとんでいるのでしょう。

ストーリーの進捗は、正直それほど重視していません。でも、やっぱりストーリーを進めるためのギミックがあると、ただ戦闘するよりも楽しいのは確かですね。もちろん全部をクリアしていないわけだから、どれくらいまで進んでいるだなんていえるわけはないのですが、おそらくは序盤、導入を過ぎて、中盤にさしかかろうといったところなのではないかと思います。でも、全然いい武器が手に入らなくってですね、戦闘が厳しくて厳しくて。だから、気分的にはまだ序盤も序盤。僕たちの戦いはこれからだ! まさしくそんな気分なのであります。

2008年11月29日土曜日

うらバン! 浦和泉高等学校吹奏楽部

 音大を舞台にした漫画が大ヒット、ドラマになったりして、また漫画で使われた曲、もちろんクラシックなんですが、のCDが馬鹿売れ、演奏会に訪れるお客も増えたとかで、オーケストラが一息ついているなどという話です。さて、そうしたもろもろの動きは私にはまったく関係ない、そう思っていたのですが、いやあ、まさか音楽四コマが増えるというかたちで関わってくるだなんて予想もしませんでした。本当は関係ないのかも知れませんけどね、でもほぼ同時期に三本かな? 連載が始まりまして、ひとつはお嬢大にてピアノを学ぶヒロインのバンドもの、あとふたつが吹奏楽もの。『うらバン!』は、その吹奏楽もののうちのひとつでありまして、こちらは『まんがタイムきららキャラット』掲載作。女の子のビジュアル的可愛さを前面に押し出しつつ、ナンセンスな吹奏楽コメディを繰り広げてくれて、最初のうちは微妙かななんて思ってたのだけど、じわじわと面白さが増してきて、今ではすっかりお気に入りの漫画になっています。

私は中学高校と吹奏楽部に所属していて、パートはサクソフォンであったのですが、それが高じて音楽の道に進み、今ではギターを弾いています。サックスは十年近く吹いてないので、きっともうまともに音出せなくなってるだろうなと思うのですが、こうした吹奏楽漫画を読むと、楽しそうだなあ、って思えてきて、なんだかまたやりたくなります。

『うらバン!』、浦和泉高等学校吹奏楽部は総部員数4名の、ミニマルな編成でがんばっています。って、普通ここまで減ると部として認められないんじゃないの!? っていう無粋なつっこみは置いておいて、実は私の母校の吹奏楽部がこんな状況だったんですよね。私らの年代では、吹奏楽コンクールは大編成の部にエントリーしていたのが、次第に人数が減っていって、小編成の部どころか、アンサンブルがやっとというような状況になったとか。今、子供が減ってますからね。また、吹奏楽部ってうざそうでしょう。団体行動とか、チームワークとか、連帯責任とか、早朝練習とか、居残り練習とか、上下関係とか。いや、本当にうざい。私がサックスを廃業したのは、こうした関係に疲れたからなんですよ。とかいう話はどうでもいいんだ。

部活動自体が敬遠されるような時代に、吹奏楽部がはやらないのはある意味当然のように思います。だから、部員数4人の吹奏楽部というのも、結構リアルな感じがしまして、しかし編成がフルート、チューバ、トランペット、パーカッションというのはなかなかにすごい。アンサンブルも組めないじゃないか。でも、それでもこの子らの活動している様は楽しそうで、やっぱり部活なんてのは楽しいのが一番だなあ。もちろん部活でも目標があって、その目標が高かったりすると、それなりの厳しさも必要になってくるんだけれど、その厳しさを乗り越えようという気持ちの中に、楽しさや面白さというのは不可欠だろうなって思うのですね。だから、今は部室に集まってわいわいと騒いでいるのが楽しいみたいな一年生も、音楽に取り組むことでその面白さを知り、厳しさにチャレンジしていこうみたいになっていくのかなって。いや、『うらバン!』は基本的にナンセンス色の強いギャグコメディですから、求める方向が違ってるかなとは自分でも思っているんです。でも、コメディの中に、ぽろりとリアルな感情、心の動きが感じられることがあるんです。それは気付き、発見であり、憧れであり、そして参加したいという気持ちなんだと思う。それはきっと昔の私も持っていたもので、懐かしさをともに読む、なんてったらいいんだろう、彼女らを自分の後進のように感じてしまっている、そういうところがあるみたいなのです。

『うらバン!』はナンセンスでコメディ、さっきから何度もいっていますが、だから、そんなのありっこないから! っていう無茶なこと、鼻でフルート吹いたりですね、そういう描写も出てくるんですけど、でも取材がちゃんとなされているのか、作者が吹奏楽経験者なのか、押さえるところは押さえている感じで、好感が持てます。例えば、外から見てるだけではアンブシュアなんていう専門用語はちょっと出ないだろうし、吹奏楽界隈ではなぜかドイツ音名が幅を利かしているとかですね、そういうのも気付かないだろうし、さらに、これは1巻の話じゃないんですけど、ミュージックエイトとか出てくると、これはさすがに経験者だろ! って思うわけです。こういう、経験者には懐かしく、ああ、あったあった、とうなづくことのできるネタの数々、多分吹奏楽に関わったことのない人にはちっとも通じないとは思いますけど、でもディテールがしっかりしているっていうことは、その描かれる世界のベースがしっかりとしているっていうことだろうと思うのです。漫画だから、現実にはあり得ないこと、ありにくいことも描かれます。けど、その下地にしっかりしたものがあれば、きっとちょっとやそっとではぐらつかない。ぐらつかないから、アクロバティックも可能になるのだと思うのですね。

さて、私がこの漫画を読んでいて、嬉しかったのは幽霊顧問の登場ですね。彼女はなんとサクソフォニスト。やったあ! 自分のやってた楽器が出てくるってのは、それだけで単純に嬉しいものですよ。いやあ、ソプラノサックス、私も吹きましたけど、欲しいなあ。きっと吹く余裕はないから買わないけど。あれ、いい音するんですよ。ってのは置いておいても、あの先生がサックス吹きっていうのは納得だ。いやね、楽器が人を選ぶのか、それとも楽器が人をつくるのか、楽器によって面白いように性格が決まってくるなんて話がまことしやかに語られていましてね(興味のある人は『オーケストラ楽器別人間学』あたりを読んでね)、サクソフォン奏者はおおむね一匹狼的自由人だったりするなんていう話があるんです。ほんとかよ、って思いますが、私の読んだ本(『レッツ・ゴー・ブラス・バンド』だと思うんだけど、本が見つからなくて確認できない)ではそんなことが書かれてて、胡散臭いけど、確かにそういう傾向はあるみたい。で、幽霊顧問、黒目つつじもそんな人で、実にいい感じじゃないか! 気に入ってるのであります。

あ、余談なんだけど、黒目先生の車、Fiat 500、作中では盛んにルパン車だといわれてましたが、私の中ではあれはエンゾ車であります。って、ほんとに余談だな。そういや、大学のサックスの先生はミニに乗ってらっしゃいました。こういう趣味性の高い車を選んでしまうあたり、実にサクソフォニストであるって感じがするんですね。

2008年11月28日金曜日

そして僕らは家族になる

 私は荒木風羽の漫画が好きでした。私がそのようにいう時、念頭に置かれているのはなにかというと、『まんがタイムきららMAX』に連載されていた漫画『スキっ!キライっ!』であります。女の子の友情もの、ほのぼのとして、読んでいるとじんとする、そしてくすっと笑える、大好きでした。いや、今も好きだから、これが一冊にまとまるっていうんだったら、喜んで買うよ! だなんて、唐突になにをいいだすのだろうといった感じですが、本日取り上げますものは、荒木風羽の新刊、『そして僕らは家族になる』であります。小学生の女の子鈴音さんと女子高生彩子さんが突然家にやってきて、すっかり変わってしまった幸助さんの日常を描いた、女の子同居ものであります。

しかし、『スキっ!キライっ!』が終わった時はうろたえたものでした。ええっ、終わるのっ! 好きだったのに、好きだったのに、なんだかほうっておけない感じの女の子よる子と、なんだかちょっと素直になれない女の子まひるのふたりを軸に据えた女子友情もの。とりわけ私はよる子が好きで、とにもかくにも変わりもの、風貌凛々しい優等生なのに、どこか大きく欠いているところがあって、まひるも私もそこがほっとけない。天真爛漫な娘でした。そしてなにより魅力的、すごく力のあるキャラクターと思われて、もう好きで好きで仕方なかったですね。いや、よる子が眼鏡かけてるからそういってるわけじゃないよ。前髪の切り揃えが凛々しいから、そういってるわけでもないよ。こういう人好きなんだ。一見完成された人なのに、その向こうに破格を隠している。そうした思い掛けなさが、時にその表情を彩り装うことがある、それがとびきり美しくって、どきりとさせるではないですか。

といったわけで、私はあまりに『スキっ!キライっ!』が好きすぎたために、『そして僕らは家族になる』の導入で少々後れを取ったのでした。二十歳フリーターの幸助さんちに、ある日、ある朝ふたりの美少女がやってきた。それが彩子さんと鈴音さんだ。って、なんだこのテクニカルすぎる設定は! なんというギャルゲー って、ほんまやで。申し訳ないけど、軽くひきました。こういうのがお好きでしょう? って、そういうメッセージを勝手に読み取って、餌を与えれば簡単に食いつくと思ったら大間違いなんだからねっ! なんて突っ張ったりもしたけれど、今では大好きです。

馴染むのに時間がかかったのは、登場人物の多さ、幸助、彩子、鈴音の三人を軸にしての広がり、幸助のバイト先に二人、彩子の学校にまた二人、そうした人間関係の整理、把握に手間取ったから、だと思いたい。とはいえ、そんなに突拍子もない人間関係ではないから、ほどなく浸透して、楽しく読めるようになりました。いや、実際の話、とりあえず明らかになっている部分においては、そんな無茶な! と思うようなことは意外になくて、最初に大きくドーンとぶちかましておいて、だんだんに落ち着いていったというような印象であるのですね。あ、苗さんは相変わらず落ち着きないですよ。でもそれがいいというか、あの人可愛いな、と思ったのは今月の『MAX』読んでですが、いや、眼鏡かけてるからそういってるわけじゃないよ、よくある展開、べたなネタを予感させて、常識的な範疇に展開をとどめるというやり口にしてやられました。そしてよくよく考えれば、そのやり方は『そして僕らは家族になる』に通底していたと思います。ギャルゲー展開!? と思わせて、意外とそうではなかったり、もしかして不幸な娘!? と思わせてそこまではなかったり。突飛にみせて、意外に普通。面白い裏切り方だと思います。そして、その普通に落ち着いていく感じ、唐突から日常へ、その感触の移り変わっていく感じがよいと思わせるのだ、そのように感じています。

唐突から日常へ、その感触は、タイトルの告げる『そして僕らは家族になる』、そうしたテーマを裏打ちするものであるのかも知れません。最初は友達でなかった、けれど今では大切な友達になっている。そんなことがあるように、最初は知らぬ間柄、まったくの他人だった人が、だんだんに大きな位置を占めるようになっていく。そしていつかかけがえのない人になるのでしょうね。ともに暮らす中で、変化していく間柄。もしかしたら、思いもかけない大ネタが仕込まれているのかも知れないけれど、仮にそれがあろうとなかろうと、家族でない人が家族のあり方を模索して、ひとつの家族となっていく、そういうプロセスをこれからしんしんと感じさせてくれるのかもなあ、そんな予感をさせるのです。

さて、この漫画に出てくる人たち、とりわけ女の子たちには、どこかほうっておけない、そう思わせるものが確かにあって、実に目が離せないのであります。彼女らの抱える危うさ、そこには実の家族との関係に根ざしたものもちらほらとして、これは家族でない人が集まり家族を作ろうという、その構図に対照されるものであるのかも知れませんね。血が繋がっているから、すなわち家族かといえばそうとも言い切れない。そんなことを思わせる、ちょっと考えさせられる漫画であります。そしてこうしたところに心は引っかかり、いつしか寄り添うようになって、気付けば好きになってるんですね。ええ、私、この漫画が大好きです。何度だっていえる、この漫画が、この漫画に登場する人たちが、私は好きです。

引用

2008年11月27日木曜日

えりか

 私は中山かつみの漫画が好きでした。私がそのようにいう時、念頭に置かれているのはなにかというと、『まんがタイムきららキャラット』に連載されていた漫画『くるくるコンチェルト』であります。女の子コミュニティもの、ほのぼのとして、読んでいるとほっとする、そしてくすっと笑える、大好きでした。いや、今も好きだから、これが一冊にまとまるっていうんだったら、喜んで買うよ! って、唐突になにをいいだすんだといったところですが、本日取り上げますものは、中山かつみの新刊、『えりか』であります。小学生の女の子えりかとその友達の日常を描いた、女の子コミュニティものであります。

しかし、私はこうした漫画が連載されているってこと、まったく知らずにいたのですね。だから、出会えたのは、本当に幸運だったと思います。ジャンルは、先ほどもいったように小学生の女の子コミュニティもの。形式は、コマ割り漫画ですね。ただ、吹き出しがありません。基本的に台詞なしで進行する、表情、動きでみせるスタイルが選択されているのですが、それがえりかたちの生活を生き生きと効果的に表現していたと思います。

描かれることは、基本的にオーソドックス。ほとんど台詞らしい台詞がないから、込み入った内容をやられると困る……、という事情もあるのかも知れませんが、こうしたオーソドックスな展開にキャラクターの個性を落とし込むというのが中山かつみのうまさなのではないかと思っています。子供の頃、自分にもそんなことがあった、そうした共感をベースに、えりかならそれをこんな風に楽しむのです、とばかりに彼女のらしさを感じさせてくれて、つくづくオーソドックスは陳腐ということではないのだと確認する思いでありました。

ほほ笑ましさに心をゆったりとくつろげたと思ったら、やっぱりくすりと笑みのこぼれることもあって、実に楽しい漫画でした。絵の上手は折り紙付き。よく整理されてわかりやすい画面。えりかを筆頭に登場人物はかわいらしく、イラストレーションとしての魅力にもあふれています。そして描き出される彼女らの個性がよかった。というか、彼女らこそがこの漫画の見どころであると、まあこんなことはあらためていうまでもない、当然のことでありますけどね。えりかとお母さんの攻防や、友達のまな、三冬との和気あいあいとした掛け合い、そしてやんちゃの暴走してしまうようなところには、やれやれ、仕方のない子らだなあ、そういいながら口元はほころんでしまう、そんな気安さ、ほっとけなさがあって、それはいいかえれば、彼女たちのコミュニティの持つ雰囲気がたまらなく魅力的ということなのだろうと思います。

  • 中山かつみ『えりか』(GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2008年。
  • 続刊希望

