2005年5月31日火曜日

Birth of the Cool

 マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』はクール・ジャズというスタイルを確立した名盤で、クール・ジャズというのは、アドリブを重視するバップに対し、綿密なアンサンブルを重んじるスタイルといったらいいでしょうか。私は大学で履修したジャズ史の授業でこのアルバムを聞かされて、どうしても続きを聴きたくてしようがなかったもんだから、自分でも買ってしまいました。すごくメロディが美しくてムーディで、そしてモダン。私の経験してきたジャズというのは、吹奏楽出身ということもあってビッグバンド・スタイルだとかが中心だったのですが、けれど私はコンボ・スタイルの方が好きなんだということを、『クールの誕生』を聴いて心から思いましたね。

ジャズのスタイルとしてはかけ離れていますが、アンサンブルを重視するという点においては、クール・ジャズとビッグバンドには共通点がありそうで、けれど私はビッグバンドもどきの一員になりながら、なんだかあんまりのり切れなくてですね、なんというか、私はあんまり自由じゃなかった。指揮者がいて、それに従ってやる音楽も悪くはないのですが、私にはどうにも好かないんです。もしかしたら私がみんなに打ち解けてなかったのが原因だっただけかも知れませんが、けれど私はプレイヤー一人一人と好きにやってる時の方が楽しくて、あの合奏のなかに引き戻されるのはなんだか気分が暗くなるようで、あまりいい思い出じゃありません。

こういう性質があるもんだから、ビッグバンドよりもコンボというのかも知れません。

マイルス・デイヴィスのクール・ジャズは、音楽がしっかりと練り上げられているもんだから、聴いているものを置いたまま、プレイヤーたちがどこかにいってしまうような不安感がなくって、ジャズの中では聴きやすいスタイルといえるでしょう。だからあるいは、次々と飛び出すアドリブのドライブ感に身を任せ、この先どうなるかまったく見えないという緊張感に楽しみを見いだしたい人には、少しおとなしすぎる、乙に澄ましていると聴こえるかも知れません。

ですが、このアルバムを聴いてもですね、ちょっと落ち着きすぎてつまらないとか、そういう風には思えないのですよ。なにしろ、超クールなアルバムです(実際、このクールという形容は、このアルバムタイトルから生まれたらしいですね)。聴いているとほれぼれとして、まるでどこかにつれていかれそうなほど魅力的です。なにがよいといっても、楽曲の構成でしょう。バップとかだと、プレイヤーの個性のメリハリが音楽のコントラストを作り上げて実にホットでありますが、クール・ジャズだと、曲にきっちりとメリハリがつけられています。ユニゾンでの演奏のポジティブに前進する気持ちよさがあるかと思えば、淡く弱音で奏されている音楽の、背景に動く対旋律の美しさ。言葉もでないですね。

でるとしたら、せいぜいうめき声くらいなものでしょう。感極まるほどによいと感じます。

2005年5月30日月曜日

My Favorite Things

 私は昔サクソフォンを吹いていまして、サックスというとジャズの楽器という印象が強いですが、私のやっていたのはクラシックジャンルにおけるサクソフォンだから、ちょっと趣が違います。ですが、クラシカル・サクソフォンといいましてもね、サックス奏者にとってはジャズは避けて通れないものでありまして、だから私もジャズに興味を持って、いろいろ試しては見ました。参考にといろいろ聴いてみたり、またコピーしてみたり。そんな私の一番のお気に入りだったジャズ・サクソフォンはといいますと、ジョン・コルトレーンの演奏する『マイ・フェイヴァリット・シングス』。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の佳曲を、ソプラノサクソフォンで熱くしかしクールに歌い上げる、ジャズ名盤中の名盤であります。

コルトレーンの『マイ・フェイヴァリット・シングス』は、私にとって、強烈に鮮烈で本当にショッキングな体験でありました。サクソフォンを吹こうという人間は皆おしなべて、ヴィヴラートなるものを練習するのですが、ヴィヴラートというのは音を細かに揺らす技法のことですが、本来は演奏の一要素に過ぎないヴィヴラートを中高生というやつは妙に持ち上げる嫌いがありましてね、一旦できるようになったら、どんな曲でも、頭っから最後までヴィヴラートをかけながら、どんなもんだい僕の演奏はぁ、ってな感じにこれ見よがしにやっている。けれど、あくまでもヴィヴラートなんてものは表面的な装飾みたいなものに過ぎなくて、こんなのなくたって音楽的な演奏というのは充分可能なのであります。そのことを私に思い知らせたのは、まさにジョン・コルトレーンであったのでした。

コルトレーンは、『マイ・フェイヴァリット・シングス』を、徹頭徹尾ノン・ヴィヴラートでやっていて、むしろその音というのは粗野な感じさえあるのですが、しかしそれがどうして細やかでデリケートで、しかしパワフルでホットな演奏なのです。私はこれを聴いて、おいおい、なんだよ、ヴィヴラートなんてなくったっていいじゃんかと思うようになりまして、特にソプラノを吹くときにはコルトレーンのまねして、もっぱらノン・ヴィヴラートでやっていたのですよ。

まあ、だからといってノン・ヴィヴラートが一般に受け入れられるかどうかといえばなかなかうまくなくって、私は高校の時の演奏会でノン・ヴィヴラートでソロをやってみて、しっかりアンケートに、デリカシーのない演奏で最悪です、って書かれましてね、いやあ、結局音楽的演奏をできなければ、ヴィヴラートはよいごまかしになってくれるという話ですかな。ともあれ、私がノン・ヴィヴラートでうまくいけたと思ったのは、大学を卒業した頃だったかな、ちょっとしたイベント先でバッハの『無伴奏チェロ組曲』をやったとき。その日の演奏はきわめて気持ちよく吹けて、この世の憂いなんかどうでもなるような気分で、それに周りの評判もなんだかよくって、ノン・ヴィヴラートでもなんら問題がないんだというのを自分でも確認できた思いでした。

ともあれ、そうしたヴィヴラートがあるのが自然みたいななかに、ノン・ヴィヴラートでてらいもごまかしもなしの熱演を繰り広げたのがコルトレーンで、実際この盤は名盤として広く知られています。力強くそしてデリケート、歌う心にあふれた演奏であることは、多くのジャズファンもうけがうことであるでしょう。

2005年5月29日日曜日

すーぱータムタム

 今日、私の最近読んでるのは四コマ漫画ばっかりでみたいな話をしたときに、最近の四コマはストーリーになってたりするのもあるんだってねみたいにいわれまして、ええ確かにストーリー四コマと呼ばれるようなのもありました。その第一人者は小池田マヤ。まんがタイムラブリーで連載されていた『すーぱータムタム』は怒濤と波乱のストーリーで読者の心をがっちりつかんで、私ももちろん好きで、小池田マヤの漫画は当時ほとんど全部そろえていました。小池田マヤのストーリー四コマというのは『すぎなレボリューション』で一旦の完成を見て、『バーバーハーバー』では比較的穏当な方向 — もちろんストーリー性もあり — に進んでみたという感じ。私は、『バーバーハーバー』くらいの穏当な方が読みやすくっていいなと思っていますが、もちろんこれは、小池田マヤの過去の仕事を否定しようという訳ではありません。

ストーリー四コマというのは、小池田以前にももちろんそういう傾向を持ったのはあって、けれどストーリー性に主眼を置いて恋愛劇を展開したりしたのは、やっぱり小池田であったのではないかなあと思っています。純情をもてあそばれたOLが、奮起し男を見返し、けれどその奥底にはやっぱり最初の純情さが残っていて、 — と言葉に書けばなんだかさっぱりしていますが、読んでみればジェットコースター四コマというか、トレンディドラマってきっとこんなだったんだろうなというような内容で、しかもなぜかどろどろの愛憎劇になっちゃうのはなんなんでしょう。

いや、それでも面白かったのです。けど、やっぱり時代の空気というのがありまして、ついこの間、小池田マヤコレクション(小池田マヤの特集号)を引っ張り出して『すーぱータムタム』を読んだときには、あれれ、こんなに粗っぽい、常識はずれの漫画だったったけかなあ、と、はまりこめなくなっているのに気付いてしまいました。まあ、この感想は、当時学生であった自分と、今(半)社会人の自分の違いのせいであろうとは思いますが、けれど恋愛中心に生きない自分には理解できないものになっていました。いくらいろいろあったからっていって、仕事をさぼっちゃうんはだめだろうだとか、そもそもええ歳して、あいつを落とせるかどうか賭けようぜみたいなのってどうですかとか、自分の堅物であるところ、つまんない性格があれこれに突っ込みを入れるもんだから、素直に楽しめなくなっているのです。まあ、これは自分が悪いんではありますが。

今の四コマを見渡すと、小池田マヤが確立したストーリー四コマのスタイルは、その性質を緩めながら広く浸透して、ひとつひとつの四コマが次の四コマにつながって、まとまったひとつの話を構成するというスタイルで落ち着いたように見えます。たいていは話を次回まで持ち越すことはなく、けれどもちろん次回に続くようなものもあって、こうしたやり方は普通のやり方として定着したんじゃないでしょうか。今はもう、これらをストーリー四コマというくくりで捉えようという動きはあまり感じられず、私が最初にストーリー四コマと呼ばれるものもありましたと過去形で書いたのはこうした理由からです。

けど、こうした今の流れの源流をたどれば、やっぱりそこには『すーぱータムタム』も確かにあって、小池田マヤは良きパイオニアであったなあと思うのです。あの伝統的な四コマスタイルが隆盛だった時分に、ストーリー四コマというスタイルをどんと打ち出して、最後には四コマ漫画の枠をぶち壊してみせた、私はこの人の漫画をリアルタイムで続きを楽しみにしながら読めたのは本当によかったと思います。

  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1997年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1997年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,1998年。
  • 小池田マヤ『すーぱータムタム』完結編 (ワイドKC Kiss) 東京:講談社,2001年。

2005年5月28日土曜日

マッハ!!!

 『マッハ!!!』というタイ映画を見たのは、たまたま券をもらったからだったのですが、本当に見といてよかったと思える映画で、なんというのでしょうか、ジャッキー・チェン若かりし頃の香港映画を思わせるようなわかりやすさが持ち味の、華麗なアクション映画でありました。

華麗なアクションのアジア映画というと『HERO』みたいな、ワイヤーアクションばりばりの派手なものを想像されるかも知れませんが、『マッハ!!!』は違うんです。なにしろ、CG使いません、ワイヤーアクション使いません、スタントマン使いません、早回し使いませんを標榜して、主演のトニー・ジャーの体術を頼りに見せる、見せる、魅せる! 私はこれを見て、人間とは本当にこれだけ動けるものなのかと、ほんとにもうたまげました。

トニー・ジャーの駆使する格闘技とは、タイが世界に誇るムエタイでして、私はショー化したムエタイしか見たことがなかったのですが、この映画を見ると、実に多様な技の広がりを持つ拳法なんだとわかります。この映画の売りはトニー・ジャーのアクションですから、とにかくいたるところで戦わせます。賭けボクシングで、悪漢との小競り合いで、そして決戦で、トニー・ジャーはムエタイをもって戦って、その体術も素晴らしければ、戦いに臨みながらも常にクールであるさまも見事。あの油断のなさ、残心がしっかり描かれているのは、この映画が扱うのがスポーツではなく格闘技であることを表現していて、実にあっぱれであります。

とまあ、この映画はどうしてもトニー・ジャーの常人離れした身体の素晴らしさが表に出てしまうのですが、私にはそうした表向きの派手さではなく、映画の裏にずーっと流れていたタイという国の悲しい現実の方が気になって仕方ありませんでした。

富める都市と貧しき農村の圧倒的な格差もそうなら、都市部では麻薬売買が横行してタイ人の心と体をむしばんでいる。そこには明らかに経済の問題というのが影を落としていて、踏みつけにされる貧困層の上には、富を集める富裕層がある。彼らは海外資本と結託して略奪に余念がなく、そもそもトニー・ジャーが戦わなければならなくなったきっかけというのも、こうした悲しい現実があったためでありました。

この映画がいいたかった本当のことというのは、今タイが抱えている問題だったのではないかと思い、私はトニー・ジャーのアクションに心を奪われながらも、どうしてもその悲しさを払拭できずにいて、だから私はこの映画を、爽快アクション映画と呼ぶことはどうしてもできない。体ひとつを頼みにするしかない、タイの悲しい現実がつらくてたまりませんでした。

私はこの映画が日本でヒットしたように、世界中にタイ伝統の古式ムエタイの素晴らしさを見せつけながら、その現実を伝えてくれればいいと思わないではおられません。それでいつか、タイが悲しみをぬぐうことができたら、そんときには本当に爽快で痛快なアクションを見せてくれればいいなと、そんなふうに思います。

がんばれ、タイ。がんばって、よりよい明日を手にして欲しいです。

2005年5月27日金曜日

きつねさんに化かされたい!

