自分の望む自分になれないというテーマは、実に多様な広がりを持っています。例えば、昨日の『陽の末裔』では社会制度の問題として、『アンナ』では恋愛におけるすれ違いの問題として。他にも調べてみればいっぱいあるんでしょうね。なにしろ、自分の望む自分になれることのほうが珍しい。けれど、自分らしくありたいという思いは、誰もの胸の奥にきっとあるのですから、そりゃ様々な手法、表現においてこのテーマが取り上げられるのも当然です。
さて、『ぼくのバラ色の人生』も自分らしさを押しつぶされる悲しさが描かれた映画でして、これを分類すると社会制度の問題になるんでしょうか。でも、多分、単純に制度に押し込むことのできない、深い闇みたいなものが奥底には隠れている。見た目の華やかさ、きれいさの裏には、深刻なテーマがあるなと思わせる映画です。
主人公の男の子リュドヴィックのなりたい自分というのが問題だったんですが、それがなにかといいますと、女の子になりたいというんですね。少女向けのテレビ番組を見てそのヒロインに憧れてみたり、クラスの男の子のお嫁さんになりたいといってみたり、女の子の格好をしてみたりするんですね。
けれど、このささやかなリュドの希望を、周囲が寄ってたかって叩くんですよね。子供同士でのことだけならまだしも、大人も一緒になってさ、もうリュドが可哀相でならないんですよ。私、個人主義の発展したヨーロッパには世間のようなものはないって聞いていたんですけどね、この映画を見て、そんなの嘘だと思った。世間がないといいつつ、実際にはあるんじゃないかと、ヨーロッパの世間に対する疑問が一切合切晴れたという思いがしました。
女の子らしい男の子であるというリュドの個性は、既成の男らしさを押し付けられて、今にもリュドごと潰されてしまいそうで、見てられない思いですよ。特に、リュドに共感的にあれる人にとってはそうなんじゃないでしょうか。男なら男らしくあらねばならないって、いったいどこの誰が決めたんじゃー、と文句のひとつもいいたくなります。そうなんですよ。自分の身の丈に合わない女らしさに息苦しさを感じる女があれば、逆にお仕着せの男らしさに苦しむ男もいるというのは当たり前のことなのです。
ま、結局はその本人らしさというのが大切だといいたいのですが、けれどこの本人らしさというのが難しいですね。自分らしさが世間の求めに大きく逸脱しないならまだしも、かけ離れていたならもう大変。自分らしさを認めさせるにはかなりのエネルギーが必要になって、だから表向きは普通を装って、自分らしさは隠れて求めているという人もたくさんいます。
けどさ、そんな風にしか生きられないとしたら、やっぱり不幸だと思うんですね。しかし、なんであの世間って奴は、自分たちの規範からはずれたものを、ああまでつまはじきにしたがるんでしょう。黙殺してくれるならともかく、なんで憎しみにも似た感情をあらわにして、潰そう潰そうというんでしょう。
日頃から、こんなことを思ってる私にとって、この映画はちょっとした希望ですね。いや、ベストではないんです。ベストではないんですが、あのベターのラストが、ある意味実際を物語っていて、だから私にはあのラストは大変よかった。例え、色褪せて描かれたような場所であっても、心が押しつぶされるよりもずっといい。見た目ばかりきれいなところよりも、ずっと暖かいと思われたのでした。
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