以前トリビアの泉で、ピーター・パンは大人になった子供たちを殺している云々というのが取り上げられたのですが、こんなの児童文学読みにとっては常識じゃないかと私はしばし憤慨しまして、同じように思った人というのはきっと多かったんじゃないかと思います。だって、『ピーター・パンとウェンディ』をちょっと読めばわかりますが、この話はそもそも血なまぐさい話で、ピーターの率いる子供たちは残虐さを隠さず、敵対する海賊とは命のやりとりをしているのでありますから。それにそもそも、フック船長の右手が鉤になっているのはなぜなのでしょう。こうしたことは、ピーター・パンの物語に触れ、魅入られた人であるなら当然のごとく知っていること、— 常識なのです。
子供向けの物語から残虐と思われる記述を薄めようという動きは近代になって顕著でありますが、そもそも『ピーターとウェンディ』の物語は子供向けではなかったということを忘れてはなりません。ピーター・パンははじめ、大人向けのクリスマス劇の主人公として生み出され、だんだんとその物語世界を広げながら、『ピーターとウェンディ』という本になったのです。
だとしても、子供に殺し合いに参加させるとはどうしたことか、— いや私は常に思うのですが、それが子供にせよ大人にせよ、死であるとか残虐な本性であるとかを、まるでないものであるかのように隠蔽することこそいかがなものでしょうか。そもそも私たちはうちに残虐性を抱いて地上に降りて、けれど育っていく課程で、その残虐性の疼きをあらわにしてはいけないということを知っていくのです。それをあたかも目を背けるようにするから、人は自らが残虐であることに気付かないで、しまいには不完全な善人になってしまうのです。善意のもとに行われる残虐、直視されなかったために暴発する残虐性、いちいち実例を挙げるまでもなく、私たちの身の回りに、ありふれてころがっているようで、さすがにちょっと気がめいりますね。
『ピーターとウェンディ』のクライマックスはフック船長との決闘で、あるいは悲しいピーターとの別れでしょう。名場面はと聞けば、きっと返ってくるのは、毒によって死のうとしているティンカー・ベルを助けようと、ピーターがすべての子供たちに呼びかけるあのシーンではないでしょうか。
けれどおそらくは、もちろんこうした場面も素晴らしいのでありますが、この本を手に取って心の昂ぶりをともに読み進めたひとりひとりの胸に、この場面は素晴らしいぞ! と思える場面があるのだと思うのです。
私は、誤ってウェンディを射落としてしまったトートルスが、矢を振り上げるピーターに向かって怖れることなくいった、突いて、ピーター。あやまたずにこの胸を!
という言葉を忘れることができませんでした。その、物おじしないまっすぐな態度にうたれたのです。そして、人魚の礁湖にひとり残されたピーターの胸に去来した言葉:死ぬことは、きっとすごい冒険だぞ。
ピーターの物語を読み進めれば、きっとあなたの胸にも残る言葉、場面があるはずです。あるいはあったはずです。どうぞ思い出してみてください。
- バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (福音館古典童話シリーズ) 東京:福音館書店,1972年。
- バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (福音館文庫) 東京:福音館書店,2003年。
- バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』芹生一訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。
引用
- バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (東京:福音館書店,1972年),115頁。
- 同前,170頁。
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