2006年7月31日月曜日

ヨイコノミライ

  書店にて、表紙を表に並べられていたこの漫画を見つけて、どうにも気になって手に取ってしまいました。作者はきづきあきら。ピンときました。『モン・スール』の人ですね。私は『モン・スール』を書店で見かけたときに、その仏語のタイトルに興味を持ちながら(だって、マ・スールじゃないの?)、危険を感じて手に取らずにいたのです。なんでかというと、作者がきづきあきらだから。この人については特に詳しいわけでもない私ですが、ちょっとくらいは知っています。この人の漫画は、優しくない。読み手にも優しくなければ、漫画内に生きる登場人物たちにとっても優しくないのですよ。読んでて非常に厳しい気分になること必至なので避けていたのですが、『IKKI』9月号掲載の読み切りはそんなにしんどいばかりでもなかったなあと思って手を出してみたら案の定でした。私の危険関知能力はそこそこ機能しているみたいでありますじょ。

絵はかわいいけど、容赦がない。それが第一印象でありますね。舞台は高校漫画研究部。オタクたちが集まる部でのオタクの日常、生態を扱った漫画で、ああありそー、そんなやついそー、というネタが次々に出てくるというと、阿部川キネコの『辣韮の皮』や『げんしけん』みたいな感じを思い浮かべたりするかも知れませんが、とんでもない。全然違います。

『ヨイコノミライ』は、他のオタクを扱った漫画ではあえて描かれていない、あるいは描かれたとしてもギャグとして処理されるような暗部を徹底的に、克明に描きだそうとするかのようで、なにしろこうした漫画を読もうという人間は多かれ少なかれオタクでありますから、読んでいて非常につらい。直視したくない現実を眼前に突きつけられるようで、ちょっとへこんでしまいそうです。

けど、読んでいるうちにだんだんとそうした厳しさの向こうにある救いというか、希望というかが見えてくるから、目が離せなくなってしまって、これはぜひ3巻4巻と買わなければならないという気持ちになるから不思議です。この漫画に登場するオタクの彼らは、読者の前に問題行動や非常識をあからさまにされながらも、その身のうちに抱えている痛みや苦しみ、コンプレックスも徐々に明らかにされるから、最初は嫌悪(それが同族嫌悪であることはわかっています)の対象でしかなかったのに、気付けば彼らに安息がもたらされればよいと願っている自分がいたりして驚きです。嫉妬やあまりに強すぎる自己愛、愛をせがむばかりで与えることをしないという自己中心性。現実を直視することなく妄動に走るものがあれば、逃避目的の自傷行為にふけるものもいて、オタクを長く続けている人間なら、身近にそういう人がいたであるとか知り合いがそういう被害に遭ったとか、そういう経験を持っていることも珍しくないかも知れません。あるいは自分の過去、現在の自分自身を突きつけられているかのような居心地の悪さを感じるかも知れません。けれど、そうした皮膚感覚に訴えるようなありそう感があるから、漫画の登場人物に異様な親近感を覚えるのでしょう。だから、もしかしたら、私が彼らに安息をもたらされますようにと願うのは、私自身が安息を求めているということにほかならないのかも知れません。

私は『ヨイコノミライ』は初読です。だから先がどうなるかはわかりません。ですが、2巻までを読んで、そこに希望の種があるように思われたから、この先に期待したいと思います。誰よりも優位に立っているように見えて誰よりも屈折している青木が救われることを、その救いとともに漫研部員の皆にも安息がもたらされることを、 — そうしたラストがくることを望んではいるんですが、救いがあると見せかけて安心して飛び込んだところをズドンみたいな、だまし討ちするような真似は本当に勘弁してくださいよ。そんなことになったら、私、へこたれてしまいそうです。

蛇足

一輝先輩がいいよね。ナイーブで優しくて、でも激情を内に秘めていたりしていそうで、いいじゃないですか。

  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第1巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第2巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第3巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2005年。

2006年7月30日日曜日

悪魔様へるぷ☆

  だんだんと毎月の刊行点数を増やしていくまんがタイムKRコミックスですが、ごく初期段階は一冊だけとか出ても二冊とか、そういう穏やかな感じであったのです。一冊の価格が税込みで860円と少し高めのこともあって、この穏やかな出方は私にはちょうどいいと思われたのですが、最近はもう何冊も出る……。けどそれでも複数タイトル買ってしまっているのは、漫画読みというかマニアというかの性であるのかも知れません。

けれど、当初私は比較的セーブしていたのです。面白いなあと思っていても、よほどじゃないと買わないことにしていまして、それで割を食ったのは『悪魔様へるぷ☆』でありました。私はこの連載を結構楽しみに読んでいるというのに、単行本を買わなかった。第1巻を買わなければ、続きも買われない。だから私はこの先もこの本を所有することはないと思っていたのですが — 、先日刊行された最終巻を買ってしまいました。きっとそう遠くないうちに既刊も揃うでしょう。

この心変わりは一体なんでありましょうか。それは、極めて単純な理由で、私は意地を張っていただけなのです。『悪魔様へるぷ☆』購入を見送ったころは、私がもっとも選定条件を厳しくしていた時期であったというだけの話。その後、堤が決壊したかのごとく、山のように単行本を買うようになってみれば、なんで『悪魔様へるぷ☆』を買わなかったかという理由がつかなくなってしまう。後追いでもいいから買えばいいのだけれど、なぜか躊躇してしまっていた。単純に、意地を張っていたのです。

でも、結局買ってしまいましたね。普通じゃない教会で、普通じゃないシスターたちのどたばたとした日常や、ときに展開される心温まるようなエピソードにほだされてしまったためであろうかと思います。いや、一部の辛辣ヒロインたちが唯一の男性レギュラーであるクリム神父につらくあたる様に心ひかれてとか、そういうわけではないですよ。基本的に穏やかのんびり系の漫画であるのに、ときに挿入されるギャグの切れがかなりのものだったり、読者の期待を裏切らず答えてくれるようなお約束の処理がうまかったりと、この漫画特有の面白みに深くはまってしまったせいなのですね。雑誌掲載時には、他の連載に紛れながらも決して埋没することなく、しっかりと印象に残るだけの主張がありました。単行本で読んでみればこの漫画独特の世界観がブレなしに伝わってくるようで、やっぱり買ってよかったなというように思うのです。

第3巻を買ったのはもうひとつ理由があります。最終話、大団円を迎えたこのお話の、後日談なんかがあったら読みたいなと思った気持ちもあったのでした。さて、最終巻を読んで私の望みはたっせられたか? それは今は語らないことにしておきます。

蛇足

マリー様です。28歳や三十路は決して悪いことじゃありません。素晴らしいです、素敵です、完璧です。

  • 岬下部せすな『悪魔様へるぷ☆』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 岬下部せすな『悪魔様へるぷ☆』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 岬下部せすな『悪魔様へるぷ☆』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。

2006年7月29日土曜日

瑠璃色の雪

 我が家にはもらい物のPC98があって、機種はPC-9821 Ce2。3.5インチフロッピーディスクが二機、そしてCD-ROMドライブが搭載されているところをみると、まさしくマルチメディア時代の申し子と申せましょう(いや、FDが2スロットなのは普通よね)。私の前の持ち主はかなりコンピュータに明るかったため、ハードディスクが増設されていたりして原形はとどめておりません。だから、工場出荷時維持派なんかには向かないマシンといえましょう。でもMacintoshを使ってきてこうしたDOSマシンをほとんど知らなかった私なんかには、彼の施してくれていたチューンが非常にありがたかった。もしかしたら私が使いいいようにと、わざわざ調整してくれていたのかも知れません。そう思うと頭が自然と下がります。

(画像はPS版『ふりむけば隣に』)

このレトロなマシン、この数年はほとんど動いていませんでした。というのも、私のメインマシンはMacintoshであり、遥かに高速で遥かに使いかってのいい現用機を使っているのですから、そもそも出番があろうはずがないのです。けど、それでもPC98はそれがPC98であるというだけで存在価値があります。というのは、その上でしか動かないソフトウェアがあるから…….ビジネスアプリやなにかと違い、代替しようがないソフトウェア — ゲームがあるからなのです。

MacintoshユーザなのになんでPC98用ゲームを持っているのかというと、ちょうどこのマシンをもらったときに、うちに使わなくなったゲームがあるからあげますよという人があったからで、ありがたい。フロッピーで供給されるもの、そしてCD供給のもの、数タイトルをもらえたことで、私はそのもらい物のPC98機を無駄にしないですんだのでした。

でも、月日が経てば機械はだんだんと傷みをみせて、私の98はというと、キーボードの接続部分に問題が出はじめました。キーボードを認識しないことがあるなと思っていたのが初期症状で、そのうちに突然リセットがかかるようになって、参りましたね。もうこの機械も駄目かな、お蔵入りかな、大事にしてたんだけどなと思ってもしようのないことです。でも、ハードウェアはいつか壊れるものとしてもソフトウェアは永遠です。だからなんとかソフトウェアだけでも延命させたいと思った。特に、このソフトだけは確保しておきたいと思ったものがあったのでした。

それが『瑠璃色の雪』。PC98用にリリースされたゲームで、攻略情報の掲載された雑誌を入手するまで、どうにもならんといって投げていたゲームです。なんというんでしょう。私はこの手のゲームはどうにも苦手ときていて、途中で飽きるんです。『瑠璃色の雪』に関しては、試験勉強ばっかりしてたせいかなんにも起こらんから、あーあ、やっぱり私には向かんといって投げた。ところが攻略情報をたまたま入手して、そうしたら物語が動き出して、結果忘れることのできないタイトルになってしまった、というわけです。

なにがよかったというのでしょうね。一言でいえば私に向いていたということでしょう。絵が非常に好みにあっていた。あと、一人一人についたストーリーもよかったのだと思います。奈川陽子そして奥里雪那が私にとっての双璧でした。

98機が完全に壊れてしまうと、今後このゲームに触れることができなくなってしまう。だからPC98に電源を入れないようにしていたのです。ハードディスクが壊れたらどうしよう。それ以前にキーボードの問題もあります。故障が深刻なものになれば、もう代替機を探すこともできない。そうなればプラットフォームもろともソフトウェアも死んでしまう — 。

との思いから、PC98エミュレータに手を出すことに決めたのです。

今このゲームを遊ぼうと思うと、中古で探すしかないと思います。Windows用のリメイク『真・瑠璃色の雪』というのもありますが、私にとっての真はPC98版です。サターン版はかなりオリジナルに近いと思いますが(私の使った攻略情報はサターン版でした)、遊んだことがないのでわかりません。

今、制作もとであるアイルのサイトにいってみたら、『真・瑠璃色の雪』がダウンロード販売されていると知りました。かつて買おうかどうか躊躇して、今アマゾンでは新品が5,800円で売られているものの対応OSがWindows95のみのように書かれているからとまた躊躇して、けれどDL版をみるとXPでもいけるのか……。買いかもしれん……。

でも、一番販売して欲しいのはDOS版だと思います。いま、エミュレータが珍しい技術ではなくなって、特にPC98などになると、当時のハイスペックマシンを凌駕するスペックがエミュレータでも得られます。だからエミュレータでレトロゲームを動かしたいという需要はきっと少なくないはずなのです。けれど、それが手に入らないから違法的手段に訴える人もいるのだと、そのように思います。

もし『瑠璃色の雪』がダウンロード販売されるとなったら、私はきっと買ってしまうと思います。ってのは、ディスクMに損傷がありまして、実機でのインストールでも問題が出た個所なのですが、なんとかインストールには成功していて、けどディスクイメージにするときにエラーでとまってしまうのです。データを別のフロッピーにコピーして、それをイメージ化することでクリアしたのですが、けれどもしかしたらデータに不備があるのではないかと不安なのです。

だから、『瑠璃色の雪』DL販売希望、です。もしダウンロードで購入できるとなれば人にも勧められるわけだし! 過去のものだからといって死蔵していてもなんにもならんのです。フリーにせよとはいわないから、どうかレトロゲームを合法的に入手できる手段を作って欲しいです。こう思っている人もきっと多いと思います。

PC98

  • 瑠璃色の雪

SEGA SATURN

Windows

PlayStation

DVD

VHS

おまけ

Notebooks

FDのイメージを作成している現場。Dell機にはFDドライブがないから、PC-9821 Ce2 -FD=> FLORA Prius note 210h -ネットワーク=> Inspiron 6000という、鬼のように面倒くさいことをしています。

2006年7月28日金曜日

月館の殺人

  『月館の殺人』の下巻が発売されているのを書店で見て、にしてもしかし、この装幀の凝りに凝ったことったら! カバーにはエンボス加工が施されていて、そのカバーをはいでみたら今度は表紙がカラー刷りときます。こうなったらもう当然のように巻頭カラー。解明編からは紙質紙色が変わるし、最終話もまたカラー刷りからはじまるし、こんなのこれまでみたことがないというくらいの力の入りようで驚きます。いきなり愛蔵版といった趣で、正直なところを申しますと、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思っています。その価格1,200円+税。これっていつもの倍じゃないか! でも、これでもファンなら買ってしまうんですよね。そうなんです。私は佐々木倫子のファンだから、仮にこれが二千円だったとしても買ったと思います。同様に綾辻行人ファンも買うのでしょう。これが両人とものファンであったならば、もう買わないという選択はないんじゃないかと思います。

さっき、その装幀をさしてこれまでみたことがない感じだといっていましたが、中身も実にそんな感じなのであります。舞台は冬の北海道。夢の列車幻夜で起こった殺人事件に乗客たちは色めき立つ。犯人は誰なのか? そして次なる被害者は!? 吹雪の中、密室と化した状況において繰り広げられる心理劇。そのおかしさがきっと読者を虜にすることでしょう!