 この漫画の帯には、メガネ&メイド好きなアナタには特にオススメ!だなんて書かれてありまして、けれど私は別にメイドが好きというわけでないし、メガネについてもどうということもないしで、さらに加えていえば猫耳だとかというのも興味の外。これでもかと畳みかけてくる萌え要素をことごとく退けてしまって、なのに私はこの漫画のこと無視できないんです。まんがタイムきららを読むようになって、最初はなんだか味気ないというか灰汁が強いというか、そんな感想を持っていたというのにも関わらず、気付けば今やすべての漫画を通して読むようになって、単行本だって(全部じゃないけど)買ってるぞ!

そうした変化が起ころうという前から、私は『きつねさんに化かされたい!』は読んでいました。どうしようもないなあ、けれどこのラインナップ中では普通の漫画だなあなんて思っているうちに、目が離せなくなってしまって、まあ有り体にいいますと好きになってしまったんですね。いや、正確を期すなら、もともとこういう感じの漫画は好きだった、というべきでしょう。

人間に化けてるきつねのこくりさんが、いい子なんですよ。なんというか、本当にけなげでいたいけで、すごく素直ないい子なんですよ。こくりさんの寄食先である保険医をはじめとする変わり者、ひねくれ者に囲まれて、そんな中こくりさんはまるで、私たちの世界に残された最後の希望のようでありませんか!

馬鹿なこといってるというのはわかってます。けれど、私は、この漫画を読みながら、こくりさんが自分のそばにいたらどんなに仕合せだらうかなあとか思ってしまうそんな駄目なやつなんです。もし自分が保険医の立場だったら、こくりさんには変なことを教えず、健やかなよい子のままでいさせるぞ。お菓子でもなんでも買ってあげて、いっぱいいっぱい喜んでもらうんだ! いや、馬鹿なこといってるのは重々承知してますから、そうっとしといてくださいってば。

昔、ヨーロッパでルネサンスという運動がありました。人文主義が花開き、それまでの神様を中心とした世界観から、人間中心の世界観へとシフトするという一大転機でありまして、思想や芸術の変化もさることながら、科学的な視点に基づいて物事を捉えようという動きが出てきたということこそが一番に重要な変化でありました。

ルネサンス絵画では遠近法が巧みに用いられるようになって、中世絵画とはまた違う、外部から事象を捉えようという意思はここにもまざまざと感じられます。この精緻な遠近法というもの自体が、まさに科学的視点のたまものでありまして、透視図法に見られる比率の美というものは、ルネサンス人が復興したいと願った古典的美学の粋であったのかも知れません。

ただここでいう遠近法というのは、あくまでも透視図法のことであって、実をいうと遠近法には空気遠近法というのもあります。遠くにある山を見ると、近くのものよりもぼやけて見えるというあれです。山と私たちの間にある空気が、山の姿を微妙にぼやかしてしまうという、そういう遠近感もあるのです。

もちろん、ルネサンスの芸術家たちは空気遠近に気付いていました。そして、透視図法に取り組んだように、空気遠近法を体系化しようという努力を惜しみませんでした。しかし、空気遠近法が理論として体系づけられることはなかったのですね。

なぜか? それは、空気遠近は計量できないからです。ルネサンス人が重んじた数と比率の美 — これこそは古典的美の神髄です — の世界に、空気遠近法の居場所はなかったのです。

なんでこんなことを唐突に説明しだしたのかといいますと、今の私の『きつねさん』に対する思いというのが、まさにルネサンス人における空気遠近に似ているからです。

曰く、萌えは計量できない!

私は今、自分のBlogにこくりさんの表紙を載せられたということで満足しています。ただこれだけのことで、こんなにも嬉しいなんて!

もうすっかり、駄目人間ですな!

蛇足

上の方で、変わり者だとかひねくれ者だとかいってるけど、この漫画はそうした人たちこそが優しくて、すごくいいと思います。特に、あの文化祭の日における、保険医と登校拒否児童田中さんの関係はすごく暖かいと思いました。

なんとなく失礼で、なんとなくひどいことばっかりいっている人たちですが、実はそんな人たちがすごく暖かいというのはすごくいいことだと思います。

蛇足2

えっと、私が好きなのはこくりさんだけじゃありませんで……、甘ロリ服もいいけど和服もねってやつでして、見た目キツ目の子供で中身は年増って、実は最高なんじゃありませんか!?

蛇足3

えっと、実はみんな好き。

引用

2005年5月26日木曜日

スネークキューブ

  最近、なんだか懐かしおもちゃみたいなのをまたちょくちょく見かけるようになってきましたが、ブームなんでしょうか。昔よりもゴージャスな超合金が出ているかと思えば、はたまたこちらは昔どおりのルービックキューブなんてのもあって、はやりましたね、ルービックキューブ。あの時分、どこのお家にいってもキューブがありましたもん。大人も子供もみんながちゃがちゃやっていて、どこそこのお兄さんが六面そろえるのに成功したとかいうニュースでどっと沸きましてね、けれど私はルービックキューブには才能がなかったようで、よくて三面、たいていは一二面で挫折するというのが常でした。

まあそんな私でもルービックキューブをきっちり六面そろえることはできるのですが、とそんなうさんくさい話は置いておいて(いつかルービックキューブで書くことがあったら、そんときに話しましょう)、私が愛したのはキューブはキューブでもスネークキューブでありました。

スネークキューブというのは、直角二等辺三角形のブロックが二十四個ずらっとつながったよくわからないオブジェクトでして、この直角二等辺三角形をくねくねかちゃかちゃとどうこうしてやることで、いろんなかたちを作り出すことができるという、そういうおもちゃであったのでした。

基本形は球です。ちょうど画像にあるように、サッカーボールなのかアポロ月着陸船の人間が乗る部分なのか、かくかくした頂点数の少ないポリゴンっぽい球を基本として、例えばコブラであるとか、あるいは亀であるとか、さらには宇宙船(潜水艦だったか?)だとか、いろいろなかたちにキューブを変形させては、やんちゃ坊主同士で遊び回っていました。

私が持ってたスネークキューブは白と黒のツートンで、けれどこれを買ってもらうまでは長い道のりでした。当時がちゃがちゃ(今ではガチャポンといいますな)はまだ二十円でできて、ああいう子供だましのものはすぐに流行を追うから、もちろんスネークキューブもあったのです。当たりが出れば本物がもらえて、けれど普通にはゴムでできた直角二等辺三角形のブロックがひとつ出てくるだけです。雄と雌のほぞがついていて、これを二十四個集めたらスネークキューブが完成する。

残念ながら、私は完成できませんでした。直角二等辺三角形が出るとかどうか以前に、怪獣が出たりスーパーカーが出たりと、とにかく前途多難なのですよ。なので、私のスネークキューブ入手は遅れて、思えばまだ時代は貧しかった。今みたいにものがあふれてなくて、ちょっとしたこんなおもちゃでも、買ってもらうのにえらいこと待たされて、けれどその待たされた分、手にしたときは嬉しかった。もう消費すら快楽じゃない今では得られないような喜びがあったように思います。

さて、私はさっきからスネークキューブ、スネークキューブといっていますが、どうやらこれの正式名称はマジックスネークみたいですね。けど、私が子供の頃は、スネークキューブっていってたんですよ。いったいどこがキューブだかわからんこいつをキューブといって売っていたのは、ひとえにルービックキューブ人気のためでしょう。なんでもキューブといって、ブームに一乗りしちゃう。いや、マジックスネークもルービック教授の考案品だから、あながちブームに便乗したとはいえないかも知れません。

とはいっても、スネークキューブって名前のつけ方はやっぱり便乗だよなあ。

私は、いったいどれくらいスネークキューブで遊んだものやら。もうとにかく遊びに遊びました。一年とか二年とか、そういう年単位で遊んだと思いますよ。誕生会の集まりで壊されて大泣きして、父親に直してもらって、それからまた何年も遊んで、宇宙船にしたり、潜水艦にしたり、鍵にしたり、とにかく子供の遊びの道具としてはすごくよくできていました。だって、なんにでもかたちを変えて、それで遊べるんですから。

こういうおもちゃのことを考えると、今のおもちゃというのは意外に寿命が短いのかも知れないと思います。ひとつ、単体のシンプルなおもちゃだけで、何年も遊んだりとか、今の子供もしてるのかなあ。

2005年5月25日水曜日

中国茶図鑑

 私は、なにもこれだけにかぎったことではないのですが、食べ物飲み物に関してどうも節操なく、たいていのものは喜んでいただきます。飲み物ならば、コーヒーも飲みますし紅茶も飲む。お茶だけにかぎっても、紅茶、中国茶、日本茶、抹茶、なんでもいただきますよ。とそんな節操のない私は、中国茶を入れる専用の道具もちゃんと持っていて、中国では茶壺と呼ぶのですが、中国茶を入れる用の急須から茶盤問香杯といったものまで持っている。これでもって中国茶を入れますとなんか独特の非日常感が得られましてね、ただのお茶でもなんだかすごいご馳走に思えてくるという、ちょっとした贅沢気分が味わえるのですよ。

  さて、そんな私が中国茶を楽しもうというときに頼りにするのは、文春新書に収録されている『中国茶図鑑』という本でして、ちょっと中国茶に興味を持ってるんだー、というような人、ちょうど私みたいな人、にはうってつけの教材となるでしょう。新書ですからそんなに大きくなくサイズも手ごろ、けれど内容は結構充実していて、私が以前香港に行ったときに買い込んできたお茶の説明も収録されていました。有名どころのお茶なら多分ちゃんとサポートされているので、これから中国茶の世界に分け入ろうという人には、きっと頼もしい道案内役になってくれるかと思います。

この本のありがたいのは、中国茶がただただ紹介されているだけじゃなくて、お茶の入れ方とか楽しみ方、それに買うためのアドバイスなんてのも載っているところかと思います。私が中国茶の入れ方、楽しみ方を最初に習ったのは、NHKの語学の番組『中国語会話』の文化コーナーでの特集でだったのですが、記憶というのはどうにも薄れがちです。なので、実際にお茶を入れて楽しむ用意のできてからは、この本を頼りにしています。お茶を入れて、飲んで、このお茶はどうだこうだとわからないなりに話したりして、それで次はどんなお茶のみたいかなあと、この本に戻っていく。

お茶の楽しみの循環の中に、この本はすっかり入り込んでしまっていたのでした。

けど、最近はどうも余裕がないようで、茶壺を使ってお茶を入れてみたいなことはしなくなってしまって、せっかくの道具がもったいない。たまには余裕をつくって、こうした楽しみを復活させたいなんて思います。けど、自分が飲むためだけのお茶に、これだけの手間をかけるというのも難しいんですね。同好の人でもあれば別なんでしょうけれど。

  • 工藤佳治,兪向紅『中国茶図鑑』丸山洋平写真 (文春新書) 東京:文芸春秋,2000年。

2005年5月24日火曜日

Paris-Zénith

 私は一時フランスの音楽を買い集めていまして、その時の選別基準はもう目茶苦茶。洋盤のワゴンセールを見かけたら仏盤らしいものを根こそぎ買うという、そういう手当たり次第といっていいようなやり方だったのですね。けれど、意外やこのやり方は悪くなくってですね、どんな人かは知らないけれど超クール! というアルバムがうちには結構あるんです。

そんなわけで、今日紹介しますアルバム『Paris-Zénith』もそんなうちの一枚です(いや、二枚組だから二枚か)。演奏する人はHubert-Félix Thiéfaine。フランスロックバンドの、強烈に恰好いいライブアルバムです。

なにがそんなに恰好いいのか。ロックといっても実に標準的なもので、さして尖っているわけでもない、どちらかといえばおとなしい感じの演奏です。ただその歌う声がすごく魅力的。歌っているのは、さっきもいったHubert-Félix Thiéfaine。太く甘く少しぶっきらぼうでエネルギッシュな声を持つ、それこそ聴くものの心をとらえちまうような歌い手です。バンドに参加するミュージシャンそれぞれの演奏もそれぞれに魅惑的で、こうしたオーソドックスながら実力を持った音が、対立するわけでもなく、かといって馴れ合うわけでもなく、自分のやるべきことをきっちりとこなして、だからそれがクールなのです。

バンドとしてはすごくオーソドックス、けれどさまざまな要素、バックグラウンドが飛び出してきて意欲的です。ロックに、民俗曲の要素も混ざり込んで、けれどそれは古き良きものみたいな懐古調でなく、よそから借りてきたよそよそしさでもなくて、— 生きています。ガットギターのはじけるように鳴らされた音の切れと強さ、ラッパの哀愁を帯びてなお洒落っ気を見せつける粋。メキシコスタイルのマリアッチも出れば中国の楽器二胡まで出てきて、しかしこうしたいろいろがひとつの音楽的土壌にしっかりと配置されて絢爛。すごく贅沢なステージじゃないかと思います。

こうしたいろいろな要素をひとつの文脈の中で扱ってしまうというのは、ある種多様式が身近であるということか、あるいはよほどのセンスがあるか。おそらくはその両方であると思います。ロックというスタイルを基調にして、ロックらしからぬ要素までロックにしてしまうというのは、どれものスタイルを知りながら、そのどれもを特別にしてしまっていないからなのでしょう。こうした多様式から生まれる面白さというのは、ひとつところにとどまらない音楽の可能性みたいなものまで感じさせて、私はすごく興奮させられてしまいます。ああ私は、こんな風な音楽の場に臨みたいものだなあと、心から思わずにはおられませんからね。