2008年11月26日水曜日

歌謡曲のすべて

  先日、『秋冬』をリクエストされて、これはもうそろそろ、ある程度の曲集は持っておくべきかも知れないなあ、そんなことを考えるにいたったのですが、その際に候補として取り上げたのは、全音から出ている『歌謡曲のすべて』でありました。私がこの本を知ったのは、図書館勤務時代のこと。しかしあの頃はあまり使っていませんでした。より以上に充実した歌謡曲本『歌謡曲大全集』も所蔵されていたものですから、こちらを参照する必要性というのがちょっとなかったのですね。ですが、個人で持つとなると、『歌謡曲大全集』は少々高すぎます。というわけで、『歌謡曲のすべて』を買ったのでした。

この本は上巻と下巻、そして歌詞集が出ていまして、私はずっと歌詞集の存在する理由がわからずにいたのですが、この度これを買うためにいろいろ調べてみて、ようやくそれを理解したのでした。かつて、流しという職業があった時、これを持って酒場酒場を回るなどして、頼まれて歌うこともあれば、歌唱の伴奏をすることもある。その伴奏をする際に、自分は楽譜を見て、お客には歌詞集を見てもらう、そういう仕組みになっていたのでしょう。なるほどなあ。巻頭の曲名索引、デュエット曲に星印がつけられているという理由も納得です。

この本に収録されているもの、それは楽譜でありますね。楽譜にはコードがふられているから、ピアノでもギターでも、伴奏をしながら歌おうという人向けということがわかります。さらに加えて前奏間奏などの譜も書かれているから、かっこうよく伴奏するのも夢じゃない。まあ、弾ければの話ですけどね。ギター一本で、伴奏もメロディもいっぺんに弾くっていうのは、結構難しいんですよ。できない時は、無視しちゃうのが一番ですね。私はもっぱら無視して、できるように弾いています。

さて、この本の便利なところ、それは楽譜がページをまたがないというところであろうかと思います。ピアノと違いギターで困るのは、譜めくりなんです。ピアノなら、片手で弾いて、もう片手でぱっとめくる方法が使えますが、ギターではそれができないでしょう。だから、私はページをまたぐような場合は、全部覚えることにしています。でも、この本だとそういう心配はいりません。ページの見開きに可能な限りたくさんの楽譜を掲載し、その見開きで完結させようという編集は真の実用主義を感じさせます。楽譜がぎゅうぎゅうに詰め込まれたレイアウトは、必要となるページ数を減らし、本をできるだけ薄くしようというためでしょう。軽く、持ち運びにも簡便。無駄を廃された装幀も好ましく思えます。本当に、質実剛健という語が似合う一冊であります。

私がこの度買ったのは、上巻のみ。とりあえず、必要な曲が載っている分だけを買っておいて、もし今後下巻が必要になったら、その時の最新の版を買おうと、そういう算段です。毎年、新曲を収録して改定されるから、下巻は少しずつ太っていくのですね。2009年版では12曲増えて、320曲収録となりました。毎年十曲少々増えるとすれば、中巻として独立するまであと数十年はかかるでしょう。だから、適当な頃合いに買うことになるのではないかと思います。いや、新しい曲は歌わないと決めたら買わなくても大丈夫、というのも多分むりだなあ。まあ、あと何年かしたら買ってるんじゃないかと思います。

2008年11月25日火曜日

Junction, taken with GR DIGITAL

PedestrianGR BLOGのトラックバック企画、2008年11月のテーマはなにかといいますと、、道であります。しかし、道と一言にいっても、いろいろ趣向を凝らせそうなテーマで、最もシンプルに考えれば風景写真としての道があるかと思われますが、よりテーマを抽象的に捉えることで、幅広い展開もできそうに思います。人生の岐路、これが私の生きる道、等々。そうした主張の仕方に、写真を撮る人、選ぶ人の個性が現れてくるのではないかと思うから、GR BLOGに寄せられるトラックバックを見るだけでも楽しく、また新たな気付きもある。刺激を受けるのですね。

さて、私はそうしたイメージを広げるのは苦手ときているので、即物的に道を撮りました、そういう写真をピックアップしてみました。

最初に大阪は十三の景色を撮ったものを出してみましょう。夕刻、いよいよ日が沈もうという頃に撮ったもの、渡り掛けの歩道橋から臨む、阪急のガード下に落ち込んでいく道路であります。

Street

そして、同じく大阪ではありますが、こちらはもう少し都会といいますか、JR大阪駅の向かいですね。いわゆる大阪キタであります。右にJR駅ビル、左は阪神百貨店ですね。

High road

大阪、大阪と続きまして、今度は京都です。四条通りですね。ちょうど、新京極をでたところ、横断歩道を渡る途中で撮っています。

Shijo Avenue

以上三枚を見てもおわかりかと思いますが、私はどうも左右対称、シンメトリカルな構図が好きなようですね。といいましたところで、真打ち登場です。再び、大阪は十三に戻っていただきまして、これがもう見事なシンメトリカル。それはもう、我が目を疑うほどに左右対称でありました。

Junction

真ん中に鏡はありません。

おまけ

見ろ、道が川のようだ!!

Flooded road

Flooded road

いやあ、洒落にならなかったです。事務所が浸水しちゃって。

2008年11月24日月曜日

聖母たちのララバイ

 NHKでやってる歌謡ショーを見ていたら、岩崎宏美がでていまして、私、子供の頃、この人の『聖母たちのララバイ』が好きで好きでたまらなかったんですよ。この人のデビューした頃については、幼すぎてよくわからない、だから『ロマンス』とか『シンデレラ・ハネムーン』とかはほとんど覚えになくて、もう、それこそ、『聖母たちのララバイ』以降一色といった感じでした。もっと有り体にいえば、『火曜サスペンス劇場』の主題歌のラインが好きだったのですね。ほら、『家路』とかもヒットしたと思うのですが、とにかくああした曲調が好きで、しかし子供の頃の私が『火サス』のエンドテーマが流れるような時間まで起きていたとは思えない。再放送とかで見てたのかしら。ともあれ、好きだった。そして、そうした曲を好きだというのは、間違いなく『聖母』があってのことだと思うのですね。

しかし、なんでこんなに『聖母たちのララバイ』、ひいては岩崎宏美が好きだったものか。唐突ですが、私には従姉があって、その名前が博美でした。だからというわけでもあるのですが、幼稚園の頃は郷ひろみが好きで、しかし岩崎宏美の頃には、さすがにその呪縛からは自由になっていました。だから、純粋にその曲調、歌いぶり、そして歌詞、内容にひかれていたのでしょう。あ、そういえば、ピアノの先生の名前も博美だったな。突然思い出してなんだけど、私がピアノを習っていたのは先生が好きでだったのだから、いや、だからといって名前だけで岩崎宏美を好きになったということはないはずです。

高校を卒業してすぐくらいでしょうか、私はこの人のベスト盤を買っていて、それは『全曲集』というタイトルで、さすがにこれが全曲を網羅してるだなんて思いやしなかったけど、でも主要な曲は押さえているのかなあ、そういう思いもあって買ったことを思い出します。あの頃、『ママは小学4年生』が大ブームでしてね、ええと、私の中での話なんですけど、その主題歌を歌っていたのが益田時代の岩崎宏美で、『愛を+ワン』、私はやっぱりこの歌好きでしてね、久しぶりに聞いた岩崎宏美にすっかりやられちゃって、それでベスト盤を買ったというわけです。いや、買わずにはおられなかったといった方がいい。私の当時行き付けのCDショップに岩崎宏美『全曲集』を見付けて、たまらず買ってるのだもの。それくらい、『聖母たちのララバイ』を聴きたかったんですね。

しかし、この歌を聴くたびにいつも思うのですが、二十代半ばの女性が、母となって疲れた男達を抱き留めようという内容を歌っていたという、1980年代の世相を考えるとなんか切ないものがあります。80年代頭は、景気減退期だったらしいですが、そうした状況で疲弊していた男達は、この歌を聴いてほっとするものがあったのかも知れませんね。そうした世相を捉えて作られ、そうした世相が受け入れヒットした、後からいうのは簡単なんですけどね、でももしかしたらそうだったのかもなって思うのです。

DVD

オムニバス

2008年11月23日日曜日

女郎蜘蛛

おそらく次は『女郎蜘蛛』でお会いすることになるかと思います。

他のタイトルを差し置いて『女郎蜘蛛』を選んだのは、苦手なジャンルから片づけていこうという意図からであったのですが、プレイしはじめて、ちょっと困りましたね。だんだん楽しくなってきたんですよ……。さて、詳細を語る前に『女郎蜘蛛』について少々。これは、PC-9800シリーズ向けのゲームであるのですが、『遊べる!!美少女ゲームクロニクル《PC98編》』といういかしたムックにプレイ可能なゲームが収録されているものだから、Windowsでも遊べます。メーカーはストーンヘッズ、ブランドはPIL、ジャンルは縛り系SM、といったわけで、これは自分には合わないなと思っていた、思っていたんですね。

けれど、そうはなりませんでした。未亡人とその後見人が支配する北畠屋敷にて夜な夜な繰り返される執拗な責め。仕事を得られると聞いて屋敷を訪れた主人公は、毎夜、責めに加わることを余儀なくされ、しかしなぜこのようなことがおこなわれているのか。責められるのは、ほかならぬ未亡人未砂緒とその娘である蝶子。謎が渦巻く北畠屋敷にて、主人公は秘められた真実を暴くことができるのか!? 大ざっぱにいうと『女郎蜘蛛』はそういうゲームで、日中は屋敷の謎を暴くべく行動するアドベンチャーゲーム、夜は女達を縄で縛り責めるという育成、おっと間違えた、調教シミュレーションゲーム、ひとつのゲームにふたつのテイストが用意されているのですね。

さて、はじめた当初、残念ながらそうした趣味を持ち合わせていない私は、夜間のシミュレーションを、単にパラメータをあげるだけのルーチンワークとして捉えてプレイしていまして、縛るたびに上昇するプレイヤーキャラの疲労度、それが100になる前に縛りを完成させ、効率的に各種パラメータをあげよう。本当にそれだけの、まさしく作業というべきプレイを淡々とこなすだけでありました。

けど、ええと、北畠屋敷にはもう一人娘がありまして、茉莉絵というのですが、この娘だけは責めを知らなくてですね、本当に明るくていい子なんですが、当初庭にいくと茉莉絵にあって話ができる、そうした時間を持つことでだんだんに仲を深めることができまして、いやあ、なんといいましても夜があれでしょう、もう心のオアシスなんですよ、この子が。本来ならば、私の好みは蝶子のような、影のあるちょっと不幸な娘なんですが、というか蝶子はちょっとどころでない不幸を背負っているわけですが、その私が茉莉絵に幻惑されて、この子だけは、この子だけはあの異常な世界に落としては駄目だ、なんとしても守らなくては、みたいなのりになって、そして、一緒に逃げようといっちゃう。かくして訪れたエンドは「茉莉絵は何も知らない」。もうネタバレでいきますが、舞台は大正、浅草十二階で駆け落ちを決行するんですが、ということは震災前ですよね(十二階は関東大震災で倒壊します)。つまり、震災がくるわけですよ。でもって、母親も後見人も死んじゃう。蝶子だって、死んじゃう。生き残ったのは私と茉莉絵と執事北川だけ。そして、茉莉絵はついにあの屋敷でおこなわれていたことを知らぬままでありました、と、そういうエンドであるんですね。

正直、私はこれで満足っちゃあ満足です。茉莉絵は首尾よく守りおおせたわけだし、酷い母さんも、ろくでもない後見人もいなくなっちゃうわけで、まあ蝶ちゃんが死んじゃうのはなんともいえず悲しいのですが、でも蝶子は茉莉絵を守りたかった、私も茉莉絵を助けたかった、ふたりの思惑は一致して、だからこれでよかったんだ、とは思ったものの、ゲームとしてはおさまらんわけです。てなわけで、駆け落ちを持ちかけず、屋敷に帰ってきちゃう。そうしたら、その夜から茉莉絵も責めを受けることとなってしまいまして、なんてこった! いや、そうなんだろうなあとは思ってたんだけど、けどこれはあんまりだ!

でも、ここからゲームの質が変わったように思います。だって、私の縛り対象が茉莉絵にロックオンですよ。これまで蝶子を縛っていた時は、どことなくなおざり感漂う、荒っぽい、適当そのものの仕事ぶりであったというのに、茉莉絵となれば、最初は軽い縛りから徐々に慣らして、だんだん複雑で絢爛なものに移行していこう、だなんて調教戦略を考えるようになって、おかげで茉莉絵のレベルはがんがん上がるし、プレイヤーキャラの技術もがんがん上がるし、プレイヤーの練度もがんがん上がった。しかし、なんでなんだ。気に入っていた娘なんだろう? といわれれば、そうです、気に入っている娘です。だからこそ、縛るんです、脇目も振らず縛るんですよ! 自分のいっている言葉の意味がわかりません。けど、愛しているからこそ縛るんだという、そうした趣味はわかるようになったような気がします。だから、困ったなと。本当の本当に困ったなと思っているのですね。

私は未だ茉莉絵オンリープレイですけれど、夜は縛り、日中は純愛を貫くという二重生活がたまらないといいますか、夜の行為は後見人に強要されているから仕方がないんだ、なんていいわけしながらですね、縛る。この背徳感が、日中の純愛を装う交流をより一層に甘味なものと変えて、お互いが背徳をともに抱えている、だからこそ自由であれる間だけは清く愛し合おう。このアンビバレンス! 困った。私はこんな感情を理解したくはなかったぞ。だって、一度理解してしまえば、後は深まるばかりではないですか。

この後の予測を少々。私は茉莉絵とのハッピーエンドを迎えた後には、きっと蝶子に向かうでしょう。今は感情を殺している蝶子ですが、もしこの娘が主人公に本心を漏らすようなことにでもなれば、無表情の向こうに隠している感情の息衝きが感じられるようになるのだとしたら、きっと私は転がり落ちるように蝶子の支配下に落ちて、命を賭しても君を助けるよプレイになるんだろうな、そのように思います。といったわけで、なおさらまずい。もう、どうしようもなくはまりそうな危険性がぷんぷんしているといったわけで、やはり後は深まるばかりであるのですね。

  • 女郎蜘蛛 — 呪縛の牝奴隷達

引用

2008年11月22日土曜日

秋冬

 例年なら、もう寒さが身にしみる、外で歌うだなんてあり得ない、そんな季節でありますが、今年は夏が長すぎました。いつまでたっても日中は暖かく、先週になってようやく寒さが厳しくなってきた、そんな少々おかしな天候は外で歌う私にはうってつけで、ええ私はまだ、昼の休みにギターを持って、駐車場脇で歌っています。そんなある日のことでした。中島みゆきの『わかれうた』を歌っていたら、足を止めて聴いてくれた女性がひとり。どうもその方はご近所の方みたいですね、私の歌っているのをよく知って下さっているみたいで、そして歌って欲しい歌があるんだっておっしゃる。それは『秋冬』。お兄さんの声で聴いてみたいわ、とおっしゃるその言葉が嬉しくて、『秋冬』について調べました。