ん? おかしいってなによ。

そうなんですよ、おかしいんです。なにをさておいても、登場してくる人物がおかしい。ヒロイン、この人は世間知らずというだけでまあ普通です。けど、その回りを固める人たちったらないですよ。テツなんです。鉄道マニア。しかも極度の。まさしく人生すべてを鉄道に染め上げた男たちが集まった現場で起こった事件。ターゲットもテツなら容疑者もテツ。テツ入り乱れる緊迫の人間劇です。しかし、こんな状況だというのに、なんでこうまでみんなマイペースでいられるんだろう。このあたり、まさしく佐々木倫子の面目躍如といったところであろうかと思います。

だって、佐々木倫子の漫画といえば、マイペースが心情でしょう。そのマイペースぶりたるや非常識と言い換えてもいいくらいです。古くは漆原教授、菱沼聖子がそうでした。近作でいえば『Heaven?』のオーナーもそうでした。そもそも、佐々木倫子の漫画に非常識でない人がいたためしがないんです。マイペースで自分勝手で、どこかとぼけていて、けど憎めない。そうした人がどたばたと活躍するおかしみこそが佐々木倫子の真骨頂でありましょう。

普通ならシリアスにシリアスを重ねるような話になりそうなのに、佐々木倫子特有のキャラ回しに描き方が功を奏して、重さが可能な限りぬぐい去られています。だから、ミステリーはどうもというような人も読みやすいんじゃないかと思います。あるいは、犯人が誰か解いてご覧といわんばかりに配置されたヒント、伏線をたどって真犯人に迫るのもまたひとつの楽しみでしょう。佐々木倫子の独特の世界に引きつけられる人にも、綾辻行人からの挑戦に真っ向から勝負してみせようという人にも、それぞれの楽しみかたがある。多面多層的に面白さがより集められてそしてにやにや笑っている、まれにみる怪作であるかと思います。

  • 佐々木倫子,綾辻行人『月館の殺人』上 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 佐々木倫子,綾辻行人『月館の殺人』下 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。

2006年7月27日木曜日

あねちっくセンセーション

 以前、『天使のお仕事』でごちゃごちゃ書いたときに全姉連 総本部様からトラックバックをいただきまして、世の中にはいろんな趣味嗜好があるのだと感慨深く思ったものでした。全姉連とは「お姉さん」の魅力を世界に広め、推進していく非政府組織(NGO)なのだそうでして、つまり平たくいえば姉萌え。日本にはいろんな萌えがあるのですね! でも、姉は、姉に萌えるというのは、正直私は駄目だなあ……。

私が全姉連の活動を知ったときは、妹萌えが斜陽にさしかかっていたころだったと覚えています。そうかあ、これからは姉萌えがくるのかあと漠然と思っていて、そうしたら吉谷やしよの新連載が『あねちっくセンセーション』。わお、! 漠然なんかじゃないですよ。まさしくここに姉ブームの到来ですか!? と色めき立ったことをまるで昨日のことのように思い出します。

『あねちっくセンセーション』には、三様の姉弟模様が! けど、普通に読んでる限りではやっぱり主人公姉弟が前面に押し出されてきて、ええ、著者の分類によると対立型姉弟でありますね。弟に対し全能であるがごとく振る舞う姉。理不尽にして横暴な姉に決死の抵抗を試みる弟。ああ、泣けてきます。泣けてくるじゃないですか。

なにが泣けてくるといっても、弟春人のけなげでしょう。姉にどれほど虐げられようとも、負けずめげず、でもたまには腐ったりして、でもチャンスは逃さない。姉に弱みあらばつけ込み、命の危険を顧みずからかったりおちょくったり……、ってなんのかんのいってもこの姉弟、仲いいよね。姉にしても、理不尽で乱暴だけど、弟のこと好きよね。いや、そりゃもう両者べったり甘々なんてことは金輪際ありやしないのだけれども、憎しみ合ったりとかそういうのがないから読んでて嫌な気はしません。ああ、こんな風につまらんちょっかい出したりするよねえ、いやそりゃさすがにセクハラじみたことはしませんが、しょうもないけんかにならないようなけんかをして面白がってるというのは、結構リアル姉弟っぽいよなあなんて思いながら読んでいたりするのです。

作者には姉はいらっしゃらないらしいのですが、それでもこんな、実にありそうな感じに描けているというのはなかなかに特筆すべきところかも知れないなあなんて思っています。けど、理想の姉を想像しながら描いたとか書いてありましたけど、これが理想の姉弟関係というのなら、ちょっと作者の趣味はあれだといわねばならないでしょう。でもさ、仲の良い姉弟関係の本質を透かして見せるような名文句名シーンもあるんですよね。だから、さくら春人姉弟の表向きに見せている関係だけでは、きっとこの漫画を語ることはできないのです。理想はその向こうにある。言葉に、絵にならないところに、この姉弟の本当の関係というのがあって、それがだんだんに伝わってくるものだから、私はこの漫画を読んで楽しいなあと思えるのだと思います。

『あねちっくセンセーション』は、全姉連も注目の姉コミックです。妹には飽きたという御仁、これからは姉が熱い、ですよ?

蛇足

私には姉があるから、ちょっと姉萌えってふうにはならんのよね。だから、強いていえば撫子かなあ。って、この人も姉だった! うーん、うーん、じゃあ瑞樹でお願いします。

引用

2006年7月26日水曜日

J. S. Bach : The Cello Suites, BWV 1007-1012 played by Yo-Yo Ma

 このアルバムが出たのは私が学生だったころのことでした。ヨーヨー・マの演奏するバッハ『無伴奏チェロ組曲』それぞれが映像作品としてリリースされて、ちょっとばかり話題になったことを覚えています。『無伴奏チェロ組曲』は私にとっても好きな曲でしたから、この映像作品というのに興味津々で、でもその頃はまだまだ高くておいそれと手を出せるようなものではありませんでした。私はLDプレイヤー保有者だったから、できればLDで欲しいよね。でも高いよね。買えないよね。堂島ワルツ堂でLDを見ながら指をくわえていたものでしたよ。

LDは買えないけど、まあそれはよかったのですよ。映像がつくならつくで、一体どんなものになってるか見てみたい気持ちはは強かったのですが、けれど一番に興味のあったものはなにをおいてもまず演奏です。ヨーヨー・マの演奏する『無伴奏チェロ組曲』。このアルバムが学校近くの店で安く売られているのを見たとき、私は躊躇も迷いもなく買ってしまっていました。

聴いてみれば鮮烈、でした。それもそのはず、私が持っていた『無伴奏チェロ組曲』のアルバムといえばカザルスの盤で、これをスタンダードみたいにして聴いていたものですから、そりゃ違いますよ。時代をえいやっと乗り越えて、ロマンティックの時代から古典主義を飛ばし再びロマンティックに帰ってきたみたいな、そんな時代を一回りしたみたいな話だったのです。

でも、一度古典主義的時代を経験したわけですから、ロマンティックでもそれはもう全然違っていて、カザルスがうなりうめく人間の苦悩と喜びであるとすれば、マの演奏は軽やかに空をかけわたっていくような極めて自由な表現であり、そしてそのうちに情熱を隠している。『無伴奏チェロ組曲』をこれから聴くというような人には、カザルスよりもマだと思います。端正で癖がなく聴きやすい。入門には最適です。

けど、癖がないからといって、薄味というわけではないのです。充分に情熱的だし、ぐうっと訴えてくる力もある。このあたりのバランスはうまくとれていて、やっぱりヨーヨー・マは聴かせ上手だなあとそんな感想を持ったのを覚えています。

さて、実はヨーヨー・マの『無伴奏チェロ組曲』にはもうひとつありまして、1983年録音の盤というのもあるのですね。実は私はこちらは聴いたことがありません。だから、いつか旧録音も入手して新録音と聴き比べたいなあと思ったりしています。とはいえ、私はあっちにふらふらこっちにふらふらしている人間だから、聴き比べの日が一体くるんだかどうだかわからないときています。そしてできれば、映像作品になったバッハも見てみたいものです。こちらは少なくとも日本向けのDVDがリリースされなければ無理でしょうね。いつか日本向けにリリースされる日はくるのかなあ。期待しないで待ちたいと思います。

CD

VHS

DVD (リージョン1 : アメリカ合衆国およびカナダ)

2006年7月25日火曜日

読書について

 権力者というのは自分の権力や権益を守るために、ときに検閲というような手段に訴えたりしますな。例えば、中国なんかではWebの検閲というのが普通におこなわれていて、Googleの検索に(国家から見て)有害なサイトがのぼってこなかったり、見つけたとしてもCiscoのルータやらスイッチやらが有害ページをなかったことにしてしまうといいます。でも実はこれは中国だけの話ではなくて、私たちも知らないうちに検閲下で暮らしているという可能性もなきにしもあらずなのです。だって、検閲されるということは私たちの目の前にその情報が出てこないということですから、外部情報を手に入れる手段を持たないものにはわかんないんですよ。検閲済み、Censoredってスタンプが常にあるとは限らんわけですから、実際問題としてこうしたことの起こりうる世界というのはおそろしいものであると思います。

さて、なんで検閲の話から『読書について』が出てくるのかといいますと、こうした検閲したがる人間っていうのは、ショーペンハウアーのよき理解者であるなあとそんな風に思ったからなんです。いや、別にショーペンハウアーが検閲を称揚しているとかそういうわけではないですよ。

ショーペンハウアーはいうのですよ。読書というのは他人の頭でものを考える行為にほかならないから、読書ばかりしてると自分で考えなくなっていけない。読書は真に偉大な思考力の持ち主であれば有益だろうが、凡人にはむしろ危険だみたいな話。確かにそれは一理あるよねえ。そして、この考えというのは、一面検閲者のそれに通じているかのようであります。検閲する国家というものは自分の抱える国民がおしなべて馬鹿だと思っているわけです。馬鹿だから、危険書に振れさせると感化されていけない。危険書を取り締まって、国家にとって都合の良いものだけを与えておけば、都合の良い人間の出来上がりだ!

ショーペンハウアーの意図は違います。自分で考えろといってます。対して検閲者はというと、考えるなといっている。

私は考えるにも材料が必要であると思っています。それは例えば現状への認識を深める事実であり、その事実についての批評であり、それらを糧として自分なりの評価を定めていくことが求められているのだと思っています。検閲が罪であるのは、事実の隠蔽がおこなわれるからで、多様な批評が失われるからで、すなわち私たちの考えるためのヒントが充分に与えられなくなるからです。でも、私たちは今入手しうるものだけをもとに考えなければならない。そして真に偉大な思考力を持っていれば、この偏っている状況を見抜いて、その向こうにあるはずの実際に思いをいたらせることも可能であるはずだ、と思っています。

でも、私にはそれができないんだな。ああ、私は実に凡庸に過ぎて、どうも人の頭で考えすぎたからみたいです。なにごとも過ぎたるはなお及ばざるがごとしといいますものね。

2006年7月24日月曜日

ニャロメのおもしろコンピュータ探険

私たちは今や夢の二十一世紀に暮らしていて、けど空を飛ぶ車もなければ友達のようなロボットもおらず、ああ夢の未来はどこにいったんだろう。とかよくよく冗談めかしていわれたりしますが、けど私たちはあの頃想像もしなかった未来を手にしているのです。そのひとつは携帯電話。昔、未来の特殊部隊が小型のトランシーバー(無線機)で会話するのを見てわくわくしたりしたものでしたが、ところが今や私たちは老若男女問わず電話という通信手段を持ち歩いているわけです。しかもこれ、会話するだけじゃなくて、メールを送ったり、スケジューラや電卓になったりと、ちょっとしたコンピュータですよ。と、このような機器をあらためてみれば、私たちの手にした未来とは、情報通信の高度に発達した世界なのであるのだなあと、ある種の感慨におそわれます。

けど、携帯電話なんて序の口です。私たちはそれ以上にものすごいものに接しているではありませんか。それはなにかといえば、インターネットですよ。未来には高度に発達したネットワークがあるはずだと予想した人は多かったですが、けれどそれはホスト=クライアント型のネットワーク(パソコン通信型っていったらいいかな?)でしかなく、今のインターネットの姿を想像した人がどれだけいたものでしょうか。情報はあくまでも情報センターから有償で購入するものであり、そうした情報というのも仕事や研究といったもので、一般に開かれたものではありませんでした。ところがですよ、実際はインターネット企業が広告ベースで無料サービスをどしどし展開し、さらには無償で百科事典を編纂しようという動きまである。すごいよなあ。まさしくインターネットは情報革命の舞台であったのだと、一昔前のコンピュータの事情をちょい見していた私には、やっぱり感慨深いものがあるのです。

『ニャロメのおもしろコンピュータ探険』は、友人の城戸くんが持っていた本で、城戸くんはコンピュータとかが好きな子だったんですね。でも、この本に出てくるような先進的コンピュータは子供が使うにはあまりに高価すぎて、だから彼が持っていたのはエポック社のカセットビジョンでした(あれ、ぴゅう太もあったかな? あ、そうだ、この人が電子ブロック持ってたんだ)。

この本、子供時分の私が見ても正直あんまりピンとこなくて、だから当時の印象は、CPUをさしてゲジゲジ呼ばわりしているとか、そういうのしか残っていません。ふーん、なんて思ってて、将来コンピュータを触ることがあるなんてまったく思っていなかった。そうなんですね。あの頃コンピュータといえば、よほどの選ばれた人しか触れないような、そういう特別な感じがしたものです。

だから、これだけコンピュータが身近になった今、この本を見るとまたなにやらしみじみ胸に兆すものがありまして、古書店で見つけたときには一も二もなく購入決定して、そして読んでまた胸が熱くなって、そうです、あの頃の方がもしかしたら夢は大きかったのかも知れない。できることは今よりもずっと少なくて、書いてあることも、今から見ればとんちんかんな話に思えます。マウスの代わりにライトペンでディスプレイにタッチして、モデムならぬ音響カプラが大活躍。プリンタはドットインパクトで、CD-ROMどころかフロッピーディスク(8インチと5インチ、3.5インチはまだなかったのだ!)が夢の大容量メディアとして紹介されています。けど、これが二十年前の現実なんですよね。

20年かけて、夢にも見なかったようなすごい情報社会にたどり着いて、私たちは次はどんな夢を見るんだろう。文字情報どころか、音声も映像も国境を越えてびゅんびゅん飛び交い、そんな時代に私たちはなにを見て、なにを生み出そうというのでしょう。メールボックスをSPAMでいっぱいにするばかりが、コンピューティングではないぞ。私たちの夢見た未来はこんなではなかったはずです。なにか、なにかこれだというものを生み出したいと、昔を振り返ればそんな思いも涌いてこようというものなのです。

2006年7月23日日曜日

スイミー — ちいさなかしこいさかなのはなし

 今日、テレビでキビナゴの群れが特集されてまして、群れがひとつの生き物のように機能することで外敵から身を守るのだというその様がありありとテレビに映されて、そのあまりの見事な動きに、私は昔読んだ絵本を思い出したのでした。その名は『スイミー』。ご存じの方もきっと多いでしょう。小さな魚たちが、自分たちを捕食する大きな魚に立ち向かうため、群れをつくり一丸となって立ち向かう。その中心となるのが、ひとり体の色の違うスイミーでした。困難に立ち向かって克服するという点においても、ひとりはみんなのためにみんなはひとりのためにという連帯の精神が高らかに謳われているという点においても、非常に素晴らしい名作絵本であると思います。

けれど、実際の魚の群れというものを見てみれば、あれはスイミーの世界とはまったくもって別物であるのだなというような感じがします。群れる魚は、一尾一尾個体としての機能を持ちながら、しかし生命の単位としては群れそのものであるのです。一個体の存続をではなく、種としての存続を第一に優先するものが群れなのですから、個体は個体であると同時に群れにおける細胞であるともいえる。群れの機能を一尾一尾が担って、個体ではなく群れとしての生き残りを図る。個体としての生命は失われようと、より多くの仲間が、種が生き残ればそれで勝ちという戦略なのです。

でも人間はそうした魚の群れを見て、助け合いだとか連帯を思うのですね。これはすなわち、魚同様、個としては弱い人間が種としての生き残りを考えた結果得られた考え方なのでしょうが、私たち人が魚と決定的に違うのは、一個体一個体が自我を持っているというところでしょう。魚は、自分の死がどうこうとか考えていない。自分の生き方とかも考えない。けど人はそれを考えるのだから、連帯してどうこうというのがときに難しくなる、いつもうまくいくわけじゃないんだよなあと、そんなことを思ったりします。

けれど、思い出せば、『スイミー』に出会った子供は皆、この素朴な物語に心を動かされて、そしてときに大人たちも、かつて出会ったスイミーに思いをはせて、その感動を反芻します。これはつまり、私たちがエゴを心のうちに抱えながらも、そのエゴを超えたなにかを信じたいと思っているからなのだと思います。理想的で、あるいはきれいごとかも知れないと思いながらも、その理想を夢見たいと思う気持ちがどこかに隠されているのだと思うのです。

私たちはすぐ、日常の些事に理想を紛れさせてしまいますが、たまには思い出してみるのもいいかも知れません。子供の頃に、魚たちが一生懸命に生きようとする物語に感じたものをとおして、忘れそうになっているものを今一度確認してみるのもいいかも知れません。

  • Lionni, Leo. Swimmy. Alfred a Knopf, 1991.
  • Lionni, Leo. Swimmy, Knopf Children's Paperbacks. Alfred a Knopf, 1992.
  • Lionni, Leo. Swimmy. Alfred a Knopf, 1991.