しかしだ、こんなうだうだ抜きにして、めっちゃくちゃかっこいいんですよ。腰が抜けそう — 、ほんま、しびれますもんね。

二枚目の『Alligator 427』くらいまできたら、もう完全にこの人らの空気に取り込まれてしまっていて、なんというか、こっちの世界にいながらにしていないというか、とにかくもうあきませんわ。めっちゃくちゃかっこいいですから。

おお、そうじゃ。今度友人の二胡奏者に会うときに、このアルバムを持っていってみよう。それで、聴いてもらいましょう。

2005年5月23日月曜日

日本の弓術

 西洋人から見れば日本というのはいかにも神秘に満ちた国だったようで、そもそもベースになる考え方が違います。西洋は合理主義に基づいて事物を弁別せんとしましたが、そもそも東洋においては一見非合理としか思えないやり方で物事の真実に向かおうとして、そしてそれはある種の成功を見ているわけです。計測可能であることに重きを置いた西洋からすれば、さぞや日本のやり口は奇妙で神秘的に見えたことでしょう。西洋人がそれまで絶対的ととらえてきた理屈を、真っ向から否定するかのような態度でもってことにあたる。なにしろ、力学やなにかといったメカニズムを否定した上、言語で説明するということさえはなからあきらめているとしか思えないのですから。しかしこの不確実で非合理にしか思えない方法をとりながらも、振舞いといい芸術といい、そのなされることは一流国のそれだと、幕末の日本を見た西洋人は口を揃えていったといいます。西洋とは全く違ったやり方でもって築き上げられた文化に接し、あたかも奇跡のように感じたとかいう話を聴けば、驕れる西洋に一撃を与えた当時の日本の程度がわかろうというものです。

さて、西洋人にとって、日本の神秘が最も現れた部分というのは思想であったようで、あの禅というものの非合理にしてしかし深遠なることに、一時はヨーロッパもアメリカもえらく驚嘆したようで、禅のブームというのは何度もあったようです。言葉によらず、分析的な知からおそらく最もかけ離れた場において果たされるの体験。いろいろな人がさまざまなやり方でに迫ろうとしましたが、弓術を通してに肉薄した西洋人がいました。オイゲン・ヘリゲルその人であります。

禅の神秘主義に触れようとしたヘリゲルは、武術という行為を通してその神髄に近づこうとしたのでした。瞑想によって得られる悟りは長いが会得するまでに時間がかかる、ために無の境地に遊ぶ時間こそ短いものの達するのはたやすいという、行為を通した禅を行うと決めたのです。数ある手段の中からヘリゲルが選んだのは弓術でした。

『日本の弓術』には、ヘリゲルが弓の修業を通して体験した事々が、つぶさに記録されていて、西洋的視点から東洋的感性に分け入ろうというその感覚が新鮮です。そんななかでなにが面白いといっても、最初は日本的なことごとになじめなくて、ずるをしたり反発したりしてたヘリゲルが、次第にだんだん感化されてくるという、その変化が見て取れるところなのではないかと思います。メカニズムを重視し、理屈でもって的に対していたヘリゲルが、徐々に師のいうところに近づいていくに従って、東洋的なるものに深くはまりこんでいく。そして、感動的な師の暗闇に矢を二度射るという場面。私ははじめてこの本を読んだとき、このまさに神秘的なる描写に、自分も弓術をしようと思ったものでした。結局身近に弓術を教えるところがなかったので果たせぬ思いに終わりましたが、もし近場にそうした場所があったらば、私はいま書をするのではなく、弓を引いていたのではないかと思えるのです。

以前私がコンメディア・デラルテを体験したときのことです。講師としてイタリアからはるばる日本までやってきたアレッサンドロ・マルケッティ氏がおっしゃるのですよ。杖を向かいの相手に投げ渡すという時は、頭で考えるのではなく、身体の動作でもって身体で考え、意識のコントロールを離れたところで投げなさい — 投げられた杖が私であり、杖の投げられた相手もまた私であるというような感覚でなければならない。そしてこの後に、氏は日本の弓術に関する本に、こうした話があったとおっしゃったのです! ああ、それはまさにヘリゲルの本なのではないか。私は思い掛けないところで思い掛けない本の関わりを得て、驚くとともに嬉しくなったのでした。

ところでこのヘリゲルくんですが、その後いろいろ研究が進んだことからわかってきたのですが、どうも山師みたいなところがあったという話で、ちょっと自分の体験に色をつけて紹介する癖があったのだそうです。だから実際の話、彼の弓と禅に関する話は、話半分くらいに聞いておいたほうがいいとか、そんならしいのです。

けれど、書かれたすべてが本当でないとしても、読めば感動を得られることは間違いないことでありましょう。それは確かに脚色を加えられた事実なのかも知れませんが、その脚色があることで、弓術を通した神秘体験の彩りはより鮮烈になったのかも知れません。だから、決してすべてが否定されるべきものとは私は考えません。もちろん全肯定すべきとも思いませんけどね。

  • ヘリゲル,オイゲン『日本の弓術』柴田治三郎訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1982年。
  • ヘリゲル,オイゲン『弓と禅』稲富栄次郎,上田武訳 東京:福村出版,1981年。

2005年5月22日日曜日

Robert Johnson : The Complete Recordings

 この間、音楽をやっている友人連中(といっても、私の場合は音楽に関わらない友人の方が少ないんだけど)集まって、アンサンブルの下準備みたいなことをやったのですが、その合間にとりあえず今現在私に歌える歌を披露したりしたわけです。例えばそれは『22才の別れ』とか『なごり雪』とか、あとさだまさしも歌いましたっけ、『僕にまかせてください』と『精霊流し』。暗いね。とりあえず別れとか死別とかが出てくる曲ばっかり歌って笑いをとりまして、そんな中唯一そうした湿っぽさのないのが、ロバート・ジョンソンの『スウィート・ホーム・シカゴ』でした。

そして、結構評判のよかったというのも『スウィート・ホーム・シカゴ』だったのでした。

『スウィート・ホーム・シカゴ』は、私が練習用に探して買ったNHK趣味百科のテキストに収録されておりまして、私は自分の音楽の幅を広げられるといいなってなもんで、とりあえず弾けそうなものから手を出して見ているんですよ。と、そんなわけでブルース。ロバート・ジョンソンのブルースは初期のものなので技巧的には難しくなくて、ブルースの習いはじめには恰好の曲であると思います(受け売りですけどね)。

さてそれでですよ、『スウィート・ホーム・シカゴ』の練習をはじめてみて、けれどその時点で私はロバート・ジョンソンを聴いたことがなかったんですね。それで、楽譜を見ながら、なんかうまく伴奏と譜と歌詞が合わないなあと悩んでいて、いやそれ以前にブルース臭さというのが出ないのですよ。なので一旦ブルースを撤退してみて、また思いついたように再開して、これを何度か繰り返した頃にエリック・クラプトンがアルバム『Me and Mr. Johnson』を発表、世間にちょっとしたロバート・ジョンソンブームの風が吹いたのでした。

ロバート・ジョンソンは新聞にも取り上げられたんですよね。コンプリート・レコーディングスが新しくリリースされてうんぬん。その記事を見て、私はレコード店に走りましたね。それで『コンプリート・レコーディングス』を購入、聴いてみてびっくりしました。こんなの自分には到底無理! なんといったらいいのか、なんともいえず無理です。あんな雰囲気、自分には出せないぜ。

けど、それでも練習はして、とりあえずちょっとは歌えるようにしたのでした。

ロバート・ジョンソンを初めて聴いたときは、どの曲もおんなじに聴こえたもんですが、けれどさすがに今はそんなことありません。独特の揺れに闊達な歌い回しは、すごく恰好よくって、ああこれはちょっと他にないなあと、そんな感じもします。ロバート・ジョンソンを聴いてからクラプトンのブルースとか聴きますとね、やっぱりすごく洗練されているなと思うんですが、その反面人間の臭さというのは弱くなってるように思います。この、ロバート・ジョンソンのブルースに感じる独特の感じというのは、やっぱりロバート・ジョンソンその人の個性なんだろうなと思ったものでした。

ブルースは多分、その人となりというのが味なのだと思います。だからロバート・ジョンソンにはロバート・ジョンソンの、クラプトンにはクラプトンのブルースがあって、他のブルースマンにしても同様でしょう。けれど自分の場合はどうなんだろう。自分が歌うと、ブルースもブルースじゃなくなるんですよね。けど、歌ってるとすごく楽しいんだ。なんか病みつきにさせる面白さというのがあるんですよね。

とりあえず私は、歌詞がちゃんとフレーズにはまるようにせんといけません。びしっとはまらないことには、歌うどころじゃありませんから。

2005年5月21日土曜日

うちの大家族

 私は芳文社のまんがタイムだけではなく、双葉社のまんがタウンも買っているのですが、昨日発売のまんがタウンオリジナル(2005年7月号)掲載の『うちの大家族』にはやられました。なんというんでしょうかね。私はこの人の漫画を読むときは、力を抜いているんですよ。身近によくあるナンセンスを拾い出してきたようなネタといい感じに脱力した作風が重野なおきの味だと私は思っているもんだから、自然そうしたギャグの雰囲気に読む側もあわせるわけです。

そうしたら、やられました。油断しているところにダイレクトにがつーんと、シンプルにまっすぐに打ち込まれたもんだから、真っ向から受けてしまって、いやあどうしようもなく泣いちゃいました、通勤の車内で

面白み、おかしみだけではなくて、人情もののよさも持ち合わせているのが重野なおきの味だと思います。

私はこの人の漫画は好きで、多分それはどことなく昭和のにおいがするからなんじゃないかと思うんですが、作者は私より若いんですよね(一大事だ)。ともあれ、シンプルでわかりやすく、言葉少なでありながら、状況をよく伝えてくれるこの人の作風は、万人向きでとてもよいと思っています。

ただ、ギャグのセンスは高いと思う。ぱっと見ればナンセンスさがおかしみを誘って、けれどその向こうっ側にはちょっとした皮肉やなんかも隠されていて、そして人情味。この人は人間の臭さを、とてもよく知っている人なのだと思います。

その人間臭さ、人情味が一番にあふれているのが『うちの大家族』。母親に先立たれた、父一人子八人(三男五女)犬一匹の家族の暮らしをよく描いて、こないだいってた『ひまじん』みたいに極端に人の少ない漫画も描けば、人がわんさか出てくるのも描いて、そのどちらも面白いというのはたいしたものだと思います。けれど、おそらくはこの人の得意は、個性的なたくさんのキャラクターがぶつかりあうよな漫画なんだと思います。大家族は、兄妹一人一人の個性の際立ちもさることながら、それぞれが家族ならではの本音でぶつかりあうという、その一人一人の近さが気持ちいい。

私がこの若者に昭和臭さを感じるのは、こうした人の体温の感じられるような、親密な距離感であるのかと思います。そうした絶妙の距離感に安心できるから、私はこの人の漫画を好きになったのだと思います。

さてさて、『うちの大家族』第1巻は2002年12月から2004年5月の一年と六ヶ月分が収録されています。2004年6月から数えれば今月は一年と一ヶ月目でありまして、ということは、今月私に打撃を加えた話は第2巻に収録される!?

