私の友人がいうんです。その友人は、子供を産んだ友人には必ず産みの苦しみを聞くようにしているのだそうでして、その最新の収穫を伝え聞くことができました。電信柱ぐらいのものが通るような痛みであるという話でして、いやあそんなに痛いものなのか。私は、ちょっとお産は遠慮しとこうかな。
いや、お産の痛みが今回の主題ではありません。私が参ったのは彼女のつけたコメントの方でして、曰く日ごろ男性諸氏がなにやら大きい、だの、立派、だの一喜一憂している事も実に些細な事ではないか
。うん、卓見だと思います。そして私は、このコメントをきっかけに、姜尚中と森巣博の対談、『ナショナリズムの克服』を思い出したのでした。
この本は、タイトルから見てもわかると思いますが、民族主義や国家主義を批判しようという意図のもとに企画された対談でして、ここ十年ほど耳にする機会が増えた民族というものに対して、こき下ろそうという本だといえば理解は早いかと思います。
で、なんで最前の話からこの本を思い出すのかといいますと、日本におけるナショナリズムとはなにかを説明するのに森巣博が持ち出したものというのが「ちんぽこ」モデルであったからなんですね。戦後日本における日本・日本人論は一貫して俺のちんぽこは大きいぞ論であったが、バブル崩壊後は俺のちんぽこは硬いぞ論にシフトした。そして最近の流行は俺のちんぽこは古いぞ論である云々。
私の友人のいう実に些細なこと
を取り上げて森巣がつらつら開陳するのは、ちんぽこの大きさや硬さなどどうでもよろしいと、いい歳したオッさんたちがなぜ気付かないんでしょうか。つまり自信がないんですなあぁ
ということでして、じゃあつまり男の大半は自分に自信をもてないから、大きい、だの、立派、だの
で一喜一憂
する。その光景を傍から見れば、きっとこっけい極まってるんだろうなあと思ったのでした。
以下は蛇足:
私は、思想的にはアンチナショナリズムの立場に立つ人間です。無邪気に地球市民みたいなことを夢想して、国境や国籍という不自由な境界がなくなって、今以上に多様なバックグラウンドを持つ人が交流する時代がくればいいと思っています。だから、この本が最後に掲げる無族協和という考え方は大変いいと思ったのですね。
そんなわけで、私はこの本を読んで非常に面白かった。物事を茶化しながら批判するのは、私もよく使う手ですしね。そういう点でも非常に私向けの本だったと思います。けれど私の別の友人は相手を蔑んで指摘するような心は、いつかまた誰かを蔑むのでは
と、私のような姿勢をやんわり批判します。
多分、世界はその友人みたいな繊細な考え方を求めているのだと思います。私たちは、よりよい道を探していると思い込みながら、陣取り合戦に躍起になっているだけではないのかと気付かされて、— 私の友人たちの物事を直視することといったら、見習わないといかんですね。
- 姜尚中,森巣博『ナショナリズムの克服』(集英社新書) 東京:集英社,2002年。
引用
- 姜尚中,森巣博『ナショナリズムの克服』(東京:集英社,2002年),62頁。
- 他の引用は友人の日記やコメントから。
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