2006年7月22日土曜日

チャーリー・ブラウンという男の子

 Amazonにいきましたら、トップページになんかキャンペーンの案内が出ていましてね、ふんふん、なになに、DVDを三枚買うと一枚が無料になるのね。でも、こういうの対象商品が実に微妙で、欲しいと思うようなものっていうのもあんまりないんですよね。とか思いながら対象商品リストを見ていったら、ありました、ありましたよ。『スヌーピーとチャーリー』、そして『スヌーピーの大冒険』。『スヌーピーとチャーリー』とうのは、原題ではA Boy Named Charlie Brown、以前『チャーリー・ブラウンという男の子』として紹介したものではないですか。そして後者は、原題Snoopy Come Home、以前NHKが放送したときには『帰っておいでスヌーピー』と訳されていました。

ああ、これはいいですね。ついにDVD化ですよ。これまではビデオでしか出てなかったのが、DVD。ああ、買っちゃおうかね。キャンペーンだもんね。

でもって、私が気にしたのは声です。私は、基本的には洋画は字幕派なのですが、けど『ピーナッツ』に関しては吹き替えで見たい。そんな風に思う私にとっては、一体誰が声をあてているかというのはちょっとした重大ごとなのであります。

声優に関しては、残念ながらAmazonではわからず、なのでパラマウントのサイトにいって調べてみました。そしたら『スヌーピーとチャーリー』には記載なし、ですが『スヌーピーの大冒険』には記載されていました。

チャーリー・ブラウン
チャド・ウエバー
古田 信幸
ルーシー
ロビン・コーン
滝沢 久美子
ライナス
ステファン・シー
堀内 賢雄

だそうです。これをWikipediaに照らし合わせると、どうやら第三期に該当する模様。うーん、私に馴染みのものが一体第何期であるかがわからない……。

私の記憶をたぐるならば、横沢啓子が出てたような気がするんだけどな。それも、我が愛しのライナス役で。でも、これを見たのはもう十年以上も前で、自信がない。この、私にとっての馴染みのキャストというのは、結局はNHKが放送した映画のものでしかないのでしょう。その後再放送されないかなあと期待しながら、どうもそれを何度か見逃したりしながら、再び出会うことはできずにいます。だから、私には、ビデオ棚に収められた古い録画がすべてで、けれどビデオテープはいずれ駄目になるからと思うとDVDが欲しい。けど、そこにもし違和感を感じたらどうしよう……。これが私の購入に躊躇する理由です。

アニメにおいて声というのは極めて大きな要素で、もっともリアルであり、もっとも肉感的であり、だから一度これと馴染んだものがあればなかなか次にうつりにくいものだというのは誰もが理解してくださることと思います。私にとって、堀内賢雄ライナスはどうだろうか……。だってオスカー様だよ?

とぶつくさいうくらいなら、買って確かめるべきですよね。で、買ってみて、声は大丈夫だとしても今度は訳がどうこうとかいいだすんだよ。難儀なものです。難儀なものだと思います。

ところで、Amazonのまとめ買い!お得キャンペーンには違う価格のDVDが含まれてるんですが、これ、低価格のものから無料になるのかしら? ちょっとわかりにくいシステムだと感じました。

DVD

VHS

2006年7月21日金曜日

高橋名人の冒険島

 ポッドキャストがなんとなく生活に馴染んで、真新しさとか話題先行とか、そういう評価はもう過去に押しやられそうになっていますね。私は、ポッドキャストばっかり聴いていると好きな音楽が聴けなくなるから、数えるほどしか購読していないのですが、今日、めでたく新たな購読ポッドキャストがひとつ増えました。それはなにかといいますと、16SHOTRADIO。かの一世を風靡したファミコンの偉人、高橋名人のインタビュー番組なのであります! この番組がはじまるというニュース、私は『MYCOMジャーナル』で知ったのでした。RSSで購読するニュースヘッドラインに、「高橋名人の逮捕疑惑がついに晴れる? - TFM、名人のポッドキャストを配信」との刺激的な一文を見つけて、こうなったら読まないわけにはいかない。そして読んでみれば、ポッドキャストを聴かないわけにはいかない。というわけで、購読をひとつ増やしたというわけです。

高橋名人は、まさしく時代の寵児でありました。「ゲームは一日一時間」という標語を日本全国津々浦々に浸透させ、ゲームに夢中の子供たちばかりか、ゲームに批判的なお母様がたの心も捉えた、本当、ファミコン史、ゲーム史を語るうえでは外せないビッグネームであります。

でも、私は特に高橋名人のファンだったとか、そういうわけでもないんですよね。ハドソンのゲームは持ってたけど、だって最初に買ったゲームが『マリオブラザーズ』と『ロードランナー』です。その後『ボンバーマン』も買ったしで、ハドソンは嫌いなメーカーじゃありません。でも、高橋名人といえば一秒間十六連射。連射が攻略の要になるゲームといえばシューティング、ですよね。でも、私、あんまりシューティングは好きじゃなかったんです。どちらかといえばアクションより、それに当時大流行したロールプレイングに傾倒していて、シューティングはほとんどやっていません。『ツインビー』とか持ってましたけどね。『グラディウス』とか『沙羅漫蛇』好きでしたけどね(これら、全部コナミ製ですね)。

シューティングをほとんど遊ばず、つまり全国キャラバンには参加するはずもなく、さらには高橋名人の映画を見にいったこともなく、アニメ『Bugってハニー』も見なかった私ですが(あれ? ゲームはやった覚えがある。なんでだろ)、それでも、なんと高橋名人の名を冠したゲームを持っているのです。それは『高橋名人の冒険島』。原始時代を彷彿とさせる世界において展開される横スクロールアクションゲームで、高橋名人の武器は石斧。途中で魔法の火に持ち替えたりして、またスケボーに乗ったりしながら進んでいくこのゲーム、難しかった。

有名なゲームでもってこのゲームを説明するなら、スーパーマリオタイプというのがいいのだと思います。スーパーマリオは4面で1ワールドを構成していたけど、高橋名人は3面1ワールドじゃなかったかな? ジャングルを抜けたり、地底に潜ったり。あるいはすごい坂道を、転がる大岩避けながら走り抜けたり、趣向を凝らした面構成がスーパーマリオとは違う面白さを打ち出していました。

高橋名人の教え「一日一時間」を守らず、私はかなりこのゲームを遊んだのですが、でも結局クリアにはいたらず、でした。難しいんですよ。何度も何度も死にながら、けれど不屈の精神で先へ先へと進むのですが、最終面までたどり着いておきながら、どうしても最後のボスを倒すことができなかったんです。結局スーパーマリオがクリアできたのは、ワープができたからなんだなあと思い知りました。ワープを駆使すれば、十分でクリアできるスーパーマリオ。対して、何時間もかけて最後の面にたどり着いて、疲弊した精神を奮い立たせながら最後のボスに立ち向かわなければならない高橋名人の冒険島。でも、この当時のゲームはクリアできないのが普通だったんですよ。今みたいに、誰でもクリアできるようには作られてなくて、だからゲームがうまいやつっていうのが光っていたよね。誰もクリアできないゲームが、そいつの手にかかるとあれよあれよと先に進んで、隠されていた謎も明らかにされて、そして私たちは、彼の威光にひれ伏すのです。

けど、私の回りには『高橋名人の冒険島』をクリアしたという人間はいませんでした。残念ですね。エンディングどんなだったんだろう。こればっかりは心残りですが、当時クリアできなかったものが、今クリアできるとは思えません。きっと私は、そのもやもやを心のどこかに隠しながら、これから先も生きてゆくのでしょう。

ところで、「ゲームは一日一時間」をキーワードにしてGoogleで検索すると、私のサイトがトップ表示されます。わお、あの曲解に満ちたアジ文がトップにくるのか。参ったなあ、こいつはいけねえや。でも、このキーワードで二万件もヒットして、よっぽど知られたフレーズだったんだなということがわかりますね。

ファミリーコンピュータ

ゲームボーイ(アドバンス含む)

PCエンジン

スーパーファミコン

ゲームキューブ

PlayStation2

2006年7月20日木曜日

勇者警察ジェイデッカー

  昔、勇者シリーズというアニメシリーズがあって、私はとにかく好きで楽しみに見ていたものでした。私たち人間同様に喜怒哀楽を持ったロボットたちが、人間の世界を守るために戦うという形式が基本にあって、そしてそれぞれがそれぞれのテーマを持っています。『ジェイデッカー』はでしたね。人が人と出会って目覚める心。そうした、デリケートで口にするとどこか気恥ずかしくなるようなものを真っ正面から扱うことのできるアニメという媒体は、非常に大切なものかも知れないなと思える。そう思えるのも、『勇者警察ジェイデッカー』が、難しいテーマに取り組んで、見事に描いてみせたからに他なりません。

『ジェイデッカー』のDVDが箱で発売されているのを知って、ああ、買えるものなら欲しいなあと思うのはいつものことで、でもいろいろ物入りだから買えず、ちょっと残念に思います。

『ジェイデッカー』は、勇者シリーズとしては異色だったかも知れません。このシリーズでは、基本形としてヒーローロボが人間の少年と特別な関係を結ぶという構図があるのですが、大抵はメインのロボットと主役の少年の関係に注力されて、他のロボットがクローズアップされることはあまりありません。ですが、『ジェイデッカー』は違ったのですね。出てくるロボットほぼすべてに特別な相手がいるのです。子供に限らず、大人の男女が関わってきたりする。あるいはロボット同士の関係が描かれたりもする。それも単純に仲が良いという描かれかたではなく、恋愛感情に似たものを扱ってみたり、あるいは意識の死という重いテーマを扱ってみたり、こうした多様な関係から多彩な感情、思いを浮かび上がらせようというのが『ジェイデッカー』の趣旨であったのだろうと思います。

しかし、その趣旨が見事に作品として昇華されているというのは特筆すべきことでありまして、勇者シリーズ侮りがたし、本当に馬鹿にできない作品に仕上がっています。けれど、私は当初、『ジェイデッカー』に関しては疑問視していて、というのは例えば名前です。ジェイデッカーのジェイというのは、Jリーグが発足してなんにでもJをくっつける風潮があったからこそのものでしょう。他にも、サッカーボールをけってるロボットも出ました。また当時流行っていた忍者にかこつけたロボットも出ました。でもって、あの総監です。なんか、はやりに迎合して軽い感じよね、みたいな感じで見ていた節があったのでした。

でも、思いっきり裏切られました。ときにあらわれるナイーブな表現の妙味もあって、これが子供向けのロボットものであるということを忘れさせるような世界を作り出して、そして途中から重い重い。人間に作られた彼らロボットのAIにおいて心というのは一体なんなのか。この心の存在するということはどういうことなのか。普通ならお約束ですまされてしまうような部分にあえてスポットライトを当て、心とはなんなのだろうという私たち人間の持つ根源的な問に向き合ったのです。

そして、ひとつの答えをしっかりと手にしたという確かな感触をもって物語が閉じられました。勇者シリーズという、心を持ったロボットの物語のコアとなる個所にチャレンジして、その厄介な問題を受け止め持て余すことがなかった。ロボットものという枠組みを越えて、人間の、心を持ったものたちの物語として結実した —。

掛け値なしに名作であると思います。

参考

2006年7月19日水曜日

30GIRL.com / サーティーガール

    『サーティガール』はずいぶん昔に話題になった漫画で、いやあ、私も見にいきましたよ。ん? 見にいった? どこに? って、もう読者の皆さんにはお分かりとのことかと思いますが、30girl.comっていうサイトがあるのです。そこに連載されているコミックが『サーティガール』。カワイシンゴ原作、岩崎つばさ漫画で、powered by HITACHIですよ。キッチン回り、バス回りを豊かにする日立アプライアンスオイダキ.コムのイメージキャラクターであったリリコとジョーズが独立してWebコミック展開! その話題のWebコミックが書籍形態でリリースされたのが、この『30GIRL.com』及び『サーティガール』というわけです。

なんで二種類あるのかは聞かないでください。私も知らんのですから。

双葉社版(『30GIRL.com』)と白泉社版(『サーティーガール』)は基本的に同じ内容です。ええと、2巻の頭までかな? が同内容の収録で、けれど切り口が違うから、30girl.comを味わうなら、両方を買うべきでしょう。版型が違うから自然レイアウトも変わってきて、また人物紹介の内容も両方違ってるし、それに日立のカタログ表紙に登場したリリコさんのカラーグラビアがあったりなかったりするから、好きなら両方買っとけ、って勢いです。

なお、私の好みでいうと、人物紹介やグラビアの点でいうなら双葉社版がいいかな、けど漫画を読むなら白泉社版の方が好きだな、そんな感じです。

『サーティガール』を漫画として評価するなら、踏み込み浅めのあっさりした口という感じになるんじゃないかと思います。でも、とにかくよく動くキャラクターが主人公をやって、またその主人公に負けない個性的なキャラクターを周囲に配置して、かしましい面々のどたばた繰り広げるコメディが読んでいて本当に楽しい。コミック版にはときにキャラの内心を説明するようなコマがカットインされるんですが、そうしたフィーチャーもさりげない面白みを加えて、結構好きな雰囲気に仕上がっているお気に入りの漫画です。

でも、多分、これってキャラクターに入れ込んで読んだほうがもっと面白い、キャラクター型漫画でしょうね。元気な主人公、よくしゃべる義姉、よく食べる義妹、そしてこわもてクールな義母。他にも個性的なのが数名。ちょっと類型的だけど、岩崎つばさの描き方のためか、あんまり類型的とは感じないで済んでいます。こうしたキャラクターを把握すると、その途端に漫画の面白さレベルが跳ね上がります。でも、最初のころは妙にわかりにくいんですよね。キャラクターの把握もすぐにはできないし、人間関係も微妙にわかりにくいし、けどこの点双葉社版は各キャラクターの解説に基本情報や他のキャラクターについてどう思っているかというのが箇条書きにされていたから、わかりやすくてありがたかった。双葉社版をいっぺん通して読んで、人間関係その他設定をざっと把握した後に、白泉社版に突入する。そうしたらきっとずっと面白いと思います。そして読んで読んで、その後にお気に入りのキャラクターでもできたら完璧じゃないでしょうか。ええ、私、この漫画、一度読みはじめると止まらなくなって、全巻読んではまた読み返してみたいなモードに突入してしまうのです。

そんな私のお気に入りは、町内三馬鹿三十代を構成する、湯神家長女加奈子です。どこがいいかは、双葉社版人物紹介を見てくださったらわかります。もう、完璧じゃないですか?