そうしたら、知っている曲でした。といってもうろ覚え。なんとなく聞き覚えているといった程度なのですが、それでもこれは紅白歌合戦でも歌われたものらしく、時は1984年。まだ歌謡曲に力が、勢いがあった時代ですね。紅白で取り上げられる歌となれば、だいたい誰でも知っているくらいに浸透していた。そんな時代の歌謡曲です。

けれど、これを歌うとなったら楽譜が欲しいところ。けれど、いったいどんな曲集を買えばいいんだろう……。全音の『歌謡曲大全集』か。調べれば、その第6巻、昭和56年−昭和61年に入っていて、しかしこの曲集高いからなあ。四百曲くらい入ってるから、高くて当然、だってプロフェッショナル・ユースなんだもん、てなもんですが、自分が買うにはちょっと躊躇してしまいます。いや、だって、歌で収入があるわけではないですからね。だから別のものとなると、同じく全音の『歌謡曲のすべて』か。これ、上下巻に分かれているのですが、上巻には明治から昭和にかけての愛唱歌、ヒット曲が927曲収録されて、お値段4,200円(税込)。598ページあって、もちろん『秋冬』も入っています。こっち買っておこうかなあ。

『秋冬』のレコード(CD)を探すと、やっぱり高田みづえが出てきますね。紅白でこの曲を歌ったのはこの人で、だから当然といえば当然この人による歌唱が一番知られることになったわけですが、けれど音源として欲しいといっても、ベスト盤やシングルベストを買うのは厳しいです。私が高田みづえのファンならいいんでしょうが、別にそういうほどでもないわけだから、ということでさらに探してみたら、原大輔のマキシシングルが見つかって、カップリングは『恋おんな』、ただしラテンバージョン。これ、どんな歌なんだろう。どうにもこうにも手を出しにくいものがある、そんな風に思います。

聴いてみれば、どことなく懐かしさも感じさせる歌謡曲、この歌が好きだという人があるのもわかります。歌ってみれば、情感の盛り上げもしっかりあって、歌謡曲らしい、その曲調になんか安心します。けど、私の聴いたのは、テレビで歌う高田みづえの版です。その歌い方がですね、すごく引っ張って引っ張って、そうして盛り上げるというものですから、そのように私が歌うと正直気持ち悪い。これをコピーしたら、きっとひんしゅくものだろうな。やっぱり、高田みづえの歌い方は、高田みづえだからよいのです。

といったわけで、やっぱり楽譜を持ったものかな。そんなことを思いながら、テレビよりもあっさりと歌っている高田みづえの版も持っておきたいかななどと、少々思うのでありました。オムニバスに手を出すべきかなあ。これ、半分くらい持ってるんですよね。ああ、迷いますね。

高田みづえ

原大輔

オムニバス

2008年11月21日金曜日

パティスリーMON

  パティスリーMON』の序盤は、購読していた『You』で読んでいて、けれど購読をやめてからは単行本を待つしかなくなって、まあこれは以前にもいっていた話。実は、その後、再び連載を追うことになります。というのは、二年ほど通った病院の待合に、看護師さんが置いてらっしゃったんでしょうかね、『You』が常備されていたのですよ。おおー、これは嬉しい。かくして連載に復帰して、結果単行本への期待度は少し下がってしまいました。けど、今はもう病院にかかってないから、当然連載も追えないわけで、だからこの9巻には私の未だ知らぬエピソードが! これはすごく楽しみだぞ! 再び単行本への期待度が上がっているのですね。

そして、物語はいよいよ佳境!? いやね、音女の大門への思いが、なにやら暴走気味になっちゃってるものですから。『パティスリーMON』はレディーズコミックで、それはつまり対象読者層である女性の興味や問題が漫画に反映されるということであろうと思うのですが、『パティスリーMON』では主に仕事、結婚を扱って、そしてついに恋が物語の中心を陣取ろうとしています。これはいよいよ動くぞ。そう思うとわくわくします。けれど、それが仕事への悪影響をもたらしたらどうしよう、そう思うとはらはらします。でも、作者はきら、私はこの人の物語の運びに十全の信頼を置いているのですが、だからきっとなにが起ころうとも大丈夫。私はわくわくはらはらしながら、この先に起こることを待てばいいのです。

これまでにも音女の恋心というのはちらほら顔を出して、時に人間関係に影響し、物語を劇的に動かしてきたと思うのですが、しかし物語の中心にそれが陣取ることはなかったと思うのですね。少なくとも、音女の中では大きくとも、MONというケーキ店とそこでの仕事、スタッフたちの関係の中では、中心的ではなかった。私はそのように捉えていて、それがついに物語の中心に位置した。こうなれば、『パティスリーMON』は、ケーキ店とそこでの人間関係を描く物語から、音女の恋に駆動される物語に移行していくのだろう。そう思うからこそ、わくわくもはらはらもするのですね。

しかし、こうして見れば、『パティスリーMON』というのは、音女が仕事を通じ自己を認識し、恋を自覚していく物語であった、そんなふうにいってもいいものかも知れません。私はこれまでこの漫画を、大門と愉快な仲間たちに音女が加わる物語だと思っていたように思います。ただ、仲間がいれば楽しい毎日というのは理想だけど、そうは問屋が卸さない。離別があったし、また新たに加わる人が引き起こすドラマがあって、それはそれははらはらしました。けれど、少しずつ問題はクリアされていった。そのプロセスは妙に納得できるもので、というのは私も似たような経験をしたことがないわけでもなかったから。こうした経験のあったため、私の興味は音女の恋心よりも人間関係のドラマに向いていたのかも知れませんね。ですが、これからは物語も私の興味も、そしてもちろんヒロインである音女自身も、その恋心を軸に動いていくことになろうかと思われて、これは本当に楽しみだ、そう思います。

さて、この段階で書いておかないと、今後きっかけがないかも知れないから、いっときたいと思います。ちいさい大門は本当に可愛いなあ! 思わず抱きしめたくなるくらいだ! じゃなくて、ショコラティエ安藤ですよ。こういうサバサバしたキャラは同性に好かれるんですね、って、私のタイプって、もろこういう人なんですが。女臭くない、気さく、けれどサバサバしたキャラクターの向こうに、ちょっとしっとりしたものを隠しているでしょう? 多分この人は、自分が可愛くないとか美人じゃないとか、そんな感じの引け目みたいなのを持っていて、そうした自分の弱い部分を防衛するためにサバサバしたキャラクターを演じている、みたいなところもあるんだと思うんですよ。だから、私はこういう人を見るといいたくなる。あなたはすごく魅力的だし、素敵ですよって、そういいたくなる。もっと自信を持って欲しい。だって、こんなにも魅力的なんだから。いや、安藤が眼鏡かけてるからそういってるわけじゃないよ。前髪の切り揃えが凛々しいから、そういってるわけでもないよ。ああいう人好きなんだ。悲しさや切なさを隠している。そうした憂いが、時に表情に差すことがある、それがとびきり美しくって、どきりとさせるではないですか。

といったわけで、私のポジションは新田なんだと思います。だから新田は応援しない!

  • きら『パティスリーMON』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第3巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第4巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第5巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第6巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第7巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第8巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第9巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年11月20日木曜日

ヒーター付きマッサージ座椅子

長く使ってきた座椅子の座面が破れたのはいつのことだったでしょうか。だいたいが、長く使いすぎたといってもいいくらいで、iBook G4を入手した時にはもうとっくに使い始めていた、というかくたびれかけていたくらいだから、少なくとも五年、下手したら十年くらい使っていた? そんなに高いものでもない、本当に安物の座椅子なんですけど、その座椅子の座面がついに破れてしまったんですね。だいたいが私は一度気に入ったらそれを決して変えようとしない、そういう傾向がありまして、破れた座椅子を当て布かなんかで補修して使い続けようかどうしようか迷っていて、けれど基本的に腰が重いから、そのまんまで使っていたら、中のウレタンがぼろぼろになって出てくるわでもう大変で、早くなおさないと本格的に使えなくなるな、そう思っていた時に出会ったのが日本直販のヒーター付きマッサージ座椅子でした。

これは、いけるかも知れない。見た時にそう思いました。背の少し高い座椅子、その名が示すようにヒーターとマッサージ機構が内蔵されている、といってもヒーターは腰のあたり、マッサージといっても揉むのではなく、背腰腿あたりに内蔵された五つのバイブレーターが振動するといった程度、あんまり期待しちゃいかん感じです。でも、私の期待したのはそうしたおまけ機能ではなく、もともとの座椅子としての機能であります。くたびれたどころか、あちこちにがたがきている座椅子には勇退願って、そろそろ新たな風を取り入れてもいいのではないか。そのように思ったんですね。

座椅子は注文して二週間ほどできました。時間がかかったのは、注文殺到で商品が一度払底したからなんだそうですが、まあ二週程度なら余裕で待てますわね。といったわけで、先日到着、早速使って、もはや馴染みかけているといった次第であるのですが、これ冬は暖かくていいけど、夏は暑いかもなあ。まあ、これはその時に考えよう。

ヒーター及びマッサージ機能ともに、運転十五分で自動で切れるというのは、切り忘れる可能性を考えるとありがたい仕様であろうかと思います。けれど、ヒーターがすぐ切れるのは困るのではないか、そういう向きもあるかも知れません。実は私も最初はそう思っていたのですが、実際に使ってみると、十五分も経てば自分の体温で充分に暖まっているから、それ以上に暖める必要はなさそうなのですね。もしこの先、より以上に寒さが厳しくなったなら、そんな悠長なこといっていられないかも知れないですけど、だったらその時にはもう一度スイッチを入れたらいいだけの話です。うたた寝でもして、腰を低温やけどするとかよりも、寒いな、スイッチ入れよう、そちらの方がずっといいと思います。

そしてマッサージ機能ですが、これに関してはもう振動機能といっていいくらいだと思います。強弱の切り替えも可能ですが、弱で充分です。最初はゆっくり、背、腰、腿と順番順番かわりばんこに震えているかと思ったら、だんだん全部が一緒になって震えるようになってきて、最後はもうがくがくするくらいになって、ちょっと、これ、脳が揺さぶられてまずいんじゃない? そう思うくらいです。まあ、若干大げさにいってますけど、さっき二セットほど、つまり三十分ほど震わせてみたら、正直やり過ぎたと思うくらい、なんかちょっとくらくらします。

この座椅子が、10,500円でした。ちょっと高い? けど私は、この価格で充分満足できるだけのものはあったと思っています。そして、これをまた十年くらい使うんでしょうね。とりあえず、座面が破れたらそれが交換時期だと思います。

2008年11月19日水曜日

償い

 昨日は佐藤両々の『こうかふこうか』で書いたわけですが、以前このタイトルで書いた時には、さだまさしの『無縁坂』を引用したから、今回も……、と思ったわけではないのですけど、『親父の一番長い日』をピックアップしたわけです。で、その歌詞を確認しようとした時に、『償い』も聴いてしまいまして、もう月並みな感想であるとは自分でもわかっていますが、それでもあえてそういわざるを得ない、いい歌です。胸に迫るものがあります。交通事故を起こした青年のその後の話を題材に書かれたこの歌は、容易に目をそらすことのできないほどに引きつけて、本当にいい歌です。

いつの事件だったか知らないのですが、裁判官がこの歌を紹介したということがあったとかで、話題になったのだそうですね。調べてみれば、2002年2月のことだそうです。この出来事がきっかけとなって、再びこの歌は広く知られるようになったらしいですが、それ以前にも口伝えにこの歌の存在は知られていて、私が知ったのは父からでした。おそらくは会社で同僚か誰かに教えてもらったのでしょう。その頃の話題は、実話をもとにした歌がある。それがそれがとにもかくにもいい歌なのだというもの。そして私が実際にこの歌を聴いたのは、テレビで放送されたのがきっかけで、テレビでは何度くらい聴いたかなあ、一度はミュージックフェアだったと思う。あと、NHKでいつだったかやってたように思う。これ以外にも後一度くらいは聴いているはずなのですが、ちょっと思い出せない。ともあれ、一度聴けば忘れられなくなる歌であると思います。胸を突く、胸に迫る、言い様はいくらでもあると思うけれど、でもそのどれもが聴いて得られた思いというものを告げるには足りないように思う。だから、やっぱり聴いてもらうしかないのだと思うのです。受け取るものは、人それぞれできっと違うだろうけれど、しかし感じるものの大きさは、きっと同じであるはずだと、私はそのように信じます。

さだまさしというと、台詞調の長い歌詞をあの独特の高音で歌い上げる、そういう印象が強いですが、『償い』はあの内容の深さにして、曲はいたってシンプル。また歌詞も、二番までと短い。歌われる出来事は、発端があり、そして結尾があり、その途中にあっただろうことに関しては、聴くものの想像にまかせるかのように、簡単にすませられてしまっている。しかし、あの歌の膨らみは並々ならぬものがあって、凄まじい。さだまさしはもとより豊かな情感を詞に込め、歌うことのできる人ではあるのだけれど、そうした実感を上回ってさらに豊かな世界をその身のうちに抱えた人だのだと思わせる歌であるのです。

私は、さだの歌は、全部じゃないけど、そこそこ聴いて、知らない歌を知るたびに、そこにまたこの人の新しい印象の加わるように感じて、新鮮な感情が一種普遍的な感動とともに押し寄せてくるのですね。それは『償い』を聴いた時も同様でした。そして今、この曲を聴いても同じく押し寄せてくるものがあるというのですから、ああ、これはやはり名歌であると、思わないではおられない一曲です。

2008年11月18日火曜日

こうかふこうか

  ちょいと人を避けようと、いつもは寄らない書店に入ってみたら、『こうかふこうか』の2巻が平積みされていたのでありました。『こうかふこうか』は、とにかく不幸に見舞われるOL福沢幸花がヒロインの四コマ漫画で、それは確かに面白いんだけど、読んでいると幸花のあまりの不運さになんともいいようのない複雑な気持ちがたまってきて、哀れというか、切ないというか、なんとなく釈然としない、そうした気持ちといってもいいのではないかと思います。それは特に2巻で強く感じて、けれどなぜだったのだろう。仕事帰りの車内、読み切れずかばんにしまって、私はいったいなぜ幸花の境遇にこうも引っかかっているのだろう、そんなことを思ったのでした。

幸花の境遇は、時に人の悪意を受けることはあるけれど、基本的に誰に嫌われるでもなければ、疎んじられるわけでもない、そんな平凡なものに見えるのに、しかし持って生まれた凶運か、とにかく裏目裏目がでてしまうという、そんな娘です。でも、作者は佐藤両々。佐藤両々といえば、ひどい目に遭わされる男の事例には事欠きません。それは例えばゲボキューで、そして日生弟。お姉さま的上司にひどい目に遭わされるゲボキューは、それはそれで楽しそうだからいいとしても、血を分けたお姉さまに本当の本当にひどい目に遭わされる日生弟は、まああれはあれで楽しそうだからいいか。って、なぜ幸花だったらつらくって、ゲボキュー、弟だったらまあいいかなんだろう。この自分の中に存在するダブルスタンダードについて、はたと考え込んだのですね。

そういえば、プレイするのがつらいといっていた『脅迫』ですが、これもしプレイヤーキャラが男だったらノープロブレムだよなあ、なんて思っていたのでした。弱みを握られて、性的な行為を強要されるわけです、男が。このシチュエーションで相手が女であるわけないですよね。当然男。男が男を脅迫し関係を迫る。そうしたシーンを想像した時、正直いけるなと思った。ヒロインだったら受け付けなかったシナリオが、ボブゲーとして再構築されると、充分受け入れ可能になるという事実に気付いた時、私の中に二重の基準が存在するとはっきりしてしまったのですね。

しかし、これいったいなんなんだろう。

やっぱり、女の子が不幸になるのが耐えられないのかなあ。男だったら、そのシチュエーションにむしろ萌えるというのに!? あまりの違いに自分がびっくりですが、男女同権主義者を標榜している自分が実は女の子に甘かったとか! これは、これは考えをあらためんといけません。女子にも、女子にも厳しくいかないと!