第1巻も笑いあり涙あり、最後に収録されたものなどはどうしようもなく泣かされて、ええっと、まあ今月の話は2巻の最後に収録されるんじゃないかなあ。

変な小細工なしに、真っ向からの直球勝負は重野なおきのいいところだと思います。まじめな人柄が伝わってくるようで、非常に高感度が高いのです。

蛇足

私はキリカ・智佐ペアが大好きだ。

  • 重野なおき『うちの大家族』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 以下続刊

7月12日発売

  • 重野なおき『うちの大家族』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

2005年5月20日金曜日

論語

  もうずうっと前のこと。学生時分、私は少しでも自分の知識やら見識やらを広めたくて、いろいろ古典の類いに手を出してはわからないなりに咀嚼しようと懸命でした。ヘーゲルの『哲学入門』を読んだり、デカルトの『方法序説』もかじってみたり、論語もそんなうちの一冊でした。はっきりいいますと、こうした読書は読んだという事実だけが重要でした。有り体にいえば自己満足みたいなもので、なにしろ読んで内容を理解し、自らのものとし得たかといえば、そんなわけはないのです。けれど今となってはこうしたお堅い本を読む気力や体力、集中力なんかが持続しないものだから、やはりあの若くて血気盛んで、浅はかだった時分に読んでおいてよかったなと思っています。

論語を読んでいたとき、一緒に仕事をしていた若いのが、日ごろの勤務態度のまずさをもって馘にされるという事件があったのでした。その時のことは、はっきり覚えています。制服に着替え仕事場に出たところをおまえちょっとこいやと捕まえられて、私はその時ひやっとその意味がわかったから、仕事の間中気が気ではなかった。結局そいつが出てくることはなくって、仕事が終わって更衣に戻ろうという道すがら、我々を待つ彼の姿を見つけてしまって、自分の予感が正しかったことを理解しました。

すぐに出てくるといって私は早々に着替えると、けれど心中は穏やかでなく、けれど理性ではそいつが馘になる理由もわからないではないので、荒ぶる感情のもって行き場がなく、仕方なしにロッカーを蹴りつけて、けれどその馘を切られた本人が意外に落ち着いていたので、私も直に落ち着きを取り戻しました。

帰りの電車、がらがらにすいたロングシートの真ん中に並んで座って、今まで楽しかったばかりを話して、そこで働いていた私たちはみんなこの男を好きだったのです。ちょっとずるいところもありましたが、根はいいやつで、人の心をつかむのがとにかくうまく、だけれど職場の副責任者には目の敵にされていて、私はこいつを守れなかったというのが悔しくて、けれど私になんらの権力があったわけでもないんだから、守れるわけもないんですね。仕方がないんだなあと、けれどそうしたことを口にすれば湿っぽくなるから、楽しいことだけを努めて話していたのでした。

その時私のポケットには論語が入っていて、はっと気がついて、これやるよと手渡したらば、論語ですかと苦笑いしながらも、読んでためになる本ですなと喜んでくれたのでした。そして、もうそいつのうちの最寄りの駅につくというときに、本に一言書いてくれと、今日の日付と名前、それから俺に贈ると書いてくれと、急にまじめになっていうものだから、私は本には書き込みをしないというポリシーを破って、表紙の裏に請われるままに一筆したためました。本を受け取ったそいつは慌てて列車を降り、そのプラットホームを見送るときが、列車が速度を上げて、どんどんそいつが遠くに追いやられていくときが、一番悲しかった。私は泣きはしなかったけれども、悔しいなあと、なんとかしてやれたんじゃないかなあと、ひとしきりどうにもならないことを返す返す考えては、明日からはあいつと一緒に働けないのだなということを思っていたのでした。

その後すぐ、私は自分のために本を買い直して、けれどあいつはまだあの時の本を手元に残してるだろうか。今、どうしてるだろうか。

  • 論語』金谷治訳注 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1999年。
  • 論語』上 吉川幸次郎訳 (朝日選書;中国古典選) 東京:朝日新聞社,1996年。
  • 論語』下 吉川幸次郎訳 (朝日選書;中国古典選) 東京:朝日新聞社,1996年。
  • 宮崎市定『現代語訳論語』(岩波現代文庫) 東京:岩波書店,2000年。
  • 宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫) 東京:岩波書店,2000年。

2005年5月19日木曜日

ドリーム・シフト

 誰にも素直になれない思いというのがあると思うのですが、私にとっては『絶対無敵ライジンオー』がそうなのではないかと思うのです。平成三年(1991年)に放送されたこのアニメに、私も私の友人たちもかなりはまっていて、実際その小学校の一クラス全員が正義のヒーローという思いきった設定に打たれた人は、当時ものすごく多かった。設定にはおたくっぽさよりもむしろ伝統的な雰囲気が漂っていて、その雰囲気というのも、子供向けロボットアニメの熱さと子供コミュニティにおける友情ものが持つしっとりした感じがうまく混ざっていて、やっぱり『ライジンオー』は名作だったなあと改めて思います。

じゃあ、なんでこの名作が私にとっての屈折した思いであるのかといいますと、なんというのでしょう、若干の失望があったからでした。

(画像は『絶対無敵ライジンオー』DVD-BOX)

失望 — 失望というのは、シリーズ後半におけるぬるさだったのです。前半の、こんなアニメこれまで見たことがないよという意外性、地球人にとっての迷惑が具現化された敵という設定が持つメッセージ性、そして登場キャラクターたちと、おそらくは制作者たちの一生懸命さは、まさに見るものの心を虜にしてしまうような熱さでした。けれど後半、特にバクリュウオーが出てからの数回にわたっては、実にぬるい展開が続きました。

ライジンオーを追いつめながらも、もったいぶってなかなかとどめを刺さない敵幹部。まさにライジンオーのピンチという場面に飛び込んでくるバクリュウオー。助かったぜマリア! のせりふも何度も聞けばさすがに心は動きません。

いや、これだけで私は『ライジンオー』を嫌いになったわけではありません。それが証拠に、プレーヤーもなかったというのに私は『ライジンオー』OVAをLDですべて揃えました。じゃあ、なにがために嫌いになったのかというと、その引き際の悪さであったかも知れません。

OVAまではよかったんです。主要キャラクターのテーマソングをシングルでリリースするというのもまだよかった(ちなみに防衛組の生徒は18人。シングルは全部で六枚でました)。けれど、そうして発売したものを再編集してアルバムにして売る、カラオケコレクションてのまで売る。ドラマも何枚でたっけかなあ。とにかく、人気のあるアニメで、関連商品を出せば売れるというのがわかっていたから、次から次へと出すんですね。私はこうした商売を決して否定はしませんが、足下を見られる側からすればあんまり気持ちのいいものではない。それに、勢いがあるうちにこれをやるならともかく、明らかにマニアも疲弊して、火勢も落ちつつある時期にまでだらだらとやられた日にはたまりません。こうして、引き際をすっかり誤った『ライジンオー』を、私はむしろ嫌うような気持ちにさえなっていたのでした。なにか、思い出をけがされたみたいな、そんな気持ちといったほうが正しいかも知れません。

ですが、ですが、どうして本当に嫌いになることなどできましょうか。あれだけ熱く、あれだけ愛したものをどうして嫌いになれるでしょう。私は、今も主題歌『ドリーム・シフト』を聴くたび、その胸を熱くするのです。

独特のリズムで始まるイントロを聴けば、目にはあの印象深い絶対無敵の四文字が流れていくようです。軽くディストーションのかかったギターの絶妙なリフには胸が締めつけられるようで、そしてSILKののびのある歌声には涙が出そうになります。まるで、本当にあの子らが自分たちのそばにいたかのように、思い出がうずいて仕方がないのです。

私の『ライジンオー』に対する愛は、『ドリーム・シフト』に凝縮されています。そして、おそらくは誰もが仁とマリアの不器用な関係を重ね合わせた『明日 Fall in Love』。私は、今もこの二曲を、そらで歌うことができます。それほどまでに心に焼き付いてしまっているのに私は素直になれず、目を逸らしてしまって、 — これではまるで『明日 Fall in Love』に歌われる情景のようではないかと苦笑します。

2005年5月18日水曜日

ギター・テクニック・ノート

以前、『ギター演奏法の原理』についてちょっと触れたことがありましたが、この本はギターの技術技法に関してを詳述した本で、なので今日紹介する『ギター・テクニック・ノート』とはずいぶんと違います。『ギター・テクニック・ノート』は、ギタリスト、ホセ・ルイス・ゴンサレスが著した、ギターのための基礎練習帳であります。1984年に出版され、その後も刷を重ねているようで、やはりこの本に価値を見いだす人は多いのだと嬉しくなってきます。

この本は、大学の食堂でウクレレを弾いていたときに、ギターを練習されるならこの本がいいですよと、ギター科の学生から教えてもらったのでした。いや、これだとちょっと話が見えませんね。

食堂でウクレレを弾いている私に興味を持ったギター科の学生と話をする機会があったのです。その時、本当は私はギターをやってて、少しでも弦に触れる時間を増やしたいからウクレレを持ち歩いてるんだといって、それで私は初心者だから指がよく動かなくて、ギターは大変だとかいったんだと思います。そうしたら、そうした基礎的な技術をあげるには、『ギター・テクニック・ノート』がうってつけだと教えてもらえたと、こういうことですね。

図書館にもありますよといわれて、蔵書をあさってみれば確かにあって、見れば非常にすっきりとまとめられた、技術のための練習帳とわかりました。ピアノとかでいえば、ハノンみたいなのに相当するのかな。音階とか分散和音とか、さらには各指を独立して動かせるようにするための練習とか、指がより開くようにするための練習とか、確かにこの一冊をやっつければかなりの技術が身に付きそうだというような内容で、だから私はその日のうちに購入して、それ以来ちょっとずつちょっとずつこの本でもって練習しています。

けれど私は初学者だから、まだアルペジオくらいのところで止まっていて、実はこの本は結構難しいんですよ。オクターブで音階を弾くような練習もあって、これができればウェス・モンゴメリーみたいにオクターブ奏法も夢じゃないぞと思ったり、また、ずっと先にあるセーハの特訓なんてのもかなり期待ができます。というのも、私はセーハが苦手だからなんですね。どうにもきれいに響かせられなくて、セーハしないといけないようなコードがあると、どうしてもコードチェンジでもたついてしまうもんだから、そうした苦手意識も含めて克服できるんじゃないかとすごく期待しています。

この本で扱うのは、テクニックはテクニックでもメカニックに分類されるたぐいのテクニックです。だからこの本に書いてあることを全部やったとしても、音楽的にうまくなるというものではないでしょう。けど、自分の頭の中にある音楽が、技術不足のせいで表現しきれないという不幸な経験は、この本の内容をマスターすることでずいぶん減るのではないかと思います。

実をいうと、私はこうした基礎技術をことさら重視する人間です。管楽器をやっていたときも、ロングトーン、スケール、アルペジオは日課でした。ギターではロングトーンの必要がありませんから、つまりスケール、アルペジオを日課としています。もちろん日々の友は『ギター・テクニック・ノート』!

いい本です。ものすごく気に入っています。

2005年5月17日火曜日

一日一書

   今日は、というか、今日も職場で字に関するごたごたがあって、それはつまりコンピュータの扱える文字、扱えない文字の問題です。

今更説明する必要もないようなことではありますが、一般に使われているコンピュータにはすべての漢字が収録されているわけではありません。戦後略字に対する正字、あるいは俗字や誤字のたぐいなんかには、コンピュータで扱えない字が多く含まれています。ですが、そもそもが人の手によってなり、長年にわたって変化しつつバリエーションが生み出されてきた書字を、すべて電算機上に再現することは不可能であると私は思うのです。

私は、石川九楊の『二重言語国家・日本』に触発されて字を書くようになったのですが、この書き始める以前と以後で、文字に関する考え方が全くといっていいほど違ってしまったのです。

実はかつて私は、コンピュータにはすべての文字が収録されるべきであると考えていました。つまり異体字をすべて収録せよといっていたわけで、渡辺のであるとか、山崎のの異体字は、すべて電算機上で表現可能にされるべきであると考えていたのですね。けど、実際に手ずから書くようになって、この考えがいかにばかばかしいものであるかに気付きました。ええ、そもそもすべての文字というのは、私たちが容易に集めて扱えるようなものではないのですから。

漢字というのは、複数のエレメントが組み合わされて表現されるものであり、それは偏や旁、冠、構えといったものに分類されていることは、わざわざ説明することもなく皆さんご存知でしょう。さて、この部首に表れる木や人といったエレメントの配置は、結構ダイナミックに行われていまして、木偏に公と書く松は、木を冠にして書かれることもあれば、逆に公が冠になることもあり得ます。これは崎という字の山偏が、冠にくることがあることからも容易に想像でしょう。

また手偏ですが、私たちは普段この手偏を三画で書いているかと思います。横画、縦画、最後に右上に向かってはねあげるようにして手偏は完成しますが、けれど私はのかたちそのまんまが偏になってる字を見たことがあるんですよ。けど、これは間違いじゃありません。示偏がみたいにじゃなくてで書かれるのに同じことです。

漢字というのは、元来このようなダイナミズムによって生み出されるものであるのですが、残念ながら電算機はこのダイナミズムを内包するには力が足りません。第一、コンピュータというのは合理性の権化みたいなものですから、こうしたグロテスクな — 我々の身体そのものの写しといってもいい — 漢字を扱うには向かないものなのです。

『一日一書』は、京都新聞に連載されていたコラムで、一日に一文字(一語というのが正しいかも知れない)を紹介し、書字にまつわる解説や石川九楊の思うところがつづられるという形式で、結構人気のあるコーナーでありました。ちょうどこの連載がされていたとき、私は新聞の記事をチェックするような仕事もしてて、その合間にこの記事を読むのがすごく楽しみだったのです。

なにしろ、紹介される文字というのは古今の能筆の手になる書字です。たった一文字が置かれて、ですがその文字の持つ広がりというのは電算機上に浮かぶものとは比べ物にならないほどで、楷書があり行書があり、草書、隷書、篆、金文、碑文、篆刻、そしてかなとバリエーションも豊富で、なによりダイナミック! こうした豊かな書字の世界を見て私は、手で以て字を書かなくなった時代というのは、合理的でありながらも貧しいと思ったのでした。

この文字の豊かさは電算機上にはあり得ないものです。だから私は、手でもって字を書きたいと思う。つたないながらも、手でもって、筆先と紙面の出会う場に書字を行いたい。こうして出現する文字は、単なるコードや符号にとどまらない、自らの身体の写しであります。それは、いつかたどり着きたいと願う、書字の宇宙への一歩足跡であります。