  • 岩崎つばさ『30GIRL.com』カワイシンゴ原作脚本 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 岩崎つばさ,カワイシンゴ『サーティーガール』第1巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2005年。
  • 岩崎つばさ,カワイシンゴ『サーティーガール』第2巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2005年。
  • 岩崎つばさ,カワイシンゴ『サーティーガール』第3巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2006年。
  • 以下続刊

2006年7月18日火曜日

ヤダモン

 本当ならば到着次第ここに紹介してもおかしくなかった『ヤダモン』DVD-BOX第2巻。それがどうして、こんなに遅れたのかといいますと、実に単純な話でして、BOX第1巻をまだ全部見終えていなかったものですから、どうにも第2巻に言及しにくかったと、そういう次第なのです。ですが、休みの日に少しずつ見ていったBOX第1巻、この短い連休でついに見終わりましてね、そしたら早速BOX第2巻に突入ですよ。ああ、BOX 2には私の好きな短編があるんですね。6枚組の最初の2枚が短編集になっていまして、一話完結型の短編が収められています。これが実に素晴らしい。今日は一話だけ、みたいなつもりで見始めて、もう一話、あと一話だけ、ってついつい先を先を見ようとしてしまって、わたしゃ酒飲みか? でも、本当にそんな感じに先を見たいと思わせる、魅力的な話がいっぱいなのです。

しかし笑ってしまうのが、私、どうも特徴的な台詞に関しては、イントネーションをばっちり覚えてしまっておりまして、一体なんべんくらい見たんでしょう。この調子だと、当時はきっと台詞まで覚えていたとかそういう口ですよ。でも、実際、こと短編に関しては、覚えるくらい見ましたものね。というのもですね、十分で見終わるわけですから、とにかく手ごろなんですよ。ちょっと時間に空きがあって、なにをするにも中途半端ということってありますが、そういうときにすごくぴったりはまるのがヤダモン短編でした。ちょこっと見る、楽しい、嬉しくなる。けど、すべてのお話が仕合せだったり嬉しかったりするわけじゃないから危険なんですけど、でもたとえそれが悲しい話だったとしても、心にしんみりと残るものがあって、それが素敵なものであるというのは間違いないのですから、やっぱり短編はよいなあとそんな風に思うわけです。

短編は、中編(五回続き)ができない週、つまり相撲中継のある月に放送されておりまして、つまり各中編に差し込まれるかたちでの放送だったのです。だから、本当はこうやって短編だけとりだしてみるようなものではなくて、その時々の中編に関係していたりしますから、中編を見る、ちょっと短編を見る、中編に戻る、また短編を見る。そして、短編末期作品(かの名作「タコタコ上がれ!」はここに!)から「いつでも飛びたい」を経て、大河へとなだれ込むのが多分いいのだと思います。「いつでも飛びたい」の、仕合せな日常に別れの予感を漂わせた構成は、明らかに怒濤の大河展開を見越していて、私たち視聴者は知らない間に、あのハードに展開して見せる大河編への覚悟を済ませていたのです。

『ヤダモン』後半の大河展開を一気に見通すというのはさすがに不可能でしょうが、もし可能なら私はそれをやってみたいと思う。もしそれができたとしたら、心の動揺も、感動も、なにもかもが想像できないような振れかたを見せるのではないかと思います。そして、DVD-BOXが手もとに揃った今、自分の考える理想の視聴形態を追求することもできるわけで、ああ、なんという仕合せな状況でしょう。ちょっと前までは、こんな状況を身近にできるなど、思いも寄らぬことでした。本当に仕合せなことだと思います。

VHS

CD

書籍

  • 面出明美『小説ヤダモン』上 ちいさな魔女がやってきた! (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1992年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』中 砂の迷宮 (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』下 地球の詩がきこえる (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』前編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』後編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1994年。
  • ヤダモン』第1巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第2巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第3巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第4巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第5巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。

2006年7月17日月曜日

音楽の文章術 — レポートの作成から表現の技法まで

 Amazon.co.jpが最近リニューアルされまして、見た目がなんだかすっきりしたなあなんて思っていたのですが、とんでもない。必要な書誌情報がいくつか表示されなくなっているではありませんか。最初に気付いたのはシリーズ名です。シリーズ名というのは、例えば『バッハ叢書』みたいな一連のシリーズものもそうですし、後はなんとか文庫とかなんとか新書とか、なんとかコミックスとか、そういうのもシリーズ名に含まれます。これが、なんでかでなくなったんですね。見た目にはすっきりしましたよ、でもさ、これ、本を買う人には重要な情報じゃありませんか。古典ものなら複数の出版者から出ているのも普通で、その場合、好みの文庫とかがあったりするでしょう。あるいは、同一出版者から出ているとしても、装幀違いというのがあります。岩波文庫なら、通常のものと大活字版というように、けれどそうした違いがAmazonにはあらわれなくなって、なんじゃこりゃあ。だから私は、なんとかしてくださいとAmazonへの問い合わせに泣きついたのでした。

と、これで一息ついたと思っていたらさにあらず。まだあった。今度は共著者に関する情報です。うわあ、これは困る。例えば、『ライ麦畑でつかまえて』を読みたくなったとするでしょう。そうしたら『ライ麦畑でつかまえて』というのと『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ってのと、二種類出てきた。どちらも日本語版、出版者も同じ。じゃあ、どっちを買おう? 新しいほう? それとも安いほう? でも普通、翻訳物を買おうかという場合には、訳者がだれかって見るでしょう。『ライ麦』の場合、前者が野崎孝訳、後者は村上春樹訳。ああ、そうだ、村上春樹が訳したっていって話題になってたよねー、じゃあ『キャッチャー』の方にしようかな、みたいな話ですが、なんでかAmazon.co.jpの各アイテムのページからはこうした重要な共著者情報、訳者情報が消えた! わーお。なんとかしてください……、マジで。

私が書誌に関して妙に神経質なのは、図書館員やってた時期があったということも関わっているのですが、それと同時に昔、漠然と研究者になりたいと思っていた時期があったからだと思います。研究者にとってなにが大切かといえば、それは論文です。自分の研究を人に伝える手段として論文があるのですが、その論文において、特に文系論文においては、先行研究への言及、他論文の参照というのが極めて重要な手続きになっています。研究者は他の研究者の論文、書籍をとにかく読みあさって、自分の研究の補強になりそうなものや、あるいはそれを批判(批判 — Kritik, criticismは研究における重要な手続きのひとつです)することで自説を明確にできそうなものを見つけだすのです。

大学のゼミにおいては、こうした手続きについて学んだりもするのですが、その際に教科書として使ったのがウィンジェルの『音楽の文章術』でした。この本は、タイトルを見れば明らかでしょう、音楽に関する論文を書く際に必要なノウハウを紹介するもので、研究の手続きについて書かれているかと思えば、文章の書き方のルールというようなのもあって、音楽論文を書かなくなった今でも、私はこの本を愛用しています。いつでも参照できるよう手もとに置かれていて、さて、それはなぜなのでしょう?

それは、論文において欠かせない、引用と出典の表示の作法を確認するためなのです。例えば、この記事の末尾にもちょこっと書誌がくっついていますが、この書き方にもフォーマットがありまして、慣れたものならちょいちょいと書きますが、ちょっとややこしいようなものとなるとこの本の出番です。巻末付録にですね、「文献(・資料)の書き方」というのがありまして、ウィンジェルの推奨するフォーマットに準拠した、日本語論文におけるフォーマットが提示されているのです。これの大本には『シカゴ・マニュアル』というのがあって、論文(には限らないけど)を書くときにはこういう書き方をしましょうというフォーマットが決められている。残念ながら日本語にはそうした権威あるマニュアルというのはないようなのですが、だからこそこの本が示してくれているいくつかの書式、これが役に立つのです。

典拠を示す際、書誌を載せる際、迷えば必ずこの本を参照しています。もちろん、この本がカバーしきれないような場合もあって、そうしたときにはなんとなくそれっぽい書き方で済ませてしまうこともありますが、できるだけフォーマットを統一したいというように考えています。でも、なんでフォーマットを統一する必要があるんでしょう? それは、典拠、参照文献を探す際の手間を軽減するためです。

研究者は、研究者に限りませんが、資料を探す際に、確実に目当てのものが見つけられるよう配慮するのです。そこにある本が目当てのものであるか同定するのに必要な情報が書誌です。書誌において重要なのは、著者名、書名をはじめとして、出版者、出版年、収録されているシリーズ、そして訳者である等の情報です。最悪同じ本が見つけられなかったとしても、同著者同書名同訳者であれば、同一資料とみなすことも可能となるでしょう。しかし、そうした情報が落ちていたとしたら!

図書館なみに書誌を扱えとはいいませんが、最低限の情報はどうか押さえて欲しい。これは、利用者として書店に望む、最低限のラインであると思います。

2006年7月16日日曜日

Portraits in Blue

   ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』は実際名曲だと思うのです。ジャズとクラシックの融合を目指して書かれた作品で、あの印象的なクラリネットの低音トリルから高音に向かって駆け上がるグリッサンド、そしてポルタメント。もちろんこの曲の魅力はここにとどまるものではなく、オケとピアノの息詰まるような掛け合いもあれば、軽妙なパッセージの小気味よさもあれば、中間部のゆったりとして美しさの溢れる叙情もあって、そんなに長い曲ではないのに、多様性に富んだ音楽世界を作り出しています。このことだけをもってこの曲は名曲だということも可能かと思います。けど、本当にこの曲を名曲たらしめているのは、この曲をベースとして多様な演奏がなされているというそのことなんだと私は思っています。

ひとつの作品世界をキャンバスとして繰り広げられる多彩なパフォーマンス。演奏者の感性、解釈の違いによって、作品はまた違った表情を見せて、聴き手である私たちを魅了するのですが、『ラプソディー・イン・ブルー』においてはそのあらわれかたがどれほどに多様であるか、ですよ。これは、ジャズとクラシックの融合という、この曲のできあがった経緯が関わっていて、すなわちクラシックスタイルでの掘り起こし、演じ直しがあったかと思えば、ジャズスタイルによるインプロヴィゼイションの熱く咲き乱れるスリリングな演奏もあって、そうです、Marcus Robertsの『ポートレイト・イン・ブルー』に収録されたものは、まさしくそのジャズスタイルによるものなのであります。

私もいろいろな『ラプソディー・イン・ブルー』を聴いてきましたが、あの冒頭のクラリネットを大胆に置き換えたのはこれがはじめてじゃないかな。最初、本当になんの曲かわからないんですよ。あ、この曲なんだっけみたいな感じで思っていたら、ああーっ、『ラプソディー・イン・ブルー』だったんだ、って途中でいきなりわかる。その意外性がまた曲を際立たせて魅力的に見せて、そうなんですよ、すごくスリリング。うわ、『ラプソディー・イン・ブルー』ってこんな風にもなるんだって圧倒されて、そう思ったら今度は、次々とあらわれるソリストの演奏に魅惑されて、いや、これ本当にすごいですよ。名演中の名演であると思います。クールで、けれどときにすごく突っ込んで展開してみせるから、ドキドキする。こういう体験をさせてくれる演奏というのもなかなかに珍しいんではないかと思います。

しかし、あまりにも自由に演奏されるがゆえにオリジナルとは大きく違ってしまった『ラプソディー・イン・ブルー』。しかしそれでも間違いなく『ラプソディー・イン・ブルー』であるのですよね。こうした、多様な演奏を許す作品の懐の深さったら素晴らしいなと。私は思うのですが、本当の名曲、名作というものは、どこまでも多様に展開されて、それであってもその曲の自身を失わない作品のことをいうのだと思います。なら、『ラプソディー・イン・ブルー』は疑いなく名作、そしてこの演奏も名作に真っ向から取り組んで負けない屈指の名演であると、そのように思います。

2006年7月15日土曜日

アラビアン花ちゃん

 『アラビアン花ちゃん』が文庫になって出版されているのを見て、りぼんマスコットコミックスで持っているにも関わらず、また買ってしまいました。だって好きなんだもの、しようがない。

『アラビアン花ちゃん』というのは、1989年に集英社の少女漫画誌『りぼん』に掲載されていた漫画で、萩岩睦美らしい奔放さが底抜けに楽しい、ファンタジー色強い漫画です。著者による後書きによれば、荒唐無稽なんだそうですが、確かにそういう評価もできるかも知れませんね。でも私なんかにしてみては、緻密にしてリアルな漫画が面白いと思うことがある反面、こうした自由な発想が支える夢のような物語にも面白さを感じてやまないのですから、萩岩さんはこれら過去作品を誇りに思っていただきたいなあ。同ネタのことにしても、ひとりの作者が、同一の発想を違うかたちで表現した好例といえるわけで、萩岩睦美のなかにある発想の芽は今も以前も変わりないのだと、そんな風に思ったりした面白い後書きでした。

面白いのは後書きだけじゃないですよ。もちろん本編あっての漫画ですから、本編を抜きにしてはいけないんですが、この本編の面白さというのは、一種無軌道とも思える展開の奔放さ、発想の自由なさまにつきるのではないかと思います。アラビアからやってきた花ちゃん。魔法のランプから出てきて、呼び出したものを主人とするのはよくあるお話だけど、それをあえて主従とせずに、友達として一緒に遊ぼうよというその雰囲気がいいじゃないですか。

分類としては、ドラえもん型といってもいいのかも知れませんね。万能といっていい力を持つ友人があって、その力でもって不可能を可能にしたり、あるいは振り回されてみたり。けど、『ドラえもん』には明確なロジックがあって、それはやっぱり藤子不二雄がSFの人で、あるいは男性の脳を持った漫画家だったからなんじゃないかなと。対して萩岩睦美のおそろしく奔放なことよ。すごく自由で自在で、それが不自然にならないのは、そうしたことを許す空気をこの漫画の中いっぱいに詰め込んでいるからなんじゃないかと思います。夢のような物語で、その物語の中では誰もがハッピーエンドを約束されている。そういう暖かさは、人によってはぬるさと感じるのかも知れないけれども、こういう漫画はあっていい、いやあらねばならないタイプの漫画であると思うのです。