以上は冗談ですが、少なくとも私が『こうかふこうか』のヒロインの境遇に、なにかつらさを感じたのは事実なんですね。間が悪いわけじゃなくて、無神経無思慮無反省の三無主義みたいな男、岩井の物損系ネタの被害を幸花が被る時、さらには岩井の口から福沢の所為で怒られた…などという言葉が聞かれよう時などは、そりゃないよ……、って気分になって、ちょっとやりきれない思いになって、もちろんそうした彼の態度やもろもろは作中で突っ込まれるし、批判もされるのだけど、それでもそりゃないよ……、って思う気持ちは止められなかったのでした。

けれど、帰りの電車で読んだ時は少々つらくも感じたこの漫画、風呂から上がって、布団に入って、そうして続きを読んだら自然と笑みもこぼれて、なんだろう、この感触の違いは。それは緊張状態にあった時 — 、仕事という多少なりともストレスのある環境から完全に切り離されていなかった時と、自室という安心できる場所にいるという状況の違いのためであったのかも知れません。私のぴりぴりとしながら読んだのは、私の心に余裕がなかった、かたく閉じていたためだったのかも知れない。私の気持ちが緩んでさえいれば、もっと鷹揚に構えて、楽しく読める漫画であるのだろう。読み手である私の心次第ということなのだと思いました。

そして、もう一点、大きな状況の変化が作中にもたらされて、それは岩井の真実を見た時、私は目を閉じ深く息をして、なんだか許せる気持ちになったのでした、読者として。

彼の、自分の気持ちをただ伝えたかったというそれは、あるいは無思慮で無遠慮であったのかも知れないけれど、しかしなによりも直接的で、そしてそのまっすぐであった彼は、幸花の仕合わせな状況を大切に思うため、おそらくは彼の最大級の配慮をするんですね。そのちょっといたずらっぽく笑って、きっとなんらかの感慨もあっただろうのに、それをおくびにも出さずにすませてしまった姿は、ちょっとかっこいいなと思った。なんだ、いい男じゃんか。涙でかすんだ目の中に私は、今までで一番立派な岩井の姿を刻み込もうとしていた、読者として。

だから私は、この第2巻を不安をともに開いた気持ちを、第3巻にまで持ち越すことは決してないだろうと、そのように予測しています。

  • 佐藤両々『こうかふこうか』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。
  • 佐藤両々『こうかふこうか』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年11月17日月曜日

脅迫

ちょっと前に、はじめたっていってましたけど、クリアしましたよ、『脅迫』。PC-9800時代のゲーム、プラットフォームはDOSで、ハードウェアの制約からカラーは16色しか使えないんだけど、プレイしてみると、そんなことちっとも感じさせない充実ぶりでした。もし私がこのゲームで表現されている内容を苦にしないなら、きっと充分に楽しめたろう、そう思うのですが、いかんせん、私には刺激が強すぎました。なんというのだろう、ヒロインが脅迫され、関係を強要されるのですが、私はことこの強要というのがあわないらしく、かわいそうでかわいそうで仕方がなかった。ルートはいくつかあるけれど、ベストと思われるものでも、決して仕合わせな結末だったとは思わない。いや、このゲームの楽しみは、いかにヒロインが救われないかという、そこにあるのでしょうから、やっぱり私には向かないゲームであったと、そのように思います。

しかし構造はというと、ヒロイン=プレイヤーキャラであるわけですから、ちょっと倒錯的といえばそのような気がします。プレイヤーはあくまで男性であるわけだけど、男性が女性の視点で、性的にひどい目に遭わされるという状況を眺める、あるいはそうした方向に進ませるという仕組みなんですよね。果たしてそうしたシーンでプレイヤーが感情移入するのは、行為を強要する相手方の男であるのか、それとも望まぬ行為を強いられているヒロインの側なのか、そのどちらかでずいぶん楽しみの質は変わってくるように思います。

単純に、この清楚なお嬢さんがどんなひどい目に遭わされるのだろうか、という期待でもってプレイすると、それはやっぱり強要側の楽しみにのっかっているように思うのですが、もしプレイヤーがヒロインの立場に立つというのなら、それは少々被虐的な要素が見えてくるように思います。今ヒロインは、すなわち私は、こんなひどい目に遭わされてる! そこに喜びを見出すわけですが、多分こういうプレイヤーはまれだろうと思うのですね。じゃあ、やっぱり強要側に立つしかないのかといえば、そうではなく、もう一人、ヒロインに告白した男性、ヒロインの恋人である良介の立場というのもあるかと思うのですね。

このゲームは結局のところ、良介のために一線を防衛するという、その一点に集約されるのですが、これ制作者にいわせればゲームにするための苦肉の策だったというのだそうですが、ともあれ、ヒロインを強要者の好きにさせるのではなく、可能な限り逃げる、というか、かわすことが要求されます。いわば良介のために操を立てるわけですが、この良介的視点をとることで、このゲームは恋人を望まぬ相手から守る、あるいは守り切れずに奪われてしまうといった展開を期待することができるのです。この構造を一言で言い表すなら、そう、寝取られということになると思うのですが — 、私、この手のジャンルもよくわからんのです……。なんで、好いた、惚れた相手を、見知らぬ、いや知ってればなおさらか、誰かに奪われないといけないのよ。そう思う私には、このみっつ目の視点もつらいことには変わりなく、ええ、『脅迫』を楽しめる可能性はもう皆無といってもいいくらいでした。

それでもクリアできたのは、偉大なるヒント機能のおかげです。このゲームにはヒント機能があって、どの選択肢が正解なのかを教えてくれるのですね。もちろん、オンにしておかないといけませんよ。そして私は正解機能をオンにしたものだから、どの選択肢を選んだら、どのエンディングに向かうかを、余すことなく知ることができたのです。って、ゲーマーの風上にも置けねえな、こいつ。ええ、ごめんなさい。でも、テキスト追いたくなくて常時スキップだったから、これがないと進むに進めません。でも、テキストすっ飛ばしてるものだから、突然妹が巻き込まれてたりして、ええーっ、いったいなにがあったんだ!? 驚いている間に、姉妹でひどい目に遭って終わり。うー、爽快感がないよう。一応、自分たちの力で困難を克服するエンドもあるのですが、それにしても支払った代償が大きすぎるだろうと、そんな風に思う私はやっぱり向いていないのだと思います。

あ、そうだよ。校門で良介にあって、この件を相談し、翌朝一緒に張り込んでもらうエンドがあるじゃんか。これだと、誰も不幸にならない、だって脅迫は成立せず、もみ消されてしまうんだもの。いや、駄目だ。一人不幸なままだ。むー。つらいゲームだなあ。

でも、ヒロインやその友人、家族の身に及ぶ不幸に、たまらない喜びを感じるという人にはきっと楽しいゲームです。あるいは、そうした不幸に身を切られるような思いをするのがもうたまらんという人にもきっとおすすめ。

……私はヒロインが仕合わせなのが好きです。

さて、『脅迫』は『遊べる!!美少女ゲームクロニクル《PC98編》』に収録されていたゲームでした。この雑誌には、あと七本のゲームが収録されているから、そこから次にプレイするものを選ぶとするなら — 、PILの『女郎蜘蛛』かなあ。って、よりによって縛り! いやね、苦手なジャンルからプレイしていかないと、絶対中座するから。だから、おそらく次は『女郎蜘蛛』でお会いすることになるかと思います。

  • 脅迫

2008年11月16日日曜日

ロマンス・コンシェルジュ

 ネコ侍』を買うついでに、『ロマンス・コンシェルジュ』も買ったのでした。作者はご存じ九州男児。カップルでお泊まりのお客様のご希望にお応えして、おふたりの関係をより親密なものとするためのお手伝いをするのが、ロマンス・コンシェルジュの仕事であるのですが、なにしろ作者が松山花子どころか九州男児であるわけですから、一筋縄でいくはずもありません。まず、来る客来る客、男同士のカップルばかりというから問題です。というか、これはジャンルの問題であって、むしろ男同士でないほうがより問題という気もするのですが、まあそれはおいておくとしまして、すご腕のチーフコンシェルジュ遠藤貞矢氏がさばく、カップルの問題。それが面白くてたまらないのです。

やってくるカップルのバリエーションは結構幅広く、力関係を利用するカップルがあらば、自分たちの気持ちを確かめたいと思ってやってくるカップルもある。さらには片方がノンケである、それどころか両方がノンケであるというケースもあって、しかしロマンス・コンシェルジュの手にかかれば皆最高のハッピーエンドを迎えることができるというのですから素晴らしい。

最初は男同士のカップルに引き気味だったスタッフなのに、いつしか嬉々として前向きに取り組む姿勢を身に付けたかと思えば、最後には男同士の縁結びのサーヴィスで知られるまでになって、これはホテルにとってはいいことなのかどうなのかわからないというところも最高だと思います。しかし、こうしたジャンルに限らず恋愛ものというやつは、うまくいくかどうかがわからないという、あやふやな確定前状況における機微こそが面白く、そしてそこに障害となり得る要素が加わればより一層に面白いと、そんな風に思います。『ロマンス・コンシェルジュ』は、恋愛に悩みを持ったカップルが多く扱われるわけですから、私のいう恋愛ものの楽しみにあふれているのは当たり前。しかも、確定していなかった関係はきっと確定するわけであるし、その際には問題となっていた要素はきっちりとクリアされている。そのクリアするというのも、簡単に除去して終わりというわけではないんですね。誤解であった、あるいは後一歩の踏み込みが必要だった、きっかけがないと動けない関係だった、どんなでもいいのですが、引っかかっていたところにコンシェルジュがちょいと後押ししてやれば、後は当人たちで問題を乗り越えてしまうのです。障害を乗り越えて結実する愛というもの、そのプロセスそして達成感こそが恋愛ものの醍醐味よのう。ええ、すごく楽しんで読むことができる一冊でした。

しかしですよ、やっぱり九州男児ですから、ギャグタッチもあるわけで、あからさまに状況を告げる、その告げ方が面白いのはいつもどおりの味わいです。私は笑って笑って、散々笑って、しかしまさかこの人の漫画でほろりと泣いてしまう日がこようとは思ってもいませんでした。ええ、確かにべたな展開でした。どうもこうもなくべたな展開で、しかしそのべたさが私の涙を絞ったのです。それはRoom 10でのこと。だってノンケの染田がほだされたんだ、私だって泣くくらいのことはするだろうと、しかしあそこであそこまで泣けたのは、まさかあんな展開でくるとは思っていなかった、あくまでもギャグの延長だろうと思っていた、その心の油断がためでしょう。心がすっかり開いてしまっていたために、虚を突かれてしまったのでしょうね。それはやはり、組み立て方の勝利であろうと思います。そして私は、いい話だったと、そのように心にとどめて、読み返してまたいい話であったと、噛みしめる次第でありますよ。

引用

2008年11月15日土曜日

カルドセプトDS 公式完全ガイド

 カルドセプトDS』のガイド本、二冊目が出ましたね。私は以前、どちらを買おうかなんていいながら、早々にメディアファクトリー版を買ったのですが、この度出たエンターブレイン版も買ってみました。いやね、乗りかかった船かなと思いまして、どっちも買って比較してみるのも悪くないかなって。まあ、いいお客さんなんじゃないかと思います。さて、エンターブレイン版は後発の強みといいますか、前に出たものでは扱われていなかった情報が載っていて、例えばそれはメダルの獲得条件やあるいはEカードの詳細ですね。まあ私はメダルを集める気はさらさらない(酷い)からそのへんはどうでもいいとして、またEカードもそのうち手に入ったらわかるだろうと、気にしてこなかったんですが — 、いい加減でごめんなさい。でも、合体してみないとわからないバンドルギアの能力がわかるのはちょっとありがたいですね。そして、あると嬉しい詳細情報も補足として載っているのもありがたかった。さて、その補足とはいったいなんなのでしょうか。

補足その一は、オムニポーテントの効果一覧。オムニポーテントで呼び出せる七種の効果の詳細が記されています。補足その二は、ミスティエッグの育成。与えるアイテムで姿を変えるミスティエッグ、なにを与えるとなにに変化するか、その一覧です。補足その三は、4属性のカード一覧。各属性に用意された魔術師系クリーチャーや、四属の王、武器、盾、巻物等々を一覧できます。次が能力別クリーチャー一覧。能力からの逆引として使える、これはメディアファクトリー版にも、さらには特典カードガイドにもありましたね。そして最後が、戦闘時の能力/効果発動順。そう、私はこれが見たかったんです。

『カルドセプトDS』では、戦闘時の能力発動テーブルが変更されているため、過去の常識が通用しなくなっています。例えば、先制クリーチャーと後手アイテムの関係がおそらく最も目立った変更じゃないかと思うのですが、旧作では後手アイテムを先制クリーチャーに持たせた場合、クリーチャーの先制が優先して、アイテムの後手は発動しませんでした(確か、常時先制が優先?)。ですが、今回は違います。註にもはっきり書かれているとおり、先制・後手はあとから発動するアイテムの効果が適用されるのです。これは正直ちょっとショックです。以前なら、先制クリーチャー中心でブックを組んだら、武器は後手がつくかわりに安いヘビーハルバードを選択するという判断もあったけれど、今作ではこれが無理。つうか、今作ヘビーハルバードを使う人っているの? とまあこんなありさまです。