2005年5月16日月曜日

ひまじん

 この漫画のヒロインつぐみは、アパートの一室に引きこもって出てこようとしないいわゆる引き籠もりタイプでありまして、けれどその暮らしは質素ながらも実に朗らかで、暗さや悲嘆なんてものはかけらもないんです。そんなつぐみを見てると、私もどちらかといえばインドア派ですから、こういう暮らしというのにはなんだか憧れてしまったりしていけません。けれどもね、忘れちゃいけないのですが、つぐみはアパートから出ようとしない駄目な人のようでありながら、実はそうではなくて、在宅でできる仕事を見つけては精を出す自立した人なのです。楽しみや趣味もあれば、たびたび訪ってくれる友人もあって、実際のところ、私なんかよりもずっと立派だよなと思うのです。

私はこの漫画を読むたびに、つぐみの生活感というのは実に健全で理想的であると思って、人はこうした暮らし方をすべきなのではないかなと思わないでいられません。いや、引き籠もれっていってるわけじゃないのですよ。私たちが見習ったほうがいいというのは、つぐみの生活の端々に感じられる足ることを知る精神なんです。

飽食やぜいたく、身の回りにものがあふれていることに慣れてしまって私たちは、その上更なる欲求を満足させようと汲々としていますが、こうした生活スタイルというのはむしろ窮屈で不幸であるなと私は思うのです。それに引き換え、つぐみの多くを持たず、多くを望まない暮らしぶりというのは、傍目には貧しく思えども、その内実はむしろ豊かなのではないだろうかと。健やかなのではないだろうかと。この漫画を読んでは『埴生の宿』の歌を思い出し、どこか私は穏やかになるのです。

とまあこんなことをいいだしたのはなんでかといいますと、なんか昨今の状況を見ていると、かのバブル前夜を思い出すからなんですね。バブルの空疎な熱狂を迎える前に、まるきんまるびという言葉がはやりましたが、まさにこの持てる者、富める者こそ幸いであるという表層的に過ぎる評価基準の危うさを、この頃はやりの勝ち組負け組という言葉から感じられてならないのです。

私たちは未だ不況下におりますが、それでも時期は少しずつ狂乱の季節に向かって動きつつあるようで、ああまたあの時みたいな軽薄な価値観が跋扈するのかもしれないと、いやな気持ちであるのです。あの頃の価値観を代表する言葉としては三高なんてのもあって、今ならセレブとでもいったところでしょうか。

私はこうした、ものの実に向かうことない、虚飾丸出しの価値観というのがどうにもあきません。

私は、貧しい者こそ幸いだとまではいいませんが、それでも富めるばかりが幸いではないだろうよと思うんですね。だから私は、ものにあふれてまだ不足をいうよりも、少なくとも自分に足る分を知るほうがよいと思う。つぐみの暮らしはよい暮らしだというのは、そんな考えからであるのです。

蛇足というかむしろ本題:

ところで、この重野さんというのは、よほどの地力のある漫画家だと思います。登場人物にしても舞台にしても、最低限度にまで切り詰めたような不自由な漫画であるのに、あれだけのネタを出して、しかもそのネタというのが生きて面白いというのですから、よほどのセンスのある人であると驚嘆します。

私は、制限されているという不自由は、むしろ表現にとってプラスになると考えるものなのですが、この人を見てると、自分の考えはあながち間違っていないのではないかと、そんな気がして嬉しいです。

あ、そうそう。私の記事はどうにも辛気臭くっていけませんが、『ひまじん』にはそんな辛気臭い湿っぽさはありませんから、ご安心くださいましね。

  • 重野なおき『ひまじん』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • 重野なおき『ひまじん』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。

2005年5月15日日曜日

ヤダモン

テレビっ子であった私にとって、1992年は特別な年であったのかも知れません。『ガンバルガー』、『ママは小学4年生』、『ダ・ガーン』といった、どうしても忘れられないアニメが放送されたのが1992年であり、そして『ヤダモン』も1992年のアニメでした。

いったいこの年はどうしたというのでしょう。家族である、自然である、地域コミュニティであるといった、私たちが生きるにあたって決して無視することのできないことに、骨太に取り組もうというアニメが多かったように思います。これらアニメは子供向けでありながらも、明らかに子供ではない視聴者をも対象にメッセージを伝えようとしていて、そしてそれは至極まじめでありました。

こうしたまじめさの背景には、九十年代初頭の危機意識というものが反映されているのかも知れません。あの時期は、浮かれた時代の空気を残しながらも、どこか醒めた感覚があって、それはそれまでのつけをこれから支払っていかなければならないということに気付き始めていたためかも知れません。それは例えば環境破壊であり、失われつつある資源の問題であり、そして長らくなおざりにしてきた地域社会の問題 — 私たちがいつまでも身近にあると考えていたものがいつの間にか失われてしまっていたということへの驚きや焦りが、この時代の基底には流れているように思うのです。

『ヤダモン』は、魔女の森を追放された魔女の子ヤダモンが、クリーチャー・アイランドに住むルブラン一家と一緒に暮らすなかで起こるいろいろを描くアニメですが、その背景には失われていくものへの思いというのが確かにあり、はっきりとは説明されていなかったものの気付いた人も多かったことでしょう。

物語の主要な舞台であるクリーチャー・アイランドは、希少動物を保護する特別な場所であり、しかもそれら動物は絶滅動物のクローンであるというのです。身の回りの世話をロボットが肩代わりし、移動にはリニアモーターカーが使われている近未来は、かけがえのない貴重な自然が失われた後の、きわめて人工的な世界であったのです。しかしそれ以上にショックであるのは、魔女が滅びに瀕した種族であるということであったかと思います。魔女を、強大な魔法の力を持っているにもかかわらず滅びに向かうものとして描いたのは、科学の進歩が人類を仕合せにするという考えは幻想に過ぎないのではないかという疑いがあったためではないでしょうか。その当時の日本は、未曾有の好景気が空虚な幻想であったことを知り、また科学技術が人類にとって災厄をもたらすものであることを再確認し、ある種の頭打ち感に押さえつけられていました。

『ヤダモン』の一見すると明るく楽しそうな世界の裏には、そうした時代の苦悩が隠れているのだと思っています。

けれど、『ヤダモン』はこうした深刻なテーマを持ちながらも、元気で明るく楽しいアニメに仕上がっているのですね。月曜から金曜にかけて放送される一回十分の帯アニメで、前半には一週間をかけて語られるエピソードと、十分で終わる小編のふたつのスタイルにわけられます。そして物語の後半には、魔女の滅亡をテーマにシリアスな大河ドラマが繰り広げられます。

前期に描かれたヤダモンとルブラン家、そしてジャンやハンナ、リック、ピートといった子供たちとの関係が幸いなものであったため、後期の怒濤のストーリーはあまりにもつらいものになるかも知れません。ですが、そうした過酷な状況をあえて描き、そして物語りきった力強さは、このアニメを名作というにふさわしいものであります。

この名作アニメ『ヤダモン』は、2004年9月にDVD-BOXとして発売される予定でありましたが、発売が延期されるという不遇な状況に置かれています。

早く発売にこぎ着けられるとよいのですが、なんとかならんもんでしょうか。

VHS

CD

書籍

  • 面出明美『小説ヤダモン』上 ちいさな魔女がやってきた! (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1992年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』中 砂の迷宮 (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』下 地球の詩がきこえる (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』前編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』後編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1994年。
  • ヤダモン』第1巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第2巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第3巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第4巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第5巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。

2005年5月14日土曜日

フランス語四週間

『フランス語四週間』は、私が大学院一年の冬休みに取り組んだフランス語の自習書です。研究室に、学生よもっと勉強せよという無言の圧力として四週間シリーズが蔵書されまして、ちょうどフランス語の復習をしたいと思っていたところでしたから、渡りに船と借り出したのでした。だから残念ながら購入したわけではありません。

四週間シリーズというのはなにかといいますと、ひとつの言葉を四週間でマスターするというのを基本姿勢とした語学自習書のシリーズでありまして、もちろんフランス語の他にもたくさん出ています。英語ドイツ語という現代西欧語は当たり前、ラテンギリシャといった古典語や、マライ語とかゲール語みたいなマイナー言語も扱う、実に貴重なシリーズなのです。

この四週間シリーズ、なにがすごいかといいますと、一単元が一日で終わるのです。確かフランス語では、初日でスペルと発音のルールが終わったはず。翌日に名詞の基礎をやっつけ、その翌日ではまた別の単元をやっつけというふうに、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの、速習自習書なのであります。

基礎的な文法はだいたい最初の二週間で完了。三週間目には簡単な短文を読み始め、最終週は長文読解にチャレンジ。いやあ、実に実践的ではありませんか。

けれど、この速習主義には問題がありまして、なんというか、これから語学でもやってみようかというような初学者には向かないのです。以前にその言葉を学んだことがあるとか、あるいはなにかひとつでもしっかりと外国語を修めたみたいな人が新しい言語にチャレンジしたいとか、そういう場合でないとちょっとお勧めできません。私にしてもフランス語の復習用に取り組んだわけですから、はじめての語学自習書としてはちょっと癖がありすぎるように思います。

けれど、この癖さえなんとかなるなら、結構お勧めのシリーズなのです。私はフランス語四週間を二週間でやっつけたのですが、結構勘所を押さえた解説が嬉しくて、あれ、ここはどうだったっけかなあという疑問が出れば、うまい具合にその解説がくるというような、そんな感じであったのです。私は基本的に本には書き込みをしないたちで、しかもこの本は借り物でしたからなおさらです。ノートに必要事項を書き写すというスタイルで勉強しました。必要事項といいましても、ほとんど丸一冊筆写したといったほうが正しいかも知れません。この、書き写すあるいは再構成するというのは、勉強法としてはなかなかよかったように思います。

四週間シリーズは文法中心読解中心なので、会話とかを重視したい人には向かないでしょうが、逆に会話中心でやってきた人が文法をおさらいしたいという向きにはよいかも知れませんね。私は、会話には文法事項の暗記は不要と思っているのですが、それでも文法は知らないより知ってたほうがいいわけで、だからちょっとステップアップしたいと考えてる人には、よいかも知れません。

けど、文章とかは古いですよ。癖もありますし、合わない人には合わない本だと思います。

2005年5月13日金曜日

マラマッド短編集

私が高校生だった頃、私が図書室に入り浸っていたものだから、自然私の友人連中の間には図書室に行くのは普通のことといった雰囲気が醸成されていて、銘々好き勝手に本を借り出しては読んで、けれど時には情報交換なんかもしていたのでした。そうした情報交換の甲斐あって、時にはある一定の傾向を持った本が一大ブームを巻き起こすことがありまして(といっても、仲間内だけのブームなんですが)、そうしたブームのひとつに短編集ブームというのがありました。

きっかけはO・ヘンリあたりからだったのだと思うのです。高校の英語の授業なんかのテクストとして、O・ヘンリの短編はよく採用されますが、そういうのが短編ブームの火種になったのかも知れません。いずれにせよ、短編ゆえに読みやすく、けれど内容には独特の深みがあるこうした物語は広く読まれて、人気は先にあげたO・ヘンリやモーパッサンとか。私もモーパッサンは好きで、「メヌエット」のささやかな美しさは忘れることができません。

けれど、私が一番愛したのはマラマッドの短編集でした。マラマッドはあまり知られておらず、事実私もこの短編でしか知らないのでありますが、けれどこの人の物語の切々としたさまはどうでしょう。ユーモアもあり、ほの明るさの差すときの暖かみなどは心からほうっとします。ですが、やはり基調には悲しさがあって、私を引きつけるのはこの悲しみや切なさのためなのでしょう。

著者はユダヤ系なのだそうです。そのせいでか、この短編集にはユダヤ人と彼らの過酷な運命、経験にからんだものもあって、けれどマラマッドはそうしたことをもってただユダヤ人を悲運の民族と描くばかりではなかったのです。そうした特定の民族に振りかかった災厄がモチーフに取り入れられたとしても、テーマは結局、万人がすべからく持つ弱さでありすなわち悲しさであり、生活に仕合せを求めるささやかな願い、より良い明日が来ることを信じる祈りであるのです。

悲しい物語もありますが、思わず微笑んでしまうような話もあって、私にはこの禍福が背中合わせになっているような感覚が嬉しかったのかも知れません。高校を出て、数年後には自分の蔵書に加えて、折りに読みたくなる本であります。

  • マラマッド,バーナード『マラマッド短編集』加島祥造訳 (新潮文庫) 東京:新潮社,1971年。
  • マラマッド,バーナード『マラマッド短編集』酒本雅之解説注釈 (研究社小英文叢書) 東京:研究社,1970年。

2005年5月12日木曜日

帰り来ぬ青春 readymade mix 2004

 ラジオで聴いて耳を疑ったというか、なんじゃこの曲はというか、いや曲がどうとかというのではなくて、問題は編曲だったのです。なんというのでしょう。銃声が使われてるのですよ。フレーズの終わろうとする小節の最終拍に拳銃の発射音が毎回響いて、私はこのむちゃなアイデアに腰も砕けんばかりに驚いてしまいました。銃声の使われている曲というのは意外と多いのですが、たいていはここぞというところを見計らって一発(ないし数発)使うから効果的なのであって、例えば久石譲の『Thank You,…for Everything』の最後に響く乾いた銃声などは、その異質さでもって曲を青白く引き締めるという、とんでもない力を秘めた一発であります。ところが私の聴いた曲では、いかにも効果音という安っぽい銃声が一曲を通してひっきりなしに鳴らされていて、その異様さはもうなんといったらいいかさえわからないほどです。

