2005年12月31日土曜日

ぼくの人生処方詩集

 寺山修司はいうのです。

私が忘れた歌を
だれかが思い出して歌うだろう
私が捨てたことばは
きっとだれかが生かして使うのだ

だから私は
いつまでもひとりではない
……

いうまでもなく私たち一人一人は小さくはかなく有限で、そうしたことを思うとき、空しさや悲しさに押しつぶされそうな気がします。ですが、もし私が失われたその先に、私の忘れた歌や捨てたことばを生かして使う誰かがいるというのなら、ただそれだけのことで、悲しさや空しさに耐えることもできるだろうと思えます。

最初に紹介した詩は、寺山修司の『ぼくの人生処方詩集』のなかの一編「ひとりぼっちがたまらなかったら」。この詩に添えて寺山修司は、恋人をつくるほうがもっとよく効くことでしょうだなんていっていて、それは確かにそうかも知れません。けど私には恋人では耐えられない瞬間があるように思えて、それはやはりその恋人も有限で、命にもかぎりがあれば、愛にもかぎりがあるだろうだなんて思っているわけなのですが、まあこんなこといっているからいけないんだというのはわかっているので、そうっとしておいてやってください。

私はこのBlogの他にもサイトを持っていて、その日々の書き散らかしは誰も目にせず、気に留められることもなくほうっておかれるのが大半ですが、ですが中には私の書き散らかしを拾ってくださる方もいる。このBlogにしてもそうです。誰かが読んで、その人のために、あるいはその人の知る別の誰かのために役立ててくれる、なにか思いが兆したところを別のかたちにしてくれる人もいる。

そうしたことの断片を伝え聞くことがあるたびに、私は無理してでもサイトを続けていた意味があったと思えるのです。

2005年も今日で終わり。明日からは2006年がはじまります。それをひとつの区切りとして、私は保留してきたすべての権利の一部を開放してみようかと思います。果たしてそれがどれだけの意味を持つのかはわかりませんが、ですがこれが私の言葉を拾う人にとって少しでも意味のあることだとすれば、躊躇はありません。

私が捨てたことばを生かしてくれる誰かがいるかぎり、きっとわたしはひとりではありません。

引用

Creative Commonsが援助を求めている

Creative Commons援助を求めている

クリエイティブ・コモンズ発起人の一人であるローレンス・レッシグ教授が、彼のBlogでCCへの寄付を呼びかけています。なぜCCが寄付を必要としているかは、29日のエントリで詳しく説明されています。CNET Japan日本語版を提供しているので、興味のある方はぜひご一読ください。

CCは、情報の共有をより柔軟におこなえるよう提唱されたライセンスで、自分の作った知的財産を他人がどこまで自由に利用できるかを、その所有者が自己裁量で決めることができるということを売りとしています。

現在私たちが一般に関わっている著作権は、著作物が作り出された瞬間に自動的に発生するという非常に便利な仕組みであるのですが、その反面、他人に自分の創作物を提供するのを難しくする可能性も持っています。なぜなら、他人がその著作物を複製したり、二次創作物を作成しようとするのを差し止める力を、著作権は持っているからです。

こうした著作権の性質は、私の著作物は私のものだから、他の人が自由に使ってもらっては困るという考えを持つ人にはよいのですが、そうではなくて、私の書いた小説や詩、作曲演奏した歌などを広くいろんな人に知ってもらいたい、自由に使ってもらいたい、と考える人には困ったことになります。というのは、著作権は基本的に、著作者の作品が勝手に使われないようにするためのものだからです。

具体例を出してみますと、最近ポッドキャスティングというのが流行っていますが、このポッドキャスティングというのは大抵無料で提供されています。ポッドキャスティングは音声を提供するものなので、音楽を紹介するような番組が多いのですが、著作権によって守られた音楽が流されることはほとんどありません。というのは、著作権は、ポッドキャスティングのような多くの人に音楽を聴かせるような権利を著作者のものとしているので、ポッドキャスティングにそうした音楽を用いると、使用料の請求がなされる可能性があるからです(そしてその可能性はかなりの確率で実現するでしょう)。

ここでCCの出番です。CCのライセンスでは、非商用の利用なら自由だとか、商用非商用問わず自由だとかいう風に、その曲を作った人の考えで、他の人が自由に作品を利用できる範囲を決めることができるのです。CCライセンスに基づいて公開されている音楽作品はだんだん増えていて、かなりクオリティの高いものも見られます。ポッドキャスターはこうした曲の中から自分の番組の中で使いたい曲を見つけて紹介しています。

ここで勘違いしてはいけないのは、CCはこれまでの著作権と対立しようとするものではないということです。CCは、著作権の下で禁止されているものを、一部開放しようという動きです。どれくらい開放するかは、著作者が決めることができます。完全に自由に使ってもらってもいい(それこそパブリックドメインのように!)ですし、著作者のクレジットをつければ後は自由というのも選べます。非商用なら自由、商用は駄目というのも可能です。さらには、二次創作、翻案、改変の許可不許可も選べます。

これまでの著作権は尊重したうえで、より柔軟に知的財産(著作物)の共有をできるようにしようというのがクリエイティブ・コモンズの考え方なのです。

クリエイティブ・コモンズが、今、支援を求めています。アメリカ国税局が求める公衆からの支援テストをクリアしないと、これからのクリエイティブ・コモンズの活動が、非常に難しくなるかも知れません。詳しくは、レッシグ教授が説明しているので、なんだかよくわからなくても、一度読んでみてください。

必要とする$225,000に、現時点で$7,000ほど足りていません。無理にとはいいません。ですが、もしこのクリエイティブ・コモンズという活動に興味を持っていて、同意する、支援したいという気持ちをお持ちであったら、ぜひ支援していただきたい。

私はもちろん支援しました。Supporters of Creative Commons pageにかたくなそうな日本人の名前を見つけたら、それが多分私です。自分のやらないことを、人にお願いしようだなんて、そんなことはしませんから。もしこの記事を読んで興味を持たれたら、支援、あるいはクリエイティブ・コモンズという考えもあるのだなと記憶にとどめてくださるだけでも充分です。

クリエイティブ・コモンズについて

2005年12月30日金曜日

小さく弱い人たちへ

  松山花子は、ここ最近私のお気に入りに加わった漫画家で、この人を知ることになったのは四コマ誌連載の漫画がきっかけですね。松山花子の漫画は、うまい具合に毒が配合されている漫画、そういう風にいうとうまくらしさを表現できるのではないかと思います。基本的に辛辣で皮肉が利いていてトゲがあるんだけど、嫌みや悪意になるぎりぎりのところを見極めているから楽しく読める。劇毒物も微量なら非常に効果的な薬になるのだ。ええ、松山花子を笑って読めない人は、ちょっと病が膏肓には入りつつあるのかも知れません。読んで気分を害してしまうようなら、本当に気をつけたほうがいいかも知れません。

私が松山花子を知ったのはここ数年のことなので、残念ながら『小さく弱い人たちへ』は読んだことがないのです。先日書店で『診療再開! 小さく弱い人たちへ』を見つけて読んで、診療再開というからには一度診療を中断する前のもあるのだろうと思って探したのですが見つからない。なんてことはない。絶版しているみたいですね。

ですが、とりあえず『診療再開!』だけでも充分面白く、松山花子らしさを楽しむことができました。この漫画には、一部を除き、どこにでもいるような人が患者として取り上げられるのですが、ある特定の性格的特徴を極端に強調しているから、本当に人格障害に見える(すまん、これ偏見かな)。けれど、私たちが普段の生活の中で出会う人には、実際この漫画に出てくるような感じの人はいるもので、面倒な人だったり、厄介でやりにくい人だったり、そして弱ったことに、私もそうしたうちの一人なんだろうなと思ってしまったりして。

松山花子は類型化がうまいんでしょうね。迷惑だったり厄介だったりする人(というのも身も蓋もない表現だけど)の類型をうまく抽出して、それをネタにするのが本当にうまい。で、そうした類型に自分を発見することもあって、うまくしてやられたなあなんて思って苦笑する。

こういう客観的視点をぽいと投げ掛けてくれるところに、松山花子の真骨頂があるのだと思います。

引用

  • ナントカ『影ムチャ姫』第1巻 (東京:芳文社,2005年),103頁。

2005年12月29日木曜日

筆ぐるめ

 さて、昨日いっていた職場での年賀状作成は、筆ぐるめというソフトを使っての作業。しかしなにが問題かというと、私はそれまで筆ぐるめを使ったことがまったくなかったのですよ。それでも呼ばれればいかなければならない(本務でもないのにな!)。で、使ってみて、あれですよ。非常に使いにくいソフトであると思いました。今回は、住所録の部分ではなく、年賀状のデザインだけをさわったのですが、どうにも直感的ではないのですよ。また、ツールバーがないなど非常に独創的なインターフェイスは、これまでの経験がほとんど役に立たない。とにかく、駄目だこりゃと、そんな気持ちで作っていました。

でも、おそらく一般的なドローソフト(イラストレーターとかフリーハンドとかです)に慣れていない人には、こうしたソフトのほうが使いやすいのかも知れないと思いました。

フォントサイズを決める際には、ポイントを指定するという考えはなく、テキストのボックスのサイズを変化させるに従ってフォントサイズも変更されるから、複数のテキストオブジェクトのフォントサイズを決めようと思うと妙にやりにくい。けど、なんとなく適当に、見た目で作っていくような人なら、こうしたやり方のほうがきっとよいのでしょう。あと、オブジェクトのサイズを変更するのに、ポイントやセンチ、ミリという単位でやっつけることができないのも困りました。まあ、これは私がそうした設定を見つけられなかっただけのことかも知れませんが、いずれにせよ、一般的なドロー系ツールに慣れている人間には使いにくいのではないかと思います。

あと、厄介なのはモードの概念があることで、例えばテキストオブジェクトの内容を変更したいと思った時にです、テキストオブジェクトをダブルクリックしてもなにも起こらんのです。テキスト編集のモードに切り替えて、画面左に出てくるテキスト編集ボックスで編集して、このやりにくさよ! でも、こういうのが使いやすいと考える人もいるはずで、けれど直接テキストオブジェクトを編集することに慣れている私には使い勝手がよいとは思えず、まあ、このへんは慣れや好き好きでしょう。

私はいわゆる年賀状作成ソフトを使ったことがないのですが、他のはいったいどういったもんなんでしょうね。けど、こういうソフトを主に必要とするユーザーは、乗り換えとかを考えたりはしないように思います。最初に使ったものを延々バージョンアップしながら使い続ける。そのソフトの使い方に慣れて、だから他のソフト(たとえそちらのほうが一般的なルック&フィールを備えていたとしても)に応用が利かなくてもかまわない。

こう考えると、コンピュータ購入時にソフトウェアをバンドルさせる意味もわかろうというものですね。ちなみに私、バンドルソフトウェアは大嫌いです。

2005年12月28日水曜日

たぶんBotnet

ここ数日から数週間、やたらコメントSPAMが増えています。それこそ消しても消しても、投稿規制をかけてもかけてもSPAMはやまず、私は投稿規制をかける際は、そのIPアドレスが含まれる上位16ビットを対象にする(aaa.bbb.ccc.dddならaaa.bbbを対象にする、つまり65,536IPが投稿規制の対象)のですが、それでも全然効果がありません。

IPアドレスを観察してみた結果、北米や東アジアからの送信が多く、北米はアメリカ、東アジアというのは中韓と思っていただいてほぼ問題ないと思います。ですが、中韓からのポストといっても中文ハングルは皆無、つまり攻撃者は英語話者であるということです。

文面を見れば、ほぼ個人ないしは一組織がSPAM投稿をしているものと推測され、でそれを広範な地域からおこなえるということは、今しきりに問題視されているBotnet(ボットネット)が絡んでいると考えたほうが自然でしょう。

Botnetというのはなにかというと、トロイの木馬やワーム、ウィルスによって乗っ取られたPCによって形成されるネットワークのことで、乗っ取られたPCはBotやZombee PC(ゾンビPC)などと呼ばれます。

乗っ取られるといっても、まったくユーザーの操作を受け付けなくなるわけではなく、表面上は通常と変わらないというのが肝です。ちょっと動作が遅くなるとか、大量のデータ送信がおこなわれているとか、それくらいの変化しかありませんから、日頃注意している人やPCに詳しい人間でないと気付かないことが多く、つまり乗っ取られたままになっているPCはかなり多いものと思われます。

で、こういうゾンビどもが攻撃者にいいように使われてSPAM(迷惑メール)を送信したり、コメントSPAMをおこなったり、Webサービスを不能にするDDoSをおこなったりします。

SPAMやDDoSの目的はわかりやすいですが、ではコメントSPAMはなんのためにおこなわれるかというと、その文面を読ませることも目的のひとつであるのでしょうが、別の目的もあるのです。

Googleをはじめとする最近のインテリジェントな検索エンジンは、リンクをそのサイト(ないしはページ)への人気投票と見なして、ランクをあげる仕組みを備えています。つまり、コメントSPAMはその文面を人間に読ませるのではなく、自分たちのサイト(アダルトやオンラインカジノが多い)へのリンクを含んだコメントをBlogや掲示板にばらまき、GoogleなどのBot(こちらは検索用インデックスを作るプログラム)に読ませようとしています。

今、うちのBlog[旧お試しBlog]にポストされるコメントSPAMは英語、つまり1Byte文字のみで形成されているので、2Byte文字(いわゆる全角文字)の含まれないコメントは許可しないなどの方策を施せば被害を激減させることができるのですが、私の借りているBlogにはそうした気の利いた機能は付いておりません。あるいは特に攻撃の多いエントリへのコメントを締め切ればよいのですが、個別エントリを対象にしたコメントオン/オフ機能なども付いていません。改善を求めるとしても、突然の仕様変更に対する問い合わせに対してさえもなしのつぶてという、まったくもって期待できないサービスプロバイダですから、きっと聞いちゃくれないだろうなという予感がします(ちなみに断っておきますが、Webサービスやメールに関する対応は速いです。だいたいその日のうちに返事が返ってくる!)。じゃあそんなサービス見限っちゃえよという話なんですが、なにしろこれまで長く使ってきたもんですからなかなか引っ越すつもりにもなれませんで、これはまったく悪い循環ですが、これが私のたちというやつなのでしょうがないんですね。

閑話休題。インターネットは性善説でできあがったところの多いものですから、悪意のあるユーザーに対しては無力であることが多いです。しかし、本当にこうした悪意があることを前提にしなければならない環境、社会というのは気詰りです。

私だって本当は性善説でいきたいんですけどね!