戦闘タイムテーブルには他にも詳細な記述があって、強打弱打は後から発動したものが優先。過去作ってこのへんどうでしたっけ。常に強打が優先したような気がするけど、基本的に強打武器って使ってこなかったから、ちょっとわかりません。といったように、具体的に経験してみないとわからないようなことが、きちんとわかる。ということは、あやふやな予測で戦闘に踏み込むのではなく、きっちりと、変化分も含めた計算ができた状態で戦いに臨めるということで、実際これはちょっとしたアドバンテージです。あやふやだと、守れる戦いに無駄にアイテムを消費したり、あるいは攻める時にも、落とせるつもりで足りなかったり、返り討ちに遭ったりしますしね。

そして、リープ系スペルについてのコメントもありました。私の記憶が正しければ、旧作では土地にナンバーが振られていて、その数の大きいほうだったかに向かって飛ぶんですよね、このスペルって。だから、同距離に狙いの属性の土地がふたつあった場合、どちらに飛ぶかは土地のナンバリングを知ってることで判断ができた、と思うのですが、この本によるとDS版では、進行方向が優先らしいんですね。そうなのか、いっぺん今度試してみよう。分岐がある場合はランダムとかいってるけれど、それも試さないとわからんか。いやね、先だってのWi-Fi対戦でのこと、スネフの西エリアのほこらにいたとき、レイクリープを使って城隣の水土地にいきたかったのだけど、砦隣に戻ったら最悪じゃないですか。使ってみろよ、使えばわかるさ。いや、それはそうなんだけど、使って手を遅らせて負けたくない。でも、もし相手が自分より手の早い相手だったら、迷っているようじゃ駄目なんですね。どちらにいくか事前に判定して、迷いなく使う使わないを判断する必要があります。そうしないと追いつけない。だから、これはもう経験なんでしょうね。使っといたらよかったなあ。城隣は自分の土地で、砦隣は人の土地だったんだけど。人の土地を踏んだら、なにやってんだろうって感じだけど、ガッツくらいは認めてもらえたかも知れないなあ。

この本には、他に各ステージでもらえるカードの種別についての表があったり、またそうした情報だけでなく、ダイス目操作スペルを使った場合の期待値を、マップごとのダイス目最大値ごとに計算してみせたコラムもあるなど、結構読んで面白そうなところも多いです。またカードの解説は丁寧で、特にクリーチャーでそう思ったのですが、即死であるとかの追加効果、これは攻撃が当たらないといけないのか、当たらなくてもいいのか、そうしたあいまい性が解説により排除されているのは、特にこのゲームを始めたばかりという人にはありがたいのではないかと思います。ただ、即死の確率が、解説の中にしか書いていないのはちょっと不親切かも知れません。ぱっと探して、ぱっと見ただけの段階では迷います。このへんは、特殊効果の欄にも確率が記載されていたメディアファクトリー版の方が親切だったと思います。けどスペルになると、各スペルに効果アイコンが記されているこちらの方が逆に親切になって面白いですね。

カードリストのレイアウトは、こちらの方が私の好みでした。ページごとにクリーチャーカードは五枚、アイテム、スペルカードは七枚記載されています(メディアファクトリー版は六枚八枚でした)。あ、そうそう。ブックの構築例もこちらの方が多かった。大宮ソフトや猿楽庁から提供されたブックもあって、いろんなブックを見たい人にもいいかと思います。

引用

2008年11月14日金曜日

ネコ侍

 九州男児の『ネコ侍』は面白いよ、そういう評判を聞いて探したのは2007年4月のことでありました。けれどショックなことに、出版社が倒産したとのことで入手困難品となっているとかで、かなり品揃えのいいその店でも払底していました。店員さんにうかがえば、リブレ出版が引き受けて後々出していくだろうというお話。そうかあ、ならそいつを待とうか。数店探してどうしても見つからないから、いつか出る新装版を待つことにしたのでした。そしてそれから一年と半年、書店の新刊平積みに念願の『ネコ侍』を発見ですよ。ああ、ついに読める。野郎盛りの乙女侍 今日も理想の雄を狩る!! ネコ侍伊福部弥的ヤマトの活躍が、ついに読めます。

読んだ。面白かった。いや、しかし、本当に面白かったです。

私の中で九州男児は、かなり理屈に傾いた作家という印象があったのですが、その印象が一気に取っ払われたといった感じであったのですよ。私が知っていた九州男児の面白さといったらですね、心理学なのか動物行動学なのか、あるいはジェンダー論であるとかマッチョ思想であるとか、そうしたなんらかの理屈を持ち出してですね、一見無理とも思える展開を裏付けるおかしさ、あるいはそれら理屈をひっくり返してしまうことのおかしみ、そういうものであったというのに、『ネコ侍』はものすごくシンプルな話の運びをして、しかもそれがべらぼうに面白いのです。基本は、恋慕して振られるの繰り返し。毎回、紆余曲折を経て訪れる山場、いよいよヤマトの願いやかなうか! と思ったところで、華麗に裏切ってみせるその展開の妙ったら最高でした。いや、裏切られるのはヤマトの積年の夢であって、読者からしたら待ってました、ってなものであるのかも知れませんね。しかし、様々なパターンを駆使し、見せ場に向かって盛り上げる手は王道、そしていよいよ果たされるかというところで急転直下、落ちに突っ込む流れは九州男児の持ち味が発揮されて、素晴らしかった。本当、これ面白いよとおすすめされた、そのおすすめという理由もわかろうというものでした。

さて、これは書こうか書くまいか迷ったのだけど、まあいいや書いちゃおう。ヤマトの夢というのはですね、三十路までに処女を捨てることなんだそうでして、そう、ヤマトは受けなのですね。ゆえにネコ侍。理想のタチを求めて行脚するも、誰でもいいというわけではなく、己を倒した男にこそその操を捧げようとかたく誓って、ああいじらしいじゃないですか、この乙女心。でも、かたく誓っていたはずなのに、追いつめられればだんだんに手段を選ばなくなり、さらにはなりふりも構わなくなり、しかしその醜態、暴走するヤマトの面白いことったらなかったです。普段の台詞のやり取りにさしはさまれる、台無しないしは明け透けな一言も面白いのだけど、やっぱり一番は心からの叫びよな。傷心のヤマト、いややけっぱちなのかな、どっちでもいいんですが、彼のそのまっすぐさは妙に引きつけるものがあって、いやそうじゃない、いつだって彼は魅力的でした。彼が魅力的だったからこそ、彼の夢がかなうことを望んだのだし、彼が魅力的だからこそ、彼の夢がかなって物語が終わってしまうことをことさらに怖れていた、そんな風にも思えるのですね。

ちょっと追記。新装版は、旧版に博多編、あとがきを加え、だからもう少しヤマトの活躍が拝めます。しかし、博多編、のっけから大笑いなんですが、というかこのお相手のエピソード、ちょっと勝海舟を思い出しました。実際のところ、勝は無事だったんですが、いや待てよ、江戸時代の珍事件を集めた本が家にあったんだけど、そこにそんな話が載っていたような気がする。九州男児も、そうした珍エピソードをもとに発想しているのかも知れませんね。

  • 九州男児『ネコ侍』(ビーボーイコミックス) 東京:リブレ出版,2008年。
  • 九州男児『ネコ侍』(ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2004年。

引用

  • 九州男児『ネコ侍』(東京:リブレ出版,2008年),カバー。
  • 同前,カバー。
  • 同前,4頁。

2008年11月13日木曜日

なきむしステップ

 『まんがタイムきららフォワード』というのはなんだか不思議な雑誌で、チョイエロエロコメが人気であるかと思えば、少女誌に載っていてもおかしくないような漫画もあって、はたしてこの雑誌の購読層とはどういうものであるのか、創刊から見ている私からがわからないというそんなありさまです。さて、今日取り上げた『なきむしステップ』は、その後者の系列、少女誌に載っていてもおかしくなさそうな漫画であります。泣き虫な女の子、奈々ちゃんが、人付き合いが苦手で引っ込み思案というその性格を克服して、思い人杉原君との関係を深めていくという漫画。ほら、先達て『ひだまりスケッチアンソロジーコミック』で書いた時に、うさぎの漫画といっていた、それが『なきむしステップ』です。

なんでうさぎの漫画なのかといいますとね、奈々ちゃんと杉原君はうさぎを飼っている、そのうさぎが実にいいキャラクターを演じているのですよ。奈々ちゃんの飼ってるうさぎは、ちょっぴり勝ち気なねねちゃん。つり上がり半月目のうさぎ姿もキュートですが、擬人化高ビーお嬢さんのねねもまた素晴らしい。杉原君の飼っているうさぎは、ちょっと気弱であかんたれっぽいシロクロ。奈々ちゃん杉原君の恋は、うさぎが取り持つどころか、まさにうさぎに後押しされて始まる恋とでもいったほうがそれっぽい。うさぎという、二人の関係に直接的に干渉できる立場でないものが、非常に大きな役割を担う、そうした物語の組立もなかなかに面白いのです。

そして、やっぱり主人公たちがいいんだろうなと思うのですね。通しで読んでみて思うのは、タイトルにそうあるように、泣き虫の奈々ちゃんがいかに勇気を振り絞って、苦手なこともの、苦境から逃げず、乗り越えていくかという、そういう物語。そこには自分への気付きがあり、成長があります。自分を取り巻く環境、社会、そして人たちとの関係を、自分も変わることにより、少しずつ変化させていく。まさに伸びる若草のようではないですか。そして私は、変化し、伸びていこうとする、そうしたものを見るのが好きなんです。だから、私はこの漫画が始まって、その物語の前へ前へと進む様に目を奪われてきました。そして、それは第1巻に収録された最後のエピソード、第7話「みんなでステップ」で完全に好きになった、そんな風に感じるのですね。

いや、ちょっとネタバレなのであれなんだけど、作者がカバー下裏表紙にて曰く、第6話で奈々ちゃんが嫌われるのではないかという話。いやさ、私は第6話読んで、杉原酷いな! つうか、駄目だろこれって、思ったのですよ。うん、奈々ちゃん悪くないよ!! つうか第6話は、なんで奈々ちゃんばっかりが心を砕いているのだろう、砕かなければならないのだろう、そうしたところに同情するやら反省(?)するやら、いやもう第6話で奈々ちゃんが悪いと思ったのはおそらくは作者さんだけじゃないのかなと思いますです、はい。

そして、この回があるから、第7話が光るとそう思って、まるで自分の外に広がる世界だけが輝いていると思ってきた、自分を中心にまるで世界を遠巻きにうらやんできたかのような奈々ちゃんが、ついに世界に向かって踏み出したなと、そうした描写が奈々ちゃんの成長を本当に実感させてよかった。一回り大きくなって、ものごとに対等に向き合えるようになってこそ気付けるものがあって、そしてこれまで自分の中に押し込められてきた感情が解放されて、奈々ちゃんはずっと魅力的になった、そう思います。

しかし、よくよく考えれば、勇気を出してきたのはいつも奈々ちゃんのような気がして、ええと、杉原君負けてるぞ!

  • カザマアヤミ『なきむしステップ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ) 東京:芳文社,2008年。

引用

2008年11月12日水曜日

すいーとりぼん!

 『コミックエール』と『まんがタイムきららフォワード』のコミックス、発売日が変更されまして、毎月の12日になりました。なんだか忘れてしまいそうですね。もういっぺん書いておきましょう。12日。毎月12日に発売されることとなりました。その第一弾、エールからは『すいーとりぼん!』がリリースされまして、これは買わなくてはならない。単行本発売を知った瞬間にそう思いました。いや、私はもとよりかたぎりあつこという人の漫画が好きで、それは『まんがタイムジャンボ』にて連載されている『ハッピーカムカム』。これがですね、非常によいのですよ。女の子のコミュニティものとでもいったらいいのでしょうか、女友達で集まってわいわいやっている様が楽しい。私はそういうタイプの漫画が好きなんですね。華やかで、けどたまに苦味をしのばせてくる、けれどそうした味も甘さの中に消えてくのさ。さて、『すいーとりぼん!』。こちらはというと、魔法少女がヒロイン、けれど……、やたら苦味が強いのですが。なんつうか非常にシビアな話が出てきて、なのに彼女は魔法少女!? そのギャップは最高です。

とはいっても、私は魔法少女はよくわからないのですよ。そうしたジャンルがあることは知っています。一時期などは、スタジオぴえろの魔法少女ものが一世を風靡しましたよね。けど、一度も見たことがないのですよ。数年前だったかなあ、たぶん『クリィミーマミ』をKBS京都かなあ? でちょこっと見ただけ。ええと、クレープ屋のワゴンが出てくるのはマミ? だとしたら多分それで正解。しかし、それで私の知識は打ち止めです。ええと、『ミンキーモモ』は結構見てたんですけどね。新モモは関西では半分くらいしか放送されなかったので、よく知らないのですが。ピピルマピピルマプリリンパ、でしたっけね、変身の呪文。あと呪文で知ってるといえば、華麗なるせーちょー、が『ファンシーララ』? ピリカピリララのびやかに、が『どれみ』? ホロレチュチュパレロが『グランゾート』で、エトカフェナンが『魔法使いTai!』、ナイタイクスプッチトテポが『ときめきトゥナイト』。後は……、も、もう出ないか……。とまあこんな私ですから、かたぎりあつこ的魔法少女ものである『すいーとりぼん!』を、はたしてどれだけ正しく受け止められているか、正直なところ自信がありませんな。

『すいーとりぼん!』、その構造はドラえもん的とでもいいましょうか、ある日魔法少女のすいーと♡りぼんが友美の家にやってきた! 出会いはネットの掲示板、ケータイ代の支払いでお母さんとけんかしたりぼんは、なんと家出、友美の家に転がり込んできたのです! ……。微妙に塩辛い設定です。魔法少女とは、夢と希望にあふれ、出会う人たちにしあわせを運んでくる、ものではないんですか? ないんですね……。少なくとも、りぼんは違う。口調がぶっきらぼうだったり、割と辛辣だったり、実はひきこもりだったり — 。ひきこもり!? やけに現代的なテーマだな。いや、小さな挫折が次の一歩を踏み出させなくすることってあります。彼女だって — 、いや、これ以上は私の口からは話せません。

といったわけで、別の切り口から見ていきましょう。

魔法少女、それは本来は、女の子の憧れなんだと思うのですね。魔法という不思議な力がもたらす神秘とは、大人になる、違う自分になる、私の知っている誰かになる、そうした変身の力であったりすることが多いですが、戦わない魔法少女とは、少女の発達過程における変身願望を満足させるものであったと思うのです。憧れの職業、憧れの大人、憧れのアイドルになる。それはなりたい自分を模索することであり、いわばごっこ遊びの延長です。ところが、『すいーとりぼん!』はそうではありません。彼女は挫折をすでに経験してしまっている。見た目こそは少女でありながら、少女の頃をとうに過ごしてしまっている。ゆえにその立ち位置は、少女の憧れる変身ヒロインであるというよりも、むしろ自分を克服しようともがく悩めるヒロインにシフトして……。