けど、その銃声をバンバン使うという、おそらく普通は思いついてもやらないことが功を奏したというか、私は俄然この曲に対する興味が湧いてきましてね、歌詞の断片を覚えて(それも同じ歌詞が繰り返されるから覚えやすいんだ)、Googleで調べて、そしてようやく見つけ出したら、なんと和田アキ子の歌う曲というではありませんか。私は、あれだけ食い入るように聴いて、ついぞ気がつきませんでした。そうですか、和田アキ子さんでしたか。道理で安定していた訳ですよ。

この歌は、ドラマの主題歌だったんですね。というのもですね、私が歌詞を頼りに見つけたというのが、かの有名な匿名掲示板(2ちゃんねるですね)のスレッドに、歌詞が引用されていたからなんですね(ありがたい!)。それで、歌詞の周辺にはバキューン、バキューンって、銃声のこだまするがごときの書き込みが連続してなされていて、いやあ、この効果音を異様と感じたのは私だけではないというのがわかって安心いたしました。

けど、編曲者(小西康陽リミックス)はこの異様さを出そうとしたんでしょうから、こうして拳銃乱射に心奪われてしまった私たちは、してやられたのだと思います。

実際、曲は重厚な昭和歌謡という趣で、作曲はシャルル・アズナブール、歌うは和田アキ子ですから、実力者ぞろいでありますわな。と、そこへ、あえて銃声でもって引き込むという力技も素晴らしいといわざるを得ません。

テイチクエンターテイメント紹介ページでは試聴も可能です。もちろん銃声もきっちり(というか申し分なく)収録されてますので、そのすさまじい効果を堪能ください。

いや、けれど、この短い試聴では、本当に一曲を通して繰り返される銃声の効果を堪能するには不充分かも知れません。いや、本当にすごいんですからってば。

2005年5月11日水曜日

無伴奏チェロ組曲

 私はそもそも昔からバッハをはじめとするバロック音楽が好きだったのでありますが、中でも『無伴奏チェロ組曲』が好きでして、というのも、実際自分もこの曲を(チェロではないにせよ)演奏してきて、思うところが多いというせいなのでありましょう。大学にサクソフォンで入学して、最初に練習してくるようにと渡された曲が『無伴奏チェロ組曲』の第一番でした。ジャン=マリー・ロンデックスによってサクソフォン向けに編曲されたものを使ったのですが、なにしろ私はその頃オーセンティシティなるものにとりつかれていたもんだから、原典版やら自筆譜やらを図書館で借りだしまして、すっかり楽譜を書き換えてしまったのも懐かしい思い出です。

さて、このように正統性にとりつかれた私でありますから、『無伴奏チェロ組曲』の録音にしてもやはり正統性を求めるわけでありまして、ということはどういうことかといいますと、私は演奏の規範としてカザルスを選んだと、そういうことなのであります。

なぜパブロ・カザルスが規範になるのかといいますと、長く価値のない練習曲のようなものとして埋もれていた『無伴奏チェロ組曲』を発掘し、よみがえらせたのがカザルスであったからなのですね。加えてカザルスは近代チェロ奏法を確立したともいわれるビッグネームなのでありました、つまり私は、カザルスに現代におけるチェロ演奏のルーツを見た。だから、他のチェロ奏者による『無伴奏チェロ組曲』を差し置いてでも、カザルスの古い録音を重く見たのです。

でも、なんというか、カザルスの時代というのはまさにロマンティックの時代でありましたから、ほら、以前フルトヴェングラーの振るベートーヴェンの九番で書いたときにもいってましたが、演奏者の情念みたいなのがあふれる演奏をこそ求められた時代があったんです。つまり、カザルスの『チェロ組曲』というのもそうしたロマンティックの時代の産物であるというわけで、その後はやった、楽曲の作曲された時代背景や当時の慣習に基づいた正統的な演奏こそを理想とする視点からすれば、ずいぶんとずれたものにほかなりません。ところが私は、楽譜(つまり楽曲)における正統性の根拠を原典版や自筆譜に求め、なのに演奏ではロマンティックカザルスを規範にするという、とんでもなくまちまちなことをしていたのであります。

まあ、若いということは恥ずかしいということであります。

けどね、ロマンティックカザルス演奏の『無伴奏チェロ組曲』を聴いてみればわかることなんですが、その存在感のすごさは圧倒的でありまして、そりゃ若輩の私がとりつかれたように夢中になるわけですよ。録音は古く、当然のようにモノラル、ノイズもたくさん出て所々ひずんでいるようなものであるのに、聴けば、ぐわーっと目の前に音楽の実体が湧き上がるように立ち現れて、もうすごいのすごくないのって。この曲を初めて聴いたときの感動というか衝撃というかは、他に類のないものでありました。

そんなわけで、私は演奏の模範とか規範とか参考だとかをすっかり忘れて、何度も何度も繰り返し再生しては、聴きほれていたんです。バッハによる楽曲の強さもありますが、それに付け加えてカザルスの演奏の確かさも素晴らしく、私はすっかりカザルスのバッハに参ってしまっていたのでした。

2005年5月10日火曜日

HD革命/BackUp

 なんでかわからないんですが、私は仕事先でコンピュータの保守みたいなことをするようになってまして、特定のコンピュータに不具合が出たら、データを救出し、コンピュータを再セットアップし、データを書き戻し、設定を整えリリースするという、— けど、なんでこんなことやらされてるんだろ(つまり契約外なのじゃ)。まあ、世の中にはいろいろよくわからない事情があるんです。

さて、コンピュータにトラブルが発生してなにが一番困るかといったら、自分の作ったデータが失われることに尽きるでしょう。ハードウェアはよほどのものでない限り代替品がありますし、ソフトウェアにいたっては再インストールしたらいいだけの話です。けれど、自分で作った文書に関してはそうはいきません。なので、こまめにバックアップをしましょうという話になるんですが、なんせ自分の使ってるコンピュータじゃないんだもんなあ。というわけで、自動でバックアップしてくれるソフトウェアを導入することに決めたのでした。

バックアップツールは探せばいろいろあるのですが、その数々ある中から私が『HD革命/BackUp』を選んだのはなんでかといいますと、DOSやLinuxの知識は必要ありません、という売り文句にひかれたからなんです。いや、私が自分用に使うんだったらDOSやLinuxの知識を必要としてもなんら構わんし、そもそもバックアップにツールを購入しようなんてそもそも考えない。つまり、私以外の事務員でも操作できる、バックアップを行い、データの書き戻しができるようにと、そういう利便を考えたからでありました。

私がこのソフトに期待したことは、おおむね次の二点に集約することができるでしょう。ブート可能の復旧CD/DVDを作成できる。そして、スケジューラで定期バックアップを行える。つまり、セットアップや設定のすんだ状態をCDに確保しておいて、日々増えていくデータは外付けHDDに定期的に差分バックアップ。ええ、『HD革命/BackUp』は、これらを非常に簡単に行うことができて、実際、私はそのあまりの簡単さに感心しています。

アプリケーションを起動しますとね、ボタンがふたつ並んでいるのですが、それがバックアップリストアというわかりやすさ。ソフトを起動しボタンを押す。バックアップ元を選んで、バックアップ先を決めたら、それだけでイメージファイルの作成が始まります。私が使ったのはバージョン5なので、起動ディスクのバックアップ時にはすべてのサービスが停止され、つまり『HD革命/BackUp』にコンピュータを占有されてしまうのですが、バージョン6ではバックグラウンドで実行できるようになったみたいですね。

さらに、『HD革命/BackUp』はバックアップしたイメージファイルからOSを起動することができるのですが、バージョン5ではプライマリHDDからしか起動できなかったのが、バージョン6だと外部HDDからでもオッケーだとか。正直これは便利だと思います。

バージョン6の変更点でささやかながらも大きいのは、ファイル/フォルダ単位でのバックアップを行う『BackUp Easy』なんではないかと思います。「簡単バックアップ機能」を選ぶと、マイドキュメントとかお気に入りだけでなく、メールとかアドレス帳、IMEユーザ辞書を対象に、ざっとバックアップしてくれるんだそうで、一般的なユーザーなら「簡単バックアップ機能」にお任せで本当に充分だと思います。

バージョン5ではこんな便利な機能はなかったから、メールのバックアップを行うために、\Documents and Settings\user\Local Settings\Application Data\Identities\{...}\Microsoft\Outlook Expressをバックアップして、けどOutlook Expressのデータがこんなところにあるだなんて、コンピュータに明るくない人は知らないよ。一番バックアップしたいと思われるメールをバックアップできず、困った人もいたんじゃないかと思いますが、バージョン6ならそういう心配もないでしょう。ささやかながらも大きな変更点といったのは、こういう理由からです。

コンピュータが、コンピュータ好きの使う道具から、一般的な(コンピュータがとりわけ好きというわけでもない)人の使う道具になってきて、こうしたバックアップツールの需要は高まってきたのだと思います。そんな中、わかりやすさ、取っつきやすさという点で『HD革命/BackUp』は一歩抜きんでるんではないかなと思いました。初心者ないしは初級レベルのユーザーに薦めるなら、これかなあと思います。

で、中級以上なら、ツールの使用は勧めません。必要なファイルの確保くらい、自分でできるようにならなくちゃ、ですよ。

参考

2005年5月9日月曜日

Sunshine Superman

 テレビから耳に覚えのあるサウンドが聴こえて、はっとして思わず顔あげました。おお、こりゃDonovanじゃんか! けど悲しいかな私はDonovanには詳しくなく、なにしろDonovanというのがバンド名なのか個人名なのかも知らんとくるんですから最悪です。そんないい加減なリスナーですから、当然曲名もわからない。好きで、散々聴いた曲なんですけどね。ほとほと困ってしまいましたよ。

困ったときは検索するにかぎるということで、先達て導入しましたOS X 10.4 Tigerの新機能Spotlightで調べてみたら、出てきたのはMellow Yellow。ああ、この曲じゃないよー。

わかりそうでわからないというのが悔しいもんだから、意地になって探しました。探し物のコツは検索キーワードの選別だなんてよくいわれますが、キーワードセンスよりも重要な要素があると私は思っています。重要なもの — それは検索対象に対する情熱でしょう。なにがなんでも見つけてやるという意気込みが、求める答えにたどり着かせるのです。

検索場所をiTunes Music Storeに移して検索すること一時間。件の曲はDonovanのSunshine Supermanであるとわかったのでありました。

Donovanの魅力は、ディストーションの適度に効いたエレキサウンドに、ハスキーながらも、どすのきいたボーカルの恰好よさにあるでしょう。歌われるフレーズはシンプルで、けれどそれが目茶苦茶にクール! 一度耳にすれば、がっちり心まで捕まれてしまうような色気が満ちていて、もう私はDonovan大好きなのですよ。

ジャンルとしては、ロックでしょう。それも黎明期のロック、Classical Rockでありましょう。この時期のロックって、独特の魅力があるんですよね。粗削りで、ストレートで、ストイックで、エネルギッシュで、そして美しい。いろいろやってやるぞっていうような意欲にあふれていて、そうした高揚した意識みたいなものがきらきら発散されてて、生きているって感じがひしひし伝わってくるんですね。

そんなこんなで、私は懐かしのロックが好きなんですが、けれどこの時代のロックというのはものすごく豊かな広がりを見せていますから、今から手出しするにはたくさんすぎるんですね。Donovanにしても、Sunshine SupermanとMellow Yellowをなんとか知っているくらいなもので、ほんとはもっといろいろ聴きたいんですが、一歩踏み出すと帰り道のない旅になりそうと思えて、なかなか手を出せずにいます。

世の中にはよいものはたくさんありますが、そのすべてを体験することはできないというのが残念ですね。私は欲張りなんです。残念ですね。

CM(日産のコマーシャル、車種はわからない)で使われてるのは、とりあえず一番上のアルバム収録の版であることは確実。Sunshine Supermanは、Donovanの演奏であってもいくつかのバージョンがあるので、他のものは違うバージョンが収録されている可能性があります。CMのが聴きたいという人はお気をつけくださいな。

でも、バージョン違いも楽しいんですけどね。

2005年5月8日日曜日

伝説の勇者ダ・ガーン

  最近のアニメにはどうにもこうにもついていかれない私ですが、平成もまだ一桁だった頃のになりますと目がないといいますか、もう言葉もないほどに好きなんですね。以前紹介しました『ガンバルガー』なんかは、勢いでDVD-BOXを買ってしまって、ちびちびと週末の楽しみみたいに見てきて、この連休で最終話まで見て、やっぱりよかった。ええ、素晴らしいお話でした。

さて、素晴らしいお話といいますと、『ガンバルガー』と同じ年に放映された『ダ・ガーン』も名作だったんですね。ええ、見れば必ず感動して泣く、大きくうねりつつ盛り上がる、壮大なドラマが堪えられない素晴らしいアニメでした。