BC-20 / BC-21e

  年末になると年賀状の用意に追われるというのが恒例になっていて、もう面倒くさいから今年はやんぺと思っても、なぜか他人の年賀状に巻き込まれてしまう……。職場でさ、今年最後の仕事が年賀状作成ってどうですか。おっさんら、それ私用の年賀状だろう。職員使って、他人の金使って作らせるだなんて本当に虫のいい話ですよ。それこそこういうのは町の印刷屋さんに頼めばいい話なんです。年賀状を数百枚か刷っていくらもうかるのかはわかりませんが、それで少しでも町が潤うならいいじゃありませんか。特に公的な地位にいる人間なら、町の人たちが少しでもよい正月を迎えられるようにはからっても罰は当たらないと思うのです。

というわけで、職場で年賀状を二種類作らされましたという話。

で、うちはうちで年賀状を作るわけですが、年賀状づくりではなんといっても最後に端書に印刷するという工程があって、つまりプリンタを使います。ところが昨今のネットの発展はプリンタレス状況を力強く後押しして、例えば私がプリンタを使うといったら、楽譜やそれに類するもの(タブ譜や歌詞とかっすね)くらいしかありません。

こういう状況はインクジェットプリンタにはあまりよくなくて、というのはプリントしない期間が長くなると、ヘッドがつまっちゃうんですね。プリントしているうちに多少のつまりは解消しますが、どうしても解消しないノズルはいくつかあって、だからインクカートリッジを買わないといけない。年賀状くらいは綺麗に刷りたいという一心ですが、決して安くないものですから、なんかもったいないなあといつも思います。

うちで使っているプリンタはCanon BJ F210で、なぜこのプリンタを選んだかというと、はじめて買ったプリンタ、Apple Color StyleWriter 2400と同じインクカートリッジが使えるから。AppleのプリンタはCanonのOEMだったので、こういう芸当ができるわけです。

その後、プリンタはColor StyleWriter 2500にバージョンアップし、インクをやり取りしながらの二台体制で運用されています。新しいiBookではBJ F210、古いPower Macintsh 7500ではColor StyleWriter 2500を使う。

Color StyleWriter 2400は1994年の製品ですから、BC-20やBC-21eはずいぶんとロングセラーであると思われます。これが使えなくなるとちょっと困ってしまうので、今後もCanonにはこれらカートリッジをリリースしてもらいたいな。

年末になると、いつもそんなことを思います。

2005年12月27日火曜日

えむの王国

 今月のまんがタイムKRコミックスは『ドージンワーク』、『まゆかのダーリン!』、『えむの王国』と、いったいどれで書いたらいいんだと迷うラインナップで、迷うというのは決してこれでも書きたい、あれでも書きたい、というわけじゃないというのが微妙です。でも、『まゆかのダーリン!』はついこのあいだ触れたところであるし、じゃあどっちか。となると『えむの王国』かなあ。

ちなみに私は基本的に持っているものでしか書かないようにしているので、つまり全部、三冊とも買っています。いやあ、マニアの淵は深く、足抜けはちょっと厳しくなりつつありますな。

『えむの王国』は『まんがタイムきららMAX』という雑誌に連載されている四コマ漫画で、正直私はきららMAX創刊号を手にしたときは、もう駄目だ、撤退だ、いくらなんでもこれはやり過ぎだろうと思い、けど今は普通に読んでいるのですから、人間の環境に順応しようとする力には恐れ入ります。MAXのなにが駄目かと思ったかというと、そのラインナップのあまりの偏りで、おたく向けマニア向けを狙ったのだろうとは思うのですが、あんまりに読みどころがないと感じた。いや、今となっては結構全部ちゃんと読んでるのですが、とにかく最初は取り付く島もないと思ったものでした。

そんななか、なんとかこれはよいかもなあと思ったのは『えむの王国』で、国民の八割がマゾヒスト(被虐趣味を持つ人のこと、って解説はいりませんよね)によって構成されているカスティーナ王国を舞台に、ヒロイン王女シャルロットの活躍(というか戸惑いか)を描いたハートウォーミング作品。ここまで書いて、なんだかくらくらしてきました。

とかいいますが、読んでれば結構面白いんですよ(じゃなきゃ買いませんし)。結局、一人まともなシャルロットがまわりの暴走する人たちに振り回されるどたばたのコメディというわけでして、しまいにはマゾヒストだけでなくサディストやレズビアンも出てきて、で、それも国民全体がとかその民すべてがとかそういう極端さで出てきて、こういうナンセンスを許容できるかでこの漫画の評価は大きく変わるんじゃないかと思います(で、私は許容できたんでしょう)。

そんな感じで私は結構気に入って読んでいるのですが、一点残念に思うところがあって、それは百合の人が出てくるところの話で、今を時めくハードゲイの人をちょろっと使っているところがあって、こういう一過性のネタを使うと、後で振り返ったときの風化っぷりが痛々しい。ほら、消費者金融のチワワがブームになったことがありますが、あれを取り入れた四コマ漫画は今もうすでに痛々しく、今ではないですね、もうずいぶん前から見ていてつらさがしみてきます。ごはんだけでもおいしいわ(ほら風化した)ってことですわ。

蛇足

シャルロットとシンシアのカップルはいいですね。でも、百合の人が一番いいと思います。えっと、エリィさんでしたか。実は、単行本で見るまで、その存在を忘れていたというのは内緒です。

  • 中平凱『えむの王国』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年12月26日月曜日

IKKI [月刊イッキ]

今日、まんがタイムKRコミックスなんぞを買いに書店に詣でたら、急に躁のスイッチが入ってしまって、私は普段は軽いダウン状況を作るように心がけてるんですが、それがアップに移行するとどうなるか? 歯止めがきかなくなるんですよ。そんなわけで、ちょっと前からどうしようかと思っていた『月刊イッキ』の購読を開始してしまいましたとさ。なんで『イッキ』なのか? そりゃもう当然『ナツノクモ』のためですよ。ついこの間出た第五巻。続きはどうなるのー!? って思ってたところに『イッキ』を発見(いや、店内を探したんだけど)。そうしたら、ついこの間(『ナツノクモ』第五巻を買った日)に見たのじゃない! ああっ、二月号がでちゃったんだ! 駄目元でバックナンバーって置いてますかってきいたら、ちゃんと置いてあってラッキー! でも第五巻にはあと一号足りなかった。なんでか、十から十二月号が売り切れてたのさ!

『イッキ』はいったいどういう雑誌なのか、『ナツノクモ』だけを目当てに買った私には一向につかめておらず、それはこれからおいおい知っていくことになるのではないかと思います。まずは『月館の殺人』を読むだろうと思います。そして、以前ジュンク堂でサイン会に遭遇した金魚屋古書店』も読むでしょう。それと、モノ子さんお勧めの『ドロヘドロ』も。とりあえず、この雑誌の傾向をつかめるようにしたいものだと思います。そして、雑誌ごと好きになれそうだったら、定期購読、なのかなあ。

とりあえずは、バックナンバー(十二月号)を探してみようと思います。

2005年12月25日日曜日

The Little Drummer Boy

  クリスマスの歌はたくさんあって、明るく元気なものからしめやかなもの、大人のムード漂わせるもの、多種多様に渡ります。そんなたくさんのクリスマスソングの中からどれか一曲を選べといわれれば、私は迷わずThe Little Drummer Boyと答えるでしょう。イエスの生誕を祝うための贈り物を持たない貧しい少年が、そのかわりにと太鼓を精いっぱい叩く。そうした内容を持つ歌です。

(画像はHarry Simeone ChoraleのThe Little Drummer Boyおよび同ChoraleによるThe Little Drummer Boy

私はこの曲を長くインストゥルメンタルでしか聴いたことがなく、つい最近になるまでどういう歌であるかを知らずにいたのです。それが、ついこの間Harry Simeone Choraleによる歌唱を聴いて、その美しさに心捕らわれてしまいました。少年の心意気のすがすがしさ、そして歌われる歌の清浄さ。

数あるクリスマスソングの中でも最高のものであると思います。

比較的新しい歌であるとのことなのです。1958年にキャサリン・デイヴィス、ヘンリー・オノラティそしてハリー・シメオンにより作曲されて、ハリー・シメオンの合唱団(つまり私の聴いたというHarry Simeone Choraleです)によって歌われた歌です。今ではさまざまなバージョンもあるようで、つい数日前、街中で男声合唱のThe Little Drummer Boyが流れているのを聴いて、やはり美しい歌だと聴き入ってしまいました。

なにをかを批判しようという歌ではなく、ただただ主の生誕を祝おうというその真心を歌った歌です。ですが、私にはこういう素朴な気持ちというのがすごく鮮烈と感じられて、私もかくありたい、そのように思えるよい歌です。私はキリスト教徒ではなく、主の生誕を祝ってどうこうだなんてそもそも考えない人間ですが、それでもこの少年の純真は素晴らしいなと思ったのです。

2005年12月24日土曜日

Levon

  インターネットラジオを流しながらの作業中。男性ボーカルにふと気を取られて、いったいこの歌は誰のなんという歌なのだろう。その頃私が聴いていたラジオは曲名の案内をしていなかったので、わからず仕舞いと思われて、ですが、数週間後だったか数ヶ月後か、あの歌が再び流れて、私はなんとか歌詞を記憶にとどめようとしたのでした。

耳に残った歌詞はChristmas day、そしてNew York Times。私はこれをChristmas Timeと勘違いして、ですが三度目の放送を耳にして、歌詞の断片からついに曲を突き止めることができたのでした。Elton JohnのLevon。日本名は『リーヴォンの生涯』というようです。

『リーヴォンの生涯』の歌詞にChristmas dayが含まれているから、私はこれがクリスマスの日のことを歌った歌と思っていたのですが、歌詞を読めばそうではないことがわかります。クリスマスの日、ニューヨークタイムズが神は死に、戦争が始まったと告げたあのクリスマスの日に、アルヴィン・トスティグは息子に恵まれた。それが、リーヴォン。

傷痍軍人のリーヴォンが生まれたときのこと、今の暮らし、そしてゆっくりと死んでいくまでが歌われていて、この歌のなにが私を引きつけたのか、それは未だにわかりません。歌の力そのものなのかも知れません。注意を払っていなかったときにたまたま流れた、聴き取りも満足ではない英語の歌は、二度目に聴いたときに、今流れているのはあの時の歌であるとはっきりとわかるほどに刻み込まれて、これはやはり歌の力であると思うのです。私は今も満足にこの歌の歌詞を理解できているとはいえず、ですがそれでもなにか清浄なものを感じる。特に取り上げられることのないような男の人生がうたわれることに、なにか表現しづらいパワーを感じるのです。

2005年12月23日金曜日

ジングル・オール・ザ・ウェイ

今日、休みの日中をだらだらと過ごしていたら、テレビでクリスマス映画をやっていて、そうだ、もうクリスマスなんだなあ。私はイベントにはとんと疎いもので、だから今がクリスマスシーズンだなんて忘れていた、わけでもないんですが、覚えていてもなにかするわけでもない。忘れているのと一緒です。

『ジングル・オール・ザ・ウェイ』は、かのアーノルド・シュワルツネッガー主演のファミリーコメディーで、私は意外と彼のことを好きなものですから、アメリカのクリスマスと商業主義にまみれたどたばたを楽しんでみました。

子供が欲しがるおもちゃをクリスマスに用意できるかどうか。この結果のいかんによって子供の信頼を勝ち取れるかどうかが決まる。これは実際毎年の大きなテーマのようで、アメリカのニュースを見てると、クリスマス時期の商戦の模様と目当てのものを手にできたかどうかの悲喜こもごもがひしひしと伝わってきて、ああ、アメリカは仕合せだなあ。とりわけ、こうした競争に参加できる富裕層は仕合せだなあ。そう思うのです。

でもまあ、仕合せなはずの人たちでも不仕合せはやっぱりあるようで、シュワルツネッガー演ずるハワードにとっては息子や妻の信頼を勝ち取れるかどうか。そうなんですね。仕事に打ち込んでその揚げ句、家族との距離が離れてしまった。だから、クリスマスに息子の欲しがるおもちゃ — ヒーローのアクションフィギュアをゲットしなければならない。その一心で、おもちゃ屋を駆け回り、犯罪集団を壊滅させ、ラジオスタジオに押し込み、そしてクリスマスパレードの主役、まさに息子の敬愛してやまないヒーローに!

どんどんと展開するストーリーの最後にはハッピーエンドが用意されて、だから安心して楽しむことができる映画です。まあ、おもちゃが手に入るかどうかだけであんだけエキサイトできるなんて(犯罪行為も辞さず、仕事上のモラルさえかなぐり捨てて!)、つくづく仕合せな連中だぜ、という感想もないではないのですけどね。

DVD

VHS

2005年12月22日木曜日

5-A(ごのえぃ)

  渡辺純子さんの描く漫画はなかなかいい感じかも知れないなあと思った時期があって、以前にもいったと思いますが、こういうときの私の行動はまず既刊を全部買いそろえてみる。ええ、買ったんです。すでに絶版していた『ああっ御主人様!!』も、絶版しているかと思われた『無敵のファニー・ドール』も! ただ、『ファニー・ドール』に関しては発注しかたを間違えたおかげで、二冊も手もとにあるのですが……。しかも両方成年向けの漫画で、背表紙には逃げも隠れもできない成年コミックマークが。まあ、私はそんなのちっとも気にしないのですけど!

