2005年1月26日水曜日

きもの

  青木玉の回顧によれば、幸田文が着物を着続けた理由には、自分が着物を着付けた姿と同等のいい恰好に見える洋服に出逢えなかったということがあるのだそうです。1904年生まれの幸田文からすれば、着物が一番身にあっていたのでしょう。日常の暮らしを着物で過ごして、そうした感覚は、戦後生まれの私にはわからなくなってしまいました。

日本ではことさら季節感を大切にしますが、もちろん着物にもそういうのがあって、衣更えの日に季節外れを着ていることは恥ずかしいことだったのだそうです。というのは、幸田文のその名も『きもの』から得た知識で、この小説には、私の知らない着物に関するあれこれが、活き活きと鮮やかに描かれていて、素晴らしく魅力的です。

生活の折々に関わってくる着物。着物は、ただの衣類というにはあまりにも豊かなバックグラウンドを持っていて、それはおそらく、すべての土地の、すべての衣装に共通することなのでしょう。柄のいろいろ、生地のあれこれ、扱い、着こなし、そして好き嫌い。主人公るつ子の着物に対する思いや、その母、祖母の教え振る舞いから、私は着物についてを多少なりとも知って、文化の深さに驚いたのでした。

戦後、しかも高度成長期以後に生まれ育った私には、あまりに日本のいろいろは遠く過ぎ去ったもののように感じられ、そういう文化のあることは知ってはいても、ちっとも身近なものと感じることができません。暮らしのこと、食事のこと、そして衣類のこと。そのどれもを私は本から知って、頭の隅に知識として蓄えるばかりです。知識 — ないよりはましだけど、決して役立たせることのできない事典的項目の積み重ねにどれほどの意義、価値があるというのでしょう。私の知っていることというのは、そのようなものに過ぎません。

幸田文の『きもの』に含まれた情報は、そんな私の無駄な知識とは隔絶して、本を開けば活き活きと目の前に動き出すようです。文章はきびきびと歯切れも心地よく、ぐいぐい引っ張るようで、すごい。そもそもからして私は幸田文の文章は好きで、

 幸田さんの文章は、痩せも枯れもせず、実にふくよかだ。ふくよかといっても、やさしいというのとはちょっと違う。躊躇も容赦もなくずばずばと切り込んでくる凛々しさが気持ちいい。大げさ、けれん味のない清潔な文である。

だなんていってました。それは『きもの』においても変わりなく、説明が説明調におちいらず、ぐうっと胸の奥に入ってくるのですよ。ああ、私は着物のことをいわれても、細かい言葉がわからない。そんな私なのに、どんどん読めるというのは、それはやはりことばがことさら達者で美しいからだと思うんです。

着物の知識のない私には、『きもの』で着物の生きていた時代を、風を肌でうけるようにして感じて、『幸田文の箪笥の引き出し』では口伝えに教えてもらうように知ったのでした。

今着物はブームですが、その着物の背景を知りたい人には本当によいテクストになってくれると思います。多くの人がこうした背景を知って、恰好よく着物を着る人が増えて、ただのブームでなく再び文化として生き返って欲しいなと、そんな風に思います。だって、忘れられてしまうにはあまりに豊かで素晴らしい文化ですから、是非とも身近なものとして長く側にあって欲しいじゃありませんか。

  • 幸田文『きもの』(新潮文庫) 東京:新潮社,1996年。
  • 幸田文『きもの』東京:新潮社,1993年。
  • 幸田文『幸田文全集』第17巻 東京:新潮社,1996年。

引用

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