これはやっぱり、『エール』の購読層を見越しての設定なのでしょうか。だとしたら、いい線いっていると思います。少なくとも私に関してはドンピシャ。挫折以降向かう方向さえ定めることができず、いまだ迷走を続ける日々から抜け出せない私にとって、りぼんは同じ悩みを持つ同志であったとさえいえるのかも知れません。彼女のいらだちは私のいらだちに似ている。プライドばかり高いから、また失敗することが怖くて踏み出せない。そんな魔法少女というのもまた面白いものがあるなあと。普通なら、少女の夢、希望、憧れを一身に背負う、そうした存在であるはずの — 、そうなるはずだったりぼんが、私のような人生に疲れた人の共感を一身に集めている。なんだか、侘びしく思えるかも知れないそうした設定が、逆に、ああがんばれと、怖れを乗り越えて、一歩を踏み出せと、そうした応援したくなる気持ちを沸き立たせたと思うのですね。

見た目は可愛く、ストーリーにしても、定番どころをしっかり押さえて、しかしそこに潜むシビアでシニカルな視線は、ただ可愛いだけでないりぼんの魅力を強く押し出していたと思います。同居人、というかりぼんが押し掛けたのですが、友美のやわらかでしなやかな健やかさが、すさんだりぼんの心をあたたかく手当てするかのような物語は、読んでいてとても和らぐものでありました。甘く、甘く、苦く、やわらかに触れる物語は、ちくっとした痛みを残し、そしてとける。面白かったです。

  • かたぎりあつこ『すいーとりぼん!』(まんがタイムKRコミックス エールシリーズ) 東京:芳文社,2008年。

2008年11月11日火曜日

竹田の子守唄

 私はこの歌を実のところあまり知らずにいて、それこそフォークソングが人気だった時代、愛唱されていた、それくらいの知識しかなかったのですね。実際、長くどんな歌であるか知りませんでした。もしかしたら聴いたことはあるのかも知れませんけど、私は以前はそんなにフォークには興味がなかったものですから、聴いてもそれっきりで忘れてしまっていたのかも知れません。いや、あるいは、放送禁止歌とされた時代があった、そのために耳にする機会すら限定されてきたのかも知れません。私がこの歌を明確にそれと意識したのは、森達也の『放送禁止歌』を読んででした。

『放送禁止歌』によれば、『竹田の子守唄』は部落に関係する歌であるから、放送禁止になっていたというのです。しかし、そんな馬鹿な話があるか。私の感想は、その一言に尽きます。これは、京都の竹田地方に伝わる民謡であるそうで、歌詞に出てくる在所、それが被差別部落を指している、しかしだからといってなぜこの歌が放送禁止の憂き目に遭わなければならないのだろう。だって、誰かを貶め、差別しようというような要素なんて、この歌のどこからも感じられません。むしろ、つらい子守の仕事をとおし吐露される心情の切々と訴えかけること、そしてまた、そのメロディの美しいこと。それを、あたかも腫れ物に触るようにして、放送禁止つまりは自粛するという、そうしたことが私にはわかりません。

けれど、2005年のNHK趣味悠々『あの素晴らしいフォークをもう一度 — 紙ふうせんのギター弾き語り入門』ではこの歌が取り上げられて、歌っているのは紙ふうせん、赤い鳥を前身とするフォークデュオでありますが、この赤い鳥がこの歌を大ヒットさせたのだそうですね。私はこの歌は知らないといっていましたが、数年前、友人が弾く二胡の伴奏を頼まれた時に練習し、そして今ではそらで歌えるようになっています。その際に参考にしたのが、NHK趣味悠々のテキストで、ええ、こうして再び歌われ、放送にのるようになったこと、本当によいことであると思います。

けれど、放送禁止歌であったという過去は、今でも暗い影を落としていて、以前なにかのおり、この歌を歌おうかといった時、それ放送禁止歌だろうと、距離を置くように言い捨てられたことがあって、ええ放送禁止歌でした。ですが、その自粛にいたった背景や、また放送禁止という処置がなんらの根拠もない過剰な自粛、自己防衛に過ぎないということは知っておいて欲しい。その時私は、無用な争いを避けたい一心で、特に抗弁することもなく、ただこの歌を引っ込めてしまったのですが、機会があれば歌いたい歌であることは今も変わっていません。

オムニバス

2008年11月10日月曜日

コンシェルジュ

 そろそろ出るとは聞いていたのですが、具体的にいつ出るかは知らなかった『コンシェルジュ』の新刊。本日、購入しました。表紙を飾るは、フロントの面々です。嬉しいことに、芳野ちゃん、私はこの人がいたく気に入っているのですが、めでたくこうして表紙に登場して、よかったなあ。そう思っていたら、名札に見えるフルネーム、芳野祐香って名前なんですね。確かに、芳野が名前だと変だものな。なお、これまで芳野ちゃんの名前が出たことはなくてですね、つまり今回でようやく判明。彼女はそれくらいの、有り体にいって端役であるのですが、しかしそれでもその存在が認識されるほどには個性を発揮していて、ええ、この漫画は『コンシェルジュ』。あくまでコンシェルジュが中心にいるのですが、他のホテルパーソンがないがしろにされているわけではないのですね。そうしたところ、私がこの漫画をいいと思っている理由のひとつであります。

ホテルという、様々な部署が動的に関わりながら運営されている現場において、隅々まで丁寧に描かれている。これまで、ストーリーに大きく関わることのなかった芳野ちゃんを私がはっきりと覚えている、いやもちろんヘッドロックしている奴、加賀谷ですが、彼にしても同様。ヘッドロックされてるほうは、顔は覚えてるんだけど、名前わかんないや。ともあれ、こうしたメインを張ることの少ない立場にある彼らにしても、それだけの存在感が持たされているというのはすごいことであると思っています。キャラクターとして配置されているというには、あまりに生々しい存在感。これはやはり、ひとりひとりをしっかりと把握して、生き生きと描き出そうとする意識あってのことであろうと思います。ひとりひとりの顔がはっきりと見える、そうした場であるからこそ、ホテルの有機的なシステムが説得力もって立ち現れてくるのだろう、そう思っています。

さて、ここ数日、私は酷く疲れています。いやね、ちょっと今敗残処理というか、撤退戦というか、そういうのをやっていまして、連絡取り合ったり、文章翻訳したり、いろいろ手続きが大変なんです。私の立場はいわば縁の下の力持ちで、表には出ない、そう決めているのですが、それでも疲れてくると、作業量が増えると、そのしんどさにへこたれそうになります。

けれど、そんな時だからこそ、『コンシェルジュ』の新刊に触れることができてよかったと思っています。コンシェルジュは、お客様のご要望とあらば、どんな無理難題と思える頼みであっても引き受けて、かなえるための最善を尽くす仕事だそうですね。けど、これは漫画だから、よりダイナミックなものとなるよう、いわばちょっと派手でファンタスティックな要素が追加されている。普通なら、彼らコンシェルジュのやっているようなことは、そうそう実現できまい。そうした冷めた意識を頭のどこかに置きながらも、生き生きと、親しみを持って活動するコンシェルジュの面々の活躍に、引き込まれてしまうものがあります。それは、個性的で、存在感にあふれた、彼らの生々しさのためなのか。願いがかなったお客の喜びがしんしんと伝わるようであるからなのか。いや、おそらくはそうではなく、誰かのために働き、役立つことを喜びと思う、そうした気持ちを心の奥によみがえらせてくれるからだと思うのです。ああ、素晴らしいな。自分もこんな仕事ができたら素敵だろうな。そういう憧れが、ともすればくじけそうになる心を覚まさせてくれるのですね。

とりあえず、私の山場は今月いっぱい。というか、もうしばらくしたら一通りやることは出尽くして楽になるんじゃないかと期待しているのですが、ともあれそれまではくじけず、くさらず、がんばろうと思っています。いや、思えるようになったってところでしょうか。いずれにしても、それが誰かのためになるなら、がんばってみようと、そんな意気込みです。ライバルは、いや、目指すは涼子さんといいたいところですが、まあそれは高望み。自分のできる範囲でやることとしましょう。

  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第1巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第2巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第3巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第4巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第5巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第6巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第7巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第8巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第9巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第10巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第11巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第12巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第13巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第14巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • 以下続刊

2008年11月9日日曜日

機甲装兵アーモダイン

 以前お伝えしました『機甲装兵アーモダイン』、本日エンドクレジットまでたどり着きました。リアル志向のロボット系シミュレーションゲームであるのですが、ユニットに与える指示は、到達ないし攻撃目標と行動指針のみ、おおまかな指示を与えて、後はユニットの判断で動いてもらうというシステムです。プレイヤーが演じるのは小隊を率いる司令官、このシステムは司令官ロールプレイの雰囲気を非常によく表現していたのではないかと思うのですが、だって部下が思うように動かないんです。けれど、指示の出し方が的確だと、想像以上によく働いてくれて、当初の意図以上の結果を出してくれたりもする。部下の性格を把握し、どういう指示を出せばどういう動きをとるか予想し、そして状況を待つ。面白いゲームでしたよ。

ゲームの舞台は地球に始まり、宇宙に出、ついには火星にまで到達する、そうした広がりはなかなかによかったです。火星移民の子孫たちが、地球に攻めてくる。主人公は小隊を率い、戦いを止めるための戦いを続ける。そうしたシナリオは少々、いや、結構理想主義的というかご都合主義的というか、けどロボットものの王道といえば王道かも知れませんね。戦いを通して勝ち取る信頼、戦いの果てに明らかになる真実。そうしたところは確かにロボットものっぽい。ロボットアニメといったらいいのかな。だから結構嫌いじゃなかったです。

登場キャラクターは、さすが大宮というべきか、個性的なのも多いのですが、小隊付の兵士たちは、ある程度育つと旅立ってしまう。ええと、主人公の小隊がブートキャンプもかねているんですね。メンバー募集を見て、よさそうなのを引っ張ってきて、トレーニングメニュー与えて、ある程度育ってきたらロボットに詰め込んで戦場に送り出す。ロボットは成長度合いに応じて乗れる乗れないが決まってくるから、ある程度長いスパンでの成長計画を立てないといけない。例えば、ボマーが欲しいから、そのへんの適性が高い新人を引っ張ってきて、とりあえず使い物になる、戦場で死なないくらいまでトレーニングする。あるいは、スナイパーがそろそろ卒業してしまうから、かわりのスナイパーを用意しておこうなど、そういう計画も必要です。そして、最初は本当に頼りなかった部下が、卒業間近ともなるとおそろしいほどの働きを見せてくれるまでになって、その成長ぶりには感動するほどの嬉しさがあるのですね。危なっかしくて最前線に出せなかったこいつが、今や最前線で八面六臂の活躍、目を閉じれば彼のこれまでが浮かんできて、ああ、感慨深いなあ。

でも、彼も直に旅立ってしまうから、驚くほど記憶に残りません。記憶にあるのは、あくまでも現在のメンバーであって、旅立ったものは忘れられてしまう。けど、まあ、卒業者リストはいつでも確認できるんですけどね。そして、彼らの名前、顔を見れば、どんな戦場で、どんな戦いをしたやつかってのが思い浮かんでくる。そして、そうした歴戦メンバーを率いて対戦することも可能なんですよ。でも、私のまわりに『アーモダイン』をプレイする人はいないから、対戦することはこの先もちょっとないと思うんですけどね。

以前、『アーモダイン』で書いた時は、難易度は低めだなんていってましたけど、それは最初のうちだけで、後半になれば結構厳しいステージも出てきます。私は離脱者が出ないようにプレイしているのですが、どうしても厳しいところがあって、何度もリトライしてようやくそれがなった時には、ああよかった、勝てたと、安堵します。それも、格下の機体、武装で挑戦した時などは、格別です。それこそ、厳しい戦いを強いられている時は、歯を食いしばりながらプレイしていることもあるくらいで、ゲームでこれなんですから、野球やサッカーの監督ともなると、かなりの心労、疲弊があるだろうなあと思うくらいです。野球やサッカーでそうなら、軍人、士官あたりですかね、ともなるとよほどのものがあるでしょう。なんてったって、生き死にがかかってますからね。

さてさて、キャラクターについて。キャラクターの中には、ストーリーの進行に関わってくるようなのもいて、例えば主人公の永遠のライバル、ゼネス、じゃないよ、レイスであるとか、敵として登場して最後には部隊のアイドルになっちゃう、おかっぱが凛々しい少女、リュア・ゼクラン、ああボブカットが最高です、だとか、いろいろいます。けど、キャラクター性は薄いゲームです。あんまり彼らがクローズアップされることはない、強烈なアピール、アトラクションを感じることはなかった、というのはやっぱりメインは戦術級シミュレーションであって、その他のもの、シナリオにしてもキャラクターにしても、は、戦いに付随するものといったレベルにとどまるからなのでしょう。けど、ジュディ・アンソン、君は最高だ。主人公部隊のオペレーター、補佐官、頭脳明晰な才女でありながら少し世間知らずで呑気、金髪、眼鏡、主人公に淡い思いを抱いている、って、なんだその大サービスぶりは!