(画像は渡辺純子『まゆかのダーリン』第1巻,第2巻)

さて、一通り読んでみた感想ですが、どうも私はこの人の漫画は好きでも、この人のエロはあんまり肌に合わない感じで、例えばそれはこの人独自の特殊設定とか、そのへんが性に合わんのだと思います。で、こうした傾向は四コマ漫画においても多少はあるようで、小さな姪っ子まゆかちゃんに翻弄される高校生叔父さんを描いた『まゆかのダーリン』よりも御曹司せのお様とお屋敷付メイドのハートフルな交流を描く『ことはの王子様』(ハートフルって実に便利な表現ですね)のほうが好ましく、それでもって『ことはの王子様』よりも小学五年生のクラス風景を描く『5-A』のほうが好きだという。そういう構図ができあがっています。

  1. 『5-A』
  2. 『ことはの王子様』
  3. 『ああっ御主人様!!』
  4. 『まゆかのダーリン』
  5. 『無敵のファニー・ドール』

こんな感じ? ちょっと序列が違うような気もするけど、小さなことは気にしない!

上位に向かうにつれて、あざとさの隠蔽が進んでいるんです。あざとさについては作者も意識的であることは間違いなく、『まゆかのダーリン』第1巻おまけにおいて、そうした要素がばっちり指摘されていて、そのあざとさを共有しているという共犯感覚がたまらんのでしょうな。で、私はというとどうにも気が弱いもんでありますから、そうしたあざとさがきれいに払拭されているほうがいいわけですよ。それがつまり『ことはの王子様』で『5-A』なのです。

『5-A』。いいですよ。『まんがタイムスペシャル』の目次横漫画から連載に昇格して、目次横時代から大好きだったからこれはもう本当に嬉しいことで、年上好みのクール系美少年とか隠れショタ(?)の眼鏡先生とかほんでもって優等生系美少女? 完璧ですね。完璧じゃないですか。え、あざとさがどうしたかって? え、かげもかたちもないじゃないですか。隠れた共犯感覚がたまらないだなんて思ってませんよ。

今の好調が続くなら、いずれ『5-A』も単行本化されると思います。そういえば、渡辺純子さんはダウンロード販売されている雑誌にも漫画を描いているのですが、いずれこれらも単行本化されたら嬉しいなあなんて思います。

2005年12月21日水曜日

二銭銅貨

 国語の教科書に載っていたのを読んだのがこの話に触れた最初で、昔の貧しかった時代、母親はどうしても家計を切り盛りするため少しでも無駄を省こうとして、けれどそのために大きなものを失ってしまうはめになって、私は藤二の気持ちで読んだものでしたが、今となっては母親の後悔のほうが深く胸に突き刺さります。たった二銭で、たった二銭でというやり切れない思いはどうしても消すことができないのでしょう。

豊かになりつつあった昭和に暮らした私ですが、母親はやはりこうした始末をする人で、ですがこれらは私一人のことではなく、おそらく同じ思いをした人はたくさんいたはずです。でも、さいわいそれが悲劇を招くようなことはなく、だからというわけではありませんが、私もそうした始末をすることはあって、やはりあの人の子であるという思いを深くします。

けれど私はやはり藤二に似たところがあって、小さなところをいつまでもくよくよとするたちなのです。ちょっとを節約して、その節約を悔いるでもなく、ですがもしもう少し払っていたらどうだったろう。それでずうっとくさくさしている。なんか違うことばっかり考えてしまう。いっそ買い替えようかなんてまで思う。そんなこともあって、私は精神の平穏を求めるあまりにちょっとを節約することはしないようになりました。すべては私の割り切りの悪さで、すべては私のちんまい器のためです。

こうして書いてみて、もしかしたら今の親は、自分が子供のころに得たくよくよする気持ちを自分の子供には味わせたくないと、そういう思いがあるのかも知れないと気付いて、それは果たして子供を甘やかすことになるのかどうか、よいことなのかどうか。私には、子供に欲しがるものを満足に与えたいという気持ちも、我慢を強いねばならないことがあるということもわかるので、ただしかしそうした択一を許される今の状況というのはやはり豊かなのだと思います。

『二銭銅貨』というのは豊かでなかった時代こその話なのかも知れません。今の状況があの短編を生んだとしても、あれほどの深さはきっとでなかった。『二銭銅貨』の深み、やるせなさやしかたなさは、やはり時代の実感あってのものなのだろうと思います。

2005年12月20日火曜日

究極超人あ〜る

    中学二年生だったな。同じクラスになった川口が『究極超人あ〜る』を貸してくれて、今まで漫画といえば藤子不二雄くらいしか知らなかった私の視野は一度に広がったのでした。おたくへの一歩は友人が切り開くというのはよくいわれる話で、小田中や田嶋、宮崎といった川口周辺の友人たちが私に及ぼした影響は大きく、私はゆうきまさみのファンになり、アニメも見るようになり(ああ、栄光の『アニメ大好き』よ!)、いや、本当に人生が変わりました。いいように変わったのか、あるいは悪くなったのか、けれど私は彼らに感謝しこそすれ、恨んだりなんて気はさらさらありません。

最初は借りて読んだ『究極超人あ〜る』。けれど、その後私は全巻を買いそろえて、高校受験の帰り、駅前の今はもうなきブックス・リードで買ったんだっけか。足りない巻は駸々堂(この書店ももうない! 過ぎゆく時の残酷さよ!)で買いそろえて、アニメイトで売ってるコアデのブックカバーをかけた。そういう時代だったんです。なんか、漫画は今よりもずっと貴重なもののように扱っていて、でも対し方は今よりも鷹揚で、なんかもう取り戻すことのできない懐かしさを感じさせます。

なにが変わっちゃったんだろう。なにがどう違っちゃったんだろう。

実は今晩すき焼きだったんですよ。それで、『あ〜る』を思い出したわけです。なんですき焼きといえば『あ〜る』なのか? まあ、それは私が昭和の子であるといえばわかっていただける方にはわかっていただけるんじゃないかと思います(つうか、『あ〜る』読んでない人にはわかんないですね)。

でも、今から思えば『あ〜る』はばっちり昭和の、それも八十年代の漫画だったんですね。あれから二十年が過ぎて、私もすっかりおっさんになって、私にとってのゆうきまさみの季節はとうに過ぎ去ってしまって、それで、その二十年は私のなにを変えたというのでしょう。世相は変わって、漫画もアニメもすっかり様変わりして、けれど本当のところはどうなのか。本当に変わったものとはなんであったのか。そもそも、変わったものがあったのかどうかさえ、私にはよくわからないのです。

今度、『あ〜る』のイメージアルバムが復刻されるみたいですね。買ってしまいそうです。今となっては異様に豪華なスタッフ、キャストが驚きのアルバム。私は『BOY’S SICK』が好きでした。『わたしのアンドロイドくん』も好きでした。

買ってしまうかも知れません。

  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第5巻 (小学館文庫) 東京:小学館,1998
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第1巻 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉) 東京:小学館,1991
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第2巻 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉) 東京:小学館,1991
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第3巻 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉) 東京:小学館,1991
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第4巻 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉) 東京:小学館,1992
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1986年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1987年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1987年。
  • ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1987年。

CD

DVD

2005年12月19日月曜日

ヘラクレスの栄光

シリーズ中最も難易度の高い『ドラゴンクエスト』といえば、それはもう断然ファミコン版のIIであるといっていいのではないかと思うのですが、なんといっても、バランスが悪くてですね、敵の攻撃が容赦ない上に仲間の死にやすさはシリーズ随一。けど、そんなでもみんな文句をいわずにプレイして、クリアして、だって当時はあれくらいのバランスで普通だったんです。それに、ドラクエIIを上回る難度、バランスの悪いゲームなんてのもざらでした。

バランスの悪いRPGといえば私には『ヘラクレスの栄光』が思い出されます。主人公は神話上の人物ヘラクレスであり、ヘパイストスやアフロディテ、ゼウス、ポセイドンといった神々の力を借りて、冥界の王ハデスを倒すのが目的だった、ような気がします。いや、ちょっと待って、確かアフロディテがハデスにさらわれてたんだっけ。ああ、ちょっと思い出せません。

なにがバランスが悪いといっても、敵の出現率の高さはかなりのもので、通常時でロンダルキア地下一階級のエンカウントを数えます。途中で敵の出現率を下げるアイテムというのも出てくるのですが、これを使ってようやく通常のRPGのレベルに落ち着く。しかし、敵に出会うとアイテムの効果は消えてしまうから、また使用して、敵とエンカウントしたらまた使用して。面倒くさくなってもういいやって思うんですが、そうすると十歩も歩かないうちに敵に出会ってしまうから、面倒でも道具を使わないではいられない。

いかに忍耐力のためされるゲームであったでしょうか。私にとってこのゲームは、忍耐系ゲームとして記憶されているのです。

けど、リアルというかおどろおどろしいというか、コミカル系のドラクエとは一線を画した世界観、ヴィジュアルは実にいい味を出していて、また武器には耐久力があり、定期的に鍛冶の神ヘパイストスのところに詣でて直してもらう必要があるなど、なかなかシビアなシステムでもありました。そういえば、陸の敵、海の敵、空の敵それぞれに武器を使い分ける必要があって、泣かされるのは空の敵に有効な矢の数が足りないということ。ヘパイストスを専属で雇えば、毎回戦闘後に武器の耐久力は最大値まで回復するのですが、これはつまり戦闘中には回復しないということ。ラストの冥界の空飛ぶ中ボスを始末するのに、どうしても矢がぎりぎりで足りず、ここでもやっぱり忍耐ですよ。堪え難きを堪え、忍びがたきを忍ぶ。

私にとって『ヘラクレスの栄光』とはそのようなゲームだったのです。

ですが、こうしてまざまざと思い起こして、ちょっとばかりでも語れるというのは、それだけ好きだったということなのでしょうね。おそらく、というか、きっと、今の私は当時のRPGをクリアすることはできないでしょう。ですが、思い出の中にはあれらに費やした時間や気持ちがしっかり残っているから、機会があったらまた遊んでみたいなあなどと、無謀なことを考えてしまうのです。

まあ、遊ぶのは勝手ですが、クリアはきっと無理ですね。時間が足りなければ、忍耐も足りません。今やクリアは至難であると思われます。

2005年12月18日日曜日

ドラゴンクエスト II 悪霊の神々

朝起きて、だらだらして、雑誌でも買いにいくかあ、寒いけど。玄関を出たら、真っ白。雪がちらついて、アスファルトを薄く雪が覆って、残念ながら、わあ綺麗とか思えなかった。これから原付で駅前まで、無事たどり着けるかの心配のほうが勝ったんですね。

山を登る長い洞窟を抜けると雪国であった。屋内から開けたところへ出たときに、想像していたのとはまるで違った風景が広がって、驚かされることは珍しくありません。特に雪という、常にあるわけではない自然現象の場合はなおさらで、朝目覚めると雪景色。経験のあるという人も少なくないのではないかと思います。

さて、私と同じ年代、同じような環境に育った人なら、上のような驚きをゲームで味わったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。『ドラゴンクエスト II』で、最後の最後、大詰め直前の大難関、ロンダルキアの洞窟を抜けたときの驚きです。緑の草原があって当然と思っていたのが一面の銀世界。あの、今思い出しても表現力に限界のあったファミコンで、しかも動きの少ないRPGにおいて、あれほどの効果を出した。きっと今のゲームしか知らない人にはわからない。あの一瞬の虚を突かれ、ああ綺麗だなと思って、コントローラを持つ手を止めた…。

あのときの驚きと感動を、私は今も忘れていません。

あの時、『ドラゴンクエスト II』は気を吐いていました。実質、日本におけるRPGのフォーマットを決定したのはドラクエで、その続編として大いに期待された『II 悪霊の神々』。私は中学生でしたね。教室ではもっぱらドラクエの攻略話ばかり。当時はファミコン攻略誌も花盛りで、どこも他誌よりも先に情報を載せて購読者を増やそうと躍起で、あまりに先を急ぎすぎる攻略記事にエニックスが訴訟に踏み切ったんでしたか。とにかくあの時、私たちは『ドラゴンクエスト』に夢中でした。

『ドラゴンクエスト II』は、今から考えればシンプルなゲームで、ストーリーも単純。イベントも多いほうじゃない。けれど、謎解きはそれこそノーヒントみたいなのもたくさんあって、私がとにかくつまったのは金の鍵のある漁師町ザハンで、ところがこの町、かなり初期に存在を明かされるのはいいんだけど、全然見つからない。できるだけ自力でクリアしたいと思っていた私でしたが、これは教えてもらいましたね。

私の自慢は、あの難しいといわれた水門の鍵のありかで、あれだけはきっちりと推理して発見したんです。いつの間にか逃げたという囚人。牢屋はしっかりと施錠されており、床を調べるも異常はない。じゃあ後は壁しかないじゃないですか。ええ、あの時、壁を押したときの衝撃。わお、ほんまかいな、という驚きと喜び。あれもまた忘れられないですね。

ロンダルキアの洞窟はとにかく困難で、この最上階を抜けたのはただの運で、もう引き返せないし、けどどう進んだらいいかなんてわからない。だから、ただやみくもに歩き回った。どこをどう進んだものか、出口に到達して、そしてそこに広がったのが雪景色。感動もするという話です。

まあ、感動しててもしかたがないので先へと進むのですが、なにもないと思った場所にほこらを見つけて九死に一生。あそこで回復と復活の呪文を聞くことができたのはまさに地獄に仏といった風情で、多分あの時サマルトリアの王子は仏になってたんじゃないかな。だって、雪景色は雪景色でも、点々と赤いものが混じる、ちょっと不吉な感じもある雪景色だったと覚えているものですから。

とにかく二人目の王子が死ぬんだよね。これで盛り上がることができるのも、当時ドラクエに熱中した人の多いからであるかと思います。あの時感じたいろいろを共有している人たちがいる。それもたくさんいる。

こういうことって、本当に嬉しいことであると思うのです。

2005年12月17日土曜日

海底二万海里

   今ではちっともSFを読まなくなってしまった私ですが、子供のころはファンタジーやSFは好きで、ジュール・ヴェルヌなんかは最高にお気に入りの作家でした。彼の作品はSF古典中の古典で、そもそもその当時にはSFなんて言葉はあったのかどうか。いずれにせよ、当時の科学知識と未知への好奇心を持って書かれた作品はどれも躍動感にあふれていて、翻案ものの数々を見ても、その人気のほどはうかがえるのではないかと思います。

で、私の好きなヴェルヌものはなにかというと、『海底二万海里』が『十五少年漂流記』にぎりぎり拮抗しています。どちらも子供のころ、何度も何度も読みました。本当に好きで、何度も読んだものでした。

『海底二万海里』は、その主人公が少年ではなく博物館の教授であるというところからして、子供心になにか異質な風合いを感じながら読んだものでした。

次々と発生する海難事故、その原因を調査するその先には、衝角を持った潜水艦ノーチラス号があった。謎の潜水艦に謎のネモ船長。彼らの潜水艦に図らずも乗艦することになったアロナックス教授とその一行は、まだ誰も見たことのない海の神秘を目の当たりにすることとなるのです!