この年 — 1992年(平成4年) — は、日本サンライズにおける家族年であったのではないかと思うほど、家族を描いたアニメが多かったのでした。『ガンバルガー』は古き良きご近所付き合いという色こそ強いですが、主人公とその父親の関係というのは無視できないものでありましたし、『ママは小学4年生』なんてのは、まさに育児がテーマの家族アニメでありました。で、私はこの『ダ・ガーン』も家族アニメであったと思うのですね。

主人公星史の家族というのが、実に象徴的だったのですよ。父親は軍人でありまして、家族よりも仕事が優先されて不在がち。ニュースキャスターをしている母親にしても同様で、このアニメの放送中に、この三人が同じ場で顔を合わすということは一度もありませんでした。父子、母子、そして父母が別々の場で個別に会うということはあっても、一家がそろうということがなかったのです。

けれど、それでも家族をしっかり描ききっていたのですね。ロボットを率い常に最前線で戦っている隊長が息子であると気付いていた父親は、軍を率いる責任者として息子に会い、毅然とした父親像をしっかりと見せつけます。

母親は、ずっと秘密にされていた正義のヒーローの正体が自分の息子であったと知ったとき、失敗に打ちひしがれ自分の弱さにつぶれそうになっている息子を抱きしめ、これからは私があなたを守るからと — 、私は、希薄であると思われていた親子の絆の強さ、親子の情の深さに涙するのですよ。

『ダ・ガーン』が最前面に打ち出すテーマは自然でした。地球は私たちすべての命にとっての母たる星という、そうした大きなテーマがまずあって、けれどこれに並行して家族というテーマがあった。今思えば、地球環境と家族というテーマは、相互につながりを持っているのかも知れませんね。どちらも私たちを取り巻く環境であり、そしてかけがえのないもの。地球規模に渡る大きなテーマとしての自然と、そして規模こそは小さくとも決して小さくはない家族がともに描かれて、『ダ・ガーン』は希有ともいえる深みを持ったのだと思います。

さて、もうお気付きのことと思いますが、『ダ・ガーン』は秘密のヒーローものでありまして、この点においても私のお気に入りでした。秘密のヒーローには、その秘密を共有する仲間 — その人数は少なければ少ないほどいい! — というのがあれば最高ですが、ええ、このアニメには桜小路蛍という地球の声を聴くという不思議少女がいたのですね。

桜小路蛍は、ヒーローの正体を暴こうとせず、陰に日向にロボットの隊長をサポートして、実にクールで最高のキャラクターでありました。

CD

ところで、どなたか『ミステリアス・ベル』の真相をご存知の方っていらっしゃいませんか。私、何度聞いても誰が犯人かわからんのです。もしご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。

ちなみに、サントラは名曲ぞろい。岩崎文紀はいいなあと、聴くたび心からそう思います。私の中では、『ガンバルガー』他の長谷川智樹とまさに双璧をなす作曲家なのであります。

2005年5月7日土曜日

ふたご最前線

 ふたごが可愛い! 『ふたご最前線』はそのタイトルの示すように双子が主人公の漫画なのですが、その子供らがませてて可愛いんですよね。家では絶大な権力を誇る南帆と女の子にマメな北斗の兄妹、けどなんだか南帆のほうが姉みたいな感じですね。これ、勝手に私が思ってるだけなんですが、作者の育ってきた関係が反映されているのではないかと思うんです。つまり、作者は弟のいる姉なのではないかと思っています。男女の力関係なんかを見てみれば、どうもそんな感じがするんですね。

そういえば、『ただいま勤務中』にもそういう雰囲気が漂っていたな。道理で私が辻灯子の漫画を好きだというわけですよ。

南帆さんの造形が、なんだかリアルだなあって思うんですよ。北斗にいうことをきかせるときの押しの強さとか、気の強さ、剣呑さ。それでいて、人見知りするたちでちょっとあかんたれのところとか、うちの姉の小さい頃を思い出します。ええ、そうなんですよね。よそのお家にお邪魔するときとかに挨拶とかするようしつけられますが、姉は私を鉄砲玉に使って、後から挨拶するんです。私は小さい頃は活発であんまり人見知りしない子だったのですが、そうした性質は姉に鍛えられたところもあったのかも知れないと思います。

それと、北斗。私には従姉妹がありまして、それでまあなんというか、姉と従姉妹という年上の女性に囲まれて育ったわけで、だから北斗の性格というのはなんとなくわかる気がします。そういえば、私は子供時分ものすごくもてましてね、通っていた幼稚園が女子校と同じ敷地にあったのですが、お姉さま方にはよく可愛がっていただきまして、— まあ、今はそんなこと全くないのでありますが、だから北斗の要領のよさもなんとなくわかるんですね。ええ、私も根っこには北斗的なところがあるんです。

で、この漫画はですね、もちろんこましゃくれたふたごの言動挙動を楽しむというものではあるのですが、実はふたごのママ — 薫さんもいい味出していて、第三の主人公といっていいくらいの存在感を持っています(ま、育児漫画だから当たり前なんだけどー!)。

横着でずぼらなんですよ。それでもって乱暴。身も蓋もなくて、けどそれが素敵じゃないですか。身も蓋もないっていったら悪い感じがしますが、言い換えれば、裏表がなくってさばさばしててってことなんですから、これは美徳ですよ。私は、上っ面だけ繕って可愛い声出してみたいなのは嫌いなんです。おかしな虚像を振りまかれるくらいなら、一緒に給湯室でぎははと笑ってるほうがずっといいですよ。

というわけで、私には英田家の風景というのは、すごく居心地がよさそうに思えるのでありました。あ、私は主夫志望でありますから。薫さんの位置が私の理想のポジションでありますから。

  • 辻灯子『ふたご最前線』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 辻灯子『ふたご最前線』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。

引用

  • 辻灯子『ふたご最前線』第1巻 (東京:芳文社,2003年),7頁。
  • 佐藤両々『天使のお仕事』第1巻 (東京:竹書房,2005年),117頁。

2005年5月6日金曜日

天使のお仕事

 実は今日は『射雕英雄伝』のDVD-BOXを肴に、中国ドラマ事情などを一席語ろうかと思ってたのですが、ところが思わず買っちゃった佐藤両々『天使のお仕事』にやられちまいましてね、いやあ、この漫画面白いわ。ちょっと佐藤さんにはまっちゃうかもー!

思わずなんていっちゃうと、あたかも偶然たまたま買ったみたいですが、私、佐藤両々の漫画は結構いいなと前から思っていまして、といっても私は基本的に芳文社系と双葉社の四コマ誌だけ読んでるもんですから(この上購読数を増やしたら死にます)、竹書房での仕事を存じ上げなかったんですね。なので私は『まんがタイム』に連載されてる『保育士のススメ』を見て、ああこの人の漫画おもしろくっていいなあ、って思っていたと、そういうわけなのです。

『天使のお仕事』読みましてね、私気付いたんですよ。私の好きな漫画の傾向ってのが。まず女の子中心で、絵が可愛くって、そして身も蓋もない。この身も蓋もないというのがポイントだと思います。可愛いという美点を台無しにするくらいに明け透けで、夢も希望もないくらいが理想といえます。

で、それでですね、男キャラが罵倒されたりひどい目に遭わされたりするとなおよいかと思うんですね。ええ、最初にいいました女の子中心ってのはそういう意味でして、道理でたかの宗美とか松山花子とか真田ぽーりんとか好きなわけだよ。と、この漫画読んで合点が行きました。超納得です。

私、弟なんですよ。姉が一人おるんです。姉ってやつはひどいやつでしてね、まあこれはうちの姉に限った話ではなくて全世界的に見られる傾向だと思うんですが、ともかく姉ってやつはひどい。人類の敵であるといっても過言でない。それくらいひどい。弟をしもべみたいに思ってるところがある。なんか命令するんだ、いろいろ。それでなんか偉そうなんだ、いろいろ。こういうのってうちの姉だけに備わった性質かと思っていたらどうも違うようで、姉として育った人はおおむね同傾向を持っており、とりわけ下が弟の場合に顕著(独自聞き取り調査に基づく)。ええ、姉とはみなこうしたもの……。けどなにが弟の悲しさかといいますと、相性でいいますと、こうした姉タイプの方が馬が合うのですね。そのためなのか、私の友人って圧倒的に姉であることが多い。いや、もしかしたらほぼ全員そうじゃないのか。妹だって人、一人でもいたっけかなあ(いなかった気がする……)。

佐藤両々は多分姉として育った人なのだと思います。というのもですね、この漫画の中にちょうど姉と弟の話というのが出てきてましてね、そのせりふというか描写というかが異様にリアルなんです。お姉さまに対して「口が悪い」とか言うし —、足で物渡すと嫌がるし —。いや、私、お姉さまに「口が悪い」なんていったことないですよ。足でもの渡されても、なんとも思いませんよ。ええ、もう平ちゃらになっています。

というか、へっちゃらなんてもんじゃないですね。むしろそうでないと物足りないというか、無意識にそうした言動を求めているというか、私はすっかり女性が居丈高でないと満足しないようになってしまっているようです。それで、やることなすこと目茶苦茶でないと駄目なようです。— 職場に兄のいる妹である人がいたのですが、なんというか、この人とどうも相性が悪かったんですね。なんというか、噛み合わない。すごく仕事がやりにくい。その人自身は有能だったのですが、私はその人の下で働きながら、この人は上司に向いていないといつも思っていました。いっそ個人商店でもやればいいのにみたいに、ずっと思っていました。ええ、これはもちろんその人が悪いのではなくて、ただ単に相性が悪かっただけなのです — その人が妹であったからというのが、私らにとっての不幸であったというのです。

さて、話を佐藤両々に戻しますと、私がこの人の漫画を強烈に面白いっ、って思うのは、きっとこの人の漫画に姉的テイストがあふれているからだと思うのです。身も蓋もなく、ぞんざいで、乱暴で、けれど悪意はない —。

佐藤両々の漫画は、実に私向けであるという話でございました。

  • 佐藤両々『天使のお仕事』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2005年。

引用

  • 佐藤両々『天使のお仕事』第1巻 (東京:竹書房,2005年),70頁。

2005年5月5日木曜日

射雕英雄伝

  今日は中国帰りの友人を、ちょっと打ち合わせに顔見せをかねて訪問しまして、そこで教えてもらったのが『射雕英雄伝』。今、中国で人気沸騰中のテレビドラマなのだそうです。日本語では『しゃちょうえいゆうでん』と読みまして、ちょうの字は本当は周に鳥と書くのですが、環境によっては出ないので雕を当てることが多いようです。

さて、このドラマが今日本でも放送されてまして、チャンネルNECOというケーブルテレビ局で、毎週金曜日の夜十一時からやってるのだそうです。で、件の友人はといいますと、中国ではまりにはまったこのドラマを日本で見られるなんてと、えらいこと喜んだとかそういう話だったのだそうです。

で、私もちょっとそのドラマをビデオでもって見せてもらったのですが、なんといいますか、とてつもなくダイナミックな話で仰天するような内容でした。話によりますと、登場人物ほぼ全員が武術の達人であって、複雑な人間関係に翻弄されながら成長する主人公郭靖の様を描いたものであるそう。けれど私の見た回は、子を亡くした悲しみやら怒りやらで白髪になった女が、自分の夫に復讐を遂げようと迫るという、なかなかハードな内容でありました。あ、もちろんその女も、夫(元皇帝で現在は出家)も武術の達人だそうです。

このドラマの元になっているのが、金庸の武侠小説『射雕英雄伝』でして、武侠小説 といえば日本における翻案もの『十三妹』とか『水滸伝』のダイジェストくらいしか知らない私がいうのもおこがましいのですが、基本的にスペクタクルと読者サービスでできている中国小説の例に漏れない、実にダイナミズムあふれる作のようですね。

チャンネルNECOに『射雕英雄伝』の特集ページがあるのですが、その人物相関図の壮観であることったらありませんよ。えらいたくさん出てくるし、しかも関係がややこしく込み入ってるし、とにかく登場人物をたくさん出して、その関係性からダイナミックな物語を生み出そうとする、そういう感じがひしひしと感じられるじゃありませんか。

で、その『射雕英雄伝』が日本語でも読めるのだそうです。全五巻というボリュームにも圧倒されますが、こうしたある種マニア向けになりかねないジャンルがちゃんと翻訳されているというのは、そのエンタテイメント性が評価されてのことなのでしょう。実は、このドラマを見せられた後に、本が出てるらしいのよ、読んだら、ってお勧めされてましてね、うん、実は面白そうかもとか思い始めています。

けど、この物語にはまだまだ続編もあるようで、そういったすべてに手を出そうとすれば全部で十冊を超えるのは必至か? ちょいと気軽に手を出すには大きすぎる、覚悟を決めて読み始めなければ危険そうな匂いがするんですね。