後もう少しミッションが残っているので、そいつを片づけるまではプレイすると思います。ですが、一通りプレイするだけでお腹いっぱいかも、結構なボリュームがあるので、何度も繰り返し遊ぼうという風にはなりません。でも、いつかまた遊びなおそうと思う日がくるのかな? 入れ込んで遊んで、ふた月ほどかかるから、なかなかその日は来ないと思いますが、面白いゲームであったのは確かです。実際、このシステムにキャラクター性を加味してやると、ブレイクしそうにも思うのですが、どうでしょう。それくらいに思うほど面白かった、お気に入りのゲームになりました。

2008年11月8日土曜日

ヤダモン

 私の好きだったアニメに『ヤダモン』があります。NHKの帯アニメ、放送時間は10分。放送されていたのは、平成がまだ一桁だった頃でした。調べてみれば1992年から1993年にかけて、もう十年以上前のことになるのですね。思い返せば、あの頃が一番アニメにのめり込んでいた時期であったと思います。新番組はとりあえずビデオに録る、そうした習性が確立したのは、確かにあの頃でした。でも『ヤダモン』はまったくのノーチェック。NHKの番宣で見た時も、緑の髪が蝶の羽のようにひらめいているヤダモンに、変なの、面白そうじゃないな、黙殺といっていいくらいの切り捨てようでした。でも、この判断を後に悔いる日がきます。

たまたま暇だったんだと思います。夕刻、なんとなしに見たNHK、そこでやっていたのが『ヤダモン』でした。はじめて見たのは「時の妖精タイモン」、二週目のタイトルですね、そのNo. 2だったと思う、を見て、これは面白いじゃないか! 一瞬で落ちました。そして後悔しました。なぜ私は、あの番宣を見た時に、これを見ないと決めたのだろう。実際に見て判断するのではなく、思い込みで決めつけたのだろう。ああ、偏見は人生を貧しくさせる! それはそれは後悔して、けれど一年経てば再放送されるだろう、だってNHKなんだもの。かくして、私の『ヤダモン』録画の苦行が始まります。だってさ、毎日あるんだもの。本当、全話録画するのは大変でした。

あんまりにショックが大きかったとでもいうのでしょうか。『ヤダモン』に関係する本、CDを買いはじめると決めたのもこの時だったのだと思います。けど、いかんせん私はいつも情報が遅い。サントラCDを予約して買えば、ポスターがついてくる。でも、私はそれを知らなかった。だから、私はポスターを持っていません。あれは悔しかったですね。あまりに悔しかったものだから、情報を収集すべく、徳間書店の雑誌『アニメージュ』を買いはじめたのでした。そう、テレビを見て、ちょろっとサントラでも買って満足しているだけだった私が、一気に深みにはまることになったのです。とはいえ、さすがにビデオはよう買えなかったなあ。あの頃は、ほんと、貧乏でした。今も変わらないといえば変わりませんが……。

漫画『ヤダモン』は、『アニメージュ』に連載されていたのですね。だから、『アニメージュ』を買えば『ヤダモン』に関する情報は網羅される、そう判断したのです。それはあながち間違いではなく、サントラを買い、主題歌シングルを買い、フィルムコミックを買い、小説も買い、漫画の単行本も買い、ロマンアルバムも買いました。ええ、本当にはまっていたのですね。

はじめて買った『アニメージュ』。そこに載っていたのは、第2話でしたね。こっちでも乗り遅れてるんですよ。だから、単行本になるのを心待ちにしていました。これは再放送を期待する心理と似ていますね。こちらも第2話はタイモンがやってくる回で、子供向けのアニメだから全体に(序盤だけは)マイルドだったTVシリーズと違い、明らかにアニメ専門誌買うようなマニアに向けられた漫画版はちょっと異質で、けれど私はこの漫画版も結構好きでした。TVシリーズのヤダモンがみせないような表情がある。んお? とかの表現はちょっとしたお気に入りでした。そして、ちょっと悪乗りしたようなギャグ、パチモンとかバッタモンとか、そのへんはちょっと微妙なんだけれど、特にバッタモン、タイモンの偽物なんですが、これは当時売られていたタイモンのぬいぐるみを揶揄していまして、けど今じゃもうわかる人も少ないだろうなあ。そういう、物語世界の範疇を逸脱するようなギャグをどう思うか、それは非常に微妙なんだけれど、でもおおむね私は好きでした。アニメ版とは違ったストーリー、違ったラスト、違ったキラの抱えていた問題、それは当時刊行されたもので全2巻、今回のなら全1巻で語れるくらいの大きさに整えられていて、ちょっとこじんまりとしたものであったけれど(というか、アニメ版が大きすぎた)、あのラストの残す印象はしんみりとさせるものがあって、気に入っています。

今、この漫画を手にしようという人は、多かれ少なかれアニメ『ヤダモン』を知っている人、それも好きだった人であるのではないかと思います。そうした人が、『ヤダモン』の放送されていた当時、また違ったテイストで語られていた『ヤダモン』を知ることができるようになって、これを望んでいた人には本当によかったと思います。また私のような、すでに知っている人間でも、また再び思い起こすことができて、そうしたこともまたよかったと思っています。

いやね、最初この本が出ると知った時、買おうかどうか迷ったんですが、書店で現物を見ればもうたまらなくなってですね、ああ自分は本当に『ヤダモン』が好きだったんだなって思ったのでありますよ。

  • SUEZEN『ヤダモン』(CR COMICS) 東京:ジャイブ,2008年。
  • SUEZEN『ヤダモン』前編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』後編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1994年。

2008年11月7日金曜日

Smileすいーつ

 四コマの世界に姉一人妹一人、姉妹同居ものの風が吹いたとでもいうのでしょうか、東屋めめの『L16』が面白いなあと思っていたら、佐野妙の『Smileすいーつ』もなんだかやたら面白くって、これ、どちらも似たような構成、社会人の姉と高校生の妹がふたりで暮らしている、そんな四コマ漫画なんですが、全然その印象が違う、もちろん読後感も違う、それぞれに面白さ、楽しさ、読みどころがあるものだから、ちっともかぶっていると感じないんですね。そして、本日は『Smileすいーつ』の発売日であります。もちろん私は買って、読んで、この漫画の独特のあたり、甘々の姉妹生活ぶりにあてられて、なんだか姉妹っていいなあって思ったりなんかして、でもこれはきっと夢だ。この世には存在しない夢だ。だって、私の友人の姉妹、こんな感じじゃない……。いや、そうでもないかも。姉妹仲のいい人、何人かいますね。やっぱり姉妹っていいものなのかも知れないなあ、ちょっと憧れるのでありました。

しかし、『Smileすいーつ』を読む時は、いったい自分をどこに置いて読むか、それで得られるものが違ってくるように思います。可愛くて仕方のない妹に甘えっぱなしの姉として読むか、ちょっと手はかかるけど太刀打ちできない姉を持った妹の気分で読むか、それぞれにまた違った味、甘さというのがあるはずで、そして私はというと、お姉さん、塔子さんの部下である中津君のポジションで読んでいるような気がします。

仕事での失敗、お詫びの最中、下げた頭に置かれる熱いコーヒーカップ。セクハラまがいのお仕置き予告に、夕食自宅に誘っておいて一時間放置するなど、もう、最高じゃないですか。こういう上司があったら、私はきっと今以上にがんばると思う。そして、『ギャラリーフェイク』は翡翠に仕える瑪瑙のごとく — 、いや、こんな話はどうでもいいや。

ともあれ、この漫画は自分をどの位置に置いて読むか、その位置取りを工夫することで、様々に楽しめると思うんですね。積極的にはまり込んで、誰かのポジションに収まってしまう、あるいは傍観者に徹するなど、距離感の違い、関係性の違いから生まれてくる感情の濃淡、グラデーションが面白みを増さしめます。そしてきっと最も楽しいと感じられる濃度、ポジションというのは、自分の育ってきた環境にもとづいたものではないのかと思います。自分が慣れて、一番自然に落ち着けるポジションというものをこの漫画に見出せるなら、それは仕合わせなことだと思うのですね。

そして、私にとってのそれは、中津君のポジションであったというのでしょうね。

ちょっと余談。妹さん、果歩の彼氏である飯田君ですが、登場当初はちょっとがたいのいい兄さんという感じだったのが、どんどん丸々と福々しくなって……。

  • 佐野妙『Smileすいーつ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年11月6日木曜日

CASIO EXILIM Hi-ZOOM EX-V8

 先日、買う予定といっていたCASIOのデジタルカメラ、EXILIM Hi-ZOOM EX-V8を購入しました。色はシルバー。実は黒にしようかと迷ったのですが、店頭に在庫がなかったのでシルバーで決着しました。カメラは黒いほうが被写体に写り込む危険が少なくなるので、そちらが理想かなと、そう思いながらシルバーにもちょっと未練があって、だから選ばないですんだのは助かりました。えらく消極的なこといっていますけれど、基本的に優柔不断で暮らしている私には、極力選択肢は少ないほうがいいんです。まあ、それでも、結局はこのカメラを選択しているのですけどね。いくらお勧めされたからといっても、価格や評判やいろいろを調べたりはしたわけで、やはりそこには決断があったわけですよ。ある程度の価格のものを買う時はいつもそうなのですが、いいのかないいのかな、ええい、いいや、買っちゃえ。そんな風に思い切る瞬間があったのでした。

さて、私がこれを買ったのは、あくまでも動画を撮りたいという目的のためでありまして、だから、他にどんな機能があるかとか、全然知らないのですね。ズームがついてることはさすがに知ってましたが、それが何倍だとか、焦点距離何ミリから何ミリだとか、全然知らない。まあ一応は把握してはいるんですけど、ええと35mm換算で38mm-200mmだったかな? いや、38mm-266mmらしいですよ。すごいな、200mm以上のレンズなんて、はじめて持ちますよ。明るさは、F3.4-F5.3、若干暗いかも知れませんが、でもこのクラスのカメラなら上出来でしょう。CCDシフト式の手ブレ防止機能があるから、ちょっとくらい暗いレンズでも、気にせず手持ちで撮影できそうなところはなかなかよさそうに思います。

でも、写真を撮るならGR DIGITALを使うから、EX-V8を静止画撮影に使うことはあまりないんじゃないかなと思います。あるとすれば、遠くのものを撮りたい、広角では撮れないもの、広角では難しい表現を求める場合であるのではないかと思います。もったいぶってる割には、当たり前のこといってますね。

動画に関する仕様は、転送レート約6.0Mb/sのUHQと、約3.0Mb/sのHQ。これらの下にNormalやLPがありますが、これらはちょっとあんまりだと思うから勘定しないとして、おそらく私が使うのは、HQなのではないかと思います。というのも、私がこのカメラ用に買ったSDカードがハギワラシスコム2GB、スピードクラスが4のものなんですね。EX-V8の取り扱い説明書を見ると、遅いSDカードだとコマ落ちする可能性があるから、10MB/s以上のメモリカードの使用をおすすめするとあって、スピードクラス4の速度は4MB/sですから、UHQだとコマ落ちするかも知れません。よってHQが無難かなと、そんなことを考えています。なにしろ私の意図はYouTubeに出すための動画を撮るというものですから、そんなにクオリティを追求する必要はないわけです。

けど、UHQで試しに撮って見たところ、特にコマ落ちを指摘するインジケータの点滅は見られなかったから、割と大丈夫なのかも知れないとも思います。というか、SDスピードクラスの表記、Bが大文字だからバイトでいいんでしょうか? 毎秒4メガバイトの読み書きができれば、毎秒6メガビットの動画の書き込みなど楽勝に思えるのですが、どうなんでしょう。よくわかりません。だって、6.0Mb/s = 768KB/s程度の転送レートなんでしょう? でも説明書に10MB/s以上を使うのがよいと書いてあるからには、スピードクラス4では遅いと考えるべきなのでしょうね。

などなど、わからないことはまだまだ多いですが、細かいところは、これから少しずつ確かめていきたいと思います。

2008年11月5日水曜日

荒野の蒸気娘

   荒野の蒸気娘』、最終巻の刊行は5月のことでありましたか。日々のごたごたに紛れてしまって、ついつい今まで積み置かれてしまっていたものの、ふと思い出して、読みました。そして、感想はというと、ちょっと微妙だったかも知れません。外燃機関で動く巨大なロボット、アリスは自分の正体が可憐な娘だと思っている。同行する姉、アンも同様。でも、アンは明らかにそれがアリスの妄想、マイルドにいえば思い込みだということを知っていて、しかし真実をあからさまに突きつけるとアリスが傷つくだろうこともわかっているから、周囲にその妄想を押し付ける。押し付けられるのは、主人公ジョーから、たまたま出会った善意の人から、敵、さらには読者まで多岐にわたり、そしてこの漫画の面白さの肝は、この妄想の押し付けにあったのでありました。

そして、それとは別に物語の後ろに匂わされていた要素があって、それはなにかというと夢の新動力炉であります。アリスに積まれた謎の機関、はたしてそれはなんなのか。それが4巻ラストまで、ずっと、じっくり引き伸ばされて、その真相はここで書くことはしませんが、それはやっぱりあさりよしとおらしいというか、ひねった、あるいはうまくかわしつつ、あり得る真相を持ってきて、それは確かに私にとっては意外な、なるほどそうなのかと思わせるに足るものでありました。

じゃあ、なにが微妙だなんていうのか。それは結局はカタルシスが得られたかどうかであると思うのですね。アリスをつけ狙う謎の組織、それはどうも大掛かりなものらしい、それを匂わせて、意外とこじんまりと終わらせたな、そんな印象なのです。だから、ストーリーの盛り上がりを期待するべきではない。機械の体を与えられた美少女、ええと、心は間違いなく美少女なんだよ、アリスという存在に感情移入して読んだ人なら、満足できるラストだったかも知れません。いや、でもジョーの、おにいちゃんの気持ちが収斂していく様、そこはもう一味欲しかったかな、そんな気もします。どっぷりと移入して読むにはどうしてもギャグ、素に引き戻される瞬間、そのギャップが足を引きますが、でも、それでも最後の流れ、王道だとは思うんですよ、でもそこには期待を受けて見事みせてやろうという意気が感じられて、ちょっと感動したのは内緒です。

あさりよしとおという人を評価するには、私はまだまだ理解も及ばないし、それこそ不遜であると思いますが、それでもあえていうとすれば、あの人はどこか斜に構えている、真っ向から感動を描こうとすることにテレがあるんじゃないかな、そんな風に思うことがあって、それは『荒野の蒸気娘』においてより強く感じられたように思います。でも私はそんなあさりよしとおの作風を嫌いじゃないと思う、むしろそこが気に入ってるんだと思います。

  • あさりよしとお『荒野の蒸気娘』第1巻 (GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2006年。
  • あさりよしとお『荒野の蒸気娘』第2巻 (GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2006年。
  • あさりよしとお『荒野の蒸気娘』第3巻 (GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2007年。
  • あさりよしとお『荒野の蒸気娘』第4巻 (GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2008年。

2008年11月4日火曜日

CASIO EXILIM Hi-ZOOM EX-V8

 先日、JASRACとYouTubeが、音楽著作権の二次利用に関する包括許諾契約を締結しました。これはどういうことかというと、JASRAC管理楽曲の二次利用が可能になる、つまり自分や友人などが演奏・歌唱したものに限り、ユーザーが自由に投稿できるようになったというのですね。これは実に私にとっては喜ばしいことで、この日を心待ちにしていたといっても言い過ぎではありません。というのは、自分の歌唱を公開する際に、著作権に関する手続きを簡略化したいものだと思っていたからなのですね。そう、歌唱を公開したいと思って、けれど踏みとどまってきた、それをもう我慢しなくていいんだ! というような話を職場でして、動画の撮れるカメラを買いますよだなんていったら、CASIOのEXILIM Hi-ZOOM EX-V8をおすすめされました。

動画も撮れるデジカメ、しかもステレオ対応。価格は二万円を割るくらい、コストパフォーマンスに優れていますよ。他社の動画の撮れるカメラ、ええと最初に自分が考えていたものなのですが、それは音割れしやすいから、むしろこちらの方がよさそうですよ、などなど。この人は電器屋の店員かと思うくらい、すらすらとおすすめの言葉で出てきまして、しかしなんでこんなに詳しいんだろうと思ったら、先日いろいろ調べた結果、これを買ったところなんだという話。なるほど、道理で詳しいわけだ。その人の目的は、子供の撮影であったそうですが、動画についても重視した結果これになったというお話でした。

子供を撮るに関して、もうひとつメリットがあるとおっしゃってました。それはなにかというと、EX-V8はレンズが飛び出ないんですね。だから、子供が触って壊してしまう可能性が低い。まだお子さんが幼いそうですから、そういうところも評価されたそうです。