しかし、楽しいやね。最初、アラビア風衣装を着ていた花ちゃんも、なんか第二話からは普通の日本の子供になってて、今の漫画だったら、さながら魔法を使うときにはアラビア風衣装に変身、なんてやるのかも知れませんが、そういう縛りがなくとにかく日常と非日常にくくりをつけることなく、夢のまま、想像のおもむくままに飛び回り、遊んでいる子供たちがすごく楽しそうで、読んでると荒唐無稽な夢に遊んでいた子供時分の気持ちを取り戻したような気にもなれる — 。

私の友達には花ちゃんみたいな子はいなかったけれど、誰もがうちに花ちゃんのような部分を持っていたように思います。だから私たちは、夢空想の世界のなかで自在であったし、魔法だって使えていたかも知れません。

うん、そんな気持ち。そんな気持ちがするんです。

引用

2006年7月14日金曜日

花と惑星

 書店によったら谷川史子の新刊が平積みになっていて、これは買わなくっちゃだわ! なにはなくとも私は谷川史子の漫画は買うのです。その絵も、お話も、雰囲気も、そしてそれらの向こうにあるなにもかもが私は好きで、だから出ているとあらば買わないではおられない。私にはそういう漫画家は幾人か数えることができますが、なかでも谷川史子は特別な位置にあるといってよいかと思います。

私が谷川史子の漫画に出会ったのは、購読していた『りぼん』連載の『くじら日和』を読んで、その世界の空気に参ってしまったからで、りぼんっ子でなくなった今でも大切な漫画、大切なお話として記憶にとどめています。もちろん単行本は全部そろえているし、そしてそれぞれのお話が持つ独特の空気に心を揺り動かされて、そうですね、やっぱり『花と惑星』も私の心を揺り動かして、しんみりとあたたかな涙を流させる、そういう切なさと仕合せのないまぜになったような空気を持っていたのでした。

『花と惑星』の物語は、それぞれ花にまつわる名前を持ったヒロインが、その恋心を確かめたり、女の友情に結束を深めてみたりという短編集でありまして、しかし恋模様を軸に話を展開する、そのナイーブさよ、切なさよ。私は谷川史子の漫画は切ないであると思う。ヒロインはけなげに恋に向かおうとして、恋の前に揺れ動いて、その弱さ、はかなさがすごく胸に迫ってきて、けど切ないばかり悲しいばかりでないのが谷川史子の持ち味だと思います。

弱くありつつどこかに強さも抱えていて、常にうまくいくとは限らない世界に自分の足でしっかり立って、空を見上げるような健やかさに満ちている。その健やかさは、きっとクライマックスにおいてよく発揮されて、『花と惑星』ではとりわけ『part 3. 百合と芍薬』がそうでした。part 1から綿々と続いてきた流れをひとまとめにして、きっと私たちは明日には元気に笑うのだろうということを予感させる渾身の見開きに、私は思わず涙ぐんだですよ。そして私は、このヒロインたちが、あるいはヒロインたちに自分を映してみようと思うすべての人たちが、そのように明日を迎えることができればよいと、そんな思いに溢れたのでした。

『花と惑星』の次に収録された『春の蕾』は、その明日をまっすぐ見られるようになれるまでの物語が、『花と惑星』のヒロインひとりを特にクローズアップして描かれて、これもまたよい話だったと思います。人は迷って、けどその迷った先にきっとよりよい未来を見つけ出せるなら、迷いは無駄ではないかも知れない。そのように思える、やはりこれも素敵な作品でありました。

  • 谷川史子『花と惑星』(りぼんマスコットコミックス・クッキー) 東京:集英社,2006年。

2006年7月13日木曜日

窮鼠はチーズの夢を見る

 第1巻が売れに売れて話題になったコミック『こどものじかん』の2巻が発売されたものですから、行きつけのグランドビル30階にいったのですが、どうしたものでしょうね、今日はもう本当にこれくらいしか買うものがなくて、でも『こじか』一冊持ってレジにいったら、あたかもこれ目当てで30階までのぼってきたみたいで嫌じゃないですか(いや、実際その通りなんですけど)。ロリコンとでも勘違いされたらことだから、ここはバランスをとるために普通の漫画も買っておきたい。というような訳で、以前から目をつけていた『窮鼠はチーズの夢を見る』を買ったのでした。これ、よっぽどの一押しなのかわかりませんが、平積み台のさらにその上に、表紙が見えるよう立てて陳列してあって、そしてその表紙の雰囲気のあまりのよさに、これはと思っていたんです。ただ、以前は予算の都合上買えなかった。けど今回は余裕があったから、『こじか』と一緒に買っておこうと思ったのでした。

そしたら、大変よかったです。しかし、なんといったらいいんでしょう。かなりの嫌展開ですよね。ノンケで女関係にだらしない主人公のもとに実はゲイだった後輩があらわれたと思ったら、浮気の証拠をネタにゆすって関係を迫って……、うわあ、男に迫られて嫌がっている主人公の、けれどあらがえないというシチュエーション。さ、最高です。

けど、ここまでならよくある話で、特筆すべきところは少なかろうと思います。つまり、この漫画はさらに先に進むんですね。私、読みはじめたときは短編集だと思っていたから、思ったより進まなかった(もう本当に全然進まなかったさ)第一話に不完全燃焼的がっかり感を味わったのですが、ところが第二話を見れば続いているじゃありませんか。やった。私は心の中で思ったね。

この手の漫画は大抵そうなのですが実に描写が丁寧で、優柔不断な主人公が男相手に翻弄されてことわりきれず、嫌悪しながらも突き放すこともまたできず、あろうことか嫉妬心まで抱いてしまうというそのプロセスの確かさ。ああ、これは素晴らしいわ。もしこれが、押し掛けてきたのが女なら(つまり普通のラブコメだったら)、男はその優柔不断をずるずる引き延ばしにして、おいしいシチュエーションをむさぼるばかりよね。男性向けはそれこそファンタジーだから、迫ってくるのが心底嫌いなタイプの女というのはまあなくって、そりゃかわいくて従順で好きなタイプが押し掛けてきたらこの世は天国よな。はいはい、もうくっつきゃいいじゃん、どうせくっつくんでしょ、といいたくなるよな据膳食わぬは的シチュエーション。そういうのには、げんなりなんです。

男性向けは単純で、私には物足りない。その点、この漫画は非常によかった。近づいては離れ、離れれば求め、そして知らない間に深く踏み込んでいって、しかしその自分が深みにはまりつつあることを意識したくない。このせめぎあいがいいじゃありませんか。しかも、こういうこと言葉で説明するのは楽ですが、この作者は漫画という表現で丁寧に描いていって、その説得力は並大抵ではありません。主人公が同性の後輩にはまっていくプロセスが本当に自然に積み重ねられるよう進行していって、読んでる私からしても、ふたりを応援したくなるのは至極当然でした。いや、本当に、誰もがふたりを応援したくなるに違いないんですから。

ちょっと余談。主人公をとりあう後輩と元彼女の口舌での争いは、いやあ、女の嫌なところが出ててよいわ。よくよく観察しながら読んでみるとですよ、実際にもある駆け引き、戦略みたいなんがあちこちに見いだされて、すごく面白かった。私は男だから、そういう策略にはめられる側なんですが、こういうのを読みつけていると、楽屋裏が見えてちょっと面白い。それ以上になんだかぞっとするよねー、なんて思います。

他にも見どころはたくさんあるんですが、例えば第一話のちょっとしたできごとが最終話に効いてくるところとか、小道具(特に鏡)の使い方がうまいとか、それで最後に鏡が再び戻ってきて、ああやっぱりうまい。

あんまりしゃべりすぎるとこれから読む人に悪いので、ここらへんにしときたいと思います。

2006年7月12日水曜日

ワンダと巨像

  この時点で『ワンダと巨像』が再度扱われるのはどういうことかといいますと、ええとですね、クリアしました。はやっ! といいましても、一周目をクリアしたというだけの話でありますよ。クリアと一言でいいましてもいろいろありまして、一通りストーリーをこなしてエンディングを見たらクリア。二周目あるいはハードモードをクリアしてこそクリア。いやいや、アイテムやらなにやら、隠し要素を全部オープンしてはじめてクリア。んー、俺、ギャラリーが埋まったらそれで充分だけどね、って意見もあるでしょう。私、昔は全要素オープンが基本だと思ってました。でも最近はずいぶんと丸くなりまして、一通りストーリーモードを終わらせたらそれでいいかなって、 — ごめん、そんなこと思ってません。まあアイテム集めやら二周目やらハードモードやらは、長い時間かけてのんびりやっつけていきたいと思っています。

それではさてさて、一周目クリアしてみての感想です。

まずは難易度についてなんですが、一体誰だよ、アクションとしてはぬるいみたいなこといってたの。難しいって。このゲームの基本は、巨像を探して、弱点見つけて、剣突き刺して倒すというものなんですが、弱点の目処はついたのに、そこまでたどり着けないってことが往々にあって、いやあコツがわかれば楽なんかも知れないですよ。でも、最初はがむしゃらに進むしかないじゃんか。いや、厳しかった。本当、何時間も戦い続けたりして、すっかり精も根も尽き果てましたとさ。

嫌いなやつからいってみよう。ええと、ここからネタバレが解禁されますんで、お読みの方は気をつけてくださいましよ。

あの水上に点在する神殿みたいな屋根に上って倒すごついやつ、あれ嫌いでしたね。戦闘時間二時間くらいかな? 背中に取り付くまではいいんだけど、屋根に飛び移るのが一苦労で、神様がヒントくれるんだけど、わかってる、わかってるけどできないんだってさ。でもって屋根に上ってさ、やつの腹に喰らいつくのでまた一苦労。ああもう、じっとしてろ!

でも、後々わかったことなんだけど、こいつ、頭のどこに立つかでもって行き先を操れますね。くそう。このことさえわかってればあんなに時間かからなかったのに!

でもって、それ以上に嫌なやつ。そいつは十六体目だ! こいつクリアするのに三日掛けたよ! 背中にたどり着くまではなんとでもなったんだ。問題は次。左手から右手に伝って、でそこでなにをしたらいいんだ? 振り回されている最中、果敢に胸部にダイビングを繰り返して初日終了。二日目は、右手の甲に剣をさすところまで。そして三日目にしてようやく左肩に気付いて、そうか、そういうことか。てっきり、右手の甲、右手を押さえる左手、右腕と移動していくものだと思っていたよ……。

行き方さえわかれば後はなんとでもなるよ。うん、なんとでもなった。でも、もうこいつの顔、見たくない……。

好きなやついってみよう。

あの空を飛ぶ羽虫状のやつ、あいつ楽しいねえ。アグロに乗って、矢を射かけて、降下してきたら砂塵舞う中肉薄して取り付いて、ああかっこいいっ! 私、こいつが一番好きです。次点、次点は誰だろう。ううん、ちょっと思いつかないね。

このゲームをやってみて思ったことといえば、意外に人型の巨像が少ないってことでしょうか。正直、もっと人間型が多いものとばかり思っていたから、これは本当に意外でした。それと、思いついたことはなんでもやってみるという精神が大切だなあと。というのもですね、私が無闇に時間をかけてしまう原因というのは、今いる地点から目的地までの経路を考えて、よしいけると確信してはじめて動き出すからで、だからやみくもに矢を射かけてみるだとか、とりあえず怪しげなところを見つけたらいってみる、誘い出してみる、そうした、よくわかんなくてもできることはやってみるというタイプでなかったからなんですね。よくよく考えたら、これって実生活でも同じだよ。無理そうだったら最初から試さないという自分の悪い癖があからさまに出てしまって、とまあ、こんな風に人間はゲームからでも学ぶところがあります。

後は、アグロのこととか、エンディングのこととか、いろいろ思うところはあるけれど、あんまり書きすぎてもなんだし、ここはこのへんで収めておきましょう。というわけで、『ワンダと巨像』、いいゲームでした。まだもう少し楽しめそうです。

CD

書籍

2006年7月11日火曜日

笑顔に会いたい

   mixiがミュージックなる機能を提供しはじめて早十日あまりが経過しまして、これ、一体どういうものかと申しますと、私がiTunesで聴いている曲のリストをアップロードすることができる。他のメンバーに自分はこんな音楽を聴いてるんですぜ、とアピールできる。そういう機能なのであります。

さて、現在の再生楽曲数を見ますと443曲。一日あたり四十曲ほど聴いている計算になりますね。でもってその内訳、アーティスト別の第一位はGlenn Gould。ぶっちぎりの50をカウントしています。これ、私が選んで聴いてるんじゃなくて、パーティーシャッフルの結果なのです。で、二位はNHK。これはPodcastでニュース聴いてるから。三位はVarious Artistsだからカウントせず、四位、カラヤンの振るベルリンフィル、そして五位にママレード・ボーイがくるのであります。

この順位というのは、単純にライブラリ内に占めるその割合でしょう。つまり、私のiTunesライブラリはGlenn Gouldでいっぱいだということです。しかし、カラヤンがそんなに多いとは意外(とはいえカウントは7)。で、ママレード・ボーイなんですが、これは実際多いんですよ。サントラが八枚出たんですが、私全部買ってるはず。さらに全曲集とかいうのも買ってたんじゃないかなあ。試しに主題歌である『笑顔に会いたい』をキーワードにして検索してみると、インストゥルメンタル、バージョン違い含めて13曲出ました。そういえばやけに『笑顔に会いたい』を耳にする機会が多いなと思ってはいましたが、13曲もあるんじゃ当たり前ですよね。そしてこれは『プラチナ』にもいえることであろうかと思います。

しかし、『笑顔に会いたい』にしても『プラチナ』にしてもですよ、聴いて飽きるということがまったくないからすごい。曲のはじまった瞬間に、あっ、これはっ、と心がそちらに向いて、歌から間奏から、とにかく一曲終わるまで全力で聴きますからね。これはもう本当にすごい求心力であるといわざるを得ないですよ。

『笑顔に会いたい』のパーカッシブな一撃によってスタートするポップな前奏。濱田理恵のちょっと舌足らずな歌い方もコケティッシュな魅力に溢れて、とにかくもうなにもかもがうまいんです。歌がうまい、アレンジもうまい。間奏の盛り上がっていくストリングスの響き。うわあ、これはよいわあ。TVバージョンしか知らないという人がいたら、とにかくフルバージョンも耳にして欲しい。すごく魅力的で、すごくエモーションに溢れた、力強い曲であるということがわかるのではないかと思います。

さて、先ほどいっていました『ママレード・ボーイ全曲集』。私、これ、持っているつもりだったのですが、CD棚を見てみると見つかりません。どうやら持っていなかったようです。