ああ、もうロマンですよ。『海底二万海里』はSFはSFですが、どちらかといえば海洋ロマンのほうが強く、私は海底の散歩や海の生き物との戦闘、そして神秘的な墓所の描写をわくわくとしながら読んだのです。深く青緑に沈んだ海底はあくまでも静かで神秘で、あのドキドキとした胸の高鳴りは、おそらく十九世紀の読者に変わらぬものであったのではないかと思っています。

私はこれを図書館で読み、人に借りて読み、そして表紙のとれた分厚いもらい物の大本で読み、そのそれぞれに違いや特色はあったはずですが、それよりもヴェルヌの描いた世界の濃密さに心捕らわれて、いや、素敵な時間でした。気付けば日も沈んで薄暗くなった部屋。私の子供時代の読書は、まるで一日中を本の世界に遊んで、それは豊かで贅沢でした。

  • ベルヌ,ジュール『海底2万マイル』加藤まさし訳,高田勲絵 (講談社青い鳥文庫) 東京:講談社,2000年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』荒川浩充訳 (創元SF文庫) 東京:東京創元社,2000年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万マイル』南本史訳 (ポプラ社文庫) 東京:ポプラ社,1989年。
  • ベルヌ『海底二万マイル』南本史訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2005年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』江口清訳 (集英社文庫 — ジュール・ヴェルヌ・コレクション) 東京:集英社,1993年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』上 大友徳明訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1999年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』中 大友徳明訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1999年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』下 大友徳明訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1999年。
  • ヴェルヌ『海底二万海里』花輪莞爾訳 (角川文庫クラシックス) 東京:角川書店,1963年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』上 石川湧訳 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,1991年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』下 石川湧訳 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,1991年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万里』榊原晃三訳 (春陽堂くれよん文庫) 東京:春陽堂書店,1989年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底二万海里』清水正和,A・ド・ヌヴィル訳 (福音館古典童話シリーズ) 東京:福音館書店,1972年。
  • ヴェルヌ,ジュール『海底2万マイル』木下友子,下田正美訳 (どきどきミステリーランド) 東京:金の星社,1991年。

2005年12月16日金曜日

誕生 — Debut

『誕生』は『卒業』の次回作となるのでしょうか、基本的に同様のシステムを持っているゲームで、違うのは『卒業』では教師として生徒を相手にしていたのが、『誕生』はマネージャーとしてアイドルユニットを相手にするというところです。

実をいうと私は『卒業』で決定的にこの手のゲームは性に合わないと思い知って、そんなわけで『誕生』が発売されていたのも知らずにいたのですが、あるときこれがワゴンで投げ売りされているのを見て、ああ、これなら買ってもいいなあと思った。それで一通りプレイしてみて、『卒業』よりこっちのほうが自分には向いているかもと、そんな感想を得たのでした。

『誕生』の基本システムは『卒業』に同じですが、ですが、大きく違うところがあります。それはですね、プレイヤーとキャラクターの関係性でありまして、例えば女の子のご機嫌を取るのにプレゼントしたりできるんですが、『卒業』だと、教師が生徒にそんなことをするのか!? なんて思うから私にはやっぱりあのゲームは向かない。対して『誕生』だと、うちのタレントが売れればとにかく勝ちなんや、もので釣ってなにが悪いねん、と割り切って行動できる。それこそ、目的のためにはどんなことだってできちゃうもんね。

ゲームプレイにおける心構えが違うわけですよ。

後はライバルの存在でしょう。『卒業』では登場キャラクターは生徒だけですが、『誕生』だとライバルが七人ほどいて、彼女らとしのぎを削りあっているわけです。それで、クイズ戦にライバルを引きずり込んで、負かしてしまうなんてのもできる。ほら、妨害ですよ、妨害。ちょっとうちの事務所のタレントよりも上にあがろうものなら、即座にちょっかいを出して活動できないようにしてやるのさ。ははははっ!

とにかく、うちのタレントが一番になるなら、どんなあくどいことでもやりますからね。ざまあみろ、成沢みかん! ってなもんですよ(すまん、狙い撃ちしてました。嫌いだったから)。

私は前評判では藤村さおり(笠原弘子)が好きだったのですが、なんでかプレイしていると田中久美(かないみか)にシフトしてしまい、かないみかだからか!? いや、実をいうと誰よりも気に入っていたのは綾瀬未緒(島本須美)で、彼女だけには妨害工作しなかったなあ。

当時、バイト先に普段はこの手のゲームはしないくせに『誕生』だけはやってるのがいて、二人で綾瀬はよい、応援せずにはいられない、だけどみかんは駄目だ、ガキはすっこんでろと、妙に意気投合していたのを思い出します。

と、こんだけ書いてどんだけ遊んだかというと、一通り、つまり一回とおして遊んだだけで、けどその一回が楽しかったなあ。

Windows機にBasilisk IIも入れたんだから、今度暇ができたら、遊んでみようかなあ。

2005年12月15日木曜日

林檎ものがたり — りぼんおとめチックメモリアル選

 私の知人に柊あおいが好きな男がいて、その人はというと、新書サイズで持っているものでも文庫が出れば買うという、そういうちょっと尋常でないファンなんです。で、私はというと、田渕由美子がそれはそれは好きだから、新書サイズでも持ってるし全作品集でも持っているし、けど文庫が出ればやはり買うと、そういうちょっと尋常でないファンです。

今日、病み上がりの帰宅の途上、書店によったらりぼんおとめチックメモリアル選なんて触れ込みで田渕由美子やら太刀掛秀子、陸奥A子の文庫が出ていて、こりゃ私への挑戦か? 危うく全部買ってしまうところをぐっと我慢して、収録作品全部うちに揃っている田渕由美子の『林檎ものがたり』だけを手に取ったと、そういうことがあったのです。

田渕由美子はいいですよ。私は、残念ながら、少年だった時分に田渕由美子に触れる機会がなかったものだから、ずいぶん後になって、レディースコミックで出会って、それがもう運命の出会いと、過去へ過去へとさかのぼっていったのでした。

私は、そもそも生まれが遅かったので、おとめチックという時代を共有することはかなわなかったのですが、時代も平成、二十一世紀を目前とした時期に急いで当時を懐古して、いじらしかったりあるいはクールだったりするヒロインと、彼女を取り巻く当時風の恋愛模様になんかくらくらきましてね、ああ駄目だ、この雰囲気にはあらがえないわ。もう、大好きなのです。

文庫には田渕由美子による後書きがあって、笹塚の下宿屋のことが書いてあって、ぐいぐいと読ませるいい文章でした。田渕由美子は漫画だけでなく文章もいいなあと、本当にいいと思いましたよ。

語る力がある、その力が漫画にも文章にもともによく現れている、そういうことなのかと思います。

仕様変更?

私が風邪で寝込んでいるうちに、なんだかこのBlog[旧お試しBlog]における仕様変更があったようで、本文中の&を&というように、実体参照にして表示するように変わったようです。

ちょっと、これ不便。だって&は実体参照に必要だから、これが&amp;にされてしまうと、—(&mdash;)とかが使えなくなります。<(&lt;)や>(&gt;)も使えなければ、タグや不等号、どうすりゃいいんだ。

というわけで、仕様変更に関する問い合わせをしました:

突然の仕様変更について問い合わせいたします。

これまで、Blog本文中において&は&のままで出力されていたのに、突然&amp;に変換するよう仕様変更されたのはなぜでしょうか。私は本文中に実体参照を用いることがままあるのですが、この仕様変更のため実体参照が適切に反映されず(&が&amp;になるため)困っています。

&を生で使えなくなると、<(&lt;)や>(&gt;)が表現できなくなることから、HTMLのタグの表示や、数学やプログラムにおける不等号の使用が不可能となり、こうした記号を取り扱うBlogにとっては致命的です。

この仕様変更の理由をお教えいただけませんでしょうか。また、早急に以前の仕様に戻していただけませんでしょうか。

なにとぞよろしくお願いします。

早く、元の仕様に戻って欲しいです。

2005年12月14日水曜日

ぱにぽに

 体力がないだなんていっていますが、だいたいそもそも不摂生が悪いのですよ。毎日寝不足だからそりゃ体力低下で風邪も引くわというようないきさつでして、ああ私の場合深夜番組ばっか観てってわけではないのですが、ほら、ギターの練習を結構遅くまでしてるせいで、それで睡眠時間も削られるとそういうわけです。

でも、ほんと、ベッキーじゃないけど、馬鹿は風邪引かないって言うけど本当かなー? あーうらやましいなーなんて不謹慎なことも思ってみたい。こんなの迷信だってことくらいわかっていますが、それにしても風邪を引きにくい人、体力のある人っていうのはうらやましいかぎりです。

『ぱにぽに』も連載は100話を越え、アニメにもなり、すっかり知名度をあげてしまいましたが、それでも私には初期のころの、あのよくわからないネタが次々あらわれたときの妙なテンションが忘れられなくて、たまに戻ってみたくなるんです。それで戻ってみて思うのは、『ぱにぽに』といわれて思い出すような文句のいろいろはすでに第1巻の時点で盛り込まれていて、それは先生だぞであったりオメガバカであったり、他にもウランが…ウランが…漏れたら…大変……やめれー大女〜マジで〜デビル尿もれパンツは保水力。カゼがナオンナーイ遊びタイガー等々。巻が進むにつれ、漫画の雰囲気はずいぶん変わっていったというのに、根本的なところは同じに感じられるというのは希有な話で、実際1巻を読み返してみても、そんなに違和感がないというのはたいしたもんであると思うのです。

てなわけで、なかなか風邪の治らなかった芹沢ですが、私の風邪はもうじき治りそうな気配です。ということでここでベッキーの一言を引用して今日の更新をまとめたいと思います。

流行ってるんだよー おまえらも気をつけろよー〜ぉ…

  • 氷川へきる『ぱにぽに』第1巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2001年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第2巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第3巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第3巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2002年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第4巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2003年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第4巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2003年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第5巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第5巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第6巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第6巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2004年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第7巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第7巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』第8巻 (ガンガンファンタジーコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 氷川へきる『ぱにぽに』初回限定特装版 第8巻 (SEコミックスプレミアム) 東京:スクウェア・エニックス,2005年。
  • 以下続刊
  • 氷川へきる『まろまゆ』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2004年。
  • 以下続刊

引用

  • 氷川へきる『ぱにぽに』第1巻 (東京:エニックス,2001年),96頁。
  • 同前,95頁。
  • 同前,96頁。
  • 同前,8頁。
  • 同前,12頁。
  • 同前,25頁。
  • 同前,56頁。
  • 同前,71頁。
  • 同前,85頁。
  • 同前,94頁。
  • 同前,96頁。

2005年12月13日火曜日

卒業 Graduation

 なんだか、私は隔週で風邪を引いていて、どんだけ体力がないというんだろう、なっさけないなあ、なんて思うのです。そういえば、昔こういうパターンで倒れていたキャラクターがいたっけなあ、といえば、それはもう『卒業』の中本静でしょう。もうそれこそ、体力下がると倒れると歌にも歌われたくらいのものでありまして、とにかくその体力の低さはゲーム開始序盤の最重要攻略ポイントであるといっても過言ではないかと思います。

そんなわけで、私においても体力の低さは最重要攻略ポイントであろうかと思います。

『卒業』というゲームにおいて、体力増強の手段はというとそれはもう体操なのですが、中本はというと、自分の体力のなさをちっとも省みることなく、勉強やら遊びやらに精を出してくれるせいで、ばたばた倒れる(ステータスが病気状態。ああっ、耳が痛い)。しかたがないから、中本の立ててくるスケジュールに口を出して、体操休ませるを増やしてやらないといけなくて、それでなくとも指導したいのが他にいるのに(高城、新井ってとこかな)、まいったなあもうだなんて思うのです。

ただ、それでもこのゲームのありがたいところは、教師への信頼度が低けりゃ別ですが、そうでないかぎりちゃんと指示を守ってくれるんですよね。それに、こまめに指図してやれば信頼度もちょこっとずつ上がっていくしで、いい子じゃありませんか。これ、きっと私だったら、絶対教師の指導なんて聞かんよな。ええ、絶対聞かないと思う。まあ、それで体力が今もって低いままなんでしょうが……。

このゲームは生徒のパラメータを上げ下げして、その結果が卒業時の進路に現れるという、そういうスタイルのゲームです。すなわち、マルチエンディングのゲームであるといえるのですが、なんでか私がやると、あんまり面白みのないエンディングにたどり着いてしまって。ええと、五人とも大学進学? うう、面白みがないなあ。

話に聞けば結婚エンディングというのがあって、しかも五重婚も可能(初期版では無理だったらしいですね)と聞くのですが、重婚どころかもう結婚さえかすりもしない。いったいどうなってんだー、というか、きっと私のプレイがあんまりに真面目というか、面白みに欠けるものなんでしょうね。

2005年12月12日月曜日

電子ブロック

  子供のころ購読していた学研の科学、多分広告かなんかが掲載されていたんじゃないかと思うのですが、電子ブロックという響きにはいやに科学的な含みがあって、欲しかった。いったいこれでなにができるのか、そもそもどういうものであるのか、昔の私はちっとも理解できていなかったのですが、それでもなにかすごそうだぞという予感があったものだから、内心憧れていたものでした。