さて、話だけ聞いて、これいいなと思ったわけではありません。実は、試し撮りを済ませているんです。おすすめを聞いた翌日のこと、その人がEX-V8を持ってきてくださって、試しに撮影してみられたらいかがですかとのありがたいお申し出。うはー、ほんま!? 嬉しいな! なんて親切な人なんだろう。で、早速撮影してみて、思ったよりもちゃんと写ることに感心して、実際YouTubeというそんなに画質を要求するわけではないメディアになら、これで充分以上に通用すると思いましたよ。また、こうした道具に対し私が最も要求するもの、使いやすさ、簡便さに関しても問題なしと判断します。実際、私はカメラだけを渡されて撮影したわけですが、それで問題なく収録できて、つまりは説明書いらず。これは結構いいなと思うのも、まあ無理なかろうといった感じです。

肝心の音質についてですが、これはまあ可もなく不可もなくといったところかと思います。売りのステレオ録音ですが、マイクのL/Rがそんなに離れているわけではないから、ステレオの広がりは正直期待できません。モノラル録音よりかは多少ましかも知れないレベル、でも多分あんまり関係ないんじゃないかなあ。

マイクの指向性も強くないので、周囲の音はなんでも拾ってしまう感じです。最初の収録はギター弾き歌い、カメラとの距離は3メートル程度でしたが、結構ちゃんと拾ってくれてこれは素晴らしい。でも、ずっと遠く、5メートル以上離れてるんじゃないかなあ、自動販売機にお金を落とすチャリンチャリンという音もきっちり録音されていて、すごいな、逆に感心しました。カメラから見たら、右方向ですね。それが目の前でお金を入れているような感じで、まあ音はそれなりに小さくなっているのですが、聞こえまして、こうしたところからもステレオの音場感に乏しいことはわかるかと思います。でも、小銭の例からは、ディテールをちゃんと拾ってくれるかも知れないという期待もできるから、まあYouTubeになら充分なんじゃない? そう思います。

でだ、今いっている動画、その公開は少々遅れています。著作権者に利用についての確認をとっているところで、でもJASRAC管理楽曲なら包括でいけるようになったんじゃないの、と思いきや、世の中の楽曲がすべてJASRACに信託されているわけじゃないんですね。そういう楽曲に関しては、著作権者に確認をとるべきだろう、そう考えて著作権者に問い合わせていると、そういうわけなんですね。

こういう時に、一発で片が付くJASRACのシステムは便利だなと思います。普段は悪口もいいますが、楽曲の利用に関する窓口としての機能に関しては、評価されるべき団体であろうと思いました。

引用

2008年11月3日月曜日

すぐに弾ける! たのしいウクレレ

 NHKの趣味講座、趣味悠々でウクレレをやるということで、私はもうテキストも買い込んで準備万端です。講師はIWAOという方ですが、残念ながら存じ上げません。対して生徒役はといいますと、石原良純、うはあ、私はこの人ちょっと苦手だ、そして遠藤久美子、わお、実は結構好きだったんだ、といった具合に、プラマイゼロなのであります。さてさて、ウクレレというと何年か前にすごくブームになったことがありましたが、その時のNHKウクレレ講座の講師は高木ブーであったといいますね。私はその頃は弦楽器やってなかったのですが、でもちょっと見たことはあって、つまりはそれくらいのブームだったってわけです。その後ウクレレを買った時には、『高木ブーの楽しくウクレレ』を買って、ポロンポロンと弾いたものでした。懐かしい。そして今、その頃の懐かしさを取り戻そうというかのように、再びウクレレをポロンポロンと弾いています。

ウクレレ講座は今夜開講、というわけで、準備万端整えて待っているのであります。楽器は以前買って、一時期などは持ち歩いて弾いていたZOLELE。デザインが優先された楽器で、楽器としてはそれほどよくないという評判ですが、それでも割と気に入っています。どんなでも、弾き込めばそれなりによくなるんですよ。えらそうにいえるほど弾いてるわけではないので、申し訳ないのですが……。

『すぐに弾ける! たのしいウクレレ』に収録された楽譜は以下のとおりです。

  • ハッピー・バースディ
  • カイマナ・ヒラ
  • お嫁においで
  • 涙そうそう
  • スマイル
  • サイレント・ナイト
  • ワン・ノート・サンバ
  • ハワイアン・ウェディング・ソング
  • 夜空ノムコウ
  • 星に願いを
  • エーデルワイス

また、CDもついていまして、以下の曲が収録されています。

  • ハッピー・バースディ
  • カイマナ・ヒラ
  • スマイル
  • サイレント・ナイト
  • ワン・ノート・サンバ
  • 星に願いを
  • エーデルワイス

もう少したくさん模範演奏が収録されているとありがたいところですが、まあなんらかの事情があるのでしょう。贅沢はいいません。

今私が練習しているのは、『夜空ノムコウ』です。SMAPシングル詞がスガシカオってやつですね。これ、実際に歌ってみて思ったのですが、よくできた曲、本当にいい歌ですね。私は詳しくないから、収録された楽譜が全歌詞を網羅しているかどうかわからないのですが(してませんでした)、でも、それでも充分に歌のよさはわかります。これはちょっと練習して、いつでも歌える一曲にしたいものだ、などと思うほど。ともあれ、こうした曲が一曲でもあると、がぜん取り組み方が変わってきます。私はとりあえずインストゥルメンタル系には興味がないことになっているので、このテキストに収録された歌の譜、それを中心にさらっていくことになるんだろうな、そう思われて、しかしいずれは全曲に触れるだけでも触れたいものだ、そう思っています。

といったわけで、これから年が明けるまで、ちょっとウクレレに精を出してみたく思います。ウクレレはギターほど敷居が高くないと思うので、音楽を、楽器をやってみたいという方にもおすすめします。

Zolele

2008年11月2日日曜日

のののリサイクル

   のののリサイクル』が完結しました。好きだった漫画が終わる、それはちょっとさみしいことですが、物語というものは始まりがあって終わりがある、そのふたつがセットで完成するものでありますから、完結はもっと喜びをもって迎えるべきなのだろうなと思います。それも、こんなにもいい終わり方をしてみせた漫画に関してなら、なおさらそうだと思う。ええ、思わずじんとして涙ぐんでしまうような、けどただのお涙頂戴ではなかった、そんないいお話、いいラストでありました。

『のののリサイクル』はちょっと甘めのアンドロイドとの交流もの。そのテイストは、少々私のようなおっさんが読むには甘すぎるような気もするのですが、でもそれでも確かに受け止めたと思えるものが残って、その、手に、心に残る感触は本当によかったと思うに充分なものでした。三巻かけて積み上げられてきたものは、最後にしっかりと結実した — 。けど、本当ならやっぱり私のような、人生に、世の中に、社会に疲れてしまった大人ではなく、もっと若い人たち、ののやエミュリを友達として迎えた彼女らと同じくらいの年代の人に読んで欲しい漫画であったと思います。けど、掲載誌は『まんがタイムきららフォワード』。ちょっと小学生は読まないだろうなあ、というか、この雑誌の主要購読層ってどれくらいなんだろう。多分、私は大きく外れてると思うんだけどなあ。

SFとしてこれを見るなら、アンドロイドないしは作られた人格との共存ものといえるかと思います。『鉄腕アトム』的な、人間の友達としてのロボット。一部では秀でて、けれど一部では劣っている、そうした彼らを迎えて、人とともに成長する彼らの可能性を見守る。そうした要素が見られる漫画であるのですが、アンドロイド、AIなどのSF的要素を支えるバックグラウンドはそんなに強靱ではないから、むしろファンタジーとしての面白さ、人間ではない故に可能性に満ちた異邦人を友達とする、そうした興味が全面に出ている漫画であったと思うのですね。

そう、異邦人なんです。まさか私は、こんな方向にこの漫画が向かうとは思っていませんでした。異邦人でありながら受け入れられるものがあり、異邦人であるがために受け入れられないものがあり、同じ背景を持っているふたりが直面するこの差異とはいったいなんなのだろう。このふたりのヒューマノイドの違い、そこが物語の軸的要素となって、ストーリーを引っ張っていくのですが、悪くいえばありきたりかも知れないそのテーマは、丁寧に描かれてきた子供たちとヒューマノイドの関係に後押しされるものだから、わかっていながらも引き込まれてしまって、うん、わかりやすくきれいにまとめてあるというのはすごくいいことだと思います。小難しく描いてあったら高尚ってわけでもないですからね。まず伝わることが大切で、そしてその大切なこと — 、気持ちを伝えるは『のののリサイクル』の描く、一番のテーマだったと思います。

これは別にあえて書かなくてもいいことだと思うのだけど、私たち人が伝えるもの、遺伝子は、ジーン (gene) の他に、ミーム (meme) と呼ばれる要素もある、といったのはリチャード・ドーキンスだったそうですね。『のののリサイクル』におけるテーマとして、このミームが意識されていたことは、物語中でも語られるとおりです。伝えるもの、伝えられるもの。人とともにそれらを受け継ぐ存在として、ヒューマノイドののはデザインされている、そういう考えはちょっと素敵であるなと思えるものでした。いやね、以前知人と馬鹿なこと話してた時に、人間が育ててきた文化、文明がいよいよ頭打ちとなったら、その伝達、保存は機械、ヒューマノイドに託してしまって、我々人間という種は退場しちゃっていいんじゃない? みたいなことを話していたことがあったんですよ。そう、『のののリサイクル』的な前提に立ちつつも、それが私ならこんなにも嫌な、悲観的な方向に向かってしまう。ところが『のののリサイクル』は、失われるものををそのうちに抱えつつ、新たな方向へ、人という種とともに向かおうというんですから、ああ、いい話だったななんて、なおさら強く思ったんですね。

大人が読むには甘めだと、それはわかっているから、そうした甘さを欲している人、人生や、人付き合いや、社会にへこたれつつある人におすすめしたい、といいながら、やっぱり本当は、これから世界を経験し、関わっていこうという、発展しようという世代の人たちにこそ読まれて欲しいと思う漫画であります。けど、私がいくらそう望んだとしても、このBlogをそうした世代の人が読んでるとは、到底思えないからなあ。というか、いったいどんな人がこのBlog読んでんだ? などと思ってしまうところなどは、私のヒューマノイドののに全力で負けてしまっているという所以です。

  • 云熊まく,綾見ちは『のののリサイクル』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 云熊まく,綾見ちは『のののリサイクル』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 云熊まく,綾見ちは『のののリサイクル』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年11月1日土曜日

となりのだんな様

 私は野々原ちきのファンなので、新刊が出たら当然買うのであります。というわけで、『となりのだんな様』が発売されました。レーベルは電撃コミックス、連載は『電撃大王』。残念ながら連載を読んだことがなく、つまりこの単行本が初見であります。そして、読んでどうだったのか。ええ、面白かったです。最初、読み始めの頃は、親同士の取り決めで許婚になったという小学生男子、青葉龍之介の生意気さ加減に、まいったな、大丈夫かなと心配になったのですが、なになに、episode. 2のラストページで陥落ですよ。いやあ、龍之介くん、可愛いよ。気っ風のいいお姉さんにめろめろの龍之介くんを愛でる漫画かと、危うく勘違いしてしまうほどでありました。

いや、あながち勘違いでもないと思うのですが、ええと、登場人物を整理しますと、中学時代は荒んでいたヒロイン城之内ヒメは、高校入学を機にその業界(?)からすっぱり足を洗って、ちょっと粗雑だけど可愛いお嬢さんになりました。そんなヒメにべったりなのは、お隣に住む龍之介。小学生ながらできのいい、利発な坊ちゃんで、そして龍之介を思うあまりヒメになにかと突っかかってくる小学生女子泉清香が加わって、これでほぼ全員かな? ヒメのクラスメイトとかもいますが、まあこれだけ把握してれば大丈夫。主要登場人物三名という、とてもミニマルな人間関係の中で繰り広げられる、どこかぎこちないプレ恋愛ストーリー。これが、ほほ笑ましくて可愛くって楽しかった。この中で一番年長であるヒメの妙な純情っぷりも含めて、本当にほほ笑ましい漫画でありました。

しかし、野々原ちきという人は、生意気だけどそこが可愛いキャラクターを描かせればうまいなあ。この漫画を見て、あらためてそう思いましたよ。この人の漫画には、腹黒でこじんまりしたキャラクターが出てくることが多く、小学生なんだけど大人顔負けとかですね、そういうキャラクターの魅力といいますかなんといいますか、最初はどうだろうと思っても、だんだんよくなっていくその引き込まれ感がよいのです。この漫画でも、龍之介にはepisode. 2で陥落、清香にしても登場回のそれとも妄想癖ですか?で打ち負けたかと思ったら、そんなことより助けて下さい!!で駄目押し。なんていうんでしょう、いくら彼らが大人顔負け、生意気だといっても、どこかに子供らしさというか、甘えたり頼ったり、そういうところを残しているから、うわー、もう可愛すぎ。下がる目じりがえびす顔、てなもんですよ。確かに彼らは恐るべき子供たちであるけれど、ちょっとずつ残されたいたいけさ、その配合の度合いがほんともう素晴らしいなと。ヒロインを振り回す側であるのに、変に入れ込んでしまう、そんな魅力がたまりません。

でも、やっぱりこうした気持ちの起こりは、ヒロインあってのものなのかとも思うのですね。ヒロインは中学時代、町内最強と怖れられた、そんなお嬢さんなのですが、それが清純派のふりをしている。いや、ふりというか実際のところ純情派であると思うのですが、ちょっとしたことに心を動かされるというか、一喜一憂するというか、素直さはなかなかのものでありますし、それになんだかすごくいい人そうです。悪ぶっても、どこかしら悪くなり切れないという感じ。そんな人が、なおさらいい人ぶろうというんですから、そのいじらしさったら、下がる目じりがえびす顔、 — はもういいですか、とにかく可愛いんですね。

可愛い人に可愛い人が懐いている。これでいったい魅力的にならないなんてことがありましょうか。いや、本当にいい。しかも、ヒメのキャラクターの、素朴で素直な可愛さを保持しながらも、基本的にはさばさばとしてべたつかない、そんな気風がある人だから、もう素晴らしい。龍之介に振り回される、その時々に女の子らしさを感じさせながらも、変な女臭さは振り撒かない。必要以上にべたつくことのない恋愛コメディは、楽しく、面白く、時に心にしんみりとした跡を残して、素敵でした。深く踏み込まないもどかしさも、素直になれない不器用さも、そしてそうした恋愛前段階の気恥ずかしさも、どれもがじんわりと胸に染みてよかった。一巻ものというのが惜しいな、もっと彼らの関係を見守っていたかったな、そんな感覚さえ覚えるほどでした。

  • 野々原ちき『となりのだんな様』(電撃コミックスEX) 東京:アスキー・メディアワークス,2008年。

引用

  • 野々原ちき『となりのだんな様』(東京:アスキー・メディアワークス,2008年),35頁。
  • 同前,50頁。
  • 荒木良治『