『ママレード・ボーイ全曲集』は、アニメ『ママレード・ボーイ』で使われた歌の全集なのですが、実は『ママレード・ボーイ』って屈指の名曲ぞろい。たまには疑問作もありますが、おおむね良作、そして名曲も数多いと来て、本当に全曲集は買いかと思います。

てなわけで、iTunesライブラリのママレード・ボーイ力を高める意味でも、全曲集、買うかな買わないかな? ちょっと揺れたりしたりなんかするのが、私の馬鹿なところですね。だって、サントラがあったら、全曲そろってるわけですから(多分)。まあ業だと思って、笑ってつかあさい。

2006年7月10日月曜日

クルクルランド

 ワンダと巨像』、順調に進行しております。馬を駆り、フィールドを駆け抜け、目的に迫り、敵を討つ。まあ、なんつうのか、このゲームにおいて巨像は別に悪いやつでもなんでもないので、それを探し回って狩ってる主人公って実はひどいやつなんじゃないのかという気もしたりしないでもないのですが、そんな気持ちはさておいて、巨像退治にいそしんでいるというわけです。

さて、『ワンダと巨像』についてのレビューやらを読んできて、そこにちょくちょく出てくるのが、馬、 — アグロっていう、大きくてさ頼りになる素敵なやつなんですが、こいつの操作が難しい、思うようにいかないって感想なんです。で、件のHotwiredのレビューにも同様のコメントがあって、思うように御せないのは本当の馬も同じだみたいに書かれてるもんですから、どんなに困難なんだろうと思ってはらはらしたりわくわくしながら乗ってみたら、普通でした。いや、むしろアグロが自らインテリジェントに障害物をよけてくれたりするので、私は感動してしまった。馬ってなんて素敵な生き物なんだろう! そんなわけで、私はすっかり馬萌え(はっきりいって、いま私の中では、少女<馬、です)なのであります。

アグロの操作が難しいといってる人に、ぜひお進めしたいゲームがあります。それは『クルクルランド』。ファミリーコンピュータ時代の名作ソフトで、私の購入した五本目のゲームソフトであります。

これ、友人がもっていたのをやらせてもらったのですが、いやあ、最初はなんじゃこりゃあと思うんですよね。思うように動かせるとかどうとかいうレベルではないのです。まっすぐ進むのは簡単です。でも、狙ったように曲がれない。というのもですね、このゲームのコントローラ操作というのが実に斬新だったからなんです。

このゲーム、等間隔格子状に打たれた杭の間を縫ってキャラクターが動き回るのですが、曲がりたいときには行きたい方向を押しても駄目なんです。ええと、うまく説明できないなあ。十字キーの左を押しますとね、左手が出るんです。右を押すと右手が出る。それだけ。それだけの操作で、杭をつかんで、その杭を軸にくるくる回って行き先を制御するんです。

われながら説明が下手だな。

杭と杭の間に金塊が隠されていて、その金塊でもって図形が描かれているのを完成させたら面クリア。各面にはブラックホールがあって、そこに落ちると死亡。ブラックホールから出てくるウニラという敵に触れても死亡。電撃でしびれさせて壁に押し付けて倒すのですが、金塊を出すのも敵を倒すのも、精妙な移動操作ができてのことです。しかし、その移動が難しい。いやあ、本当に衝撃といっても過言でない難しさでした。

でも、人間って慣れるんですよね。このゲームは面をクリアするほどに自キャラの移動速度があがるんですが、それでもばっちり制御できてしまうんです。杭の間を縫って進むっていってましたけど、文字通りジグザグに動けます。スタート直後に自機がめくった金塊でもって図形を把握、その後最短距離でクリアするというのが可能になるのです。

動かすだけでも困難で、でもそれが楽しいゲームといえば、『クルクルランド』と『バイナリーランド』が双璧なのではないかと思います。両者ともにシンプルで、しかし奥が深く、脳が活性化されるような快感を得ることができる。なかなかに素敵な体験をできるゲームであると思います。

2006年7月9日日曜日

うつうつひでお日記

 失踪日記』でもって再び三度ブレイクした吾妻ひでおの日記もの。といっても、この本、『失踪日記』とはずいぶんと雰囲気を違えていまして、淡々とした吾妻ひでおドキュメントといったような趣のある一冊になっています。もともとはコミックマーケット等で販売されていた少部数誌、いわゆる同人誌であったのだそうですね。私はその存在は知っていたのですが、ついぞ手にする機会がなく、けれど可能ならば読みたいものだなあと思っていたから、この度の出版は実にありがたいことでありました。

ところで、この記事を書くに当たって書誌をまとめてて気付いたのですが、この本、角川書店から出てるんですね。オレンジ色の、ちょっと荒い感じの手触りの表紙だものだから、『失踪日記』と同じくイースト・プレスから出てるのかと思いました。いや、そうじゃないな、ちょっと違和感は感じてたんです。大書された吾妻ひでおの文字の感じとかに、なんか亜流感を得てて、だからこれはきっと二流三流の出版かも知れないと思っていたらそれが天下の角川書店。ちょっと驚きました。まあ、出版なんぞ虚業であるのだから、これでいいんです。

買って、なんか寝っ転がりながらだらだら読むのが良い感じの本かも知れません。どこから読んでもいい。どこでやめてもいい。淡々と日常に思うところをただつづりましたというこの本は、あんまり、さあ読むぞと意気込んで取り組むようなものではないでしょう。そんなハイテンションは似合わない。ローテンションでもって、だらーっと読む。そんな読みかたしたものだから、二度も三度も読んだページがある反面、多分一度も目にしてないページもありそうで、まあいいや、いつか全ページ目を通す日もくるでしょう。こないかも知れませんけど。

途中にインタビューが数回に渡って挿入されてまして、私、これ、蛇足だなあなんて思いながら、文字ばっかりだから妙にしんどくて、飛ばそうかなあなんて思いながら読んで、けどこれを読んだほうがこの本に描かれたことの背景やらなにやらもわかるわけで、だからやっぱり読んだほうがいいのかも知れません。

インタビューにも触れられているのですが、吾妻ひでおの読書量はすごいなと思ったのでした。本人も漫画の中で触れてるんですが、日記というより読書記録みたいになっていて、著者と書名、丸バツ三角、それでときに感想がちょっとついて、この感想というのが貴重ですね。いや、別に吾妻ひでおが有名人だから貴重なんじゃない。ひとりの人間がどのように本を読んで、それでどう思ったか。レビューやなんかじゃなく、本当に思ったことが淡々と記録されて、こうした私的な記録というのはなかなか目にすることはない。インターネットとかでも自分の読んだ本について記録している人がいますけど、ああいうので、あらすじや肩肘はったレビューとかじゃなくて、端的に自分の中に生じたものを記録しているものは面白いです。吾妻ひでおはこの本でそれをやってるのかもなあ。いずれにせよ、なんでもないものをじっと観察して飽きないタイプの人には、すこぶる面白い漫画であろうかと思います。

日記には読んだ本のことが出て、見たテレビのことが出て、お笑いやら格闘やらを好んでみてらっしゃるみたいですね。で、そうした感想に、自分も読んだことのある、知っているものが出ると妙に嬉しかったりしまして、例えば吉田美紀子の『女子校育ち』とか出てて(模写あり、かわいい)、けど残念なことに、私の読書範囲と吾妻ひでおの読書範囲はあんまり被ってないんですね。知らない本がいっぱいあって、タイトル知ってるけど読んだことのないのもいっぱい出てて、なかにはやっぱりちょっと読みたくなったものもあって、こうしたちょっとしたことがささやかに働き掛ける影響というのは意外に大きいなあと実感したのでした。

感想と生活雑感と美少女イラストが入れ替わり立ち替わりの漫画だけど、たまに出てくるシーンがドッキリさせてくれて、図書館で『漫画の描き方』を借りてしまうというエピソード、笑ってしまったんですけど、よくよく思えば切実な話で、こうしたさらりとした描写に深い闇を思わせるところがまれに出てきて、人間というものの悲しさとかおかしさとか、そういうものが垣間見える。馬鹿にできない本だ、そんな風に思います。

さて、美少女イラスト。吾妻ひでおの絵は着衣の方が断然かわいいと思います。で、スカートの下にジャージは駄目ですか!?

2006年7月8日土曜日

ワンダと巨像

  そんなわけで買いました。『ワンダと巨像』。先達ていっていました『ICO』の続編、いや関連作? であります。ゲームにしてただのゲームの枠組みに収まらなかった『ICO』を作り出したチームによる最新作であり、発売を目前とした昨年末にはかなりの期待を持って受け止められた話題作でした。私はHotwired Japanの読者なのですが、特にここでの扱いは破格で、『クリスマスにお勧めのゲーム』リストにあらわれたときには、この作品はほぼ間違いなく、今年最高のビデオゲームだろうとのコメント付き。だいたいレビュータイトルからして『今年最高の作品? PS2用ゲーム『ワンダと巨像』レビュー』ときますものね。そういえば、ゲームに使われている技術という点で『ワンダと巨像』を紹介した記事も読んだことがあります。これはHotwiredではなかったと思いますが、光の処理の巧みさ、巨像たちの処理、特に巨像表面に生えた毛の処理の話が面白かったのだけど、あれは一体どこで読んだものだったかしら。

とまあ、このように『ワンダと巨像』は日本という枠を越えて、あらゆる側面から話題であった、まさしく注目作だったのであります。

けど、私は買わなかったんですね。でも、なんとなくわかるでしょう? そもそも私がなんでこう無闇に『ワンダと巨像』に関して詳しいか、ということですよ。つまり、欲しかったんです。ぎりっぎりまで迷ったんです。で、どうしようかどうしようか、時間はないし金もない、貧乏暇なしって嘘だよな、って思いながら泣く泣く見送った。けどいつかベストが出るだろう。『ICO』もベストで買ったんだ。『ワンダ』についてもそうしようと、そんな風に決めたのです。つまり、ベストが出ないようならやらない、ということです。

でもって、順当にベストが出て、私、これ、買いました。で、ちょっとプレイして、ええと、とりあえず数体倒してみました。この記事は、そのレベルでの感想です。いわゆるファーストインプレッションの類いと思っていただけるとよろしいかと思います。

『ICO』で受けた強烈な印象に比べたら、こちらはまだ普通のゲームっぽい位置にあるなあ、そんな印象をうけました。剣の光に導かれるままに馬を駆り、巨像を目指し、なんとかよじ登る方法を見つけて、急所見つけて、始末する。これを巨像の数分繰り返すのですが、この巨像以外に敵が出ないというのが贅沢でいいですね。このゲームの見せ所は、まさしく巨像との戦闘であるという割り切りがばっちり見えて、こういうやり方はありだと思いました。雑魚との戦闘で時間を稼いで、ボリュームを少しでもたくさんに感じさせようというような小細工がない。よほど自信がなければこういう作りにはならないと思います。

今のところ、巨像のいる場所にたどり着くのに迷ったりといったようなことはなくて、この辺も素直な作りですね。いくらでも経路を難解にして、巨像へ到達しにくくして、というやり方もできたかと思いますが、とにかく巨像を見つけやすくして、その巨像との戦いを満喫して欲しい、そういう意図が見えてきます。

ただ、今回はちょっとヒント、多すぎるよね。後、しゃべりすぎだと思う。もっとほったらかしにされるものだと思っていました。スタート地点を出たら、後は巨像探して彷徨して、見つけ次第狩って、というようなものだと思っていたら、順番は決まってるし、なんだか神様が親切に教えてくれるし(いや、神様どころかとんでもない悪いやつのような気もするんだけど)、教えてくれるのはチュートリアルである第一体目だけかと思ってたら、そうじゃないんですもんね。ちょっとがっかりだわー。まあ、ヒントがないときついというところもあるにはあるんですが、それでも結構今のところは自力で仕掛けに気付いているもんですから、そこをごちゃごちゃいわれると、やかましいねんって思う。チュートリアルがあっただけでもがっかりなのに、そんなに親切設計というのもいやだわー、って感じです。

私の中では『ICO』は一本道ゲーム、『ワンダと巨像』はお使いゲームというカテゴリに含まれています。『ICO』の方がほったらかし感が強かったから、一本道であることを意識しながらもさほど嫌だとかなんだとかはなかったんですが、『ワンダと巨像』はやらされてる感が多少あるかも知れません。でも、多分、このやらされているという感じは、それで正解なんだと思います。あの、願いをきいてくれる神様が親切なのは、どう考えてもワンダのためじゃないよね。絶対、自分のエゴのためにワンダを利用してる。ワンダにいろいろ教えるのも、ワンダが負ければ自分にとって不利益があるからに違いないだろうし、そういう親切に見せた裏側の私利私欲という感じが出ているのはいい感じやもなあと思っています。ワンダがいいように使われてるのも、神様と利害が一致しているからであって、このやらされている感もゲームの演出の一部なんかも知れん、後でひっくり返されるんじゃないか、うんぬん、いろいろ思うわけで、やっぱりただキャラクターを操作して、でかいの倒して、というだけのゲームにはとどまっていないのだなと思います。

以上、私のファーストインプレッションでした。この後、クリアすることでどんな風に印象が変わるか。そのへんも楽しみであったりします。

ところで、私はこのゲームに関しては攻略本を見るつもりはないのですが、そうしたらどうやらいろいろあるらしいアイテム、そういったの見つけることなく終わっちまうんじゃないかなあ、そんな予感がひしひしとしています。だって、アグロ(馬)に乗って走り回ってるときって、そこらに落ちてるものなんてまったく気にしないんですから。

まあ、全部攻略してから、アイテムうんぬんは考えたいと思います。クリア後の楽しみが残ってるのだと思えば、それもまたよし、です。

CD

書籍

引用

2006年7月7日金曜日

ボクの社長サマ

 購読している四コマ誌『まんがタイムジャンボ』にあろひろしの漫画が掲載されて、私はびっくりしてしまいました。あろひろしってったら、私が高校に通ってたころに(マニア筋に)人気だった漫画家で、いやあ読みましたよ。当時私は貧乏でね、クラブのいっこ上の先輩が漫画をたくさん持ってる人だったので、たくさん貸してもらったものでして、その中に『優&魅衣』があったのでした。

『優&魅衣』はどういう漫画かといいますと、頼りない眼鏡主人公が美少女幽霊や美少女大家の娘に取り巻かれてうはうはという、エロまじりのラブコメでありました(今でいえば『ラブひな』あたり?)。でも、面白かったですよ。なんかはちゃめちゃで、主人公は眼鏡がなくなると獣化するし、大家の娘は鎧(西洋のフルプレート)着込んでるし(いつもじゃないけど)、とにかくめちゃくちゃな設定を振り回して、けどそれが時代だったんですね。面白かったですよ。いきつけの医院になぜか『優&魅衣』が全巻揃ってるんですが、いけば必ず読んじゃいますもんね。