でも、一度もねだったりしたことはありませんでしたね。きっと自分の手に余るものと思っていたのでしょう。実際電子ブロックは友人のおもちゃ箱の中にばらばらになって転がっていたのですが、私はちょっとさわるだけで、組み立てて回路を作ってなんて風にはちっとも考えませんでした。回路というものを作るものだという、そういう認識がなかったのです。

けど、私はハンダごて持って、市販のラジオキットを組み立てたりする少年でありましたから、もしかしたら電子ブロックで回路に目覚めたかも知れないのです。キットの中には、ハンダ付けの失敗でトランジスタを壊したりして組み上がらなかったものもありましたが、電子ブロックならきっとそういう心配もなく、いろいろな回路を組んではばらし組んではばらしで、きっと楽しいおもちゃになったろうなと思います。

私がこのキットを思いだしたのは、私のギター絡みの知り合いプリアンプの故障時に電子ブロックを使って部品交換の下調べをしたというそういう話を読んだからで、そういや、ずいぶん前に電子ブロックが復刻発売されていました。で、調べてみたらまだ売っていて大喜び。

多分これって、昔、子供のころ欲しかったんだけど、貧しい時代ゆえに手にすることができず、大人になってその夢を果たそうという大人が多いんじゃないかと思います。ええ、私なんかも、なんだかちょっと欲しいと思っていますもんね。これでギターのエフェクターとか作れたら、それはそれでちょっと受けるよなあとか思いながら、なかなか踏み切れずにいます。

2005年12月11日日曜日

Nike Free

私は、なんと似合わないことにナイキ製の靴を愛用していて、いやあ、スポーツなんてまったくといってもいいくらいしないのに、不釣り合いな話です。今はいている靴はエアモックなのですが、この靴、スニーカー然としていないところとか、その割に履いた感じがしっくりくるとか、そういうところが気に入っていて、最初のを履きつぶしたらまたエアモックを買ってくるというくらいにお気に入りです。

けど、エアモックも残念ながらモデルチェンジの波にのまれたというか、まあ、あんまり人気のあるシリーズではなかったと思うのですよ。一足目はほぼ定価で買ったはずですが、今履いているのは安くたたき売られているのを買いました。けど、今はもう探してもないんじゃないかなあ。なんか、全然違うものに変わってしまっていたように思います。

そんな私が次の靴として興味津々なのが、やっぱりナイキから出ているFreeというやつで、これはぐにゃぐにゃに柔らかいソールが特徴。はだしの感触とかそういうのが売りであるようです。

私がこの靴の存在を知ったのは、兄貴さんの日記で紹介されているのを読んでなのですが、このはだしっぽいというのはポイント高いかもなあと、そんな風に思いまして、というのも、靴はあんまりしっかりしたものではなくて、足裏に刺戟があるぐらいの柔軟なもののほうが健康的なんだそうです。だから、きっとこのFreeってやつはすごいぞと、そう思ってもう数ヶ月経ってしまいました。

この記事を読んで、私はすぐに大阪のナイキ店に見にいったのですよ。そうしたらですね置いてなくて、おいおい、売る気あるのかよ。といってもないのはしかたがないので、すごすごと引き下がってきた。その後、支出が増えたこともあって、靴のことは自然と忘却。でも今のを替えるのならFreeがいいなあ。そんな風に思っています。

Freeは無印のものとTrainerの二種類があって、Trainerは室内トレーニング用だったっけかな。また5.0と4.0という区分けもあって、4.0のほうがずっとはだしにちかいらしいです。今ちょっと調べたら、Walkというのも出る予定だったのが中止になったとか(残念!)。で、謎なのがAmazonの扱っているTrailで、山歩き用? でも、これもナイキのサイトでは見つけられなくて、でも実際には売られている模様。

いっぺん、余裕を見て靴屋を見にいこうかなと思います。よさそうだったら買っちまうかも知れません。

2005年12月10日土曜日

クライマーズ・ハイ

 最初に断っておきますが、私はこの本は読んでいません。今日、たった今見終えたNHKのドラマ『クライマーズ・ハイ』を見ただけで書いています。それも、前編を見ただけで。けれど、たったその半分を見ただけで、なんだか書きたくなってしまった。私にとっては、そもそも見ようとしていたドラマではなく、家族がニュースの続きに見始めたものを一緒に見たという、そんな消極的で希薄な見始めでしかなかったのですが、どうにも目を離せなくなってしまい、途中でコンピュータの前に座ったにも関わらず、どうしてもドラマが気になってしまってテレビに戻った。力のあるドラマ、物語であったと思います。

主人公は佐藤浩市。新聞社デスクとしてかの大事件、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故に立ち向かう過程で生じたことごとが描かれ、部下とのすれ違い、上司との衝突。メディアに携わる人間としての意気込みと、その陰に隠された汚い事実。ああ、こういうことってあるだろうと思いました。真実よりも優先されることがある。それは新聞社だけではない、すべての職場、すべての現場にあることであるとは思いますが、そうした様をこうしてみてみれば、その悔しさは突き刺さるようです。

ドラマはまだまだ序盤、本当のクライマックスは来週です。私はこれからの一週間を、ドラマ後編を楽しみに過ごすでしょう。

しかし、それにしても佐藤浩市はよい俳優で、岸部一徳もそうです。私はこの前編を見て、岸部演じる彼の思うところが知りたいと思って、きっとその胸にもやるせなさや悔しさがあったのではないかと、もしやすれば後編で知れることになるのではないかと、そのように思っています。

2005年12月9日金曜日

ナツノクモ

  ナツノクモ』の新刊が出ました。待ちに待った新刊です。

私がコミック・バトンで書いたときには、まだ『ナツノクモ』については知らなくて、だからもちろんこれを挙げることはできなかったのですが、ですがもし今コミック・バトンに答えるならば、疑いなく今おもしろい漫画としてこの漫画を推すことだろうと思います。面白い。確かに面白いのですが、私にとってはただ面白い、興味深いというだけにはとどまらず、読めば心ごともっていかれそうな、そんな気がしてならないのです。その奥にあるなにかに手が届きそう。その届いたものがなにであるかはまだ未知数ですが、ですがきっと私の心をなぐさめるに充分な、大きくて豊かななにかであるだろうと予感しています。

『ナツノクモ』は、MMO (Massively Multiplayer Online, 多人数参加型オンライン) と呼ばれるタイプのゲームを題材にしていて、物語の展開される場というのは、ゲーム内の仮想空間です。登場人物はすべてゲームのプレイヤーであり、いわゆる剣と魔法の世界の住人といったらいいのでしょうか、そうした、現実の自分とは違う自分を演じているわけです。

本来の自分とはちょっと違った自分を演じる彼らの頼りにするものは、想像力にほかならないと思うのですが、それは例えば子供のころにごっこ遊びをした、なんでもない世界に異世界や秘境を夢想した、そうした想像力の一種であると思うのです。ここでゲームに参加している人たちにしても、想像力を駆使して仮想世界を堪能していて、その皆というのがそれぞれに無邪気であったり素直であったりする。ですが、その無邪気や素直という評価は一概によいものばかりではないと、そのように思わないではいられません。

RPGは、想像力こそが頼りであるといいました。ですが、この漫画には、その想像力が目の前に描画されているものにしか向かない類いの人が大勢いて、彼らの想像力は、目に見えないところにまでは、彼らのまだ知り得ていないところにまでは届かないようなのです。自分たちの信じている、 — 思い込んでいるものこそが正しくて、理想的で、正義であって、そうした無邪気さはこの漫画の外にも存在すると私は知っていますから、悲しくて悲しくてやり切れない気持ちでいっぱいになります。あまりに悲しいものだから、いつかその想像力が届かないところ — 周辺あるいは向こう側 — に追いやられてしまっている動物園の住人たちが理解される日が来てくれればよいと願わないではおられず、理解はされなくとも、普通の人間であると、喜んだり悲しんだりする、善良なところもあれば悪いところもある普通の人間であるということに、あまりに無邪気すぎる彼らが気付いてくれれば、と思っています。

篠房六郎は馬鹿な漫画も書いたりしますが(私はその馬鹿さも好きなのですが)、時に見せるシリアスは途方もなく遠大で、人の心の機微を描き出すことにかけても並大抵ではありません。

私は偉大な漫画家を知っていると、そういってはばかりません。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2005年12月8日木曜日

Boy’sたいむ

 Cinema Baton企画も終わって、今日から通常営業に戻ります。Cinema Baton期間中に出版されていた四コマコミックについて書こうかと思います。

『Boy’sたいむ』は、ちょっとした手違いから男子寮に入ることとなってしまった女の子、葉山ひろむが主人公のギャグコメディ。ええーっ、そんなことあるわけないよ、なんて非現実的な話なんだ、といいたいところですが、とりあえず同じようなシチュエーションの漫画、ちょっと考えればいくつでも出てきそうです。って、最初に出るのが男の子が女装して女子寮(あるいは女子校)に入るのばっかりというのもなんですな。そういう意味では、『Boy’sたいむ』は逆パターンで希少なのかも知れません。

藤凪かおるは今四コマ漫画誌に複数連載を持っていて、そのひとつが『Boy’sたいむ』であるわけですが、絵柄も可愛く、四コマとしても面白くで、結構期待できそうな作家じゃのうと思っていた矢先の単行本出版です。貧乏暮らしの一家の頭である兄とその恋愛模様が楽しい『パニクリぐらし☆』に、重度の男性恐怖症であるヒロインがおかしい『ひめくらす』。私が好きなのは『パニクリぐらし☆』ですが、『Boy’sたいむ』も悪くないなあ、そんな感じに思っています。

『Boy’sたいむ』は、どたばたとした印象をしっかりとだしながら、その実うまくまとまっているから読みやすくて、 — けどちょっとまとまりすぎてる嫌いもあって、そのせいか食い足りなさを感じることもあるんですが、全体にしっくりとして無茶をしないから最低ラインは保証されている。そんな感じの漫画です。

ホームランをがんがん打っていくタイプというよりも、ヒット性の当たりを大切にする、そういう作風なんだと思います。スター性よりも堅実な職人風、人によっては地味に感じるだろうし、漫画にダイナミズムを求める人は物足りないというかも知れませんが、けどこういうしっかりとした作家に光が当たるのは、私が地味好みということを差し引いても、よいことだと思います。

  • 藤凪かおる『Boy’sたいむ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年12月7日水曜日

モンスター・イン・ザ・クローゼット / 暗闇の悪魔

 サンフランシスコ郊外の町で発生する謎の連続殺人事件。完全なる犯罪に誰もが怖れを抱き、しかし犯人は依然として不明のままだ。謎の殺人犯とはいったい何者なのか。

犯人……、犯人は、クローゼットからあらわれる謎のモンスター。クローゼット間を点々と移動しながら人間を襲い、その強さは半端ではない。軍が出動してなお取り押さえることのできない凶悪な殺人モンスターを前に、我々人類はその存亡を賭けた対モンスター大作戦を決行する — 。

以上が『モンスター・イン・ザ・クローゼット』のあらすじです。常識をはるかに越えた捕食者の出現に町はパニックになり、いや混乱は町だけにとどまらず、全米、いや全世界にまで広がって、しかしこれをホラーと見るかどうかはちょっと微妙なところで、というのは、きっとこの映画を見終わった頃には私たちはモンスターにこそ憐れみを感じてしまうに違いないからなのです。

私がこの映画を見たのは、確かテレビ大阪が日曜の日中二時とかに放送しているような、そんな気付かれにくい時間帯での放映で、よく見落とすことがなかったものだと、自分の注意力に感謝したい気持ちでいっぱいです。こうした日中の映画は、視聴率をとりにくい、あんまり話題にならなかった佳作とか昔の名画とか、そういうのが多いですよね。なら、『モンスター・イン・ザ・クローゼット』は前者でしょう。

私はこの映画がDVD化されてるだなんてまったく思わず、今回調べてみて驚いてしまいました。なんと、リリースされてるんです。その価格は税込みで4,935円! 買ったやついるのか!? じゃなくて、惜しい、絶版になる前に気付いていたら、欲しいと思ったかも知れないのに。

『モンスター・イン・ザ・クローゼット』は、せいぜいB級、あるいはそれ以下と見るのが妥当な評価でありますが、それがこうしてリリースされているというのは、あの名もないモンスターがいかに愛されていたかという証拠であると思うのです。

あの、人類の大反攻作戦に追いつめられたモンスターの姿。無人のビル街、行き場を失ったモンスターはついに倒れて、人類の勝利が確定した瞬間です。ですが、この物悲しさはなんだろう。私は、この人を襲う凶悪な殺人モンスターにいつしか感情移入していたとでもいうのでしょうか。いや、あるいはそれは滅びゆくものに感じる哀しさであったのかも知れません。

余談ですが、この映画にもなんだか変な日本が出てきて、それは世界的大反攻作戦にワンカット挿入される小シーンに過ぎないのですが、あのインパクトも忘れることができません。

もし、今、ハリウッドプライス1,500円とかでこの映画がリリースされたら、きっと私は欲しいと思います。出てくれないものかと、はかない期待をしてしまいます。

2005年12月6日火曜日

ハウリング

 公開時に流されていたテレビCMが怖くて、トラウマのようになった映画。それが『ハウリング』です。キャッチコピーは「五分前は人間だった」。じゃあ、今はなんなんだというと狼男なんですね。人が狼になるというシーンをCMでも流すんですが、狼男がいるところにモザイクがかけられていて、その不鮮明さが、そこに得体のしれないなにかがいるんだという強烈なメッセージとなったのでした。

いやあ、あのコマーシャルは怖かったですよ。本当、夜にトイレにいけなくなるし(でもいくんだけど)、日が暮れたら表も歩けない(といっても歩いたんだけど)。今から考えればなんて素朴で素直な子供時代って感じですが、だって怖かったんですからしかたがないじゃないですか。