  • 金庸『射雕英雄伝』第1巻 砂漠の覇者ジンギスカーン 金海南訳,岡崎由美監修 東京:徳間書店,1999年。
  • 金庸『射雕英雄伝』第2巻 江南有情 金海南訳,岡崎由美監修 東京:徳間書店,1999年。
  • 金庸『射雕英雄伝』第3巻 桃花島の決闘 金海南訳,岡崎由美監修 東京:徳間書店,1999年。
  • 金庸『射雕英雄伝』第4巻 雲南大理の帝王 金海南訳,岡崎由美監修 東京:徳間書店,1999年。
  • 金庸『射雕英雄伝』第5巻 サマルカンドの攻防 金海南訳,岡崎由美監修 東京:徳間書店,1999年。

2005年5月4日水曜日

Alice's Adventures in Wonderland

 皆さんはご存じでしたでしょうか? 今日、五月四日はアリスの誕生日です。アリス? アリスといえばあの世界的に有名なアリス、アリス・プレザンス・リデル(後のハーグリーヴズ夫人)に決まってるではありませんか。あの、不思議の国を旅した少女です。

っていうのは、ずうっと前に五月四日を記念して書いた文章の冒頭でありまして、ええ、今話題にしようとしてるアリスというのは、世界的に有名な物語『不思議の国のアリス』のヒロインのアリスのことです。けれど、アリスの物語こそは有名でも、アリスという娘が実在していたということは意外に知られていないんですね。いや、もちろん児童文学読みには常識の話ですよ。けれど、一般の人には意外や知られていないみたいで、私なんかはそのことにかえって驚かされてしまいます。

さて、知られていないといえば『不思議の国のアリス』という物語についても知られていなくて、私、つい最近アリスに関係する企画をするから参考になりそうな本を教えて欲しいと知人から問い合わせを受けましてね、だったらといって、いつぞや取り上げました『おとぎのアリス』とプロジェクト杉田玄白所蔵の山形浩生訳アリスを紹介したのでした。

そうしましたらば、案の定というか、こんなに長くて込み入った話とは思ってなかった。相談してよかったと、私は感謝されてもちろん悪い気はしないんですが、けれどやっぱりアリスは誤解されてるんだなあと、世間一般に流布するアリスのイメージというのは、ディズニーのアニメ映画の原色の世界であるのだなあと、落胆するのでした。アリスの神髄である言葉遊びを軸としたナンセンステールとしての価値は、いったいどこにいったのだろう! ええ、ことごとに私がアリスを取り上げてこんなこというのは、アリスの物語の真価を広く知ってもらいたいがためなのです。

ということで、本日紹介しますのは、英語版の『不思議の国のアリス』。残念ながら両方絶版しています(ショックでした)。

アリスの物語は、イギリス生まれのアリスのために、イギリス人のルイス・キャロルが書き下ろした物語がもととなっています。もちろん当然英語で書かれていて、それもイギリス英語でありますよ。この間チャットで知りあったイギリス人がいうには、ちょっと古い英語だから読むのはちょっと難しいということでありまして、その上高度な言葉遊びが加わってくるから、確かに難度の高いテクストであるとは思います。

けれど、難しいからといって投げたのでは、言葉の中にこそ生まれ出ずる不思議の国の神髄にはたどり着けませんぞ。というわけで、英語でアリスを読むための助けとなるような本も出ています — その名も、『「不思議の国のアリス」を英語で読む』! ここまで至れり尽くせりの環境ができあがっていて、まさか読まないなんて選択があるでしょうか。

私は、中学高校と英語は苦手で、特にあの授業で習うようなのは大っ嫌いでありましたが、それでもその後アリスの物語に出会ったことで、英語に対する嫌悪感、コンプレックスは薄れたと思っています。さらにいえば、アリスに対峙することで、読む気にもならなかった英語を、ま、ちょっとは読んでみようかなと思うようにもなった。ええ、アリスは私の狭い世界を広く開いてくれた恩人でもあるのです。

アリスの物語から覚えた言い回しもたくさんあります(これがまた日常には使わないのばっかりで!)。アリスで培った言葉遊びのセンスは、英語日本語フランス語を問わず、さまざまな場面で役立ってくれました。ええ、ハイセンスで高度なテクストを持つアリスは、まさに語学を超えた思考の練習の場としてもうってつけで、この豊かな世界を知らずに済ますだなんて、本当にもったいないことだと思います。

参考書

2005年5月3日火曜日

鬼平犯科帳

 鬼平犯科帳の映画をテレビでやってましてね、鬼平なんて私は久しぶりに見るんですが、ああやっぱりこいつはいいわあと骨抜きになってしまいます。中村吉右衛門演ずる長谷川平蔵のかっこいいこと。いや、恰好いいのは平蔵さんだけじゃありゃしませんぜ。周りを固める脇役からも渋味苦味の味わい深く、はたまた演出見せ方も実に堂に入って立派。ええ、こいつはいいですよ。毎週のテレビを楽しみにしていた昔を思い出しました。

とはいうものの、やっぱり鬼平犯科帳を楽しむというのなら、原作の小説がよいじゃございませんか。いや、私は池波正太郎のフリークではないのですが、父がですね、池波正太郎を全部揃えておるんです。だもんだから、自然私も読むようになって、ええ、一読すればわかります。鬼平犯科帳は活字で読めば、格別の味わいがありますよ。

私が鬼平犯科帳を読んだのは、実はもうずっと昔の話でしてね、私、ちょっとだけ入院していたことがあるんですが、その時に学校から借りてた本を読み尽くして、じゃあと、前々から読みたかった鬼平を持ってきてお呉れと、そんな感じに読み始めたのが最初だったのでした。

いやあ、そうしたら恰好いいのなんのって。物語中の人物が、どれもみんな生きてるんですよ。すごく生き生きとして、一挙手一投足が目に浮かぶようで、ふとした日常の一コマにしてもですよ、あるいは剣劇立ち回りであってもですよ、どのような所作でもってどのように人が動いているかというのが、もう本当に映像がそこにあるかのように鮮やか。後から振り返ってみれば、やっぱり文章なんですよ。決して説明調なんかじゃない、読み物としての文章なんですよ。なのに、ぐちゃぐちゃ細かいことを書いてそのくせちっとも動かないような文章とは違って、人物が、情景が、躍り出てくるようなのです。

文章に体があるとはこういうことをいうのだと、まざまざ感じ入った次第です。

鬼平犯科帳を読んで、私のお侍のスタンダードは鬼平になっちまったわけなのですが、ところがこのせいでさ、いい加減なお侍はどうも好かなくなってしまいました。いや、水戸黄門みたいなのも嫌いじゃないですよ。けれどやっぱり見るなら骨太のがいいじゃないですか。

そういえば、昔、SNKがお侍の格闘ゲームを作ってましたっけね。私、あのゲームは横目で見ながら一度もプレイしなかったんですが、それもこれも、平蔵さんみたいなお侍がいなかったからなんですよ。遊んでみたい気持ちはあったんですけどね、使いたいキャラクターがいなかったんです。おかしな話ですが、本当です。

  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第1巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第2巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第3巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第4巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第5巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第6巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第7巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第8巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第9巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第10巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第11巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第12巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第13巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第14巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第15巻 特別長篇 雲竜剣 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第16巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第17巻 特別長篇 鬼火 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第18巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第19巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第20巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2000年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第21巻 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2001年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第22巻 特別長篇 迷路 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2001年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第23巻 特別長篇 炎の色 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2001年。
  • 池波正太郎『鬼平犯科帳』第24巻 特別長篇 誘拐 (文春文庫) 東京:文芸春秋,2001年。

2005年5月2日月曜日

思い出す事など

 私は、ついこないだから体調を悪くしてしまって、ほんの二日程度ではありますが寝込んでいました。腸が塞がったために起こる苦しみに七転八倒してみたり、熱に浮かされておかしな夢にうなされてみたりと、でもまあ一日二日で快方に向かうようなものですから、たいしたものではありません。一応、明後日には完全復旧している予定。まあ、予定通りには物事運ばないものだから、どうなるかはちょっとわかりかねますけれどもね。

さて、病気で寝込んだとき、私はいつも夏目漱石の『思い出す事など』を思い出すんですね。『思い出す事など』というのは、療養先で吐血し生死の境をさまよった体験 — 修善寺の大患と呼ばれています — がつづられた小品でして、いやあ、はじめて読んだときはショックでした。

さほど長い文章ではなく、さほど込み入ったことも書かず、おそらくは漱石が自身の脳裏に浮かんだことを順々につづった、そういうふうな趣のある文章なのでありますが、それゆえというべきか、すごく人間漱石の味が出ている文章だと思うのです。死を間近にみて、そうでなくとも病中には人間弱気になるものですが、そうした心境にあって自分につながる人の命が存えるよう祈ってみたり、また自分を支えてくれている人に感謝の念を感じてみたり、そしてついには、そうした地上此岸のことを離れ、広い思索に向かう漱石は、なんだかすごく不思議で、そして身近な人のように感じられるのです。

そうかと思えば、淡々と日常のこと、さらには病状を記していたりしまして、こういうところはやっぱり読みやすくわかりやすく、けれどそれが淡々と伝えられるうちにどんどん凄みをましてきて、細君に血を吐きかけた後の三十分許は死んでいたという危篤状態の最中、医師が交わした短い会話にいたっては言葉もなく、ましてその事態をあくまでも客観的に記述する筆致は、やにわに怖れさえ抱かせるほどの深さがあると、何度読んでも思います。

その後、もうお父さんに会えるのはこれが最後かも知れないからということで子供たちが連れられてくるのですが、またその時の描写も格別で胸に染み入るようなものなのですが、そういうのいいだすと仕舞に私は全ページに言及し始めますからはしょりまして、だんだんと恢復していく様、そして最後漱石が修善寺を去るときの模様をみれば、おそらく病に臥せって心細さに打ちひしがれたことのある人なら、この文章に共感を、理解を得られるものであると思います。

なんか、ほうっとするんですよ。一時が凄惨であっただけに、その後の日常に帰っていくときの様子がすごくありがたいものと感じられるのです。だから、私はいつも病気が癒えようとするときの、妙にぼうっとして気だるくて、けれど意識は醒めかかっているような、そういう頃合いにこの文章を思い出します。それで、また読みたいなと思うのです。

さて、ちょいと私事。

病気で弱りに弱って、息も絶え絶えになった私に、うちのものはえらい大声で話しかけてくるんですが、申し訳ないがそういうのはやめて欲しいです。声が小さくて聞こえないからっていうけど、声も出ないほど衰弱してるものに大声で話しかけるのはあまりにむごい仕打ち、音圧で打ち負けそうになるんです。

ちゃんと耳は聞こえてますから。私の場合、危篤だとかそういうわけでもありませんから、小さな声でいいんですよ。

引用

  • 夏目漱石「思い出す事など」,『漱石全集』第12巻 (東京:岩波書店,1994年)所収【,401頁】。

2005年5月1日日曜日

アルバート・ヘリング

   『アルバート・ヘリング』はイギリスの誇る作曲家ベンジャミン・ブリテン作曲のオペラでありまして、その全体にかわいらしさの漂う作品は、なかなかに気の利いて楽しく、面白いものに仕上がっています。オペラというと、なんかゴージャスな宮廷風恋愛みたいのを、こってりと表現したものみたいに思ってらっしゃる方もいらっしゃるかわかりませんが、この作品はそんな感じじゃなくて、やはりそれは二十世紀という時代の作品であるからでしょう。

『アルバート・ヘリング』がどういうお話であるか、ちょいと説明いたしましょう。

舞台はイギリスのとある小さな町ロックスフォード。イギリスでは五月一日に五月祭なんてのを催しますが、五月祭の主役であるメイ・クィーンにふさわしい娘が見つからなかったものだから、今年はメイ・クィーンならぬメイ・キングにしようという話になって、結果選ばれたのが我らが主役アルバート・ヘリングである、とそういう物語なのです。

アルバートはメイ・キングだなんだといわれたって、結局は娘役なんてまっぴらごめんですから、結局これがきっかけでどたばたになるんですね。そのどたばたの風景も面白いし、清らかな少年が結果自立に向かうというオペラの筋にも実に共感できるもので、面白いし、手軽で手ごろだしで、オペラをみたことがないという人にはこういうものからお勧めしたほうがきっといいと思うんですが、残念ながら世の中はそうなっておらず、仰々しい宮廷風恋愛ばっかり見せられるというのが相場であるようです。

しかし、ある程度予想したことではありますが、『アルバート・ヘリング』の検索結果の実に乏しいこと。DVDの一枚でもあったら儲けもんかなと思ったら、出てきたのはVHSでやんの。よほどのファンというならともかく、普通の音楽愛好家に対訳リブレットみながら原語版を鑑賞しなさいとはさすがにいえないわけでして、それが一般のあまりクラシックを聴きつけないような人ともなればなおさら。映像がなければこの手の作品は面白みに欠けるから、日本では今これを満足に楽しむことは難しいといわざるを得ないでしょうね。

CDやビデオでこの有り様ですから、公演なんてなるとほとんど皆無といっていいくらいのもので、オペラを支える下地が盤石とはいえない日本ですからまあ仕方ないとは思いますが、いい作品であるだけに残念です。

というか、私ももういっぺん見たいんです。なんかいい方法ないかなあ。

VHS