そのあろひろしが送る四コマ漫画が『ボクの社長サマ』。小学生の女の子が社長になりました。主人公の小森青年は社長秘書としてもう大変、といった漫画なのですが、正直、はじまった当初、私は悲しかった。1巻を読んでみればわかると思います。掲載当時はまだ妹ブームが継続中だったのですが、そうしたはやりのネタがそこかしこに採用されていて、それがどう見ても無理しているという感じなのです。今の萌えブームに対し迎合している、そんな感じが充ち満ちていて、かつてのあろひろしの勢いを知っている身としては、悲しくてしかたがなかったのです。

あと、全体にセンスが古いなという感じがしまして、それは絵からも感じるし、キャラクターやギャグにも感じるし、今風の四コマが並ぶ中に浮いているのではないかという気がして、そうしたところも悲しかったのだと思います。これは、もしかしたら、私があろひろしという漫画家を知っているゆえのことなのかも知れません。けど、多分、それは違うと思う。この漫画から感じられる違和感は、特に若い読者には受け入れがたいのではないだろうか、そんな風にも思ったりするのです。

最初の印象というのは後を引くものです。毎月の連載を欠かさず読んでいる私でありますが、果たしてこれを単行本で買ったものかどうか。迷いました。どれを買ってどれを落としたものか、今月は本当に迷って、悩んだすえに『ボクの社長サマ』、購入しました。そしてBlogの記事にせんがために読んでみて、私は自分の不明に気付いたのです。

私はこの漫画を読むときに、漫画自体に向き合うのではなく、過去のあろひろしという印象ばかりに向かっていたのですね。読んでるようで読んでなかったのです。

単行本になって、はじめて私はこの漫画を真っ正面から読んだのかも知れません。面白いのですよ。確かにちょっと昔風かもは知れないけれど、悪くないと思ったのです。繰り返されるギャグも、端々に見られるさまざまな試みも、なかなかに面白かったりするじゃないですか。四コマという不慣れなカテゴリーにおいて、新しいらしさを打ち出そうとするチャレンジに、連載を追っていたころの私は気付いていなかったのでした。

最後にちょっと余談。あろひろしは『シェリフ』という漫画も描いているのですが、結構シリアスだったこの漫画が私は好きだったのですよ。残念ながら人気がなく、早々に終了したらしいのですが、面白かったと思うのですよね。

『シェリフ』が支持されなかったのは、ギャグコメディであった『優&魅衣』との違いが大きすぎたためだったんじゃないかと思ったことを思い出しました。そうですね。この見違いを、今度は私が自らやってしまうところでした。人間、ものを見ようとする目の中に余計な偏見を入れていると、本当に見誤るものだと反省しきりです。

  • あろひろし『ボクの社長サマ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社.2006年。
  • 以下続刊

2006年7月6日木曜日

MYST

 懐かしいタイトルを持って参りました。昨日、『ICO』において、『MYST』を思わせるといっていましたが、その『MYST』というのはなにかというと、昔Macintosh用にリリースされたアドベンチャーゲームでありました。CGにて描画された美しいMYST島の風景。マウス操作で持ってこの島を歩き回り、また違った世界へと旅立っては戻ってくるの繰り返しで謎の核心に迫るという、まさしくアドベンチャーゲームっぽいアドベンチャーゲームでありました。

流行ったんですよね。『MYST』発売の頃というのは、マルチメディアがブームでありまして、美しいCGに美しい音楽、そして申し訳程度のムービーがついて、それがインタラクティブに操作できる! すごい! コンピュータはここまできたのか! と誰もが興奮した、のですが、時代の進歩というのはすごいですよね。今では誰も『MYST』を見て驚いたりはしないと思います。

しかし、その『MYST』ですが、ただきれいで動くというだけのゲームではありませんで、このゲームの核というのは、主人公が落ち込むこととなったMYSTの書をめぐる謎なのです。ネタバレだけど、古いゲームだからいいよね。失われたページ、幽閉された謎の人物、そして異なる世界……。オープニングからわくわくするのですよ。落下していく男のシルエット。ナレーションは実に渋くて、そしてその落ち行く先はMYST島。自然の中に点々と建造物が配置され、港、プラネタリウム、図書館、塔。そうした仕掛けのそれぞれがすごく神秘的でわくわくした。そうですね。昨日『ICO』においてもいっていました、その舞台が非常に魅力的で神秘を湛えているために、ただその世界に関わっているのだということだけでわくわくできる。ええ、まさしく『MYST』もそうしたわくわく系のゲームであったのです。

とはいっても、『MYST』は洋ゲーであります。謎ははっきりいって難解で、なにが難解といっても、まあノーヒントなんです。しかも、なんでその謎を解かなければならないのかわからない。まったく因果関係もなく配置されたパズルを解かされて、あまりの理不尽さに投げ出した人も少なくなかったといいます。けど、まあ攻略本を見ればいいよね。それに、私の持っていたMacintosh版には、親切にも『禁断のヒントブック』とうのが同梱されていて、しかもこれ封印されているんです。

『ヒントブック』ですが、一体これのどこが禁断なのかといいますと、中に書かれてるの、ヒントじゃないんですよ。ええと、『アンサーブック』っていうべきだと思います。まんま答えが書いてあって、だから一旦封印があばかれると、神秘の島であったはずのMYST島はただ美しいだけのつまらないウォークスルーに化ける……。いや、実はこれ受け売りです。というのもですね、私、未だに封印をといていないのです。つまりノーヒントでクリアしたのですよ。私がこれを買った当時はまだネットには繋いでおらず、ああ、この場合のネットっていうのはインターネットじゃなくてパソコン通信ね、今の人にはきっとわかんないよ、インターネットなんて一般のユーザーが簡単に接続できるようなものじゃなかったんです。だから我々はテキストベースのパソコン通信にて情報をやり取りして、けど私が『MYST』を買ったときは、そのパソコン通信さえまだ一般的とはいえなかった。時代は変わったのだと実感させます。

そもそも、『MYST』の対応するプラットフォームってのがふるってますよね。セガサターンてのはまだしも3DOですよ。すごいよね。本当にマルチメディア黎明期だったのです。Windowsでいえば3.1、Macintoshは漢字Talk7でした。画面は256色、640*480が主流で、それに2倍速CD-ROMドライブがついていれば上等の部類でした。ハードディスクなんて大容量160MB、メモリも8MB程度でしたからね。と、このような決して潤沢とはいえないリソースしか持たなかった計算機上にMYST島は構築されて、しかしその魅惑はどれほどのものだったか。それはきっと、当時の数十倍のディスク容量、百倍のメモリ容量を持った今の計算機上に生まれるもの以上だったと思う。時代が、時代がそれを待ち望んでいたんだ。夢があったんです。その夢をともに、私たちはMYST島をさまよって、今まで見たこともない世界に感動をしたのです。

いいゲームでした。たまにはやりたいかも知れない。出てくるといえばおっさんばっかりという、色気もへったくれもないゲームですが、いや、色気はゲーム自体にあったんですよね。本当にいいゲームでした。

2006年7月5日水曜日

ICO(イコ)

  私が『ICO』をやろうと思ったのは夢がきっかけでしたっけね。事故に遭って病院にいった女の子が、帰りの足がないものだから途方に暮れていて、それを私が送っていったというような夢なのですが、静かにただ黙々と手を引いて歩いて……、というような夢だったものだから、妙に印象に残ってしまったのでした。でもって『ICO』。『ICO』は主人公の角の生えた少年イコが女の子の手を引いて、謎の城から脱出しようというゲームです。宮部みゆきがノベライズしたことでも話題になりましたね。けど、私には『ICO』はゲームだけで完結してたから本には手を出しませんでした。きっと私の中にある印象と宮部みゆきのそれとは違っているはずだから、その差異が食い違う違和感を見たくなかったのかも知れません。

『ICO』のよさというのは、徹底的に情報が排除されたところであるのではないかと思っています。主人公イコが何者であるかも語られず、目的はただ城からの脱出のみ。条件は謎の女の子とともに逃げるということだけ。基本的にはアドベンチャーゲーム。各所に存在するギミックを作動させ、扉を開き次の場面へと進むのですが、説明らしい説明がないから、その状況を見て自分で考えなければならない。このあたりは一昔前のアドベンチャーゲームを彷彿とさせますが、謎掛け、ギミックの類いは比較的素直にできているから、たまにつまることがあってもほどなく進めるようになるのではないかと思います。どうしても駄目なら、その時は攻略本を買うということで。

与えられたのは主人公とヒロイン、そして舞台となる巨大な城です。3Dで表現された城をウォークスルーするみたいにして歩き回ることができる。その空間の表現力が豊かなものだから、ゲーム関係なしに歩いて、景色を見ているだけでも楽しい。そうですね。昔『MYST』というゲームがありましたが、雰囲気は似てるかも知れない。アクションでもってクリアしていく『MYST』。両者に共通するのは、世界観を極力説明せず、プレイヤーに感じさせようというところなのだと思います。世界はただただ美しく繊細に表現されていて、その世界の中にもうひとつの私がいるのだと思うだけでわくわくする。『ICO』もそういうゲームなのですね。

けど、あの緻密に描かれた世界だけでは『ICO』は語れないですよね。そう、少女の存在がすごく重要なんですね。『ICO』のゲームオーバー条件はふたつ。一つ目はイコの転落死。二つ目は少女が影に奪還されてしまうこと。後者が秀逸です。少女は基本的に無力で、だからイコが少女をサポートし、群がる(というほどでもないけど)影を倒し、手を差し伸べ、外の世界へと向かうのですが、この手を差し伸べるという感覚がとにかく鮮烈で、すごい。手を繋いでいるといっても、しょせんはゲームのキャラクターが、というだけの話なのです。なのにさ、その手を繋ぐということの重みがコントローラー越しに伝わってくるのですよ。すごい。これはすごい。

人間は存在しないものにさえ心を移してしまいます。結局は映像に過ぎない少女をいつしかいとおしく思うまでになって、手を引いて、その手がずっと離れなければいいだなんて思って……。すごいゲームだと思います。

ところで、昨年末に出て、日本のみならずアメリカでも話題になったゲーム『ワンダと巨像』、これは『ICO』のチームが制作したのですが、これのBestが出たのですね。

買おうと思います。

ゲーム

CD

2006年7月4日火曜日

DEATH NOTE

  ついに『DEATH NOTE』が完結です。正直、まだまだ続くと思っていたものですから、すっぱりと12巻で完結させたというのが意外でありまして、だって、実写映画になって、十月からはテレビアニメにもなってと、まさしくこれからが売り時だというのにさ。けどこれでよかったのだと思います。物語的にももうこれ以上引っ張ることはできないというところで、きっちりと終わることができた。多分、これで予定通りなのでしょう。

一応これで終わりとはいえ、第13巻が十月に発売だそうです。13巻が13日の金曜日に出るという、これまた妙な凝りようでして、これまでこんだけつきあってきたんだから買うんじゃないかなとは思いますが、正直これは蛇足のようにも感じます。

さて、ここからは最終巻のネタバレオンパレードなので、まだ読んでない人はくるりと来た道を戻っていただきたい。

以前私のいっていた気になる二人。妙なラブラブっぷりが目立って仕方のなかった日本警察の伊出氏と相沢氏ですが、無事です! よかったー。最終回、最後の最後あたりで櫛の歯が抜けるように日本警察の面子が死亡退職していくんじゃないかと思っていたものですから、あれ以上の犠牲を出すことなく完結したのはよかったと思うのですよ。ほら、相沢氏がいっていたでしょう。自分が死んだ場合は後を頼むみたいなこと。だから相沢氏が殺されたことを引き金として、殺意の波動復讐心に突き動かされた伊出氏が月に肉薄、返り討ち、オーマイ! みたいな展開があるかななんて思ってたんです。で、残りの関係者も全滅、しかしほんのささいなミスをきっかけにして月の計略が瓦解、結果残ったのは弥と死神だけ、リューク、バイバイ、あばよ、楽しかったぜ、バサバサバサ……、みたいな陰惨なラストを思い描いていたから、この終わりかたはよかったのでしょう。

ラストシーンにおける主人公キラの扱いに関しては、やっぱり少年ジャンプだ。ちゃんとメッセージも打ち出して、非常に収まりのいいポジションに着けたなと思っています。当初私は『DEATH NOTE』には友情努力勝利がない、みたいにいっていましたが、それも間違いでした。ちゃんとありましたね。真っ正面から描かれてはこなかったけれど、友情(ちょっと屈折してたけど)も努力もそして勝利もあって、切磋琢磨しあいながらの成長ストーリーは健在だったのだと思い知らされました。

この大量に人の死ぬ漫画。陰惨でしんどい漫画でしたが、それでも随所に細やかな配慮がなされていたところは結構好きでした。犯罪者を中心とした殺される人たち。その人たちの名前を追ってみれば、ちょっと明らかに現実にはなさそうな名字、名前、漢字なのですよね。これ、第1巻から徹底していまして、きっと殺される犯罪者と同じ名前の読者がいたらとか、あるいはそれをいじめの種にでもされたらなど、そうした気配りがされてたんじゃないかと思うのですよね。実際のところはわかりません。あり得ない名前を使うことで、作中であっても架空であっても人をばんばん殺すことのしんどさを和らげようとしたのかも知れません。けど、私はこれはきっと配慮だったのであろうと思っています。

この漫画を通して私が気にくわなかったことも書いておきましょう。それは女性キャラクターの扱いでした。弥は例外的優遇を受けていますが、他はおしなべて愚鈍に描かれています。このこと、以前どこかでいったり書いたりしたかなあ。これ、原作者が女性(ですよね?)だから突っ込まれにくいだけで、もし男性だったとしたら女性蔑視といわれてもしかたないんじゃないかと思うくらいでした。特に月に関わる女の描写はあんまりだったと、あまりにちょろすぎて、おいおい、ええのんか、怒るでしかし、って思っていたことを付言しておきます。

さて、最後に。弥が死ぬんじゃないかと心配していらっしゃった姐さん。よかったっすね。健在ですよ。あ、そうじゃ。もう一言。松田さんがかっこよかったなあ。見直した!