ここまで書いて、わかりました。私、この映画、劇場で観てないです。なんかと勘違いしてますね。私が見たのは、吸血鬼がいる建物かなんかに、吸血鬼退治をなりわいにする男が向かって、ってそんな映画だったんですが、ヘルシング教授? いや、ヘルシングの孫だとかそんな感じだったと思うんだけど、そもそもヘルシングかどうかさえ覚えがなくて、ラストがなんか吸血鬼の眠る棺桶をあばいて、胸に白い杭を打ち込んで、いや、それでも死ななくて、結局太陽の光で退治してとかだったっけかなあ。

この手の映画はうちでは人気がないので、まさかわざわざ券買っていったとは思えない。多分、券をもらったとかそういう口なんだけれども、しかし、ここまで覚えていて後はまったくわからないというのも困ったもんです。年代は1980年代中盤から後半にかけてだと思うんですが、覚えがあるという方がいらっしゃったら、教えてくださるとありがたいです。

『ハウリング』は後にテレビで観たんでした。その時にようやく狼男の映画であると理解して、そして迫力の変身の場面なんですが、残念ながら暗くてよくわからないというのが感想でした。

あまりに想像の中にうごめいた『ハウリング』がおそろしすぎたためか、それほど怖いとも思えず、なんだかぱっとしない感じとなってしまいました。

今見れば感想も違うのかも知れませんが、残念なことです。

2005年12月5日月曜日

じゃりン子チエ

 『じゃりン子チエ』のアニメは、関西に育った人なら何度も再放送で見たことがあるんじゃないかと思います。ホルモン屋を切り盛りする薄幸の美少女竹本チエちゃんとその親父テツ。そして逃げた女房ヨシ江はんの、どことなく水臭くて、けど本当のところはものすごく濃厚なつながりができあがっている様が気持ちよくって嬉しくなります。濃いのはなにも親子三人だけでなく、破綻家族を見守る地域との絆も半端ではない。おばあはん、おじいはん。お好み焼き屋、カルメラ兄弟、そして忘れちゃならない花井先生。ああ、お巡りさんもいたっけね。チエちゃんを取り巻く人間関係は、誰もがどこか駄目だったり無茶だったりするけれど、大事なものはしっかり持っているから、私はこのアニメがとにかく好きだったのでした。

『じゃりン子チエ』の劇場版アニメ。残念ながら私は劇場ではこのアニメ、見たことがないんだけど、でもテレビでは何度も観て、LDも買った。LDはDVDとは比較にならないくらい高くて、けど買った。それくらい好きだったのだと思ってくださるとありがたいです。

どこが好きかなのかは、最初にもいったとおり。人間模様の豊かさ。私は関西は関西でも京都のはずれ育ちで、それこそチエちゃんの暮らす通天閣を見あげる界隈のような濃厚な人間付き合いはありませんでしたが、それでもなにしろ昭和ですからね。近所、地域のつきあいというのはありました。

今から思えば、ずいぶんと煩わしいこともあったんじゃないかと思います。ですが、それでも地域ぐるみでわれわれ子供をかまってくれたりというのは普通にあって、地蔵盆とかそういうのも楽しかった。地域ぐるみというのはえてして排他的で、こうしたものが悪く働けば私が敵のように思っている世間そのものになるのだろうけれど、それでもよい部分はあったのだと、この映画見ればそう感じます。

Cinema Batonの問4、愛する人とみたい映画に『じゃりン子チエ』を選んだのは、私が育った時代の空気を、この映画をとおして知って欲しいと思ったからかも知れません。同じような時代に育った人なら、きっと積もる話もあるでしょう。もし違う世界で育ったならば、私のメンタリティの基礎を知ってもらういい機会です。でも、本当はそんなことが理由じゃなくて、大人になりきれないテツが、それでもチエちゃんを好きでしかたがないことや、両親がうまくいかないことを子供ながらに気に病んで、仲を取り持とうとするチエちゃんのけなげさを見て、胸に込み上げるものがあればそれを誰かと分かち合いたい。

そういうことなのだろうと思うのです。

2005年12月4日日曜日

ユマニテ

 立て続けに子供を狙った犯罪が起きて、こうしたことは決して最近だけのことではないし、洋の東西を問わず綿々と繰り返されてきたこともわかってはいるのですが、それでも暗鬱とした気持ちになります。人間には理性や悟性というものがあるはずなのに、欲望、衝動は簡単にそうした枠組みを乗り越えてしまう。それは、今こうして起こってしまったことに憤りを感じている私でさえも例外ではなくて、いつかどうかして枠組みを越えてしまう瞬間を迎えるかも知れない。そう思えば、我々の善性とはなんと危ういものであるのでしょうか。人の暗い側に向いた顔を思うとき、私は決まって死の影に思いをはせます。

『ユマニテ』は、フランスの田舎で起こった強姦殺人事件をめぐる人間模様を描いた映画で、その殺されたというのがまさに少女であることから、こうした事件の起こるたびに、私は『ユマニテ』という映画とその主人公ファラオンを思い出します。

『ユマニテ』 — humanitéは、フランス語で人間そのものや人間性を現す語で、私はこの映画を見るごとに、人間とはいったいどうしたものであろうかと煩悶します。映画は、あたかも撮りっぱなしのドキュメンタリーを見せられるように淡々と進行し、さまざまな出来事も、それらは特別な出来事でありながら、とりわけ盛り上げられることもなく、淡々と日常のエピソードとして過ぎていきます。ですが、そうしたエピソードが積み上げられていくことで、ひとりの人間 — おそらくは誰もの身に起こりうる人生のドラマの一局面が描き出されるのです。

ですが、きっとこれを見た人は戸惑いを胸に抱くのではないかと思います。『ユマニテ』は実にヨーロッパの映画であり、すなわち解答を提示するタイプの映画ではありません。問題を提起し、そのすべてが最後に観客に突きつけられることで物語は閉じられて、その先は映画を見た一人一人の問題意識にゆだねられるのです。

この映画の問は、非常に大きく深く、手ごわいものです。簡単に答の出るものではなく、おそらくは一生をかけて明らかにしていく類いのもので、私にしても当然その答を探す途上にあります。

例えば、私がファラオンの立場に立たされたとき、なにを思うだろうか。アクションを起こすとすれば、それはどのようなものになるだろうか。あるいは、ファラオンが友人ならば。ファラオンの友人ならば。この地方に暮らす一住民の立場ならば、子を持つ親であれば。そして、一人の人間としてどのように考えるのか — 。

タフな問い掛けです。

2005年12月3日土曜日

遠い夜明け

 『遠い夜明け』は父と一緒に行った映画で、試写会の券があたったかもらえたかで、どんな映画かわからないけどせっかくもらったんだからいってみましょうと、それくらいの軽い気持ちであったことを覚えています。映画の内容についてはまったく知らず、だから面白くなくってもいいや。新京極に出て、映画館の一階にはマクドナルドがあったから、当時はまだ高嶺の花だったビッグマックを持ち帰りにしてもらって、映画館で食べたのが楽しかった。私も父もあれを食べるのははじめてで、なんというか食べにくいの一言です。かぶりつくと、真ん中の段が向こう側に脱落するんですよね。と、こんな気楽な気持ちで臨んだものだから、映画のインパクトはこのうえもないものになりました。

『遠い夜明け』は、人種隔離政策がしかれていたころの南アフリカを舞台とした映画です。

この映画は1987年の公開で、私は中学生ですね。でも、中学生でもこの映画の内容、その中核となる部分は充分理解されるものであったと思います。小学校中学校の授業でも南アにおけるアパルトヘイトは扱われていましたし、当時の心ある中学生はそうした事実をちゃんと知っていたのですから。

人種による差別が実際に政策レベルでおこなわれている国があるのだというのはショッキングなことでしたが、なにぶん遠い国のことで、さすがにその実体がどうであったかは知らないわけです。せいぜい、バスやレストランが分けられているだとか、黒人は劣悪な環境の居住区に押し込められているだとか、それぐらいしか知らなかったはずです。

ですが、この映画は、そうしたおぼろげにしかなかったアパルトヘイトを具体的に見せて、私は、遠くの地に人間として生きることを剥奪されてしまっている人がいるということを、実感として理解した気がしたのでした。それは想像を絶するもので、ひどいと思った、許せないと思った。しかもこの映画はノンフィクションだものだから、映画を見終わったらそれでおしまいといったものではなく、私たち父子がこうしてレクリエーションに出て、なにごともない平和にまどろんでいる現実の裏に、アパルトヘイトという苛烈な事実はなお存在していたのです。

行きの気楽さとは打って変わって、帰路は口数も少なく、重い足取りであったことが思い出されます。

ですが、重い足取りといっても、それは見なければよかったというようなものではなく、父も私も見てよかったと、そして広くこの映画は見られるべきだと、そういう感想を持っていました。

後年、テレビでこの映画が放送されたとき、私は母と姉に見るべき映画だといって家族で見て、そして父もこの映画のことをしっかり覚えていたことを嬉しく思いました。今ではアパルトヘイトも廃止され、南アにおける人種差別問題は解決の方向に向かっていますが、それでも差別は依然残っており、それは南アという一国にとどまる問題ではないことを今の私は知っています。

ともすれば、今あるぬるい平和に甘んじがちな私ですが、それではいけないと、あの時、あの帰り道で思ったことはなんだったか、折りに思い出さねばならないなと、この映画を思い出すたびに自分の無知、不明を恥じます。

2005年12月2日金曜日

デイ・アフター・トゥモロー

 地球温暖化がなんだか具体的に感じられるここ数年。このまま地球が暑くなっていったら、私らはどうしたらいいんだ、みたいな嫌なことを思った人も多いんじゃないでしょうか。日本はきっと熱帯になるんだろうなあ、とか、極地の氷が溶けて横浜は海に没しちゃうんだろうなあとか、あるいは、昔は日本にも四季があったんですね、なんてラジオでいわれる未来が待っている? いや、そうじゃないんだ、このまま暑くなるんじゃなくて、再び氷河期が訪れるのだよ、というのがこの映画。変わり者で知られた気象学者の警告を無視する経済大国の大統領。だがしかし、地球規模での大環境異変はもう人間には止められないほど間近に迫っていたのです! 君は生き残ることができるか?

『デイ・アフター・トゥモロー』の監督は、かの『インデペンデンス・デイ』やアメリカ版『GODZILLA』のローランド・エメリッヒで、なんか『インデペンデンス・デイ』はすごかったらしいですね。うちの母親が招待券でももらったか映画館で見たらしいのですが、開いた口が塞がらなかったとかいう話です。

私が『デイ・アフター・トゥモロー』を見たのは、映画の券をもらったからだったのでした。かの素晴らしいトニー・ジャーのアクションが魅力の『マッハ!!!』との二本立てで、で、映画のできはどうだったかといわれたら、私にはとてもよかったのでした。

そもそも私は、映画見としてははなはだ問題のある人間で、そもそもハリウッド的なるものが好きじゃないときています。なんだよ、結局家族一番、アメリカ一番、みんなで愛を確かめあってハッピーエンドがお決まりじゃんかよ、ってな、だってママのアップルパイは最高じゃないか的展開には耐え得ないのです。ですが、まさにそうした展開であった『デイ・アフター・トゥモロー』は嫌いじゃない。なにが違うかといえば、そうですね、多分、現代文明の粋であるアメリカにしても地球規模での大異変には立ち向かうことのできなかったという、そうした人間の小ささ、無力さ、はかなさがちらほらとしていたからではないかと思うのです。

無力に過ぎない人間が、圧倒的な自然にどう立ち向かうか、 — いや、立ち向かうじゃないですね。どうしのぐか。もしかしたらすべてが無駄になるかも知れないけれど、今できる万全を期そうとする姿がけなげで、例えばそれは主役ジャック(気象学者)の息子サムがニューヨークは国立図書館で、彼の言葉に同調し図書館に残った人たちとともに、本を焼き、暖をとり、異常寒波をやり過ごそうとする、そうした姿はなにより人を元気づけるし、そして、主役ジャックが、息子を助けんがためにもはや極寒の地となったニューヨークへと向かうその姿。こうした、シンプルな隣人愛、家族愛のどこが悪いというのでしょう。きっと、私は意固地になっているのだと、素直に反省し感動しました。

けど、私はいつも隅っこの、目立たない人たちに心を奪われる癖があり、それはこの映画でも同じでした。図書館に立てこもるべきと説いたサムの意見を受け入れず、南に向けて出発したグループ。そのリーダーとなった警官の思いはどのように揺れたのだろうか。多くの命をあずかった責任もあらば、その胸にはいかな思いが渦巻いたものか。後悔しただろうか、悔しくはなかっただろうか。ジャックの無謀につきあい支援すると決めたものの、足手まといになるまいと決断したチームメイトの彼の思いは(というか、なんであそこで手袋外す必要があったんだ?)。そして、もう助からないことを理解しながら、冗談で決め、スコッチで乾杯するラスキン教授と研究員たち — 。

その時、なすべきことを果たして死んだ人間は、皆いい奴らだと思います。

なすべきことを果たそうとして生きる人間も、同じくいい奴らだと思える、そういう映画でした。

蛇足

この映画に出てくる日本はすごいぞ! 映画に出てくる変な日本大好きの私には、大変満足できる日本でありました。

2005年12月1日木曜日

Cinema Baton

ちょっと前、Musicul Batonというのが大流行を見ましたが、その亜流もたくさんあって、コミック・バトンには私も答えました。で、シネマ・バトンというのもあるらしいじゃないですか。

そんなわけで、私にまわってきたわけでもないのに答えてみようと思います。だってさ、いい加減Blogに書くことないんだ。それに、こんな機会でもないと、一生語ることのない映画というのもあります。バトンだとかなんだとかは関係なく、ある一定のテーマに基づいて記憶をさかのぼることは、自分の意外な一面をのぞくことにも繋がる貴重な機会でもありますし。