  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第1巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第2巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第3巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第4巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第5巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第6巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第7巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第8巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第9巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第10巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第11巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第12巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。

引用

2006年7月3日月曜日

鉄子の旅

   本日、『鉄子の旅』の続きを購入。ようやく連載分までたどり着きました。実は続刊を買うときにはちょっと心配があって、それはAmazonのレビューにあった、巻が進むごとに単調になってくるうんぬん。だって作者自らもう飽きたっていってるじゃん。うん、確かにそうおっしゃってますね。でも、それでも読者を飽きさせない努力がよりいっそうなされているのが伝わってきて、私は読んでだれるということがありませんでした。むしろ最初の少々薄味だったころよりも、巻が進んでからの方が面白いと感じています。

面白みを増した理由は、多分、漫画家である菊池さんが鉄道についての知識をだんだん身に付けられているというのが一点。そして横見氏への遠慮がどんどんなくなっているというところもあるのかも知れません。しかし一番は、読者がこの漫画にどういうものを期待しているかが見えてきているという、そこなんじゃないのかなあなんて感じています。

一度やってみればわかることなんです。なんでもいいからひとつのことを紹介し続けるってことがどれほど大変であるか。一度使った表現は二度と使うことができない。しかしだからといって、以前よりもよりよいものを作り上げたい。腐心して腐心して、ようやくできたと思っても、最初の頃にはあった感動はだんだん薄れてくる。当たり前になってくるっていってもいいかも知れません。そうなるともう書けない。私は実感実感っていつも繰り言みたいにいっていますが、こないだと一緒、昨日と一緒、そんな薄い実感しかない時は、どうあがいたっていいものなんてできません。だから見方を変える、アプローチも変える、ときには挑戦的なこともやってみる。けど、人間引き出しがそんなにたくさんあるわけじゃないんで、じきに在庫はつきてくるんですよ。そうなるともう書けない。ああ、もうどうしようかなあって思う。

好きでやってることでもこんななんですから、当初鉄道に興味のない状態で、どこに違いのあるかわからないようなローカル線を回らされて描かなければならないというのは、本当に大変なことであったろうと思います。前回と同じじゃいけない。かといって大きく逸脱するわけにはいかない。既定路線内で、けど前回とは違う表現を、内容を、とにかく作らなければならない。

『鉄子の旅』を1巻から綿々と続けて読んでみればわかるんですが、そうした見せかたの工夫というのが実によく練られているんですね。結論を先に持ってきて、最後に謎解きをやって見せるようなのもあれば、鉄道をほとんど見せないような回もあって、その工夫ぶりは目を見張るほど。いや、あったことをありのままに描いてるのかも知れないんだけれども、でも私の経験上、あったものをあったままに描いただけではこんなには面白くならない。見せかたの工夫です。状況がどんなであっても、よいもの、悪いものひっくるめて、楽しく読ませようという練り上げあって成立している。読者の懐めがけてすぽっと投げ込まれるような気持ちよさが感じられるときなどは、本当によい漫画になっていると嬉しくなる。だから『鉄子の旅』は、まさしく苦心の作であるのだなあと感心するのです。

さて、一番最初に『鉄子の旅』の続きを購入といっていました。実は最近は一度に既刊を全部買いそろえるというのをしなくなりました。一冊とか二冊ずつ買って、少しずつ読むようにしているのです。それは、まとめて読めるだけの時間がとれないという現実的な理由もあるのですが、少し間をあけてやると面白い漫画がさらに面白くなる! 一度に全部買いそろえて、一気に読んでしまって、そりゃ達成感やらはその方が大きいのかも知れないけど、けどそれはあんまりにももったいない! 一巻だけ買って、面白くて、続き読みたくて、けど今手もとに二巻はないから一巻を何度も何度も読んで、で、二巻を購入。読んで読んで読んで、毎晩寝る前に読んで、本当なら土日に書店にいくつもりだったのが、雨がひどかったからいけなくて、しかたがないからその分また一二巻を読んで、雑誌連載分は去年の12月号から手もとにあるけど、順番に読みたいから我慢して読まずにいて、で、今日ようやく三巻以降を買った! 残り全部買った! したらめちゃくちゃ面白い!

実は、私はIKKIコミックスを買う書店を決めているんですよ。別に通勤途中に買ってもいいし、梅田に降りるのはしょっちゅうだからそこで買ったらすぐ揃うんですが、これというものはこれという書店で買いたい。漱石全集ならジュンク堂なんだ。NHKテキストなら市川なんだ。そんなわけでIKKIコミックスは恵文社なんです!

本なんてどこで買っても一緒じゃん! ええーっ、それが違うんだよ。わかんないかなあ。本はその本を手に取る瞬間の雰囲気で面白さが変わる。その時の空気の違いで、読みはじめるまでのわくわく感が違ってくるんですよ。本はページを開く前から始まってるんです!! それをどこで買っても同じだなんて、本に対して失礼じゃないかっ!!!

と、こんな風にいう私はきっと本のマニアなのでしょう(でもマニアとしては薄いほう。はっきりいって一般人レベル)。だから、鉄道に関しての思い入れをぶち上げる横見氏の情熱、その根源もわかるように思います。向かおうとする対象が違うだけで、その大本にある驚異のメカニズムは多分同じであるのではないかと思います。

なお、横見氏のおっしゃる行けばわかる。私もこれに似たことを何度もいっています。私の場合は、聴けばわかる。音楽なんざ、いくら言葉を費やしたところでなんにも伝わりゃしないんだ。だからとにかく聴け、聴けばわかる!

私と横見氏はきっと同類であると思われます。横見氏の方がずっとグレードが高いけれど……。だから私ももっと精進しないといけないなと思います。横見氏が全駅下車の偉業を達成された年齢くらいには、私もなにかひとつの里標にたどり着けてるだろうか。不安になります。だからこそ、全線全駅下車は誰にでもできることだといってのける横見氏は私にとっての希望の星であるのです。私のテーマ、私の目標地点は横見氏とは違うけれど、けど氏の姿勢は私に勇気を与えてくれます。

蛇足

書店員になってる菊池さんがどえらいかわいかったな……。いや、もちろんご本人にお会いしたわけではないのだけれども。

  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第1巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第2巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第3巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第4巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第5巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第3巻 (東京:小学館,2005年),119頁。

2006年7月2日日曜日

マクロス VF-X2

 私はもうほとんどゲームをしないようになってしまって、実際ここひと月ふた月ほど、ジャンル、プラットホームを問わずまったくゲームをしていませんでした。けど、もともとゲームが嫌いな訳ではありませんから、たまには遊びたいなんて思うのですね。それも無性に遊びたくなってしまう。けど、新作に手を出す気はなくて、だからストックされているゲームからなんかこれというものを引っ張り出してきて遊ぶということになるのです。

この選ばれる条件ですが、すぐ終わる、それでいて楽しい、というようなものになりますでしょうか。そうして今回選ばれたのは、『マクロス VF-X2』でありました。

『マクロス VF-X2』は、かの有名なアニメ『超時空要塞マクロス』に出てくる可変戦闘機に乗って戦えるという趣旨のゲームでありまして、こういうの買うんだからさぞマクロス好きなんだろうといわれれば、実はそうじゃなくってですね、テレビシリーズはただの一分たりとも見たことがないんですよ。映画『愛・おぼえていますか』は何度か見ましたよ、テレビで。あと、『Lovers, Again』だったかなあ、イシュタルが出てくるやつ。マクロスヘッドでイシュタルが歌うやつ、それを見ました、テレビで。本当にそれくらい(この『Lovers, Again』、マクロス年表を見れば、なかったことになっています! なんと、テレビドラマでしたってことにされてるの! ちなみに『愛・おぼえていますか』は終戦記念の映画という扱いです)。

と、こんな風に浅くて薄いファンだというのに、『VF-X』は買うのです。第1作も持ってます。それで悩んだすえに2も買いました。なんでか!? 単純な話。私はあの可変戦闘機が大好きなのですよ。アリイから(あれ? 学研だったかな?)出てたマックス機バトロイドタイプを持ってました(マックスが誰かも知らないというのに!)。イマイ科学から出てた、組み換え変形も持っていました(1/72スケールだったかな?)。ちなみにこちらはVF-1J(白)でした。私は、あの四本角のVF-1Sが好きではなくて、シンプルなJ型の方が好きだったのですよ。あ、そうだ、もう一体、リガードだっけ? あれ持ってたわ。あの独特の一つ目足長戦闘ポッド。味わい深かった……。

と、そんなこんなですから、可変戦闘機大活躍の『VF-X2』も欲しくなったわけですよ。登場機体も結構あって、VF-1、VF-11、VF-17、VF-19、VF-22は当然のように出てきて、さらに水に潜れる攻撃機VA-3やガウォーク形態がモンスターの爆撃機VB-6が目玉(爆撃機といっても、爆撃はしない)。と思ってたらまだ出る。スーパーバルキリーにアーマードが二種類。もう、うはうはですよ。

この時期、バンダイはいわゆるギャルゲー展開に力を入れていたのか、クリアスコアが高いとそうしたシーンも挿入されて、けどノーマルだとどんなにがんばってもBまでしかいかないんですが!? なのでしかたがないのでマニアックでチャレンジして、けどこれ、AやSが乱発されるのはいいとして、途中でどうしてもクリアできなくなりますよ……。確か、これをクリアするとナイトメアというモードが出てきたように思うんだけど。で、私、これらを全部一通りクリアしているはずなんだけど……。実際、どうやってクリアしたのかわからないくらいです。

ゲームとしての難易度はちょっと高めで、バリアブルビューというミサイル視点、ターゲット視点で見るという独特の感覚がどうにもつかみにくいという問題もあって、私は結局後ろから見るモードでしかやって来なかったのですが、これだとレーダーサイトのないこのゲームはつらい。ターゲットの距離が測れないからドッグファイトできないんですよ。だから、本来はターゲット視点やらを使いこなすべきなんでしょうが、これ、はっきりいってわかりにくいんです。私みたいな人間には、前作『VF-X』よろしく、コクピットビューがあったほうが嬉しかったりします。

とはいっても、今遊ぶとすれば断然『VF-X2』ですよ。ドラマは臭いけど(けど今の時勢からすると、結構ドッキリするような内容だったりする)、結構楽しめます。あの、途中の分岐の選択させかたなんて、よく考えたなあと思います。

こういう3Dタイプの可変戦闘機もので、コクピットビューにこだわりましたみたいなのが出てたらきっと買っちゃうなあ。てなわけで、バンダイから出てる『超時空要塞マクロス』に今さらながら興味を持ってみたりして。でも、私は別にマクロスのストーリーには興味がないんですよね。ストーリーなんて完全オリジナルでいいから、とにかくたくさんの可変戦闘機を扱いたい!

『VF-X3』が出たら買いますぜ、きっと。でも、プレステ3だけは勘弁な。

2006年7月1日土曜日

鉄子の旅

   ナツノクモ』を読みたくて買いはじめた『月刊IKKI』。最初は『ナツノクモ』だけが目的だったのに、だんだんと楽しみにしている漫画が増えてきて、ついに『ナツノクモ』以外の単行本まで手を出してしまった! というのが『RIDE BACK』を買ったときの心境であったのですが、その後も順調に興味は拡大中。で、第二段は『ぼくらの』になるんじゃないかなあと思っていたんですが、ところがどっこい、予想もしなかった進路変更があった模様。なんと『鉄子の旅』に落ち着いてしまったのでした。

『鉄子の旅』。鉄道の偉人横見浩彦氏をともに漫画家菊池直恵が鉄道の旅をするという、鉄道メインの極めて珍しいドキュメンタリー漫画です。

しかし、私がよもやこの漫画を楽しみに読む日がこようとは思いも寄りませんでした。というのはですね、私は鉄道マニアに限りなく近くあったというのに、一向に彼らの趣味に混じることがなかったというような人間で、鉄道なんてのは移動手段としか思っていない。なるたけ旅費を安くあげたいという思いはあっても、鈍行で東京にいこうだなんて考えたこともありません。青春18きっぷ(ってまだあるの?)を買ったこともなければ、あの五枚つづりがあまるのもいやだしで手を出そうともしなかった(なんであれ偶数枚じゃないんだろう)。でも学生時代、私のまわりにいた連中は普通にこいつを使いこなしていて、大垣夜行で東京にいってみたり、下呂温泉を日帰りしてみたりと、かなりアグレッシブに鉄道の旅を満喫していました。そもそも彼らは筋金入りの鉄ばかりで、レールの規格だとか車両、モーターやらにやたら詳しいのがいるかと思えば、全国路線やダイヤを網羅しているようなのもいて、こういう人が友人知人にいると超便利なんですよ。だって、例えばですよ、どこかにいきたいという場合、その人に聞いたら即座に返事が返ってきます。鉄道のみならずフェリーなども視野に入れているから、もっとも安い経路、もっとも早い経路、などなど、でも一番いいのは彼お勧めの経路でしょうね。もうはっきりいって路線検索のサービスを上回っています。

けど、そんな環境にありながら、私は彼らとともに鉄道の旅に出たこともなければ、そうした趣味に歩み寄ろうともしなかったのでした。

ところが思いがけず『鉄子の旅』に興味を引かれてしまって、大回りをやりたいだなんて思うようになってしまったのですから、人間変われば変わるものです。これ、ひとつはRICOH GR DIGITALを買ったことが関わっています。毎日なにかしらの写真を撮っているのですが、いい加減そろそろ撮るものがなくなってきました(そう考えると、猫の人は本当にすごい)。で、ここで『鉄子の旅』で見た大回りが脚光を浴びるわけです。

実は、この大回り、私『鉄子の旅』を読む以前から知っていて、というのは身の回りに実際にこれをやっているのがいたからなんですが(つまりそれくらいポピュラーということ)、楽しそうだと思いつつも、私の面倒くさいからやめという性質がじゃまをして、やろうという気にはついぞなれずにいた。けどここにきてやろうかなあという気持ちが涌いてきてしまって、いやあ困ったなあ。

人間の興味というのはちょっとしたことがきっかけとなって刺戟されるものであると本心から思います。私にとってはカメラ、そして『鉄子の旅』。この『鉄子の旅』のよいところは、鉄の旅を体験し、それを紹介する漫画家が鉄道のマニアでないところでしょう。マニアというのはその楽しみが深い反面、一般に向けてその楽しさを発信することができないという宿命を抱えています。あまりに対象に向けての愛が深すぎるため、微に入り細をうがってしまうから、一般人からしたらハードルが高くなりすぎてしまうのです。ざっくりとした概要を示せない。ところが『鉄子の旅』においては、漫画家菊池直恵が主体となって経験したことを、楽しかったとこもいやだったところも含めて、読んで楽しいエンタテイメントとして表現しています。この、読んで楽しい、というところが大きいのだと思います。ひどい目に遭ったよ、ということなら、それを面白く描く。読者はというと、最初こそ、マニアックな旅につきあわされてお気の毒、こんなの私はごめんだわー、なんて気持ちで読んでいるのに、だんだんと、それはそれで面白そうかも、なんて思うようになってしまって、ついには自分でも大回りやってみようなんて考えるのです。

横見氏は、菊池さんというパートナーを得て、幸いであったと思います。きっと横見氏では鉄ヲタをメジャーにすることはかなわなかった。横見氏のコアな楽しみは、菊池さんというフィルターを通して、ようやく一般の手にとどく位置にまで降りたのです。

けれどこれは逆に、マニアからしたら物足りないようで、昨年同じ職場にて働いていたのに『鉄子の旅』について聞いたら、『浅い』の一言でした。そうしたマニア諸氏には横見氏の『JR全線全駅下車の旅』あたりがきっとよいのだと思います。

  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第1巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第2巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2004年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第3巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第4巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2005年。
  • 菊池直恵,横見浩彦『鉄子の旅』第5巻 (IKKI COMIX) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • IKKI』2006年8月号 小学館,181頁。