シネマ・バトンでは、DVDやビデオではなく、映画館で見た映画のみで答えていきたいと思います。

1. 初めて映画館でみた映画
映画ドラえもん のび太の恐竜
モスラ対ゴジラ
2. 最後に映画館でみた映画
マッハ!!!
デイ・アフター・トゥモロー
3. 心に残りつづける映画
E. T.
南極物語
遠い夜明け
4. 愛する人とみたい映画
じゃりン子チエ
5. ホラー
ハウリング

本当は、ホラーでは『ハウリング』なんか(なんか呼ばわり!)ではなくて『モンスター・イン・ザ・クローゼット』あたりを推したかったのですが、残念ながら私はこれをテレビで一度観たきりなのです。残念! あんなに素晴らしい映画なんですが知名度は極めて低く、私はその日の目のみなさに小さな胸を痛めています。

さて、以上見ていただいたとおり、ほとんどの映画はもうすでに書いてしまっています。で、実は上にはひとつだけ、劇場で観ていない映画がありまして、果たしてそれはなにかというのは、この後おいおい明かされていくんではないかと思います。

2005年11月30日水曜日

迷宮書架

 病床で、『星のズンダコタ』を読んで、そのまま『迷宮書架』に移行。『迷宮書架』は雑草社の雑誌『活字倶楽部』に掲載されている四コマ漫画で、けどちょっと掲載の仕方は異色かも。というのはですね、ジャンルごとに分けて掲載されるBOOK REVIEWの各ジャンル扉に載っているのですよ。『かつくら』は季刊で、各号に漫画は六本。「SF・ファンタジー」,「ミステリー・ホラー・サスペンス」,「現代文学・純文学・歴史・時代小説」.「エッセイ・ノンフィクション・ガイドブック」,「少女小説・ボーイズラブ」,「海外翻訳小説」のカテゴリーにまつわる四コマは小気味よく、レビューを読む前のわくわく感をうまく盛り上げてくれてます。

私は以前図書館で働いていたことがあるのですが、そこで一緒に働いていた人が『かつくら』の購読者で、私はそれを見せていただいていたのでした。知らないだけでいろんな雑誌があるのだなあと感心して読んだのですが、まさかひらのあゆが漫画書いているだなんて思いもしなかったもんですから、はじめて借りたときは驚きましたね。

各カテゴリーをうまくあしらった四コマは面白く、本好きなら共感するだろう、いやただの本好きじゃないな、書狂といったほうがしっくりくるんじゃないかと思うんですが、そうした人なら絶対面白い。で、私はそうしたマニアの口だから、やっぱり面白かったんですね。

こうした扉を飾る漫画ですから、きっと単行本なんて出ないと思っていました。だから、なんとか確保したいなあと思うのはおたくの性で、でも人の雑誌だから切るわけにもいかんし、そもそも自分の雑誌でもはさみ刃物を入れるのは抵抗あるしで、スクラップ作戦は不可。コピーあるいはスキャンする? けど、雑誌が開いちゃうもんなあ。

ある種、本に関しては異常者の域に踏み込みつつある私には、この漫画を確保するのは至難で、だからすっぱりあきらめるという選択をしたのでした。あきらめるという選択肢がない人生は、苦痛ですじょ。

で、そうしてあきらめていた漫画が単行本になった! 嬉しい! 必ず手に入れたいもんだからジュンク堂に注文して、そしたら発売日に現物を書店で見つけてしまって、どうしても我慢できないもんだから買ってしまったら、当たり前だけどジュンク堂から届いてしまった。

今、うちにはこの本が二冊あって、一冊は読みやすいように本の山の中に(うそ、全然読みやすくなんてない。行方不明本は山ほどありますから)、一冊は日の当たらないように戸棚の中に封印。いやあ、マニアっていやですね。いや、本当にいやなもんです。こんな性格に生まれたことを呪わないではおられませんから……。

各号六本、季刊だからかける四、一年で二十四本しか書かれない漫画です。そんなわけで、『迷宮書架』が出るまでに九年かかって、だから、次は、多分2012年。ああ、すごい未来みたいに思えますね!

  • ひらのあゆ『迷宮書架』東京:雑草社,2003年。

2005年11月29日火曜日

たるとミックス!

  物語からキャラへと漫画の比重が移ってきたという話に以前ちょっと触れたことがありましたが、『まんがタイムきらら』誌はまさにこうしたキャラへの重点移動を仕組んだのであろうなと、そんな風に思います。今、四コマ漫画は、四コマ一本で完結するスタイルもあれば、一回分を使って軽ストーリーを展開するものもあり、そして複数回に渡り重厚にストーリーを見せるものもありと、まさに多様なスタイルにあふれていますが、本来的には四コマ完結を基本スタイルとしており、そういう意味では四コマ漫画においてはキャラよりも起承転結で表現されるネタが重視されてきたわけです。

ですが、今はもう起承転結だけの時代ではない。よりキャラ性が前面に押し出され、むしろキャラ性の希薄なようではいけないと、そういう傾向を強めているのが今の四コマ漫画であると思います。

キャラというのは、視覚的なデザインと、それに付随する記号(属性だなんていったほうがわかりよいですかね)の総和であると思うのですが、一定の諒解のもとで組み合わされた属性によってできあがるキャラの有効性は、馬鹿にできないものであると思います。そもそもこうしたキャラ性に引きつけられるというのは人間の性みたいなもんであるわけで、昔はそうした傾向に歯止めをかけよう、そんなものはしょせんまやかしに過ぎないのじゃ、というそういう考え方があった。けど、今はそうしたものから自由になって、キャラ性への傾倒をおおっぴらにしてはばからない。そういう変化があったのだと思います。

『たるとミックス!』は悪魔退治をなりわいとする双子の兄妹の魂が入れ替わって、というそういう非現実的な前提を持った四コマで、ですがこういうのはもはやお約束といえる範疇であるかと思います。その他たくさん出てくる非常識的な登場人物にしても、そうしたお約束をうまく踏襲していて、こうした漫画を面白いと感じるのは、私と漫画が同一のお約束の範囲にいるという、共感や帰属感が生まれるからではないかと思います。

こうした面白さというのは、一種楽屋落ちに近いものがあるのかも知れません。私にはわかる、というそういう近さがさまざまなネタから感じられ、それら感覚が登場人物に振り向けられることで、登場人物への共感や愛着を引き起こすのかも知れないと、『たるとミックス!』を読んできた感想はそのようなものでした。

実をいうと、私、最初はこの漫画、あんまり好きではなかったのです。読む分には読んでいましたが、あまり面白いと思えなかった。ですがいつしか面白いと思いはじめて、おそらくこれは私がこの漫画の読み方を覚えたということもあるのだと思うのですが、でも多分それだけじゃない。私が、きらら誌や他の媒体をとおして、こうした漫画のスタイルにそぐう感性を身に付けたためであろうと、そんな風に思っています。

四コマ漫画にはいろいろなスタイルがあってといっていましたが、最初に上げたスタイルでいえば、『たるとミックス!』は一回分を使って軽ストーリーを展開するものにあたります。ですが、私はこれら萌え系と呼ばれた四コマに関しては、そうした表面的な分類ではくくれないものがあると思っています。

おそらくは、これこそが物語(四コマならば起承転結)からキャラ性への転向ではないのかと、これが現時点での私の理解です。思えば四コマという形式は、もともとストーリーが希薄でも問題がないのでありますから、キャラの魅力を最大限に生かしうるフォーマットではないかと、そしてそうしたやり方を最初に発揮させてみたのが『あずまんが大王』だったのではないかと。

思い起こせば、『あずまんが大王』を萌え漫画といって罵倒する人がいて(かつて萌え系という表現はあざけりの文脈で使われていました)、『あずまんが大王』ファンはそうじゃないよと、決して接近することのない平行線のような論争めいたものがかつてありました(もちろん、私は後者側)。『あずまんが大王』で萌え漫画であれば、『たるとミックス!』は完全にアンチあずまんがには受け入れられない漫画でしょう。

ですが、私には『たるとミックス!』は面白くて、特に兄貴たるとと妹りぼんの入れ替わりに伴う男性女性性の混乱は面白く、そこへもともと混乱している桐生まことや栗原飛鳥が絡んでくれば、もうどうしようもないくらいでした。神供子とりぼんの確執も好きなテーマで、これらがうまく回転して脂も乗ってきたと思った矢先に終了したのは、かなりのショックでした。

でも、一番いい時期に終わって、惜しまれて、漫画にとってはよかったのかも知れません。その後はじまった『ぷら☆みすらんど』も好感触ですし、私にとって神崎りゅう子はちょっと目を離せない感じになっています。

蛇足

栗原飛鳥はもうとんでもなく大好きでした。なんというか、あのたるとりぼん、桐生まこととの三役揃い踏みの回、最高でしたよ。とりわけまことにしがみついた時の背中のラインの艶めかしさといったら……。私、とならつきあえると思います。

あと、神供子は可愛いですね。ああいうタイプの娘は、あんまり好きじゃないはずなんですが、でも神供子は可愛かった。当然、りぼんも好きです。たるとりぼんやりぼんたるとのほうが好きかも知れませんが。

反省

もっと、『たるとミックス!』のよさを前面に押し出したかったのですが、力及ばず、二転三転支離滅裂、書こうと思ってたことには結局たどり着けず、大変申し訳ないことになってしまいました。

いつか、もっぺん書こう。

余談

テヅカ・イズ・デッド』は、近々にでも読んでみようと思っています。

  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 神崎りゅう子『たるとミックス!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年11月28日月曜日

てんちょおのワタナベさん

  『てんちょおのワタナベさん』は、記念すべき『まんがタイムきららコミックス』(現在は『まんがタイムKRコミックス』)の第一冊目であり、今から考えれば、この出版こそが偉大なる第一歩、ジャイアント・ステップであったのだと、しみじみ胸に兆すものがあります。『まんがタイムきらら』誌は、当時まだ充分に発見されていなかった萌え四コマを開拓すべく発刊され、それまでの、マニアやおたくのなかでもさらにコアな連中にしか見いだされていなかった四コマを、おたく的領域における重要なジャンルとして確立させるにいたりました。表面的にはマニアやおたく向けチューンを施すことで、しかしその底層では四コマの語法を拡大させることに寄与しました。発足した当時は萌え四コマといわれたこれらジャンルは、そのエッセンスをオールドスタイルに逆流入させるまでに成長し、そしてこの記念碑的第一号コミックスとなった『てんちょおのワタナベさん』は、本日発売された第三巻をもってめでたく完結です。

思い出します。『てんちょおのワタナベさん』が出版された当時、私はこの漫画を購入するかどうかで煩悶し、購入すればきらら系の支持、見送ればきらら系の不支持を表明するに同じであると、内心そんな風に思っていました。とはいっても、実際にはそこまで悩んだり深く考えたりすることはなくて、せっかくきらら系のコミックスが出るのであるからと、ご祝儀包むつもりで買いました。そして、これがきっかけとなったのか、その後私の四コマ系コミックスの購入には歯止めがなくなり、どれくらい買っているかは、このBlogでの記事をご覧になれば推測も可能なのではないかと思います。

『てんちょおのワタナベさん』が出た当初のきらら誌と、今のきらら三誌を比べれば、驚くほどの違いがあって、知らぬ間にこれだけの時間が経ったのだと、不思議な気持ちにとらわれます。『てんちょおのワタナベさん』のころには萌え四コマと呼ばれたこれら四コマですが、今では萌え四コマという表現はしなくなり、当時は新ジャンル開拓の最先鋒であったように感じた『てんちょおのワタナベさん』も、穏当なオールドスタイルの空気を感じるさせる少し古風な漫画と感じられます。

ここで勘違いして欲しくないのですが、古びたといってるわけではないのです。知らぬ間に、ずいぶんと遠くにきたのだなとそうした感慨がいっぱいで、移行期を担ったこれら四コマ漫画たちはその仕事を実によくはたしましたと、お疲れさまと、ねぎらいたい気持ちでいっぱいです。

2005年11月27日日曜日

But Two Came By

 Jack Orionをいろいろ聴き比べてみようという企画。最後の盤が届きました。マーティン・カーシーというシンガーでギタリストが、デイブ・スウォーブリックというフィドル弾きと一緒にやっているアルバムBut Two Came Byに収録されたJack Orionです。

私はマーティン・カーシーについてはよく知らなかったのですが、どうやらサイモン&ガーファンクルのポール・サイモンの師匠ともいえる人であるらしく、有名なS & Gの『スカボロー・フェア』は、カーシーの演奏にルーツを見ることができるらしいです。と、マーティン・カーシーはそういう人だという情報を得て私は、ならきっとよい歌手だろうと、知らないままにアルバムを買ってみようという気になったのでした。

マーティン・カーシーの歌うJack Orionは、English and Scottish Folk Balladsに収録されたJack Orionと同じメロディを持っていて、歌詞にしても、そもそも外国語の聴き取りに関してはことさら自信のない私ですからなんともいえないのですが、ほぼ同じである模様です。

Jack Orionではギターは弾かず、フィドルによる伴奏が軽快で、面白みを出しています。このフィドル伴奏というのはEnglish and Scottish Folk Ballads収録の版でも同様で、これはJack Orionの主人公Jack Orionがフィドラーであったからなのでしょう。あの伴奏の響きこそが、フィドル一梃を頼りに諸国を遍歴するジャックを彷彿とさせるのでしょう。

マーティン・カーシーは、民謡の風合いをわずかに残しながらもすっきりと整理された歌い口が聴きやすく、これを派手さがないと見るか、あるいは安定していると見るか、それは人それぞれであるかと思います。

私は、ほら、地味なのが好きですから、この人の歌はいいなと、そんな風に思いました。朗々と歌うでもなく、けれど朴訥としているでもなく、歌うべきところはしっかり歌って聴かせる、ちゃんとした歌手であります。こいつはちょっと過去アルバムをさかのぼってみるのがよさそうだぞと、しかしえらくさかのぼりたいシンガー、ギタリストが増えてしまって、私はちょっと大変です。

2005年11月26日土曜日

星のズンダコタ

  ひらのあゆといえば、『ラディカル・ホスピタル』で知られた人で、他にも『ルリカ発進』とか『迷宮書架』で知られた人で、って、おおい、『迷宮書架』はもう手に入らないのかあ。名作だというのに、あの、本を楽しむ人にはたまらなく面白い漫画なのに、入手困難になっているというのはもったいないことです。

私がひらのあゆを知ったときには、すでに『星のズンダコタ』は入手困難になっていました。確か、大阪旭屋書店のコミックフロアで、二巻だけはなんとか買えたんですよ。けど、一巻はもう注文出しても通らない状態。ジュンク堂に泣きついても駄目で、しかたがないからネットで探して中古で押さえました。

その非常に入手困難だった『星のズンダコタ』が復刊されました! ああ、嬉しい。これで、ズンダコタ文明を知ろうとしてかなわなかった夢の探し手たちもうかばれることでありましょう。

クールな態度、しかし胸には情熱を秘めた考古学者、香神壮一郎が我らの主人公。行方の知れない森本博士を探しだし、そして彼はあの幻のズンダコタ文明にたどりつくことができるのでありましょうか! というのが、漫画のあらすじ、というか基本設定といったほうがいいのかな? こうした状況の中、一癖も二癖もある人物に右往左往して、時には迷い、時には奮起奮闘する香神を愛でようという漫画です。

基本的にはどたばたのコメディ。一見すれば自分勝手で迷惑そのものだけど、本質的にはチャーミングで仲間思いの登場人物がわんさと出てきて、その関係というのがすごく魅力的だもんだから、私はうらやましい。みんながみんな変わり者であることを自覚していて、だからお互いを許し合えるというか、認めあえるというか。ある種、おたく的理想の関係が成立しているのだといっていいんじゃないかと思います。

この、表面的にはぐだぐだなんだけど、基本線はびしっと通っている人間関係を描かせたら、ひらのあゆはうまいなあと思うんです。『ラディカル・ホスピタル』もそうだし『ルリカ発進』もそうだったし、で、その人間関係が暖かいのは本当に素晴らしいことだと思います。お互いを尊重しあい、慈しみあえる。けれどそれは私を犠牲にするとか、そういうのとは全然違っていて、個が立って、非常に自由で自然な状態なのです。

だから、私はひらのあゆの漫画が好き。『星のズンダコタ』は、普通の漫画読みには勧めたくない漫画ですが、私がこれぞと思う人なら、面白いよー、と勧めたい。とっておきの漫画であります。

  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ZERO-SUMコミックス) 東京:一迅社,2005年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第1巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。
  • ひらのあゆ『 星のズンダコタ』第2巻 (ぱふコミックス) 東京:雑草社,1998年。

2005年11月25日金曜日

はらったま きよったま

  買おうかな、どうしようかなとずうっと迷っていて、けどこういうときは買ってしまった方がいいのです。大和証券のCMでもいってるように、人間は行動した後悔より行動しなかった後悔の方が深く残るもんですから。

というわけで買ってしまいました。『はらったま きよったま』は、なんでか知らないうちにタイトルを知っていた漫画で、この度文庫化されたのがきっかけ、どうしても所有したいという誘惑にあらがえず買っていまいました。

『はらったま きよったま』は、生まれついての霊感少女、麦子が大活躍する活劇漫画で、もうちょっとジャンルを絞るとなればホラーになるのかな? やっぱり幽霊とか妖怪とか怪奇現象があっての霊感少女という気もしないではないですし。

この漫画ですが、なんか不思議なポジションについているといいますか、どうもうまく表現できないような感じがします。ホラーテイストがあるけど怖いかといわれれば全然そんなことはないし、展開はなんというかどたばたで、熟慮とか推理とかじゃなくて勢いとか力技とか、そういうののほうが重要そうな気がします。でも、私はこの漫画がどうにも気になってしかたがなくって、というのは基本的にギャグ・コメディをやりながら、最後には正論をばばーんとたたきつけるその啖呵の切りようが気持ちいいからだと思うんですね。

まあ、そもそもが私が綺麗なもの、可愛いもの好きというのもあるんでしょうが、その可愛い主人公が、居丈高に乱暴に活躍するという、そのたくましさがたまらなくよいと、そういう理解でよろしいかと思います。

ところで、男性向け少年向けのサービスカットとなると、女の子に水着着せたりとかそういう方向に向かいがちですが、少女向けのサービスカットは、綺麗なキャラクターに綺麗な服を着せて、その上これでもかと花を散らせて!

私は、そっちのほうがずっといい。それで、その綺麗なキャラクターが[略]。

2005年11月24日木曜日

ご臨終メディア — 質問しないマスコミと一人で考えない日本人

 ヨハネによる福音書は次のようなエピソードを伝えています。罪を犯した女をモーセの律法に従い石で打ち殺すべきであるかと問われたイエス答えて曰く、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。かくして女は助かったのですが、しかしこうした出来事から二千年ほど経った今の日本では、我もわれもと先を争うようにして石を手にする輩がいっぱいで、しかしなあ、あんたらも一枚かんでた口じゃないのかね、と私はいいたい。ことが起これば、私は関係ありませんといわんばかりに聖人君子面しやがって、やってることといえば数に頼んだリンチじゃないか。

いやな国だよ。私は昔からこの国はマイノリティに冷たいと、そんな風に思っていたのですが、このところはその上冷たい風が吹く。いやな国だよ、いやな国だよ。

私はこうしたこの国の状況を理解するよすがとして、阿部謹也のいう世間を頼りにしています。この本を見つけたときには本当に嬉しかった。私の日本における居心地の悪さの実体がついに言葉になったと思った。といっても、今回は阿部謹也を扱うのではないから、これはこの辺でストップ。

森達也と森巣博対談本が出ているのを書店で見つけて、その瞬間に確保。森達也といえば私にとっては『放送禁止歌』の著者であり、森巣博は『ナショナリズムの克服』のあの人です。これだけ役者が揃って、買わないという選択肢はありませんでした。

この本が扱うのは、日本のメディアのていたらくぶりと、そのメディアとともに低きへ流れていく世相です。メディアは批判をおそれるナイーブさゆえに当たり障りのないことを書いてお茶を濁し、そのメディアの受け手はというと、口当たりのよく明快な答えを欲して、答えらしきものが提示されればそれでよし。自分で考えようとしない、飼いならされた大衆に成り下がっている。

耳が痛い。私は実際その通り、なにしろ素直なものですから、人のいうことはすぐ信じちゃいます。疑うなんてことは露とも思わず、テレビがいってるんだから間違いないんだ、そうなんだ! — こういう人間が、あの女に石を投げろというコマンドが発された瞬間に石を取り、ためらいもなく投げるのでしょう。へどが出ます。

私は、願わくば道を誤らず、そう、昨日いっていたように、善きマイノリティの友でありたいと思います。私は自分の多数派に与しないことを知っていて、ことがあらば追われる側の人間であることを自覚していて、だから私はいかなる場にも属すことなく、塀の上を歩く人間でありたい。そういう私にとって頼みは自分の実感ひとつで、だから森と森巣の対談は、ともすれば考えるのをさぼろうとする私にとって、大いなる励ましであり叱咤でありました。

そういえば、以前ロシアの作家ソローキンがいっていたことを思い出しました。彼は人生に埋もれることがなにより最悪なのだといっていて、それを例えて巨大な肉挽き機の一部になることと表現しました。私はこの肉挽き機を世間であると諒解して、ソローキンがいうように、この肉挽き機を外側から眺めていたいと思います。

肉挽き機を外から眺める方法とは、世間に取り巻かれるのではなく、距離をおいて見ること、 — 思考することをあきらめないことであろうと思います。

2005年11月23日水曜日

Chanson pour l'Auvergnat

  Chanson pour l'Auvergnat、『オーベルニュの人にささげる歌』は私の好きなシャンソンのひとつで、今、突然なにか歌ってくれといわれて、空で通しで歌えるシャンソンといったら多分これだけでしょう。出会いは例によって例のごとく、NHKの語学講座で、この歌を作ったのはジョルジュ・ブラッサンス。シャンソンを語るうえでは欠かすことのできない名前であると思います。

とはいっても、私が生まれたのはそもそも日本におけるシャンソンブームが過ぎ去った後で、テレビでそうした残照を見たことは幾度かあれど、けれどやっぱり私はシャンソンに関しては浅いのです。昔、図書館で働いていたこともあって、シャンソン関連の本も何冊か借りて読んで、けれどそれでも深く分け入ることはできず。私におけるシャンソンは表層的に過ぎるなと、そのように思っています。

私が、昼、職場の駐車場の片隅でこの歌を歌っていたとき、シャンソンも歌うんだねとおばさんが話しかけてくれたのを思い出します。日本におけるシャンソンのブームは越路吹雪がおそらく牽引役で、けれど越路吹雪が『オーベルニュの人にささげる歌』を歌っていたとはついぞ聞きません。あるいは、他の誰にしてもこの歌を歌っていたかは知らなくて、一時私のサイトを見てくれたフランス人に頼まれて調べたことがあったのですが、日本でこの歌が歌われていたという形跡を見つけることはできませんでした(誰かご存知なら教えてください)。

だもんだから、あの時の言葉は嬉しかったです。知っていてくれたことが嬉しかった。

『オーベルニュの人にささげる歌』は、苦境にあったときに手を差し伸べてくれた人が仕合せになってくれればよいと願う歌で(もっとはっきりいえば、あなたがもし死んだら天国に行けますようにという祈りです)、私にはこの歌の主人公が善良なるマイノリティの代表のように思えてなりません。

私は、善良であるかどうかは自信がありませんが、自分自身が少数派であることを自覚しているから、この歌の主人公が他人事のようには思えなくて、だからもし私が彼に会ったときには、きっと手を指し伸ばせればよいなと、そのように思います。また、私が苦境にあったときに助けてくれた人を思いだしては、あの人たちの仕合せを、魂の仕合せを祈りたいなと思います。

Georges Brassens

Juliette Greco

Timna Brauer & Elias Meiri

2005年11月22日火曜日

白衣の男子

私の記憶が確かなら、岸香里は漫画家になるまでは看護職にあったはずで、その職歴からか、看護師や医療の現場を題材とした漫画を数多く出していらっしゃいます。私は看護師や医師、病院を扱った漫画が好きで、それは私の病弱だった子供時分を反映してのことだと思いますが、いずれにせよいつかは岸香里の漫画にたどり着くと、これは決まっていたようなものだったのだと思います。

『白衣の男子』は『まんがタイムスペシャル』にて連載されているショートストーリーの漫画で、スペシャルの購読を始める前に、書店で単行本を見つけて買った。確かそんな風に覚えています。なぜこれを買うにいたったかというと、私の友人にまさしく『白衣の男子』をやっているのが一人あるからです。

単行本第1巻の時点では主人公たちはまだ看護学生で、数々の失敗をとおして大切なことを学んで、 — 残念ながらこのあたりの描写は紋切り型に過ぎて、一般のストーリー漫画を読み慣れている人には面白みであるとかを感じるのは難しいかと思います。四コマ誌におけるストーリー漫画ってちょっと微妙な線にあると思っているのですが、王道であるかマンネリであるかの線引きが難しいくらいの位置にあって、ある種作者もこうした微妙な位置を理解しているのだと思います。だから、そういうキャラクターを出して、そういう話の作りをする。

けれど、『白衣の男子』は、たまにぐぐっとくる力を発揮するから侮れなくて、それはこれまでにも何度もあったのですが、今日発売の『まんがタイムスペシャル』。2006年1月号を見て、通勤の車内、すんでのことで涙をこらえることができませんでした。

駄目かも知れないと思いながらも応援を続けるということ。同じく理解しながら、その応援に応えたいという気持ちを発揮して — 。これを見てきれい事だという人もいるかも知れないけれど、私にはそれでもこたえました。人間の無力を思い、けれど無力だということを逃げ道にしない。そういう態度が胸を打ったのだと思います。

『白衣の男子』、私は好きな漫画なので、続刊を待ち続けています。いつか出てくれれば、きっとどんなにか嬉しいことだろうと思います。

  • 岸香里『白衣の男子』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • 以下続刊

2005年11月21日月曜日

Camino

 サン・ヴィクトールのフーゴーは全世界が流謫の地であると思う人は完全な人であるといい、山下和美は『天才柳沢教授の生活』にて、たとえ遠くに離れて暮らしていても、この大地を心に抱くことが出来れば必ずこの結婚は成立すると登場人物にいわせました。この、大地に根ざすという感覚。遊牧の感覚といってもよいのでしょうか、nomadeのそれに、私は憧れてやまないのです。

そんな私が好きだというジプシー・キングスが歌うCamino。カミーノとはスペイン語でという意味です。道、俺の道と歌われるカミーノを聴くたびに、私は今私を取り巻いている状況を背景に押しやってしまって、太陽の下、大地を貫いてまっすぐ伸びる一本の道に立つ自分を夢想してしまいます。

私がジプシー・キングスを聴きはじめたころは、いちいち歌詞を確認したりはせず、ただ流れる歌を流れるままに聴くばかりでした。スペイン語もわからないし、そもそも聴き取りは苦手だし、で、わからないままに聴いていた曲の中に、気になってしかたがない歌があったのです。 — カミーノでした。

カミーノの意味するところは、当時の私でもわかりました。道、俺の道という歌詞になにか感じるところがあったのでしょう。歌詞を確認して、はっと思うところがありました。

自分の道を探し続けていた男の歌なのですね。街の中を、一人でさまよって、そして大地に自分の道を見つけた。道、俺の道! 手にはギター、同胞(hermano = 兄弟,同胞)とともに歌い、放浪者(vagabundo)として道の上にある彼はとても自由だ — 。

しかし、それにしても私が驚いたのは、この歌にうたわれている風景が、私の、言葉もわからないままに聴いていたときに感じたものにほぼ重なっていたことで、ジプシー・キングスはすごい。そう思ったものでした。

引用

  • サン=ヴィクトルのフーゴー「ディダスカリコン(学習論)」,上智大学中世思想研究所編訳『中世思想原典集成』第9巻 (東京:平凡社,1996年)所収【,104頁】。
  • 山下和美『天才柳沢教授の生活』第15巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2000年。